翌朝、大学へ向かう電車の中で、玄兎は知らない教室を見た。
正確には、窓の外ではない。
車内のガラスへ映り込んだ自分の肩越しに、古い木製の机が並んだ教室が重なっていた。黒板には白いチョークで日付が書かれ、窓際の薄いカーテンが、そこには存在しない風を受けてゆっくり揺れている。
制服姿の生徒らしい影が数人いる。
誰もこちらを見ていない。
授業中なのか、放課後なのかも分からない。
ただ一人、窓際の席に座った少女だけが、開いたノートへ何かを書き続けていた。
玄兎が瞬きをする。
教室は消えた。
窓の向こうには、いつもの住宅街が流れている。
隣に座っていた依澄へ顔を向けると、彼女も同じガラスを見ていた。
「今の、見えた?」
「うん。夢。でも私のじゃない」
「前よりはっきりしてた」
「近いから」
「何が?」
「向こうと、こっち」
依澄は窓へ指先を触れそうになって、途中で止めた。
「前は重なるだけだった。今は、入り口になりかけてる」
その言葉が終わるより早く、玄兎のスマートフォンが震えた。
透羽からのメッセージだった。
『大学へ着いたら、正門ではなく旧研究棟へ来てください。市内各所で夢層・記憶層・怪異層の漏出が同時発生しています。一般人にも明確な視認例が出始めています。』
続いて小毬から写真が送られてきた。
駅前の商店街。
現在はドラッグストアになっている建物の前へ、古い文房具店が半透明に重なっている。色褪せた看板、店頭へ吊られたノート、ガラスケースの中の鉛筆。
写真だけなら、昔の写真を重ねた加工画像にも見える。
しかし、その前に立つ人々の表情は笑っていない。
別の写真には、店へ入ろうとした男性が何もない場所へ手を伸ばしている姿が写っていた。
『今ここです。さっき一人、店の入口だと思って道路へ出かけました。止めました。怪我人はいません。』
千燈からも続けて届く。
『南側の駅前、昔のホームが道路の上に出てる。見えてる人と見えてない人が混ざってるから危ない。私はこっち対応してから行く。』
玄兎は画面を見ながら息を吐いた。
昨日、シオリを外へ出し、夢と記憶もそれぞれの場所へ返せた。
方法は間違っていない。
それでも《百獣繭》の崩壊は待ってくれなかった。
「依澄」
「うん」
「千燈先輩の方へ寄ろう。道路に出てるなら、人手あった方がいい」
「透羽に言う」
「そうしよう」
以前の玄兎なら、連絡より先に電車を降りていたかもしれない。
今は透羽へ現在地と行先を送る。
返事は一分もしないうちに来た。
『了解です。単独行動はしないでください。現地対応後、千燈先輩と三人で旧研究棟へ来てください。』
玄兎は画面を依澄へ見せた。
「許可出た」
「玄兎が勝手に行かなくなったから、透羽も早い」
「まだそこ評価されるんだ」
「大事」
依澄は少しだけ笑った。
次の駅へ電車が入る。
扉が開く。
二人は、人の流れへ混じってホームを降りた。
◇
南側の駅前へ着いた時、道路の一部が見えなくなっていた。
消えたのではない。
別の時代が重なっている。
現在の片側二車線の道路の上へ、古い駅のホームが斜めに突き出していた。
錆びた柱。
黄色く変色した案内板。
木製のベンチ。
黒い線路。
さらにその奥には、今は存在しない小さな改札まで見える。
玄兎たちには、かなりはっきりしていた。
問題は、一般人にも中途半端に見えていることだった。
「そこ入らないでください! 足元だけ見て!」
千燈の声が飛ぶ。
高齢の男性が、昔のホームへ上がろうとするように一歩前へ出ていた。
本人には、道路ではなく階段が見えているらしい。
千燈は腕を掴まず、正面へ回って進路を塞ぐ。
「駅はこっちじゃないです。今見えてるものと、実際の足元がずれてます。私の方へ来てください」
「でも……ここ、昔の駅だよ。私はこの駅を知ってる」
「知っていても、今は道路です。否定しないから、まず安全な場所へ移りましょう」
玄兎と依澄が駆け寄る。
「千燈先輩!」
「助かった。玄兎くん、この人を歩道へ。依澄、足元の夢だけ薄くできる?」
「やる」
依澄の周囲へ薄紫の蝶が三羽現れた。
夢を壊すのではない。
現実と重なっている部分だけを少し離す。
古いホームの輪郭が揺れ、その下のアスファルトが透けて見えた。
高齢の男性が足を止める。
