翌朝、玄兎たち五人が大学図書館の地下書庫へ入った時、最初に異変へ気づいたのはユンだった。
専用バッグの中で丸くなっていた白い毛玉が、急に身体を起こした。いつものように「出して」と前脚で蓋を押すのではない。鼻先を細い通気口へ寄せ、何か遠くの匂いを探すように何度も顔の向きを変えている。
「どうした?」
玄兎がバッグを床へ置くと、ユンは返事の代わりに低く鳴いた。
「……ゆぅん」
小毬もバッグを覗き込んだが、ユンは鳴き返さず、通気口の向こうへ意識を向けたままだった。
千燈が小さく笑った。
透羽は端末へ視線を戻した。
画面には、《百獣繭》の中央拘束率が表示されている。昨日よりさらにわずかに低下していた。今すぐ崩壊する数値ではない。それでも、手動保留を始めた頃より残された余裕が減っていることだけは、折れ線の傾きがはっきり示している。
玄兎はバッグの中へ指を差し入れ、ユンの頭を一度撫でた。
「今日は、お前みたいに外に残れる怪異を探すんじゃなくて、どうやったら残したまま安全に暮らせるかを調べる日だからな」
「ゆん?」
依澄はユンを見てから、書庫の奥へ並ぶ古い棚へ視線を移す。
「ユンは答えじゃない。今ここにいるだけ」
玄兎は少し考え、それから頷いた。
透羽が言った。
「あの時に返せたのは、元の帰還先が残っていて、その場で行き先を見分けられた個体だけです。同じように繰り返せる手順は、まだありません」
透羽が机へ調査表を広げる。
「だから今日は、その条件を一つずつ確かめます。午前中は大学側の旧資料から、《百獣繭》へ一括収容する以前に、怪異を土地へ残したまま管理していた事例を探します。午後は鷺宮家の記録と照合し、記録だけでは判断できないものは実際の場所も確認します」
千燈が調査表を覗き込んだ。
「今日も盛りだくさんだね」
「時間がありませんから」
玄兎は少し笑った。
夢の中なら、答えは最初から用意されていた。現実には、まだ完成していない。
だから今日は、古い紙の山から始める。
夢よりずっと地味で、時間がかかる。
けれど、玄兎はその面倒さを嫌だとは思わなかった。
◇
一時間ほど調べても、「怪異」という文字そのものは思ったほど出てこなかった。
井戸の使い方。山へ入る時の決まり。葬送。家の建て替え。川沿いで名前を呼ばれた時の禁忌。古木を切る前に供える酒。
今なら怪異現象として分類されるかもしれないものが、当時の記録では生活習慣や言い伝えの中へ紛れ込んでいる。
「『夜に川から名前を呼ばれても返事をしない』」
小毬が古い聞書を読み上げた。
「これは普通に怖いな」
玄兎が答える。
「こっちは『古い柿の木を切る時は根元へ酒を一椀置く』です」
「そっちは怪異なのか分からない」
「両方候補へ入れてください」
透羽がすぐ言った。
「今日探したいのは、怪異と明記されたものだけではありません。当時の人が『そこにいるもの』として扱い、危険を増やさず関係を続けていた例です」
玄兎は手元の冊子を閉じた。
「封じずに済んだ理由と、何をしたら『もう残せない』と判断していたのか。そこまで調べたいんです」
透羽が言う。
ユンなら、一体だけだったから観察を続けられた。
《百獣繭》の中には、数え切れないほどの残留がある。
同じことを全部へ一体ずつ行う時間はない。
「これまでの事件も、一つだけ見直してみるか」
玄兎は共有ノートを開き、赤い糸の事件のページで手を止めた。
離れれば痛みが走り、相手を縛るように結ばれていた糸。あの時、五人が止めたのは「離れたくない」という気持ちそのものではない。人を傷つける形になっていた結びつきの方だった。
小毬がページを覗き込む。
「怪異がいること自体じゃなくて、人を傷つける形になったところを止めてたんだな」
玄兎はノートを閉じた。
「全ての事例へ同じ判断はできません」
透羽はそう断ったうえで、静かに頷いた。
「ただ、その見方は今回にも使えます。残すか消すかを先に決めるのではなく、何が危険なのかを分けて見る」
その時だった。
机の下のバッグが、小さく震えた。
