翌日も、ちゃんと朝が来た。
その次の日も、そのまた次の日も。
玄兎が目を覚ますたび、窓の外には夏の空があり、スマートフォンには大学の予定と五人のグループチャットが並び、胸の痣は静かなままだった。
《百獣繭》の警告は一度も鳴らない。鷺宮家から緊急召集も来ず、大学の窓に二十年前の校舎が重なることもなければ、夜空に月が二つ浮かぶこともない。
最初の一日は、その静けさが不自然だった。二日目になると、玄兎は不自然さを忘れる時間が増えた。三日目には、講義へ遅れそうになって走りながら、「今日は怪異が出ないだろうか」と考えるより先に、「出席間に合うかな」と心配している自分に気づいた。
その変化が少し嬉しかった。
夢だと疑っていること自体は、忘れていない。
ユンを昨日見つけた記憶と、去年の冬から一緒だった記憶が同時に存在すること。依澄の学生証や履修登録だけでなく、その学籍を過去へたどっても、出身校や入学時の記録まで何の綻びもなくつながっていること。《百獣繭》を解決したはずなのに、その具体的な過程だけが曖昧なこと。
考えればいくらでもおかしい。
けれど、おかしいからすぐ壊さなければならないとも思わなかった。
玄兎は、依澄へ問いかけないまま何日かを過ごした。
依澄も、何も説明しなかった。ただ毎朝、大学へ来た。
そうして夏のある日、千燈が研究室の机へ一枚のチラシを置いた。
「海、行かない?」
あまりにも普通の提案だったので、玄兎は一瞬聞き流しかけた。
「海?」
「そう。せっかく夏なんだし、講義も午後ないし、明日は全員予定空いてるでしょ。電車で一時間くらいのところに、そこそこ綺麗な海水浴場があるんだって」
千燈はスマートフォンを操作し、観光案内の写真を見せる。青い海と白い砂浜、その奥に低い防波堤と小さな海の家が並んでいた。
小毬が椅子から身を乗り出す。
「行きたいです! 海なら泳いでもいいですよね。狼の姿にならなくても、普通に速く泳げます!」
「泳ぐ前提なんだ」
「海へ行って泳がないんですか? 私は泳いで、走って、焼きそば食べて、最後にまた泳ぐところだと思ってました」
「食事を挟んでも結局泳ぐんだな」
「遊び方が体育会系だね」
千燈が笑う。
窓際で資料を読んでいた透羽は、最初は会話に加わらなかった。けれど、千燈が「透羽ちゃんも行くでしょ」と振ると、ページを閉じて少し考える。
「明日の観測当番はありませんし、大学側の予定も特にないので、時間はあります。ただ、海水浴場の混雑状況と救護設備は確認しておきたいです」
「旅行の返事で最初に救護設備が出てくる?」
「事故が起きてから確認しても遅いでしょう」
「そうなんだけどさ」
千燈は肩をすくめる。
依澄だけは、スマートフォンの海の写真をじっと見ていた。
玄兎が横から覗く。
「依澄、海行ったことある?」
依澄は少し考えた。
「写真はあるけど、本物はない」
いつもの平坦な言い方だった。
けれど、写真を見つめる目だけは、少し名残惜しそうに画面へ残っている。
「そっか。じゃあ、依澄の初海ってことで行こう」
玄兎が言うと、依澄は写真から顔を上げた。
「初海」
「言い方は変だけど、初めてなんだろ」
「うん。大きい水」
「まだ実物見てないのに説明が雑だな」
「水がいっぱい」
「間違ってはいない」
玄兎が笑うと、依澄も小さく笑った。
その笑顔は普段と同じように見えたのに、依澄はもう一度だけ海の写真を見てから、そっと画面を閉じた。
千燈が両手を叩く。
「じゃあ決まり。明日九時に駅集合。遅刻した人は海の家で全員分の飲み物ね」
「それ、玄兎先輩狙いじゃないですか?」
「最近一番危ないからね」
「反論できないのが悔しい」
玄兎はそう言いながら、自分のスマートフォンへ予定を入れた。
明日の欄へ「海」と表示される。
たった二文字の予定が、妙に楽しみだった。
◇
問題は、水着だった。
玄兎は自分の分については何も困らなかった。去年買った海パンがまだ使えるので、適当に鞄へ入れれば終わる。
しかし、五人のグループチャットは夕方から妙な熱量になった。
『新しいの買った方がいいでしょうか。』
透羽からだった。
玄兎は画面を二度見した。普段の透羽なら、「水着はあります」で終わりそうな話だ。
続いて小毬が返信する。
『買いましょう! 私も見たいです!』
千燈もすぐ乗る。
『透羽ちゃんが自分から水着相談するの珍しすぎる。』
透羽から返事が来た。