「……道路?」
「はい」
玄兎は急かさず、男性の横へ立つ。
「今はこっちが本物です。ゆっくりで大丈夫なんで、歩道まで行きましょう」
男性は何度も古いホームを振り返りながら、それでも玄兎と一緒に歩道へ戻った。
周囲には他にも十数人が立ち止まっている。
駅員。
警察官。
スマートフォンで撮影している若者。
何も見えていないらしく「何があるんですか」と不思議そうに聞く人。
そして。
道路の反対側を見ながら泣いている若い女性。
「お父さん……」
玄兎は視線を追った。
古いホームのベンチ。
そこに、一人の男が座っていた。
四十代か五十代。
顔はよく見えない。
ただ、女性には分かるらしい。
「去年、亡くなったんです」
女性は誰に説明するでもなく呟いた。
「入院してて……最後、会えなくて。それなのに、今……」
男の影が少しだけこちらを向く。
女性が一歩前へ出る。
「待って」
玄兎がすぐ横へ立った。
「見えてる人、知ってる人ですか」
「父です。絶対……父なんです」
玄兎は「違います」と言えなかった。
記憶が形になったものかもしれない。
夢かもしれない。
別の怪異が記憶を借りている可能性もある。
今ここで断定する材料はない。
「見えてること自体は否定しません」
女性が玄兎を見る。
「でも、あそこへ行くには車道を渡ることになります。今は近づかないでください」
「でも、もし本当に父だったら」
「行って確かめたいのは分かります。だから安全な場所から見ましょう。近づくのは、何が起きてるか分かってからです」
女性の目から涙が落ちる。
「また、会えなくなるかもしれない」
その言葉が刺さった。
玄兎は一瞬だけ、答えを失った。
会いたい。
最後に一度だけでも。
それがどれほど強い願いになるかは、今まで何度も見てきた。
それでも。
「それでも、今ここであなたが怪我したら、お父さんに会えたことにはならないと思います」
女性はしばらく黙った。
やがて、小さく頷く。
「……はい」
その時、千燈の烏が上空で大きく鳴いた。
「車来る!」
依澄の蝶が低く飛ぶ。
古いホームの床だけが薄くなり、現実の車道が露出する。
車が通過した。
運転手には古い駅が見えていない。
玄兎は背筋が冷たくなった。
「これ、かなりまずいな」
千燈が近づいてくる。
「見える人と見えない人が、同じ場所を別の地形だと思って歩いてる」
「南側だけ?」
「全然」
千燈はスマートフォンを見せる。
鷺宮家から共有された市内地図。
赤い点が増えていた。
大学周辺。
旧商店街。
河川敷。
住宅地。
病院。
駅前。
小学校跡。
十分前まで三十か所ほどだった異常報告が、今は六十を超えている。
「増え方が昨日までと違う」
「うん。透羽ちゃんから、昨日の実験が原因じゃないって先に連絡来た」
「そこ、やっぱり確認した?」
「そりゃするよ」
千燈は真面目な顔になる。
「でもシオリの分離量なんて、《百獣繭》全体から見たら誤差以下。夢と記憶を返した量も同じ。それより中央構造の方が、限界を越えて勝手に崩れ始めてる」
依澄が地図を見る。
「繭、ほどけてる」
「俺たちがやろうとしてるみたいに?」
「違う」
依澄は首を横に振る。
「行先を決めないで、破れてる」
玄兎は古いホームを見る。
ベンチに座っていた男の影は、いつの間にか消えていた。
女性は泣いている。
それでも、車道へ飛び出さずに歩道へ立っている。
「行こう」
千燈が言った。
「ここは応援が来る。大学に集まれって」
「うん」
玄兎は周囲をもう一度確認した。
まだ大きな怪我人はいない。
でも、この規模が続けば必ず出る。
正しい方法を見つけた。
だから何とかなる。
昨日は、少しそう思えた。
今は違う。
正しいことと、間に合うことは別だった。
◇
大学へ向かう途中にも、異常は続いた。
向かいのビルが一瞬だけ古い木造校舎へ変わり、コンビニのガラスには店内ではなく夕方の海が映る。見えている人と見えていない人が同じ歩道を歩いていることの方が、怪異そのものより危なかった。
大学の一つ手前の交差点で、スマートフォンを持った学生が青ざめて立ち止まっていた。
「何これ……」
カメラの画面だけに、歩道へ十人ほどの人影が映っている。そのうち一人は、学生のすぐ後ろに立っていた。