「ゆ……ん」
先ほどより弱い声だった。
玄兎が覗き込むと、ユンは丸くなっていなかった。バッグの北側へ身体を寄せ、布越しに何かを見ようとしている。
「また北だ」
玄兎が言う。
透羽はユンの向きと調査表を見比べた。
「理由はまだ分かりません。ですが、同じ方向を二度気にしています」
透羽は調査表へ『北側旧市街』と書き足した。
「ユンの反応だけで結論にはしません。資料に一致する記録があるか探します」
◇
十分ほど後、依澄が薄い冊子を机の中央へ置いた。
『朽木ヶ丘周辺 屋敷神・境界祭祀聞書』
五十年以上前の聞き取り記録だった。
その中に、店の裏手へ現れる白い小獣について書かれた項目がある。
家人が帰宅すると鳴く。
外出時には戸口まで見送る。
食物にはほとんど興味を示さず、冬は布を敷いた木箱で丸くなる。
家ではそれを「戸守」と呼び、追い払わず、朝夕に声をかけていた。
玄兎は二度読み返した。
「……似てるな」
小毬も身を乗り出す。
バッグの中から、
「ゆん」
と声がした。
千燈が吹き出した。
「また自己申告」
「同じ系統かもしれませんが、同じ種類だと決める材料はありません」
透羽はすぐ釘を刺す。
依澄は記録とバッグを見比べた。
「昔の名前があっても、ユンはユン」
同じ冊子をさらにめくると、似た扱いの記録が短く続いていた。どれも性質は違うが、危険が増えない限り、その土地から無理に切り離してはいない。
その中で玄兎の目が止まったのは、峠で迷った人へ正しい道を示す「白い手」だった。
本文は数行しかない。
夕暮れや雨の日、道を誤った者の前へ手だけが現れ、安全な方角を指す。追えば消え、触れようとしても届かない。
ページの端には、後年の調査者による小さな追記があった。
『北丘旧道・道守。鷺宮家管理記録に同名あり』
透羽が顔を上げる。
「午後、これを最優先で照合します」
バッグの中でユンがまた動いた。
今度は明らかに北を向いていた。
◇
午後一時過ぎ。
鷺宮家の記録庫では、聞書の追記にあった地名と名称を索引で探し、同じ項目へ辿り着いた。
『北丘旧道・道守』
『危険度:低』
『人身被害:なし』
『誘導対象以外への接触なし』
『現地維持』
「……現地維持?」
玄兎が読み上げると、透羽もその語の上で指を止めた。
「鷺宮家の旧い管理区分です。対象を中央へ移さず、元の土地へ残したまま観測と安全管理を続ける方式を、そう記録しています」
次の欄には、出現範囲、観測頻度、道守の示す先が現実の道路と一致しているか、出現回数が急増していないかが細かく残されていた。人へ接触した場合や、誘導先そのものが危険になった場合は維持を中止し、一時封印へ切り替えるともある。
小毬が紙面を指で追う。
「残すことを選ぶ代わりに、変化を見続けていたんだな」
玄兎は『現地維持』の四文字をもう一度見た。
朝から探していたものに、ようやく名前がついた。
千燈が年代順の索引をめくり、途中で手を止めた。
「この項目、二十数年前から急に減ってる」
代わりに増えていたのは、『中央移送』『統合』という記録だった。
透羽が対応する計画書を開く。各地の小さな監視対象を中央へ集め、巡回の負担と管理漏れを減らすためのものだった。祭祀を継ぐ人が減り、土地の管理者も高齢化していた時代には、実際に事故を減らしている。
「当時は、人を守るための合理的な選択だったんですね」
ただ、運用が続くうちに移送対象は広がり、帰巣の経路も中央へまとめられていった。
玄兎は『現地維持』の減っていく索引と、その隣で増えていく統合記録を見比べた。
「昔の条件も、今の条件も、そのままでは使えません」
玄兎は机の端にある北丘の記録を見た。
「ここ、まだ残ってる?」
「最終観測は三十四年前です。その後は中央移送の予定対象になっていますが、移送完了記録がありません」
「ユンが朝から北を気にしてたのも、そこかもしれない」
透羽は数秒考えた。
「行きましょう」
千燈が笑う。
◇
午後四時前。
大学北側の住宅地を抜けた先に、古い旧道が残っていた。