『相談ではありません。現在持っているものが海水浴に適しているか確認しているだけです。』
『誰に確認してるの?』
千燈がそう返してから、数十秒返事がなかった。
玄兎は嫌な予感がしてスマートフォンを伏せた。
すぐに震える。
『玄兎は、どう思いますか。』
「なんで俺に聞くんだよ」
一人で声が出た。
既読をつけてしまった以上、答えなければ不自然だ。
しかし、「何でも似合うと思う」では軽すぎるし、具体的な形や色に言及すれば、どこからその知識が出たのか自分でも困る。
玄兎が三十秒以上悩んでいると、依澄から先に返信が入る。
『透羽が着たいのでいい。』
小毬も続く。
『そうです! でも一緒に選びに行くのも楽しそうです!』
千燈。
『じゃあ今から行く? 駅ビルまだ開いてるよ。』
透羽。
『今からですか?』
そこから話が早かった。
四十分後、なぜか玄兎まで駅ビルの水着売り場の近くにいた。
「俺、来る必要あった?」
売り場の外にあるベンチで聞くと、千燈が紙カップのコーヒーを飲みながら答える。
「荷物持ち。それと最終確認」
「何の?」
「男目線」
「その役、引き受けた覚えないけど」
売り場の中では、小毬がすでに何着か手に取っている。依澄は色の違いを見比べていた。透羽は真剣な顔で素材表示を読んでいる。
千燈はその様子を眺めながら笑った。
「透羽ちゃん、完全に装備選びの顔だね」
「水着ってそんなに性能差あるの?」
「あるんじゃない? 私は見た目で選ぶけど」
しばらくして、小毬が試着室から顔だけ出した。
「先輩、ちょっとこっち来てください。透羽先輩が決まりません!」
「俺が行って解決する話?」
「いいからです!」
玄兎は売り場の奥まで入ることに抵抗があったが、店員が普通に案内してくれたので仕方なく近づいた。
試着室の前には、依澄と透羽がいた。
透羽はまだ着替えていない。手には二種類の水着を持っている。
一つは紺を基調にした落ち着いたもの。もう一つは白と青を使った少し明るいデザインだった。
「玄兎、どちらがいいと思いますか」
「俺が決めるの?」
「客観的な意見が欲しいだけです」
「客観的って言われても、透羽が着るんだろ。だったら自分が着たい方でいいんじゃない?」
「それが決まらないので聞いています」
「透羽にもそういうことあるんだな」
「あります」
返事が少し強い。
小毬が横から口を挟む。
「私は白い方がいいと思います。いつもの透羽先輩と少し雰囲気が違って、絶対かわいいです」
依澄は紺を指す。
「こっちも透羽。静かで透羽」
「依澄、それ褒めてる?」
「褒めてる」
玄兎は二つを見比べたあと、結局透羽を見る。
「白い方」
透羽の目が少し動く。
「理由は?」
「海で見つけやすそうだから。あと、似合うと思う」
言ってから、少し遅れて恥ずかしくなった。
透羽も黙った。
小毬はにやっとする。
依澄は普通に頷いた。
「似合う」
透羽は二秒ほど何も言わず、それから白と青の方だけを残した。
「では、こちらにします」
「決まるの早いな」
「意見を求めたので、参考にしただけです」
透羽はそう言ったが、そのあと商品のタグを見ながら、ほんの少し口元を緩めた。
千燈は遠くから全部見ていたらしい。
店を出たあと、玄兎の肩を軽く叩く。
「明日、ちゃんと感想言いなよ」
「何の?」
「似合うって選んだ責任」
「責任まで発生するの?」
「するする」
玄兎は面倒そうに返しながらも、少しだけ明日が楽しみになっている自分を否定できなかった。
◇
翌朝は、誰も遅刻しなかった。
玄兎は集合時刻の十五分前に駅へ着いた。珍しいと言われる前に、今日は絶対に言わせないつもりだった。
ところが改札前には、すでに透羽がいる。
「早いな」
「玄兎も今日は早いですね」
「飲み物係になりたくなかったから」
「私も同じです」
「透羽が遅刻するところ想像できないけど」
「可能性はゼロではありません」
透羽はいつもの落ち着いた服装だった。水着は鞄の中らしい。
数分後、小毬が大きなバッグを抱えて走ってきた。
「おはようございます! 浮き輪も持ってきました!」
「本気だな」
「当然です。依澄先輩の初海ですから」
「本人より張り切ってない?」
その本人は、小毬より少し遅れて現れた。
依澄は薄紫の帽子をかぶり、小さめのバッグを持っている。
「帽子買ったんだ」
「日差し強いから」
「似合ってる」
「うん」
自分で肯定するのが依澄らしい。
