玄兎の部屋に五人が揃ったのは、夜八時を少し過ぎた頃だった。
最後に入ってきた千燈が玄関の扉を閉めると、狭いワンルームは急に人の気配でいっぱいになった。普段なら一人で使っているローテーブルの周りには、透羽、小毬、依澄がすでに座っている。床には明日の作戦で使う装備ケースが二つ、鷺宮家から借りた観測端末、予備の札、携帯用の水筒、それから小毬が持ち込んだ大きな紙袋まで並び、生活の部屋と作戦準備室の境目がすっかりなくなっていた。
「玄兎くん、本当にここで五人寝られるの?」
千燈は靴を脱ぎながら部屋を見回した。
「寝る前提だったの?」
「明日午後三時開始なんでしょ。遅くまで準備したあと全員帰るより、近い人は残った方が楽じゃない?」
「千燈先輩」
透羽がすぐに口を挟む。
「今日は装備確認が終わったら、十分な睡眠時間を確保する予定です。誰がどこで休むかは、そのあと決めます」
「つまり泊まる可能性はあるんだ」
「必要なら、です」
「玄兎先輩のベッド、一人分しかありませんよ」
小毬が真面目な顔で言う。
「そこを今議論する?」
玄兎はため息をついた。
依澄はすでにベッドの端へ座っている。
「私はここ」
「早いな」
「空いてた」
「まだ誰の場所も決めてないから」
依澄は少し考えたあと、素直にベッドから降りた。
「じゃあ後で決める」
「ありがとう」
「玄兎が困るから」
それだけ言って、依澄はローテーブルの横へ座り直した。
そんな会話をしている間にも、透羽は装備ケースの留め具を外し、中身を一つずつ床へ並べ始めていた。
明日の高速分離作戦に使うのは、見た目だけなら派手なものではない。透羽の水路を安定させる結界札、千燈が感情と記憶の向きを読むための採血器具と媒介管、小毬が匂いの流れを見失わないための香気標識、依澄の夢層座標を固定する鏡片、そして玄兎の帰巣標識を複数の出口へ分配するための接続帯。
どれも単体なら小さい。
でも、明日はこの一つ一つが欠ければ作戦全体が崩れる。
「確認します」
透羽が言うと、さっきまで雑談していた全員の意識が自然に切り替わった。
「高速分離開始は明日十五時。中央構造へ直接干渉する前に、外部固定点との接続を十四時二十分までに終わらせます。市内の危険区域は鷺宮家と大学側の協力者が封鎖。一般人の避難も並行して進めます」
「俺たちは十四時に大学?」
玄兎が訊く。
「十三時半です。食事を済ませた状態で集合してください」
「三十分早くなってる」
「今日の午後、追加確認項目が増えました」
「じゃあ手帳に書いとく」
玄兎は透羽から以前もらった手帳を開いた。
夢の中でも似た手帳を渡された気がする。
けれど、これは現実の透羽からもらったものだ。
明日の欄へ『13:30 旧研究棟』と書き、その下へ『15:00 最終作戦』と続ける。
文字にすると、急に重く見えた。
小毬も同じことを思ったのか、スマートフォンへ予定を入れたあと、しばらく画面を見つめていた。
「最終作戦って、すごい名前ですよね」
「正式名称ではありません」
透羽が言う。
「でも、たぶん最後になるんですよね」
「そうするための作戦です」
千燈が軽く腕を組む。
「成功したら、《百獣繭》を今の形へ戻す必要はなくなる。玄兎くんも器じゃなくなる」
「《還月》も」
依澄が玄兎を見る。
「たぶん、なくなる」
部屋の空気がほんの少し静かになった。
玄兎は自分の左胸へ手を置く。
服の下にある痣。
死ねば戻る。
その異常さを長いあいだ自分の身体の一部として受け入れてきた。怖いと思いながら、便利だと思ってしまう瞬間もあった。
なくなるかもしれない。
次に死んだら終わる。
考えるだけで、胃の奥が少し冷たくなる。
でも、それを避けたいとは思わなかった。
「なくなるなら、それでいい」
玄兎は言った。
