夢だと分かってからの方が、時間はゆっくり流れた。
それまでは、どこかで「おかしい」と思いながら過ごしていたせいかもしれない。透羽が監視役としてのしがらみから完全に解放されていることも、千燈が昼間を普通に歩けることも、小毬が能力を隠さず笑っていることも、依澄の学籍に何の綻びもなく、入学以前から続く過去まで当たり前のように揃っていることも、ユンが学生たちに自然に名前を呼ばれていることも、玄兎は一つずつ確かめるように見ていた。
けれど、夜の砂浜で依澄から「これは夢だ」と聞いてしまえば、もう確認する必要はなかった。おかしいのは当然で、そのうえで何を大切だと思うのかを、自分で選べばいい。
あの夜、終わらせたくないと初めて本音をこぼした依澄を、玄兎は思わず抱きしめた。翌朝になっても、胸元へ額を預けていた依澄の重みと、服を掴んだ小さな指の感触は妙に鮮明に残っていた。
研究室で顔を合わせた時、依澄はいつも通り「おはよう」と言った。玄兎も同じように返した。それだけなのに、隣の椅子へ腰を下ろした依澄の肘が一度触れた瞬間、二人ともほんの少しだけ相手を見た。
何も言わなかった。
夢の中だからといって、昨夜までなかったことになるわけではない。むしろ夢だと知った今の方が、そこで選んだ言葉や触れた温度を、玄兎は前よりはっきり意識していた。
それでも一日は普通に始まった。玄兎は講義を受け、昼休みには学食で迷った末にいつもの定食を選び、研究室へ戻ればユンの背中を撫でた。夕方には、小毬が課題のノートを抱えて助けを求めてきた。
ところが、玄兎が説明を始めるより先に三人が口を出した。透羽は途中式を一つずつ追うよう勧め、依澄はもっと短い解き方を示し、千燈は「大丈夫、たぶん何とかなるよ」と根拠のない励ましを送る。
小毬はしばらく三人の顔を順番に見ていたが、とうとう鉛筆を置いて頭を抱えた。
「待ってください。透羽先輩と依澄先輩はまだ分かるんですけど、千燈先輩だけ何も教えてませんよね?」
「精神面の支援も大事でしょ。難しい顔をしてると、解けるものまで解けなくなるよ」
「今の私は、精神より先に計算方法を支援してほしいです!」
もっともな訴えに玄兎は吹き出し、小毬のノートを自分の方へ引き寄せた。
「じゃあ、一回整理しよう。透羽の説明は正しいけど、小毬には少し手順が多い。依澄のやり方は早いけど、今それを使うと途中を飛ばしてまた迷う。ここは前の例題と同じ形だから、まず数字を置き換えて、一行ずつ確認してみよう」
「ああ……それなら分かります。最初から玄兎先輩に聞けばよかったです」
「それ、透羽の前で言うと傷つくぞ」
「私は傷ついていません」
即答した透羽は、小毬の途中式へ視線を落としたまま続ける。
「ただ、白狼院さんが答えを急ぐあまり、途中の理屈を省略しすぎる傾向はあります。そこを直せば、同じところで迷う回数は減るはずです」
「ほら。ちょっとだけ悔しそうじゃない?」
「玄兎、その解釈は不要です」
声はいつも通り冷静だったが、ほんの少しだけ返事が早かったので、千燈まで肩を揺らして笑った。
そんな会話をしている間にも、ユンは机の下で誰かの足が動くたびに顔を上げ、全員が席を立つと扉の方を向いて待った。
戻ってくる足音がすれば、ユンは身体を起こして「ゆんっ」と少し弾んだ声で鳴く。それだけのことが、この夢の中ではすっかり日常になっていた。
玄兎は、夢だからといって毎日特別なことが起きるわけではないのだと知った。むしろ、朝は眠く、講義は長く、昼飯を何にするかで迷うような時間の方がずっと多い。小毬が玄兎の皿から肉を一つ取れば千燈が面白がり、透羽は注意しながらも自分の皿へ視線を落とし、依澄は何も言わず玄兎の隣に座っている。
何も起きない。
誰も消えない。
海の夜、依澄が欲しかったと言った一日が、形を少しずつ変えながら翌日にも、その次の日にも続いていく。
玄兎はいつの間にか、そういう特別ではない時間こそ心地よいと思うようになっていた。
◇
夢の中では、時間の進み方が現実より柔らかかった。
カレンダーを見れば一週間しか経っていないはずなのに、玄兎の感覚ではもっと長く暮らしているように思える日もあった。逆に、一日が終わったと思って寝たはずなのに、朝になると数日分の記憶が自然に増えていることもある。
不自然だ。
それでも、もう驚かなかった。
夢なのだから、そういうものなのだと思うことにした。
ある朝、研究室へ入ると、机の中央に見慣れない小箱が置かれていた。
包装紙も飾りもない、ごく普通の白い箱だった。だからこそ、普段なら気にも留めないはずなのに、玄兎が鞄を置いて手を伸ばしかけた瞬間、透羽の声が飛んだ。
「玄兎、それにはまだ触らないでください」
