夢だと分かってからの方が、時間はゆっくり流れた。
それまでは、どこかで「おかしい」と思いながら、一つずつ確かめるように過ごしていた。
けれど、夜の砂浜で依澄から「これは夢だ」と聞いてしまえば、もう確認する必要はなかった。おかしいのは当然で、そのうえで何を大切だと思うのかを、自分で選べばいい。
あの夜、終わらせたくないと初めて本音をこぼした依澄を、玄兎は思わず抱きしめた。翌朝になっても、胸元へ額を預けていた依澄の重みと、服を掴んだ小さな指の感触は妙に鮮明に残っていた。
研究室で顔を合わせた時、依澄はいつも通り「おはよう」と言った。玄兎も同じように返した。それだけなのに、隣の椅子へ腰を下ろした依澄の肘が一度触れた瞬間、二人ともほんの少しだけ相手を見た。
何も言わなかった。
夢だと知った今の方が、そこで選んだ言葉や触れた温度を、玄兎は前よりはっきり意識していた。
講義を受け、学食で迷い、研究室へ戻ってユンを撫でる。小毬の課題を皆で見ても、千燈は励ますばかりで途中式は増えなかった。
その間、ユンは足音に顔を上げる。全員が席を立てば扉を向き、戻れば『ゆんっ』と身体を起こした。
朝は眠く、講義は長く、昼飯を何にするかで迷う。玄兎は、夢でもそんな時間の方がずっと多いのだと知った。
何も起きない。
誰も消えない。
海の夜、依澄が欲しかったと言った一日が、形を少しずつ変えながら翌日にも、その次の日にも続いていく。
玄兎はいつの間にか、そういう特別ではない時間こそ心地よいと思うようになっていた。
◇
夢の中では、時間の進み方が現実より柔らかかった。
カレンダーを見れば一週間しか経っていないはずなのに、玄兎の感覚ではもっと長く暮らしているように思える日もあった。逆に、一日が終わったと思って寝たはずなのに、朝になると数日分の記憶が自然に増えていることもある。
もう驚かなかった。夢なのだから、そういうものなのだと思うことにした。
ある朝、研究室の机に白い小箱があった。玄兎が触れようとすると、透羽に止められた。
「昼まで待ってください」
小毬は口元を押さえ、千燈は隠す気もなく笑っている。依澄も『駄目って言われた』としか答えない。
奥から久住が眼鏡を持ち上げた。
「昼休みはここへ戻ってこい。箱を開けるなよ。怪異ではないが、予定は壊れる」
「教授まで知ってるんですね」
久住は資料へ目を戻し、片手だけ振った。玄兎は笑いながら一限へ向かった。
その日の午前中、透羽はいつも以上に何かを隠していた。
玄兎が話しかけると普通に答える。
けれど、スマートフォンが震えるたびに画面を伏せる。
小毬と目が合うと、二人とも急に別の話を始める。
千燈はそもそも会うなり笑っている。
依澄だけは平常運転だったが、「何かある?」と聞くと、「ある」と答えるので全く役に立たない。
昼休み。
玄兎が研究室へ戻り、扉を開けた瞬間、小さな破裂音が二つ重なった。
反射的に肩をすくめる。飛んできたのは紙テープで、その向こうから小毬の弾んだ声が響いた。
「玄兎先輩、お誕生日おめでとうございます!」
小毬の声が一番大きく、千燈が笑いながら拍手をし、透羽も少し照れたように手を叩いている。依澄はその隣で、皆より半拍遅れて小さく拍手していた。
玄兎は扉のところで数秒、動けなかった。
机の上には、朝の小箱とは別に大きなケーキ箱が置かれ、壁には研究資料を傷めないようマスキングテープで簡素な飾りが留められている。ユンの首元には、どこから持ってきたのか細い青いリボンまで結ばれていた。
