朝、玄兎が最初にしたのは、隣で眠っている依澄の名前を呼ぶことだった。
「依澄。朝だよ」
小さな声だった。
けれど依澄はすぐに目を開けた。
何かに驚いたように一度瞬きをして、それから玄兎を見る。
「……玄兎」
「うん」
「名前で起こした」
「昨日約束しただろ」
依澄は数秒だけ黙ったあと、布団の中でほんの少し笑った。
「本物の朝」
「本物の朝」
玄兎も笑う。
枕元には手帳が置いてある。
昨夜書き足した文字は、そのまま残っていた。
『13:30 旧研究棟』
『15:00 最終作戦』
『終わったら、透羽の話を聞く。』
『依澄を朝起こす。』
『全員で帰る。』
『その後、海。千燈先輩の昼の店。花火も候補。』
一つ目の約束には、もう印をつけてもいい。
玄兎はそう思ったが、まだ手帳には触れなかった。
床の方を見る。
小毬は毛布を蹴ったまま眠っている。千燈はその隣で横向きになり、透羽は折り畳みマットの上で静かに呼吸していた。
最終作戦の日の朝。
街は壊れかけている。
あと数時間で、自分の《還月》を失うかもしれない。
それなのに、目の前にあるのは、誰かの寝癖と、ずれた毛布と、昨夜食べたピザの空箱だった。
玄兎はその光景を、しばらく黙って見ていた。
こういうものを残したい。
世界のため、と言うより。
明日のため、と言うより。
もっと小さいもの。
誰かを名前で起こして。
朝飯を食べて。
大学へ行って。
くだらないことで笑う。
それを続けたい。
玄兎は静かに起き上がった。
◇
八時を過ぎる頃には、五人とも朝食を囲んでいた。
パン、ヨーグルト、卵。
玄兎の部屋で用意できるものとしては普通だったが、小毬だけは卵を三つ食べている。
「先輩も、もう一個食べた方がいいです」
「まだ一個目の途中だよ」
「途中でも予約できます」
「卵に予約制度あったっけ」
千燈がコーヒーを飲みながら笑う。
「小毬ちゃんがいると、こういう朝でも食卓だけは平和だね」
「食べるの大事ですから」
「今日は本当にそう思う」
透羽は食事を止めず、端末へ目を落とした。
昨日より画面を見る回数が増えている。
玄兎が気づく。
「悪い?」
「悪いです」
透羽は隠さなかった。
「中央拘束率の低下が、夜間にもう一段加速しました。大規模破断の中央値は、今日十八時前後まで縮まっています」
「十五時開始なら三時間」
「はい。ただし、それは『完全破断』までの予測です。安全に中央へ近づける時間は、それより短い可能性があります」
小毬の箸が止まる。
「早めるのは?」
「外部固定点の設置がまだ終わっていません。市内避難も継続中です。先に始めて出口が足りなければ、分けたものを戻す場所がありません」
「じゃあ予定通り」
玄兎が言う。
「はい」
透羽は端末を伏せた。
「だから今は、食べてください」
「昨日からそればっかりだな」
「必要なので」
小毬が卵を一つ玄兎の皿へ置いた。
「予約分です」
「本当に予約されてた」
少し笑いが起きた。
その直後、外で何かが鳴った。
花火に似た音。
でも一発だけ。
全員が窓を見る。
朝の空には何もない。
数秒遅れて、透羽の端末へ通知が入った。
「南西部で祭礼記憶の重複。外部固定点の設置班が対応しています」
「朝から祭りか」
千燈が窓から目を戻す。
「季節感めちゃくちゃだね」
「今日で終わらせよう」
玄兎が言った。
「こういう、勝手に昔が出てくるの」
依澄が小さく頷く。
「終わらせる。でも、消さない」
「うん。帰す」
昨日まで何度も使った言葉が、今日は違って聞こえた。
◇
家を出る前に、玄兎は全員の装備をもう一度見た。
透羽の結界札。
千燈の媒介管。
小毬の香気標識。
依澄の鏡片。
自分の接続帯。
昨夜、あれほど確認したのに、また見てしまう。
「忘れ物ない?」
玄兎が訊く。
「玄兎が言うんですね」
透羽が返す。
「今日は言う」
「私も全部あります」
小毬は鞄を軽く叩いた。
千燈も媒介ケースを見せる。
「こっちも大丈夫」
依澄は胸元の鏡片へ触れた。
「ある」
「じゃあ行こう」
玄兎が靴を履く。
扉を開ける前に、手帳をポケットへ入れた。
透羽が気づく。
「持っていくんですか」
「予定表だから」
「作戦中に読む余裕はありませんよ」
「分かってる。でも、終わったら読む」
透羽は何も言わなかった。
ただ、少しだけ表情を柔らかくした。
◇
大学へ向かう道は、昨日よりさらに現実感を失っていた。
交差点の向こうに、存在しない古い商店街が見える。
電柱と重なって昔の街灯が立っている。
道路の上を、半透明の子供たちが走る。
誰も車を避けない。
当然だった。
あれは今を歩いている人間ではない。
「左、見ないで!」
透羽が一般人へ声を飛ばす。
若い男性が、歩道の端で立ち止まっていた。
視線の先には、古い喫茶店。
今は駐車場になっている場所だ。
「母さん……?」
男性が呟く。
ガラス越しに、誰かが座っているらしい。
玄兎には背中しか見えない。
男性が車道へ一歩出る。
「待って」
玄兎が肩へ手を置く。
「そこ、今は道路です」
「でも、中に……」
「見えてるものを否定しません。でも今は近づかないでください」
昨日と同じような言葉。
でも今日は、同じことが多すぎる。
透羽たちは立ち止まって全件を処理できない。
近くの誘導班へ引き継ぎ、大学へ進む。
次の角では、空から白い紙片が降っていた。
手紙。
写真。
誰かのメモ。
中には、文字が途中で途切れているものもある。
『また明日』『今度こそ』『言えなかったけど』『待ってる』――そんな言葉が、それぞれ別の紙片へ途中まで書かれている。
玄兎の足元へ一枚落ちた。
拾わない。
触れれば、誰の記憶か分からないものに引かれる可能性がある。
「今度は『明日』が多い」
千燈が言う。
「昨日までと違う?」
「中央が崩れて、強い共通感情がまとまって出てるのかも。終わらなかったこと、言えなかったこと、続けたかったこと」
玄兎は紙片を見る。
「俺たちみたいだな」
「どういう意味?」
「明日の予定ばっかり作ってる」
千燈は少し笑った。
「じゃあちゃんと回収しないとね。昼の店」
「覚えてるよ」
「よし」
歩き出す。
その直後、通りの反対側で悲鳴が上がった。
階段のある建物。
現実には下り階段なのに、その上へ古い廊下が重なっている。
女性が廊下だと思って一歩進み、足を踏み外した。
玄兎たちより先に近くの術者が受け止める。
大きな怪我はない。
でも、玄兎の心臓は強く鳴った。
怪異に襲われたわけではない。