最後に千燈が到着した。
「全員いるね。じゃあ行こっか」
「先輩、日傘は?」
小毬が聞く。
「今日は持ってるよ。体質が安定してても、日焼けは普通に嫌」
「そういう理由なんですね」
「普通の大学生っぽいでしょ」
千燈は笑った。
五人は電車へ乗った。
ユンは研究室で留守番だ。
朝、透羽が一番に様子を見に行った時には、新しいクッションの中央で丸くなっていたらしい。全員で「夕方には戻る」と言ってきた。
そのことも、今日の予定の一部になっている。
電車が郊外へ出るにつれ、車窓の建物は少なくなった。田畑が増え、その向こうに低い山が見える。
依澄はずっと窓を見ていた。
「何か珍しい?」
「景色が遠い。あと、空が広い」
「街だと建物近いもんな」
玄兎は依澄の視線を追う。
どこにでもある夏の空だった。
けれど、依澄にとっては初めて見るものがまだたくさんある。
「海はもっと広いぞ」
「空より?」
「比べ方難しいな。着いたら自分で決めて」
「うん」
依澄は満足そうにまた窓を向いた。
流れていく田畑も、遠くの鉄塔も、窓へ一瞬だけ映る自分たちの顔も、見落としたくないように目で追っている。
その横顔を見ながら、玄兎は思う。
夢の中で初めて見る海。
それは本当に「初めて」と言えるのだろうか。
現実で目覚めたあと、依澄はこの海を覚えているのだろうか。
もし覚えていないのなら、今こうして一つずつ景色を見ていることに、どんな意味があるのだろう。
そこまで考えて、玄兎は自分で嫌になった。
意味なんて、今はなくてもいい。
依澄が嬉しそうに見ている。それだけでいいはずだった。
考え始めると、胸の奥が少し重くなる。
玄兎はその考えを一度手放した。
今日は楽しむと決めた。
聞くのは、まだ後でいい。
◇
駅から海までは、歩いて十五分ほどだった。
潮の匂いが先に届いた。
依澄が足を止める。
「匂いする」
「海の?」
「たぶん。水じゃない匂い。塩と、風」
小毬が横で鼻を動かす。
「魚もします!」
「小毬は情報量多すぎるな」
細い道を抜ける。
視界が一気に開いた。
青い海があった。
空と海の境目は遠く、水平線がわずかに霞んでいる。太陽の光が水面で細かく跳ね、波が砂浜へ届くたび、白い泡を残して引いていく。
依澄は動かなかった。
「依澄?」
玄兎が呼ぶ。
依澄は海を見たまま答えた。
「大きい水」
玄兎は吹き出した。
「結局それなんだ」
「写真より大きい。終わり、見えない」
「向こうに陸はあるけど、ここからは見えないな」
依澄は帽子のつばを少し上げた。
目がいつもより大きく開いている。
「好きかも」
「まだ足も入れてないぞ」
「見ただけで好き」
依澄はそこで一度だけ瞬きをした。
「……来てよかった」
あまりにも小さな声で、玄兎は危うく波音に聞き逃すところだった。
「まだ一日始まったばっかりだぞ」
「うん。だから、いっぱい見る」
「欲張りだな」
「今日くらい」
その言い方が少し可笑しくて、少し嬉しかった。
けれど、「今日くらい」という言葉だけが、なぜか玄兎の胸に薄く残った。
小毬はもう待てないらしい。
「着替えましょう! このままだと私、服のまま入ります!」
「それはやめてください。荷物も濡れます」
透羽がすぐ止める。
「分かってます。だから急ぎましょう!」
五人は海の家へ向かった。
◇
先に着替えを終えた玄兎は、海の家の外で待っていた。
短い海パンにTシャツ。特別な格好ではない。
周囲も大学生や家族連れが多く、誰もこちらを気にしていない。
それでも玄兎は落ち着かなかった。
理由は分かっている。
昨日、水着選びに口を出してしまったからだ。
「何で俺が緊張してるんだ」
一人で呟く。
そこへ千燈が先に出てきた。
黒を基調にしたシンプルな水着の上へ薄い羽織を着て、日傘まで差している。
「玄兎くん、顔固いよ。誰かさんの水着待ってるから?」
「全員待ってます」
「はいはい」
千燈は楽しそうだ。
次に小毬が出てくる。
明るい色のスポーティーな水着で、動きやすさを最優先にしたらしい。
「先輩、泳ぎましょう!」
「まだ全員来てないから」
「じゃあ準備運動します!」
「海でも本気だな」
小毬はその場で腕を回し始めた。
依澄は少し遅れて出てきた。
薄紫と白を使った落ち着いた水着だった。本人は恥ずかしがる様子もなく、自分の腕や足を見ている。
「動きやすい。あと、涼しい」
「感想そこ?」
依澄は玄兎を見る。
「変?」