奥の机では久住教授が書類を鞄へ入れていた。玄兎と目が合うと、教授はようやく種明かしを許されたように笑う。
「誕生日おめでとう、鵺代。私は昼飯に出るから、あとは若い連中で好きにやれ。ただし、火を使うなら机を焦がすなよ」
久住は楽しそうに肩をすくめ、五人へ「片づけだけはしておけ」と念を押して研究室を出ていった。
「今日だったっけ」
千燈が笑う。
「本人が一番忘れてるじゃん」
玄兎はスマートフォンの日付を見る。
見れば確かに、そこには自分の誕生日として記憶している日付が表示されていた。
現実でもそうだったはずだ。
ただ、夢の中で何日過ごしたのか曖昧になっていたせいで、完全に意識から抜けていた。
「二十歳になってから、誕生日を気にする余裕あんまりなかったからな」
「今年はちゃんと祝います」
透羽が言う。
「今日は報告も、怪異の相手もありません。ゆっくり祝う時間があります」
千燈がケーキ箱を開ける。
白い生クリームの上に果物が並び、中央には小さなプレートが乗っていた。
『玄兎 誕生日おめでとう』
その横に、小さく。
『明日も大学へ来ること』
玄兎は思わず笑った。
「誰が書いたの、下の」
「私です!」
小毬が手を上げる。
「誕生日のメッセージとしてどうなの」
「大事です。来年も再来年も大学へ来てください」
「留年を勧めてるみたいに聞こえる」
「卒業しても来ればいいです!」
笑いが広がる。
依澄はそのケーキをじっと見ていた。
「誕生日って、こうするんだ」
「依澄は祝われたことない?」
玄兎が訊く。
「ない。いつが誕生日か、分からなかったから」
その言葉で、玄兎の笑いが少しだけ静かになる。
夢の中では、依澄にも生まれた日まで続く過去が用意されている。
「じゃあ、依澄の誕生日もやろう」
玄兎がそう言うと、依澄は少し意外そうに瞬いた。
「この夢では、生まれた日までちゃんと続いてるんだろ。その日を一度祝ってみてもいいと思う」
依澄はすぐには頷かなかった。
「それは、夢が作った日」
「そうだな」
「現実の私には、その日まで続く過去がない」
玄兎はケーキの上のプレートを見てから、依澄へ向き直った。
「だったら、その時は依澄が決めればいいんじゃないか。誕生日って本来、自分で決めるものじゃないけど……依澄は名前だって自分で選んだ。『自分がここから始まったと思う日』を一つ持つくらい、誰にも怒られないだろ」
「自分が、始まった日」
依澄はその言葉を確かめるように繰り返した。
少し考えたあと、視線が玄兎から透羽たちへ移る。四人の顔を順番に見て、最後にユンへ落ちた。
「じゃあ、大学に初めて来た日がいい」
「そこで、みんなに会ったから。私が『いる』って言ってもらえた日だから」
胸の奥を静かに押されるような言葉だった。玄兎は余計なことを言わず、ただ頷いた。
「分かった。じゃあ、その日にしよう」
小毬がすぐスマートフォンを出す。
「記録します!」
「待って。今ここ夢だぞ」
玄兎が言ってから、部屋が少し静かになった。
透羽と千燈と小毬は、まだ自分たちが夢の中にいると完全には理解していない。
玄兎はしまったと思った。
けれど三人とも、妙に自然な顔をしていた。
透羽が首を傾げる。
「夢?」
「……いや。今の忘れて」
「玄兎、最近そういう言い方多いですね」
千燈が笑う。
「幸せすぎて夢みたい、とか?」
「そんな感じ」
玄兎は誤魔化し、ケーキを切り分けた。
依澄だけが、そのやり取りを黙って見ていた。
目が合う。
依澄は何も言わない。ただ、小さく笑った。