学生が振り返る。現実には誰もいない。
「撮るの、いったんやめた方がいい」
玄兎が声をかけると、学生は怯えた顔を上げた。
「これ、何なんですか」
「今、街中で似たことが起きてる。全部が襲ってくるわけじゃない。でも、見えてる道と本当の道路がずれてることがある。追いかけたり触ったりしないで、足元を見て帰って」
学生は何度か画面と玄兎を見比べ、やがてスマートフォンを下ろした。
歩き出してから、依澄が言った。
「今の、よかった」
「何が?」
「全部、敵って言わなかった」
千燈も頷く。
「そこは大事。ユンみたいなのまで危険物扱いしたら、昨日見つけた答えを自分たちで捨てることになる」
「うん」
怖いから全部閉じ込める。
そのやり方へ戻らないためにも、間に合わせなければならなかった。
◇
旧研究棟地下には、玄兎たちが着く頃には二十人以上の人間が集まっていた。
鷺宮家の術者。
大学側の協力者。
久住教授。
救護担当。
それから、玄兎がこれまで顔を合わせたことのない管理部門の人間が数人。
中央のモニターには、市内地図と《百獣繭》の構造図が並んでいる。
赤い点は、さっき見た時より増えていた。
透羽は玄兎たちが入るとすぐ説明を始めた。
「現在、一般人が視認できる漏出が九十一か所。交通や建物内の避難導線へ影響している地点が十七。軽傷者は八人です」
「もう八人」
小毬が小さく言う。
「転倒五。自転車との接触一。階段からの転落一。残り一人は、夢像を追って立入禁止区域へ入り、割れたガラスで負傷しました。いずれも命に関わる状態ではありません」
「今のところ、だね」
千燈が言う。
「はい」
透羽は否定しなかった。
「さらに問題があります。今朝から、中央構造そのものの劣化速度が上がっています」
モニターへ、昨夜までの観測線と今朝からの線が重ねて表示された。固定点は今も機能している。それでも中央では、一か所の破断が周囲を弱らせ、その弱体化が次の破断を呼ぶ段階へ入っていた。
「現在の低下率なら、完全な構造破断まで三十六時間前後。変動幅を考えると、二十四時間以内に大規模漏出へ移る可能性があります」
「昨日は三、四日って……」
小毬の声が硬くなる。
「昨日の推定が単純に一日減ったのではありません。限界域へ入り、劣化そのものが加速しました。次の破断が起きれば、さらに短くなる可能性があります」
最初の「最大七日」から数字を順番に引いているわけではない。固定点を直して延びた時間もあれば、中央の崩れ方が変わって失われた時間もある。
その都度、今いる地点から測り直すしかない。
「昨日の実験は?」
玄兎が確認する。
「原因ではありません」
透羽は即答した。
「分離した量は全体の一万分の一にも届きません。シオリは現在も安定。夢層へ返した断片、土地へ戻した記憶も異常なし。方法そのものは成立しています」
「方法は合ってる。でも、繭の方が先に壊れる」
「そうです」
千燈が腕を組んだ。
「二か月分の仕事を、一日でやれってこと?」
「今の方法のままでは不可能です」
その時。
部屋の奥から声がした。
「だから、緊急安定化案を再検討する必要があります」
五十代ほどの男性が、机の前へ出てきた。
黒いスーツ。
鷺宮家の術者というより、管理部門の人間らしい整った身なり。
玄兎は以前、一度だけ会った記憶があった。
名前までは覚えていない。
男性は玄兎へ敵意を向けていない。
むしろ、必要以上に穏やかな顔をしていた。
「鵺代玄兎君。まず確認しておきたい。これから話す案は、君の人権や安全を軽視して出すものではない」
その前置きだけで、玄兎は嫌な予感がした。
「はい」
「だが、我々には市民を守る責任もある」
机の上へ、一枚の資料が置かれる。
難しい術式図。
中央に玄兎の名前。
『外部器完全接続』
『帰巣系統再統合』
『緊急中央安定化』
透羽の表情が変わった。
「その案は、以前却下したはずです」
「平時なら、だ」
男性は透羽を見る。
「今は条件が違う」
玄兎は資料を見る。
内容はほとんど読めない。
でも結論だけは分かる。
「俺を、完全に器へ戻す?」
「そうだ」
男性は誤魔化さなかった。
「君に残っている帰巣標識を中央系へ再接続する。二十年前の処置をそのまま繰り返すわけではない。現在の技術で負担を分散し、可能な限り人格と身体を保護する」