ただ見える景色が違っただけ。
それだけで、人は死ねる。
「急ごう」
玄兎が言う。
今度は誰も笑わなかった。
◇
大学正門は封鎖されていた。
臨時休講。
構内には一般学生をほとんど残していない。
それでも、完全に人がいないわけではない。
誘導担当。
大学職員。
救護班。
鷺宮家の術者。
外部固定点を設置する作業員。
みんなが慌ただしく走っている。
玄兎たちは旧研究棟へ向かう前に、研究室へ寄った。
「時間、ありますか?」
小毬が透羽へ訊く。
「三分だけ」
「十分です!」
扉を開ける。
「ゆんっ!」
白い毛玉が机の下から飛び出してきた。
ユンだった。
玄兎の足元まで来て、ぴたりと止まる。
「ゆん、ゆんっ」
「分かってるのかな」
玄兎はしゃがんだ。
ユンが膝へ前脚をかける。
「今日、ちょっと長くなるかも」
「ゆぅん……」
「そんな顔するなよ」
ユンの鳴き声が、本当に寂しそうに聞こえる。
小毬が隣へしゃがむ。
「ちゃんと戻ってきますから」
「ゆん?」
「全員で」
「ゆんっ」
ユンは納得したのかしていないのか、今度は透羽の方へ行く。
透羽は一度だけ時計を見た。
それから、ユンを抱き上げた。
「研究室から出ないでください。外の境界が安定するまでは、ここが一番安全です」
「ゆん」
「いい返事」
千燈が笑う。
窓際ではシオリが紙の羽を畳んでいた。
旧図書館へ戻す予定だったが、安全確認が終わらず研究室で待機している。
嘴には小さな分類札。
玄兎が近づく。
「シオリも。また後でな」
紙の鳥は返事をしない。
でも、くわえていた札を玄兎の前へ落とした。
「これ何?」
拾う。
古い貸出票。
裏に、手書きで『返却』とある。
千燈が覗いた。
「できすぎじゃない?」
「偶然だろ」
「でも持っていったら?」
玄兎は少し迷い、貸出票を手帳へ挟んだ。
「借りる」
シオリが一度だけ羽を広げる。
「返しに来るから」
透羽が時計を見る。
「行きます」
「うん」
玄兎はユンへ手を振った。
「また後で」
「ゆーん!」
扉が閉まる直前まで、鳴き声が聞こえた。
◇
十三時三十二分。
旧研究棟地下。
最後の説明が始まった。
壁のモニターには、市内十二か所の外部固定点、三つの夢層排出口、四つの土地記憶受け入れ点、危険個体用の封印区画が表示されている。
昨日、五人で作った高速分離方式。
個体ごとではない。
帰る先ごとに流す。
小毬が最初に輪郭を分ける。
千燈が記憶と感情の向きを読む。
依澄が夢と現実の境界を判定する。
透羽が危険なものを止め、流量を調整する。
玄兎は最後に、帰巣標識へ触れた流れを、それぞれの出口へ曲げる。
「初期分離は三系統です」
透羽が最終図を指す。
「土地へ戻せる薄い記憶。夢層へ戻せる夢像。低危険度で現地定着可能な怪異。この三系統で内部総量の六割以上を減らします」
「残りは危険個体と複雑な記憶」
玄兎が確認する。
「はい。中央圧を下げた後、そこだけ丁寧に処理します」
「《還月》は?」
千燈が訊く。
透羽は玄兎を見る。
「最後です」
分かっていた。
それでも、その言葉を聞くと胸が重くなる。
《還月》。
玄兎の身体を何度も作り直してきたもの。
嫌いだった。
怖かった。
でも、なければ今ここにいない可能性もある。
「切れば、もう戻らない」
依澄が言う。
「うん」
「死んだら?」
「終わり」
小毬の表情が強張る。
玄兎は先に言った。
「大丈夫、とは言わない」
「先輩」
「怖いよ。でも切る」
小毬は玄兎を見る。
「昨日の約束、覚えてます?」
「全員で帰る」
「はい」
「守るよ」
「一人で?」
「五人で」
小毬はようやく頷いた。
千燈も笑う。
「昼の店も忘れないでよ」
「それも」
依澄が続ける。
「海」
「もちろん」
透羽は何も言わない。
玄兎は見る。
「透羽のも覚えてる」
透羽の目が少し揺れた。
「今は作戦に集中してください」
「はい」
でも、その声は少しだけ柔らかかった。
その瞬間、建物全体が低く震えた。
警告音。
『中央拘束率 17.1%』
『局所破断 拡大』
「早い」
透羽がモニターを見る。
時計は十四時四分。
予定の十五時まで一時間近くある。
通信が続けて入る。
『東地区、夢層重複が急拡大!』
『河川区域、大型怪異反応!』
『北側固定点、接続まで十五分!』
『市立病院付近、記憶像が建物内部へ侵入!』
小毬がモニターを見る。
「十五時まで待てます?」
透羽は計算する。
二度目の振動。
今度は強い。
天井から埃が落ちる。
玄兎の胸が焼けるように熱くなった。
「来てる」
「玄兎?」
「向こうが俺を見つけた」
身体ではなく、自分の輪郭を内側から掴まれたような感覚。
依澄がすぐ腕を取る。
「まだ行かない」
「うん」
透羽は決断した。
「開始を前倒しします。十四時二十分。北側固定点は接続完了次第、途中参加。南、西、大学系統を先行して開きます」
通信担当へ指示が飛ぶ。
千燈が息を吐く。
「あと十五分」
「装備、もう一度!」
小毬が言う。
「十五分で?」
「だから早くです!」
玄兎は少し笑いそうになった。
「小毬」
「何ですか」
「その調子でいて」
「はい?」
「いや、いい」
全員が装備を確認する。
接続帯。
媒介。
鏡片。
水路。
香気標識。
透羽が最後に五人を見る。
「始めたら、初期分離が終わるまでは簡単に止められません」
「分かってる」
「無理だと思ったら言ってください」
「全員?」
「全員です」
千燈が頷く。
「言うよ」
小毬も。
「私も」
依澄も。
「薄くなったら言う」
「早めにお願いします」
透羽自身も一度息を吸う。
「私も、限界になる前に言います」
玄兎が頷いた。
「じゃあ、全員で帰ろう」
「はい」
小毬の声が強い。
「群れは全員で帰ります」
千燈も笑う。
「まだ約束いっぱい残ってるしね」
依澄は玄兎を見る。
「一緒に」
透羽が最後に言う。
「始めます」
◇
十四時二十分。
高速分離が始まった。
最初の瞬間、玄兎は何も見えなくなった。
光ではない。
暗闇でもない。
無数の「帰りたい」が、一斉に自分へ向いた。
会いたい。
帰りたい。
忘れたくない。
見つけて。
怖い。
ありがとう。
ごめん。
声だけではない。
匂い。
景色。
誰かの手。
古い電話の呼び出し音。
鏡の向こうの笑顔。
赤い糸。
雨の駅。
知らない家の玄関。
病室。
夏祭り。
教室。
夢で見た海。
玄兎は膝をつきそうになった。
「玄兎、立って!」
透羽の声が届く。
「分かってる!」
床の水路が青白く光る。
