翌朝、玄兎たち五人が大学図書館の地下書庫へ入った時、最初に異変へ気づいたのはユンだった。
専用バッグの中で丸くなっていた白い毛玉が、急に身体を起こした。いつものように「出して」と前脚で蓋を押すのではない。鼻先を細い通気口へ寄せ、何か遠くの匂いを探すように何度も顔の向きを変えている。
「どうした?」
玄兎がバッグを床へ置くと、ユンは返事の代わりに低く鳴いた。
「……ゆぅん」
小毬がすぐ隣へしゃがみ込む。普段ならユンが鳴いただけで嬉しそうに反応するのに、今は眉を寄せていた。
「嫌がってる匂いではないです。でも、落ち着かないです。何かを探してるみたいな……帰り道が分からない時の犬に近いかも」
「犬ではありません」
透羽が訂正しながら端末を確認する。
「そこ、今必要?」
「分類は必要です」
「ユン本人は?」
玄兎が訊くと、バッグの中から少し強めに、
「ゆん」
と返ってきた。
千燈が小さく笑う。
「本人も異議ありだって」
「その解釈は採用しません」
いつものやり取りだったが、透羽の視線はすぐ端末へ戻った。
画面には、《百獣繭》の中央拘束率が表示されている。昨日よりさらにわずかに低下していた。今すぐ崩壊する数値ではない。それでも、手動保留を始めた頃より残された余裕が減っていることだけは、折れ線の傾きがはっきり示している。
玄兎はバッグの中へ指を差し入れ、ユンの頭を一度撫でた。
「今日は、お前みたいに外に残れる怪異を探すんじゃなくて、どうやったら残したまま安全に暮らせるかを調べる日だからな」
「ゆん?」
「分かってない顔だな」
「それでいいと思う」
依澄が言った。
彼女はユンを見てから、書庫の奥へ並ぶ古い棚へ視線を移す。
「ユンは答えじゃない。今ここにいるだけ」
玄兎は少し考え、それから頷いた。
「そうだな。こいつ一匹がうまくいってるからって、全部外へ出して平気とは限らない」
「はい」
透羽が机へ調査表を広げる。
「昨日決めた通りです。午前中は大学側の旧資料から、《百獣繭》へ一括収容する以前に、怪異を土地へ残したまま管理していた事例を探します。午後は鷺宮家の記録と照合し、記録だけでは判断できないものは実際の場所も確認します」
千燈が調査表を覗き込んだ。
「大学、鷺宮家、それから現地。今日も盛りだくさんだね」
「時間がありませんから」
「夢から戻ってもそこは変わらないね、透羽ちゃん」
「変える必要のないところです」
透羽は当然のように言った。
玄兎は少し笑った。
夢の中なら、答えは最初から用意されていた。
《百獣繭》は安定し、ユンは大学を自由に歩き、依澄にも最初から学生としての居場所があった。
現実には、どれ一つ完成していない。
だから今日は、古い紙の山から始める。
夢よりずっと地味で、時間がかかる。
けれど、玄兎はその面倒さを嫌だとは思わなかった。
◇
一時間ほど調べても、「怪異」という文字そのものは思ったほど出てこなかった。
井戸の使い方。山へ入る時の決まり。葬送。家の建て替え。川沿いで名前を呼ばれた時の禁忌。古木を切る前に供える酒。
今なら怪異現象として分類されるかもしれないものが、当時の記録では生活習慣や言い伝えの中へ紛れ込んでいる。
「『夜に川から名前を呼ばれても返事をしない』」
小毬が古い聞書を読み上げた。
「これは普通に怖いな」
玄兎が答える。
「こっちは『古い柿の木を切る時は根元へ酒を一椀置く』です」
「そっちは怪異なのか分からない」
「両方候補へ入れてください」
透羽がすぐ言った。
「今日探したいのは、怪異と明記されたものだけではありません。当時の人が『そこにいるもの』として扱い、危険を増やさず関係を続けていた例です」
玄兎は手元の冊子を閉じた。
