第三章・全36話中 27話

第二十七話 目が覚めたら、知らない一年を過ごしていた

読書サポート

BGMと読み上げは同時に利用できます

♫ BGM

停止中

🔊 本文読み上げ

停止中

本文をドラッグして開始位置を選び、「▶ 選択位置から」を押してください。

ブラウザの自動再生制限により、音声はボタンを押すと始まります。読み上げ中はBGMを自動的に小さくします。

 その夜、鵺代玄兎と蝶ヶ森依澄は、自宅ではなく大学の旧研究棟で眠ることになった。

 予定していたわけではない。

 夕方、五人でユンを資料準備室へ残し、「明日また来る」と約束して大学を出た直後、透羽の観測端末が夢層圧の変化を知らせた。異常は中央全体ではなく大学周辺へ偏っており、とりわけ玄兎と依澄の近くで反応が強い。

 依澄は目を閉じ、しばらくしてから言った。

「夢が近い」

「危ない?」

「分からない。でも、押してくる感じじゃない。向こうから扉が少し開いてるみたい」

 それだけで安全とは言えないため、透羽は久住教授へ連絡を入れた。

 結果として、その夜だけ玄兎と依澄が現在の旧研究棟にある民俗資料研究室、その隣の小さな休憩室へ残り、眠っている間の反応を記録することになった。透羽は観測機器を設置したあと帰宅し、異常値が出れば遠隔通知を受ける。千燈と小毬も自宅待機。大学側の夜間利用許可は久住が施設管理と調整した。

 昼間ユンについて調べた「旧民俗資料棟」は、二十年前の再整備ですでに撤去されている。今夜使う旧研究棟とは別の建物だ。ただ、かつて旧民俗資料棟にあった資料の一部と「民俗資料研究室」という名称は、現在の旧研究棟へ引き継がれている。

 その程度の説明だけ確認すると、久住は利用記録を机へ置いた。

「泊まり込みを学生の日常にはしないぞ。今日は観測上の理由があるから許可を取った。それだけだ」

「教授がいると、こういう時だけ急にちゃんと大学っぽいですね」

「普段も大学だ」

「怪異の地下施設へ何回も入ってると感覚が」

「それは鵺代側の問題だ」

 久住は呆れたように言いながらも、非常時の連絡先と避難経路だけはもう一度確認してから帰った。

 休憩室には簡易マットが二枚敷かれた。

 小毬は「夜中にお腹が空いたら」とパンを二つ置いていき、千燈は「夢の中で会ったらよろしく」と冗談を言った。透羽は最後まで端末の数値を確かめていたが、帰る直前には玄兎と依澄を交互に見る。