「前にも言ったけど、戻れなくなるのは怖い。でも、明日は死なないために行くんだろ」
「はい」
透羽がすぐに答える。
「最初から、その前提です」
「なら大丈夫」
「大丈夫と言い切らなくてもいいです」
「それも前に言われたな」
「何度でも言います」
透羽の声は強くなかった。
ただ、譲る気もなさそうだった。
玄兎は少し笑った。
「じゃあ訂正。怖いけど、行く」
「それで十分です」
小毬も頷いた。
「私も怖いです。でも、昨日よりはやること分かってます」
「私は怖いっていうより、忙しくなりそうなのが嫌かな」
千燈が言う。
「それはそれで正直ですね」
「だって明日、たぶん四十分から一時間ほぼ休めないでしょ。終わったあと、全身筋肉痛みたいになりそう」
「先輩、能力使って筋肉痛になるんですか?」
「比喩だよ、小毬ちゃん」
「そうなんですね」
小毬が真面目に頷く。
千燈はその反応に笑った。
重くなりかけた空気が少しだけ戻る。
その時、透羽の端末が短く鳴った。
全員の視線が向く。
透羽が画面を見る。
「北側で記憶像が二件追加。どちらも一般人は避難済みです」
「怪我人は?」
玄兎が聞く。
「増えていません」
「ならよかった」
透羽は端末を伏せた。
ほんの十秒のやり取り。
それでも、部屋の外では今も街がおかしくなり続けていることを、全員が思い出した。
明日は本当に必要なのだ。
◇
装備確認が一通り終わったのは九時前だった。
透羽はチェック項目を最後まで読み上げ、全員の役割をもう一度確認した。
小毬が最初に流れの輪郭を分ける。
千燈が感情と記憶の向きを読む。
依澄が夢と現実の行先を分ける。
透羽が危険なものを止めて流量を調整する。
玄兎は帰巣標識を基準座標として、分けられた流れをそれぞれの出口へ導く。
誰か一人が欠けても成立しない。
以前なら、その事実は玄兎を不安にさせたかもしれない。
自分一人なら、自分の失敗だけで済む。
誰かに任せれば、その人が間違える可能性も受け入れなければならない。
でも、今は違った。
全員の役割が必要だということが、むしろ安心できる。
「確認終わり?」
千燈が訊く。
「第一回は」
「第一回?」
玄兎が顔を上げる。
「食事後に、もう一度だけ最終確認します」
「まだあるんだ」
「装備を動かしたあと、配置が変わっていないか見ます」
「透羽、ピザ食べるだけで装備壊さないよ」
「何が起きるか分かりません」
「ピザに対する警戒心高すぎない?」
千燈が笑う。
「というわけで、注文しよっか」
「もう決定なんですね」
透羽は少し呆れていたが、反対はしなかった。
玄兎がスマートフォンで近所の店を開く。
「何頼む?」
「肉!」
小毬は早かった。
「それは種類じゃなくて方向性だよ」
千燈が言う。
「じゃあ照り焼きチキンと、ソーセージ多いやつ」
「二枚とも肉になってる」
「五人いるので大丈夫です」
「透羽は?」
「野菜があるものを一枚お願いします」
「健康担当」
「バランスです」
「依澄は?」
「チーズ」
「全部チーズあるけど」
「いっぱいの」
「四種チーズ系かな」
依澄が頷く。
千燈は辛いものを選んだ。
結局、大きめのピザを四枚頼むことになった。
「食べ切れる?」
玄兎が不安になる。
小毬が胸を張る。
「大丈夫です」
「その一言だけは信頼できるな」
「どういう意味ですか」
「食事に関しては実績あるから」
「褒められてます?」
「たぶん」
注文を終えると、部屋に妙な空白ができた。
装備確認は終わった。
次にすることがなくなった。
明日の準備という目的で集まったのに、準備が途切れた瞬間、全員が少し困ったように見えた。
誰かが「怖い」と言えば、全員が真面目に聞く。
でも、誰も今はそこから始めようとはしなかった。
千燈がテレビのリモコンを取る。
「何かつける?」
「見たいものある?」