あまりに素早い制止だったので、玄兎の手が宙で止まる。
「……危険物?」
「違います。少なくとも、怪異ではありません」
「そこを先に否定されると余計に気になるんだけど。じゃあ何?」
透羽は一拍だけ黙り、視線を逸らした。
「まだ言えません」
部屋の隅では、小毬が口元を両手で押さえている。千燈もコーヒーカップを口元へ寄せたまま、隠す気のない笑みを浮かべていた。
玄兎は最後の望みを託して依澄を見る。
「依澄は知ってる?」
「知ってる」
「じゃあ教えて」
「駄目って言われた」
「誰に?」
「みんなに」
「その『みんな』には依澄も入ってるだろ」
「私はあとから聞いたから、決めた側じゃない」
「そういう問題なの?」
玄兎が完全に行き詰まったところで、研究室の奥から紙をめくる音が止まった。
久住教授が眼鏡を少し持ち上げ、積み上げた資料の向こうから顔を出す。教授は玄兎と机の小箱を一度ずつ見てから、いかにも何でもないことのように言った。
「鵺代。昼休みは予定を入れず、ここへ戻ってこい」
「教授まで知ってますよね。何なんですか、この全員で隠してる感じ」
「学生同士の企みに、教員が先回りして答えを教えるのは野暮だろう。私は部屋を使いたいという相談を受けて、問題がないと判断した。それだけだ」
「もう半分くらい答えを言ってません?」
「なら残り半分は昼まで我慢しろ」
久住はそう言って再び資料へ目を落としたが、口元にはわずかな笑みが残っていた。
怪異の記録を扱う時にはあれほど慎重な教授が、こういう秘密にはきちんと付き合うらしい。その事実が妙におかしくて、玄兎は追及を諦めた。
「分かりました。昼に戻ります」
「よろしい。あと、その箱は開けるなよ。怪異ではないが、予定は壊れる」
「やっぱり知ってるじゃないですか」
返事の代わりに久住が片手を振ったので、玄兎は笑いながら一限へ向かった。
その日の午前中、透羽はいつも以上に何かを隠していた。
玄兎が話しかけると普通に答える。
けれど、スマートフォンが震えるたびに画面を伏せる。
小毬と目が合うと、二人とも急に別の話を始める。
千燈はそもそも会うなり笑っている。
依澄だけは平常運転だったが、「何かある?」と聞くと、「ある」と答えるので全く役に立たない。
昼休み。
玄兎が研究室へ戻り、扉を開けた瞬間、小さな破裂音が二つ重なった。
反射的に肩をすくめる。飛んできたのは紙テープで、その向こうから小毬の弾んだ声が響いた。
「玄兎先輩、お誕生日おめでとうございます!」
小毬の声が一番大きく、千燈が笑いながら拍手をし、透羽も少し照れたように手を叩いている。依澄はその隣で、皆より半拍遅れて小さく拍手していた。
玄兎は扉のところで数秒、動けなかった。
机の上には、朝の小箱とは別に大きなケーキ箱が置かれ、壁には研究資料を傷めないようマスキングテープで簡素な飾りが留められている。ユンの首元には、どこから持ってきたのか細い青いリボンまで結ばれていた。
奥の机では久住教授が書類を鞄へ入れていた。玄兎と目が合うと、教授はようやく種明かしを許されたように笑う。
「誕生日おめでとう、鵺代。私は昼飯に出るから、あとは若い連中で好きにやれ。ただし、火を使うなら机を焦がすなよ」
「教授、朝から完全に共犯だったじゃないですか」
「だから『部屋を貸しただけ』と言っただろう」
「それを共犯って言うんですよ」
「細かいことを言う誕生日だな」
久住は楽しそうに肩をすくめ、五人へ「片づけだけはしておけ」と念を押して研究室を出ていった。
「……俺の?」
玄兎が聞く。
千燈が笑う。
「他に誰がいるの」
「今日だったっけ」
「本人が一番忘れてるじゃん」
玄兎はスマートフォンの日付を見る。
見れば確かに、そこには自分の誕生日として記憶している日付が表示されていた。
現実でもそうだったはずだ。
ただ、夢の中で何日過ごしたのか曖昧になっていたせいで、完全に意識から抜けていた。
「二十歳になってから、誕生日を気にする余裕あんまりなかったからな」
「今年はちゃんと祝います」
透羽が言う。
「監視報告も怪異対応もありません。時間も取ってあります」
「そこまで準備してたの?」
「小毬が朝から何度も確認してきましたから」
「透羽先輩もかなり細かく確認してましたよ!」
「必要な準備です」
「ケーキの予約時間まで三回確認してました!」
「白狼院さん」
「はい!」
小毬は全く反省していない。
千燈がケーキ箱を開ける。
白い生クリームの上に果物が並び、中央には小さなプレートが乗っていた。
『玄兎 誕生日おめでとう』
その横に、小さく。
『明日も大学へ来ること』
玄兎は思わず笑った。
「誰が書いたの、下の」
「私です!」
小毬が手を上げる。