「今夜の目的は原因究明ではありません。何が起きるかを見るだけです。無理に夢へ深く入ろうとしないでください」

「分かった」

「うん」

「起きた時に、場所、時間、自分の名前のどれか一つでも曖昧なら、すぐ私へ連絡してください」

「そこまで細かく確認する?」

「必要です」

 玄兎が笑うと、透羽は少しだけ眉を寄せた。

「玄兎」

「はい。ちゃんとやります」

 透羽はそれでようやく頷いた。

 扉の前まで行ってから、一度だけ振り返る。

「……おやすみなさい」

「おやすみ」

「おやすみ、透羽」

 扉が閉まる。

 部屋が静かになった。

 隣の資料準備室にはユンがいる。姿は見えないが、皆が帰ったあとも待っているのだと思うと、玄兎は少しだけ申し訳なくなった。

 枕元のスマートフォンには、五人のグループチャットが残っている。

『明日は七時二十九分に来ます!』

 小毬。

『透羽ちゃんに一分勝とうとしてる?』

 千燈。

『観測開始は七時半です。』

 透羽。

 玄兎は画面を見ながら笑った。

 隣のマットで、依澄がスマートフォンを伏せる。

「玄兎」

「何?」

「ユン、待ってる」

「うん。明日行こう」

「一緒に?」

 玄兎は昨日までなら「俺も行く」と答えていたかもしれない。

 今日は少し考えてから、言い直した。

「一緒に行こう」

「うん」

 依澄はそれだけで満足したように目を閉じた。

 玄兎も照明を落とす。

 暗くなってからしばらく、空調の低い音だけが続いた。

「依澄」

「何?」

「まだ夢、近い?」

「さっきより」

「嫌な感じは?」

「ない」

「じゃあ、変だったら二人で起きよう」

「分かった」

 少し間が空く。

「玄兎」

「ん?」

「また明日」

 玄兎は目を閉じたまま笑った。

「また明日」

 次に目を開けた時、天井は大学の休憩室のものではなかった。

 見慣れた自宅の天井だった。

 玄兎は数秒、何も考えられなかった。

 自分の部屋。

 自分のベッド。

 カーテンの隙間から入る夏の朝日。

 枕元のスマートフォン。

 どれも見慣れている。

 だからこそ、身体を起こすまで「昨夜は大学で寝た」という事実がうまく頭へ繋がらなかった。

 画面を見る。

 午前八時十二分。

「……まずい」

 一限まで四十八分。

 大学の休憩室からなら余裕があったはずなのに、自宅からではかなり危ない。

 玄兎は飛び起き、グループチャットを確認した。

 ところが、小毬から催促が一件も来ていない。透羽からの体調確認もない。鷺宮家の観測通知も見当たらなかった。

 それどころか、画面上部へ固定されていた《百獣繭》の共有監視欄そのものが消えている。

「……何で」

 検索しても出ない。

 代わりに大学の学生ポータルから、

『本日一限 現代社会論 通常通り実施』
『学食夏季限定メニュー 本日より販売』
『民俗資料研究室 見学会のお知らせ』

 という、ごく普通の通知だけが並んでいた。

 胸元を確認する。

 左鎖骨の下の黒い痣はある。

 しかし、ここしばらく痣から胸や肩へ伸びていた細い黒線が消えている。

 指で触れても熱はない。

 その瞬間、玄兎の頭へ妙に自然な理解が浮かんだ。

 《百獣繭》は安定した。

 中央の再構成は終わった。

 玄兎が回収される必要はない。

 依澄も現実側へ残れる。

 説明を聞いた記憶というより、「今日は水曜日だ」と知っているのと同じ種類の確信だった。

 けれど、その結論へ至った出来事だけが思い出せない。

 玄兎は眉を寄せた。

 何かがおかしい。

 そう思ったところでスマートフォンが震えた。

 依澄からだった。

『駅にいる。』

「何で駅に」

 昨夜は隣で眠ったはずだ。

 そう思う一方で、「朝は駅で待ち合わせることになっていた」という記憶も自然に浮かんだ。

 玄兎は画面を見つめる。

 二つの記憶が、互いを消さずに同時に存在している。

 気味が悪かった。

 けれど一限は待ってくれない。

『今出る。』

 そう返し、玄兎は急いで支度を始めた。

 駅の改札前にいた依澄は、薄紫のワンピースを着ていた。

 玄兎が近づくと、いつものように小さく手を上げる。

「遅い」

「ごめん。というか、依澄」

「何?」

「昨日、どこで寝た?」

 依澄は少しだけ首を傾げた。

「家」

 即答だった。

 玄兎の胸の奥が冷える。

「大学の休憩室じゃなく?」

「どうして?」

 嘘をついている顔には見えない。

