夢から覚めた直後の朝は、思っていたより静かだった。
午前五時を少し過ぎたばかりの休憩室には、古い空調の低い音と、窓の外で鳴き始めた鳥の声しか聞こえない。カーテンの隙間から入る光はまだ青く、夢の中で見た夏の海とは比べものにならないほど淡かった。
玄兎は簡易マットの上で身体を起こしたまま、しばらく自分の右手を見ていた。
依澄の手を握っている。
夢の中でも何度か握った手だった。海で波に揺られた時も、最後に一緒に起きると決めた時も同じ温度だったが、今こうして触れているものには、夢だから都合よく温かいのではないという当たり前の重さがある。
「玄兎」
依澄が呼ぶ。
「何?」
「まだ握ってる」
「依澄も離してないだろ」
「うん」
「じゃあ、お互い様だな」
依澄は少しだけ笑った。
玄兎も笑い返したところで、床へ置いていたスマートフォンが震えた。
画面を見る。
五人のグループチャットだった。
最初に届いたのは透羽からの長めのメッセージだった。
『今、かなり長い夢から覚めました。玄兎、依澄さん、起きていますか。夢の内容に二人が深く関係していたと思うので、体調に異常がないなら返事をください。』
続いて千燈。
『私も起きた。確認なんだけど、みんなで海行った? 夢にしては記憶が具体的すぎる。』
その数秒後、小毬から勢いのある文章が届いた。
『写真が一枚もありません! 海も花火もユンも撮ったはずなのに、スマホに何もないです! 私だけですか!?』
玄兎は思わず吹き出した。
「小毬、最初に確認するのそこなんだ」
「大事だったから」
依澄が言う。
「依澄も写真残したかった?」
「青い舌」
「そこ?」
「海も」
「よかった。海が二番目になってるけど」
玄兎はグループチャットへ返事を打つ。
『起きてる。俺と依澄は大丈夫。夢の内容も覚えてる。写真は俺もない。』
送信すると、すぐに既読が三つ付いた。
透羽から返信が来る。
『では、全員がある程度同じ夢を共有していた可能性が高いです。七時半に研究室で状態確認をしましょう。』
千燈。
『朝から夢の答え合わせ会か。面白そう。』
小毬。
『海の写真、本当に一枚も戻らないんですか……。』
玄兎は小毬の落ち込み方を想像しながらスマートフォンを伏せた。
「三人とも覚えてるみたいだな」
「うん」
「依澄が言ってた通り、本物の気持ちを借りてたってこと?」
「たぶん」
「本人たちも夢の中にいた?」
「いた。ずっと同じ深さじゃないけど」
「深さ?」
依澄は言葉を探すように少し考えた。
「私と玄兎は、ここが夢だって分かる場所まで入ってた。三人は、夢を普通の毎日だと思うところにいた。でも、気持ちは三人のもの」
「じゃあ、透羽が水着選びであんなに悩んでたのも」
「透羽」
「千燈先輩が小毬の砂絵を犬にしたのも」
「千燈」
「小毬が俺に競泳で勝って嬉しそうだったのも」
「小毬」
玄兎は少し笑う。
「なんか急に恥ずかしくなってきたな」
「何が?」
「こっちは夢だから多少好き勝手してもいいと思ってたのに、向こうも本人だったって分かると」
「玄兎、好き勝手した?」
「してないと思うけど」
「透羽の水着、選んだ」
「それは相談されたから」
「似合うって言った」
「それも本当にそう思ったから」
依澄はじっと玄兎を見る。
「じゃあ大丈夫」
「何の判定?」
「嘘じゃない」
「それは最初から嘘じゃないよ」
言ってから、玄兎は妙に照れた。
夢の中なら言えたことが、現実へ戻った途端に少し重くなる。
依澄はそんな玄兎を見ていたが、追及せずに手を離した。
「顔洗う」
「俺も」
二人は立ち上がった。
夢で何週間も暮らしたような感覚があるのに、現実ではまだ朝の五時台だった。
長い夏休みから突然平日の朝へ戻されたような気分だった。
◇
七時半になる少し前、研究室には全員が揃った。
一番先に来たのは透羽だった。
