玄兎の部屋に五人が揃ったのは、夜八時を少し過ぎた頃だった。
最後に入ってきた千燈が玄関の扉を閉めると、狭いワンルームは急に人の気配でいっぱいになった。普段なら一人で使っているローテーブルの周りには、透羽、小毬、依澄がすでに座っている。床には明日の作戦で使う装備ケースが二つ、鷺宮家から借りた観測端末、予備の札、携帯用の水筒、それから小毬が持ち込んだ大きな紙袋まで並び、生活の部屋と作戦準備室の境目がすっかりなくなっていた。
「玄兎くん、本当にここで五人寝られるの?」
千燈は靴を脱ぎながら部屋を見回した。
「寝る前提だったの?」
「明日午後三時開始なんでしょ。遅くまで準備したあと全員帰るより、近い人は残った方が楽じゃない?」
「千燈先輩」
透羽がすぐに口を挟む。
「今日は装備の確認が終わったら、十分に寝る時間を取ります。誰がどこで休むかは、そのあと決めましょう」
「玄兎先輩のベッド、一人分しかありませんよ」
小毬が真面目な顔で言う。
「そこを今議論する?」
玄兎はため息をついた。
依澄はすでにベッドの端へ座っている。
「私はここ」
「まだ誰の場所も決めてないから」
依澄は少し考えたあと、素直にベッドから降りた。
「じゃあ後で決める」
それだけ言って、依澄はローテーブルの横へ座り直した。
そんな会話をしている間にも、透羽は装備ケースの留め具を外し、中身を一つずつ床へ並べ始めていた。
透羽は結界札を数え、千燈へ媒介管を渡した。小毬が香気標識の包みを開き、依澄は鏡片の欠けを指で確かめる。玄兎は自分の接続帯の留め具を、端から一つずつ閉じた。
「確認します」
透羽が言うと、さっきまで雑談していた全員の意識が自然に切り替わった。
「高速分離開始は明日十五時。中央構造へ直接干渉する前に、外部固定点との接続を十四時二十分までに終わらせます。市内の危険区域は鷺宮家と大学側の協力者が封鎖。一般人の避難も並行して進めます」
「俺たちは十四時に大学?」
玄兎が訊く。
「十三時半です。ご飯を食べてから集まってください」
「今日の午後、明日までに確かめておくことが増えたんです」
「じゃあ手帳に書いとく」
玄兎は透羽から以前もらった手帳を開いた。
夢の中でも似た手帳を渡された気がする。
けれど、これは現実の透羽からもらったものだ。
明日の欄へ『13:30 旧研究棟』と書き、その下へ『15:00 最終作戦』と続ける。
文字にすると、急に重く見えた。
小毬も同じことを思ったのか、スマートフォンへ予定を入れたあと、しばらく画面を見つめていた。
「たぶん、これで最後になるんですよね」
「そうするための作戦です」
千燈が軽く腕を組む。
「成功したら、《百獣繭》を今の形へ戻す必要はなくなる。玄兎くんも器じゃなくなる」
「《還月》も」
依澄が玄兎を見る。
「たぶん、なくなる」
玄兎は左胸へ手を置いた。
服の下の痣は、触ってもいつも通りだった。何度も自分を戻してきたものが明日にはなくなるかもしれない。その事実だけが、指先の下に妙に重く残る。
小毬が何も言わず、床に置かれていた五本の携帯用バッテリーを拾った。
「これ、今のうちに全部充電しておきます」
電源タップの空きを探し始める小毬の横で、千燈は自分のスマートフォンに十三時のアラームを追加した。依澄もそれを見て、同じ時刻に一つ設定する。
透羽だけは端末の次の項目を開いた。
「個人装備へ進みます」
玄兎は胸から手を離し、手帳を開いたまま透羽の方へ向き直った。
その時、透羽の端末が短く鳴った。
全員の視線が向く。
透羽が画面を見る。
「北側で記憶像が二件追加。どちらも一般人は避難済みです」
「怪我人は?」
玄兎が聞く。
「増えていません」
「ならよかった」
透羽は端末を伏せた。
ほんの十秒のやり取り。
それでも、部屋の外では今も街がおかしくなり続けていることを、全員が思い出した。
◇
装備確認が一通り終わったのは九時前だった。
確認表は一枚埋まった。玄兎は自分の欄だけでなく、上下に書かれた四人の役割も読み、表を透羽へ返した。
「食事後に、装備の配置をもう一度だけ確認します」
透羽が言い、千燈が笑う。
「というわけで、注文しよっか」
透羽は反対しなかった。
玄兎がスマートフォンで近所の店を開く。
「何頼む?」
「肉!」
小毬は早かった。
「じゃあ照り焼きチキンと、ソーセージ多いやつ」