 依澄は元々表情が大きい方ではないが、誤魔化す時の間もない。

「いや……何でもない」

「玄兎、寝ぼけてる?」

「たぶん、そうかも」

 二人で改札を通る。

 電車の中で、依澄が自分のスマートフォンを開いた。

「透羽、もう大学」

「何で分かる?」

「研究室のグループ」

 画面には『民俗資料研究室』というグループが表示され、久住教授、玄兎たち五人、それ以外の学生数名まで登録されていた。

 玄兎は初めて見る。

 なのに、自分のスマートフォンを開けば同じグループがある。

 過去ログもある。

 一か月前。

 三か月前。

 半年前。

 玄兎自身が送信した文章まで残っている。

『資料運ぶの手伝います。』

『ユンがまた箱潰した。』

『依澄、今日のゼミ資料こっち。』

 送った覚えはない。

 それでも一行を読むたび、その時の記憶が頭の中へ生まれた。

 重い資料箱を二人で抱えたこと。

 ユンが段ボールへ上から飛び込み、小毬が笑いながら動画を撮ったこと。

 依澄がプリントを一枚だけ忘れ、玄兎が渡したこと。

 知らない。

 ――いや、知っている。

 玄兎は吊革を握る指へ力を入れた。

「依澄」

「何?」

「このグループ、いつからある?」

「去年」

「去年?」

「うん」

 また過去ログが目に入る。

 確かに日付は去年だった。

 玄兎の喉が乾いた。

 その時、依澄の所属表示へ気づく。

『朽木ヶ丘大学 二年』
『民俗資料研究室 学生協力員』

「依澄、学生協力員だったっけ」

「前から」

「前から……」

 その言葉に合わせるように、別の記憶が浮かぶ。

 依澄は一年次から久住教授の資料整理を手伝っていた。

 入学式の日には普通に学生証を受け取った。

 履修登録で一度だけ科目を間違え、教授へ相談した。

 全部、映像のように思い出せる。

 しかし同時に玄兎は知っている。

 依澄には「前」がなかった。

 大学の中には確かに存在するのに、その学籍を過去へ遡ろうとすると自然な入学記録や家族の歴史へ繋がらなかった。

 以前、大学から名前が消えかけたことすらある。

 二つの過去が、どちらも自分の記憶として存在していた。

 玄兎は反射的に依澄を見た。

 依澄もこちらを見ている。

 何か知っているのか訊こうとして、やめた。

 まだ、訊きたくなかった。

 大学正門には小毬とユンがいた。

「先輩、ぎりぎりです!」

 小毬が手を振る。

 その足元でユンが一度跳ねた。

「ゆんっ!」

 玄兎はそれだけで少し安心した。

 昨日見つけた、小さな白い怪異。

 少なくともユンは変わっていない。

 そう思いながらしゃがむ。

「おはよう。待った?」

「ゆん」

 ユンが玄兎の足元へ寄ってくる。

 その時、正門を通りかかった女子学生が自然に声をかけた。

「ユン、おはよう」

「ゆん」

「今日も研究室?」

「ゆんっ」

 女子学生は笑って校内へ入っていった。

 玄兎は固まる。

 さらに後ろから来た男子学生も、

「お、ユン。昼に寄るからな」

 と手を振る。

 誰も驚いていない。

 誰もスマートフォンを向けない。

 白い怪異が正門にいるのに、それが大学の日常として処理されている。

「小毬」

「はい?」

「ユン、一般学生に見せてよかったっけ」

 小毬は不思議そうに玄兎を見た。

「大学公認ですよ?」

「……いつから?」

「いつからって」

 小毬は本気で考え込む。

「去年の大学祭より前です。秋にはもう、みんな名前知ってましたよね」

 玄兎の胸が強く鳴った。

 昨日。

 玄兎はユンを初めて見つけた。

 鞄に入り込んだ白い毛玉を五人で調べ、ようやく名前を付けた。

 昨夜、資料準備室へ残してきた。

 それなのに、小毬の言葉を聞いた瞬間。

 別の記憶が増えた。

 去年の大学祭。

 民俗資料研究室の前に、小さな柵と座布団が置かれている。

 学生たちが順番にユンを撫でる。

 小毬が「一人三分です!」と仕切り、透羽が「触れる前後に手を洗ってください」と真面目に注意している。

 玄兎はその隣で整理券を配っている。

 鮮明だった。

 匂いまで思い出せそうな記憶だった。

 玄兎は立ち上がる。

「……そんなの、なかった」

「何がですか?」

「いや」

 玄兎は自分の頭を押さえた。

 記憶が消えたわけではない。

 昨日ユンを見つけたことは、今もはっきり覚えている。

 ただ、その上へ別の過去が追加された。