夢の中でも毎朝一番に大学へ来ていたので、玄兎はその姿を見た瞬間、少し笑ってしまった。
「何ですか」
「いや。本物でも一番なんだなと思って」
「集合時刻を決めた本人が遅れるわけにはいかないでしょう」
「夢の中でも同じこと言いそう」
透羽の動きが一瞬止まる。
「……夢の中の話は、あとで整理します」
「覚えてる?」
「ある程度は」
「海も?」
「覚えています」
「水着も?」
玄兎が何気なく聞いた瞬間、透羽の視線がまっすぐ飛んできた。
「状態確認を先にします」
「覚えてるんだ」
「玄兎」
「はい」
分かりやすかった。
その数分後に千燈が来た。
「おはよう。透羽ちゃん、朝からもう赤いね」
「赤くありません」
「まだ何も言ってないのに」
「言いました」
「じゃあ当たってた?」
「千燈先輩」
透羽の声が少し低くなる。
千燈は楽しそうに笑いながら席へ座った。
小毬は最後ではなかったが、一番大きな音を立てて入ってきた。
「先輩、やっぱり写真ありません!」
研究室へ入るなり玄兎へスマートフォンを見せる。
「見れば分かるけど、何もない画面見せられても」
「夢では少なくとも百枚くらい撮りました!」
「そんなに?」
「海だけでかなり撮りました。依澄先輩が泳げた時も、透羽先輩の水着も、千燈先輩が日傘の下で寝そうになってたところも、先輩が浮き輪競争で私に負けたところも!」
「最後の写真は消えてよかったかもしれない」
「記録は大事です!」
小毬は本気で残念そうだった。
依澄が最後に入ってくる。
「おはよう」
「依澄さん」
透羽の表情が少し引き締まる。
「体調は?」
「普通」
「夢層との接続感は残っていますか」
「いつもくらい」
「頭痛や、現実と夢の区別がつきにくい感覚は?」
「ない。今は現実」
「玄兎は?」
「俺も普通。夢の記憶が多すぎて、昨日が何日前だったか変な感じはするけど」
「そこは私もです」
千燈が頷く。
「体感だと何週間か大学祭の準備してたのに、スマホ見ると昨日から一日しか経ってない。記憶だけ夏休み一個ぶん増えた感じ」
「私もです!」
小毬は少し嬉しそうになる。
「夢の中で誕生日会もしましたよね。先輩のケーキに『明日も大学へ来ること』って書きました」
「そこまで覚えてる?」
「はい。あと私、大学祭でユンとの触れ合い時間を十分快勝ち取ったはずなんですけど」
「三分です」
透羽が即座に訂正した。
全員が透羽を見る。
透羽も、自分が反射的に答えたことに気づく。
千燈の口元がゆっくり上がった。
「透羽ちゃん、かなり覚えてるじゃん」
「……夢の記憶を確認しているだけです」
「じゃあ海も?」
「覚えています」
「玄兎くんに水着選んでもらったのも?」
「千燈先輩」
「そこだけ記憶消したい?」
「消したいとは言っていません」
透羽は否定してから、少し間を置いた。
「ただ、夢の中の出来事を現実と同じ扱いにするのは違うと思います」
「お」
千燈が面白そうに身を乗り出す。
「夢の中はノーカウント派?」
「少なくとも、現実で実際に海へ行ったわけではありません。水着も買っていませんし、花火も見ていない。出来事としては夢です」
「でも気持ちは本人のものなんでしょ?」
千燈は依澄を見る。
「うん」
「じゃあ、透羽ちゃんが玄兎くんに『どっちの水着がいいと思いますか』って聞いた気持ちは?」
「透羽」
依澄は当然のように答える。
透羽が黙る。
小毬が小さく手を上げた。
「私、思うんですけど、夢の中のデートはノーカウントにした方がいいと思います」
「突然どうした」
玄兎が聞く。
「だって夢の中で距離が進んだことを全部現実扱いしたら、不公平です。私は先輩と海で競争しただけなのに、透羽先輩は水着を選んでもらってます」
「そこが基準?」
「大事です」
「そもそもデートじゃないだろ。五人で海行ったんだから」
「買い物は?」
千燈が聞く。
「四人と俺だった」
