翌朝、大学へ向かう電車の中で、玄兎は知らない教室を見た。
正確には、窓の外ではない。
車内のガラスへ映り込んだ自分の肩越しに、古い木製の机が並んだ教室が重なっていた。黒板には白いチョークで日付が書かれ、窓際の薄いカーテンが、そこには存在しない風を受けてゆっくり揺れている。
制服姿の生徒らしい影が数人いる。
誰もこちらを見ていない。
授業中なのか、放課後なのかも分からない。
ただ一人、窓際の席に座った少女だけが、開いたノートへ何かを書き続けていた。
玄兎が瞬きをする。
教室は消えた。
窓の向こうには、いつもの住宅街が流れている。
隣に座っていた依澄へ顔を向けると、彼女も同じガラスを見ていた。
「今の、見えた?」
「うん。夢。でも私のじゃない」
「前よりはっきりしてた」
「向こうと、こっちが近いから」
依澄は窓へ指先を触れそうになって、途中で止めた。
「前は重なるだけだった。今は、入り口になりかけてる」
その言葉が終わるより早く、玄兎のスマートフォンが震えた。
透羽からのメッセージだった。
『大学へ着いたら、正門ではなく旧研究棟へ来てください。市内各所で夢層・記憶層・怪異層の漏出が同時発生しています。一般人にも明確な視認例が出始めています。』
続いて小毬から写真が送られてきた。
現在はドラッグストアになっている建物の前へ、古い文房具店が半透明に重なっている。店へ入ろうとして道路へ出かけた人を止めた、と短く添えられていた。
千燈からも続けて届く。
『南側の駅前にも昔のホームが出てる。一般人にも見えてる。私はこっち対応してから行く。』
玄兎は画面を見ながら息を吐いた。
昨日、シオリを外へ出し、夢と記憶もそれぞれの場所へ返せた。
方法は間違っていない。
それでも《百獣繭》の崩壊は待ってくれなかった。
「千燈先輩の方へ寄ろう。道路に出てるなら、人手あった方がいい」
「透羽に言う」
玄兎は透羽へ現在地と行先を送る。
返事は一分もしないうちに来た。
『分かりました。そちらが片づいたら、千燈先輩と三人で旧研究棟へ来てください。』
玄兎は画面を依澄へ見せた。
次の駅へ電車が入る。
扉が開く。
二人は、人の流れへ混じってホームを降りた。
◇
南側の駅前へ着いた時、道路の一部が見えなくなっていた。
消えたのではない。
別の時代が重なっている。
現在の片側二車線の道路の上へ、古い駅のホームが斜めに突き出していた。
錆びた柱。
黄色く変色した案内板。
木製のベンチ。
黒い線路。
さらにその奥には、今は存在しない小さな改札まで見える。
玄兎たちには、かなりはっきりしていた。
問題は、一般人にも中途半端に見えていることだった。
「そこ入らないでください! 足元だけ見て!」
千燈の声が飛ぶ。
高齢の男性が、昔のホームへ上がろうとするように一歩前へ出ていた。
本人には、道路ではなく階段が見えているらしい。
千燈は腕を掴まず、正面へ回って進路を塞ぐ。
「駅はこっちじゃないです。今見えてるものと、実際の足元がずれてます。私の方へ来てください」
「でも……ここ、昔の駅だよ。私はこの駅を知ってる」
「知っていても、今は道路です。否定しないから、まず安全な場所へ移りましょう」
玄兎と依澄が駆け寄る。
「千燈先輩!」
「助かった。玄兎くん、この人を歩道へ。依澄、足元の夢だけ薄くできる?」
「やる」
依澄の周囲へ薄紫の蝶が三羽現れた。
夢を壊すのではない。
現実と重なっている部分だけを少し離す。
古いホームの輪郭が揺れ、その下のアスファルトが透けて見えた。
高齢の男性が足を止める。
「……道路?」
「はい」
玄兎は急かさず、男性の横へ立つ。
「今はこっちが本物です。ゆっくりで大丈夫なんで、歩道まで行きましょう」
男性は何度も古いホームを振り返りながら、それでも玄兎と一緒に歩道へ戻った。
周囲には他にも十数人が立ち止まっている。
駅員。
警察官。
スマートフォンで撮影している若者。
そのうち二人が、ほとんど同じ位置から撮った画面を見比べていた。
「そっち、ホーム映ってる?」
「半分だけ。人はいない。そっちは?」
「ホームは消えてる。なんか黒い影だけある」
玄兎も横目で確認した。