「ニュースはやめとこ。今日の異常、設備不良とか蜃気楼とか、いろんな説明つけられて出てると思うし」
「じゃあバラエティ?」
「それで」
適当にチャンネルを変える。
芸人が地方の食堂を回る番組だった。
誰も集中して見てはいない。
それでも音があるだけで、部屋が少し普通になった。
◇
ピザが届くまで、玄兎と千燈は空になった装備箱を壁際へ寄せた。
「そこ、持つよ」
千燈が言う。
「大丈夫。軽い」
「明日重要人物なんだから、腰やったら困るでしょ」
「そんな重くないって」
「じゃあ半分」
二人で箱を持ち上げる。
狭い部屋の中を数歩移動するだけの作業だった。
それでも千燈は、箱を置いたあとすぐ手を離さなかった。
「玄兎くん」
「何?」
「明日終わったら、私にも付き合ってよ」
「何に?」
「昼間の店」
玄兎は少し考える。
「この前言ってた地下の喫茶店?」
「そこも行きたいけど、今度は地上」
「昼、大丈夫?」
「完全にはね」
千燈は窓の外を見る。
「でも夢の中では普通に歩けたじゃん」
「うん」
「あれ、結構よかったんだよね。日傘とか時間とか気にしないで、みんなと同じように店入って」
「じゃあ練習する?」
「うん。無理ならすぐ地下へ逃げる」
「それなら付き合う」
「約束ね」
「明日の後?」
「明日の後」
千燈はいつものように笑った。
でも、その笑顔は少しだけ静かだった。
「先輩も怖い?」
玄兎が聞く。
「少し」
「さっき忙しい方が嫌って言ってたのに」
「それも本当」
千燈は肩をすくめる。
「でも、明日何かあったら、もう昼間を歩く練習どころじゃないからね」
「そうだな」
「だから予定を入れとく」
「透羽も同じこと言いそう」
「帰ってくる前提で予定を立てる、って?」
「うん」
「それ、たぶん今の私たちには大事だよ」
千燈はそう言って、いつもの軽い調子に戻った。
「あと玄兎くん、明日死んだら怒るから」
「戻れないのに?」
「だから怒る」
「了解」
「軽い」
「本気で了解してる」
「ならよし」
その時、玄関のチャイムが鳴った。
「ピザ!」
小毬の声が部屋の奥から飛ぶ。
千燈が笑う。
「話の締めが全部食べ物になるね」
「小毬がいるからな」
◇
四枚の箱をテーブルへ並べる。
蓋を開けた瞬間、チーズと焼けた生地の匂いが部屋いっぱいに広がった。
「いい匂い」
依澄が少し身を乗り出す。
「夢のピザより?」
玄兎が訊く。
「夢でピザ食べた?」
「食べた気がする」
「夢の後半、何でもやってたからな」
透羽が飲み物を並べ、小毬が取り皿へピザを移し始める。
「白狼院さん、一人二切れずつからです」
「分かってます!」
「その皿、三切れありますけど」
「これはあとで食べる分です」
「今取る必要あります?」
「なくなるかもしれないので」
「誰に取られるの」
千燈が聞く。
「千燈先輩です」
「私?」
「この前、玄兎先輩の唐揚げ先に取ったので」
「まだ覚えてるの?」
「食べ物のことは覚えてます」
「強い」
玄兎は笑いながら自分の分を取った。
食べ始めると、会話はもっと普通になった。
大学の講義。
小毬が提出期限を一日勘違いしていた課題。
千燈が最近見つけた喫茶店。
依澄が現実の海へ行くなら、今度こそ写真を残したいという話。
透羽が夢で選んだ水着を、本当に買うのかどうか。
「まだ買いません」
透羽は何度目か分からない返事をする。
「海へ行く日決まったら?」
千燈が訊く。
「その時に考えます」
「玄兎くんにまた選んでもらう?」
「自分で選びます」
「絶対?」
「……必要なら意見は聞くかもしれません」
「お」
「千燈先輩、そこだけ拾わないでください」
透羽の耳が少し赤くなる。
玄兎は笑った。
「俺、前と同じ答えになると思うよ」
「聞いていません」
「白と青」
「だから聞いていません」
「透羽先輩、耳赤いです」