「透羽は?」
「野菜があるものを一枚お願いします」
「依澄は?」
「チーズ」
「全部チーズあるけど」
「いっぱいの」
「四種チーズ系かな」
依澄が頷く。
千燈は辛いものを選んだ。
結局、大きめのピザを四枚頼むことになった。
「食べ切れる?」
玄兎が不安になると、小毬が胸を張った。
「大丈夫です」
注文を終えると、部屋に妙な空白ができた。
明日の準備という目的で集まったのに、準備が途切れた瞬間、全員が少し困ったように見えた。
千燈がテレビのリモコンを取る。
「ニュースはやめとこ。SNSは動画だらけだけど、同じ場所を撮ったはずなのに内容が食い違ってる。大学と警察、自治体も、確認できた範囲は設備事故とか一時的な視界異常として処理してるみたい」
「じゃあバラエティ?」
「それで」
適当にチャンネルを変える。
芸人が地方の食堂を回る番組だった。
誰も集中して見てはいない。
それでも音があるだけで、部屋が少し普通になった。
◇
ピザが届くまで、玄兎と千燈は空になった装備箱を壁際へ寄せた。
「半分、持つよ」
千燈が言う。
二人で箱を持ち上げる。
狭い部屋の中を数歩移動するだけの作業だった。
それでも千燈は、箱を置いたあとすぐ手を離さなかった。
「玄兎くん、来週の木曜、昼空いてる?」
「たぶん。何かある?」
「地上の店、付き合って」
千燈はもうスマートフォンのカレンダーを開いていた。
「この前言ってた地下の喫茶店じゃなくて?」
「今度は地上。日傘あり、短時間。無理ならすぐ地下へ逃げる」
「じゃあ行こう」
「十一時半でいい?」
「うん」
千燈はその場で予定を入れ、玄兎へ共有した。
「店はあとで探す」
その時、玄関のチャイムが鳴った。
「ピザ!」
小毬の声が部屋の奥から飛ぶ。
千燈が笑う。
◇
四枚の箱をテーブルへ並べる。
蓋を開けた瞬間、チーズと焼けた生地の匂いが部屋いっぱいに広がった。
「いい匂い」
依澄が少し身を乗り出す。
透羽が飲み物を並べ、小毬が取り皿へピザを移し始める。
「白狼院さん、一人二切れずつからです」
「分かってます!」
「その皿、三切れありますけど」
「これはあとで食べる分です」
「今取る必要あります?」
「なくなるかもしれないので」
「千燈先輩に取られるかもしれません。この前、先輩の唐揚げを先に取ったので」
玄兎は笑いながら自分の分を取った。
食べ始めると、会話はもっと普通になった。
大学の講義。
小毬が提出期限を一日勘違いしていた課題。
千燈が最近見つけた喫茶店。
依澄が現実の海へ行くなら、今度こそ写真を残したいという話。
透羽が夢で選んだ水着を、本当に買うのかどうか。
「まだ買いません。海へ行く日が決まったら考えます」
透羽が言う。
透羽の耳が少し赤くなる。
玄兎も少しだけ頬が熱くなるのを感じて、手元のピザへ視線を落とした。
「……聞かれたら、たぶん前と同じの選ぶ」
「聞いていません」
小毬が笑っている。
依澄が玄兎を見る。
「私の水着は?」
「依澄も前の似合ってたよ」
「現実で選ぶ?」
「必要なら」
「じゃあ一緒に行く」
千燈がすぐ反応した。
「それデート?」
「買い物」
依澄は真顔だ。
「二人ならデートって言うんじゃない?」
「じゃあデート」
玄兎は一瞬、返事に詰まった。さっきまでただの買い物の話だったのに、その言い方をされると急に意識してしまう。
「……そう言われると、ちょっと恥ずかしいな」
「嫌?」
「嫌じゃない」
依澄が小さく頷く。
小毬がすぐ手を上げた。
「私も水着買います!」
「五人で行けば?」
「それだとデートじゃないです!」
「さっき買い物って言ってたのに」
透羽まで小さく笑った。
笑いながら伏せた透羽のスマートフォンに、一瞬だけ『店舗取り置き・七日間』の表示が見えた。玄兎は何も言わず、自分のピザをもう一口食べた。
その時、窓の外が一瞬だけ明るくなった。
「花火?」
小毬が振り返る。
音はしない。
隣の建物の壁へ、夏祭りの花火が半透明に映っていた。
赤。
青。
金色。
三発ほど上がり、消える。
現実の空には何もない。
依澄が窓を見る。
「記憶」
「増えてる?」
玄兎が訊く。
「少し」
透羽が端末を確認する。
「予測範囲内です。市内西側で祭りの記憶像が出ています。避難区域外への拡大はなし」
小毬が窓から離れる。
「綺麗ですね」