新しい住宅と舗装道路に挟まれ、そこだけ時間から取り残されたように細い石段が伸びている。十数段上がると、小さな木造の祠と、大きな榎。根元には苔のついた石がいくつも埋まり、乾いた夏草の間から古い石垣が覗いていた。
玄兎が専用バッグを開ける。
「一回だけ出すぞ。勝手に走るなよ」
「ゆん」
ユンはいつものように勢いよく飛び出さなかった。
地面へ降りると、その場で身体を低くし、祠の方を見る。
小毬が足を止め、周囲の匂いを取った。
「古い石と草、それから雨が乾いたあとの道みたいな匂い。その奥に、すごく薄いけど怪異の匂いがあります」
「夢側ではない」
依澄も周囲を見る。
「現実にくっついてる。ここから離れたくない感じ」
透羽の端末にも、ごく弱い反応が出ていた。
「北丘旧道の記録と位置は一致します。少なくとも、何らかの残留は今もあります」
五人で祠の周囲を確認すると、脇の草に半分埋もれた細い石柱が見つかった。
上部は割れ、文字もほとんど削れている。
透羽が泥を払う。
『……道』
『……従……』
それだけが読めた。
「昔の案内?」
玄兎が訊く。
「可能性はあります。ただ、これだけでは断定できません」
その時、坂の下から杖をついた老婦人が上がってきた。
五人を見ると、少し笑う。
「あら。大学の子?」
「はい。この祠について、昔の聞き取り記録を調べていまして」
透羽が答えると、老婦人は祠へ目を向けた。
「道守さんね」
五人の視線が揃った。
「子供の頃から知ってるわ。雨の日や夕方に道を間違えると、生垣から白い手が出て、帰れる方を指すって」
玄兎は思わず訊いた。
「怖くなかったんですか」
「怖かったわよ」
老婦人は即答した。
「手だけ出るんだから」
「でも、悪いものじゃないとは教わってたの。『出ても触らない、追いかけない、指した方を見る』って。子供だけでここを通る時も、最初にそれを言われたものよ」
老婦人は杖の先で、草に埋もれた欠けた石柱のそばを軽く示した。
「この石にも昔は何か書いてあったはず。字が読めない小さい子でも、大人がここで教えたからね。白い手が出ることも、どうすればいいかも、みんな先に知ってたの」
「今は知らない人の方が多いでしょうね。道も変わったし、スマートフォンがあれば、こんな細い旧道を使う人も少ないもの」
「道守が人を傷つけた話は?」
透羽が尋ねる。
「私は聞かないわね。指すだけ。ただし、知らない人が見たら驚くでしょうねえ」
老婦人は笑った。
「昔だって怖かったんだから」
そう言って、暗くなる前に帰りなさいよ、と坂を上がっていった。
玄兎は欠けた石柱へ目を戻した。
「怪異だけじゃなくて、人間側にも手順があったんだな」
「はい」
透羽も石柱を見る。
「意味を知っていること自体が、安全装置の一部だった可能性があります」
その時、小毬が顔を上げた。
「来ます」
透羽の手が清め水へ伸びる。
祠の右側。
古い石垣と生垣の隙間から、白いものがゆっくり伸びた。
細い人の手だった。
手首から先しかない。
半透明の皮膚に、土の下から透けてきたような灰色の筋が浮かんでいる。
五本の指は、住宅地側の広い舗装路ではなく、祠の裏へ続く細い旧道をまっすぐ示した。
玄兎は知識があっても背中が冷えた。
「……知ってても怖いな」
白い手は、それ以上動かない。
誰にも近づかない。
ただ道を指している。
その静けさの方が、かえって人の手ではないことをはっきりさせていた。
坂の下から、自転車を押した少年が上がってくる。
中学生くらいだった。片手でスマートフォンの地図を拡大し、顔を上げてはまた画面へ戻る。祠にも玄兎たちにも気づかず、広い舗装路へ自転車の前輪を向けた。
「えっと……こっち?」
白い手の人差し指が、ほんの少し動いた。
くい、と旧道を示す。
少年の視線が、その動きを拾った。
「……え?」
足が止まる。
生垣から出ているのは、手首から先だけだった。
少年の顔から血の気が引いた。
自転車のハンドルを胸元へ引き寄せるようにして、一歩下がる。
白い手は追わない。ただ、もう一度、旧道を指した。