「屋上で二人で話したのは?」
玄兎は少し考える。
「……あれは二人だった」
「ほら」
「何がほらなの」
千燈は楽しそうだ。
透羽は額へ手を当てた。
「話が完全に逸れています。今日は共有夢が身体や《百獣繭》へ与えた影響を確認するために集まったはずです」
「でも透羽先輩、ノーカウントってことは、玄兎先輩に『似合ってる』って言われたのもノーカウントでいいんですか?」
小毬が聞いた。
玄兎はなぜそこを掘るのかと思った。
透羽は数秒黙った。
「……出来事としては、夢です」
「感想は?」
今度は依澄だった。
透羽が依澄を見る。
「感想?」
「玄兎が似合うって言ったこと」
玄兎へ視線が集まる。
「俺に聞くの?」
「本人だから」
依澄は真面目だ。
玄兎は一度咳払いした。
「夢だから適当に言ったわけじゃないよ。あの水着が実際にあって、透羽が着たなら、似合うと思う」
透羽の目が少し見開かれる。
小毬が「おお」と小さな声を出し、千燈が笑いを堪える。
「だから、夢の中の出来事そのものはノーカウントでも、言ったことまで全部嘘になるわけじゃない」
「……そうですか」
透羽は視線を机へ落とした。
「なら、その部分は覚えておきます」
「そこはカウントするんだ」
千燈が言う。
「本人が現実でも同じ意見だと確認できたので」
「理屈をつけた」
「必要な確認です」
透羽は真面目な顔へ戻ろうとしていたが、耳が少し赤かった。
玄兎は笑いながら、自分も顔が熱くなっていることに気づいた。
夢の中ではもっと自然に言えた。
現実は面倒だ。
でも、夢よりこっちの方が少しだけ心臓が忙しい。
◇
夢の答え合わせは、それだけでは終わらなかった。
千燈は海の記憶がかなり鮮明だった。
「私、夢の中だと日差し平気だったよね」
「はい。普通に昼間を歩いてました」
小毬が答える。
「覚えてる。日傘も日焼け防止のためだけだった」
千燈は自分の手を見る。
現実では、朝の光程度なら問題ないが、強い直射日光が長く続けば身体への負担は残る。
「便利だったなあ。あれ」
「現実でも完全に無理ではないでしょう」
透羽が言う。
「以前より安定していますし、対策しながらなら行動時間を延ばせる可能性はあります」
「夢と同じにはならない?」
「すぐには」
「そっか」
千燈は残念そうに言ったが、暗くはならなかった。
「じゃあ本物の海へ行く時は、日傘と日焼け止め多めでいいか」
「行く気なんですね」
「行かない理由ある?」
「ありません」
「透羽ちゃんも来るでしょ」
透羽は少しだけ考える。
「予定が合えば」
「水着は?」
「まだ買いません」
「聞いてないのに」
「千燈先輩がその顔をしたので」
千燈が笑う。
小毬は夢の中の自分について、能力を隠さず大学で過ごしていたことをよく覚えていた。
「匂いを確認しても、みんな普通に『またやってる』って感じでした」
「現実では正門前でやると目立つからな」
玄兎が言う。
「でも、夢みたいに全部隠さなくてよくなるといいです」
「小毬は今でも割と隠してないけど」
「気をつけてます!」
「肩口まで顔近づけるのは?」
「必要な確認です!」
「透羽の言い訳が移った」
「違います!」
小毬が抗議する。
依澄は、夢の中の自分についてはほとんど説明しなかった。
現実にも学生証はある。履修登録もあり、学生ポータルへも入れる。それでも夢の中では、その学生証の向こう側に、出生から入学まで途切れず続く人生があった。誕生日を祝ったことも、海を初めて見たことも含めて、依澄はその違いを全部覚えている。
玄兎が聞く。
「依澄、一番残したかったの何?」
依澄は少し考えた。
「いっぱいある」
「一個なら?」
「ちゃんと続いてる過去」
玄兎は一瞬、答えの意味を考えた。
「学生証じゃなくて?」
「学生証は現実にもある。でも、その前がない」
依澄は自分の胸元へ視線を落とした。