「封じなかった例を数えたいんじゃなくて、封じずに済んだ理由を知りたい」
「はい。そして、何をしたら『もう残せない』と判断したのかも必要です」
その基準がなければ、ただの放置になる。
ユンを拾った日、五人は可愛いという理由だけで残すことを決めなかった。一時間の隔離観察をし、接触反応や危険性を確かめ、今も毎日状態を記録している。
あの時は一体だけだったから、それで済んだ。
《百獣繭》の中には、数え切れないほどの残留がある。
同じことを全部へ一体ずつ行う時間はない。
「これまでの事件も、一つだけ見直してみるか」
玄兎は共有ノートを開き、赤い糸の事件のページで手を止めた。
離れれば痛みが走り、相手を縛るように結ばれていた糸。あの時、五人が止めたのは「離れたくない」という気持ちそのものではない。人を傷つける形になっていた結びつきの方だった。
小毬がページを覗き込む。
「一緒にいたいって気持ちは、消してないです」
「うん。消したのは、痛くしてでも繋ぎ止める方だ」
玄兎はノートを閉じた。
「俺たち、怪異がいること自体じゃなくて、危ない現象になったところを止めてたんだな」
「全ての事例へ同じ判断はできません」
透羽はそう断ったうえで、静かに頷いた。
「ただ、その見方は今回にも使えます。残すか消すかを先に決めるのではなく、何が危険なのかを分けて見る」
「じゃあ、今日探すのもそこだ。昔の人が、何を残して、どこから先を危険だと判断してたのか」
「はい」
その時だった。
机の下のバッグが、小さく震えた。
「ゆ……ん」
先ほどより弱い声だった。
玄兎が覗き込むと、ユンは丸くなっていなかった。バッグの北側へ身体を寄せ、布越しに何かを見ようとしている。
小毬が鼻を動かす。
「またです。今度はさっきより強い」
「何が?」
「知ってる匂いを探してる感じです。でも、その匂いが近くにあるわけじゃない。遠いのに、こっちだって分かってるみたいな……」
透羽が端末へ周辺の境界反応を表示した。
「書庫内には異常ありません。ただ、北側の旧市街方向に弱い土地反応があります」
「ユン、それを見てる?」
「断定はできません。ただ、方向は一致します」
依澄がバッグのそばへしゃがみ、指先へ一羽だけ薄紫の蝶を出した。
蝶はユンの前を一度回り、書庫の空気へ溶ける。
依澄は目を閉じた。
「夢じゃない。もっと固い。場所の感じ」
「土地に結びついた反応?」
「うん。遠いけど、切れてない」
玄兎は北側の棚を見る。
「午前中に見つかるかもしれないな。ユンが気にしてる場所」
「偶然かもしれません」
透羽はそう言いながらも、調査表へ『北側旧市街』と書き足した。
「でも、候補には入れます」
◇
十分ほど後、依澄が薄い冊子を机の中央へ置いた。
『朽木ヶ丘周辺 屋敷神・境界祭祀聞書』
五十年以上前の聞き取り記録だった。
その中に、店の裏手へ現れる白い小獣について書かれた項目がある。
家人が帰宅すると鳴く。
外出時には戸口まで見送る。
食物にはほとんど興味を示さず、冬は布を敷いた木箱で丸くなる。
家ではそれを「戸守」と呼び、追い払わず、朝夕に声をかけていた。
玄兎は二度読み返した。
「……似てるな」
小毬も身を乗り出す。
「白くて小さい、帰ってきたら鳴く、食べない、箱で寝る。かなり似てます」
バッグの中から、
「ゆん」
と声がした。
千燈が吹き出した。
「また自己申告」
「同系統の可能性はありますが、同一種と判断する材料はありません」
透羽はすぐ釘を刺す。
「そこまで言ってないって」
「玄兎はすぐ親戚扱いしそうなので」
「俺への信用どうなってる?」
「必要な範囲であります」
依澄は記録とバッグを見比べた。
「昔の名前があっても、ユンはユン」
「それはそうだな」
由来を知ることと、今いる存在を古い分類へ押し戻すことは違う。