「うわっ……!」
少年は意味を考えるより先に、さらに後ろへ逃げた。
自転車の後輪が、舗装の端を越える。
その向こうは車道だった。
曲がり角の向こうから、配送車のエンジン音が膨らむ。
「後ろ!」
玄兎が叫んだ。
少年が振り返る。その一瞬で身体が固まった。
小毬が駆け込み、自転車のハンドルを横から掴む。
「下がらないでください!」
前輪が大きく傾いたが、小毬が踏ん張った。少年の靴底が車道へ落ちる寸前で止まる。
直後、配送車が角を曲がって目の前を通り過ぎた。
風だけが制服の裾を強く揺らした。
少年は声も出せず、通り過ぎた車と白い手を交互に見た。
「……何、あれ」
玄兎もすぐには答えられなかった。
白い手はさっきと同じ場所にある。
少年を脅した様子も、追いかけた様子もない。ただ、安全な旧道を指し続けている。
それなのに、あと半歩で事故になっていた。
透羽の端末が短く震えた。
『局所境界変動』
『土地記憶重複』
広い舗装路の奥へ、昔の土道が薄く重なった。今は石垣で塞がれたはずの切れ目が、ほんの一瞬だけ道のように見える。
少年はスマートフォンを見下ろした。
「地図だと、こっちなんですけど……」
「大通りへ出るなら、あっちの細い道で合ってる」
玄兎は白い手が示している方を指した。
「俺たちもそこまで行くよ。あれには近づかなくていい」
「……あれが指してる方に?」
「そう。触らなくていいし、追いかけなくていい。道だけ見ればいい」
さっき老婦人から聞いた言葉が、そのまま口から出た。
少年はまだ青い顔をしていたが、玄兎たちが先へ立つと、ようやく自転車を押し始めた。
数十メートル先で旧道は現在の大通りへ安全につながっていた。
「ありがとうございました」
少年は頭を下げたあと、少し迷ってから祠の方を見る。
「……あの手、何なんですか」
「この辺に昔からある、道案内の言い伝えです」
透羽が答えた。
「怖かったと思います。ただ、あの場所では細い道の方が安全だということだけ覚えておいてください」
少年は完全には納得していない顔のまま、それでも頷いて走り去った。
祠へ戻ると、白い手はもう消えていた。
玄兎は欠けた石柱と、少年が消えた大通りを順に見た。
「道守は昔と同じことをした。指した道も間違ってなかった」
小毬がさっきハンドルを掴んだ手を見下ろす。
「でも、あの子は知らなかったから、逃げました」
玄兎は頷いた。
老婦人は対処を知っていた。少年は知らず、今はすぐ後ろを車が通る。変わったのは、怪異の周りだった。
透羽は欠けた石柱へ目を向ける。
「記録にある条件だけでは足りませんね」
「うん。今ここで安全かどうかを見ないと、残せるとは言えない」
玄兎が言うと、透羽は短く頷いた。
◇
ここで帰れば、今日の調査だけでも意味はあった。
だが、透羽は北丘の旧管理記録をもう一度開いた。
「旧方式の『現地維持線』を確認したいです」
画面には、三十四年前まで使われていた簡単な図が表示されている。
祠の周囲へ細い境界を置き、道守がこの土地以外の帰巣反応へ引かれないよう、土地との結びつきを補強する仕組みだった。
「これ、今もできる?」
玄兎が訊く。
「完全復元ではありません。数分だけなら、私の水鏡で当時の境界配置を仮再現できます」
「道守を今もこの土地へ結びつけられるか。それだけを見ます。強度は最低限にして、異常が出たらすぐ切ります」
透羽はユンを実験対象から外し、玄兎にも境界の外へ下がるよう指示した。帰巣反応が混ざれば、結果そのものが読めなくなる。
「了解」
五人は祠から距離を取って配置についた。
透羽が水の小瓶を開く。
地面へ落ちた数滴が、石の隙間を細い線になって走った。
派手な光はない。
古い祠の四方を囲むように、ほとんど見えない薄い水膜が張られていく。
「旧記録配置、仮再現。強度は当時推定値の一割以下」
依澄が境界の外側へ蝶を一羽置く。
「夢側、混ざってない」
小毬はユンを抱いたまま、祠の匂いを追う。
「道守さんの匂い、少し濃くなりました。でも嫌じゃないです」
