実験の準備は、前日の夜から始まっていた。
玄兎が朝八時前に大学へ着いた時には、旧研究棟の地下にある観測室の床へ、すでに透羽が水の線を何重にも走らせていた。
中央には人一人が立てるほどの円。その外側を囲むように四つの小さな区画があり、さらに壁際には鷺宮家から借りた観測端末と、大学側の古い封印図を重ねた大きなモニターが置かれている。
昨日までなら、玄兎はこういう準備を見るだけで少し身構えていた。
円の中心に立つ役目が自分だと分かっているからだ。
しかも今日は、《百獣繭》から一部を意図的に引き出す。
失敗すれば、怪異が玄兎へ戻ろうとする可能性もある。
それでも、不思議と「また自分が器にされる」という感覚は薄かった。
床の線は、自分を縛るためではない。
自分を通り道にして、その先へ流すために引かれている。
「おはようございます。予定より少し早いですね」
透羽が水の線から顔を上げた。
「最近それよく言われる」
「良い傾向です」
「夢の中で遅刻しかけた反省が残ってるのかも」
「夢で改善した生活習慣が現実に定着するなら歓迎します」
透羽はそう言いながら、玄兎の左胸へ視線を向けた。
「痣の状態は?」
「朝は普通。熱もない」
「念のため測ります」
「そこは夢から戻っても監視役っぽいな」
「監視ではなく、実験前の安全確認です」
「分かってる」
玄兎は素直に襟元を少しずらした。
透羽が携帯型の観測板を近づける。
黒い痣から伸びる細い線は昨日と同じで、急な活性化もない。
「基準値です。少なくとも、開始前から《百獣繭》に強く引かれている状態ではありません」
「じゃあ一個目、いけそう?」
「まだ始めてもいないのに成功前提で話さないでください」
「失敗前提よりいいだろ」
「それはそうですが」
透羽の口元がほんの少しだけ緩む。
そこへ階段を駆け下りる音がした。
「おはようございます!」
小毬だった。
両手に紙袋を持っている。
「何それ」
「朝ごはんです。長くなるかもしれないので、全員分買ってきました」
「珍しい。今日は肉だけじゃない」
「失礼です。ちゃんとおにぎりもあります」
「肉も?」
「あります」
「やっぱり」
小毬の後ろから千燈がゆっくり降りてくる。
「朝から元気だねえ。私はコーヒーだけでいいって言ったのに、勝手にサンドイッチまで買われた」
「食べないと途中でお腹空きます!」
「小毬ちゃん、完全に遠足気分じゃない?」
「大事な実験だからこそ、元気な方がいいんです」
最後に依澄が現れた。
胸元にはいつもの小さな蝶の飾り。
その腕には、専用バッグが抱えられている。
「ユンも来た」
「今日は見学?」
玄兎が聞く。
「比較用です」
透羽が答える。
「最初に外へ出す候補は、ユンと似た安定性を持つ低危険度断片です。現実側へ定着したあとの反応を比べるため、ユンには近くにいてもらいます」
バッグから白い顔が覗く。
「ゆん」
「本人は分かってなさそう」
「たぶん」
依澄が言う。
玄兎はユンへ指を出した。
「今日は先輩役だって」
「ゆん?」
「やっぱり分かってないな」
五人の笑いが小さく広がった。
緊張が消えたわけではない。
それでも、誰かを犠牲にするための儀式ではなく、これから先の形を試す実験だと思うと、空気は前よりずっと軽かった。
◇
実験の対象を選ぶまでに、さらに二時間かかった。
《百獣繭》の内部には、輪郭を保った怪異だけがいるわけではない。
人の記憶、夢、恐怖、願い、土地に残った気配。それらが層になって重なり、一部はもう元の形を判別できないほど混ざっている。