その笑い方を見て、玄兎は昨夜の砂浜を思い出した。
◇
ケーキを食べ終わったあと、五人はそれぞれ持ってきたものを玄兎へ渡した。
小毬は小さな革のキーホルダーだった。
「匂いが残りやすい素材を選びました!」
「もし落としても私が見つけられます」
千燈は少し高そうな万年筆。
「共有ノート、いつまで普通のボールペンで書くの。これくらい持ちなよ」
「俺、字そんな綺麗じゃないけど」
「道具から入るのも大事」
透羽は薄い紺色の手帳を渡した。
「予定管理用です」
「俺の予定管理、透羽がやりたいだけじゃない?」
「玄兎自身がするためのものです。私は確認するだけです」
依澄は最後まで何も渡さなかった。
全員のプレゼントが終わったあと、玄兎が見る。
「依澄は?」
「ある」
依澄はポケットから小さな紙を出した。
折り畳まれている。
玄兎が開く。
『また明日』
それだけだった。
「ずいぶん短いな」
「玄兎、明日が好きでしょ」
玄兎は返事に詰まった。
依澄は続ける。
「前は、明日が来るの怖かった。忘れるかもしれないから。今は、明日ほしいって言う」
その短い言葉には、紙一枚よりずっと大きな重さがあった。
「誕生日なら、次の誕生日まで明日がいっぱいある」
「そうだな」
「だから、これ」
依澄は紙を指差す。
「また明日」
玄兎は紙を丁寧に折り直した。
「ありがとう」
「うん」
玄兎には、そのプレゼントが一番夢らしくて、それなのに一番現実へ持ち帰りたいものに思えた。
◇
夢の時間は、その後も続いた。
誕生日の次の日には、普通に一限があった。
玄兎は十五分前に教室へ入り、透羽から「今日は早いですね」と言われた。
「昨日誕生日だった人間にもう少し優しくしてくれてもいいんじゃない?」
「昨日は昨日です。今日は今日です」
「明日が欲しいと言ったのは玄兎でしょう。明日には講義も含まれます」
隣で依澄が聞いていた。
「嫌?」
「少し。でもなくなると困る」
「じゃあある方がいい」
「そういうことなんだろうな」
玄兎は笑ってノートを開いた。
教授の話は長かった。
途中で眠くなった。
小毬から「今どこですか」とメッセージが来たので、講義後に研究室で待ち合わせた。
昼食では千燈が玄兎のデザートを勝手に一口食べた。
夕方、透羽と小毬が大学祭の展示内容で言い争った。
ユンとの触れ合いを展示へ入れたい小毬と、無制限には触らせないという透羽は、最後まで意見が揃わなかった。
結局、予約制で一回三分となる。依澄の腕で眠るユンを起こさないように、小毬は小声で『短いです』と抗議した。
その夜、チャットへ『ユンふれあい企画(仮)』というファイルが届いた。
玄兎はベッドの上でそれを見て笑った。
夢の中で何をしているんだ、とも思う。
それでも、こういうくだらない一日が積み重なっていくことが嬉しかった。
◇
やがて玄兎は、夢の中で「どれだけ時間が経ったか」を数えるのをやめた。
数日なのか、数週間なのか。
大学祭の準備が進み、研究室の壁へ展示用の写真が増えた。
海で撮った写真もあった。
依澄が青い舌を見せている写真。
小毬が砂浜へ描いた狼の横で怒っている写真。
千燈が日傘の下で笑っている写真。
透羽が青いガラス玉のキーホルダーを持っている写真。
玄兎はそれを見るたび、現実へ戻ったらこの写真は残らないのだろうと思った。
そのたび少し寂しくなる。
しかし、寂しさは以前のように「失うのが怖いから、このままにしよう」という形にはならなかった。
夢だと知っている。いつか起きる。それでも今は、まだここにいる。