肉眼では錆びた柱も木製のベンチも、その奥の男の影まで見えている。だが一方の画面には古いホームの端だけが映り、もう一方には現在の車道へ滲んだ黒い影しか残っていない。
何も見えていないらしく「何があるんですか」と不思議そうに聞く人。
そして。
道路の反対側を見ながら泣いている若い女性。
「お父さん……」
玄兎は視線を追った。
古いホームのベンチ。
そこに、一人の男が座っていた。
四十代か五十代。
顔はよく見えない。
ただ、女性には分かるらしい。
「去年、亡くなったんです」
女性は誰に説明するでもなく呟いた。
「入院してて……最後、会えなくて。それなのに、今……」
男の影が少しだけこちらを向く。
女性が一歩前へ出る。
「待って」
玄兎がすぐ横へ立った。
「父なんです。絶対……」
玄兎は「違います」と言えなかった。
記憶か、夢か、別の怪異が記憶を借りているのか。今ここで断定する材料はない。
「見えてること自体は否定しません」
女性が玄兎を見る。
「でも、あそこへ行くには車道を渡ることになります。今は近づかないでください」
「でも、もし本当に父だったら」
「行って確かめたいのは分かります。だから安全な場所から見ましょう。近づくのは、何が起きてるか分かってからです」
女性の目から涙が落ちる。
「また、会えなくなるかもしれない」
その言葉が刺さった。
玄兎は一瞬だけ、答えを失った。
会いたい。
最後に一度だけでも。
それがどれほど強い願いになるかは、今まで何度も見てきた。
それでも。
「それでも、今ここであなたが怪我したら、お父さんに会えたことにはならないと思います」
女性はしばらく黙った。
やがて、小さく頷く。
「……はい」
その時、千燈の烏が上空で大きく鳴いた。
「車来る!」
依澄の蝶が低く飛ぶ。
古いホームの床だけが薄くなり、現実の車道が露出する。
車が通過した。
運転手には古い駅が見えていない。
玄兎は背筋が冷たくなった。
「これ、かなりまずいな」
千燈が近づいてくる。
「見える人と見えない人が、同じ場所を別の地形だと思って歩いてる」
「南側だけ?」
「全然」
千燈はスマートフォンを見せる。
鷺宮家から共有された市内地図では、大学周辺から住宅地、駅前まで赤い点が一気に広がっていた。異常報告は、十分ほどで倍近くに増えている。
「増え方が昨日までと違う」
「うん。透羽ちゃんから、昨日の実験が原因じゃないって先に連絡来た」
千燈は真面目な顔になる。
「でもシオリの分離量なんて、《百獣繭》全体から見たら誤差以下。夢と記憶を返した量も同じ。それより中央構造の方が、限界を越えて勝手に崩れ始めてる」
依澄が地図を見る。
「繭、ほどけてる」
依澄は首を横に振る。
「行先を決めないで、破れてる」
玄兎は古いホームを見る。
ベンチに座っていた男の影は、いつの間にか消えていた。
女性は泣いている。
それでも、車道へ飛び出さずに歩道へ立っている。
「行こう」
千燈が言った。
「ここは応援が来る。大学に集まれって」
「うん」
玄兎は周囲をもう一度確認した。
まだ大きな怪我人はいない。
でも、この規模が続けば必ず出る。
正しいことと、間に合うことは別だった。
◇
大学へ向かう途中にも、異常は続いた。
向かいのビルが一瞬だけ古い木造校舎へ変わり、コンビニのガラスには店内ではなく夕方の海が映る。見えている人と見えていない人が同じ歩道を歩いていることの方が、怪異そのものより危なかった。
大学の一つ手前の交差点で、スマートフォンを持った学生が青ざめて立ち止まっていた。
「何これ……」
カメラの画面だけに、歩道へ十人ほどの人影が映っている。そのうち一人は、学生のすぐ後ろに立っていた。
学生が振り返る。現実には誰もいない。
「撮るの、いったんやめた方がいい」
玄兎が声をかけると、学生は怯えた顔を上げた。
「これ、何なんですか」
「今、街中で似たことが起きてる。全部が襲ってくるわけじゃない。でも、見えてる道と本当の道路がずれてることがある。追いかけたり触ったりしないで、足元を見て帰って」
学生は何度か画面と玄兎を見比べ、やがてスマートフォンを下ろした。
歩き出してから、依澄が『全部、敵って言わなかった。よかった』と言った。千燈も頷いた。