千燈の烏が榎の枝へ止まった。
「感情も静か。『案内する』が一番強い」
透羽が水鏡を一段だけ固定する。
生垣の隙間から、白い手が再び現れた。
先ほどより輪郭が濃い。指の節も爪の形も分かるほどなのに、手首から先には何も続いていない。
人差し指は、まっすぐ旧道を指していた。
「土地側の固定値が上がっています。旧方式には、今でも一定の効果が――」
透羽の声にも、わずかな安堵が混じった。
「ゆんっ!」
ユンが突然、小毬の腕の中で身体を捻った。
玄兎の方へ前脚を伸ばし、毛を逆立てる。
「ユン?」
「違います、先輩じゃない!」
小毬の顔色が変わった。
「何かが、先輩の方へ流れてる匂いです!」
白い手の指先が、わずかに震えた。
最初は見間違いかと思う程度だった。
旧道の中央を指していた人差し指が、ほんの数度だけ右へずれる。
旧道の端。
欠けた石柱。
その脇の空間。
止まらない。
ゆっくり、ゆっくりと、目に見えない何かへ引かれるように向きを変えていく。
「透羽」
玄兎が呼んだ時、左胸の痣が熱を持った。
身体の内側へ熱い指を押し込まれたような感覚だった。
「切ります」
透羽が即座に水鏡へ指を向ける。
けれど、その指が動き切るより先に、白い手の人差し指が玄兎を向いた。
顔ではない。
胸だった。
痣のある場所を、正確に指している。
地面を走る水線が細かく震えた。
玄兎は逃げようと思った。
なのに、先に動いたのは逆の足だった。
膝から下の力がふっと抜け、重心が前へ落ちる。自分では止まっているつもりなのに、右足の踵が地面を離れた。
――行く。
そう考えたのではない。
身体の方が、もう歩き始めていた。
一歩。
旧道でも祠でもなく、白い手へ呼ばれたように玄兎の身体が境界へ近づく。
「玄兎!」
透羽の声と同時に、手首を強く掴まれた。
そこでようやく、自分が進んでいたことを玄兎の意識が追いついた。
「行かないでください」
透羽の声は冷静ではなかった。
玄兎は彼女を見る。
目の奥に、短い恐怖がある。
《百獣繭》から自分を呼ばれた時と同じものを、透羽も思い出している。
玄兎は一度だけ息を呑み、意識して後ろ足へ体重を戻した。
「行かない」
それから、白い指先を見据える。
「今回は、俺が終点になる話じゃない」
透羽の指から、ほんの少しだけ力が抜けた。
「……はい」
「千燈先輩、感情を切り分けてください!」
透羽が声を戻した。
「見てる!」
千燈は目を閉じる。
「道守自身は玄兎くんを欲しがってない。『案内する』『戻す』のまま。でも、その『戻す』の行き先だけが上書きされてる!」
「小毬!」
「土地の匂いと先輩の匂いの間に、別の細い道があります! 道守さんが自分で作った道じゃないです!」
「依澄さん!」
「夢じゃない。もっと深い。中央から伸びてる」
依澄の蝶が水線へ触れる。
「昔の帰る場所を、玄兎に曲げてる」
透羽が水鏡を切った。
祠を囲んでいた水線が一斉にほどける。
白い手が大きく揺れた。
一瞬だけ、指先が旧道と玄兎の間で迷う。
やがて輪郭が薄くなり、生垣の奥へ引っ込んだ。
玄兎の胸の熱も、少しずつ下がっていく。
ユンは小毬の腕の中で身体を丸め、しばらく顔を上げなかった。
誰もすぐには喋らなかった。
蝉の声と、遠くの車の音だけが戻ってくる。
「旧方式をそのまま戻す試験としては、失敗です」
小毬が祠を見る。
「道守さん、悪くなったんですか」
透羽は端末へ残った波形を見た。
「道守の性質は変わっていません。現地維持を強めて『戻す』『帰す』が強く出た瞬間、現在の中央帰巣系が帰還先だけを玄兎へ上書きした――そう見るのが自然です」
玄兎は胸へ手を置いた。痣の熱はもう引き始めているのに、自分の意思より先に足が出た感覚だけが残っていた。
透羽はしばらく玄兎を見ていた。
まだ手首を掴んだままだと気づいたらしい。
ゆっくり手を離す。
「すみません。強く掴みました」
「そのくらいなら平気」
玄兎は少し笑った。
「止めてくれてありがとう」
透羽は答えず、一度だけ頷いた。
◇