「夢では、生まれた日があって、そこから大学に来るまでが全部つながってた。誰かに『どうしてここにいるの』って聞かれても、普通に答えられた」
その答えは静かだった。
小毬も千燈も、すぐに軽口を挟まなかった。
透羽が依澄を見る。
「大学のシステム上、依澄さんは現在も学生として登録されています。学生証も履修情報も消えていません。ただ、その学籍を支える入学手続きや戸籍などを遡ると、記録が自然につながらない」
「直せる?」
「今すぐ約束はできません。怪異によって成立した記録を、こちらの判断だけで公的な履歴へ書き換えるわけにもいきませんから。ただ、今ある学籍を否定せずに、何が不足しているのかは調べられます」
「私も」
小毬がすぐに続く。
「何を調べるかまだ分かりませんけど、手伝います」
「それは調べてから言った方がいいよ」
千燈が笑う。
「でも私も手伝う。依澄ちゃんが今ここにいることと、昔の記録が足りないことは別の話だからね」
依澄は三人を見た。
「玄兎は?」
「もちろん」
玄兎は答える。
「夢みたいに、最初から全部そろった過去を作ることはできないかもしれない。でも、今あるものまでなかったことにする必要はないだろ。足りないところをどう扱うかは、久住教授にも相談しながら一緒に考えよう」
「うん」
依澄の表情が少し柔らかくなる。
夢で見た未来は、消えたわけではない。
夢の中でしか存在しなかった写真や、最初から途切れず続いていた過去そのものは持ち帰れない。それでも、「こうなったらいい」と五人が知った未来は、現実の側に残っている。
◇
状態確認が一段落したところで、小毬が突然立ち上がった。
「ユン!」
「どうした?」
「夢の中では大学公認になってましたけど、現実のユンはまだ準備室です。昨日の夜から長く会ってない気がします!」
「現実では一晩だけだよ」
「体感では何週間もです!」
「それ言われると俺も会いたくなるな」
五人は研究室の隣にある資料準備室へ移動した。
透羽が認識阻害の札を確認してから扉を開く。
中には、昨日作った簡単な寝床がそのまま残っている。
ユンはタオルの上で丸くなっていた。
扉の音に気づき、灰色の目がゆっくり開く。
五人を見る。
次の瞬間、身体が勢いよく起き上がった。
「ゆんっ!」
昨日までの落ち着いた鳴き方より明らかに強い。
短い脚で箱の縁へ上ろうとし、一度滑る。
「待って、今出すから」
玄兎が手を伸ばす。
ユンは掌へ乗るなり、腕を伝って胸元までよじ登ろうとした。
「そんなに?」
「ゆぅん……」
今度は長く、少し拗ねたような声だった。
玄兎は思わず笑う。
「ごめん。待たせた感覚、ユンにもある?」
「夢には入っていないはずです」
透羽はユンの周囲を観察する。
「ただ、依澄さんが夢層へ長く接続していた影響で、近くにいたユンが時間感覚だけ少し共有した可能性はあります」
「じゃあユンも何週間か待った気分?」
小毬が近づく。
「ユン、ごめんね!」
ユンは小毬を見る。
「ゆん?」
少し上がる鳴き声。
小毬が両手を差し出すと、ユンは玄兎の腕からそちらへ移った。
「ゆん、ゆんっ」
「怒ってます?」
「たぶん訴えてる」
千燈が笑う。
「昨日『戻ってくる』って言ったのに、体感で何週間も来なかったんだから」
「それは怒るか」
玄兎がユンの頭を撫でる。
「でも戻ってきた」
「ゆん」
今度は少し低く落ち着いた。
小毬はすぐにスマートフォンを構える。
「写真撮ります。夢の百枚が消えたので、今日から取り戻します!」
「外部同期は切ってください」
透羽が反射的に言う。
「分かってます! 一枚目、ユン怒ってる顔!」
「顔ほぼ変わってないけど」
「鳴き方が違います!」
依澄がユンへ指を出す。
「ユン」
「ゆん?」
「帰ってきた」
ユンは依澄の指先へ鼻先を寄せる。
「ゆーん」
今までより少し伸びた柔らかい声だった。