「可能な限り」
「安全を保証できるとは言わない」
部屋が静かになる。
男性は続けた。
「ただし成功すれば、散在している断片の多くを短時間で中央へ引き戻せる。《百獣繭》の崩壊速度を抑え、市内の漏出も大幅に減らせる可能性が高い」
透羽が口を開く。
「玄兎は、その後どうなりますか」
「中央器として完全固定された場合、通常生活へ戻れる保証はない。記憶や人格への影響も予測できない」
「それを選択肢として提示するんですか」
透羽の声は低かった。
「提示する」
男性の声は変わらない。
「他に同程度の速度で市民被害を止められる案がないからだ」
「昨日の分離方式があります」
「時間が足りない」
「高速化を検討しています」
「完成していない」
透羽が黙る。
男性の言っていることは、事実だった。
「鷺宮」
男性が呼ぶ。
「君が彼を守りたいと思っていることは理解している」
透羽の目がわずかに動く。
「ですが」
「責めているわけではない。むしろ当然だと思う。ただ、判断に私情が入っていることは自覚しているか」
玄兎は透羽を見る。
透羽はすぐには答えなかった。
「……入っています」
認めた。
「玄兎に生きてほしいと思っています。任務上の判断だけではありません」
「なら、その私情と市民の安全を分けて考える必要がある」
「分かっています」
「現時点の数字では、彼一人を完全器へ移行させる案が、最も短時間で被害予測を下げられる」
小毬が立ち上がりかける。
「一人って言いますけど――」
千燈が腕を伸ばして止めた。
「小毬ちゃん。聞こう」
「でも」
「聞いた上で反対した方が強い」
小毬は唇を噛み、それでも座り直した。
男性は千燈へ一度目を向け、また玄兎を見る。
「君が拒否する権利はある」
その言葉に、玄兎は少し驚いた。
「強制はしない?」
「少なくとも私は、強制して成立する処置だとは考えていない。君自身の協力が必要になる」
「じゃあ、断ったら」
「別案を探す」
「それで被害が出たら?」
男性は数秒だけ黙った。
「我々は可能な限り対処する」
「俺が断ったせいになる?」
「そういう言い方はしない」
男性は表情を変えなかった。
「だが、君が完全器案を受け入れれば被害予測を下げられる可能性がある、という事実は消えない」
玄兎の胸の奥が重くなる。
怒鳴られた方が楽だったかもしれない。
お前一人で街が助かるのだから犠牲になれ、と言われれば、間違っていると言える。
でも、この人はそんなことを言っていない。
玄兎の権利も認めている。
安全を保証できないことも隠していない。
ただ数字を示している。
今この瞬間も、街では人が怪我をしている。
駅前で、亡くなった父親を追いかけそうになった女性を思い出す。
道路に重なった古いホーム。
見えていない車。
小学生が指差した白い女。
スマートフォンにだけ映った人影。
自分が器へ戻れば。
それが止まる可能性がある。
昔の自分なら。
「玄兎」
依澄が小さく呼んだ。
玄兎はそちらを見なかった。
考える。
逃げずに。
もし自分が入れば、今起きていることを止められる。
確実ではない。
でも一番速い。
自分一人と、街にいる大勢。
数だけを並べれば、答えは簡単に見える。
玄兎は資料へ手を置いた。
「この案の理屈は分かります」
透羽が玄兎を見る。
小毬の表情が強張る。
「俺一人を使えば、今すぐ街の人が怪我する可能性を下げられる。時間も稼げる。たぶん、前の俺ならそれでいいって言いました」
「先輩」
「でも」
玄兎は顔を上げる。
「それはもうやらない」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
迷いがない。
「怖いから嫌だってだけじゃないです。俺を器にして全部戻したら、結局、二十年前と同じ仕組みに戻る。今回助かっても、また誰か一人を中心にして、壊れた時はその一人を使えばいいって形が残る」
「将来の問題より、今の被害を優先する必要がある」
男性が言う。
「分かってます」
玄兎は頷いた。
「だから、拒否して終わりにはしません」
「何をする」
「街も助けます」
「具体案はまだない」
「作ります」
「時間がない」
「だから、今までと同じやり方を捨てます」