小毬が最初の流れへ踏み込んだ。
瞳が狼のものへ変わる。
「左の大きい塊、土地です! 古い木、土、紙! 下に夢が混ざってます!」
「千燈先輩!」
「見えてる!」
千燈の周囲へ黒い烏が飛び立つ。
媒介管の血が赤い線となって伸びる。
「左上、個人記憶じゃない! 場所そのもの! 生活の積み重ね! 土地へ返していい!」
「依澄!」
「夢じゃない。現実」
「第一流路、開きます!」
透羽の水が巨大な膜となり、混ざった流れを切る。
玄兎へ向かっていたものが、一瞬だけ胸の痣へ触れる。
熱い。
でも入らない。
「右へ!」
玄兎が叫ぶ。
透羽の水路が流れを奪う。
『大学旧図書館 受入開始』
『西地区旧河道 受入開始』
『北丘旧道 待機』
北丘はまだ接続していない。
「北丘分、大学へ回さないで!」
透羽が叫ぶ。
「一時保持!」
「保持どこ!」
「西側副路!」
玄兎は向きを変える。
耳の奥で、何百冊もの本を一斉に閉じるような音がした。
ぱたん。
ぱたん。
それが雨のように遠ざかる。
「第一流路、安定!」
透羽が言う。
「次!」
小毬が右へ顔を向ける。
「冷たい! 眠ってる匂い! 夢、多いです!」
依澄が前へ出る。
「私が通す」
「全部受けないで!」
玄兎が言う。
「受けない。通すだけ」
薄紫の蝶が何十羽も現れる。
地下室の壁が夕暮れの海へ変わった。
夢。
雪の大学。
結婚式。
誰かの誕生日。
病室から見える桜。
幼い子供が走る公園。
帰ってこなかった家族と囲む食卓。
そして。
玄兎自身が見た夢の夏。
透羽が白と青の水着を着ている。
小毬が海へ走っていく。
千燈が日陰から笑っている。
依澄が大きな海を見ている。
ユンが砂浜を転がっている。
あの日。
もう少しだけ見よう、と玄兎が選んだ夢。
足が止まった。
「玄兎?」
依澄の声。
夢の中の依澄が笑っている。
『明日もあるよ』
ここへ入れば。
少しだけなら。
またあの夏を見られる。
胸が引かれる。
「玄兎!」
今度は現実の依澄。
玄兎は目を閉じる。
違う。
あの夢は大切だった。
でも。
「もう見た」
玄兎は呟く。
「何?」
「夢は、もう見せてもらった」
目を開く。
「今度は現実で海に行く」
依澄の蝶が一本の道を作る。
依澄が笑った。
「うん。こっち」
「夢だけ、帰れ!」
玄兎は流れを曲げる。
海。
食卓。
桜。
教室。
誰かが欲しかった未来が、夢のまま夢層へ入っていく。
『夢層第一路 安定』
『第二路 負荷上昇』
「第二路、詰まってます!」
通信。
「何が混ざってる?」
透羽が訊く。
依澄の顔が強張る。
「現実に残りたい夢」
「量は?」
「多い」
千燈が読む。
「『起きたくない』が強い! そのまま夢へ押すと抵抗する!」
玄兎の胸へ、夢の塊が逆流する。
「っ……!」
「玄兎!」
「まだ入ってない!」
透羽が水路を閉じかける。
「全停止?」
「待って!」
玄兎が叫ぶ。
「夢へ帰したいんじゃない。起きたくないんだろ?」
依澄が見る。
「うん」
「じゃあ、無理に夢へ戻さない。薄くできる?」
「できる。願いだけ残して、景色をほどく」
「千燈先輩、感情だけ分けられる?」
「やる!」
五人の流れが変わる。
千燈が「起きたくない」という感情の輪郭だけを拾う。
依澄が夢景色を薄くする。
透羽が現実へ侵食する力だけを洗う。
玄兎はその残りを、夢層と記憶層の間へ作った臨時路へ流す。
完全に予定通りではない。
でも、止めない。
『第二路 再開』
依澄が息を吐く。
「行った」
「大丈夫?」
玄兎が訊く。
「まだ大丈夫」
「薄くなったら言って」
「言う」
次が来る。
◇
十四時四十三分。
初期分離率、三十一パーセント。
予定より遅い。
市内から通信が入る。
『駅前のホーム像、半減!』
『病院内部の記憶像、縮小!』
『ただし北地区で新規大型反応!』
成功している。
でも、崩壊も進んでいる。
「次、怪異系!」
小毬が叫ぶ。
形のあるものが押し寄せる。
小さな影。
鳥。
獣。
顔のない人。
紙。
糸。
水。
無害なものと危険なものが混ざっている。
「白い小さいの、右! 鳥影も右! 人型三つは止めて! 赤い糸、危険!」
小毬の鼻から血が落ちる。
「小毬!」
「平気です! まだ匂い取れます!」
千燈の烏が赤い糸へ飛ぶ。
「侵食性あり! これは『離れたくない』じゃない、『誰でもいいから縛る』に変わってる!」
「《水鏡》!」
透羽の水が糸を切り離す。
赤い糸が暴れた。
水膜へ絡みつき、透羽の右腕へ伸びる。
「透羽!」
「見ないで、自分の流れを!」
糸が袖を裂く。
皮膚へ赤い傷。
透羽は顔を歪めても、水路を離さない。
「浅いです。続けて!」
玄兎は前を見る。
低危険度の流れ。
小さな鳥影。
丸い獣。
軒下へ立つ女の影。
そして、道を指す白い手。
玄兎は一瞬、北丘の祠に残した道守を思い出した。けれど、小毬はすぐに首を振る。
「北丘の子じゃないです。匂いが違います。あっちは古い石と草の匂いが強かったけど、これはもっと薄い。別の場所のものです」
千燈も烏を一羽近づけ、流れてくる感情の向きを確かめた。
「役目は似てるね。迷った人を正しい方へ戻したい、って感じ。でも、北丘の個体そのものじゃない」
「同じような怪異が、別の場所にもいたってことか」
「たぶん。昔の記録に似た話がいくつもあったし」
玄兎は白い手を見る。
北丘の道守は、今も自分の土地に残っている。ここにいるのは、それと同じように「道を示す」性質を持った別の断片だ。
古い記録で見たものに似た姿が、同じ一体だけとは限らない。
「現実へ定着できる!」
小毬が叫ぶ。
「千燈先輩!」
「土地との結びつきあり! 個人侵食なし!」
「依澄!」
「現実!」
「透羽!」
「第三流路、開きます!」
玄兎へ向いていた怪異たちが、外部固定点の方へ顔を向ける。
「行け」
玄兎は言った。
「俺じゃなくていい。自分の場所へ帰れ」
白い手が最後に一度だけ遠くを指した。
その先は、研究室のある方向だった。
玄兎は少し笑う。
「分かってる。俺も帰る」
怪異たちは流路へ消える。
◇
十四時五十二分。
『北側固定点、接続完了!』
通信が入った。
「やっと!」
千燈が声を上げる。
透羽が北側流路を開く。
その直後。
『西側固定点、出力低下!』
「何?」
『受け入れ量が想定を超えています! このままでは境界が閉じます!』
透羽がモニターを見る。
「西側を止めると土地記憶が滞留します」
「北へ回す?」
玄兎が訊く。
「北と性質が違います。全部は無理です」