 しかも、新しい方も「作り物の映像」には感じられない。

 自分が本当に経験した記憶と同じ温度を持っている。

 小毬が心配そうに近づいた。

「先輩、本当に大丈夫ですか?」

「大丈夫。たぶん」

 そこへ透羽が歩いてきた。

「玄兎。遅刻はしていませんが、かなりぎりぎりです」

「おはよう」

「おはようございます」

 玄兎は反射的に透羽の鞄を見る。

 観測端末がない。

「透羽。封印の端末は?」

「もう必要ありません」

「《百獣繭》は?」

「再構成は完了しています」

 透羽は当然のように答える。

「いつ?」

「春です」

「春?」

 玄兎は声を失った。

 春。

 そんなはずはない。

 昨日まで、まだ《百獣繭》をどう変えるか考えていた。

 なのに頭の中には、

 春の地下施設。

 透羽の水。

 千燈の血。

 小毬が追った匂い。

 依澄が繋いだ夢の境界。

 中央に立つ玄兎。

 そこから怪異たちを地域へ分け直した記憶が、最初からあったように並び始める。

 しかし細部へ触れようとすると、そこだけ霧がかかる。

 結果だけは完璧だ。

 誰も犠牲になっていない。

 玄兎は回収されない。

 怪異を全部一か所へ閉じ込める必要もない。

 まさに、玄兎たちがこれから探そうとしていた未来だった。

「玄兎?」

 透羽の声で戻る。

「……ごめん。一限行こう」

「やはり体調が」

「大丈夫。授業終わったら話す」

 透羽は心配そうだったが、開始時刻が迫っているため、それ以上は追及しなかった。

 四人と一匹で講義棟へ向かう。

 玄兎は歩きながら考えた。

 昨日、自分はユンを見て思った。

 怪異だからというだけで、全部閉じ込めなくてもいいのではないか。

 無害なら、その場所で生きていてもいいのではないか。

 そして今朝、世界はそれを「もうずっとそうだったこと」にしている。

 偶然だと思いたかった。

 けれど胸の奥では、もっと嫌な可能性が形になり始めていた。

 一限の講義中、玄兎はほとんど内容が頭へ入らなかった。

 隣の透羽は普通にノートを取っている。

 観測端末を確認しない。

 封印警報も鳴らない。

 教授が板書を一か所間違えた時、玄兎と目が合い、ほんの少しだけ笑った。

 穏やかだった。

 玄兎が何度も望んだ透羽の姿だった。

 監視役として家の命令と玄兎の間に挟まれず、ただ同じ大学へ通う学生として隣にいる。

 だから嬉しい。

 嬉しいはずなのに、玄兎は自分の喜びそのものを少し怖いと思った。

 講義が終わり、二人で廊下へ出る。

 透羽が資料を鞄へしまいながら言った。

「昼、冷製担々麺にしようと思います」

「透羽、そういうの好きなんだ」

 何気なく答えた。

 その瞬間、玄兎の頭へ軽い考えが浮かぶ。

 ――確かに、透羽は冷たい麺が好きそうだ。

 暑い日に辛いものを黙々と食べて、辛くない顔をしそうだ。

 それだけだった。

 透羽は玄兎を見て少し首を傾げる。

「今さらですか?」

「何が?」

「去年の夏も、何度か一緒に食べました」

 玄兎は足を止めた。

「去年?」

「はい」

 去年の夏。

 二人はまだ会っていない。

 少なくとも玄兎の記憶では、透羽と初めて会ったのは今年六月の非常階段だ。

「写真もありますよ」

 透羽はスマートフォンを出し、アルバムを開いた。

 そこには学食の窓際で冷製担々麺を食べている透羽が写っていた。

 撮影者は玄兎。

 日付は去年八月。

 位置情報まで朽木ヶ丘大学になっている。

 玄兎は画面を見た。

 写真を見た瞬間、頭の中で何かが開いた。

 思い出した、という感覚とは少し違う。忘れていた引き出しを見つけたのではなく、それまで壁だった場所へ突然引き出しが現れ、中に最初から物が詰まっていたような感覚だった。

 去年八月の午後。

 冷房の効いた学食。

 窓の外では蝉が鳴いていた。透羽は冷製担々麺を頼み、「辛味は問題ありません」と言ったのに水を二杯飲んだ。玄兎が笑うと、「これは辛いからではなく、水分補給です」と真顔で否定した。

 麺の上に浮いていた細い白髪ねぎ。透羽が箸で避けた赤い唐辛子。冷房が効きすぎて、玄兎が途中で腕を擦ったことまで思い出せる。

 音も、匂いも、テーブルへ触れた手の冷たさもある。

 あまりに細かい。

 玄兎は自分のスマートフォンも開いた。写真は同じものが入っている。撮影日時は去年八月。位置情報は朽木ヶ丘大学。端末の撮影情報にも不自然な欠落はなく、前後には同じ日の写真まで並んでいた。