怖いから全部閉じ込める。
そのやり方へ戻らないためにも、間に合わせなければならなかった。
◇
旧研究棟地下には、玄兎たちが着く頃には鷺宮家と大学側の人間が集まり、久住教授もモニターの前にいた。
中央のモニターには、市内地図と《百獣繭》の構造図が並んでいる。
赤い点は、さっき見た時より増えていた。
透羽は玄兎たちが入るとすぐ説明を始めた。
「一般人に見える漏出は九十か所を超え、すでに軽傷者も出ています。それに、今朝から中央構造の劣化そのものが加速しています」
モニターでは、一か所の破断が周囲を弱らせ、次の破断を呼ぶ連鎖が始まっていた。
「このままなら、二十四時間以内に大規模漏出へ移る可能性があります」
「昨日分離したシオリも、夢層へ返した断片も安定しています。今の速度では崩壊に間に合いません」
千燈が腕を組んだ。
「二か月分の仕事を、一日でやれってこと?」
「今の方法のままでは不可能です」
その時。
部屋の奥から声がした。
「だから、緊急安定化案を再検討する必要があります」
五十代ほどの男性が、机の前へ出てきた。
黒いスーツ。
鷺宮家の術者というより、管理部門の人間らしい整った身なり。
玄兎は以前、一度だけ会った記憶があった。
名前までは覚えていない。
男性は玄兎へ敵意を向けていない。
むしろ、必要以上に穏やかな顔をしていた。
「鵺代玄兎君。まず確認しておきたい。これから話す案は、君の人権や安全を軽視して出すものではない」
その前置きだけで、玄兎は嫌な予感がした。
「はい」
「だが、我々には市民を守る責任もある」
机の上へ、一枚の資料が置かれる。
難しい術式図。
中央に玄兎の名前。
『外部器完全接続』
『帰巣系統再統合』
『緊急中央安定化』
透羽の表情が変わった。
「その案は、以前却下したはずです」
「平時なら、だ」
男性は透羽を見る。
「今は条件が違う」
玄兎は資料を見る。
内容はほとんど読めない。
でも結論だけは分かる。
「俺を、完全に器へ戻す?」
「そうだ」
男性は誤魔化さなかった。
「君に残っている帰巣標識を中央系へ再接続する。二十年前の処置をそのまま繰り返すわけではない。現在の技術で負担を分散し、可能な限り人格と身体を保護する」
「安全を保証できるとは言わない」
部屋が静かになる。
男性は続けた。
「ただし成功すれば、散在している断片の多くを短時間で中央へ引き戻せる。《百獣繭》の崩壊速度を抑え、市内の漏出も大幅に減らせる可能性が高い」
透羽が口を開く。
「玄兎は、その後どうなりますか」
「中央器として完全固定された場合、通常生活へ戻れる保証はない。記憶や人格への影響も予測できない」
「それを選択肢として提示するんですか」
透羽の声は低かった。
「提示する」
男性の声は変わらない。
「他に同程度の速度で市民被害を止められる案がないからだ」
「昨日の分離方式があります」
「時間が足りない」
「高速化を検討しています」
「完成していない」
透羽が黙る。
男性の言っていることは、事実だった。
「鷺宮。君が彼を守りたいと思っていることは理解している」
男性が呼ぶ。
透羽の目がわずかに動く。
「責めているわけではない。むしろ当然だと思う。ただ、判断に私情が入っていることは自覚しているか」
玄兎は透羽を見る。
透羽はすぐには答えなかった。
「……入っています」
認めた。
「玄兎に生きてほしいと思っています。任務上の判断だけではありません」
「なら、その私情と市民の安全を分けて考える必要がある」
「分かっています」
「現時点の数字では、彼一人を完全器へ移行させる案が、最も短時間で被害予測を下げられる」
小毬が立ち上がりかける。
「一人って言いますけど――」
千燈が腕を伸ばして止めた。
「小毬ちゃん。聞こう」
「でも」
「聞いた上で反対した方が強い」
小毬は唇を噛み、それでも座り直した。
男性は千燈へ一度目を向け、また玄兎を見る。
「君が拒否する権利はある」
その言葉に、玄兎は少し驚いた。
「強制はしない?」
「少なくとも私は、強制して成立する処置だとは考えていない。君自身の協力が必要になる」
「俺が今、受け入れたら」
