夢から覚めた直後の朝は、思っていたより静かだった。
午前五時を少し過ぎたばかりの休憩室には、古い空調の低い音と、窓の外で鳴き始めた鳥の声しか聞こえない。カーテンの隙間から入る光はまだ青く、夢の中で見た夏の海とは比べものにならないほど淡かった。
玄兎は簡易マットの上で身体を起こしたまま、しばらく自分の右手を見ていた。
依澄の手を握っている。
夢の中でも何度か握った手だった。海で波に揺られた時も、最後に一緒に起きると決めた時も同じ温度だったが、今こうして触れているものには、夢だから都合よく温かいのではないという当たり前の重さがある。
「玄兎、まだ握ってる」
依澄が呼ぶ。
「依澄も離してないだろ」
「うん」
「じゃあ、お互い様だな」
依澄は少しだけ笑った。
玄兎も笑い返したところで、床へ置いていたスマートフォンが震えた。
画面を見る。
五人のグループチャットだった。
最初に届いたのは透羽からの長めのメッセージだった。
『今、かなり長い夢から覚めました。玄兎、依澄さん、起きていますか。夢の内容に二人が深く関係していたと思うので、体調に異常がないなら返事をください。』
続いて千燈。
『私も起きた。確認なんだけど、みんなで海行った? 夢にしては記憶が具体的すぎる。』
その数秒後、小毬から勢いのある文章が届いた。
『残らないって聞いたけど、やっぱり写真ありません! 海も花火も、百枚くらい撮ったのに!』
玄兎は思わず吹き出した。
「小毬、最初に確認するのそこなんだ」
「大事だったから」
依澄が言う。
「依澄も写真残したかった?」
「青い舌」
「海も」
玄兎はグループチャットへ返事を打つ。
『起きてる。俺と依澄は大丈夫。夢の内容も覚えてる。写真は俺もない。』
送信すると、すぐに既読が三つ付いた。
透羽から返信が来る。
『みんな、ある程度同じ夢を見ていた可能性が高そうですね。七時半に研究室で、体調と夢の内容を確かめましょう。』
千燈。
『朝から夢の答え合わせ会か。面白そう。』
小毬。
『海の写真、本当に一枚も戻らないんですか……。』
三人のメッセージには、同じ海と大学祭があった。玄兎は写真を探し続ける小毬を想像して笑い、スマートフォンを伏せた。
玄兎が立ち上がろうとして、まだ依澄と手を繋いでいたことに気づく。
今度はどちらからともなく指をほどいた。
「顔洗う」
「俺も」
二人は立ち上がった。
夢で何週間も暮らしたような感覚があるのに、現実ではまだ朝の五時台だった。
長い夏休みから突然平日の朝へ戻されたような気分だった。
◇
七時半になる少し前、研究室には全員が揃った。
一番先に来たのは透羽だった。
夢の中でも毎朝一番に大学へ来ていたので、玄兎はその姿を見た瞬間、少し笑ってしまった。
「何ですか」
「いや。本物でも一番なんだなと思って」
「集合時刻を決めた本人が遅れるわけにはいかないでしょう」
「夢の中でも同じこと言いそう」
透羽の動きが一瞬止まる。
「……夢の中の話は、あとで整理します」
「水着も?」
玄兎が何気なく聞いた瞬間、透羽の視線がまっすぐ飛んできた。
「その話はあとです。先に、体調を確かめさせてください」
その数分後に千燈が来た。
「おはよう。透羽ちゃん、朝からもう赤いね」
「赤くありません」
透羽の声が少し低くなる。
千燈は楽しそうに笑いながら席へ座った。
小毬は最後ではなかったが、一番大きな音を立てて入ってきた。
「先輩、やっぱり写真ありません!」
研究室へ入るなり玄兎へスマートフォンを見せる。
「見れば分かるけど、何もない画面見せられても」
「夢では百枚くらい撮りました。先輩が浮き輪競争で負けたところも!」
「最後の写真は消えてよかったかも」
「記録は大事です!」
小毬は本気で残念そうだった。
依澄が最後に入ってくる。
「おはよう」
「依澄さん」
透羽の表情が少し引き締まる。体調と夢層への接続感を確かめると、どちらもいつも通りだという。頭痛も、現実と夢の区別がつきにくい感覚もない。