「嬉しい」
依澄が言う。
「分かる?」
「たぶん」
「俺もそんな感じに聞こえた」
玄兎は笑う。
ユンの鳴き声は全部「ゆん」に近い。
それでも、聞いているうちに少しずつ違いが分かる気がした。
疑問なら語尾が上がる。
不満なら少し長くなる。
嬉しい時は音が柔らかい。
何かを見つけた時は短く弾む。
小さな怪異にも、ちゃんと感情がある。
夢で見た「大学中から名前を呼ばれるユン」を思い出す。
現実では、まだ五人しかその声の違いを知らない。
それでいい。
まずはここからだ。
◇
朝が早すぎたので、五人は一度学食ではなく、大学近くのファミリーレストランへ移動した。
朝食の時間帯で、店内はまだ空いている。
ユンは一般客へ見つからないよう、透羽の術式を薄くかけた専用バッグの中で待っている。完全に閉じ込めるのではなく、上部を少し開け、五人の声が聞こえるようにした。
玄兎はトーストと卵のセット。
透羽は和朝食。
小毬は朝から大きめの肉料理を追加し、千燈はコーヒーだけでいいと言いながら最終的にパンケーキまで頼んだ。
依澄はメニューをかなり長く見ていた。
「決まらない?」
玄兎が聞く。
「プリンない」
「朝からプリン探してたの?」
「夢では食べた」
「夢の中で何食べたかまで現実へ持ってこなくても」
「食べたいは残った」
「じゃあ昼にしよう」
「うん」
依澄は結局フレンチトーストを頼んだ。
注文が終わると、千燈がテーブルへ肘をつく。
「で、夢の中の恋愛関係、どう扱う?」
「まだやるんですか」
透羽が嫌そうに眉を寄せる。
「重要でしょ。数週間分の記憶が増えてるんだよ。玄兎くんと誰かが夢で付き合ってたら、起きた瞬間に全部なかったことになるの?」
「誰も付き合ってないよ」
玄兎が答える。
依澄が顔を上げる。
「私は?」
「依澄は現実でも好きって言ってくれてるだろ」
「うん」
「夢の中で新しく付き合ったわけじゃない」
「じゃあ続いてる」
「何が?」
「好き」
依澄は普通に言う。
小毬がすぐに反応する。
「依澄先輩、朝から強いです!」
「本当だから」
「そういうところです!」
玄兎は水を飲む。
この話題になると、毎回自分だけ逃げ場がない。
千燈が楽しそうに玄兎を見る。
「透羽ちゃんは?」
「なぜ私へ振るんですか」
「夢の中で玄兎くんから水着選んでもらって、二人で屋上で未来の話して、海でもかなり近かったよね」
「五人で行動していた範囲です」
「二人の時間もあったじゃん」
「千燈先輩」
「はいはい。でも一個だけ聞きたい。夢の中の透羽ちゃんが玄兎くんの隣にいたいと思ってたのは、夢だから?」
透羽の表情から軽い苛立ちが消えた。
少しだけ真面目になる。
玄兎も千燈を見る。
冗談半分で聞いているように見えて、問い自体はたぶん本気だった。
透羽はすぐには答えなかった。
「……いいえ」
やがて、小さく答えた。
「そこは夢だからではありません」
小毬のフォークが止まる。
依澄も透羽を見る。
玄兎は何も言わない。
「監視役でなくても隣にいたいと思うことは、現実でも以前から伝えています。夢の中では、その先の生活が少し具体的に見えただけです」
透羽は玄兎へ視線を向ける。
「ですから、夢で感じたことを全部なかったことにするつもりはありません」
「じゃあノーカウントじゃない?」
千燈が聞く。
「出来事はノーカウントです。感情は別です」
「なるほど」
千燈は満足そうに笑った。
「透羽ちゃんらしい線引き」
「何でも一緒にしないでください」
玄兎は少し迷ってから口を開いた。
「俺も、それでいいと思う」
透羽が見る。
「夢の中でしか起きてないことを『現実でやった』って言うのは違う。でも、その時に思ったことまで消す必要はない」
「玄兎は、何を思ったんですか」
透羽から返され、玄兎は少し詰まった。
千燈が笑う。
「そこ聞くんだ」