小毬は消えた壁をまだ見ていた。
「本物も見たいです」
「河川敷で、まだ一回あるよ」
千燈がすぐ検索する。
「ほら、まだチケット取れる」
「入れます」
小毬は自分のカレンダーへ『花火候補』と打ち込んだ。
「チケット取れたら確定です」
◇
食事が半分ほど進んだ頃、小毬がピザ箱の蓋を裏返した。
「先輩、次回二十パーセント引きです」
箱の端についていたクーポンを丁寧に剥がす。
「次は照り焼きの大きいやつにします。五人なら四枚でちょうどよかったので、次も同じでいけます」
小毬はクーポンを玄兎の冷蔵庫へ磁石で留めた。貼ってから、少しだけ位置を直す。
「期限、来月末です」
「じゃあ忘れないようにしないとな」
「はい」
それで満足したらしく、小毬は自分の皿へ戻った。
少しして、玄兎の皿から一切れ取ろうとして手を止める。
「それ、先輩のですか?」
「俺の」
「じゃあやめます」
「珍しい」
「次もあるので」
小毬はそう言って、自分の箱から三切れ目を取った。
◇
ピザの箱がほとんど空になった頃、依澄は窓際に座っていた。
玄兎が空いた紙皿をまとめていると、依澄が呼ぶ。
「玄兎、明日の朝、起こして」
「同じ部屋で寝るなら普通に起こすよ」
「名前で」
「分かった」
依澄は自分のスマートフォンを開き、七時のアラームを設定した。
「自分でも起きる気あるじゃん」
「ある。でも玄兎も呼んで」
「はいはい」
「約束」
「約束」
依澄は画面を伏せると、残っていたチーズの端を食べた。
◇
十時半を過ぎると、会話の間隔が少しずつ長くなった。
小毬はさっきまで元気だったのに、壁へ背を預けたまま目をこすっている。
「眠い?」
玄兎が訊く。
「ちょっとだけです」
「昨日もあんまり寝てないだろ」
「準備してたので」
「今日は寝なよ。透羽、あと何分?」
「最終確認は十分もかかりません」
「じゃあ小毬、そこまで頑張る?」
「頑張ります」
そう答えた五分後。
小毬は座ったまま眠った。
頭が少しずつ横へ傾き、最後には依澄の肩へ乗る。
依澄はそのまま動かなかった。
千燈と透羽も声を落とした。
小毬の手には、明日の装備確認表がまだ握られていた。
玄兎がそっと抜き取る。
「ベッド使わせる?」
「起こさない方がいい」
依澄が言う。
「でも依澄、そのままだと動けないぞ」
「大丈夫。重くない」
玄兎は薄い毛布を持ってきて、小毬へかける。
その姿を見ているうちに、部屋の雰囲気が変わった。
さっきまでは本当に楽しかった。
でも一人が眠っただけで、残った四人は急に声を張る理由を失った。
テレビはついている。
画面の中では誰かが旅館の料理を食べている。
外では遠くを救急車が通った。
サイレンが近づき、少しずつ遠ざかっていく。
誰も口にしなかった。
今日の異常と関係があるのかもしれない。
関係ないのかもしれない。
それでも、いつもより長く耳に残った。
千燈が空の紙コップを指で回す。
「海、一週間後で仮押さえしない?」
「早くないですか」
透羽はそう言いながら、共有カレンダーを開いた。
「翌日は検査があります。二日後も経過確認。少なくとも一週間は空けてください」
「じゃあ一週間後」
「天気予報はまだ出ません」
「候補でいいじゃん」
依澄が玄兎のスマートフォンを覗く。
「入った」
「本当だ」
共有カレンダーに『海・候補』が増えていた。
小毬は眠ったまま、依澄の肩へさらに体重を預ける。
「小毬ちゃんの予定、勝手に入れていいの?」
「起きたら聞く」
「たぶん行くって言うよ」
千燈が笑った。
その向こうで、建物の輪郭が一瞬だけ古い木造家屋へ変わった。
数秒。
元へ戻る。
透羽の視線が端末へ落ちる。
「中央拘束率、少し下がっています」
依澄の肩で眠る小毬の呼吸だけが聞こえた。
千燈はカレンダー画面を閉じ、紙コップをゴミ袋へ入れた。
「じゃあ寝よ。朝、予定変わったら困るし」
透羽が小さく返した。
「はい」
◇
十一時を過ぎた頃、小毬を一度起こした。
「白狼院さん。ここで寝るなら、もう少しちゃんと横になってください」
透羽が肩を揺らす。
「……起きます」
小毬は眠そうに答えた。
結局、千燈と小毬は床へ敷いた予備の布団と毛布を使うことになった。
依澄はベッドの端で休むと言い張ったが、玄兎が「俺が床でいい」と言うと、透羽がすぐ止めた。
「玄兎は明日、中央基準座標になります。ちゃんと眠れる場所を使ってください」