そこから、外へ出しても危険が低いものを選ばなければならない。
千燈が最初に候補を絞った。
「この辺り。感情の強さが低くて、他の記憶を食ってない」
モニターには、《百獣繭》内部を簡略化した層図が表示されている。
千燈の烏を通じて採った感覚情報と、鷺宮家の観測値を重ねたものだ。
黒、灰、白、薄い青。
何十もの流れが絡む中、一か所だけ淡い黄色の点が揺れていた。
「何の感情?」
玄兎が訊く。
「まだ遠くて細かくは読めない。でも、『返したい』とか『元に戻したい』に近いと思う」
「返す?」
「誰かに奪われたとかじゃなくて、落ちたものを拾って戻す感じ」
小毬もモニター横で鼻を動かす。
「嫌な匂いは少ないです。濡れた紙と木と……ちょっと鉛筆?」
「それ匂いで分かるの?」
「鉛筆は分かります」
「怪異の感情よりそこに自信あるんだ」
透羽が記録を確認する。
「大学の旧図書館由来の層と重なっていますね。二十年前の統合時に回収された小型個体か、土地の残留が中央へ吸われたものかもしれません」
「外へ出す場所は?」
「性質が『戻す』なら、まず旧図書館の資料整理室を候補にします。現在も人の出入りが限定され、観測もしやすい。もし定着後に異常が出ても隔離できます」
「最初から大学公認怪異にはしないんだ」
「一体目でそこまで進めません」
「ですよね」
玄兎は円の中央を見た。昨日決めた手順は、もう全員の頭に入っている。
透羽が《百獣繭》側へ出口を細く開き、千燈が対象の感情と由来を読む。小毬が他の断片との混線を追い、依澄が夢と現実の境界を選び分ける。玄兎の帰巣反応を使うのは、怪異に「道」を見つけさせる一瞬だけ。そのまま胸へ戻すのではなく、定着する前に外部固定点へ流れを曲げる。
「玄兎へ入りかけた時点で中止します」
透羽が最後の条件だけを確認した。
「成功するまで続ける、はなしです。自分から引き込むのも禁止」
「分かってる」
「咄嗟の時ほど忘れないでください」
「最近はかなり直っただろ」
「だから役目を任せています」
真顔で返され、玄兎は苦笑した。
「それ言われると、変なことできないな」
「最初からしないでください」
後ろで千燈と小毬が笑う。張っていた空気が少しだけ緩んだ。
◇
午前十一時十八分。
最初の分離実験が始まった。
旧研究棟地下の観測室。
玄兎は床中央の円へ立つ。
少し離れた位置で、透羽が両手を広げた。
水が床の線を満たしていく。
透明だった細い溝へ青白い光が入り、四つの区画を順番につないだ。
「《水鏡》、第一層固定。中央拘束へ干渉開始します」
壁のモニターで、《百獣繭》の数値が僅かに揺れた。
玄兎の左胸が温かくなる。
痛くはない。
けれど、遠くから名前を呼ばれた時のような感覚があった。
「来た」
「どの程度ですか」
「まだ弱い。あっちに俺がいるって気づかれた感じ」
「そのまま。呼ばないでください」
「分かってる」
千燈が目を閉じる。
机の上に置かれた小さな採血管には、前日に《百獣繭》の境界から採取した玄兎の血が一滴だけ入っている。
直接内部へ触れられない千燈は、その血を中継点にして、帰巣反応へ絡む記憶を読む。
「黄色い点、動く。こっちを見た」
小毬がすぐ続ける。
「匂いも近づいてます。でも他のが一つ付いてきてる」
「危険度は?」
透羽が聞く。
「後ろの方は嫌です。焦げた布みたいな匂い」
「千燈先輩」
「見えてる。後ろは『取り返したい』が強い。今回の対象じゃない」
「切ります」
透羽の指先が動く。
水の線が一か所だけ鋭く光った。
モニター上で、黄色い点と黒い線の間が離れる。
「分離成功。対象だけ通します」