「大学旧図書館は?」
「許容量七割!」
「あと三割ある!」
「そこへ全部入れたら、シオリの定着域まで影響します!」
玄兎は一瞬止まる。
シオリ。
研究室へ残した貸出票。
無理をして一つの場所へ集めれば、また同じことになる。
「分けよう」
「どこへ?」
「西の流れを三つに。旧図書館、旧河道、大学の中庭」
「中庭は固定点ではありません」
透羽が言う。
「でも土地記憶なら受けられる?」
千燈がモニターを見る。
「大学由来の記憶だけならいけるかも。小毬!」
「匂い分けます!」
小毬が歯を食いしばる。
「大学の紙と土! 西側の中にあります!」
「依澄、現実固定!」
「やる!」
透羽が一瞬迷う。
「臨時固定点を形成します。大学中庭、管理承認なし!」
通信担当が驚く。
『鷺宮さん?』
「事後報告します。今は開いて!」
『了解!』
千燈が笑う。
「透羽ちゃん、昨日よりだいぶ強引」
「時間がありません!」
玄兎も流れを三つへ割る。
左胸が焼ける。
一つ。
二つ。
三つ。
「行け!」
西側固定点の警告が黄色へ戻る。
『出力回復!』
「通った!」
小毬が声を上げる。
でも喜ぶ暇はない。
◇
十五時三分。
初期分離率、五十八パーセント。
『中央拘束率 9.6%』
床へ亀裂が入る。
黒い霧が漏れる。
「あと二パーセント!」
透羽が叫ぶ。
その時。
今までとは違うものが来た。
形がない。
匂いがない。
夢でも記憶でもない。
ただ強烈に玄兎へ向かってくる。
左胸の痣が焼けた。
「何これ……!」
小毬が鼻を押さえる。
「匂いがありません!」
千燈も顔をしかめる。
「記憶でも感情でもない!」
透羽がモニターを見る。
「帰巣本流です!」
「仕組みそのもの?」
「はい! 中央構造が玄兎を固定点へ戻そうとしている!」
玄兎は理解した。
《百獣繭》は、怪異を閉じ込める場所である前に、全部を一か所へ集める仕組みだった。
そしてその最後の行先として、自分が使われている。
「《還月》?」
「まだ切らないで!」
透羽が叫ぶ。
「再構築機能と中央帰巣系が一緒に動いています。今切れば、残りの流れが全部不安定になります!」
「あと二パーセント!」
小毬が叫ぶ。
「右下、大きい土地記憶!」
「千燈先輩!」
「個人記憶薄い! 流して!」
「依澄!」
「現実!」
「透羽!」
「開きます!」
巨大な流れが右へ曲がる。
玄兎の身体が前へ引かれる。
依澄が背中の服を掴む。
「まだ」
「分かってる!」
『初期分離率 60.3%』
透羽が叫んだ。
「今です!」
玄兎は胸へ手を当てた。
◇
玄兎は胸へ手を当てた。
《還月》は、ずっと自分と一緒にあった。
子供の頃から、普通なら助からなかったと思うような事故や異常のあとで、壊れた身体を元の形へ戻してきた。ただ、その頃の玄兎には、本当に一度死亡していたのかを確かめる方法などなかった。意識が途切れ、次に目を覚ました時には傷が消えている。その不可解な経験を、いつの間にか《還月》と呼ぶようになっていただけだった。
初めて「確かに死んでいた」と他人の目で確認されたのは、透羽と出会った夜だ。
非常階段で、顔のない子供たちが作った巨大な怪異に胸を潰された。女子学生を逃がしたあと、玄兎の呼吸も心臓も止まった。そこへ遅れて駆けつけた透羽が死を確認し、その目の前で玄兎の身体は再び元の形へ戻った。
透羽が玄兎を殺したわけではない。
むしろ、生き返った玄兎を怪異かもしれないと疑いながらも、まず拘束して正体を確かめようとした。そして最後には、「戻れるからといって自分の命を使うな」と、本気で怒った。
あの頃の玄兎には、その怒りが少し不思議だった。
《還月》があれば、普通なら取り返しのつかない傷を負っても戻れる。誰か一人が危険を引き受けなければならないなら、自分がやる方がましだと考えるための、あまりにも便利な理由になっていた。
もちろん、死ぬことが怖くなかったわけではない。身体が壊れる痛みも、意識が消えていく感覚も、今度こそ戻れないかもしれないという恐怖も、何度経験しても嫌だった。
それでも最後には戻る。
その結果だけを頼りにして、玄兎は自分の身体を他人より少しだけ軽く扱っていた。
けれど、大学地下の封印異常から逃げた時、その考え方では済まなくなった。
あの時は、自分だけが犠牲になるのではなく、最初からみんなと生きて帰りたいと願っていた。それでも致命傷を負い、心臓が止まった。《還月》によって身体は戻ったが、そのあと玄兎は、前日に五人で過ごした昼食の時間を自分の記憶として辿れなくなっていた。
戻れることは、死ななかったことと同じではない。
身体が元の形へ戻っても、受けた痛みや恐怖がなかったことになるわけではないし、失ったものまで必ず元通りになる保証もない。その事実を、玄兎はようやく自分のこととして理解した。
それからも、四人は何度も玄兎を止め、支え、待ってくれた。
透羽は、玄兎が自分だけを犠牲にする選択を許さなかった。千燈は血の中に残った過去を読みながらも、過去だけで今の玄兎を決めなかった。小毬は変わり続ける今の玄兎を追い、依澄は夢の向こうで手を離さず、一緒に現実へ起きることを選んだ。
そして玄兎自身も知った。
自分が戻るまで待つ人がいる。死んだあとに戻ることより、最初から誰も欠けずに帰る方がいい。何も派手なことが起きず、次の日に普通に大学へ行けるなら、その方がずっといい。
《還月》に助けられたことまで否定する必要はない。
それでも今、玄兎が選びたいのは、「戻れるから死んでもいい」という生き方ではなかった。
死にたくないし、四人にも死んでほしくない。
全員で、生きて帰りたい。
今は、その方がずっと大事だった。
「玄兎くん」
千燈の声がした。
彼女は鼻血を拭いながら、それでも玄兎を見ている。
「手放すからって、《還月》を全部嫌いだったことにしなくていいんじゃない?」
玄兎は千燈を見る。
「今ここに立っていられるのは、あれに助けられた時があったからでもあるでしょう」
「……うん。それは否定できない」
「だったら、助かったことにはありがとうって言って、これから必要ないなら手放せばいい。今まで生きてきたことまで否定する必要はないよ」
千燈はそう言って、少しだけ笑った。
玄兎は胸へ置いた手に力を込め、それからゆっくり息を吐く。
「先輩、こういう時たまにすごくまともなこと言うな」
「『たまに』が余計」
小毬が泣きそうな顔のまま、それでも少し笑った。
依澄も静かに見ている。