「準備済みの系統から順次接続する。中央圧を下げる手段としては、現時点で最も速い」
男性はモニターの市内地図を見た。
「今出ている漏出も、中央が安定すれば弱まる可能性が高い」
机の端末へ、同意欄が表示された。
玄兎はそこへ手を伸ばした。
指先が、署名欄のすぐ上で止まる。
その時、警報音が鳴った。
「南側駅前、再拡大!」
別の職員が声を上げる。
さっきまで玄兎たちがいた地点だった。旧ホームの像が歩道側まで張り出し、避難誘導中の十数人が動けなくなっている。現地映像では、現在の歩道と古い階段が重なり、どちらへ足を出せばいいのか分からなくなっていた。
管理担当の男性が端末を見る。
「完全接続が成立すれば、散っている流れは中央へ引かれ始める。今の規模なら、駅前の重なりも個別対応より先に弱められる見込みだ」
署名欄は、玄兎の指の下にある。
玄兎は端末から手を離した。
「現地映像、大きくできますか」
「玄兎?」
透羽が見る。
「千燈先輩。さっきの烏、まだ駅前にいます?」
「いる。上から見えるよ」
透羽はもう現地班の術式配置を開いていた。
「現地に水術者が二名います。現実側の路面だけなら境界を出せます」
「全部消さなくていい」
玄兎は画面の中の人の流れを見る。
「本物の歩道だけ、分かるようにしてください。古い階段へ行けないように閉じるんじゃなくて、歩ける方を見せる」
透羽が現地班へ指示を送る。
千燈の烏が上空から実際の歩道の端を拾う。透羽がその位置を現地班へ送り、水術者がアスファルトの縁へ細い水の線を走らせた。
古い階段は残っていた。
亡くなった誰かの姿も、消えない。
それでも、水の線の内側には現在の歩道が見えた。
一人。
二人。
現地班に誘導され、人が戻ってくる。
さっき父親の姿を見ていた女性も、最後に一度だけ古いホームを振り返り、水の線を越えずに歩道の奥へ下がった。
全員が退避したところで、現地から報告が入る。
『負傷者なし。誘導完了』
部屋の誰も、すぐには喋らなかった。
管理担当の男性が先に口を開く。
「今の方法を、市内百か所で同時に続けることはできない」
「はい」
玄兎は同意端末を男性の方へ戻した。署名欄は空白のままだった。
「だから二時間ください」
「何をする」
「昨日の分離を、間に合う速さにします。今みたいに一件ずつじゃなくて、まとめて流せる形にする」
「具体案はまだない」
「今から作ります」
男性は玄兎ではなく、残る四人を見た。
小毬はもう紙袋を机の下へ置き、空いたホワイトボードの前へ移動していた。千燈は昨日の観測記録を開く。依澄は夢層のログを呼び出し、透羽は計算画面を新しく立ち上げる。
「二時間だ」
男性が言った。
「それまで完全器案の準備は進める。君たちの案が成立しなければ、再提示する」
「分かりました」
「これは脅しではない。選択肢を残すためだ」
玄兎は頷いた。
男性はそれ以上何も言わず、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
千燈が机を軽く叩いた。
「始めよう」
五人はモニターの前へ集まった。
◇
ホワイトボードの最初の案は、五分で消えた。
「地区ごとにまとめて戻す」
玄兎が書いた案へ、小毬が首を横に振る。
「同じ場所に出ていても匂いが違います。土地のもの、夢、人についてるものが混ざってます」
「百獣繭の中で混ざってから漏れてるなら、出た場所と由来も一致しない」
千燈の指摘で、玄兎は線を引いた。
怪異・夢・記憶の種類でまとめる案も駄目だった。何者かを分類できても、どこへ戻せばいいかが決まらない。
「一体ずつ見れば正確。でも、それじゃ間に合わない」
玄兎が呟く。
千燈は昨日の観測記録を開いた。
「シオリは、何だから外へ出した?」
「旧図書館由来で、現実側にいても安定するから」
「夢の教室は?」
「夢層へ」
「生活音の記憶は、大学の土地へ……」
言いながら、玄兎は気づいた。
千燈がホワイトボードへ向き直る。
「分類する軸、何者かじゃない」
ペン先が走った。
『夢へ帰るもの』
『土地へ帰るもの』
『現実へ定着できるもの』
『危険で外へ出せないもの』
『個人に属し、即時判断できないもの』
「帰る先」
依澄が言った。