ある日の夕方。
講義が終わったあと、玄兎と依澄は大学の屋上にいた。
立入禁止ではない小さな休憩スペースで、ベンチと自動販売機が置かれている。
夕焼けが校舎の向こうへ広がっていた。
依澄は缶のレモンソーダを両手で持っている。
玄兎はコーヒー。
二人でしばらく何も話さなかった。
「この夢、どのくらい好き?」
依澄がはっきり聞いた。
玄兎は少し考える。
「かなり」
「現実より?」
答えにくい質問だった。
玄兎は夕焼けを見る。
「分からない。でも、ここはすごく楽だと思う」
「誰も追われてない。隠れたり、ここにいていい理由を証明したりしなくていい」
玄兎は缶を指先で回した。
「俺も、自分が何の器かとか、次に死んだら何を忘れるとか考えなくていい。普通に講義出て、昼飯食って、誰かと喧嘩して、誕生日祝ってもらって。それで一日終わる」
「欲しかった?」
「うん」
今度は迷わなかった。
「欲しかったんだと思う」
依澄は夕焼けを見る。
「よかった」
「依澄が見せたかったの、これ?」
ようやく聞いた。
依澄は缶を握る指を少し動かした。
「玄兎が、未来を怖がってたから」
「あの時――《百獣繭》の中で、俺が戻れない死を怖いって言った時?」
「その前から。忘れるのも、死ぬのも怖がってた。普通に明日へ行く玄兎を、一度見せたかった」
「見られてよかったよ。依澄も楽しそうだった」
依澄は缶を握る指を止めた。
依澄は玄兎を見ていた。
そのあと、長い沈黙があった。
玄兎は缶コーヒーを飲む。
もうぬるくなっている。
「依澄。俺が未来を怖がってたから。それだけ?」
依澄の指が止まった。
依澄はすぐに答えなかった。
夕焼けを見たまま、しばらく黙っている。
玄兎は急かさない。
やがて、依澄が小さく息を吐いた。
「私も、こういう未来を見たかった」
玄兎は横を見る。
依澄は膝の上の缶を見る。
「誰かに『いる』って確かめてもらわなくても、普通に大学へ来られる。そういう先が、私にも欲しかった」
「現実で、全部できるか分からないから」
玄兎はすぐには答えられなかった。
海の夜、依澄を抱きしめた時に感じた切なさを、玄兎は今になって少しだけ理解した気がした。
「言ってくれてよかった」
「怒らない?」
「勝手に夢に入れたこと」
「最初はちょっと困ったけど」
「朝起きたら半年分くらい知らない記憶あったし」
「ごめん」
「でも、今は怒ってない」
玄兎はベンチの背へ身体を預けた。
「むしろ、見られてよかったと思ってる」
「俺、自分が何を守りたいのか、前より分かった」
「何?」
「こういうの」
玄兎は大学の屋上から見える景色を指す。
「大学とか、昼飯とか、誕生日とか、海とか。ユンが普通に歩いてることとか。透羽たちがくだらないことで揉めることとか」
「私も?」
「依澄も」
「何する?」
「隣に座る」
「それだけ?」
「かなり大事」
依澄は少し笑った。
夕日がさらに低くなる。
夢の空は、現実より少し色が綺麗な気がした。
◇
その夜。
五人は研究室へ残っていた。
大学祭の展示案を仕上げるためだった。
透羽は文章の表現を直し、小毬は写真を選び、千燈は展示タイトルへ口を出し、依澄はユンを膝に乗せている。
玄兎はその光景を見ながら、急に思った。
「このままでもいい気がするな」
誰に言ったわけでもなかった。
けれど、四人とも聞こえた。
透羽が手を止める。
「こういうの。ずっと続いてもいいかなって」
千燈が笑う。
玄兎は依澄を見る。
依澄だけは意味を分かっている。