その感覚は、依澄のことを調べてきた時にも何度も学んだ。
同じ冊子をさらにめくると、似た扱いの記録が短く続いていた。どれも性質は違うが、危険が増えない限り、その土地から無理に切り離してはいない。
その中で玄兎の目が止まったのは、峠で迷った人へ正しい道を示す「白い手」だった。
本文は数行しかない。
夕暮れや雨の日、道を誤った者の前へ手だけが現れ、安全な方角を指す。追えば消え、触れようとしても届かない。
ページの端には、後年の調査者による小さな追記があった。
『北丘旧道・道守。鷺宮家管理記録に同名あり』
透羽が顔を上げる。
「午後、これを最優先で照合します」
バッグの中でユンがまた動いた。
今度は明らかに北を向いていた。
◇
午後一時過ぎ。
鷺宮家の記録庫で同じ地名を探すと、答えはすぐ見つかった。
『北丘旧道・道守』
『危険度:低』
『人身被害:なし』
『誘導対象以外への接触なし』
『現地維持』
「……現地維持?」
玄兎が読み上げると、透羽もその語の上で指を止めた。
「鷺宮家の旧い管理区分です。対象を中央へ移さず、元の土地へ残したまま観測と安全管理を続ける方式を、そう記録しています」
次の欄には、出現範囲、観測頻度、道守の示す先が現実の道路と一致しているか、出現回数が急増していないかが細かく残されていた。人へ接触した場合や、誘導先そのものが危険になった場合は維持を中止し、一時封印へ切り替えるともある。
小毬が紙面を指で追う。
「残してるけど、放っておいてはいないんですね」
「はい。残すことを選ぶ代わりに、変化を見続けていた」
玄兎は『現地維持』の四文字をもう一度見た。
朝から探していたものに、ようやく名前がついた。
千燈が年代順の索引をめくり、途中で手を止めた。
「この項目、二十数年前から急に減ってる」
代わりに増えていたのは、『中央移送』『統合』という記録だった。
透羽が対応する計画書を開く。各地の小さな監視対象を中央へ集め、巡回の負担と管理漏れを減らすためのものだった。祭祀を継ぐ人が減り、土地の管理者も高齢化していた時代には、実際に事故を減らしている。
「これ自体が間違いだったわけじゃないんだな」
「はい。当時は人を守るための合理的な選択でした」
ただ、運用が続くうちに移送対象は広がり、帰巣の経路も中央へまとめられていった。
玄兎は『現地維持』の減っていく索引と、その隣で増えていく統合記録を見比べた。
「だから、昔へ戻せばいいって話でもない」
「はい。昔の条件も、今の条件も、そのままでは使えません」
玄兎は机の端にある北丘の記録を見た。
「ここ、まだ残ってる?」
「最終観測は三十四年前です。その後は中央移送の予定対象になっていますが、移送完了記録がありません」
「じゃあ、今も現地にいる可能性がある」
「あります」
「ユンが朝から北を気にしてたのも、そこかもしれない」
透羽は数秒考えた。
「行きましょう」
「即決」
「記録だけで終える余裕はないと言いました」
千燈が笑う。
「そこは本当にぶれないね」
◇
午後四時前。
大学北側の住宅地を抜けた先に、古い旧道が残っていた。
新しい住宅と舗装道路に挟まれ、そこだけ時間から取り残されたように細い石段が伸びている。十数段上がると、小さな木造の祠と、大きな榎。根元には苔のついた石がいくつも埋まり、乾いた夏草の間から古い石垣が覗いていた。
玄兎が専用バッグを開ける。
「一回だけ出すぞ。勝手に走るなよ」
「ゆん」
ユンはいつものように勢いよく飛び出さなかった。
地面へ降りると、その場で身体を低くし、祠の方を見る。
「やっぱり何かいます」
小毬が鼻を動かした。
「古い石と草、それから雨が乾いたあとの道みたいな匂い。その奥に、すごく薄いけど怪異の匂いがあります」