男性は玄兎を見たまま黙る。
玄兎は続けた。
「俺、生きたいです」
声に出す。
以前より、ずっと自然に。
「普通に大学へ行きたい。みんなと飯食って、ユンの世話して、海にも行きたい。死んでも戻るからいいじゃなくて、死なないで帰りたい」
一度息を吸う。
「でも、俺が生きたいからって、街の人が怪我しても仕方ないとは思わない。自分と街を天秤に乗せて、どっちか片方を選ぶ話に戻りたくない」
玄兎は資料から手を離した。
「だから、自分も生きるし、街も助ける方法をやります」
部屋が静かだった。
最初に口を開いたのは小毬だった。
「私も、それがいいです」
今度は誰にも止められずに立ち上がった。
「玄兎先輩一人を入れるより、五人でやる方がいいです。昨日できたんですから、もっと速くできる方法を探します」
千燈も椅子の背へ軽く寄りかかる。
「私も同意。完全器案が合理的なのは分かる。でも合理的だからって、他の案を考える前に一人を使う必要はない」
「時間がないからこそ、ですね」
透羽が言う。
男性が見る。
「鷺宮」
「私情は入っています」
透羽はもう否定しなかった。
「玄兎に生きてほしい。これは私情です」
一度、玄兎を見る。
「それでも、昨日の分離実験が成立したことは客観的な事実です。完全器案だけが唯一の解ではありません」
「完成していない」
「完成させます」
「何時間で?」
「今から逆算します」
依澄も静かに言った。
「玄兎、器にしない」
「理由は?」
男性が訊く。
依澄は少し考えた。
「玄兎だから」
男性が眉をわずかに動かす。
「それは理屈ではない」
「うん。でも、玄兎がいなくなる未来は、私たちが作りたい未来じゃない」
依澄はモニターを見る。
「街も壊したくない。だから両方」
男性はしばらく五人を見た。
やがて、小さく息を吐く。
「二時間」
「え?」
玄兎が聞く。
「二時間で、高速化案の成立可能性を示してほしい。それまで完全器案の準備は進めるが、実行はしない」
透羽の目が鋭くなる。
「準備も止めてください」
「止められない」
男性の返事は速い。
「君たちの案が成立しなかった場合、準備から始めていては間に合わない。これは脅しではない。選択肢を残すためだ」
透羽は何か言いかける。
玄兎が先に頷いた。
「分かりました」
「玄兎」
「準備まで止めさせて、俺たちの案が失敗したら、それこそ逃げ道なくなる。実行しないなら、準備はしてもらおう」
男性は玄兎を見る。
「二時間後に再度判断する」
「はい」
「一つだけ言っておく」
男性は資料を回収した。
「私は、君に器になってほしいわけではない」
玄兎は少し目を見開く。
「ならない方法があるなら、それを選びたい。だが、私には街全体の被害を見ながら判断する責任がある」
「分かってます」
「だから、君たちが別の答えを出すなら、数字で使える形にしてくれ」
「やります」
男性はそれ以上何も言わず、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
「……怒鳴られてないのに、怖かったです」
小毬が息を吐くと、千燈が苦く笑った。
「数字が間違ってないからね」
透羽は玄兎を見た。
「私情があることは否定しません。ないふりをする方が、今は判断を誤ると思っています」
「じゃあ、やる?」
「はい。二時間しかありません」
千燈が机を軽く叩いた。
「なら始めよう」
五人はモニターの前へ集まった。
◇
ホワイトボードの最初の案は、五分で消えた。
「地区ごとにまとめて戻す」
玄兎が書いた案へ、小毬が首を横に振る。
「同じ場所に出ていても匂いが違います。土地のもの、夢、人についてるものが混ざってます」
「百獣繭の中で混ざってから漏れてるなら、出た場所と由来も一致しない」
千燈の指摘で、玄兎は線を引いた。
怪異・夢・記憶で大別する案も、危険度だけで分ける案も、すぐに同じ壁へぶつかった。何者かを分類できても、どこへ戻せばいいかが決まらない。
「一体ずつ見れば正確。でも、それじゃ間に合わない」
玄兎が呟く。
千燈は昨日の観測記録を開いた。
「シオリは、何だから外へ出した?」
「旧図書館由来で、現実側にいても安定するから」
「夢の教室は?」
「夢層へ」
「生活音の記憶は、大学の土地へ……」