透羽は水路を維持しながら待っている。
誰も急かさない。
時間はない。
でも、最後に決めるのは玄兎だ。
「ありがとう」
玄兎は、自分の胸へ言った。
何度も戻してくれたものへ。
「でも、もういい」
死んだあと戻る力ではなく。
生きて帰る自分を選ぶ。
「切って」
透羽が確認する。
「本当に?」
「うん」
「戻せません」
「分かってる」
「次に死んだら」
「戻らない」
怖い。
声に出しただけで、身体が理解する。
「それでも?」
透羽の問い。
玄兎は四人を見る。
「それでも、生きて帰る」
透羽が頷いた。
「切ります」
水が走った。
依澄の蝶が現実側へ道を作る。
小毬は玄兎自身の匂いだけを追う。
千燈が記憶の輪郭を押さえる。
透羽の水が、玄兎と中央構造の間を断った。
痛みは、一瞬遅れて来た。
心臓を直接掴まれたような衝撃。
視界が白くなる。
「っ……!」
膝が床へ落ちる。
息が止まりそうになる。
胸の奥で、長いあいだ自分と一緒に脈打っていた何かが、消えた。
静かだった。
怖いほど。
「玄兎!」
透羽の声。
「聞こえる?」
「……聞こえる」
「脈は?」
「ある」
「痛みは?」
「すごい」
「意識は?」
「ある」
小毬が玄兎の肩へ触れる。
「生きてます」
「うん」
玄兎は苦しい息の間で答える。
「生きてる」
《還月》が消えたことを、玄兎は理屈ではなく身体で感じていた。
次に致命傷を負えば、もう以前のようには戻らない。その事実を考えると胸の奥が冷たくなる。それでも今この瞬間、心臓は動き、肺には空気が入り、自分の声で「生きてる」と答えられている。
まずは、それで十分だった。
◇
その直後だった。
中央構造が大きく崩れた。
地下室の壁が消える。
代わりに、巨大な白い繭の内側が現れる。
白い膜。
黒い糸。
人影。
怪異。
夢。
記憶。
二十年以上押し込められていたものが、最後の拘束を失って一斉に形を持つ。
「最終段階!」
透羽が叫ぶ。
「危険個体と複雑残留を処理します!」
最初に飛び出したのは、顔のない巨大な黒い犬だった。
爪が床を削る。
「左!」
小毬が玄兎を押す。
黒い爪が、玄兎の肩すれすれを通った。
風圧だけで服が裂ける。
玄兎の身体が凍った。
今までと違う。
当たったら。
首だったら。
胸だったら。
戻らない。
心臓が急に速くなる。
呼吸が浅い。
足が動かない。
「玄兎!」
透羽の声。
犬がもう一度向きを変える。
逃げなければ。
分かっているのに、身体が遅れる。
「先輩、右!」
小毬が叫ぶ。
玄兎は転がるように避けた。
爪が床へ突き刺さる。
数十センチ。
それだけ。
玄兎は床へ手をついたまま、自分の震える指を見る。
「怖……」
声が漏れた。
死ぬのが怖い。
当たり前の怖さ。
以前も怖かった。
でも今は、その先に何もない。
「玄兎、下がって!」
透羽の水槍が犬の前脚を弾く。
玄兎は立つ。
「いや」
「何を――」
「下がりすぎたら基準がずれる」
「でも!」
「怖いから避ける」
玄兎は犬を見る。
「死にたくないから、ちゃんと避ける」
自分へ言い聞かせるように。
「だから続ける」
透羽は一瞬だけ玄兎を見た。
「……分かりました。絶対に当たらないでください」
「難しい注文」
「今は冗談を言えているなら大丈夫です」
「そういう判定?」
千燈の烏が黒い犬へ突っ込む。
「記憶核、首の下!」
「見えてます!」
小毬が部分獣化した脚で回り込む。
「ここ!」
透羽の水が一点へ集中する。
黒い犬の身体が崩れ、中から古い首輪が現れた。
声が重なる。
『待って』
『帰ってくるから』
『ここにいて』
千燈が読む。
「核は『待つ』記憶! 襲う形だけ浄化できる!」
「全部消さない!」
玄兎が言う。
透羽の水が首輪を包み、黒い影だけを洗い落とす。
最後に首輪は小さな光となり、土地流路へ消えた。
次。
鏡。
赤い糸。
声だけの電話。
見たことのある怪異と似た形。
同じ個体ではない。
でも、同じ願いから生まれたもの。
会いたい。
忘れられたくない。
離れたくない。
帰りたい。
願いそのものを消すのではなく、誰かを傷つける形になった部分だけを止める。
今まで一件ずつやってきたことを、今日は途切れずに続ける。
「糸、三本!」
小毬が叫ぶ。
「真ん中だけ危険です! 左右は弱い!」
千燈が続く。
「左右は未送信の言葉! 個人名薄い、記憶へ返せる!」
「依澄、左!」
「やる!」
「右は私が流します!」
透羽の水が伸びる。
その時、真ん中の赤い糸が小毬の腕へ絡みついた。
「小毬!」
「切らないでください!」
糸が皮膚を締める。
赤い跡が浮く。
「今切ると他へ飛びます!」
小毬は痛みに顔を歪めながら、腕を動かさない。
依澄の蝶が結び目へ止まる。
「相手、いない」
千燈が目を閉じる。
「元の記憶が消えかけてる。名前だけ……『みさき』」
『みさき』
『みさき』
誰かの名前。
玄兎は青葉寮のことを思い出した。
忘れられたくない。
消えたくない。
「名前だけ残せる?」
「記録として?」
「うん。縛る力じゃなく、名前だけ」
「できる!」
「透羽、害のある部分だけ!」
「分かりました!」
水が赤い糸を薄くする。
依澄が残った名前を蝶で包む。
『みさき』
最後の声。
糸が消える。
小毬の腕に赤い痕だけが残った。
「痛い?」
玄兎が訊く。
「痛いです。でも動けます」
「無理なら」
「言います。昨日約束したので」
小毬は呼吸を整えた。
「私、役に立つために残るんじゃないです」
「うん」
「帰るために頑張ります」
玄兎は頷く。
「次、行こう」
◇
十五時三十二分。
市内側から通信。
『駅前の旧ホーム像、消失!』
『病院内部、重複率二十パーセント以下!』
『河川敷の祭礼像、縮小しています!』
直後。
『北側固定点、怪異圧上昇! 危険個体が混入!』
「小毬!」
「北側の流れ、違う匂い入ってます!」
「千燈先輩!」
「人を呼ぶやつ! 低危険じゃない!」
「北側閉じます!」
透羽が水路を閉じる。
しかし一体だけ間に合わない。
白い女の影。
小学生が昨日見た「こっち」と呼ぶ影に似ている。
女は玄兎を見ない。
外部固定点の向こうにいる人間へ手を伸ばす。
『こっち』
通信から悲鳴。
『現地で一般人一名、境界へ接近!』
「戻して!」
玄兎が叫ぶ。
「北側は閉じた!」
「じゃあ俺へ引く!」
「玄兎!」
「一瞬だけ!」
玄兎は残った帰巣痕へ意識を向ける。
《還月》は消えた。
でも、接続の痕跡だけはまだある。
「こっちだ!」