「誕生日のメッセージとしてどうなの」
「大事です。来年も再来年も大学へ来てください」
「留年を勧めてるみたいに聞こえる」
「卒業しても来ればいいです!」
「不審者になるだろ」
笑いが広がる。
依澄はそのケーキをじっと見ていた。
「誕生日って、こうするんだ」
「依澄は祝われたことない?」
玄兎が訊く。
「ない。いつが誕生日か、分からなかったから」
その言葉で、玄兎の笑いが少しだけ静かになる。
現実でも、依澄には学生証があり、履修登録も学生ポータルの記録も存在している。
けれど、その学籍が何を根拠に生まれたのかを遡ろうとすると、入学手続きや出生記録へきれいには繋がらない。大学の中では確かに学生なのに、その「前」がない。
夢の中では違った。戸籍も出生記録も、入学までの経歴もあり、生年月日にも「なぜその日なのか」という過去が最初から用意されている。
それは、この夢が作った「最初から存在していた依澄」の人生だった。
「じゃあ、依澄の誕生日もやろう」
玄兎がそう言うと、依澄は少し意外そうに瞬いた。
「私の?」
「うん。この夢では、生まれた日までちゃんと続いてるんだろ。その日を一度祝ってみてもいいと思う」
依澄はすぐには頷かなかった。
「それは、夢が作った日」
「そうだな」
「現実の私には、その日まで続く過去がない」
玄兎はケーキの上のプレートを見てから、依澄へ向き直った。
「だったら、その時は依澄が決めればいいんじゃないか。誕生日って本来、自分で決めるものじゃないけど……依澄は名前だって自分で選んだ。『自分がここから始まったと思う日』を一つ持つくらい、誰にも怒られないだろ」
「自分が、始まった日」
依澄はその言葉を確かめるように繰り返した。
少し考えたあと、視線が玄兎から透羽たちへ移る。四人の顔を順番に見て、最後にユンへ落ちた。
「じゃあ、大学に初めて来た日がいい」
「そこでいいの?」
「うん。そこで、みんなに会ったから。私が『いる』って言ってもらえた日だから」
胸の奥を静かに押されるような言葉だった。玄兎は余計なことを言わず、ただ頷いた。
「分かった。じゃあ、その日にしよう」
小毬がすぐスマートフォンを出す。
「記録します!」
「待って。今ここ夢だぞ」
玄兎が言ってから、部屋が少し静かになった。
透羽と千燈と小毬は、まだ自分たちが夢の中にいると完全には理解していない。
玄兎はしまったと思った。
けれど三人とも、妙に自然な顔をしていた。
透羽が首を傾げる。
「夢?」
「……いや。今の忘れて」
「玄兎、最近そういう言い方多いですね」
千燈が笑う。
「幸せすぎて夢みたい、とか?」
「そんな感じ」
「誕生日に言うとちょっとロマンチックだね」
「違うから」
玄兎は誤魔化し、ケーキを切り分けた。
依澄だけが、そのやり取りを黙って見ていた。
目が合う。
依澄は何も言わない。ただ、小さく笑った。
その笑い方を見て、玄兎は昨夜の砂浜を思い出した。「もう少しだけ」と胸元で言った依澄と、今ここで誕生日のケーキを前に笑っている依澄は、同じ一人の依澄だ。夢の中で増えた思い出も、少なくとも今の二人にとっては、もう無かったことにはできなかった。
◇
ケーキを食べ終わったあと、五人はそれぞれ持ってきたものを玄兎へ渡した。
小毬は小さな革のキーホルダーだった。
「匂いが残りやすい素材を選びました!」
「選ぶ基準そこなんだ」
「もし落としても私が見つけられます」
「便利ではあるな」
千燈は少し高そうな万年筆。
「共有ノート、いつまで普通のボールペンで書くの。これくらい持ちなよ」
「俺、字そんな綺麗じゃないけど」
「道具から入るのも大事」
透羽は薄い紺色の手帳を渡した。
「予定管理用です」
「俺の予定管理、透羽がやりたいだけじゃない?」
「玄兎自身がするためのものです。私は確認するだけです」
「確認するんだ」
「必要なら」
依澄は最後まで何も渡さなかった。
全員のプレゼントが終わったあと、玄兎が見る。
「依澄は?」
「ある」
「何?」
依澄はポケットから小さな紙を出した。
折り畳まれている。
玄兎が開く。
『また明日』
それだけだった。
「……これ?」
「うん」
「プレゼント?」
「うん」
「ずいぶん短いな」
「玄兎、好きでしょ」
「何が?」
「明日」
玄兎は返事に詰まった。
依澄は続ける。
「前は、明日が来るの怖かった。忘れるかもしれないから。今は、明日ほしいって言う」
依澄は現実の記憶を失っていない。玄兎が明日を怖がっていた頃も、海辺で二人が「また」を何度も確かめた夜も覚えている。
だから、その短い言葉には、紙一枚よりずっと大きな重さがあった。
「誕生日なら、次の誕生日まで明日がいっぱいある」
「そうだな」
「だから、これ」