試験を終えたあと、透羽は道守を封印しなかった。
旧方式の仮再現を切れば、反応は元の弱い状態へ戻った。玄兎へ向く帰巣反応も消えている。
ただし、三十四年間途切れていた観測は再開することになった。
「残すんですね」
小毬が確認する。
「今のところ、封じないといけないほど危険になった様子は見られません」
透羽は祠を見た。
「出現と誘導先、周辺道路を観測します。まず、驚いて車道へ下がらないよう、現地班に路肩の誘導を頼みます。恒常的な案内と安全表示は大学にも相談します」
透羽は、その二つを別の連絡先へ送った。祠の手を消せば安全、とは記録しなかった。
依澄が祠を見る。
「道守は、ここにいるまま」
「今のところは」
透羽が答えた。
「危険化すれば判断を変えます。その可能性まで含めて現地維持です」
ユンがようやく小毬の腕から顔を出した。
「……ゆん」
玄兎が指を差し出すと、ユンは一度匂いを嗅ぎ、額を押しつける。
「さっきは悪かったな」
「ゆん」
「たぶん『もう帰ろう』です」
依澄が言った。
空はもう夕方の色へ変わり始めていた。
玄兎たちは祠へ一度頭を下げ、大学へ戻った。
◇
研究室へ戻ると、透羽は昼間の道守の波形と、《帰巣壇》が止まった夜の記録を並べた。
透羽は共有ノートへ『北丘旧道・道守――現地維持継続』とだけ記した。
「じゃあ、どう直すかだ」
玄兎は二つの記録を見比べた。
「外へ出す前に二つ決めないと駄目だ。そいつが本当はどこへ帰るのか。それから、俺へ向いた時に、どこで曲げるか」
小毬が端末を覗き込む。
「《百獣繭》の中は匂いが重なってます」
依澄は、夢と現実もきれいには分かれていないと付け加えた。千燈は二人の話を聞いてから頷く。
「感情だけ拾えても、それがどこへ帰る感情なのかまでは決められないね」
「だから、先に帰還先を識別する必要があります」
透羽が言った。
玄兎は自分の左胸へ手を当てた。昼間、白い指が最後に向いた場所だった。
「俺へ向くこと自体は、すぐには止められない」
「少なくとも、現在の仕組みを一度に消す方法はありません」
「なら、帰巣壇の時に咄嗟にやったことを、今度は条件を決めて使う」
玄兎は端末の中央、自分を示す印へ指を置いた。
「俺を終点にしない。怪異が俺へ帰ろうとする一瞬だけ、道をつなぐために使う。でも俺へ入る前に、本当の行き先へ曲げる。俺を保管場所じゃなくて……分岐点にする」
透羽が画面上の経路を一本だけ指でなぞった。玄兎へ伸びた線を、その手前で横へ逸らす。
「それなら、《百獣繭》でも確かめられる?」
「一体だけなら、試験条件を組めます」
透羽はすぐにはノートへ書かず、玄兎の胸元を見た。
「ただし、今日のように身体が先に反応する可能性があります。定着の兆候が出た時点で中止です」
「分かった。兆候が出たらすぐ止めよう」
小毬が不安そうに玄兎を見たあと、画面へ視線を戻した。
「いきなり何体もは、絶対だめです」
「はい」
透羽はそこで初めて、共有ノートへ次の予定を書いた。
「明日、《百獣繭》の中から低危険度で、他と混ざっていない輪郭の明確な個体を一体だけ選びます。返す場所を先に特定し、玄兎へ定着する前に経路を曲げられるか、小規模な分離試験をします」
「外へ出たことではなく、玄兎へ残らず、本来の場所で安定したところまでを成功とします」
玄兎はノートの余白へ一行だけ書いた。
『閉じ込めないなら、帰る場所まで間違えない。』
書き終えたところで、昼間勝手に踏み出した右足の感覚を思い出した。
怖くないわけではない。
それでも明日は、自分を帰る場所にするための実験ではない。
研究室の隅では、専用バッグから出たユンがクッションの上で丸くなっていた。
しばらくすると、欠伸のような長い声が漏れる。
「ゆぁん……」
小毬が勢いよく振り返った。
「今の新しいです!」
「記録する?」
千燈が笑う。
「します!」
玄兎も笑った。
玄兎は次の試験条件を読んだ。本来の場所で安定し、玄兎へ残らないこと。胸に手を当てずに、ノートを閉じた。
――第三十一話・了