「それ言ったら全員重要だろ」
「だから全員、できるだけ寝ます」
「じゃあどうする?」
少し揉めた結果、依澄はベッドの壁側、玄兎は反対側へ入ることになった。
間には大きめのクッションを置く。
「修学旅行みたい」
千燈が笑う。
それでも笑えた。
透羽だけは「私は椅子で」と言い張ったので、玄兎が折り畳みマットをもう一枚出す。
「これ使って」
「玄兎が持っていたんですか」
「前にみんな来た時、床きつかったから買った」
透羽はマットを見る。
「……ありがとうございます」
「明日使う人が椅子で寝るのは無しね」
「分かりました」
照明を落とす。
部屋は完全な暗闇にはならない。
カーテンの隙間から街灯の光が入り、床へ薄い線を作っている。
「おやすみなさい」
小毬の声が最初だった。
千燈、依澄、透羽も順番に返す。
玄兎も最後に「おやすみ」と言った。
そのまま眠れると思った。
けれど、目を閉じると明日の術式図が浮かぶ。
流れ。
分岐。
透羽の水。
小毬の匂い。
千燈の記憶。
依澄の蝶。
そして、自分へ向かってくる無数の帰巣反応。
胸の痣が熱くなる想像まで、妙に鮮明だった。
玄兎は目を開ける。
隣では依澄がすでに静かな寝息を立てていた。
床の方から小毬の呼吸も聞こえる。
千燈もいつの間にか眠ったらしい。
透羽の方を見る。
暗がりの中で、彼女も目を開けていた。
視線が合う。
「眠れない?」
「少し」
「同じ」
透羽は身体を起こした。
「水を飲みます」
「俺も行く」
二人はなるべく音を立てずに立ち上がった。
◇
キッチンと呼ぶには狭い流し台の前で、玄兎は二つのコップへ水を入れた。
一つを透羽へ渡す。
「ありがとう」
「どういたしまして」
透羽は一口飲む。
玄兎も飲んだ。
冷たい水が喉を通る。
部屋の奥では三人が眠っている。
テレビも消えている。
静かな夜だった。
「透羽、眠れない時も、確認表のこと考えてる?」
「今は考えないようにしています」
「できてる?」
「半分くらい」
「俺よりできてる」
透羽はコップを置いた。
流し台からは、小毬が冷蔵庫へ貼った次回クーポンが見える。テーブルでは千燈の共有予定がまだ玄兎のスマートフォンに通知として残っていた。
透羽がそれを見て、少しだけ笑う。
「予定が増えましたね」
「今日だけでかなり」
「海用品を見る日も入れておきます」
「まだ買うって決めてないんじゃなかった?」
「見るだけです」
透羽は共有カレンダーを開き、翌週の土曜へ『海用品・候補』を入れた。
「その日が難しければ、別の日にしましょう」
玄兎は自分の画面を見たが、予定は消さなかった。
透羽はもう一度水を飲む。
それから、少しだけ間を置いた。
「玄兎」
「うん」
「作戦が終わったあと、少し時間をください」
「分かった」
「忘れないでください」
「手帳に書いとく」
透羽はそれ以上、何の話か説明しなかった。
玄兎も聞かなかった。
「戻ろう」
二人は声を立てないように笑った。
◇
布団へ戻る前、玄兎は机の上の手帳を開いた。
明日の欄。
『13:30 旧研究棟』
『15:00 最終作戦』
その下へ、新しく一行書く。
『終わったら、透羽の話を聞く。』
少し考えて、さらに書き足した。
『依澄を朝起こす。』
『全員で帰る。』
『その後、海。千燈先輩の昼の店。花火も候補。』
「多いですね」
後ろから透羽の声がした。
「今日増えた。海用品はカレンダーの方」
玄兎は手帳を閉じ、枕元へ置いた。
冷蔵庫には小毬のクーポンが貼られている。スマートフォンには来週の喫茶店と海の候補日。流し台には五人分のコップが伏せてあった。
ピザを食べて、くだらない話をして、寝る場所で少し揉めただけの夜だった。
ベッドへ戻る。
依澄はまだ薄く目を開けていた。
「依澄」
「うん」
「七時でいい?」
「名前で起こして」
「分かってる」
依澄は安心したように目を閉じた。
「おやすみ、玄兎」
「おやすみ」
床では小毬が毛布を蹴り、千燈が寝返りを打った。透羽も折り畳みマットへ横になる。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
玄兎はスマートフォンのアラームを七時に合わせた。
その下には、来週の予定が二つ並んでいる。
画面を伏せる。
今度は目を閉じた。
――第三十四話・了