「そう。これなら怪異でも記憶でも、同じ流れに乗せられる」
透羽はホワイトボードの線をつなぎ直した。
「五人が一体を囲んで、判定が全部終わるまで待つ方式をやめます。一体ずつ処理を完結させるのではなく、帰る先で大きく分けた複数の流れを同時に走らせる。必要な判定も並行して進めて、条件が揃った流れから外へ出します」
「仕分けを同時進行にする?」
「はい」
「怪異の仕分けセンター」
千燈が言い、小毬が少し笑った。
透羽だけは計算を続けている。
「理論値では昨日の数十倍。ただし、それでも全量を処理するには足りません」
明るくなりかけた空気が止まる。
「じゃあ、速くしていいものだけ先に抜く」
玄兎が言った。
「土地由来の薄い記憶、単純な夢像、低危険度で定着先が明確な怪異。そういう大きな流れを先に外へ出して、複雑なものは残す」
千燈が数字を入れる。
透羽が計算を追い、やがて顔を上げた。
「初期分離で総量の六割から七割を減らせる可能性があります。理論上は、中央圧も下がります」
そこで透羽の視線が玄兎へ移った。
「最大の問題は、複数の流れが競合して玄兎の帰巣標識へ入り込むことです」
「入る前に止める」
「はい。侵入傾向が出た系統は即座に遮断します」
依澄も夢層側の出口を三つに分けた。
「人の夢。場所の夢。形だけ残った夢。これなら通せる」
「記憶も似た分け方にできる」
千燈が言う。
ようやく、図が一本の流れとして見え始めた。
透羽が時計を見る。
「残り一時間十二分です」
「休憩なし?」
「時間が――」
「それ、さっきの管理側と同じ顔してる」
玄兎が言うと、透羽は言葉を止めた。
千燈が吹き出す。
数秒後、透羽は小さく息を吐いた。
「五分だけ休みましょう。疲れたまま判断する方が危険です」
「おにぎりあります!」
小毬が紙袋を開いた。
五人は立ったまま食べた。
街では異常が増え続けている。
それでも、焦って誰かを間違った場所へ流すわけにはいかなかった。
◇
午後一時過ぎ。
計算上の形が出た。
玄兎へ定着する前に転換し、危険・複雑なものは中央へ一時保留する。
「処理時間は?」
千燈が訊く。
「四十分から一時間」
透羽が答えた。
玄兎は椅子の背へ体重を預ける。
「全部じゃないけど、二か月分の仕事に時間を作れる」
「はい。中央圧が下がれば、残りを丁寧に処理できる可能性があります」
二時間の期限を知らせる電話が鳴った。
管理担当の男性が入ってくると、透羽はモニターへ要点だけを出した。
「帰属先で大分類した複数の流れを同時に処理し、判定を並列化します。初期分離で六十から七十パーセント。処理時間は四十分から一時間です」
「玄兎君への負荷は」
「高いです。ただし固定はしません。侵入傾向が出た系統は遮断します」
男性は画面を見た。
「外部固定点は足りるのか」
「既存個体の定着地は避け、干渉しない地点だけで必要数を確保します。道守の祠も使いません」
「承認が必要な地点がある」
「今から通してください」
男性は端末を取り出した。
「確認する」
部屋を出ていった。
怖さは消えていない。
それでも玄兎は、朝より少しだけ呼吸がしやすかった。
◇
緊急承認が下り、外部固定点の準備と危険区域の封鎖が動き始めた。
その間にも、市内の異常は増え続けていた。
机上の作戦を現実で使える形へするため、五人も現場へ出た。
公園になった小学校跡では、昔の校舎へ入ろうとした男性がフェンスにぶつかって負傷していた。窓から手を振る少女の記憶を見て「姉ちゃん」と泣く老人もいた。
玄兎たちは、その姿を否定せず、ただ近づかせなかった。
◇
二度目の現場は河川敷だった。
水面の上に、夏祭りが広がっている。
提灯。
屋台。
浴衣姿の人影。
遠くで花火まで上がっている。
音は少し遅れて聞こえる。
夢の中で依澄と見た海辺の祭りを思い出した。
綺麗だった。
だから危ない。
見えている人は、そこへ行きたくなる。
「下!」
小毬が叫んだ。
子供が一人、屋台へ向かって走る。
現実では急な斜面。
玄兎が動くより小毬が速かった。
部分獣化した脚で地面を蹴り、転がり落ちる寸前で抱き止める。
「大丈夫です。足、痛くない?」
小毬はすぐ獣化を解いた。
子供は泣いている。