「全然。似合ってる」
「よかった」
自然に返したあと、依澄は海の方へ視線を移した。
最後に透羽が出てきた。
昨日選んだ白と青の水着だった。
派手ではない。
けれど、普段の落ち着いた服装より明るい色が、夏の光によく合っていた。
玄兎は一瞬、言葉を忘れた。
透羽がすぐ気づく。
「何ですか。昨日、玄兎が選んだ方です」
「分かってる。問題ない。むしろ、似合ってる。昨日こっちって言ってよかった」
透羽は少しだけ目を伏せた。
「そうですか。なら、よかったです」
そのあと透羽は玄兎から少し顔を逸らし、耳だけが分かりやすく赤くなった。
「先輩、私には?」
小毬が割り込む。
「何が?」
「感想です! 透羽先輩だけずるいです」
「小毬も似合ってるよ。すごく泳ぎそう」
「褒め方が水泳選手です! かわいいも欲しいです!」
「かわいい。というか本当に似合ってる」
「今度はちゃんと褒めましたね!」
千燈が笑い出す。
依澄は自分の水着を見てから玄兎を見る。
「私は?」
「さっき言っただろ。似合ってる」
「もう一回」
「依澄まで参加するの?」
「うん」
玄兎は頭を掻いた。
「似合ってるし、色も依澄っぽい」
「よかった」
今度は満足したらしい。
千燈だけが何も言わず玄兎を見る。
「先輩は自分で分かってるでしょ」
「何が?」
「似合ってるって」
「私は褒められなくていいの?」
「じゃあ似合ってます」
「敬語なの面白いなあ」
全員にからかわれた気がして、玄兎は先に砂浜へ向かった。
◇
海へ一番最初に入ったのは、やはり小毬だった。
「冷たいですけど、すぐ慣れますよ! 先輩も早く来てください!」
言いながら笑っている。
膝まで入ったかと思うと、そのまま腰まで進み、波が来た瞬間に身体ごと飛び込んだ。
「元気すぎるな」
玄兎が呆れる。
小毬は少し沖まで泳いでから、こちらへ手を振る。
玄兎も海へ入った。
最初の冷たさを越えると、すぐに慣れた。
依澄は波打ち際で立ち止まっている。
一歩入る。
波が足首へ触れる。
「動いた」
「波だからな」
玄兎が戻って説明する。
「来て、帰る」
「そう。ずっとその繰り返し」
依澄は波が引くのを見て、そのあと次の波を待つ。
「面白い」
「泳いでみる?」
「泳いだことない」
「それ先に言おう」
玄兎が笑う。
透羽がすぐ近くへ来る。
「では、まず浅いところで水に慣れましょう。いきなり身体を浮かせる必要はありません」
「透羽、泳ぎ教えられる?」
「普通には泳げます。《水鏡》を使わなくても」
「能力あると何でも水でできそうに見えるな」
「それとこれとは別です」
透羽は依澄の手を取り、少しずつ水へ入る。
依澄は真面目に足を動かしている。
玄兎はその横につく。
「怖かったら言って」
「怖くない。まだ楽しいかは分からない」
「正直だな」
しばらくすると、依澄は透羽に支えられながら身体を水面へ浮かせた。
最初は肩へ力が入っていた。
「力を抜いてください。水が支えます。今は私も支えていますから、急に離しません」
「うん」
依澄は目を閉じた。
身体が少しずつ水へ馴染む。
「浮いた。玄兎、見て」
「見てるよ。ちゃんと浮いてる」
「すごい?」
「すごい」
依澄が嬉しそうに笑う。
その瞬間、小毬が少し離れたところから勢いよく泳いできた。
「依澄先輩、次はこっちまで――」
「白狼院さん、波を立てないでください!」
透羽の注意が飛ぶ。
小毬は慌てて止まった。
「すみません! 嬉しくてつい」
それでも小さな波が来る。
依澄の身体が少し揺れる。
玄兎が手を出す。
依澄は反射的に玄兎の腕を掴んだ。
沈みはしなかった。
ただ、そのまま離さない。
「大丈夫?」
「うん。もう少し、このまま」
「それならいいけど」
透羽が一瞬だけ玄兎たちを見る。
何も言わず、依澄の反対側を支える。
千燈は浅瀬からその様子を見ていた。
「海に来ても距離感で揉めそうだね」
「揉めてません! 私は安全の話です!」
小毬が先に否定する。
「小毬ちゃんが一番反応早いじゃん」
五人の笑い声が波音へ混ざった。
◇
午前中だけで、かなり遊んだ。
小毬は玄兎へ競泳を挑み、かなり本気で勝った。
「先輩、遅いです! 部分獣化してないのに、この差ですよ!」
「狼血の人間と普通の大学生を比べるな。基礎体力が違うんだよ」
「じゃあ次は浮き輪競争です!」
「まだやるの?」
千燈は泳ぐより砂浜で見ている時間の方が長かったが、時々海へ入り、誰かが油断したところへ水をかけた。