 その日の帰りに撮ったという駅前の夕焼け。

 透羽が買った水のペットボトル。

 玄兎自身が送ったらしい『辛くないなら次は大盛り?』というメッセージと、透羽の『普通盛りで十分です』という返信。

 どこから見ても、二人は去年の夏に一緒にいた。

 それなのに玄兎は、数十秒前までその一日を知らなかった。

 非常階段で初めて透羽を見た記憶も消えていない。冷たい札を額へ向けられ、「動かないでください」と言われたあの夜は、今も明確に「最初の出会い」として残っている。

 二つは矛盾しているのに、頭の中ではどちらにも同じ重さがあった。

 玄兎は写真から目を離した。胃の奥がわずかに持ち上がるような不快感があり、廊下の壁へ手をつく。

 記憶を失うのとは逆だった。

 失ったものなら、空白として怖がれる。

 これは空白を埋められていく。

 しかも、埋められたあとには最初からそこにあったように感じてしまう。

 その方が、玄兎にはずっと気味が悪かった。

「……俺たち、去年会ってた?」

 透羽の表情が少し曇る。

「もちろんです」

「非常階段が最初じゃなく?」

「何の話ですか」

 玄兎は答えられなかった。

 透羽の顔には嘘も迷いもない。

「玄兎。本当に一度休みましょう」

「うん」

 今度は逆らわなかった。

 ただし、保健管理センターではなく、民俗資料研究室へ行きたいと頼んだ。

 一人になりたくなかった。

 研究室には千燈、小毬、依澄がすでにいた。

 ユンは窓際の大きなクッションで丸くなっている。

 昨日用意した段ボールではない。

「そのクッション」

 玄兎が言う。

 小毬が答える。

「去年買ったやつです。ユン、箱を三回潰したので」

 まただ。

 昨日、透羽が折れて用意したのは古いタオルを敷いた段ボールだった。

 玄兎が「こういう場所で普通に暮らせたらいい」と思ったユンには、もう一年分以上の生活がある。

 玄兎は椅子へ座った。

「みんな、ちょっと聞いて」

 四人がこちらを見る。

「俺の記憶がおかしい」

 透羽がすぐ隣へ座る。

「どのように?」

「消えてはいない。むしろ増えてる」

 千燈の表情から笑みが消えた。

「増えてる?」

「俺は昨日ユンを見つけた。それを覚えてる。でも同時に、去年の大学祭でユンの整理券を配った記憶もある」

 小毬が困ったように玄兎を見る。

「先輩、ユンは去年からいますよ」

「そう言われると、それも思い出せる。でも昨日まではなかった」

「昨日まで?」

 透羽が訊く。

「昨日、俺たちは大学の休憩室で寝た」

 透羽は完全に黙った。

 千燈が依澄を見る。

 依澄だけは驚いていない。

「依澄」

 玄兎が呼ぶ。

「何?」

「分かってる?」

 依澄は少しだけ考えた。

「玄兎が二つ覚えてるのは分かる」

「どうして二つある?」

 依澄は答えなかった。

 答えられないのか、答えないのか分からない。

 玄兎はさらに訊きそうになり、そこで止めた。

 聞くべき言葉が喉まで来ていた。

 これは夢なのか。

 たったそれだけ。

 依澄へ聞けば、たぶん嘘はつかない。

 けれど、まだ言えなかった。

 代わりに玄兎は透羽のスマートフォンを指した。

「去年の写真、俺のスマホにもある?」

「あるはずです」

 自分の写真アプリを開く。

 ある。

 透羽の冷製担々麺。

 春の桜の下で五人とユン。

 冬の中庭で雪へ飛び込むユン。

 大学祭。

 学食。

 研究室。

 どれも撮影日、位置情報、端末情報まで自然に揃っている。

 玄兎は画面をスクロールしながら、気づいた。

「依澄」

「何?」

「家族の写真、ある?」

 依澄は少し驚いた。

「あるよ」

 当然のように自分のスマートフォンを操作する。

 玄兎はその言葉を聞いた瞬間、胸の奥へ痛いほど強い願いが浮かんだ。

 ――あればいい。

 依澄にも、最初から続いている過去があればいい。

 誰かに「どこから来た」と問われても困らず、大学より前にも普通の生活があって、家族に名前を呼ばれた時間があればいい。

 依澄が画面を玄兎へ向ける。

 幼稚園の入園式。

 黄色い帽子を深くかぶり、今よりずっと丸い頬で母親らしい女性の手を握っている。

 赤いランドセルを背負った小学校の入学式。運動会で白い帽子をかぶり、ゴールの少し手前で隣の子を見ている写真。中学校の制服姿では、今とほとんど変わらない無表情で卒業証書を持っている。