白い女が振り向く。
玄兎へ向く。
胸が冷たくなる。
「今!」
透羽の水が女を横から奪う。
千燈の烏が記憶核へ入る。
「『誰かについてきてほしい』だけ! でも対象を選べなくなってる!」
依澄が蝶で境界を作る。
「一人の夢へ戻す。現実じゃない」
女の影が薄くなる。
『こっち』
最後の声だけが残り、夢層へ消えた。
『現地一般人、確保! 怪我なし!』
玄兎は息を吐く。
「危なかった」
透羽が玄兎を見る。
「今の誘導、事前計画にありません」
「でも必要だった」
「分かっています」
透羽は怒鳴らない。
「だから次から、先に言ってください」
「言う余裕なかった」
「では、無理なら私が止めます」
「うん」
それでいい。
誰か一人の判断だけで全部を決めない。
◇
十五時四十七分。
中央残留、十二パーセント。
五人とも限界へ近づいていた。
透羽の右腕には止血帯。
左手まで震え始めている。
千燈は何度も血を使い、顔色が白い。
小毬は右腕に赤い痕、膝にも擦り傷。
依澄の輪郭は時々透け、蝶の数も減った。
玄兎は《還月》切断後の胸の痛みが続いている。
「依澄」
玄兎が見る。
「薄い」
「分かってる」
「約束」
「言う。今、七割くらい」
「七割?」
「私の感覚」
「それ大丈夫なの?」
「まだ。五割になったら止める」
「六割で言って」
「分かった」
千燈が苦笑する。
「こういう交渉、戦闘中にするんだ」
「先輩も顔白い」
「私はまだ読める」
「無理なら?」
「言うよ。昼の店行くんだから」
小毬も腕を押さえながら笑う。
「私も帰ります」
透羽がモニターを見る。
「残り十一・四パーセント!」
その瞬間。
中央の白い膜が、内側から大きく裂けた。
黒いものが現れる。
怪異ではない。
人でもない。
巨大な空洞。
そこから聞こえたのは、声というより命令だった。
『戻れ』
玄兎の身体が硬直する。
『器へ』
『中心へ』
『戻れ』
「玄兎!」
透羽が叫ぶ。
足が勝手に一歩前へ出る。
「違う……」
《還月》は切った。
それでも古い封印は、玄兎を最後の中心として認識している。
二十年前の緊急手順。
一人を使えば安定する。
その命令だけが、怪異より深い場所に残っていた。
『戻れ』
もう一歩。
玄兎は止まろうとする。
足が動く。
依澄が腕を掴む。
「玄兎!」
「身体が……」
「匂いが薄くなってます!」
小毬の声が震える。
「先輩の今の匂いが、向こうへ引かれてる!」
千燈も玄兎を見る。
「記憶の輪郭まで持っていかれてる! 身体だけじゃない!」
透羽が水の壁を作る。
玄兎と空洞の間へ。
でも水が割れる。
これは怪異ではない。
浄化だけでは止められない。
『戻れ』
視界が暗くなる。
大学。
自分の部屋。
四人。
全部が遠くなる。
代わりに白い場所が見えた。
生まれたばかりの自分。
誰かの泣く声。
封印の光。
押し込まれる無数の影。
二十年前。
自分が選んだわけではない。
赤ん坊の自分が、器にされた瞬間。
「……俺の場所じゃない」
声が出る。
弱い。
『戻れ』
「そこは、俺の帰る場所じゃない」
空洞がさらに引く。
玄兎の足が床を滑る。
依澄一人では止められない。
「透羽!」
玄兎が叫ぶ。
昨夜。
流し台の前。
話したいことがある。
帰ってきた後に。
透羽の水が玄兎の腰へ巻きつく。
「帰ってきてください!」
声が届く。
「約束したでしょう!」
『戻れ』
「最初に会った夜、私は死んで戻ったあなたを怪異かもしれないと疑いました!」
透羽の声が震える。
「何が起きたのか分からなくて、危険なら拘束して調べなければならないと思っていた!」
水が裂ける。
透羽は歯を食いしばり、もう一度玄兎の身体へ水を巻きつける。
「でも今は、あなたが誰なのかを疑って引き留めているんじゃありません!」
玄兎の視界に透羽の顔が戻る。
「玄兎に、生きてこっちへ帰ってきてほしいんです!」
胸が痛い。
「話、聞くんだろ……!」
「はい!」
透羽が叫ぶ。
「だから、帰ってきた後に聞いてください!」
小毬が玄兎の左腕を掴む。
狼の力。
自分の掌へ爪が食い込むほど強く握る。
「先輩の匂い、こっちです!」
『戻れ』
「違います!」
小毬が泣きそうな声で叫ぶ。
「二十年前の器の匂いじゃない! 今朝食べた卵! 昨日のピザ! 大学の廊下! 研究室のユン! 今の先輩の匂いは全部こっちです!」
玄兎の頭に、朝食の匂いが蘇る。
卵。
コーヒー。
ピザの残り香。
馬鹿みたいに普通のもの。
「今日の先輩を追います! 昔じゃない!」
千燈の烏が玄兎の周囲へ集まる。
千燈は最後の媒介管へ血を落とした。
「玄兎くん、私を見る!」
「無理……」
「無理でも見る!」
声が強い。
「私は君の血で昔を見た!」
自分ならいい。
戻るから。
死んでも。
「昔の玄兎くんは、自分の命を一番簡単に使った!」
玄兎の頭に、自分の声が蘇る。
でも千燈がそれを切る。
「それは昔!」
烏が飛ぶ。
「今の君は『生きたい』って言った!」
自分のまま帰れた夜。
明日も大学へ行くと書いたこと。
何もない日が好きだと思ったこと。
夢より現実を選んだこと。
「今の輪郭はこっち! 過去の器じゃない!」
依澄が玄兎の手を両手で掴む。
蝶はもう一羽しか残っていない。
その一羽が玄兎の胸へ止まる。
「道、作る」
「依澄……」
「現実の道」
彼女の声も震えている。
「夢じゃない。昔じゃない」
空洞の奥に見えていた二十年前の景色が揺れる。
「夢なら、私が作れる」
依澄が言う。
「でも玄兎が欲しかった明日は、こっち」
見える。
大学の正門。
研究室。
ユン。
シオリ。
学食。
自分の部屋。
昨夜のピザ。
千燈と行く昼の店。
小毬と交わした全員で帰る約束。
今朝、名前で起こした依澄。
透羽の手帳。
まだ聞いていない言葉。
まだ行っていない本物の海。
帰る道。
「こっち」
依澄が言う。
四人が引く。
でも玄兎は分かった。
四人だけでは駄目だ。
助けてもらうだけでは、昔と同じだ。
自分でも選ぶ。
「俺も……」
足へ力を入れる。
空洞が引く。
透羽の水が切れかける。
小毬の靴が滑る。
千燈の烏が一羽消える。
依澄の輪郭が薄くなる。
「帰る!」
一歩。
後ろへ。
もう一歩。
『戻れ』
「嫌だ!」
玄兎は叫んだ。
「俺は、そっちには帰らない!」
さらに一歩。
「帰る場所は、こっちだ!」
胸の奥で、最後の糸が切れた。
音はしなかった。
ただ、空洞から玄兎へ伸びていたものが消えた。
引力がなくなる。
勢い余って、五人とも後ろへ倒れた。