「白狼院さん」
「はい」
小毬はまったく反省していない顔で笑っている。
依澄が玄兎を見る。
「私は?」
「何が?」
「水着」
「依澄も前の似合ってたよ」
「現実で選ぶ?」
「必要なら」
「じゃあ一緒に行く」
「買い物?」
「うん」
千燈がすぐ反応した。
「それデート?」
「買い物」
依澄は真顔だ。
「二人ならデートって言うんじゃない?」
「じゃあデート」
「決めるの早いな」
玄兎が笑う。
小毬がすぐ手を上げた。
「私も水着買います!」
「五人で行けば?」
「それだとデートじゃないです!」
「さっき買い物って言ってたのに」
透羽まで小さく笑った。
その笑顔を見た瞬間、玄兎は少しだけ胸が詰まった。
明日の夜も、こうして笑える保証はない。
考えないようにしているのではない。
全員、分かっている。
ただ、今はその可能性を主役にしたくないだけだった。
その時、窓の外が一瞬だけ明るくなった。
「花火?」
小毬が振り返る。
音はしない。
隣の建物の壁へ、夏祭りの花火が半透明に映っていた。
赤。
青。
金色。
三発ほど上がり、消える。
現実の空には何もない。
依澄が窓を見る。
「記憶」
「増えてる?」
玄兎が訊く。
「少し」
透羽が端末を確認する。
「予測範囲内です。市内西側で祭りの記憶像が出ています。避難区域外への拡大はなし」
小毬が窓から離れる。
「綺麗なのに、怖いですね」
「うん」
玄兎も見た。
「でも、明日ちゃんと戻せたら、本物の花火も見に行ける」
「海のあと?」
「夏のうちなら」
「行きたいです!」
小毬の顔がすぐ明るくなる。
千燈が笑う。
「予定増えるね」
「いいだろ」
玄兎は言った。
「明日の後の予定なら、いくらでも」
◇
食事が半分ほど進んだ頃、小毬が急に玄兎を見る。
「先輩」
「何?」
「明日も群れ、五人ですよね」
玄兎は少し驚いた。
「もちろん」
「途中で誰か一人だけ残るとか、なしですよね」
「なし」
「先輩も?」
「俺も」
「透羽先輩も?」
「私もです」
「千燈先輩」
「帰るよ」
「依澄先輩」
「一緒に帰る」
小毬はそれを聞いて、ようやくピザを一口食べた。
「じゃあいいです」
「確認したかった?」
玄兎が訊く。
「はい」
小毬は少しだけ視線を落とす。
「私、群れって言ってますけど、前は『守る側』にならなきゃって思うこともあったんです。自分が後輩だから、役に立たないといけないとか」
「十分役に立ってるよ」
「それは分かってます」
「自信あるな」
「あります」
小毬は少し笑う。
「でも、明日は役に立つために残るんじゃなくて、帰るために頑張ります」
玄兎はその言葉を聞いて、少しだけ頷いた。
「それがいい」
「先輩もそうしてください」
「分かった」
「本当に?」
「本当に」
「じゃあ、約束です」
「うん」
小毬は満足そうに、次の一切れへ手を伸ばした。
「それ三切れ目じゃない?」
「明日のためです」
「万能だな、その理由」
◇
ピザの箱がほとんど空になった頃、依澄は窓際に座っていた。
玄兎が空いた紙皿をまとめていると、依澄が呼ぶ。
「玄兎」
「何?」
「明日の朝」
「うん」
「起こして」
「同じ部屋で寝るなら?」
「うん」
「普通に起こすよ」
依澄は窓の外を見る。
「夢で起こすんじゃなくて」
「現実で?」
「うん」
「分かった」
「名前呼んで」
「依澄って?」
「そう」
「それだけ?」
「それがいい」
玄兎は紙皿をゴミ袋へ入れながら笑う。
「依澄、最近そういうの増えたな」
「何が?」
「普通のことを欲しがるの」
依澄は少し考えた。
「前は、普通がよく分からなかった」
「今は?」
「玄兎たちが毎日やってること」
「それ全部普通とは限らないよ。怪異退治とか」
「それは違う」
「分かってるんだ」
「分かる」
依澄は玄兎を見る。