「夢」
小さく言った。
透羽たちは不思議そうにする。
玄兎は誤魔化さなかった。
「そう。夢」
「玄兎、またその話?」
千燈が面白そうに笑う。
「最近、ここが夢みたいだってよく言うよね」
「まあね」
透羽が少し心配そうに見る。
「疲れているなら、今日は終わりにしますか」
「大丈夫。疲れてない」
玄兎は立ち上がり、窓の外を見る。
「ただ、本当にこのままでもいいかなって思っただけ」
依澄がユンを抱いたまま、玄兎の隣へ来る。
「玄兎」
依澄に呼ばれて振り向く。
ほんの一瞬だけ、彼女の表情が柔らかくなった。「このままでもいい」という玄兎の言葉を、嬉しいと思ったのだと分かるくらいには。
けれど、その嬉しさを理由に玄兎をここへ留めようとはしなかった。
「でも、玄兎は起きると思う」
「どうして?」
「玄兎だから」
依澄は少し考え、ユンの背中をゆっくり撫でた。
「玄兎は、この夢を嫌いじゃない。たぶん、ずっといても幸せ。でも、夢だけでいいって選ぶ人じゃない」
玄兎は口を挟まず、その先を待った。
「本当の透羽と、本当の千燈と、本当の小毬と、本当のユンがいる方へ戻る。それで、ここで見たものを向こうでも作ろうとする」
依澄はそこで自分の胸元へ手を置いた。
「私も、向こうにいる」
「当たり前だろ。依澄も本物なんだから」
「うん」
「じゃあ、一緒に戻ろう」
依澄は少しだけ目を伏せた。
「玄兎が起きるなら、私も起きる」
「それだと、決めるのを全部俺に渡してない?」
「……少し」
珍しく気まずそうな顔をしたので、玄兎は笑った。
「じゃあ半分ずつ決めよう。俺は起きたい。依澄は?」
数秒の沈黙のあと、依澄は小さく頷いた。
「私も、起きたい。向こうで続きを見たい」
その答えを聞いて、玄兎の中で最後に残っていた迷いが少し軽くなった。
「決まり。一緒に起きよう」
依澄の目がわずかに見開かれる。
「今?」
「今日の展示案を終わらせたら」
「そこは終わらせるんだ」
「途中で投げたまま目を覚ますの、なんか気持ち悪いだろ」
玄兎は席へ戻る前に、三人を見た。
「夢みたい、じゃない。本当に夢なんだ。ユンの写真を見て寝た夜から、まだ起きてない」
千燈の笑みが止まる。透羽は大学祭の日付を表示し、現実で最後に見た観測値を思い出そうとした。小毬は手元の写真を拡大したまま動かなかった。
依澄は、分かるところまで説明した。三人も本人の気持ちでここにいること。現実ではまだ朝が来ていないこと。増えた過去の全てを、自分が決めたわけではないこと。
「黙ってた。ごめん」
誰も、すぐには返事をしなかった。
「外では、まだ繭が壊れかけてる?」
透羽に聞かれ、玄兎は頷いた。彼女は夢の写真を閉じた。
「なら、戻ります。ここで解決済みになっていても、向こうの観測を確かめたい」
「私も。ここだと日傘、ほとんど使わなかったね」
千燈は窓へ手を出しかけ、引っ込めた。
「向こうは眩しい。でも、その時は持ってくる」
小毬だけは写真を閉じられなかった。
「これ、残らないんですか」
「たぶん」
依澄が答える。小毬は長く画面を見てから、最後の一枚を展示案へ置いた。
「じゃあ、現実で撮り直します。でも、この写真だけ決めてからにしてください」
五人は作業へ戻った。帰ると決めてからも、一時間近く展示案を作った。
◇
作業が終わったのは、夜九時を過ぎてからだった。
千燈、小毬、透羽は先に研究室を出た。
それぞれ「また明日」と言って。
玄兎は、その言葉へ一つずつ返事をした。
「また明日」
夢の中では最後になるかもしれない。