透羽は最初こそ「周囲の人へ迷惑をかけないように」と言っていたのに、小毬から水をかけられてから静かに反撃し始めた。
もちろん《水鏡》は使わない。
使わないのだが、手で掬う水の量が妙に正確だった。
「透羽、狙って顔だけ当ててない?」
「偶然です」
「三回連続で?」
「偶然です。そろそろ玄兎も泳いでください」
「話そらしたな」
依澄は最後には短い距離なら自分で浮けるようになった。
泳ぐというより、水の上をゆっくり進む程度だったが、本人は十分満足そうだった。
「海、好き。見ただけでも好きだったけど、入ったらもっと好きになった」
浜へ戻りながら言う。
「よかった」
玄兎も嬉しくなった。
昼は海の家へ入った。
焼きそば、かき氷、フランクフルト、焼きとうもろこし。
小毬は朝から宣言していた通り、焼きそばを食べたあとに肉系のものを追加した。
「泳いだので消費しました。午後も泳ぐので、補給が必要なんです」
「理屈は通ってる」
依澄は青いかき氷を見ている。
「舌、青くなるよ」
千燈が言う。
「なる?」
「なるなる」
依澄は一口食べる。
しばらくして、玄兎へ舌を見せた。
「青い?」
「青い。かなり」
「写真」
依澄はスマートフォンを出す。
玄兎が撮る。
確認した依澄は、思ったより楽しそうに笑った。
すぐに画面を閉じず、指先で写真を少し拡大する。青くなった舌と、その後ろに写り込んだ玄兎の肩。何でもない一枚を、確かめるように何度も見た。
透羽が横で見ている。
「その写真、残すんですか」
「残す」
依澄が答える。
「消さない」
念を押すように、もう一度だけ言った。
玄兎は「夢でも?」と言いそうになり、喉の奥で止めた。
透羽が不思議そうに見る。
「何か?」
「いや。何でもない」
玄兎は焼きとうもろこしへ視線を落とした。
今日は、まだ聞かない。
そう決めたはずなのに、夢という言葉は少しずつ喉の近くまで上がってきている。
◇
午後は、午前よりゆっくり過ごした。
海へ入り、疲れたら砂浜へ戻る。ビーチボールで遊び、誰かが失敗して海へ落とせば全員で取りに行く。
小毬が砂浜へ巨大な犬の絵を描き、「狼です」と訂正し、千燈がわざと耳を丸く描き足して喧嘩になった。
透羽は日陰で飲み物を飲みながら、その様子を見ていた。
玄兎が隣へ座る。
「疲れた?」
「少しだけ。でも、嫌な疲れではありません」
「透羽、午前けっこう本気だったもんな」
「白狼院さんが何度も水をかけてくるので、必要な反撃をしただけです」
「まだその説明なんだ」
「事実です」
玄兎は笑う。
少し沈黙が落ちる。
目の前では、依澄と小毬が波打ち際を歩いている。千燈は日傘の下で写真を撮っている。
「こういう日、前から欲しかった?」
玄兎が訊く。
透羽は海を見る。
「監視役だった頃は、こんなふうに一日遊ぶことを考える余裕があまりありませんでした。玄兎の状態を確認して、怪異が出れば対応して、家への報告をまとめる。それが普通でしたから」
「今は?」
「普通の意味が変わりました。毎日海へ来るのは困りますけど、こういう予定が入ってもいい生活は好きです」
透羽はそこで玄兎を見る。
「玄兎は?」
「好き。かなり。透羽も楽しそうだし」
「……見れば分かりますか」
「分かるよ。前よりずっと」
透羽は少し照れたように視線を外した。
玄兎はそれ以上言わなかった。
この透羽は、自分が望んだ未来の透羽だ。
監視役から解放されても隣にいて、普通の大学生として海へ来る。
でも、この笑顔が依澄の作ったものだとしても、偽物だと切り捨てられるだろうか。
玄兎には分からなかった。
◇
夕方になると、海水浴客は少しずつ減った。
日差しが弱まり、海の色が青から橙へ変わっていく。
小毬はまだ泳ぎたそうだったが、透羽から「これ以上は体温が下がります」と止められ、渋々浜へ戻った。
五人は着替えを済ませ、海の家で少し遅い軽食を買った。
帰るにはまだ早い。
近くの海岸で小さな夏祭りが開かれるらしく、夕方から屋台が並び始めていた。
「花火あるって。八時から十分だけ」
千燈が案内板を見る。
「見たいです! 明日は午後からなので、少しくらい遅くなっても大丈夫です」
小毬が即答する。
「そういうところだけ予定把握してるな」
玄兎が言う。
依澄は「花火」という文字を見ている。
「見たことある?」
「映像はあるけど、本物はない」
「じゃあ今日は初めて多いな」