「夢なら、明日の朝を作れる」
「うん」
「でも明日は、作らない」
「本物の朝?」
「うん」
玄兎は少しだけ真面目な顔になる。
「じゃあちゃんと起こす」
「約束」
「約束」
依澄はそれで満足したように頷いた。
ほんの短いやり取り。
でも玄兎には、少し前、依澄と手を取り合い、長い夢の中で「一緒に起きよう」と決めた時とは、似ているようで少し違う意味に思えた。
あの時は、何もかもが都合よく続いていく夢を終わらせて、不完全でも自分たちで続きを選べる現実へ戻るために目を覚ました。依澄も玄兎に従っただけではなく、自分の意思で「起きたい」と答えた。
今度は、夢を終わらせるために起きるのではない。
最初から現実にある明日の朝を迎え、その先へ自分たちの足で進むために起きる。
◇
十時半を過ぎると、会話の間隔が少しずつ長くなった。
小毬はさっきまで元気だったのに、壁へ背を預けたまま目をこすっている。
「眠い?」
玄兎が訊く。
「ちょっとだけです」
「昨日もあんまり寝てないだろ」
「準備してたので」
「今日は寝なよ。透羽、あと何分?」
「最終確認は十分もかかりません」
「じゃあ小毬、そこまで頑張る?」
「頑張ります」
そう答えた五分後。
小毬は座ったまま眠った。
頭が少しずつ横へ傾き、最後には依澄の肩へ乗る。
依澄はそのまま動かなかった。
「寝た」
「早いな」
千燈が声を落とす。
「朝から走り回ってましたから」
透羽も小さな声になる。
小毬の手には、明日の装備確認表がまだ握られていた。
玄兎がそっと抜き取る。
「ベッド使わせる?」
「起こさない方がいい」
依澄が言う。
「でも依澄、そのままだと動けないぞ」
「大丈夫。重くない」
小毬が聞いたら怒りそうな言い方だった。
玄兎は薄い毛布を持ってきて、小毬へかける。
その姿を見ているうちに、部屋の雰囲気が変わった。
さっきまでは本当に楽しかった。
でも一人が眠っただけで、残った四人は急に声を張る理由を失った。
テレビはついている。
画面の中では誰かが旅館の料理を食べている。
外では遠くを救急車が通った。
サイレンが近づき、少しずつ遠ざかっていく。
誰も口にしなかった。
今日の異常と関係があるのかもしれない。
関係ないのかもしれない。
それでも、いつもより長く耳に残った。
千燈が空の紙コップを指で回す。
「明日さ、終わったら何しようか」
「海?」
玄兎が答える。
「それ依澄案でしょ」
「私は行く」
依澄が言う。
「じゃあ海でもいいけど、すぐは疲れてると思う」
「翌日は寝たいです」
透羽が珍しく即答した。
千燈が笑う。
「透羽ちゃんでもそう思うんだ」
「当然です。作戦後の検査もありますし」
「じゃあ二日後」
「まだ早いです」
「一週間後?」
「それなら検討できます」
「予定立ててる」
玄兎が言う。
透羽は一瞬黙ってから、静かに答える。
「立てた方がいいでしょう」
それが明るい意味だけではないことを、玄兎は分かっている。
明日の後の予定を作る。
帰ってくる前提で。
以前の自分なら、そんな予定を口にすること自体、どこかで避けていたかもしれない。
死んでも戻るから。
だから次の約束に重みを感じないふりができた。
今は違う。
明日の約束は、明日へ帰る理由になる。
「じゃあ一週間後、海候補」
「天気も見ないと」
「そこは現実的」
「現実なので」
「夢の海は天気よかったな」
依澄が言う。
「夢は都合よくできるから」
「現実も晴れたらいい」
「晴れるといいな」
千燈が窓を見る。
街灯が小さく並んでいる。
その向こうで、今度は建物の輪郭が一瞬だけ古い木造家屋へ変わった。
数秒。
元へ戻る。
「まだ増えてるね」
千燈の笑みが少し消える。
「今のところ予測範囲内です」
透羽は端末を見る。
「ただし、中央拘束率は下がり続けています」