「今は現実」
依澄がそう付け加える。透羽は次に玄兎へ目を向けた。
「俺も普通。夢の記憶が多すぎて、昨日が何日前だったか変な感じはするけど」
「そこは私もです」
千燈が頷く。
「体感だと何週間か大学祭の準備してたのに、スマホ見ると昨日から一日しか経ってない。記憶だけ夏休み一個ぶん増えた感じ」
「私もです!」
小毬は少し嬉しそうになる。
「夢の中で誕生日会もしましたよね。先輩のケーキに『明日も大学へ来ること』って書きました」
「あと、ユンとの触れ合い、一回十分まで伸ばせたはずなんですけど」
「三分です」
透羽が即座に訂正した。
全員が透羽を見る。
透羽も、自分が反射的に答えたことに気づく。
千燈の口元がゆっくり上がった。
「透羽ちゃん、かなり覚えてるじゃん」
小毬が小さく手を上げる。
「確認なんですけど、夢の中のデートってノーカウントですよね?」
「誰と誰の話だよ」
玄兎が聞くと、小毬は答える前に透羽を見た。
「今ここで決める項目ですか、それ」
透羽は真顔で返した。
千燈が笑う。
透羽は端末を持ち直し、小毬の瞳孔反応を確認し始めた。
玄兎もそれ以上は聞かなかった。
◇
身体の状態を一通り確認していくと、五人とも大きな異常はなかった。
千燈は窓際へ手を出し、朝の日差しに数秒だけ当ててから引っ込めた。
「やっぱり現実は現実か。海は日傘必須だね」
小毬も、自分の嗅覚を大学中で隠さず使えていた記憶は残っていた。ただ、正門前で鼻を動かしかけて、通り過ぎる学生を見てやめる。
「……今はこっちです」
「ここだと、ちょっと目立つか」
「そこは、私も分かってます!」
依澄は、自分の学生証をしばらく指でなぞっていた。
現実にも学生証はある。履修登録もあり、学生ポータルへも入れる。ただ、入学以前を遡れば記録は途切れている。
「依澄、一番残したかったの何?」
玄兎が聞く。
依澄は少し考えた。
「ちゃんと続いてる過去」
透羽が端末を開く。
「大学に今ある記録から、一つずつ調べましょう。公的な履歴を勝手に作ることはできませんが、どこで途切れているかは確かめられます」
「私もやります」
小毬がすぐに言う。
千燈は笑いながらも、自分の椅子を依澄の端末側へ寄せた。
玄兎も空いていた資料閲覧用の端末を引き寄せる。
「久住教授にも聞こう。今ある記録から辿れるところまで」
「うん」
依澄は短く答え、自分の学生証を首へ戻した。
◇
状態確認が一段落したところで、小毬が突然立ち上がった。
「ユン!」
「昨日の夜から、長く会ってない気がします!」
五人は研究室の隣にある資料準備室へ移動した。
透羽が認識阻害の札を確認してから扉を開く。
中には、昨日作った簡単な寝床がそのまま残っている。
ユンはタオルの上で丸くなっていた。
扉の音に気づき、灰色の目がゆっくり開く。
五人を見る。
次の瞬間、身体が勢いよく起き上がった。
「ゆんっ!」
昨日までの落ち着いた鳴き方より明らかに強い。
短い脚で箱の縁へ上ろうとし、一度滑る。
「待って、今出すから」
玄兎が手を伸ばす。
ユンは掌へ乗るなり、腕を伝って胸元までよじ登ろうとした。
「そんなに?」
「ゆぅん……」
今度は長く、少し拗ねたような声だった。
玄兎は思わず笑う。
「ごめん。待たせた感覚、ユンにもある?」
「夢には入っていないはずです」
透羽はユンの周囲を観察する。
「ただ、依澄さんが夢層へ長くつながっていたので、近くにいたユンも、時間の感覚だけ少し共有したのかもしれません」
小毬が近づく。
「ユン、ごめんね!」
ユンは小毬を見る。
「ゆん?」
少し上がる鳴き声。
小毬が両手を差し出すと、ユンは玄兎の腕からそちらへ移った。
「ゆん、ゆんっ」
千燈が笑う。
「待ってたんだね」
玄兎がユンの頭を撫でる。
「でも戻ってきた」
「ゆん」
今度は少し低く落ち着いた。
小毬はすぐにスマートフォンを構える。
「写真撮ります。夢の百枚が消えたので、今日から取り戻します!」
「外部同期は切ってください」
透羽が反射的に言う。