「海、かき氷、花火、水着。四つ」
依澄は指を折って数える。
「夏をまとめて消化してるな」
「まだある?」
「探せばいっぱいあるよ」
「じゃあ、またやる」
依澄は当然のように言った。
その直後、ほんの一瞬だけ視線が落ちた。
自分で口にした「また」を、確かめるような短い間だった。
玄兎は返事を少し遅らせた。
「……うん。次もやろう」
依澄は顔を上げる。
「次」
「そう。今日だけで全部やる必要ないだろ」
「……うん」
今度の返事は、さっきより少し小さかった。
また。
次。
当たり前なら何でもない言葉が、なぜか胸に残った。
◇
夜の砂浜には、昼とは違う空気があった。
潮風は少し冷たくなり、屋台の明かりが砂の上へ細長く落ちている。
五人はたこ焼きや焼きとうもろこしを分けながら、花火が始まるのを待った。
小毬は射的で景品を取ろうとして本気になり、店の人から「力より狙いだよ」と笑われた。
千燈は金魚すくいを眺めていたが、「持って帰れないから」とやらなかった。
透羽はくじ引きで小さな青いガラス玉のキーホルダーを引いた。
「海っぽい。今日の記念にちょうどいいんじゃない?」
玄兎が言う。
「記念、ですか」
透羽はその言葉を繰り返してから、キーホルダーを大事そうに鞄へ入れた。
依澄は綿あめを初めて食べた。
「なくなる」
「口に入れたらそうなる」
「雲みたいなのに」
「雲食べたことないだろ」
「夢ならある」
「それはずるいな」
玄兎が笑う。
依澄も笑った。
八時。
最初の花火が上がった。
夜空へ光の線が伸び、少し遅れて大きな音が腹へ響く。
依澄の肩がびくっと動いた。
「音、大きい」
「驚いた?」
「少し。でも見る」
次の花火が開く。
赤や青、金色の光が広がり、海面にも色が映る。
依澄は一度も目を逸らさなかった。
小毬は隣で「すごいです!」と何度も声を上げ、千燈は写真を撮り、透羽は最初こそ静かに見ていたが、最後の大きな花火が広がった時には少しだけ笑っていた。
玄兎は花火より、四人の顔を見ている時間の方が長かった。
この瞬間が残ればいいと思った。
写真でも、記憶でも。
夢でも。
消えなければ、何でもいい。
そんな考えが浮かんで、自分で少し驚いた。
◇
花火が終わったあと、人の流れは駅へ向かった。
千燈と小毬は屋台の最後を見てから行くと言い、透羽も二人を置いて帰るのは危ないと残った。
玄兎と依澄は先に少し歩いた。
駅へ向かう道ではなく、海沿いの砂浜を。
「遠回りする?」
依澄が訊く。
「少しだけ」
「うん」
夜の海は昼より広く見えた。
波音だけが規則的に続く。祭りの明かりは少しずつ遠くなり、人の声も小さくなる。
玄兎は靴を手に持ち、波が届かないぎりぎりの湿った砂を歩いた。
依澄も同じように裸足だった。
「今日、楽しかった?」
玄兎が聞く。
「すごく。海も好き。花火は音が大きいけど好き。かき氷は青かった」
「最後だけ感想が違う」
「甘かった」
「よし」
依澄が笑う。
玄兎も笑った。
そのまま依澄は前を向いたが、数歩進んだところで、独り言のように続けた。
「全部、覚えてたい」
玄兎は横を見る。
「今日のこと?」
「うん。駅から歩いたのも。海が最初、思ったより大きかったのも。透羽に浮き方教えてもらったのも。小毬が泳ぐの速かったのも。千燈が花火撮ってたのも。玄兎が、かき氷の写真撮ったのも」
「細かいな」
「忘れたくないから」
依澄は笑っていた。
笑っているのに、その言葉だけがやけに静かだった。
しばらく歩く。
波が来る。
引く。
昼に依澄が言った通り、来て、帰る。
何度でも。
「玄兎」
「何?」
「今日、ずっと考えてた。玄兎がいつ聞くかなって」
玄兎の足が止まった。
依澄は二歩先まで進み、振り返る。
月明かりの下で、薄紫の髪が少し風に揺れている。
「気づいてた?」
玄兎が訊く。
「うん。最初から」
「最初って、俺が朝寝坊した日?」
「もっと前」
「そっか」
驚きは少なかった。
むしろ、ようやく同じ場所まで来た気がした。
玄兎は海を見る。
夜の水平線はほとんど見えない。
「これ、夢なんだろ」
「うん」
依澄は隠さなかった。
たった一言だった。
それなのに、その答えが出た瞬間、世界が少しだけ静かになった気がした。
海は消えない。月も消えない。遠くの祭りの明かりも、砂に残った二人の足跡も、そのままだ。
「全部?」
「夢」
「透羽も、千燈先輩も、小毬も?」