 高校の卒業式。

 そこでは、父親らしい男性が撮影したのか、依澄がこちらを見てほんの少しだけ笑っていた。

 写真の中の依澄は、その時々の年齢を確かに生きている。

 背景も違う。

 一緒に写っている友人も違う。

 季節ごとに髪の長さまで少しずつ変わっている。

 「依澄の子供時代」という一枚の証拠を用意したのではない。十数年分の人生が、細部ごとそこにあった。

 玄兎は息を止めた。

 画面上部へメッセージ通知が届く。

『母:夏休み、帰ってくる日が決まったら連絡してね。お父さんも休み合わせるって』

 依澄が自然に言う。

「母」

 玄兎は画面から目を離せなかった。

「お母さん、いるんだ」

「いるよ」

「お父さんも」

「うん」

「どんな人?」

 依澄は少し考えた。

「母は電話長い。父は写真撮りすぎる」

 今見た写真の枚数と妙に噛み合っていて、玄兎は笑いそうになった。

 笑えなかった。

 また記憶が増える。

 依澄の母親が送ってきた菓子を研究室で皆で食べたこと。

 依澄が電話を切ったあと、「四十二分」と通話時間を見せ、透羽に「長いですね」と言われたこと。

 父親が写真好きで、卒業式の日に同じ構図を何十枚も撮り、依澄から「もう同じ」と止められたという話を聞いたこと。

 玄兎はその話を聞いた時、自分の父親ならどうするだろうと考えた――というところまで思い出せる。

 全部、自然だった。

 そして玄兎は、それらが数秒前まで自分の中になかったことも覚えている。

 どちらの記憶も薄れない。

 片方を嘘だと決めようとしても、もう一方が感触を伴って押し返してくる。

 玄兎は自分のこめかみへ指を当てた。

 痛くはない。

 頭痛もない。

 記憶が壊れている時の感覚すらない。

 だから余計に怖かった。

 胃の奥が冷たくなった。

 願った。

 その直後に、過去がある。

 偶然かもしれない。

 最初からそういう世界で、玄兎が今になって気づいただけかもしれない。

 けれど、透羽の冷製担々麺もそうだった。

 玄兎が「好きそうだ」と思った直後に、去年から好きだった証拠と記憶が現れた。

 自分の考えが、今だけではなく「昔からそうだったこと」にまで伸びている。

 そう思った瞬間、玄兎は怖くなった。

「玄兎?」

 透羽が声をかける。

「何でもない」

 反射的に答える。

 けれど全然、何でもなくなかった。

 そのあと玄兎は、自分の考えを意識しすぎるようになった。

 小毬が机の向こうで笑っている。

 ――小毬も能力を隠さなくていい生活なら。

 そこまで考えて、止める。

 千燈が窓辺でコーヒーを飲んでいる。

 ――千燈先輩も昼間を気にせず。

 止める。

 透羽が玄兎の隣で資料を整理している。

 ――透羽が鷺宮家との間で悩まなくていいなら。

 止める。

 願うこと自体が怖かった。

 玄兎は一度、窓の外へ目を向けた。何も考えないようにしようとすると、逆に頭の中には考えてはいけないものばかり浮かんでくる。

 小毬がもっと自由なら。

 千燈がもっと楽なら。

 透羽が家から完全に解放されたら。

 依澄がもう二度と、自分がどこから来たのか説明しなくてよくなったら。

 どれも善意のつもりだった。

 けれど善意だから、勝手に他人の過去を作っていいわけではない。

 もし本当に、自分が望んだ形へ世界が過去から書き換わるのなら。

 それは幸福なのか。

 透羽が家のことで悩まない方が玄兎は嬉しい。

 千燈が太陽を怖がらなくていい方がいい。

 小毬が人狼の血を隠さなくていい方がいい。

 依澄には家族がいてほしい。

 ユンには大学で普通に暮らしてほしい。

 全部、本気でそう思う。

 だからこそ怖い。

 玄兎が望んだ「幸せな透羽」は、本当に透羽自身が選んだ透羽なのか。

 玄兎が欲しがった「普通の過去を持つ依澄」は、依澄本人が欲しかった人生なのか。

 世界が玄兎の願いを正解として採用するなら、そこにいる四人の意思はどこへ行く。

 昨日、帰巣壇で「決められた場所へ帰る」ことへ抗ったばかりだった。

 今度は自分が、誰かの行き先を勝手に決める側になっているような気がした。

 玄兎は両手を握った。

「先輩?」

 小毬が首を傾げる。

「さっきから匂い、すごく緊張してます」

「ごめん」

「何か怖いんですか」

 小毬はいつものように近づきかけ、途中で止まった。

 以前なら、そのまま玄兎の肩口まで来ていた距離だった。

「近づいていいですか」

 わざわざ尋ねたのは、玄兎が距離を選べるようにするためなのだろう。

 その小さな気遣いまで、玄兎には怖くなる。

 ――小毬には、こうやって人の線を尊重できる子でいてほしい。

 そう思ったことが現実になったのか。それとも小毬自身が経験から変わったのか。

 答えが分からない。

「うん。大丈夫」

 玄兎が自分で答えると、小毬はそこで初めて一歩近づいた。

 その「一歩」を小毬自身が選んだように見えたことに、玄兎は少しだけ救われる。

 それでも、何か怖いのかと聞かれた答えは簡単に出なかった。

 玄兎は答えかけて、また止まる。