「夢側ではない」
依澄も周囲を見る。
「現実にくっついてる。ここから離れたくない感じ」
透羽の端末にも、ごく弱い反応が出ていた。
「北丘旧道の記録と位置は一致します。少なくとも、何らかの残留は今もあります」
五人で祠の周囲を確認すると、脇の草に半分埋もれた細い石柱が見つかった。
上部は割れ、文字もほとんど削れている。
透羽が泥を払う。
『……道』
『……従……』
それだけが読めた。
「昔の案内?」
玄兎が訊く。
「可能性はあります。ただ、これだけでは断定できません」
その時、坂の下から杖をついた老婦人が上がってきた。
五人を見ると、少し笑う。
「あら。大学の子?」
「はい。この祠について、昔の聞き取り記録を調べていまして」
透羽が答えると、老婦人は祠へ目を向けた。
「道守さんね」
五人の視線が揃った。
「ご存じなんですか」
「子供の頃から。雨の日や夕方に道を間違えると、生垣から白い手が出て、帰れる方を指すって」
玄兎は思わず訊いた。
「怖くなかったんですか」
「怖かったわよ」
老婦人は即答した。
「手だけ出るんだから」
「ですよね」
「でも、悪いものじゃないとは教わってたの。『出ても触らない、追いかけない、指した方を見る』って。子供だけでここを通る時も、最初にそれを言われたものよ」
老婦人は杖の先で、草に埋もれた欠けた石柱のそばを軽く示した。
「この石にも昔は何か書いてあったはず。字が読めない小さい子でも、大人がここで教えたからね。白い手が出ることも、どうすればいいかも、みんな先に知ってたの」
「今は知らない人の方が多いでしょうね。道も変わったし、スマートフォンがあれば、こんな細い旧道を使う人も少ないもの」
「道守が人を傷つけた話は?」
透羽が尋ねる。
「私は聞かないわね。指すだけ。ただし、知らない人が見たら驚くでしょうねえ」
老婦人は笑った。
「昔だって怖かったんだから」
そう言って、暗くなる前に帰りなさいよ、と坂を上がっていった。
玄兎は欠けた石柱へ目を戻した。
「怪異だけじゃなくて、人間側にも手順があったんだな」
「はい」
透羽も石柱を見る。
「意味を知っていること自体が、安全装置の一部だった可能性があります」
その時、小毬が顔を上げた。
「来ます」
透羽の手が清め水へ伸びる。
祠の右側。
古い石垣と生垣の隙間から、白いものがゆっくり伸びた。
細い人の手だった。
手首から先しかない。
半透明の皮膚に、土の下から透けてきたような灰色の筋が浮かんでいる。
五本の指は、住宅地側の広い舗装路ではなく、祠の裏へ続く細い旧道をまっすぐ示した。
玄兎は知識があっても背中が冷えた。
「……知ってても怖いな」
「はい」
透羽も否定しなかった。
白い手は、それ以上動かない。
誰にも近づかない。
ただ道を指している。
その静けさの方が、かえって人の手ではないことをはっきりさせていた。
坂の下から、自転車を押した少年が上がってくる。
中学生くらいだった。片手でスマートフォンの地図を拡大し、顔を上げてはまた画面へ戻る。祠にも玄兎たちにも気づかず、広い舗装路へ自転車の前輪を向けた。
「えっと……こっち?」
白い手の人差し指が、ほんの少し動いた。
くい、と旧道を示す。
少年の視線が、その動きを拾った。
「……え?」
足が止まる。
生垣から出ているのは、手首から先だけだった。
少年の顔から血の気が引いた。
自転車のハンドルを胸元へ引き寄せるようにして、一歩下がる。
白い手は追わない。ただ、もう一度、旧道を指した。
「うわっ……!」
少年は意味を考えるより先に、さらに後ろへ逃げた。
自転車の後輪が、舗装の端を越える。
その向こうは車道だった。
曲がり角の向こうから、配送車のエンジン音が膨らむ。