依澄は紙を指差す。
「また明日」
玄兎は紙を丁寧に折り直した。
「ありがとう」
「うん」
昨夜の海で「また来よう」と何度も約束したことを、依澄は二文字の明日にまとめて渡してくれたのかもしれない。
玄兎には、そのプレゼントが一番夢らしくて、それなのに一番現実へ持ち帰りたいものに思えた。
◇
夢の時間は、その後も続いた。
誕生日の次の日には、普通に一限があった。
玄兎は十五分前に教室へ入り、透羽から「今日は早いですね」と言われた。
「昨日誕生日だった人間にもう少し優しくしてくれてもいいんじゃない?」
「昨日は昨日です。今日は今日です」
「急に現実的」
「明日が欲しいと言ったのは玄兎でしょう。明日には講義も含まれます」
「依澄のプレゼントが罠みたいになってる」
隣で依澄が聞いていた。
「講義も明日」
「そうだね」
「嫌?」
「少し。でもなくなると困る」
「じゃあある方がいい」
「そういうことなんだろうな」
玄兎は笑ってノートを開いた。
教授の話は長かった。
途中で眠くなった。
小毬から「今どこですか」とメッセージが来たので、講義後に研究室で待ち合わせた。
昼食では千燈が玄兎のデザートを勝手に一口食べた。
夕方、透羽と小毬が大学祭の展示内容で言い争った。
「ユンと触れ合う時間は必要です!」
「必要ではありません。ユンは展示物でも娯楽設備でもないんです」
「でも本人、撫でられるの好きです!」
「好きだからといって無制限に触れさせていい理由にはなりません」
「じゃあ予約制なら?」
「そういう問題ではありません」
「透羽先輩も毎日撫でてるじゃないですか!」
「私は健康状態を確認しています」
「昨日、十分くらい膝に乗せてました!」
「それはユンが寝たので動かせなかっただけです」
「絶対違います!」
玄兎と千燈は止めずに聞いていた。
依澄はユンを抱いている。
当の本人は喧嘩の原因になっていることなど知らず、依澄の腕の中で眠っていた。
「止めなくていい?」
玄兎が千燈へ聞く。
「もう少し見たい」
「同感」
結局、透羽が「予約制なら一回三分まで」という妥協案を出し、小毬が「短いです」と抗議しながらも受け入れた。
その夜、グループチャットには「ユンふれあい企画(仮)」というファイルが送られてきた。
玄兎はベッドの上でそれを見て笑った。
夢の中で何をしているんだ、とも思う。
それでも、こういうくだらない一日が積み重なっていくことが嬉しかった。
◇
やがて玄兎は、夢の中で「どれだけ時間が経ったか」を数えるのをやめた。
数日なのか、数週間なのか。
大学祭の準備が進み、研究室の壁へ展示用の写真が増えた。
海で撮った写真もあった。
依澄が青い舌を見せている写真。
小毬が砂浜へ描いた狼の横で怒っている写真。
千燈が日傘の下で笑っている写真。
透羽が青いガラス玉のキーホルダーを持っている写真。
玄兎はそれを見るたび、現実へ戻ったらこの写真は残らないのだろうと思った。
そのたび少し寂しくなる。
しかし、寂しさは以前のように「失うのが怖いから、このままにしよう」という形にはならなかった。
夢だと知っている。
いつか起きる。
それでも今は、まだここにいる。
そんな曖昧な状態を、玄兎は少しずつ受け入れていた。
ある日の夕方。
講義が終わったあと、玄兎と依澄は大学の屋上にいた。
立入禁止ではない小さな休憩スペースで、ベンチと自動販売機が置かれている。
夕焼けが校舎の向こうへ広がっていた。
依澄は缶のレモンソーダを両手で持っている。
玄兎はコーヒー。
二人でしばらく何も話さなかった。
「玄兎」
「何?」
「ここ、好き?」
「大学?」
「この夢」
依澄がはっきり聞いた。
玄兎は少し考える。
「好きだよ」
「どのくらい?」
「かなり」
「現実より?」
答えにくい質問だった。
玄兎は夕焼けを見る。
「分からない。でも、ここはすごく楽だと思う」
「楽?」
「誰も追われてない。透羽は家の命令や監視役だった頃のしがらみに縛られなくていい。千燈先輩は昼間も普通に歩ける。小毬は自分の力を隠す必要がない。依澄は、大学にいる理由を誰にも証明し直さなくていい。学生証の向こう側に、生まれてからここへ来るまでの過去までちゃんとある。ユンも隠れなくていい」
玄兎は缶を指先で回した。
「俺も、自分が何の器かとか、次に死んだら何を忘れるとか考えなくていい。普通に講義出て、昼飯食って、誰かと喧嘩して、誕生日祝ってもらって。それで一日終わる」
「欲しかった?」
「うん」
今度は迷わなかった。
「欲しかったんだと思う」
依澄は夕焼けを見る。
「よかった」
「依澄が見せたかったの、これ?」
ようやく聞いた。
依澄は缶を握る指を少し動かした。