「玄兎が自分で話を続けたので」
「確かに」
玄兎は少し考える。
「夢の透羽が楽しそうで、よかったと思った。監視とか家の命令とかじゃなくて、普通に一緒に海へ行けるの、いいなって」
「……はい」
「あと、水着は本当に似合ってた」
「それはもう聞きました」
「二回目はノーカウント?」
玄兎が冗談で言うと、透羽は少しだけ笑った。
「いいえ。二回目として覚えます」
今度は玄兎の方が照れた。
小毬が不満そうに頬を膨らませる。
「やっぱり夢の中のデート、完全ノーカウントにした方がよくないですか?」
「小毬、何と戦ってるの」
「公平性です!」
「じゃあ小毬も現実で海行けばいいじゃん」
千燈が言う。
「行きます!」
「玄兎くんと競泳?」
「今度も勝ちます!」
「それ恋愛要素どこ?」
「そこはこれから考えます!」
小毬の勢いに、全員が笑った。
重かった夢の話が、少しずついつもの会話へ戻っていく。
玄兎は、その変化が心地よかった。
◇
朝食を終えて大学へ戻る頃には、空は完全に明るくなっていた。
夢の中で見た夏と同じ季節だ。
同じ大学。
でも違う。
正門でユンへ声をかける学生はいない。
千燈は日差しが強くなると日傘を開く。
小毬は人通りが多い場所では匂いを確認しない。
透羽の鞄には、封印観測用の端末が戻っている。
依澄の首には、現実でも使ってきた学生証が下がっている。
けれど、その一枚のカードを過去へ辿れば、入学以前の記録は今も途切れたままだ。
玄兎の左胸には、黒い痣と細い線がある。
夢より不便で、夢より未完成だった。
それでも玄兎は、正門をくぐった時に少し安心した。
「何か笑ってます?」
小毬が聞く。
「笑ってた?」
「ちょっと」
「夢の大学より、こっちの方が騒がしいなと思って」
「まだ朝なのに?」
「もう小毬が夢の写真ないって騒いだし、千燈先輩は透羽をいじるし、透羽は怒るし」
「私は怒っていません」
「ほら」
「何がですか」
透羽が少し眉を寄せる。
依澄が玄兎の隣へ来る。
「こっちの方が好き?」
玄兎はすぐに答えた。
「今のところ、こっち」
「夢は?」
「夢も好き。でも、あれをこっちで作れたら一番いい」
「うん」
依澄はそれだけで満足したようだった。
研究室へ戻ると、小毬がさっそく現実のユンの写真を撮り始めた。
夢で失った百枚を本気で取り戻すらしい。
千燈は烏を一羽出し、ユンの前へ降ろした。
ユンの灰色の目が輝く。
「ゆんっ!」
短く弾む声。
白い身体が床を跳ねる。
「一枚目から動きます!」
小毬が慌ててカメラを追う。
「写真撮るなら連写にした方がいいよ」
「容量が!」
「百枚撮る気だったのに?」
ユンは烏を追いかけ、机の脚を一周した。
烏が椅子の背へ飛ぶ。
「ゆぅん?」
見失ったユンが首を傾げるように身体を傾ける。
依澄が指差す。
「上」
ユンが見上げる。
「ゆん!」
また跳ねる。
玄兎はその様子を見ながら笑った。
夢の中のユンは、大学中の人に愛されていた。
現実のユンは、まだこの小さな部屋の中にいる。
でも、五人はもう知っている。
この先にどんな形を目指したいのかを。
それだけでも、夢を見る前とは違っていた。
◇
午前の講義が始まる前、透羽が一度だけ玄兎を呼び止めた。
他の三人は先に教室へ向かっている。
講義棟へ続く渡り廊下には、朝の光が斜めに入っていた。
「玄兎」
「何?」
「少し確認したいことがあります」
「夢の?」
「はい」
透羽は周囲に人が少ないことを確認してから、少し声を落とした。
「夢の中で、私が監視役ではなくなっていたことを、玄兎は嬉しいと言いましたね」
「言った」
「その理由は、私が自由になったように見えたからですか」
「それもある」
「他には?」
玄兎は透羽を見る。
朝の会話より、今の方が真面目だった。
「透羽が、監視役じゃなくても俺の隣にいたから」
透羽の目がわずかに揺れる。