依澄が目を閉じた。
薄紫の蝶が一羽、二羽と現れる。
「夢側、閉じる。こっちは現実」
観測室の空気が少し変わった。
床の向こう側が一瞬だけ深く見える。
壁は同じ場所にあるのに、その奥へ何十メートルも空間が続いているような錯覚。
そこから。
小さな音がした。
かさ。
紙を一枚めくったような音。
玄兎の痣が熱を持つ。
「来る」
透羽が声を低くする。
「玄兎、何もしないで。そのまま立っていてください」
「うん」
かさ。
もう一度。
玄兎の目の前、一メートルほどの場所で空気が歪んだ。
最初に見えたのは、細い棒のようなものだった。
次に紙。
最後に、小さな身体。
現れた怪異は、鉛筆ほどの長さしかない鳥だった。
羽は白い紙のように薄く、身体の中心だけが淡い灰色。嘴には、どこから持ってきたのか分からない小さな紙片をくわえている。
「鳥?」
玄兎が小さく言う。
「動かないで」
透羽がすぐ返す。
紙の鳥は玄兎を見る。
痣が一段強く熱くなった。
鳥が羽ばたく。
玄兎の胸へ向かってくる。
反射的に手を出しそうになった。
けれど出さない。
「今です」
透羽の水が玄兎の前を横切った。
鳥を弾くのではない。
流れだけを変える。
同時に依澄の蝶が右側の区画へ集まり、小毬が叫ぶ。
「そっちです! 匂い、切れてません!」
「千燈先輩!」
「大丈夫。感情変化なし。返したいだけ!」
玄兎の胸へ向かっていた紙の鳥が、ほんの少し右へ逸れる。
さらに右。
床の水路に沿って、外側の固定区画へ。
その瞬間、玄兎の痣から熱が引いた。
「通った!」
小毬の声が響く。
紙の鳥は固定区画の中央で一度だけ旋回した。
出口として用意していた小さな木箱の上へ降りる。
箱の中には、旧図書館から移した古い貸出票と、使われなくなった木製の分類札が入っている。
鳥は嘴の紙片を箱へ落とした。
かさり。
それから首を傾ける。
誰も動かない。
透羽が水の線を維持したまま言う。
「観測値、安定。玄兎への再帰なし。夢層への逆流なし」
千燈も息を吐く。
「感情も変わってない。怒ってないし、怯えてない」
「匂い、落ち着いてます」
小毬が言う。
依澄も目を開けた。
「ここにいる」
玄兎は紙の鳥を見る。
「……出た?」
「はい」
透羽はまだ慎重だった。
「少なくとも現時点では」
鳥が箱の中へ嘴を入れた。
古い貸出票を一枚くわえる。
少し離れた机へ飛ぶ。
そこに置かれていた別の資料束の上へ、貸出票を落とした。
「何してる?」
玄兎が聞く。
千燈が資料を見る。
「あ」
「何?」
「その貸出票、この資料のやつ」
表紙と番号が一致していた。
紙の鳥は、箱の中で混ざっていた札を元の資料へ戻したらしい。
小毬の目が輝く。
「本当に返してます!」
「偶然かもしれません」
透羽はそう言ったものの、少し声が明るい。
千燈が別の古い札を机へ置く。
「じゃあ試す?」
「意図的な刺激は最小限に」
「置くだけ」
千燈が三冊の資料から一枚ずつ札を抜き、少し離れた場所へ並べる。
紙の鳥はしばらく動かなかった。
やがて、一枚をくわえる。
対応する冊子へ置く。
二枚目。
三枚目。
全部正しい。
「成功じゃないですか!」
小毬がとうとう声を上げた。
「まだ定着確認が」
「でも成功ですよね!」
「少なくとも第一段階は」
透羽がモニターを見る。
数値は安定している。
玄兎の胸も熱くない。
紙の鳥は箱の縁へ止まり、羽を畳んでいる。
危険な気配はどこにもない。
透羽は数秒、画面と鳥を交互に見た。
それから。
「……成功です」
言った。
しかも笑っていた。