「玄兎が、未来を怖がってたから」
「俺が?」
「うん」
「あの時――《百獣繭》の中で、俺が戻れない死を怖いって言った時?」
「その前から。忘れるのも怖い。死ぬのも怖い。未来で自分がいなくなるかもしれないのも怖い」
「……結構見られてるな」
「見てた」
「そうだよな」
依澄は嘘をつかない。
「だから、未来が怖くない形を見せたかった」
「こうなったらいい、って?」
「うん。玄兎が普通に明日へ行くところ」
「それで、最初から全部うまくいってたんだ」
「うん」
玄兎は少し笑う。
「かなり都合よかったもんな」
「嫌だった?」
「逆。都合よすぎて、途中から聞くのが怖くなった」
「何を?」
「夢だって答えられるのが」
依澄が玄兎を見る。
「分かってても?」
「分かってても。確定したら終わりに近づく気がしたから」
「でも、聞いた」
「海がよすぎた」
「海?」
「こんな時間を依澄が何で作ったのか、ちゃんと知りたくなった」
玄兎は少し笑った。
「それに、夢だって分かったあとも楽しかったし」
「よかった」
依澄の返事は静かだった。
そのあと、長い沈黙があった。
玄兎は缶コーヒーを飲む。
もうぬるくなっている。
「依澄」
「何?」
「理由、それだけ?」
依澄の指が止まった。
「俺が未来を怖がってたから。それだけ?」
依澄はすぐに答えなかった。
夕焼けを見たまま、しばらく黙っている。
玄兎は急かさない。
やがて、依澄が小さく息を吐いた。
「私も見たかった」
玄兎は横を見る。
「何を?」
「こういう未来」
依澄は膝の上の缶を見る。
海では、「何も起きない日が一回だけでもほしかった」と言っていた。けれど、この夢は海の一日で終わらなかった。誕生日が来て、講義があって、大学祭の準備まで始まった。依澄が本当に見たかったものは、一日だけの休息より、その先に普通に続いていく時間だったのだと玄兎は気づく。
「私が最初からこの世界にいて、普通に生まれて、普通に大学へ入って、学生証を持って授業を受ける。みんなが何も不思議がらずに名前を呼ぶ。誰かに『私はいる』って証明してもらわなくても、そこにいていいって思える」
依澄の声は、いつもと同じくらい静かだった。
泣き声でもなければ、何かを訴えるような強い口調でもない。ただ、ずっと胸の奥へ置いていた願いを、一つずつ机の上へ並べるような話し方だった。
「海にも行きたかった。誕生日もほしかった。ユンが大学にいても、誰も追い出そうとしないところも見たかった。透羽と小毬がくだらないことで喧嘩して、千燈が笑って、玄兎が面倒そうに見てるのも」
「俺、止めてなかった日も多かったけど」
「それも見たかった」
予想していなかった返事に、玄兎は少しだけ笑った。
「そこまで含めて?」
「うん。特別じゃないから」
その一言で、玄兎の笑みが静かに消えた。
依澄が欲しかったのは、誰かが用意した完璧な祝福だけではない。少し面倒で、少しくだらなくて、時には思い通りにならないまま、それでも翌日へ続いていく生活そのものだった。
依澄もわずかに笑ったが、その表情は長く続かなかった。
「現実で、全部できるか分からない」
「……うん」
「だから、一回だけでも見たかった。私にも、こういう先があるって」
玄兎はすぐには答えられなかった。
依澄は玄兎のために夢を見せた。それは嘘ではない。けれど同時に、これは依澄自身が一度でいいから触れてみたかった未来でもあった。普通に生き、最初から居場所があり、誰かに存在を証明してもらわなくても、自分がそこにいていいと信じられる未来。
海の夜、依澄を抱きしめた時に感じた切なさの正体を、玄兎は今になって少しだけ理解した気がした。依澄が惜しんでいたのは楽しい一日だけではない。その一日が、当たり前のように次の日へ続いていくことだった。
「依澄」
「何?」
「言ってくれてよかった」
「怒らない?」
「何に?」
「勝手に夢に入れた」
「最初はちょっと困ったけど」
「困った?」
「朝起きたら半年分くらい知らない記憶あったし」
「ごめん」
「でも、今は怒ってない」
玄兎はベンチの背へ身体を預けた。
「むしろ、見られてよかったと思ってる」
「本当?」
「うん。俺、自分が何を守りたいのか、前より分かった」
「何?」
「こういうの」
玄兎は大学の屋上から見える景色を指す。
「大学とか、昼飯とか、誕生日とか、海とか。ユンが普通に歩いてることとか。透羽たちがくだらないことで揉めることとか」
「私も?」
「依澄も」
「何する?」
「隣に座る」
「それだけ?」
「かなり大事」
依澄は少し笑った。
夕日がさらに低くなる。
夢の空は、現実より少し色が綺麗な気がした。
◇
その夜。
五人は研究室へ残っていた。
大学祭の展示案を仕上げるためだった。