言いながら、玄兎は気づいた。
千燈がホワイトボードへ向き直る。
「分類する軸、何者かじゃない」
ペン先が走った。
『夢へ帰るもの』
『土地へ帰るもの』
『現実へ定着できるもの』
『危険で外へ出せないもの』
『個人に属し、即時判断できないもの』
「帰る先」
依澄が言った。
「そう。これなら怪異でも記憶でも、同じ流れに乗せられる」
小毬が立ち上がる。
「同じ場所へ帰りたがるものなら、匂いの向きも似るかもしれません。最初に大きな群れを分けます」
「私は感情と記憶の向きだけ読む。中身を全部読む必要はない」
千燈が続く。
「夢へ戻せる流れは私が曲げる」
依澄もペンを取った。
透羽は三人の線を一つにつないだ。
「五人が一体を囲んで最後まで調べるのをやめます。流れを止めず、各自が自分の判定だけを担当する」
小毬が輪郭を分け、千燈が由来の向きを読み、依澄が夢層との適合を見る。透羽が危険度と侵食性を止め、最後に玄兎の帰巣標識を一瞬だけ基準として使い、判定済みの流れを外へ曲げる。
「仕分けを流れ作業にする?」
「はい」
「怪異の仕分けセンター」
千燈が言い、小毬が少し笑った。
透羽だけは計算を続けている。
「理論値では昨日の数十倍。ただし、それでも全量を処理するには足りません」
明るくなりかけた空気が止まる。
「じゃあ、速くしていいものだけ先に抜く」
玄兎が言った。
「土地由来の薄い記憶、単純な夢像、低危険度で定着先が明確な怪異。そういう大きな流れを先に外へ出して、複雑なものは残す」
千燈が数字を入れる。
「それなら?」
透羽が計算を追い、やがて顔を上げた。
「初期分離で総量の六割から七割を減らせる可能性があります」
「中央圧も下がる?」
「理論上は」
そこで透羽の視線が玄兎へ移った。
「最大の問題は玄兎です。複数の出口へ同時に曲げると、流れが競合して帰巣標識へ集中する危険があります」
「失敗したら俺に入る?」
「はい」
「それは駄目だ」
玄兎はすぐ答えた。
「俺を器にしない方法なのに、失敗したら全部俺に入る設計は駄目だろ」
「同意します」
透羽は図へ水路を一本足した。
「玄兎へ届く前に遮断層を置きます。基準へ触れさせるのは一瞬だけ。その直後に私の水路で流れを奪う。侵入傾向を検知した系統だけ止めます」
依澄も夢層側の出口を三つに分けた。
「人の夢。場所の夢。形だけ残った夢。これなら通せる」
「記憶も似た分け方にできる」
千燈が言う。
ようやく、図が一本の流れとして見え始めた。
透羽が時計を見る。
「残り一時間十二分です」
「休憩なし?」
「時間が――」
「それ、さっきの管理側と同じ顔してる」
玄兎が言うと、透羽は言葉を止めた。
千燈が吹き出す。
数秒後、透羽は小さく息を吐いた。
「五分だけ休憩します。判断精度を落とす方が危険です」
「おにぎりあります!」
小毬が紙袋を開いた。
「いつ買ったの?」
「朝です」
「偉すぎる」
五人は立ったまま食べた。
街では異常が増え続けている。
それでも、焦って誰かを間違った場所へ流すわけにはいかなかった。
◇
午後一時過ぎ。
計算上の形が出た。
初期分離で六割から七割を外へ逃がす。五人の判定を直列化し、玄兎への接触は基準認識に必要な一瞬だけ。危険・複雑なものは無理に流さず、中央へ一時保留する。
「処理時間は?」
千燈が訊く。
「四十分から一時間」
透羽が答えた。
玄兎は椅子の背へ体重を預ける。
「全部じゃないけど、二か月分の仕事に時間を作れる」
「はい。中央圧が下がれば、残りを丁寧に処理できる可能性があります」
二時間の期限を知らせる電話が鳴った。
管理担当の男性が入ってくると、透羽は余計な前置きをせず、モニターへ要点だけを出した。
「帰属先で大分類し、五人の判定を直列化します。初期分離で六十から七十パーセント。危険判定後の誤通過率はシミュレーション上〇・一パーセント未満。処理時間は四十分から一時間です」
「玄兎君への負荷は」
「高いです。ただし固定しません。帰巣標識へ侵入傾向が出た系統は遮断します」
「ゼロではない」
「はい。完全器案にも保証はありません」
男性は画面を見た。
「外部固定点は」
「最低十二。既存の管理点に加え、大学の旧土地標識、北丘周辺の旧祠群、旧河道を使います」