「後ろ!」
玄兎が叫んだ。
少年が振り返る。その一瞬で身体が固まった。
小毬が駆け込み、自転車のハンドルを横から掴む。
「下がらないでください!」
前輪が大きく傾いたが、小毬が踏ん張った。少年の靴底が車道へ落ちる寸前で止まる。
直後、配送車が角を曲がって目の前を通り過ぎた。
風だけが制服の裾を強く揺らした。
少年は声も出せず、通り過ぎた車と白い手を交互に見た。
「……何、あれ」
玄兎もすぐには答えられなかった。
白い手はさっきと同じ場所にある。
少年を脅した様子も、追いかけた様子もない。ただ、安全な旧道を指し続けている。
それなのに、あと半歩で事故になっていた。
透羽の端末が短く震えた。
『局所境界変動』
『土地記憶重複』
広い舗装路の奥へ、昔の土道が薄く重なった。今は石垣で塞がれたはずの切れ目が、ほんの一瞬だけ道のように見える。
少年はスマートフォンを見下ろした。
「地図だと、こっちなんですけど……」
「大通りへ出るなら、あっちの細い道で合ってる」
玄兎は白い手が示している方を指した。
「俺たちもそこまで行くよ。あれには近づかなくていい」
「……あれが指してる方に?」
「そう。触らなくていいし、追いかけなくていい。道だけ見ればいい」
さっき老婦人から聞いた言葉が、そのまま口から出た。
少年はまだ青い顔をしていたが、玄兎たちが先へ立つと、ようやく自転車を押し始めた。
数十メートル先で旧道は現在の大通りへ安全につながっていた。
「ありがとうございました」
少年は頭を下げたあと、少し迷ってから祠の方を見る。
「……あの手、何なんですか」
「この辺に昔からある、道案内の言い伝えです」
透羽が答えた。
「怖かったと思います。ただ、あの場所では細い道の方が安全だということだけ覚えておいてください」
少年は完全には納得していない顔のまま、それでも頷いて走り去った。
祠へ戻ると、白い手はもう消えていた。
玄兎は欠けた石柱と、少年が消えた大通りを順に見た。
「道守は、昔と同じことをしただけなんだよな」
「はい」
「指した道も間違ってなかった」
「はい」
小毬がさっきハンドルを掴んだ手を見下ろす。
「でも、あの子は知らなかったから、逃げました」
玄兎は頷いた。
老婦人は、白い手が出ることを知っていた。触らないことも、追わないことも知っていた。
少年は知らなかった。しかも今は、すぐ後ろを車が通る。
怪異は変わっていない。
変わったのは、その周りだった。
透羽は欠けた石柱へ目を向ける。
「記録にある条件だけでは足りませんね」
「うん。今ここで安全かどうかを見ないと、残せるとは言えない」
玄兎が言うと、透羽は短く頷いた。
◇
ここで帰れば、今日の調査だけでも意味はあった。
だが、透羽は北丘の旧管理記録をもう一度開いた。
「一つ、確認したいことがあります」
「何?」
「旧方式の『現地維持線』です」
画面には、三十四年前まで使われていた簡単な図が表示されている。
祠の周囲へ細い境界を置き、道守がこの土地以外の帰巣反応へ引かれないよう、土地との結びつきを補強する仕組みだった。
「これ、今もできる?」
玄兎が訊く。
「完全復元ではありません。数分だけなら、私の水鏡で当時の境界配置を仮再現できます」
「何のために?」
「道守が今もこの土地へ安定して結びつけるかを確認します。もし旧方式がそのまま成立するなら、現地維持の条件を一つ実地で確認できます」
千燈が祠を見る。
「やるなら、かなり弱くね」
「当然です。異常が出た時点で切ります。道守そのものを移動させる実験ではありません」
小毬がユンを抱き上げた。
「ユンは離した方がいいです」
「はい。比較反応を見るだけにします。実験対象にはしません」