透羽は文章の表現を直し、小毬は写真を選び、千燈は展示タイトルへ口を出し、依澄はユンを膝に乗せている。
玄兎はその光景を見ながら、急に思った。
「このままでもいい気がするな」
誰に言ったわけでもなかった。
けれど、四人とも聞こえた。
透羽が手を止める。
「何がですか」
「こういうの。ずっと続いてもいいかなって」
「大学祭の準備を?」
小毬が聞く。
「それはいつか終わってほしい」
「ですよね」
千燈が笑う。
玄兎は依澄を見る。
依澄だけは意味を分かっている。
「夢」
小さく言った。
透羽たちは不思議そうにする。
玄兎は誤魔化さなかった。
「そう。夢」
「玄兎、またその話?」
千燈が面白そうに笑う。
「最近、ここが夢みたいだってよく言うよね」
「まあね」
透羽が少し心配そうに見る。
「疲れているなら、今日は終わりにしますか」
「大丈夫。疲れてない」
玄兎は立ち上がり、窓の外を見る。
「ただ、本当にこのままでもいいかなって思っただけ」
依澄がユンを抱いたまま、玄兎の隣へ来る。
「玄兎」
依澄に呼ばれて振り向く。
ほんの一瞬だけ、彼女の表情が柔らかくなった。「このままでもいい」という玄兎の言葉を、嬉しいと思ったのだと分かるくらいには。
けれど、その嬉しさを理由に玄兎をここへ留めようとはしなかった。
「でも、玄兎は起きると思う」
「どうして?」
「玄兎だから」
「それだけだと、説明になってない気がする」
依澄は少し考え、ユンの背中をゆっくり撫でた。
「玄兎は、この夢を嫌いじゃない。たぶん、ずっといても幸せ。でも、夢だけでいいって選ぶ人じゃない」
玄兎は口を挟まず、その先を待った。
「本当の透羽と、本当の千燈と、本当の小毬と、本当のユンがいる方へ戻る。それで、ここで見たものを向こうでも作ろうとする」
依澄はそこで自分の胸元へ手を置いた。
「私も、向こうにいる」
「当たり前だろ。依澄も本物なんだから」
「うん」
「じゃあ、一緒に戻ろう」
依澄は少しだけ目を伏せた。
「玄兎が起きるなら、私も起きる」
「それだと、決めるのを全部俺に渡してない?」
「……少し」
珍しく気まずそうな顔をしたので、玄兎は笑った。
「じゃあ半分ずつ決めよう。俺は起きたい。依澄は?」
数秒の沈黙のあと、依澄は小さく頷いた。
「私も、起きたい。向こうで続きを見たい」
その答えを聞いて、玄兎の中で最後に残っていた迷いが少し軽くなった。
「決まり。一緒に起きよう」
依澄の目がわずかに見開かれる。
「今?」
「今日の展示案を終わらせたら」
「そこは終わらせるんだ」
「途中で投げたまま目を覚ますの、なんか気持ち悪いだろ」
千燈が笑う。
「何の話してるか分かんないけど、玄兎くんらしいね」
「私もそう思います」
透羽も少し笑う。
小毬はユンの写真を選びながら手を上げる。
「じゃあ、この写真だけ決めてからにしてください!」
「小毬はもっと分かってないだろ」
「何のことか分かりませんけど、作業が途中なのは嫌です!」
「そこは同意」
玄兎は席へ戻った。
夢から覚めると決めたのに、そのあと一時間近く大学祭の展示案を作った。
最後までくだらない。
でも、それでよかった。
◇
作業が終わったのは、夜九時を過ぎてからだった。
千燈、小毬、透羽は先に研究室を出た。
それぞれ「また明日」と言って。
玄兎は、その言葉へ一つずつ返事をした。
「また明日」
夢の中では最後になるかもしれない。
それでも言った。
扉が閉まる。
研究室には、玄兎と依澄、それからユンだけが残った。
「ユンは?」
玄兎が聞く。
「夢のユン」
「現実に戻ったら、本物がいるんだよな」
「うん。まだ研究室に来たばかり」
「そっか」
玄兎はユンを抱き上げた。
白い毛が掌へ沈む。
「じゃあ、お前にもまた明日だな」
「ゆぅん……?」
少しだけ心細そうに語尾が伸びた。玄兎は白い頭を指先で撫でる。
「大丈夫。戻るよ」
「……ゆん」
今度は納得したように目を細めたので、玄兎はユンをクッションへ戻した。
依澄が研究室の照明を消した。
廊下へ出る。
二人で大学を歩く。
夢の中で何度歩いたか分からない廊下だった。
掲示板や自動販売機、窓から見える中庭、何度も上り下りした階段、その先にある正門へ続く道まで、見慣れたものが一つずつ少しだけ名残惜しく見えた。
「ここ、なくなる?」
玄兎が訊く。
「夢だから、起きたら終わる」
「記憶は?」
「残ると思う」
「写真は?」
「たぶん残らない」
「透羽の青いキーホルダーも?」
「夢のは残らない」
「小毬の狼の絵も?」
「砂だから、夢でももう消えてる」
「そうだった」
玄兎は笑う。
正門を出たところで、依澄が立ち止まる。
「玄兎」
「何?」
「怖くない?」