数秒、誰も話さなかった。
依澄の肩で眠る小毬の呼吸だけが聞こえる。
「怖い?」
依澄が誰ともなく訊いた。
千燈が先に答える。
「少しね」
「私も」
透羽も言う。
玄兎は驚かなかった。
「俺も」
誰も「大丈夫」とは言わなかった。
その代わり、千燈がゆっくり息を吐く。
「まあ、怖いからって明日なくなるわけじゃないし」
「なくならない」
依澄が言う。
「明日、来る」
「そうだね」
千燈は少し笑った。
「じゃあちゃんと寝ないと」
その言葉で、ようやく時間が進んだ気がした。
◇
十一時を過ぎた頃、小毬を一度起こした。
「白狼院さん。ここで寝るなら、もう少しちゃんと横になってください」
透羽が肩を揺らす。
「ん……起きてます」
「寝ていました」
「目、閉じてただけです」
「三十分?」
「……寝てました」
小毬は素直に認めた。
結局、千燈と小毬は床へ敷いた予備の布団と毛布を使うことになった。
依澄はベッドの端で休むと言い張ったが、玄兎が「俺が床でいい」と言うと、透羽がすぐ止めた。
「玄兎は明日、中央基準座標になります。睡眠環境を優先してください」
「それ言ったら全員重要だろ」
「だから全員、できるだけ寝ます」
「じゃあどうする?」
少し揉めた結果、依澄はベッドの壁側、玄兎は反対側へ入ることになった。
間には大きめのクッションを置く。
「修学旅行みたい」
千燈が笑う。
「大学生だけどね」
「大学生でも合宿はあるよ」
「これは合宿?」
依澄が訊く。
「最終作戦前合宿」
千燈が言う。
「名前重いな」
「内容も重いから」
それでも笑えた。
透羽だけは「私は椅子で」と言い張ったので、玄兎が折り畳みマットをもう一枚出す。
「これ使って」
「玄兎が持っていたんですか」
「前にみんな来た時、床きつかったから買った」
「いつの間に」
「ちょっと前」
透羽はマットを見る。
「……ありがとうございます」
「明日使う人が椅子で寝るのは無しね」
「分かりました」
照明を落とす。
部屋は完全な暗闇にはならない。
カーテンの隙間から街灯の光が入り、床へ薄い線を作っている。
「おやすみなさい」
小毬の声が最初だった。
千燈、依澄、透羽も順番に返す。
玄兎も最後に「おやすみ」と言った。
そのまま眠れると思った。
けれど、目を閉じると明日の術式図が浮かぶ。
流れ。
分岐。
透羽の水。
小毬の匂い。
千燈の記憶。
依澄の蝶。
そして、自分へ向かってくる無数の帰巣反応。
胸の痣が熱くなる想像まで、妙に鮮明だった。
玄兎は目を開ける。
隣では依澄がすでに静かな寝息を立てていた。
床の方から小毬の呼吸も聞こえる。
千燈もいつの間にか眠ったらしい。
透羽の方を見る。
暗がりの中で、彼女も目を開けていた。
視線が合う。
「起きてる?」
玄兎が小声で訊く。
「はい」
「眠れない?」
「少し」
「同じ」
透羽は身体を起こした。
「水を飲みます」
「俺も行く」
二人はなるべく音を立てずに立ち上がった。
◇
キッチンと呼ぶには狭い流し台の前で、玄兎は二つのコップへ水を入れた。
一つを透羽へ渡す。
「ありがとう」
「どういたしまして」
透羽は一口飲む。
玄兎も飲んだ。
冷たい水が喉を通る。
部屋の奥では三人が眠っている。
テレビも消えている。
静かな夜だった。
「透羽」
「何ですか」
「明日、怖い?」
さっき全員の前でも聞いたことだ。
透羽は少し考えた。
「怖いです」
今度の返事は、さっきより小さかった。
「何が一番?」
「全部、という答えでは駄目ですか」
「いいよ」
「作戦が失敗すること。市内へ被害が出ること。私が判断を間違えること。玄兎へ流れが集中すること。誰かの能力が途中で限界になること」
透羽はコップを見つめる。
「それから、終わったあとに何かが変わりすぎることも、少し怖いです」
「変わりすぎる?」