小毬が一瞬固まる。
「透羽先輩、今笑いました!」
「成功したので」
「もう一回言ってください!」
「何をですか」
「成功です、って!」
「必要ありません」
「玄兎先輩、聞きましたよね!」
「聞いた。かなり嬉しそうだった」
「玄兎まで」
透羽は少しだけ頬を赤くした。
千燈が肩を揺らして笑う。
「でも分かるよ。これは嬉しい」
彼女は木箱の上の小さな鳥を見た。
「玄兎くんを器に戻してない。怪異も壊してない。それでちゃんと外にいる」
「うん」
玄兎は自分の胸へ触れた。
何も入っていない。
痣も静かだ。
「本当にできたんだな」
言葉にした途端、ようやく実感が追いついた。
◇
一体目の成功だけで終える予定だった。
少なくとも、実験前の計画書にはそう書いてある。
けれど紙の鳥は三十分経っても玄兎へ戻ろうとせず、資料札を黙々と元の場所へ運び続けた。観測値も安定したままだった。
そこで透羽は、追加試験を二件だけ認めた。目的は成功例を増やすことではなく、行き先が違うものにも同じ考え方が使えるかを確かめるためだった。
◇
二つ目は、依澄が見つけた夢の断片だった。
誰もいない夕方の教室。開いた窓から風が入り、カーテンが揺れている。机には忘れられたノートが一冊。遠くから運動部の声だけが聞こえる。誰かを閉じ込める夢ではなく、帰りたくなかった誰かが何度も見た景色だけが残ったものらしい。
今度は玄兎を経由しなかった。透羽が中央との結びつきを細く外し、千燈と小毬が他の記憶が混ざっていないことを確かめる。依澄が《蝶境》を開くと、地下の壁へ夕焼け色の窓が一瞬だけ重なった。
「依澄の中に入れるわけじゃないよな」
玄兎が念のため訊くと、依澄は首を振った。
「私も出口。置き場所じゃない」
その短い返事に、透羽が頷く。玄兎を器に戻さないのと同じように、依澄を夢の保管場所にも使わない。夢は、夢として存在できる側へ返す。
薄紫の蝶が窓の外へ飛ぶ。
カーテンがもう一度揺れ、教室はその蝶を追うように薄くなった。
「帰った?」
玄兎が聞くと、依澄はしばらく目を閉じたまま、それから頷いた。
「うん。夢にいる。誰かを止めてない。ただの景色になった」
中央へ戻る反応もない。二例目も成立した。
三つ目は、千燈が拾った生活の記憶だった。
図書館で本を閉じる音。椅子を引く音。何年も、何人もの日常が薄く積み重なって残ったもので、誰か一人へ返すべき記憶ではなかった。
「これは誰のものって決めない方がいい」
千燈が言った。
「人の顔も名前もない。たぶん、同じ場所を使った何人分もの『いつもの音』が重なってる」
そこで五人は、それを個体化させず旧図書館の土地へ戻すことにした。玄兎の帰巣反応へ触れさせるのは方向を取る一瞬だけ。胸へ定着する前に、透羽が流れを旧図書館の古い土地標識へ曲げる。
痣がかすかに熱を持ち、すぐに冷えた。
ぱたん、と本を閉じる音がした。
続いて、ぎ、と椅子を引く音。
誰も動いていない観測室に、昔の図書館の生活音だけが二度ほど響き、やがて静かになった。
小毬が鼻を動かす。
「一か所に固まってません。古い床とか本棚の方へ、薄く広がってます」
千燈も目を開けた。
「消えてない。大学へ戻った」
怪異は現実の居場所へ。夢は夢へ。生活の記憶は、それが積み重なった土地へ。
三つとも出口は違った。それでも、誰か一人へ押し込めず、そのものに合う場所へ返せるという点だけは同じだった。
◇
昼を過ぎた観測室には、朝とは違う空気が流れていた。
小毬が買ってきたおにぎりはすっかり冷め、海苔も少し柔らかくなっていたが、玄兎には妙にうまく感じられた。壁際では、最初の紙の鳥が木箱の上を歩き、ずれた分類札を一枚ずつ戻している。