玄兎は少し考えた。
「起きるのが?」
「うん」
「ちょっとは」
夢の中の未来を手放す。
現実へ戻れば、《百獣繭》は壊れかけたままかもしれない。
ユンはまだ大学へ隠して置いている段階。
透羽は監視役だった過去を背負い、千燈には吸血鬼としての制約があり、小毬は自分の能力を人前で自由には使えず、依澄の存在もまだ完全に安定したわけではない。
玄兎自身も、《還月》を失うかもしれない未来を抱えている。
現実は夢より面倒で、危なくて、どうしようもなく不完全だ。きっと今日うまくいったことが明日は崩れるし、約束した未来がそのまま来る保証もない。
「でも、帰りたい」
玄兎は言った。
依澄が見る。
「何で?」
「向こうの方が、まだ途中だから」
「途中?」
「ここは完成しすぎてる。俺たちが『こうだったらいい』って思ったものが、昔からそうだったみたいに揃ってる」
「嫌?」
「嫌じゃない。すごく好き」
玄兎は正門の向こうにある大学を見る。
「だからこそ、向こうで作ってみたい」
依澄の目が少し揺れた。
玄兎はそこで、海の夜からずっと胸に残っていた疑問を、今度は最後まで言葉にした。
「その前に、一つだけ聞いていい?」
「うん」
「去年の夏に透羽と冷製担々麺を食べた記憶。ユンが去年から大学にいた記憶。それから、依澄の幼稚園や小学校の写真」
夢の中では、どれも疑いようのない過去だった。匂いも温度も、写真の撮影日時も、その前後に続く会話まで揃っていた。
「俺が『こうだったらいい』って思った直後に増えた。あれも、全部依澄が作ったの?」
依澄はすぐには答えなかった。
少し考えてから、首を横に振る。
「全部は作ってない」
「じゃあ、どこまで?」
「最初に作ったのは、みんながいて、誰も追われなくて、明日が普通に来る場所」
依澄は自分たちの後ろにある大学を見た。
「玄兎が生きてて、透羽も千燈も小毬もいて、ユンも追い出されなくて、私にも最初から居場所がある。そういう大きな形」
「その中で、過去まで増えた?」
「うん。私が決めてないものも増えた」
「俺が願ったから?」
「分からない」
依澄は曖昧に誤魔化すのではなく、本当に知らない時の顔で答えた。
「玄兎の願いを私の夢が拾ったのかもしれない。夢そのものが反応したのかもしれない。みんなの『こうだったらいい』が重なったのかもしれない」
「じゃあ、俺が願えば過去を好きに作れるわけじゃない?」
「そんなことは言えない。玄兎が自由に作ってたって決めるのも早い」
玄兎は小さく息を吐いた。
答えが出たわけではない。それでも、分からないものを自分の能力だと決めつけるよりはずっとよかった。
「依澄の家族も?」
依澄の目が少しだけ伏せられる。
「私も、いてほしいと思ってた」
「……うん」
「でも、幼稚園から高校までの写真も、お母さんが電話長いことも、お父さんが写真を撮りすぎることも、私が一つずつ作った覚えはない」
夢の中で依澄は、それらを昔から知っていた人のように話していた。その時の表情まで、玄兎は覚えている。
「嬉しかった?」
「うん」
返事は早かった。
そのあとに、少し長い間があった。
「でも、怖かった」
「怖い?」
「本当にあったみたいに思い出せるから」
依澄は自分の指先を見る。
「お母さんの声も、お父さんがカメラ向ける時の顔も覚えてる。でも、現実の私はそこを生きてない」
玄兎は何も挟まなかった。
「嬉しいことと、本当にあった過去だったことは、同じじゃない」
その言葉は、夢に入った直後、善意の願いで誰かの過去まで変えてしまうかもしれないと玄兎が恐れた時と、ほとんど同じ場所へ届いた。
善意で望んだ幸福でも、それが本人の人生を勝手に完成させていい理由にはならない。
だから、夢の中ですべてを揃えてしまうより、足りないままの現実へ戻って、本人たちがこれから選べる方がいい。
「できる?」
依澄が改めて訊いた。
「分からない」
「夢みたいにならないかも」
「うん」
「ユン、隠したままかも」
「今はね」
「私、学生証はある。でも、その前がない。どうして入学したのかも、どこから来たのかも、ちゃんと繋がってない」
「うん。でも、今ある学籍まで嘘にする必要はないだろ。足りないところをどうするかは、向こうで久住教授たちとも相談できる。全部すぐには直せなくても、依澄が大学にいる方法は一緒に考えられる」
「透羽も監視役」
「もう監視役だけじゃない」
「千燈も昼、眩しい」
「日傘持てばいい」
「小毬も匂い嗅ぐと目立つ」
「それは現実でも本人あんまり気にしてない」
依澄が少し笑った。
玄兎も笑う。
「完璧じゃない。でも、向こうなら、これから俺たちが選び直せる」
「ここを作ったのは私」
依澄は一度だけ夢の大学を振り返った。