それでも言った。
扉が閉まる。
研究室には、玄兎と依澄、それからユンだけが残った。
「ユンは?」
玄兎が聞く。
「夢のユン」
「現実に戻ったら、本物がいるんだよな」
「うん。まだ研究室に来たばかり」
「そっか」
玄兎はユンを抱き上げた。
白い毛が掌へ沈む。
「じゃあ、お前にもまた明日だな」
「ゆぅん……?」
少しだけ心細そうに語尾が伸びた。玄兎は白い頭を指先で撫でる。
「大丈夫。戻るよ」
「……ゆん」
今度は納得したように目を細めたので、玄兎はユンをクッションへ戻した。
依澄が研究室の照明を消した。
廊下へ出る。
二人で大学を歩く。
夢の中で何度歩いたか分からない廊下だった。
掲示板や自動販売機、窓から見える中庭、何度も上り下りした階段、その先にある正門へ続く道まで、見慣れたものが一つずつ少しだけ名残惜しく見えた。
「ここ、なくなる?」
玄兎が訊く。
「夢だから、起きたら終わる」
「記憶は?」
「残ると思う」
「写真は?」
「たぶん残らない」
「透羽の青いキーホルダーも?」
「夢のは残らない」
「小毬の狼の絵も?」
「砂だから、夢でももう消えてる」
「そうだった」
玄兎は笑う。
正門を出たところで、依澄が立ち止まる。
「玄兎、起きるの、怖くない?」
玄兎は少し考えた。
「ちょっとは」
現実の《百獣繭》は壊れかけたままだ。帰っただけで、明日も大学へ来られる保証はない。玄兎は夢の正門から目を離した。
「でも、帰りたい」
玄兎は言った。
依澄が見る。
「向こうの方が、まだ途中だから。ここは完成しすぎてる。俺たちが『こうだったらいい』って思ったものが、昔からそうだったみたいに揃ってる。すごく好きだけど」
玄兎は正門の向こうにある大学を見る。
「だからこそ、向こうで作ってみたい」
依澄の目が少し揺れた。
玄兎はそこで、海の夜からずっと胸に残っていた疑問を、今度は最後まで言葉にした。
「その前に、一つだけ聞いていい?」
「うん」
「依澄の家族。嬉しかった?」
「うん。でも、怖かった」
依澄は夢の大学を振り返った。
「声まで覚えてる。自分が作った覚えはないのに。本当にあったみたいで」
玄兎は途中で言葉を挟まなかった。
「嬉しくても、現実の私がその家で生きたわけじゃない」
夜風が二人の間を通った。玄兎は、誰が過去を増やしたのか分からないまま、依澄の話を聞いていた。
「こういう未来、向こうでも作れる?」
依澄が改めて訊いた。
「分からない」
「夢みたいにならないかも」
「うん」
「ユン、隠したままかも」
「今はね」
「私、学生証はある。でも、その前がない。どうして入学したのかも、どこから来たのかも、ちゃんと繋がってない」
「うん。でも、今ある学籍まで嘘にする必要はないだろ。足りないところをどうするかは、向こうで久住教授たちとも相談できる。全部すぐには直せなくても、依澄が大学にいる方法は一緒に考えられる」
「透羽も監視役」
「もう監視役だけじゃない」
「千燈も昼、眩しい」
「日傘持てばいい」
「小毬も匂い嗅ぐと目立つ」
「それは現実でも本人あんまり気にしてない」
依澄が少し笑った。
玄兎も笑う。
「完璧じゃない。でも、向こうなら、これから俺たちが選び直せる」
依澄は、最後にもう一度大学を振り返った。玄兎も同じ景色を見た。
玄兎は一歩、依澄へ近づいた。
「見せてくれてありがとう」
依澄はすぐには返事をしなかった。その目が少し濡れて見える。泣いているのか、夜の光が反射しているだけなのか分からなかった。