「この子、名前つけません?」
小毬が言った。
「まだ観察個体A一です」
透羽は端末から目を離さない。
「番号かわいくないです」
「記録番号にかわいさは必要ありません」
「『カサ』とか?」
千燈が紙の羽音に合わせて言うと、小毬が露骨に嫌そうな顔をした。
「雑すぎます」
依澄はしばらく鳥を見ていた。
「シオリ」
全員の視線が集まる。
「紙で、本のところへ戻すから」
「いいじゃん」
玄兎が言うと、小毬も勢いよく頷いた。
透羽は数秒だけ抵抗するような顔をしたあと、鳥へ視線を向けた。
「正式記録はA一のままです。呼称としてなら」
「決まりですね!」
シオリは命名など気にした様子もなく、また一枚の札を元の箱へ戻した。
玄兎はそれを眺めながら、胸へ手を当てた。痣は静かだった。何も入っていない。
「これなら、本当にいけるかもな」
独り言に近かった。
千燈が隣で紙コップのコーヒーを飲む。
「私も今はそう思う。シオリは壊れてない。夢も消してない。記憶も誰かへ押しつけてない。それで玄兎くんも器になってない」
玄兎は頷いた。
以前なら、最後には何か大きな代償が必要になると、どこかで覚悟していた。自分が一度死ねば済むなら、それも仕方ないと考えた時期もある。
けれど、目の前のシオリは誰の犠牲も必要とせず、紙の羽を動かしている。
「誰も死なない終わり方、ちゃんとあるんだな」
「今さら?」
「信じたいとは思ってた。でも、今日は初めて証拠を見た感じがする」
千燈は少し笑った。
「じゃあ、その証拠は大事にしないとね」
その時、透羽がモニターを切り替えた。
「喜ぶのは構いません。ただし、もう一つ確認があります」
声が硬い。
玄兎はおにぎりを置いた。
「処理速度?」
「はい」
◇
三件の結果を並べれば、原理そのものは成立していた。
中央へ戻さない。玄兎へ固定しない。無理に消さない。由来と性質を見て、合う行き先へ分ける。
問題は、それを《百獣繭》の全てへ行う時間だった。
「現在、最低でも一万八千以上の『分離単位』があると見ています」
透羽が表示した数字に、小毬の表情が止まった。
「一万八千……」
「今日の三件は、輪郭が明確で危険度も低いものだけです。一件目は選別と定着確認を含めて約二時間。二件目以降は短縮できましたが、複雑なものほど逆に時間は伸びます」
「慣れれば?」
「速くはできます。でも五人だけで安全に判定するなら、一時間に数十が限界です。危険個体や複数の記憶が癒着したものまで同じ速度では扱えません」
千燈が暗算して、小さく息を吐いた。
「数週間どころじゃ済まない可能性もあるね」
「はい」
玄兎はモニターの別の数字を見る。
嬉しさが消えたわけではない。ただ、成功したからこそ必要な作業量を現実の数字として数えられるようになってしまった。できるかどうか分からなかった朝より、むしろ残り時間の短さがはっきり見える。
「で、《百獣繭》はそこまで待てない」
透羽が頷いた。
「今朝までの観測値で再計算しました。市内の固定点を立て直したことで中央へ集中していた負荷はいったん軽くなりましたが、中央構造そのものの劣化は止まっていません。現時点から自力で形を保てるのは、最長で五日程度。安全に作業時間として見込めるのは三日から四日です」
小毬が眉を寄せる。
「前は七日って……」
「あれはその時点での初期推定です。途中で外側の負荷を減らせた一方、その間にも中心の破損は進みました。今の状態から先を測り直した数字が五日です」