「痛っ!」
小毬の声。
「重い!」
千燈。
「誰が誰の上ですか!」
透羽。
依澄だけが玄兎の顔を見る。
「玄兎、いる?」
玄兎は床へ仰向けになったまま息をした。
「いる」
自分で答える。
身体がある。
痛い。
苦しい。
心臓が動いている。
死んでいない。
透羽の顔が見えた。
「帰った」
玄兎が言う。
透羽の目が少し潤む。
「……はい」
「話、あとで」
「はい」
小毬が泣きながら怒る。
「その前に立ってください! まだ終わってません!」
「現実的」
千燈が笑いながら咳をする。
「小毬ちゃん正しいよ」
玄兎は床へ手をついた。
「じゃあ終わらせよう」
◇
古い中央命令が切れたことで、最後の残留は性質を変えた。
もう、玄兎一人へ戻ろうとしない。
行先を失って漂っている。
危険なものはある。
混ざった記憶もある。
でも、五人で扱える。
「ここから、繭そのものを変えます」
透羽が立ち上がる。
右腕の袖は裂け、左手も震えている。
「閉じるんじゃない?」
玄兎もゆっくり起きる。
「はい」
依澄が答える。
「ほどく」
今までの《百獣繭》は、全部を中へ閉じ込めるための壁だった。
何が危険か。
何が無害か。
何が夢か。
何が記憶か。
それを細かく問う前に、中央へ集めた。
五人が作るものは違う。
通すための境界。
危険なものは止める。
夢は夢へ。
記憶は記憶の場所へ。
土地に住める怪異は土地へ。
人と一緒にいても害のないものは、無理に消さない。
透羽が水で大きな輪を作る。
「中央拘束を解除します。代わりに、通過するものの性質を見る境界判定を残します」
千燈が烏を輪の上へ飛ばす。
「記憶と感情の向きを載せる。誰か個人に属するものは、勝手に土地へ流れないように」
小毬も傷ついた腕を上げる。
「匂いの道を残します。迷ったものが、どこから来たか追えるように」
依澄の最後の蝶が舞う。
「夢の入口は閉じない。間違えたら戻れるようにする」
玄兎は輪の中央を見る。
「俺は?」
透羽が答える。
「帰巣標識はもうありません」
静かな言葉。
「だから、玄兎を中心にする必要はありません」
その瞬間。
玄兎は、自分の中が少し空いたように感じた。
二十年間。
知らないうちに中心だった。
怪異たちの帰る場所。
封印の器。
死ねば戻る身体。
全部が自分へ集まっていた。
今日、それが終わる。
「じゃあ俺、何する?」
小毬が少し驚く。
「先輩、役目なくなって喜ばないんですか」
「ちょっと寂しい」
「変ですね」
「俺もそう思う」
千燈が笑う。
「人間側の基準にすれば?」
「基準?」
「怪異でも夢でも記憶でもない。今ここで生きてる人間」
透羽が考える。
「外部定着させるものが、人間の生活圏に存在できるかを見る最終基準」
「理にかなっています」
依澄も玄兎を見る。
「今の玄兎」
「普通の人間になったばっかりだけど」
「だからいい」
玄兎は少し笑った。
輪の中央へ手を置く。
痣はもう熱くない。
「俺は、こっち側」
生きている側。
帰る側。
「始めよう」
五人が同時に力を流した。
◇
白い膜は、爆発するようには壊れなかった。
最初に一本。
太い糸がほどけた。
次にもう一本。
巨大な繭を形作っていた拘束線が、細い糸へ分かれていく。
一本の中心へ集める道ではない。
無数の出口。
街へ。
夢へ。
記憶へ。
土地へ。
封印区画へ。
まだ名前のない場所へ。
怪異が流れる。
声が流れる。
過去が流れる。
あるものは暴れ、透羽の水に止められる。
あるものは迷い、小毬が由来を探す。
ある記憶は千燈が「これは誰か一人のもの」と判断し、保留路へ送る。
ある夢は依澄の蝶を追って、静かに眠りの側へ戻る。
玄兎は最後に見る。
人の生活へ出していいか。
それとも、まだ止めるべきか。
答えが分からないものは無理に通さない。
全部を今日決めなくていい。
中央へ閉じ込め続ける必要がなくなれば、時間をかけて見ればいい。
ある小さな影が玄兎の前で立ち止まった。
電話ボックスの中で聞いた声に似ている。
『ありがとう』
そう聞こえた気がした。
玄兎は答える。
「どういたしまして」
影は消えるのではなく、遠くへ歩いていった。
次に白い蝶。
依澄のものではない。
五人の周囲を一度回り、夢層へ入る。
赤い糸の切れ端。
古い鏡の欠片。
誰かの忘れた名前。
帰れなかった足音。
泣き声。
笑い声。
それぞれが、それぞれの場所へ離れていく。
やがて、巨大な白い壁そのものが薄くなる。
繭が消えるのではない。
繭だったものが、道へ変わっていく。
「透羽」
「はい」
「これ、戻らないよな」
「元の形には」
「よかった」
「まだ終わってません」
「知ってる」
最後の太い拘束糸。
そこには、二十年前の術式が残っている。
一人を中心にするための線。
玄兎へはもうつながっていない。
透羽が水を重ねる。
「これを切れば、中央拘束は完全に消えます」
「街側は?」
千燈が訊く。
通信。
『各外部固定点、代替境界との同期を確認!』
『夢層側、受入安定!』
『危険個体封印区画、稼働中!』
小毬が笑う。
「いけます!」
依澄も頷く。
「切って」
透羽は玄兎を見る。
「玄兎」
「うん」
「いいですか」
自分が中心ではない。
だから本当は、玄兎の許可だけで決めるものでもない。
でも、透羽が聞いてくれた意味は分かる。
二十年間、自分へつながっていたもの。
「いいよ」
玄兎は答えた。
「終わらせよう」
透羽の水が走る。
最後の糸がほどけた。
◇
十六時十九分。
市内の異常が、同時に薄くなり始めた。
古い商店街は現在の道路へ戻る。
空へ浮かんでいた手紙は、文字だけを残して光へほどける。
河川敷の祭りは、提灯が一つずつ消え、最後に現実の川面だけが残る。
道路へ重なっていた古い駅のホームも消えた。
病院の廊下から、知らない時代の病室がなくなる。
小学校跡の古い校舎も、最後に窓際の少女が手を振ったあと、現在の公園へ戻った。
通信担当の声が飛び込む。
『中央拘束反応、消失!』
『代替境界、形成確認!』
『市内怪異圧、急速低下!』
「危険個体は?」
透羽が訊く。
『封印区画へ移行中。外部定着個体は監視範囲内!』
「夢層」
依澄。
『重複率三パーセント以下! 低下継続!』
「土地記憶!」
千燈。
『複数地点で安定。異常増幅なし!』
「一般人の被害は?」
玄兎が訊いた。
一瞬、通信が止まる。
『追加の重傷者なし。軽傷者は増えていますが、現在確認できている範囲で生命危険なし。避難解除はまだ行いません』