玄兎は少し考えた。
「俺は?」
「境界の外へ」
透羽の返事は即答だった。
「玄兎の帰巣反応が強く出た場合、結果を混ぜます」
「了解」
五人は祠から距離を取って配置についた。
透羽が水の小瓶を開く。
地面へ落ちた数滴が、石の隙間を細い線になって走った。
派手な光はない。
古い祠の四方を囲むように、ほとんど見えない薄い水膜が張られていく。
「旧記録配置、仮再現。強度は当時推定値の一割以下」
依澄が境界の外側へ蝶を一羽置く。
「夢側、混ざってない」
小毬はユンを抱いたまま、祠の匂いを追う。
「道守さんの匂い、少し濃くなりました。でも嫌じゃないです」
千燈の烏が榎の枝へ止まった。
「感情も静か。『案内する』が一番強い」
透羽が水鏡を一段だけ固定する。
生垣の隙間から、白い手が再び現れた。
先ほどより輪郭が濃い。指の節も爪の形も分かるほどなのに、手首から先には何も続いていない。
人差し指は、まっすぐ旧道を指していた。
「安定してる?」
玄兎が境界の外から訊く。
「現時点では」
透羽の声にも、わずかな安堵が混じった。
「土地側の固定値が上がっています。旧方式には、今でも一定の効果が――」
「ゆんっ!」
ユンが突然、小毬の腕の中で身体を捻った。
玄兎の方へ前脚を伸ばし、毛を逆立てる。
「ユン?」
「違います、先輩じゃない!」
小毬の顔色が変わった。
「何かが、先輩の方へ流れてる匂いです!」
白い手の指先が、わずかに震えた。
最初は見間違いかと思う程度だった。
旧道の中央を指していた人差し指が、ほんの数度だけ右へずれる。
旧道の端。
欠けた石柱。
その脇の空間。
止まらない。
ゆっくり、ゆっくりと、目に見えない何かへ引かれるように向きを変えていく。
「透羽」
玄兎が呼んだ時、左胸の痣が熱を持った。
身体の内側へ熱い指を押し込まれたような感覚だった。
「切ります」
透羽が即座に水鏡へ指を向ける。
けれど、その指が動き切るより先に、白い手の人差し指が玄兎を向いた。
顔ではない。
胸だった。
痣のある場所を、正確に指している。
地面を走る水線が細かく震えた。
玄兎は逃げようと思った。
なのに、先に動いたのは逆の足だった。
膝から下の力がふっと抜け、重心が前へ落ちる。自分では止まっているつもりなのに、右足の踵が地面を離れた。
――行く。
そう考えたのではない。
身体の方が、もう歩き始めていた。
一歩。
旧道でも祠でもなく、白い手へ呼ばれたように玄兎の身体が境界へ近づく。
「玄兎!」
透羽の声と同時に、手首を強く掴まれた。
そこでようやく、自分が進んでいたことを玄兎の意識が追いついた。
「行かないでください」
透羽の声は冷静ではなかった。
玄兎は彼女を見る。
目の奥に、短い恐怖がある。
《百獣繭》から自分を呼ばれた時と同じものを、透羽も思い出している。
玄兎は一度だけ息を呑み、意識して後ろ足へ体重を戻した。
「行かない」
それから、白い指先を見据える。
「今回は、俺が終点になる話じゃない」
透羽の指から、ほんの少しだけ力が抜けた。
「……はい」
「千燈先輩、感情を切り分けてください!」
透羽が声を戻した。
「見てる!」
千燈は目を閉じる。
「道守自身は玄兎くんを欲しがってない。『案内する』『戻す』のまま。でも、その『戻す』の行き先だけが上書きされてる!」
「小毬!」
「土地の匂いと先輩の匂いの間に、別の細い道があります! 道守さんが自分で作った道じゃないです!」
「依澄さん!」
「夢じゃない。もっと深い。中央から伸びてる」
依澄の蝶が水線へ触れる。
「昔の帰る場所を、玄兎に曲げてる」
透羽が水鏡を切った。
祠を囲んでいた水線が一斉にほどける。
白い手が大きく揺れた。
一瞬だけ、指先が旧道と玄兎の間で迷う。