「いる。本物の気持ちを借りてる。私が一人で作った人じゃない」
玄兎は少し安心した。
「借りてるって、どういう意味?」
依澄は波打ち際へ視線を落とした。
「私が『こうだったらいい』って思っただけじゃない。玄兎も、透羽も、千燈も、小毬も。みんなが心のどこかで思ってることが、少しずつ混ざってる」
「じゃあ、ここにある思い出も?」
依澄はすぐには頷かなかった。
「私が作ったものもある。でも、私が知らないことも増えてる」
「知らないこと?」
「うん。私が見たことない会話とか、知らない場所の思い出とか。あとから、本当にあったみたいに入ってくる」
玄兎は、夢の中で突然増えた写真や、昨日まで存在しなかったはずなのに妙に具体的な過去を思い出した。
「それ、誰が作ってる?」
「分からない」
依澄は迷わずそう答えた。
「夢が拾ってるのか、みんなの気持ちが重なってるのか、別の何かなのか。まだ分からない」
玄兎は少し黙った。
「俺が『こうだったらいい』って思ったことが、過去になってる可能性も?」
「あるかもしれない」
依澄はそこで一度言葉を切り、玄兎をまっすぐ見た。
「でも、それだけで玄兎が自由に作ってるって決めるのは早い。私にも分からないから」
「……そっか」
「うん。分からないものを、分かったことにしない」
その言い方が妙に透羽らしくて、玄兎はほんの少しだけ笑った。
「じゃあ、四人ともこの夢の中にいる?」
「うん。自分の夢だって、まだ分かってないかもしれないけど」
「俺だけ気づいた?」
「玄兎は、前から夢に慣れてるから」
「依澄のせいでね」
「うん」
依澄は否定しない。
玄兎はまた歩き始めた。
依澄も隣へ戻る。
「いつから夢?」
「ユンの写真を見て寝た夜から」
「じゃあ、ここで何日経った?」
「たぶん五日」
「現実では?」
依澄はすぐには答えなかった。
「まだ朝になってない」
玄兎は思わず笑った。
「一晩の中で五日?」
「夢だから」
「便利だな」
「うん」
依澄も笑う。
玄兎は「何で見せたの」と聞きかけた。
けれど、その先にはこの時間を終わらせる理由まで続いてしまいそうな気がした。
依澄がこちらを見る。
「聞かない?」
「今日はいい」
「いいの?」
「うん。理由は、もう少しあとで聞く」
玄兎は海へ視線を戻す。
夢だと分かった。
なら、目を覚ます方法もきっとある。
依澄へ頼めば、今すぐ終わらせられるかもしれない。
けれど、今日の海は楽しかった。
透羽が選んだ水着を褒めた時の顔も、小毬が泳ぎで本気になったことも、千燈が烏ではなく普通のカメラで写真を撮っていたことも、依澄が初めて海を見て「大きい水」と言ったことも、もう少し覚えていたかった。
「依澄、この夢、今すぐ終わる?」
「玄兎が起きたいなら」
迷いのない返事だった。
玄兎が望めば、依澄は終わらせる。
そのくせ、自分がどうしたいのかだけは言わない。
「依澄は?」
依澄は答えない。
代わりに波を見る。
指先が、ほんの少しだけ自分の服の裾を掴んだ。
それだけだった。
泣きもしない。引き止めもしない。「起きないで」とも言わない。
けれど、その横顔だけで分かった。
依澄も終わらせたくない。
「……終わるの、嫌?」
玄兎が訊くと、依澄はしばらく黙っていた。
波が一度、二人の足跡の端まで来て、形を崩して戻っていく。
「嫌って言ったら、困る?」
「困らない」
「玄兎、起きないといけない」
「それはそうだけど」
「透羽も、千燈も、小毬も。ずっとここにいたら駄目」
「分かってる」
「私も分かってる」
依澄はそこで言葉を切った。
俯いた顔は、月明かりから外れて見えにくい。
「分かってるのに、終わらせたくない」
声は震えていなかった。
だからこそ、余計に苦しかった。
「一回だけでよかったの」
「何が?」
「何も起きない日」
依澄はゆっくり顔を上げた。
「朝、みんなが来て。今日は何するって話して。海に行って。遊んで。ごはん食べて。写真撮って。明日の話して」
一つずつ数えるように言う。
「誰も消えなくて。誰も傷つかなくて。玄兎も帰りたいって思ってなくて」
そこで初めて、依澄の声が少しだけ詰まった。
「私も、ちゃんとそこにいて」
玄兎は何も言えなかった。
依澄は泣いていない。
泣かずに、ただ海を見ていた。
「そういうの、一回くらいあってもいいと思った」
「依澄……」
「でも、夢じゃないと作れなかった」
その言葉が、玄兎の胸の奥へ静かに落ちた。