「それが嬉しかった」
「……そうですか」
「夢で初めて思ったわけじゃないよ。現実でも、監視役じゃなくても隣にいたいって言ってくれただろ」
「はい」
「だから、夢でその先を見られた感じがした」
透羽は少し黙る。
「私もです」
「何が?」
「夢の中では、玄兎の状態を確認する必要がなくても、一緒にいました。最初はそれを当然だと思っていましたが、目が覚めてから考えると……私がそうしたいと思っていたから、あの夢でもそうなっていたのでしょう」
「依澄もそう言ってたな」
「少し恥ずかしいですね」
「透羽がそう言うの珍しい」
「玄兎は恥ずかしくないんですか」
「今かなり恥ずかしい」
玄兎が正直に答えると、透羽は少し笑った。
「なら同じです」
短い沈黙が落ちる。
夢の中なら、ここで何か都合のいい出来事が起きたかもしれない。
風が吹いて距離が近づくとか、誰も来ないとか。
現実では、廊下の向こうから学生の話し声が近づいてきた。
透羽が一歩だけ離れる。
「講義へ行きましょう」
「うん」
玄兎も歩き出す。
数歩進んでから、透羽が前を向いたまま言った。
「夢の中のことは、全部ノーカウントではありません」
「さっきも言ってたな」
「ですから、玄兎が二回言ったことも覚えています」
「水着?」
「はい」
「そこ?」
「玄兎が言ったので」
「忘れてくれてもいいけど」
「無理です」
透羽は少しだけ楽しそうだった。
夢の中より、現実の方がやっぱり面倒だ。
でも、この面倒さは悪くない。
◇
昼休み。
五人は学食で同じテーブルを囲んだ。
依澄は約束通りプリンを買っている。
「朝なかったから」
「本当に覚えてたんだ」
玄兎が言う。
「夢で食べたかった」
「味は現実の方がいい?」
依澄は一口食べ、しばらく考える。
「同じくらい」
「夢の味かなり再現度高かったんだな」
「私が知ってる味だから」
「なるほど」
小毬は夢で食べた肉料理を再現しようとして、結局いつもの定食になった。
千燈はスマートフォンで海水浴場を検索している。
「本当に行くんですか?」
透羽が聞く。
「行こうよ。夢の写真がないなら撮り直せばいいじゃん」
「時期と予定を考える必要があります」
「それ、行かないとは言ってないよね」
透羽は少し黙った。
「……行かないとは言っていません」
「よし」
小毬がすぐに反応する。
「次は現実で勝負です!」
「何の?」
「全部です!」
「範囲広すぎる」
玄兎が笑う。
依澄がプリンのスプーンを置く。
「現実の海」
「行きたい?」
「行く」
「もう決定なんだ」
「玄兎も」
「予定合えばね」
「合わせる」
「強いな」
夢で叶ったことを、今度は現実の予定へ変えていく。
それは妙に楽しかった。
◇
午後三時過ぎ。
その楽しさは、透羽の端末が震えるまで続いた。
音は小さかった。
それでも五人全員が反応した。
夢の中では存在しなかった音。
現実へ戻ったことを一番はっきり知らせる種類の通知だった。
透羽が画面を見る。
表情から笑いが消える。
「どうした?」
玄兎が訊く。
透羽は数秒、表示を確認した。
「《百獣繭》の中央拘束力が、再び下がり始めています」
学食を出たあとの研究室。
窓からは、いつも通りの大学が見えている。
何も起きていない。
それなのに、五人の空気だけが変わった。
「昨日までは?」
千燈が聞く。
「応急固定後の範囲内で上下していました。ですが、今朝から低下速度が上がっています。夢層側の圧力も同時に増えています」
依澄が少しだけ目を伏せた。
「私の夢?」
「いいえ」
透羽はすぐに否定した。
「共有夢が原因だと判断できる数値ではありません。むしろ、夢層が現実側へ近づいていたから、依澄さんが五人を同じ夢へ繋ぎやすかった可能性があります」
「じゃあ、夢は原因じゃなくて症状の一つ?」
玄兎が訊く。