 「怖くない世界になればいい」と思ったらどうなる。

 そんな馬鹿な想像まで頭をよぎった。

 何を考えても危険に感じる。

「……俺、何も考えない方がいいのかな」

 誰に向けるでもなく口から出た。

 研究室が静かになる。

 依澄だけがすぐに訊いた。

「どうして?」

「考えたことが、何か変えるかもしれないから」

「変わるの嫌?」

「全部じゃない」

 玄兎は言葉を探す。

「良くなるなら嬉しい。でも、俺が良いと思った形が、みんなにとっても良いって勝手に決めるのが怖い」

 依澄はしばらく玄兎を見る。

「玄兎が思ったことも、玄兎」

「だから怖いんだよ」

「うん」

 依澄は否定しなかった。

 それが少しだけ救いだった。

「でも」

「何?」

「思わないふりしても、思ったことはなくならない」

 玄兎は黙る。

 確かにそうだった。

 透羽に楽でいてほしい。

 千燈に昼を歩いてほしい。

 小毬に隠れなくていいと言いたい。

 依澄に過去があってほしい。

 ユンにここにいてほしい。

 考えないようにしたところで、すでに自分の中にある。

 依澄はさらに言った。

「嫌なら、選び直せる」

 その言葉に玄兎は顔を上げた。

「何を?」

「玄兎が、本当に欲しいもの」

「それを考えたらまた変わるかもしれない」

「かもしれない」

「怖いな」

「うん」

 依澄は少しだけ笑った。

「でも玄兎、昨日も選んだ」

 帰巣壇のことを言っているのか。

 それとももっと別のことなのか。

 玄兎には分からなかった。

 ただ、「選ぶ」という言葉だけが今は妙に現実的だった。

 午後になっても、世界は壊れなかった。

 むしろ何もかも穏やかだった。

 千燈は日傘を持たず、窓から差し込む日差しの中で普通に笑っていた。

 小毬は一般学生の前でも、ユンや低危険度怪異の匂いについて隠す様子がない。

 透羽には監視用端末がなく、それでも玄兎の隣にいる。

 依澄の学生ポータルには、入学以前から自然に繋がる記録がある。

 ユンは大学公認の保護個体として学生に名前を呼ばれている。

 どれも玄兎が望んだものだった。

 《百獣繭》は解決済み。

 痣は静か。

 玄兎はもう、死んだら戻ることを前提に無茶をする必要もないらしい。

 その事実へ気づいた時、玄兎はさらに嫌な想像をした。

 ――じゃあ、俺が死なない世界も作れるのか。

 胸へ手を当てる。

 《還月》という言葉は知っている。

 昔、ひどい事故のあと身体が元へ戻った経験も覚えている。

 非常階段で一度確かに死に、身体が復元した記憶もある。

 けれど同時に、この世界ではその後の検査で「再発性の異常はない」と確認され、もう生命の危険へ戻ることはないという記憶まで存在する。

 どちらが自分の人生なのか。

 玄兎は目を閉じた。

 答えは出なかった。

 出ないままなのに、周囲は幸福そうだった。

 それが一番困った。

 夕方、五人は大学近くの商店街へ出た。

 千燈が「朝から玄兎くんの顔が固いから」と言い出し、小毬が即座に賛成し、透羽も一時間だけならと認めた。

 新しくできたクレープ店へ向かう。

 ユンも一緒だった。

 大学を出ても誰も驚かない。商店街の人まで、

「ユンちゃん、今日はみんなと一緒?」

 と自然に声をかける。

 世界は完璧なほど優しかった。

 だから玄兎は、自分が怖がっていることに少し罪悪感すら覚えた。

 小毬は生クリームを鼻先につけ、千燈に写真を撮られて抗議している。透羽は笑いを堪えながらナプキンを渡した。

 依澄は苺を一つ、玄兎へ差し出す。

「玄兎、好きだから」

「苺?」

「うん」

「そうだっけ」

「好き」

 言われると、苺が好きだった記憶が浮かびそうになる。

 玄兎は一瞬ためらった。

 それから受け取る。

 口へ入れる。

 甘い。

「どう?」

「普通に好き」

 依澄が少し笑う。

 玄兎も笑った。

 作られたかもしれない過去が怖いからといって、今食べた苺の味まで嘘になるわけではない。

 そのことだけは、少し分かる気がした。

 日が沈む頃、五人はユンを研究室へ戻すため大学へ戻った。

 準備室の窓際には、白い大きなクッションが置かれている。

 ユンがそこへ飛び乗り、身体を丸くする。

「段ボールじゃないんだな」

 玄兎が言う。

 透羽が答えた。

「去年、新しくしました。ユンが段ボールを三回潰したので」

「どうやって?」

「上から飛び込んで」

 小毬が笑う。

「楽しかったみたいで、何回もやったんですよ」

「俺も見た?」

「見ましたよ」

 玄兎はクッションへ沈むユンを見る。

 その瞬間、また記憶が浮かびかけた。

 冬の研究室。

 新しいクッションへ飛び込むユン。

 笑う四人。

 玄兎自身の声。

 今度は、最後まで思い出そうとしなかった。

「……そっか」

 それだけ答えた。

 怖くなくなったわけではない。

 ただ、記憶が増えるたびに全部を否定していたら、この一日の何も受け取れなくなる。

 研究室を出る。

 千燈と小毬は先に駅へ向かった。透羽も鷺宮家へ寄る用事があると言い、途中で別れた。