やがて輪郭が薄くなり、生垣の奥へ引っ込んだ。
玄兎の胸の熱も、少しずつ下がっていく。
ユンは小毬の腕の中で身体を丸め、しばらく顔を上げなかった。
誰もすぐには喋らなかった。
蝉の声と、遠くの車の音だけが戻ってくる。
「……失敗、だよな」
玄兎が言った。
「はい」
透羽は迷わなかった。
「旧方式をそのまま復元する試験としては失敗です」
小毬が祠を見る。
「道守さん、悪くなったんですか」
「いいえ」
千燈が先に答えた。
「本人の感情は変わってない。行き先を別の仕組みに曲げられただけ」
透羽は端末へ残った波形を見ていた。
「現地維持線を補強したことで、道守の『戻す』『帰す』という性質が強く出た。その瞬間、現在の中央帰巣系が反応し、玄兎を優先終点として上書きした可能性が高いです」
「昔の家を建て直したら、今の住所へ転送されたみたいな?」
玄兎が訊く。
千燈が苦い顔で笑う。
「かなり嫌な転送だけど、近いかも」
透羽は画面を閉じた。
「つまり、現地維持の仕組みだけを戻しても足りません。現在の帰巣系が残っている限り、土地へ帰ろうとしたものまで玄兎へ引かれる」
玄兎は胸へ手を置いた。痣の熱はもう引き始めているのに、自分の意思より先に足が出た感覚だけが残っていた。
「外へ出せても、俺が帰る先のままなら同じか」
「はい」
透羽はしばらく玄兎を見ていた。
まだ手首を掴んだままだと気づいたらしい。
ゆっくり手を離す。
「すみません」
「何が?」
「強く掴みました」
「そのくらいなら平気」
玄兎は少し笑った。
「止めてくれてありがとう」
透羽は答えず、一度だけ頷いた。
それから小さな声で、
「明日の実験でも、同じです」
と言った。
「何が?」
「玄兎が終点になりそうなら、止めます」
「うん」
「玄兎が『自分なら大丈夫』と言っても止めます」
「そこまで言ってない」
「言う前に確認しています」
千燈が横から笑う。
「透羽ちゃん、相変わらず先回りがすごいね」
「必要なので」
玄兎も笑った。
さっきまでの恐怖が消えたわけではない。
それでも、誰かに止めてもらえることを、以前ほど情けないとは思わなくなっていた。
◇
試験を終えたあと、透羽は道守を封印しなかった。
旧方式の仮再現を切れば、反応は元の弱い状態へ戻った。玄兎へ向く帰巣反応も消えている。
ただし、三十四年間途切れていた観測は再開することになった。
「残すんですね」
小毬が確認する。
「現時点で、封印が必要な危険化は確認できません」
透羽は祠を見た。
「ただし放置もしません。出現条件、誘導先、周辺道路との関係、人が驚いた場合の二次危険まで記録します。大学側には、怪異を公表しない形で旧道の案内や安全表示を整備できないか相談します」
「昔の石柱をそのまま戻すんじゃなくて、今の人にも分かる形にする」
玄兎が言う。
「はい。昔と同じ関係を復元するのではなく、今の環境で安全に続けられる関係を作ります」
依澄が祠を見る。
「道守は、ここにいるまま」
「今のところは」
透羽が答えた。
「危険化すれば判断を変えます。その可能性まで含めて現地維持です」
ユンがようやく小毬の腕から顔を出した。
「……ゆん」
玄兎が指を差し出すと、ユンは一度匂いを嗅ぎ、額を押しつける。
「さっきは悪かったな」
「ゆん」
「俺のせいじゃないって言ってる?」
「たぶん『もう帰ろう』です」
依澄が言った。
「そこは分かるんだ」
「今のは分かる」
空はもう夕方の色へ変わり始めていた。
玄兎たちは祠へ一度頭を下げ、大学へ戻った。
◇
研究室へ戻ると、透羽は共有ノートを開いたまま、しばらく何も書かなかった。
昼間の道守の記録が端末に残っている。
旧道を指していた白い指が、少しずつ玄兎へ向きを変えていく波形。