「近いと思います。ただし、依澄さんが意図的に夢を安定させたことで、昨夜の局所的な漏出が抑えられていた可能性もあります」
「私、止めてた?」
「結果的には」
依澄は少し驚いた顔をした。
千燈が端末を覗く。
「で、どれくらいまずい?」
「今すぐ崩壊する数値ではありません」
透羽は慎重に答える。
「ただ、手動保留を始めた時より余裕は減っています。このまま下がるなら、分散固定の準備だけを続けている時間は多くありません」
玄兎は窓の外を見る。
夢の中では、ここから先がもう終わっていた。
《百獣繭》は安定し、ユンは大学で自由に歩き、依澄には出生から大学まで自然につながる過去があった。
現実では、まだ何も完成していない。
だからこそ戻ってきた。
「じゃあ、明日から本格的に調べよう」
玄兎が言う。
「分散固定を成功させる方法?」
小毬が聞く。
「それも。でも、昨日ユンを見て思ったことをもっとちゃんと調べたい」
「全部戻す必要があるのか、って話ですね」
透羽が答える。
「うん。《百獣繭》を直すことだけ考えるんじゃなくて、そもそも何で全部閉じ込める仕組みになったのかを調べたい」
千燈が頷く。
「夢で見た未来だと、無害な怪異は普通に外にいたもんね」
「夢だから答えが正しいとは限らない。でも、封じずに残すこと自体は、もう夢の中だけの話じゃない」
玄兎は研究室の奥にいるユンへ一度目を向けた。
「ユンは今、個体として観察しながらここに残してる。前に帰巣壇で見た怪異たちも、無理に集められる前は、それぞれの場所で安定してた」
「はい」
透羽が頷く。
「現地に残すという判断そのものは、私たちもすでにしています。問題は、それを一時的な個別判断で終わらせず、どうすれば安全に続けられるかです」
「残して終わり、じゃないってこと?」
小毬が訊く。
「そうです。誰が観測するのか。何が起きたら介入するのか。その場所で危険性が変わった時、どの時点で封印や移動へ切り替えるのか。人間側に必要な知識や環境まで含めて考えなければ、管理とは言えません」
玄兎は四人を見る。
「昔にも、そうやって残してた例があるなら、知りたいのは『いたかどうか』じゃなくて、『どうやって続けてたか』だな」
「はい」
透羽の返事はすぐだった。
「そして、なぜその方法が続かなくなったのかも確認する必要があります。昔のやり方をそのまま戻せばいいとは限りません」
千燈が少し笑う。
「調べること、最初より増えてない?」
「増えています」
「でも、その方がいい」
玄兎は夢の中で見た大学を思い出した。
怪異を外へ出せば、それだけであの未来になるわけではない。現実で続けるなら、続けられる理由と、危なくなった時に止められる仕組みがいる。
「夢をそのまま現実にできなくても、近づける方法は探せる」
依澄が静かに頷く。
「私の記録も?」
「それは久住教授にも相談して、別のルートで調べよう。学生証はもうあるんだから、その先じゃなくて、その前をどうするかだな」
「海も?」
「それはもっと別ルート」
「ユンは?」
「一番今の話に近い」
「うん」
依澄は満足した。
透羽は観測端末を閉じる。
「では明日は、大学の旧資料と鷺宮家の管理記録を照合します。過去にどんな怪異が、どんな条件で『現地維持』されていたのか。観測方法、介入条件、地域側の扱い、それが後に中央管理へ移された理由まで確認します」
「やること増えたな」
「現実なので」
透羽が言う。
玄兎は少し笑った。
「夢より面倒だ」
「嫌ですか?」
依澄が訊く。
「いや」
玄兎はすぐに答えた。
「こっちの方がいい」
完璧ではない。
夢みたいに、最初から答えが用意されているわけでもない。
それでも五人で探して、間違えて、相談して、少しずつ選べる。
窓の外では、夏の午後が何事もなく続いている。
夢で見た未来にはまだ遠い。
だから、明日やることがある。
――第三十話・了