玄兎は息を吐いた。
完全に無傷ではない。
でも、間に合った。
小毬が玄兎を見る。
「先輩」
「うん」
「終わった?」
玄兎はすぐには答えない。
透羽を見る。
千燈。
依澄。
モニター。
最後に自分の胸。
痣は残っている。
でも黒い線は消えた。
熱もない。
呼ばれていない。
透羽が静かに言う。
「中央封印は、もうありません」
「《百獣繭》は?」
「旧来の意味では消失しました」
千燈がその場へ座り込んだ。
「じゃあ、終わり?」
「完全な確認はこれからです」
透羽は最後まで透羽だった。
でも、そのあと。
「作戦は成功です」
小毬が泣き出した。
「よかった……」
「小毬?」
「だって、成功って……本当に……」
言葉が続かない。
千燈も床へ座ったまま笑っている。
「私、もうしばらく立ちたくない」
「それは同意します」
透羽も壁へ手をついた。
依澄は玄兎の隣へ来る。
「玄兎」
「何?」
「いる?」
「いる」
「戻らない?」
意味は分かった。
死んだら戻らない。
《還月》はない。
玄兎は少し怖くなる。
でも隠さない。
「戻らないと思う」
「怖い?」
「うん」
「でも生きてる」
「うん」
依澄は玄兎の手を握る。
「じゃあ今は、それでいい」
「そうだな」
透羽が近づく。
右腕には簡易止血帯。
顔色も良くない。
「透羽も検査した方がよくない?」
「全員します」
「よかった。俺だけじゃない」
「玄兎は最優先です」
「やっぱり」
「《還月》切断後の身体状態を確認します」
「成功した直後くらい余韻に浸らせてよ」
「検査の後にしてください」
「透羽らしいな」
玄兎は笑う。
透羽も少しだけ笑った。
「それと」
「何?」
「昨日の約束は、検査が終わってからです」
玄兎は一瞬だけ言葉を止める。
「覚えてた?」
「当然です」
「俺も」
透羽の表情が少し柔らかくなる。
「なら、まず地上へ帰りましょう」
「うん」
玄兎は四人を見る。
「全員で」
小毬が泣きながら頷く。
「はい。全員で」
◇
地上へ出た時、空は夕方の色になっていた。
西日が大学の校舎を赤く染めている。
夢の中で何度も見たような景色。
でも、これは現実だ。
構内にはまだ避難誘導の人たちがいる。
壊れた窓。
倒れた看板。
夢像を避ける途中で転倒した自転車。
救護テント。
完全に無傷では終わらなかった。
それでも。
空に二つ目の月はない。
古い校舎も重なっていない。
遠くの道路は一本だけだ。
玄兎たちは旧研究棟の入口で足を止めた。
千燈が空を見る。
「普通の夕方だね」
「匂いも静かです」
小毬が鼻を動かす。
「怪異いない?」
「います。でも、散らばってます。ユンみたいな匂いも、道守みたいなのも。全部一か所から来てない」
「それが正解なんだろうな」
玄兎は言った。
全部を消したわけではない。
全部を閉じ込めたわけでもない。
危険なものは止めた。
残っていいものは残した。
街は、怪異が一つもいない場所にはならなかった。
でも、それでいい。
その時。
旧研究棟の前へ、一台の車が止まった。
昨日の管理担当者が降りてくる。
玄兎は少し身構えた。
男性は五人を見て、玄兎の胸元へ一度視線を向けた。
「終わったと聞いた」
「はい」
透羽が答える。
「中央器案は?」
玄兎が訊く。
男性は少しだけ間を置く。
「廃棄する」
「もう使わない?」
「少なくとも、君を前提にした案は成立しない」
玄兎の胸が少し軽くなる。
「そうですか」
「それと」
男性は市内の方を見る。
「現時点で、君たちの方式の方が被害予測は低い」
千燈が少し笑う。
「数字で認めてくれるんだ」
「数字を出せと言ったのは私だ」
男性は玄兎を見る。
「君が器にならずに済んでよかった」
昨日と同じ言葉。
今日は結果として聞ける。
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い。これから管理方式を全部作り直すことになる」
「大変そう」
「君たちのせいだ」
「すみません」
「謝るところではない」
男性の口元がほんの少しだけ緩んだ。
「責任を持って、最後まで付き合ってもらう」
玄兎は四人を見る。
「大学生なんですけど」
「知っている」
「講義もある」
「それも知っている」
「じゃあ単位に配慮してください」
千燈が吹き出した。
男性も呆れたように息を吐く。
「大学側と相談しろ」
それだけ言って、救護テントの方へ歩いていった。
悪い人ではなかった。
だからこそ昨日は怖かった。
でも今は、少しだけ同じ方向を向ける気がした。
◇
「ユン、見に行く?」
依澄が訊く。
「検査が先です」
透羽が即答する。
「やっぱり」
千燈が笑う。
「じゃあ検査終わったら?」
「研究室へ寄りましょう」
小毬の顔が明るくなる。
「シオリも!」
「今日は研究室にいます」
「じゃあ二人とも会えます!」
玄兎も笑った。
「返却札、返さないと」
手帳に挟んだ古い貸出票。
「借りっぱなしはシオリに怒られるかも」
「シオリ、怒るのかな」
千燈が言う。
「紙を散らかすくらい?」
「それ地味に困る」
五人で歩き出しながら、玄兎は胸へ手を置いた。
もう《還月》はない。階段から落ちても、車に轢かれても、怪異に致命傷を負わされても、以前のように「そのうち戻る」と考えることはできない。
死ねば終わる。
そう思うと、やはり怖かった。たぶん明日になっても、その次の日になっても、しばらくは怖いままだろう。
けれど今は、その怖さから目を逸らさなくても歩ける。
今日は生きて帰れる。昨日、手帳へ書いた通り、五人全員で帰れるのだ。
「玄兎先輩」
小毬が呼ぶ。
「何?」
「群れ、五人です」
玄兎は数える。
透羽。
千燈。
小毬。
依澄。
自分。
「うん」
「全員です」
「約束守れたな」
「はい」
千燈が歩きながら言う。
「まだ私の昼の店残ってるからね」
「覚えてる」
依澄も。
「海」
「それも」
透羽は少し前を歩いている。
玄兎が呼ぶ。
「透羽」
「何ですか」
「そっちも忘れてない」
透羽は一瞬だけ足を止める。
「検査の後です」
「分かってる」
五人はまた歩き出した。
《百獣繭》はほどけ、そこへ閉じ込められていたものは、それぞれの行き先へ向かい始めた。玄兎自身も、二十年前から知らないうちに結びつけられていた「器」という役目からようやく離れた。
残ったのは、死ねば戻れない一つの命だ。
そして、その命で迎えに行ける明日の約束が、まだいくつも残っていた。
――第三十五話・了