「北丘は土地記憶の重複が出た」
「道守がいる祠そのものは使いません」
透羽はすぐ地図を拡大した。
「観測値が平常へ戻った周辺地点のうち、既存個体と干渉しない場所だけです。許容量を低く設定し、反応が崩れればその経路を閉じます」
男性は観測履歴を確認した。
「未承認地点がある」
「今から承認してください」
「簡単に言うな」
「中央構造が待ってくれません」
男性の眉がわずかに動く。
今朝は数字を突きつけられる側だった。
今は、こちらも数字と停止条件を返している。
「大学側の調整は?」
「久住教授が施設管理と担当部署へ回しています。鷺宮家側の上位承認も必要です」
男性は端末を取り出した。
「十分くれ」
「可能なら五分で」
「鷺宮」
「七分でも構いません」
千燈が吹き出しかけ、小毬が口元を押さえた。
男性はため息をつく。
「分かった。使える案か確認する」
部屋を出ていった。
怖さは消えていない。
それでも玄兎は、朝より少しだけ呼吸がしやすかった。
◇
緊急承認は七分後に揃った。
臨時固定点の設置、術者の再配置、大学側の立入制限と避難区域拡大。久住教授からも学内手続きが通ったと連絡が入る。
同じ頃、市内の異常報告は百二十件を超えた。
机上の作戦を現実で使える形へするため、五人も現場へ出た。
公園になった小学校跡では、昔の校舎へ入ろうとした男性がフェンスにぶつかって負傷していた。窓から手を振る少女の記憶を見て「姉ちゃん」と泣く老人もいた。
玄兎たちは、その姿を否定しなかった。
ただ、近づかせなかった。
見えるものに悪意がなくても、現実の地形とずれれば人を傷つける。
その事実を、朝から何度も見せつけられていた。
◇
二度目の現場は河川敷だった。
水面の上に、夏祭りが広がっている。
提灯。
屋台。
浴衣姿の人影。
遠くで花火まで上がっている。
音は少し遅れて聞こえる。
夢の中で依澄と見た海辺の祭りを思い出した。
綺麗だった。
だから危ない。
見えている人は、そこへ行きたくなる。
「下!」
小毬が叫んだ。
子供が一人、屋台へ向かって走る。
現実では急な斜面。
玄兎が動くより小毬が速かった。
部分獣化した脚で地面を蹴り、転がり落ちる寸前で抱き止める。
「大丈夫です。足、痛くない?」
小毬はすぐ獣化を解いた。
子供は泣いている。
母親が駆け寄る。
「すみません、ありがとうございます……!」
「大丈夫です。今、見えてる道は歩かないでください」
透羽と千燈が周囲を誘導する。
依澄が祭りの記憶を薄くする。
玄兎は、子供が母親へ抱きつく姿を見ていた。
あと数秒遅ければ。
川まで落ちていたかもしれない。
「先輩」
小毬が戻ってくる。
「怪我は?」
「私は平気です。子供も擦り傷だけ」
「よかった」
小毬は祭りの景色を見る。
「これ、怪異が襲ったわけじゃないんですよね」
「うん」
「綺麗なものが見えただけ」
「でも、場所が違う」
「それだけで危ない」
「うん」
玄兎は小毬の腕を見る。
「小毬、怖かった?」
「ちょっと。間に合わなかったらって思いました」
「俺も」
小毬は、それでも頷いた。
「でも、今は間に合いました」
「明日も間に合わせよう」
「はい」
完全器案を拒否したことを、玄兎は後悔していなかった。
なら、選んだ方を形にするだけだ。
◇
午後五時。
旧研究棟の壁は、市内地図と臨時固定点の一覧で埋まっていた。
朝まで考えていたのは「どう分けるか」だった。今は、その流れをどこへ安全に受け止めさせるかを詰めている。
「北側の旧祠群、三地点は使えます」
透羽が印を置いた。ただし、道守が定着している祠だけは避ける。
「そこは触らない?」
「はい。安定して暮らしている個体の場所へ、別のものを重ねる理由はありません。周辺の空いている地点も許容量を低く設定します。反応が崩れたら、その経路だけ閉じます」
「夢は私の夢層を中継する」
依澄が別の線を引く。
「受けるんじゃなくて、通すだけ」
「俺と同じか」
「うん」
千燈は、個人へ強く結びついた記憶を保留側へ回した。
「速く返していいのは、土地や集団へ属する薄いものだけ。個人の強い記憶は、あとでちゃんと見る」
小毬も頷く。
「匂いが混ざりすぎてる塊も止めます。分からないものを、速さのために決めつけない」