 最後に残ったのは玄兎と依澄だった。

 夜の大学構内を、二人でゆっくり歩く。

 昼間の暑さが残る舗装路を、風だけが少し冷ましている。

 玄兎は空を見る。

 月は一つ。

 星も普通。

 二十年前の校舎が重なることもない。

 何もおかしくない夜だった。

 それが今は、いちばんおかしく感じる。

「依澄」

「何?」

「今日、楽しかった?」

「うん」

「家族がいるのも?」

 依澄は少し考える。

「嬉しい」

「本当に?」

「うん」

 その答えを聞いて、玄兎は少し安心する。

 すぐに疑いが追いつく。

 この依澄の「嬉しい」まで、この世界が玄兎の望みに合わせて作った答えだったら。

 そこまで考えたところで、玄兎は自分を嫌になりそうになった。

 何を言われても疑えば、結局誰の言葉も信じられない。

「ごめん」

「何が?」

「今日ずっと、変なことばっかり考えてる」

「知ってる」

「分かる?」

「顔に出てる」

「透羽にも小毬にも言われた」

 依澄が小さく笑う。

 二人は中庭へ入った。

 街灯の下で、影が並ぶ。

「依澄」

「何?」

 とうとう言葉が喉まで来た。

 これは――

 玄兎は口を閉じる。

 もし「夢なのか」と訊けば、依澄はたぶん嘘をつかない。

 そして「うん」と答えられた瞬間、この世界には名前が付く。

 終わるもの。

 目が覚めれば消えるもの。

 そう呼ばなければならなくなる。

 玄兎は怖かった。

 記憶を増やされることよりも。

 願いが過去へ変わることよりも。

 今ここにいる依澄や透羽たちとの時間が、「終わる側の時間」だとはっきりしてしまうことの方が怖かった。

「……何?」

 依澄が待っている。

 玄兎は質問を変えた。

「こういう日、続いたらいいな」

 依澄は玄兎を見上げた。

 少しだけ間がある。

「続くよ」

 玄兎の足が止まる。

「本当に?」

「明日もあるよ」

 約束のような言葉だった。

 説明にも聞こえた。

 玄兎は依澄の目を見る。

「現実でも」と訊きかけて、やめる。

 今はまだ、その一言を口にしたくなかった。

 代わりに歩き出す。

「じゃあ、明日も大学だな」

「うん」

「一限ある?」

「ある」

「そこは変わらないのか」

「なくした方がいい?」

 玄兎は一瞬、本気で考えそうになって慌てて首を振った。

「いや。やめとこう。そういう願いまで昔から叶ってたことになったら、俺が卒業できる気しない」

 依澄が笑った。

 玄兎も笑う。

 街灯の下で二人の影が少し重なり、そのまま正門へ向かって伸びていた。

 明日もある。

 それがどこまで本当なのかは分からない。

 それでも玄兎は今夜、自分から確かめないことを選んだ。

 少なくとも、その選択だけは誰かに与えられた過去ではなく、今ここで自分が決めたものだった。

――第二十七話・了

👥 登場人物紹介ネタバレを抑えた基本プロフィール
鵺代玄兎

CHARACTER 01

鵺代玄兎

ぬえしろ げんと

現実的で、妙な状況でもまず話を整理しようとする常識人寄りの青年。突然の怪異や騒動には戸惑いながらも、困っている相手を放っておけない。深刻な場面でも自然にツッコミが出るタイプ。

  • 物語の主人公
  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 常識人寄りのツッコミ役
俺が何者でも、困ってる人を置いていく理由にはならない。
鷺宮透羽

CHARACTER 02

鷺宮透羽

さぎみや とわ

冷静で生真面目。怪異への警戒心が強く、必要なことははっきり言う。危険な場面では自分が前に出ようとする、責任感の強い少女。

  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 鷺宮家の退魔師
  • 礼儀正しいがやや堅い
私が間に合う時は、あなたを死なせません。
緋鴉千燈

CHARACTER 03

緋鴉千燈

ひがらす ちとせ

余裕のある笑みを浮かべ、人をからかうのが上手な先輩。自然に距離を詰めてくる、つかみどころのない雰囲気を持つ。

  • 玄兎たちの先輩
  • 赤褐色の瞳
  • 人をからかうのが得意
秘密って、暴くより自分から話してもらう方が面白いよ。
白狼院小毬

CHARACTER 04

白狼院小毬

はくろういん こまり

明るく人懐っこい一年生。気になったことはすぐ口にし、匂いを確かめることに夢中になると相手との距離感まで忘れがち。

  • 朽木ヶ丘大学の一年生
  • 非常に鋭い嗅覚
  • 人懐っこく表情豊か
匂いは嘘をつきません。だから、何度でも見つけます!
蝶ヶ森依澄

CHARACTER 05

蝶ヶ森依澄

ちょうがもり いすみ

静かで穏やか、言葉数は少なめ。初対面からどこか不思議な印象を残し、感情表現は控えめだが答え方は率直。

  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 淡い青紫の瞳
  • 物静かでマイペース
今日が初めてなら、明日また会えばいい。

音声・文字設定つきの公式リーダーで読む