「《百獣繭》がなくなれば、今までの前提がかなり変わります。私の役目も、鷺宮家との関係も。玄兎の《還月》も」
「監視役、本当に終わるかも」
「もう、ほとんど終わっています」
「そうだった」
玄兎は笑う。
透羽も少しだけ笑った。
「今日、管理側の人に言われたでしょう。私情が入っている、と」
「うん」
「昔の私なら、否定したと思います」
「私情なんてありません、って?」
「はい。任務と判断だけで動いていると」
「今は?」
「あります」
透羽は躊躇せずに言った。
「玄兎に生きてほしいと思っています。私情です」
昼間にも聞いた言葉。
でも、二人だけの静かな部屋で聞くと意味が違って聞こえた。
「それ、俺は嬉しかったよ」
「管理判断としては、喜んでいいことではありません」
「でも人としては?」
透羽は玄兎を見る。
「……人としてなら、そう言ってもらえる方が嬉しいです」
玄兎は少し笑った。
「じゃあ俺も私情ある」
「何ですか」
「透羽に無理してほしくない。小毬も、千燈先輩も、依澄も。全員帰ってほしい」
「それは私も同じです」
「明日の作戦、五人じゃないとできないって分かって、前より安心したんだ」
「普通は不安になるところでは?」
「前ならそうだった。でも今は、自分だけで何とかしなくていいって分かるから」
透羽はしばらく玄兎を見る。
「本当に変わりましたね」
「良い方に?」
「はい」
「ならよかった」
透羽はコップを持ったまま、流し台へ少し寄りかかる。
「最初は、玄兎を監視することが私の役目でした」
「うん」
「何か起きれば止める。必要なら処分する。そのつもりで大学へ来ました」
「最初の日、かなり怖かったよ」
「私もです」
「透羽が?」
「はい。玄兎が本当に人間なのか分からなかったので」
「今は?」
透羽はすぐに答えなかった。
「今は、監視端末を見るより先に玄兎本人を見てしまうことがあります」
「それ、仕事としては駄目じゃない?」
「駄目です」
「認めた」
「でも、端末より玄兎の顔色の方が早く分かることもあります」
「それは監視の熟練?」
「違います」
透羽が少しだけ困った顔をした。
「たぶん、もう監視ではありません」
玄兎は何も言わずに待つ。
「明日、《百獣繭》がなくなれば、私が玄兎の隣にいるための任務上の理由は完全になくなるかもしれません」
「うん」
「それが、少し怖かったんです」
「いなくなる?」
「違います」
透羽は即座に否定した。
「理由がなくなっても、私は隣にいたい。そう思っていることが、前よりはっきりするからです」
玄兎の胸が少し速くなる。
以前、透羽はもう言っている。
監視役だからではない。
任務だからでもない。
自分がそうしたいから隣にいる。
その続きが、今ここにある。
「俺も」
玄兎が言う。
「何がですか」
「透羽が隣にいるの、もう監視だと思ってないよ」
「そうですか」
「むしろ、いなくなる方が困る」
透羽の目が少し揺れる。
「それ、前にも言ってくれましたね」
「何回言ってもいいだろ」
「はい」
透羽は小さく笑った。
その笑顔を見て、玄兎は思う。
明日が怖い。
でも、終わった後の話をしたい。
今ここで全部言ってしまうのではなく。
明日の続きを残したい。
「透羽?」
「玄兎」
二人がほぼ同時に呼んだ。
玄兎は少し笑う。
「先どうぞ」
透羽は一度、コップへ目を落とした。
それから顔を上げる。
「……明日が終わったら、話したいことがあります」
声は静かだった。
玄兎は一瞬だけ、何のことか分からなかった。
でも彼女の表情を見れば、ただの作戦報告や鷺宮家の話ではないと分かる。
「今じゃ駄目?」
「駄目です」
「即答」
「帰ってきた後に言いたいので」
玄兎は透羽を見る。
暗い部屋。
流し台の小さな明かり。
三人の寝息。
遠くでは、今も街が壊れかけている。