「道守は、あそこに残せる」
玄兎が先に口を開いた。
「今の環境に合わせて見張る必要はあるけど、封じて持ち帰らなくてもいい」
「はい。今日確認できた範囲では、それが《現地維持》です」
透羽はノートへ『北丘旧道・道守――現地維持継続』とだけ記した。
「でも、土地へ結び直そうとしたら、俺へ向いた」
「現在の帰巣系が、帰る先を玄兎へ上書きしました」
千燈が椅子の背へ寄りかかる。
「道守本人はずっと旧道へ帰すつもりだったのにね」
「そこが一番嫌だな」
玄兎は端末の画面を見つめた。
白い手は悪意で自分を指したのではない。
帰すという性質が強くなった瞬間に、行き先だけを書き換えられた。
「だったら、外へ出す前に分からないと駄目だ」
「何が?」
小毬が訊く。
「そいつが本当はどこへ帰るものなのか。土地なのか、夢なのか、別の場所なのか。怪異ごとに返す先を見分ける」
依澄が静かに頷いた。
「混ざったまま、同じところへ帰さない」
「うん」
玄兎は自分の左胸へ手を当てた。
昼間、あの白い指が最後に向いた場所だった。
「それと……俺へ向くこと自体は、もう止められないんだよな」
透羽が少し考えてから答える。
「少なくとも、現在の仕組みを一度に消す方法はありません」
「じゃあ、逆に使えないかな」
四人の視線が集まった。
玄兎は、道守の指が旧道から自分へ向きを変えた動きを思い出す。
「俺を終点にしない」
玄兎は端末の中央、自分を示す印へ指を置いた。
「怪異が俺へ帰ろうとする、その一瞬だけ道を見つけるために使う。でも俺へ入る前に、本当の行き先へ曲げる。俺を保管場所じゃなくて……分岐点にする」
誰もすぐには答えなかった。
透羽が画面上の経路を一本だけ指でなぞる。玄兎へ伸びた線を、その手前で横へ逸らすように。
「玄兎へ定着する前に経路を曲げる」
「できそう?」
「検討はできます。ただ、今日のように身体が先に反応する可能性があります。定着の兆候が出た時点で中止です」
「それでいい」
小毬が不安そうに玄兎を見たあと、画面へ視線を戻した。
「いきなり何体もは、絶対だめです」
「はい」
透羽はそこで初めて、共有ノートへ次の予定を書いた。
「明日、《百獣繭》の中から低危険度で、他と混ざっていない輪郭の明確な個体を一体だけ選びます。返す場所を先に特定し、玄兎へ定着する前に経路を曲げられるか、小規模な分離試験をします」
「一体だけ」
玄兎が確認する。
「一体だけです。外へ出たことではなく、玄兎へ残らず、本来の場所で安定したところまでを成功とします」
千燈が小さく息を吐いた。
「今日失敗したおかげで、明日やることはむしろ絞れたね」
「失敗したから分かったんだと思う」
玄兎はノートの余白へ一行だけ書いた。
『閉じ込めないなら、帰る場所まで間違えない。』
書き終えたところで、昼間勝手に踏み出した右足の感覚を思い出した。
怖くないわけではない。
それでも明日は、自分を帰る場所にするための実験ではない。
自分のところで道を終わらせないための実験だ。
研究室の隅では、専用バッグから出たユンがクッションの上で丸くなっていた。
しばらくすると、欠伸のような長い声が漏れる。
「ゆぁん……」
小毬が勢いよく振り返った。
「今の新しいです!」
「記録する?」
千燈が笑う。
「します!」
「そこは即決なんだ」
玄兎も笑った。
夢の中では、答えは最初から完成していた。
現実では、一つ試して、一つ失敗して、ようやく明日試す方法が見えた。
でも今は、その方が信用できる。
間違えた場所が分かるなら、次はそこを避けて進める。
玄兎はノートを閉じた。
明日は、《百獣繭》から最初の一体を外へ出す。
自分へ戻すためではない。
帰る場所を、自分以外にも作るために。
――第三十一話・了