海の夜なら、玄兎はもう一度抱きしめていたかもしれない。けれど今度は、その前に依澄の方から小さく手を差し出した。
「玄兎、手」
玄兎はその手を握った。
「これで起きる?」
「うん」
依澄の手は温かかった。
夢の中なのに。
海で掴んだ時と同じ。
大学で隣に座っていた時と同じ。
玄兎は指を少し強く絡めた。
「じゃあ一緒に起きよう」
「うん」
依澄が目を閉じる。
玄兎も続いた。
最後に聞こえたのは、大学のどこか遠くから響くチャイムだった。
◇
目を開けると、天井が近かった。
玄兎はしばらく瞬きをした。
見慣れない天井。
いや、見覚えはある。
現在の旧研究棟、民俗資料研究室の隣の休憩室だった。
窓の外はまだ暗い。
玄兎は横を向く。
床へ敷かれた簡易マットの上に、自分が寝ている。
そのすぐ隣に、依澄がいた。
そして二人の手は、夢の最後と同じように指を絡めたままだった。寝る前に手を繋いだ記憶はない。いつ現実の身体まで同じ形になったのかは分からなかったが、玄兎はそれを確かめるより先に、依澄がここにいることへ安堵した。
「……依澄」
声をかける。
依澄のまぶたが動く。
ゆっくり目を開けた。
「玄兎」
「起きた?」
「うん」
玄兎は天井を見る。
スマートフォンを探し、時刻を確認する。
午前五時十二分。
日付は、眠った翌日のままだった。
「本当に一晩か」
「うん」
「五日どころじゃなかった気がする」
「もっといた」
夢の終盤は、何週間も暮らしたような感覚がある。
誕生日も、大学祭の準備も、退屈だった講義も、くだらない喧嘩も、海も花火も、全部まだ頭の中に残っている。
玄兎は身体を起こす。
部屋の隅には、昨日ユンの観察のために使った資料が積まれている。
壁に大学祭の展示写真などない。
透羽からもらった手帳も、千燈の万年筆も、小毬のキーホルダーもない。
ポケットを探す。
依澄からもらった『また明日』の紙も、当然ない。
「プレゼント、ないな」
「ごめん」
「謝ることじゃない」
玄兎は少し笑った。
「覚えてるからいい」
依澄が身体を起こす。
玄兎はそこで、まだ手を繋いでいたことに気づいた。
夢は終わったのだから、もう離してもいいはずだった。玄兎が少しだけ指の力を緩めると、依澄の指が逆にわずかに絡み直された。
「離す?」
依澄は一度だけ窓の外を見てから、玄兎へ視線を戻した。
「もう少し」
「そっか」
海の夜と同じ言葉だった。
玄兎も離さなかった。
窓の外は、少しずつ青くなり始めている。
完璧な夢は終わった。
現実の《百獣繭》はまだ壊れかけている。
今日になれば、透羽から観測値が届く。
千燈も小毬も大学へ来る。
ユンはまだ一般学生へ見つからないよう、研究室の奥で待っている。
何一つ、夢ほど簡単ではない。
それでも。
隣にいる依澄の手は、夢の中と同じように温かかった。
「夢から覚めても、隣にいるな」
「いる」
依澄は迷わず答えた。
「夢じゃなくてもいる」
玄兎は少しだけ息を吐いて笑った。
「よかった」
「玄兎もいる?」
「いるよ」
「じゃあ」
依澄は窓の外、現実の朝へ目を向けた。
「海、また行く?」
玄兎は一瞬だけ驚き、それから笑う。
「行こう。今度は写真もちゃんと残るやつ」
「かき氷も?」
「また舌、青くするの?」
「する」
「じゃあ、それも」
依澄の指から、ようやく少し力が抜けた。それでも手はまだ離れなかった。
玄兎は、夢でもらった紙を思い出した。
また明日。
紙はない。その明日はもう来ている。玄兎は依澄の手を握り直した。
――第二十九話・了