「でも、ここで起きたことを全部、私が決めたわけじゃない」
「うん」
玄兎も同じ景色を見る。
「土台を見せてくれたのは依澄だ。それだけでも十分大事だよ」
「嫌いじゃない?」
「何回聞くんだよ。好きだよ、この夢」
玄兎は一歩、依澄へ近づいた。
「見せてくれてありがとう」
依澄はすぐには返事をしなかった。その目が少し濡れて見える。泣いているのか、夜の光が反射しているだけなのか分からなかった。
海の夜なら、玄兎はもう一度抱きしめていたかもしれない。けれど今度は、その前に依澄の方から小さく手を差し出した。
「玄兎」
「何?」
「手」
玄兎はその手を握った。
「これで起きる?」
「うん」
「簡単だな」
「夢だから」
「便利だな」
「うん」
依澄の手は温かかった。
夢の中なのに。
海で掴んだ時と同じ。
大学で隣に座っていた時と同じ。
玄兎は指を少し強く絡めた。
「じゃあ一緒に起きよう」
「うん」
依澄が目を閉じる。
玄兎も続いた。
最後に聞こえたのは、大学のどこか遠くから響くチャイムだった。
◇
目を開けると、天井が近かった。
玄兎はしばらく瞬きをした。
見慣れない天井。
いや、見覚えはある。
現在の旧研究棟、その一角にある民俗資料研究室の隣の休憩室だった。二十年前に撤去された旧民俗資料棟ではなく、資料と研究室の名称を引き継いだ、今も使われている方の建物だ。
窓の外はまだ暗い。
玄兎は横を向く。
床へ敷かれた簡易マットの上に、自分が寝ている。
そのすぐ隣に、依澄がいた。
そして二人の手は、夢の最後と同じように指を絡めたままだった。寝る前に手を繋いだ記憶はない。いつ現実の身体まで同じ形になったのかは分からなかったが、玄兎はそれを確かめるより先に、依澄がここにいることへ安堵した。
「……依澄」
声をかける。
依澄のまぶたが動く。
ゆっくり目を開けた。
「玄兎」
「起きた?」
「うん」
玄兎は天井を見る。
スマートフォンを探し、時刻を確認する。
午前五時十二分。
日付は、眠った翌日のままだった。
「本当に一晩か」
「うん」
「五日どころじゃなかった気がする」
「もっといた」
「やっぱり?」
夢の終盤は、何週間も暮らしたような感覚がある。
誕生日も、大学祭の準備も、退屈だった講義も、くだらない喧嘩も、海も花火も、全部まだ頭の中に残っている。
玄兎は身体を起こす。
部屋の隅には、昨日ユンの観察のために使った資料が積まれている。
壁に大学祭の展示写真などない。
透羽からもらった手帳も、千燈の万年筆も、小毬のキーホルダーもない。
ポケットを探す。
依澄からもらった『また明日』の紙も、当然ない。
「……ないな」
「何が?」
「プレゼント」
「夢の?」
「うん」
「ごめん」
「謝ることじゃない」
玄兎は少し笑った。
「覚えてるからいい」
依澄が身体を起こす。
玄兎はそこで、まだ手を繋いでいたことに気づいた。
夢は終わったのだから、もう離してもいいはずだった。玄兎が少しだけ指の力を緩めると、依澄の指が逆にわずかに絡み直された。
「依澄」
「何?」
「まだ持ってる」
「うん」
「離す?」
依澄は一度だけ窓の外を見てから、玄兎へ視線を戻した。
「もう少し」
「そっか」
海の夜と同じ言葉だった。
玄兎も離さなかった。
窓の外は、少しずつ青くなり始めている。
完璧な夢は終わった。
現実の《百獣繭》はまだ壊れかけている。
今日になれば、透羽から観測値が届く。
千燈も小毬も大学へ来る。
ユンはまだ一般学生へ見つからないよう、研究室の奥で待っている。
何一つ、夢ほど簡単ではない。
それでも。
隣にいる依澄の手は、夢の中と同じように温かかった。
「依澄」
「何?」
「夢から覚めても、隣にいるな」
「いる」
依澄は迷わず答えた。
「夢じゃなくてもいる」
玄兎は少しだけ息を吐いて笑った。
「よかった」
「玄兎もいる?」
「いるよ」
「じゃあ」
依澄は窓の外、現実の朝へ目を向けた。
「海、また行く?」
玄兎は一瞬だけ驚き、それから笑う。
「行こう。今度は写真もちゃんと残るやつ」
「かき氷も?」
「また舌、青くするの?」
「する」
「じゃあ、それも」
依澄の指から、ようやく少し力が抜けた。それでも手はまだ離れなかった。
完璧な未来は消えた。けれど、そこへ向かうための今日までは消えていない。海も、誕生日も、くだらない喧嘩も、夢と同じ形になる保証はない。それでも、今度は自分たちが選びながら一つずつ作っていける。
玄兎は窓の外の朝焼けを見ながら、夢の中でもらった言葉を思い出した。
また明日。
その明日は、もう来ている。
夢から覚めても、依澄は隣にいる。
今度は夢ではなく、自分たちで続きを作る番だった。
――第二十九話・了