これ以上の説明は必要なかった。
方法はある。
けれど、正しい方法を一件ずつ積み上げていたら、終わる前に中央構造の方が壊れる。
「じゃあ、やり方が間違ってるんじゃなくて」
小毬がシオリを見る。
「この速さじゃ間に合わないんですね」
「そうです」
玄兎もシオリを見る。
昨日までは、答えがあるかどうかすら分からなかった。今日は違う。答えの形は見えた。だからこそ、残り時間との差が残酷なくらいはっきりする。
「なら、次に変えるのは速さだな」
「玄兎一人へ負担を集中させる方法は使いません」
透羽が即座に釘を刺す。
「まだ何も言ってない」
「言う前に確認しています」
「信用されてるんだか、されてないんだか」
「信用しているから、先に止めています」
朝と同じ返事だった。
玄兎は苦笑し、それ以上は言わなかった。
急ぐ必要はある。だからこそ、誰か一人を使い潰す方法へ戻るわけにはいかない。
◇
夕方、五人はシオリを旧図書館の資料整理室へ移した。
最初の数日は観測札を置き、部屋の外へ出ないか、人や資料へ異常を起こさないかを確認する。それでも、封印箱の中ではない。透明な結界の檻でもない。古い本棚と机のある小さな部屋だった。
シオリは部屋へ入ると、床へ落ちていた貸出票を一枚くわえ、対応する棚の前まで運んだ。
「本当に戻すのが好きなんだな」
玄兎が言う。
「好き、と断定はしません」
透羽はそう答えながらも、シオリが飛ぶたび視線で追っている。
依澄のバッグからユンが顔を出した。
「ゆん?」
シオリも一度だけこちらを見る。近づきもしないし、逃げもしなかった。
「友達になれますかね」
小毬が期待を込める。
「種類が違いすぎない?」
千燈が笑う。
「ユンは誰とでもいけそうです」
「その自信どこから」
「匂いです!」
玄兎も笑った。
夢の中では、大学に怪異がいることが普通だった。現実では、まだ観測下の小さな部屋にユンとシオリがいるだけだ。
それでも、ゼロではない。
「少しだけ、夢で見た未来に近づいたな」
玄兎が言うと、透羽は首を横へ振らずに答えた。
「夢を再現するのではなく、こちらで安全な形を作っているんです」
「うん。それでいい」
依澄も二人のそばへ来た。
「夢で見たから、欲しいって分かった」
「そうだな」
玄兎はシオリを見た。
今日、五人は初めて《百獣繭》から何かを外へ出し、それを壊さず、誰かへ押し込めずに残した。夢景も記憶も、それぞれ別の場所へ返せた。
どれも派手な勝利ではない。巨大な怪異を倒したわけでも、中央構造を直したわけでもない。それでも玄兎には、今までのどんな一撃より、この小さな紙の鳥が外で羽を動かしていることの方が重く感じられた。
成功だった。
だからこそ、次の問題から目を逸らせない。
研究室へ戻ると、玄兎は共有ノートに一行だけ書いた。
『分離実験、成功。ただし、このままでは間に合わない。』
透羽がその下へ、現在の再計算値だけを追記する。
『安全な作業余裕 三〜四日。高速化または方式変更が必要。』
玄兎は二行を見比べた。
「これなら本当にうまくいくかもしれない」
口にしてから、少しだけ笑う。
「間に合えば、だけど」
「なら明日は、間に合わせる方法を考えます」
透羽が言った。
「無茶ではなく?」
「方法を変えます」
その言葉に、玄兎は頷いた。
窓の外では、講義を終えた学生たちが駅へ向かって歩いている。友人と笑う声も、部活へ急ぐ足音も、夢で見た大学とほとんど変わらない。
玄兎が欲しいのは、ここへ戻ることではない。
この日常を、明日へ続けることだった。
――第三十二話・了