楽しかった一日の景色が、全部違って見えた。
電車の窓から流れる景色を一つも見落とさないように眺めていたこと。
初めて見た海に「来てよかった」と言ったこと。
かき氷の写真を「消さない」と言ったこと。
花火のあと、当然のように「またやる」と言って、その直後だけ目を伏せたこと。
依澄は最初から知っていた。
今日が本当の明日へ続く一日ではないと知りながら、それでも誰より大事に過ごしていた。
玄兎はたまらなくなって、一歩だけ依澄へ近づいた。
「依澄」
「なに」
「ちょっと、ごめん」
「何が――」
言い終わる前に、玄兎は依澄の肩をそっと引き寄せた。
強く抱きしめたわけではない。
逃げたければすぐ離れられるくらい、腕を回して背中へ手を添えただけだった。
それでも依澄の身体は、驚いたように固まった。
「……玄兎?」
「今、なんか。こうした方がいい気がした」
「理由、雑」
「分かってる」
離そうとすると、胸元の服が小さく引かれた。
依澄の指だった。
「……まだ」
玄兎は動きを止める。
「もう少しだけ」
「うん」
依澄は額を玄兎の胸へ預けた。
泣き声はしなかった。
ただ、いつもより少し浅い呼吸だけが近くにある。
玄兎は背中へ置いた手を動かさなかった。
慰める言葉を探すのもやめた。
何を言っても、夢が夢でなくなるわけではない。
それなら今は、ここにいると伝わればよかった。
しばらくして、依澄が小さく息を吐いた。
「……あったかい」
「夏だからな」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
「言わない」
少しだけ、いつもの依澄が戻った。
玄兎は笑う。
依澄も胸元で、ほんの少し笑ったようだった。
やがて二人はゆっくり離れた。
「じゃあ、もう少しだけ見よう」
玄兎が言った。
依澄がゆっくりこちらを見る。
「いいの?」
「夢だって分かった上で見るなら、少しくらいいいだろ。どのくらいが少しかは、夢だから適当でいい」
「玄兎、起きたくなったら言って」
「分かった」
「ちゃんと終わらせるから」
その言い方が優しすぎて、玄兎はまた胸が痛くなった。
「依澄も、終わらせたくなったら言って」
「……うん」
二人は波打ち際に座った。
夜の砂は昼より冷たい。
依澄は膝を抱え、海を見る。
玄兎も隣で足を伸ばした。
遠くで最後の屋台が片づけられている。
誰かの笑い声が、風に乗って少しだけ届く。
「叶わないかな」
依澄が小さく言った。
「何が?」
「今日みたいなの」
玄兎はすぐには答えなかった。
夢だから叶った。
《百獣繭》は安定して、ユンは大学で普通に暮らし、透羽も千燈も小毬も依澄も、何にも追われず笑っている。
現実は、こんなに都合よくない。
それでも。
「全部同じじゃなくても、近いところまでは行きたいな」
玄兎は答えた。
「海?」
「海も。また来ればいい。今度は現実で」
依澄が玄兎を見る。
「覚えてたら?」
「俺が覚えてる」
「玄兎が忘れたら?」
「依澄が覚えてて」
「二人とも忘れたら?」
「その時は、また初めて来ればいい」
依澄はしばらく黙った。
「……それなら、初めてが増える?」
「増えるな」
「海も?」
「海も」
「かき氷も?」
「それは舌が青くなるところからやり直しだな」
依澄の口元がわずかに緩む。
「花火も?」
「また見よう」
「みんなで?」
「みんなで」
一つ確認するたびに、依澄の表情からほんの少しだけ強張りが抜けていく。
最後に彼女は、もう聞くことがないように海へ目を戻した。
「それなら、起きてもいいかも」
玄兎は横顔を見た。
「今すぐじゃなくていいけどな」
「うん」
「今日はもう少し長くてもいい」
「……うん」
今度の返事は、嬉しそうだった。
夢の海は、何も答えず波を寄せてくる。
寄せて、触れて、また離れていく。
昼に依澄が不思議そうに見ていた、その繰り返し。
来て、帰る。
帰っても、また来る。
玄兎は目を閉じなかった。
夢だと分かったからこそ、今はちゃんと見ていたかった。
依澄が初めて好きになった海を。
依澄が終わらせたくないと、やっと口にできた夜を。
そして、目を覚ましたあとも「また」を本当にできるように。
明日が本当に続くかどうかを決めるのは、もう少し先でいい。
今夜だけは、五人で過ごした夏を、夏のまま残しておきたかった。
夢の中なら、夏は少し長くてもいい。
――第二十八話・了