「分かってます! 一枚目、ユン怒ってる顔!」
依澄がユンへ指を出す。
「ユン」
「ゆん?」
「帰ってきた」
ユンは依澄の指先へ鼻先を寄せる。
「ゆーん」
今までより少し伸びた柔らかい声だった。
「たぶん、嬉しい」
依澄が言う。
玄兎は笑う。
昨日は同じに聞こえた声の、語尾や長さに違いがある。玄兎はユンが次に顔を上げるのを待った。
夢で見た「大学中から名前を呼ばれるユン」を思い出す。
現実では、まだ五人しかその声の違いを知らない。
それでいい。
まずはここからだ。
◇
朝が早すぎたので、五人は一度学食ではなく、大学近くのファミリーレストランへ移動した。
朝食の時間帯で、店内はまだ空いている。
ユンの短時間の持ち出しは、透羽が鷺宮家へ連絡し、同行観察として許可を取った。一般客には接触させず、水膜センサーも携帯する。ユンは術式を薄くかけた専用バッグの中で、五人の声が聞こえるよう少し開けた上部から顔を出していた。
玄兎はトーストと卵のセット。
透羽は和朝食。
小毬は朝から大きめの肉料理を追加し、千燈はコーヒーだけでいいと言いながら最終的にパンケーキまで頼んだ。
依澄はメニューをかなり長く見ていた。
「決まらない?」
玄兎が聞く。
「プリンない」
「夢では食べた」
「食べたいは残った」
「じゃあ昼にしよう」
「うん」
依澄は結局フレンチトーストを頼んだ。
注文が終わると、千燈がテーブルへ肘をつく。
「小毬、海の写真は撮り直すんでしょ?」
「もちろんです。今度は消えないやつを百枚撮ります」
透羽が味噌汁の蓋を外しながら、小さく息をついた。
依澄はフレンチトーストを一口食べてから玄兎を見る。
「昼、プリン」
「覚えてるよ」
「忘れないで」
透羽は何も言わず、玄兎の手元で空になっていた水のグラスを見て店員を呼んだ。
夢の話はそこで途切れ、朝食の話へ戻った。
◇
大学へ戻る頃には、空が明るくなっていた。千燈が日傘を開き、小毬は人の流れを避ける。透羽の鞄では観測端末が小さく揺れていた。
依澄は玄兎の隣へ来て、次に撮る海の写真の話をした。
「次は俺の写真も撮ってくれる?」
玄兎が聞くと、依澄は頷いた。
研究室へ戻ると、小毬がさっそく現実のユンの写真を撮り始めた。
千燈は烏を一羽出し、ユンの前へ降ろした。
ユンの灰色の目が輝く。
「ゆんっ!」
短く弾む声。
白い身体が床を跳ねる。
「一枚目から動きます!」
小毬が慌ててカメラを追う。
「写真撮るなら連写にした方がいいよ」
「容量が!」
「百枚撮る気だったのに?」
ユンは烏を追いかけ、机の脚を一周した。
烏が椅子の背へ飛ぶ。
「ゆぅん?」
見失ったユンが首を傾げるように身体を傾ける。
依澄が指差す。
「上」
ユンが見上げる。
「ゆん!」
また跳ねる。
玄兎はその様子を見ながら笑った。
夢の中のユンは、大学中の人に愛されていた。
現実のユンは、まだこの小さな部屋の中にいる。
でも、五人はもう知っている。
この先にどんな形を目指したいのかを。
それだけでも、夢を見る前とは違っていた。
◇
午前の講義が始まる前、透羽が玄兎を呼び止めた。
他の三人は先に教室へ向かっている。
講義棟へ続く渡り廊下で、透羽は端末ではなく自分のスマートフォンを差し出した。
画面には、水着の通販ページが二つ並んでいる。
一つは紺を基調にした落ち着いたもの。もう一つは白と青の、少し明るいもの。
玄兎は画面と透羽を見比べた。
「どちらがいいと思いますか」
玄兎は少し笑いそうになりながら、白と青の方を指した。
「こっち」
「理由は?」
「海で見つけやすそうだから。あと、似合うと思う」
透羽の指が止まる。
二秒ほどして、白と青の商品の『店舗在庫を確認』を押した。
玄兎はとうとう笑った。
透羽は理由を聞かなかった。視線を画面へ落としたまま、口元だけが少し緩む。
「サイズは実物を確認します」
「また駅ビル?」
「在庫があります」
「俺も行く?」
今度は透羽が玄兎を見る。
「時間が合えば」