だから今言う、という考え方もある。
最後になるかもしれないから。
言い残さないために。
でも透羽は逆を選んだ。
今は言わない。
明日が終わったあとに言う。
続きがあることを前提にする。
「分かった」
玄兎は答えた。
「聞くために帰ってくる」
透羽の目が少し揺れる。
「それだけが理由では困ります」
「もちろん。他にもいっぱいあるよ」
「例えば?」
「海。大学。ユン。シオリ。千燈先輩の昼の店。依澄を朝起こす約束。小毬とも全員で帰るって約束した」
透羽は少し驚いた。
「いつの間にそんなに増えたんですか」
「今日」
「今日だけで?」
「明日の後の予定、いっぱい作ったから」
「……そうですか」
「あと、透羽が何を言うのか聞きたい」
透羽は少し目を伏せた。
「なら、忘れないでください」
「明日の約束?」
「はい」
「忘れない」
「もし《還月》がなくなっても?」
「それと記憶は別だろ」
「そうですが」
「じゃあ透羽も忘れないで」
「何を?」
「俺が聞くって言ったこと」
「忘れません」
玄兎は右手を出しかけた。
指切りでもしようと思った。
でも途中で少し恥ずかしくなり、止める。
透羽がその動きを見た。
「何ですか」
「いや、約束っぽいことしようかと思ったけど、大学生が指切りはどうかなって」
「別にいいのでは」
「いいの?」
透羽が小指を出した。
玄兎は笑って、自分の小指を絡める。
ほんの数秒。
「子供みたいだな」
「約束に年齢制限はありません」
「透羽がやると妙に真面目だ」
「玄兎が言い出したんでしょう」
「そうだけど」
指を離す。
それだけのことなのに、明日の予定表へ新しい項目が一つ増えたような気がした。
十五時、最終作戦。
そのあと。
透羽の話を聞く。
「戻ろう」
透羽が言う。
「部屋の中だけど」
「寝る場所へ、です」
「ああ」
二人は小さく笑った。
◇
布団へ戻る前、玄兎は机の上の手帳を開いた。
明日の欄。
『13:30 旧研究棟』
『15:00 最終作戦』
その下へ、新しく一行書く。
『終わったら、透羽の話を聞く。』
少し考えて、さらに書き足した。
『依澄を朝起こす。』
『全員で帰る。』
『その後、海。千燈先輩の昼の店。花火も候補。』
「多いですね」
後ろから透羽の声がした。
「忘れないため」
「明日の予定表というより、今後の予定表になっています」
「いいだろ」
「……はい」
透羽は少し照れたように笑う。
玄兎は手帳を閉じた。
今日の夜は、特別なことをしたわけではない。
ピザを食べた。
小毬が食べすぎた。
千燈と昼の店へ行く約束をした。
依澄を朝起こす約束をした。
透羽と、明日の後に話す約束をした。
装備を確認し、布団の場所で少し揉めた。
外では、季節外れの花火や古い家の記憶が浮かんだ。
救急車の音も聞こえた。
明日、街の境界を作り替えるかもしれない五人の夜としては、あまりにも普通だった。
でも玄兎は、それでよかった。
大きな決意を叫ばなくていい。
最後かもしれない言葉を残す必要もない。
最後になる前提で過ごすのではなく、明日の続きを前提にして今日を終える。
ベッドへ戻る。
依澄はまだ薄く目を開けていた。
「依澄」
「うん」
「明日の朝、起こすから」
「名前で?」
「ちゃんと名前で」
依澄は安心したように目を閉じる。
「じゃあ寝る」
「おやすみ」
「おやすみ、玄兎」
床では小毬がすでに眠り、千燈も静かな呼吸をしている。
透羽もマットへ横になった。
「おやすみ」
玄兎が小さく言う。
「おやすみなさい」
透羽が返した。
今度は目を閉じる。
明日が来る。
怖くても、来る。
そして明日の夜もまた誰かに「おやすみ」と言えるように帰ってくる。
玄兎は、増えすぎた明日の約束を胸に置いたまま、ゆっくり眠りへ落ちていった。
――第三十四話・了