母親が駆け寄る。
「すみません、ありがとうございます……!」
「大丈夫です。今、見えてる道は歩かないでください」
透羽と千燈が周囲を誘導する。
依澄が祭りの記憶を薄くする。
玄兎は、子供が母親へ抱きつく姿を見ていた。
「先輩」
小毬が戻ってくる。
「怪我は?」
「私は平気です。子供も擦り傷だけ」
「よかった」
小毬は祭りの景色を見る。
小毬は祭りの景色を見てから、子供を抱き止めた腕へ目を落とした。
「間に合わなかったらって、ちょっと怖かったです」
玄兎は頷き、子供が母親と安全な場所へ戻るまで見ていた。
研究棟へ戻れば、まだ空欄のままの同意画面ではなく、ホワイトボードの続きを埋める。
◇
午後五時。
旧研究棟では、分けた流れの受け入れ先の確認が続いていた。既存個体の定着地は避け、空いている固定点だけを使う。
ただし、一度流し始めれば四十分から一時間、五人とも判断を止められない。
「玄兎、今、怖いですか」
透羽が呼ぶ。
「うん。かなり」
「無理だと思ったら言ってください」
「言う。透羽も」
透羽が一瞬黙る。
「……はい」
千燈も顔を上げ、小毬は腕を回した。依澄は『薄くなったら言う』と、自分の停止基準を確かめた。
◇
夕方六時を過ぎ、最新予測と準備状況が揃った。朝の『二十四時間以内』は大規模漏出が始まるまでの予測で、中央が完全に破断する時刻とは違う。今夜から明朝の漏出を防ぎ切れないため、避難と現地対応を続ける必要がある。朝では外部固定点の準備が間に合わず、夜まで待てば中央への進入が危うい。出口を揃え、その猶予にも間に合わせる開始時刻を、透羽は一つに絞った。
透羽は全員を見る。
「明日午後三時。そこを最終作戦開始時刻にします」
玄兎は時計を見る。
あと二十一時間ほど。
透羽はモニターへ三本の線を出した。
「今夜は外部固定点の準備と危険区域の封鎖を進め、市内被害を抑えます」
玄兎は三本の線の横へ、設置班と避難班の連絡先を並べた。
その時、管理担当者がもう一度部屋へ入ってきた。
「完全器案の準備は継続している」
空気が少しだけ固くなる。
男性は続ける。
「だが、明日の高速分離案を第一選択として承認した」
玄兎は少し驚いた。
「実行できる形になったからだ」
「ありがとうございます」
「礼は成功してからでいい」
男性は玄兎へ目を向ける。
「明日の案が途中で成立しないと判断された場合、完全器案を再提示する」
小毬の顔が曇る。
玄兎は頷いた。
「分かりました」
「嫌ではないのか」
「嫌です」
即答した。
「でも、逃げ道を一個消して安心するより、俺たちの案を成功させる方に集中します」
男性は数秒だけ玄兎を見た。
「そうか」
それ以上は言わなかった。
扉の前で止まる。
「鵺代君。明日、君が器にならずに済むなら、その方がいい」
玄兎は少し目を見開く。
男性は振り返らない。
「だから、成功させてくれ」
「……はい」
扉が閉まる。
玄兎はしばらくそこを見ていた。
「悪い人じゃなかったですね」
小毬が言う。
「それが余計怖かった」
玄兎は苦笑した。
モニターには、明日の作戦線がまだ消えずに残っている。
玄兎は椅子を引き直した。
「最後まで確認しよう」
◇
夜七時を過ぎたところで、透羽が全員の手を止めた。
「ここから先は準備班へ引き継ぎます。私たちは休みます」
「判断力が落ちたまま明日を迎える方が危険です」
千燈が伸びをした。
「じゃあ、装備の最終確認は予定通り玄兎くんの部屋ね」
「いつの間に予定になったんですか」
「大学は準備班が使うし、鷺宮家より気楽でしょ」
透羽も少し考え、頷いた。
「装備を見たら、早めに休みましょう」
「ピザ頼もう」
「千燈先輩」
重い一日の最後に、少しだけ普段の空気が戻った。
窓の外で、季節外れの花火が一瞬だけ開く。
音はしない。
誰かの夏祭りの記憶だった。
「玄兎、生きたい?」
依澄が呼ぶ。
玄兎は花火を見たまま答えた。
「生きたい」
「街も?」
「助けたい」
依澄は一度だけ頷き、机の上の装備一覧を玄兎の方へ押した。
「じゃあ、続き」
「うん」
玄兎は一覧を受け取り、最後の確認欄へ印をつけた。
五人で帰るための準備は、まだ終わっていない。
――第三十三話・了