全部を高速で処理するのではない。
迷わず帰せる大きな流れだけを先に抜き、難しいものを見るための時間を作る。
その線が、ようやく一本につながった。
ただし、一度流し始めれば四十分から一時間、五人とも判断を止められない。
「玄兎」
透羽が呼ぶ。
「今、怖いですか」
「うん。かなり」
「無理だと思ったら言ってください」
「言う。透羽も」
透羽が一瞬黙る。
「……はい」
「私も言うよ」
千燈が横から入った。
「私もです!」
小毬が手を上げる。
「薄くなったら言う」
依澄も続いた。
誰も一人で限界まで黙らない。
高速化したのは処理だけで、無理を隠すことではない。
◇
夕方六時を過ぎた頃、鷺宮家から最終予測が届いた。
大規模破断までの中央値、二十九時間。
安全に中央へ接近できる時間は、それより短い。
高速分離設備の準備には最低でも半日。
市内の危険地点を封鎖し、一般人を遠ざける時間も必要になる。
「明日の朝では早すぎます」
透羽が予定表を見る。
「術式と外部固定点が間に合いません」
「夜まで待つと?」
「崩壊予測へ近づきすぎます」
千燈が時間を計算する。
「明日の午後?」
「現状なら、それが限界です」
透羽は全員を見る。
「明日午後三時。そこを最終作戦開始時刻にします」
玄兎は時計を見る。
あと二十一時間ほど。
「今日中に準備して、少し寝て、明日?」
「はい」
「寝る時間ある?」
「作ります」
「強いな」
「判断力を落とさないためです」
その時、管理担当者がもう一度部屋へ入ってきた。
「完全器案の準備は継続している」
空気が少しだけ固くなる。
男性は続ける。
「だが、明日の高速分離案を第一選択として承認した」
玄兎は少し驚いた。
「いいんですか」
「数字が使える形になったからだ」
男性は透羽を見る。
「外部固定点の増設は承認済み。現場人員も回す」
「ありがとうございます」
「礼は成功してからでいい」
男性は玄兎へ目を向ける。
「君にも言っておく」
「はい」
「明日の案が途中で成立しないと判断された場合、完全器案を再提示する」
小毬の顔が曇る。
玄兎は頷いた。
「分かりました」
「嫌ではないのか」
「嫌です」
即答した。
「でも、逃げ道を一個消して安心するより、俺たちの案を成功させる方に集中します」
男性は数秒だけ玄兎を見た。
「そうか」
それ以上は言わなかった。
扉の前で止まる。
「鵺代君」
「はい?」
「明日、君が器にならずに済むなら、その方がいい」
玄兎は少し目を見開く。
男性は振り返らない。
「だから、成功させてくれ」
「……はい」
扉が閉まる。
玄兎はしばらくそこを見ていた。
「悪い人じゃなかったですね」
小毬が言う。
「それが余計怖かった」
玄兎は苦笑した。
千燈が頷く。
「世の中、悪い人を倒せば全部解決する話ばっかりじゃないからね」
「だから、仕組みを変える」
依澄が言う。
「うん」
玄兎はモニターを見る。
「明日、変えよう」
◇
夜七時を過ぎたところで、透羽が全員の手を止めた。
「ここから先は準備班へ引き継ぎます。私たちは休みます」
「本当に帰る?」
玄兎が聞く。
「帰ります。判断力を落としたまま明日を迎える方が危険です」
千燈が伸びをした。
「じゃあ、装備の最終確認は予定通り玄兎くんの部屋ね」
「いつの間に予定になったんですか」
「大学は準備班が使うし、鷺宮家より気楽でしょ」
透羽も少し考え、頷いた。
「確認だけなら問題ありません。長引かせません」
「ピザ頼もう」
「千燈先輩」
重い一日の最後に、少しだけ普段の空気が戻った。
窓の外で、季節外れの花火が一瞬だけ開く。
音はしない。
誰かの夏祭りの記憶だった。
「玄兎」
依澄が呼ぶ。
「何?」
「生きたい?」
玄兎は花火を見たまま答えた。
「生きたい」
「街も?」
「助けたい」
「両方?」
「両方」
依澄は満足したように頷いた。
「じゃあ明日、両方やる」
「うん」
誰か一人を差し出して間に合わせるのではなく、やり方の方を変える。
その答えが正しかったかどうかは、明日にならなければ分からない。
それでも玄兎はもう、自分の命と誰かの命を天秤の反対側へ置くつもりはなかった。
両方を取る。
五人で帰る。
そのための夜が、これから始まる。
――第三十三話・了