「じゃあ合わせる」
廊下の向こうから学生の話し声が近づいてきた。
透羽はスマートフォンをしまい、玄兎の隣へ並ぶ。
「講義へ行きましょう」
「うん」
二人はそのまま歩き出した。
透羽はいつもより半歩だけゆっくり歩き、玄兎が横へ並んでも速度を戻さなかった。
◇
昼休み。
五人は学食で同じテーブルを囲んだ。
依澄は約束通りプリンを買っている。
「夢で食べたかった」
「味は現実の方がいい?」
依澄は一口食べ、しばらく考える。
「同じくらい」
「私が知ってる味だから」
小毬は夢で食べた肉料理を再現しようとして、結局いつもの定食になった。
千燈はスマートフォンで海水浴場を検索している。
「夢の写真がないなら撮り直そうよ」
千燈が言う。
「いつまで泳げるかと、みんなの空いている日を調べましょう」
透羽は少し黙った。
小毬がすぐに反応する。
「次は現実で勝負です!」
「泳ぎ? 浮き輪?」
玄兎が聞くと、小毬は『全部です!』と答えた。
玄兎が笑う。
依澄がプリンのスプーンを置く。
「現実の海」
「玄兎も行く。予定、合わせる」
依澄は言った。
千燈が共有カレンダーへ海水浴の候補日を二つ入れた。
小毬は一秒で両方へ参加を付け、依澄もその隣で同じボタンを押す。
少し遅れて、透羽の名前にも参加予定の印が付いた。
玄兎は自分の欄にも印を入れた。
◇
午後三時過ぎ。
その楽しさは、透羽の端末が震えるまで続いた。
音は小さかった。
それでも五人全員が反応した。
夢の中では存在しなかった音。
現実へ戻ったことを一番はっきり知らせる種類の通知だった。
透羽が画面を見る。
表情から笑いが消える。
「どうした?」
玄兎が訊く。
透羽は数秒、表示を確認した。
「《百獣繭》の中央拘束力が、再び下がり始めています」
学食を出たあとの研究室。
窓からは、いつも通りの大学が見えている。
何も起きていない。
それなのに、五人の空気だけが変わった。
「昨日までは?」
千燈が聞く。
「応急固定後の範囲内で上下していました。ですが、今朝から低下速度が上がっています。夢層側の圧力も同時に増えています」
依澄が少しだけ目を伏せた。
「私の夢?」
「原因と決める数値ではありません」
透羽は昨夜の観測値を出した。
「夢層が現実へ近づいたから、五人を繋ぎやすかったのかもしれません。安定した夢が局所的な漏出を抑えた可能性もあります。どちらも、まだ仮説です」
依澄は少し驚いた顔をした。
千燈が端末を覗く。
「で、どれくらいまずい?」
「今すぐ崩壊する数値ではありません」
透羽は慎重に答える。
「ただ、手動保留を始めた時より余裕は減っています。このまま下がるなら、分散固定の準備だけを続けている時間は多くありません」
玄兎は窓の外を見る。
研究室の奥では、ユンが専用バッグから顔だけを出している。
「じゃあ、明日から本格的に調べよう」
「分散固定もだけど、その前に一つ確かめたい」
玄兎はユンを見る。
「こいつは《百獣繭》へ戻してない。それでも今のところ安定してる」
千燈が頷く。
「帰巣壇の時に返した連中も、元はそれぞれの場所にいたね」
「うん。なら、全部まとめて閉じ込めるようになる前は、どうしてたのか知りたい」
透羽が端末へ新しい調査項目を作る。
「大学の旧資料と、鷺宮家の古い管理記録を照合しましょう。一括収容以前に、怪異を土地へ残したまま扱っていた事例があるか確認します」
「残して平気だった例だけじゃなくて、途中で駄目になった例も欲しいな」
「はい。その方が条件を比較できます」
依澄が玄兎の端末を覗く。
「海は?」
「もう予定に入ってる」
「プリンは?」
「今日食べただろ」
「また食べる」
「それは自分で予定に入れてくれ」
依澄は本当にスマートフォンを取り出した。
小毬が笑い、千燈が明日の資料調査へ自分の名前を入れる。透羽は必要な閲覧申請をその場で送信した。
玄兎も最後に参加を押す。
明日の欄に、五人の名前が並んだ。
だから、明日やることがある。
――第三十話・了