鵺代玄兎の鞄から怪異が出た。
正確には、勝手に飛び出してきたわけではない。鷺宮透羽に「その鞄、さっきから動いていませんか」と指摘され、玄兎自身が恐る恐るファスナーを開けた結果、中から見つかった。
前日の夕方、大学の廊下にある窓へ、二十年前らしい校舎の景色が十一秒だけ重なった。
本来なら一限のあと、玄兎と透羽は鷺宮家の記録庫へ向かう予定だった。昨日の時点では、そこで《百獣繭》に関係する古い管理記録を確認し、そのあと学食へ寄るところまで決めていた。
しかし、昨夕の異常を確認しないまま大学を離れるわけにもいかない。透羽は朝のうちに鷺宮家へ連絡し、記録庫の予定をいったん午後へ回した。
そのため五人は朝から大学周辺の夢層反応を普段より細かく確認し、一限が終わったあと、昨日の異常地点に近い資料室へ集まっていた。
本来の目的は古い校舎配置と昨日の異常位置を照合することだった。
怪異を拾う予定など、誰にもない。
「玄兎」
資料机の向こうから透羽が呼んだ。
「何?」
「その鞄です」
玄兎は椅子の背に掛けていた黒いリュックを見る。
「鞄?」
「先ほどから二度、内側から押されたように見えました」
言われた直後。
リュックの側面が、ほんの少し膨らんだ。
すぐ元へ戻る。
玄兎は数秒、無言になった。
「……動いたな」
「はい」
向かいで古い配置図を見ていた緋鴉千燈も顔を上げる。
「玄兎くん、何か入れた?」
「入れてない。ノート、筆記具、財布、充電器、共有ノート、透羽に持たされてる護符。そのくらい」
白狼院小毬は立ち上がりかけ、途中で止まった。
このところ五人で決めた、「緊急性が低い時ほど、最初から怪異だと決めつけない」という方針を思い出したらしい。
「まず普通の可能性から考えます。生き物が入り込んだとか」
「家から大学までずっと持ってたんだけど」
「じゃあ大学で。先輩、中庭のベンチに置きましたよね」
「自販機で飲み物買った時に一分くらい」
「猫は無理でも、虫なら」
その時、鞄がもう一度動いた。
虫という大きさではなかった。
蝶ヶ森依澄は机の端に手を置いたまま、鞄を見つめている。
「夢そのものじゃない」
「もう分かる?」
「うん。夢なら輪郭がもっと揺れる。中にいるのは、こっちへ固定されてる」
透羽はすぐに浄化水を浴びせるようなことはしなかった。
椅子から静かに立ち上がり、鞄の周囲だけへ薄い《水鏡》を展開する。何かが飛び出しても資料室の外へ逃がさず、同時に玄兎へ直接触れさせないための最低限の結界だった。
「玄兎。床へ置いてください。いきなり手を入れないで」
「俺が開けるの?」
「鞄の構造を一番知っているのは玄兎です。指は中へ入れず、ファスナーを少しずつ」
「役割分担の結果、一番嫌な役が俺に残ったな」
「先輩、大丈夫です。飛び出したら私が捕まえます」
小毬が頼もしく言い、それから慎重に鼻を動かした。
眉が少し寄る。
「……変です」
「何が?」
「怪異の匂いはあります。昨日の夢層漏出に近い、濡れた土とか古い紙みたいな匂い。でも、その奥が……」
小毬はもう一度、ゆっくり息を吸う。
「日向で干した毛布みたいです」
「怪異の説明として初めて聞いた」
「私も初めて嗅ぎました」
玄兎はリュックを床へ置いた。
三センチだけ開ける。
何も飛び出さない。
五センチ。
まだ何もない。
十センチほど開いたところで、奥に白いものが見えた。
「紙?」
千燈が目を細める。
「毛、かも」
玄兎がもう少しファスナーを動かす。
白いものがふわりと持ち上がった。
二つの灰色の点が現れる。
目だった。
五人が黙った。
鞄の中からこちらを見上げていたのは、両手で包めそうなほど小さな白い毛玉だった。
丸い。
とにかく丸い。
長い毛に身体の輪郭が埋もれており、脚が何本あるのかすら一目では分からない。顔らしい位置には小さな灰色の目が二つ。その少し下に口なのか線なのか分からない薄い切れ目がある。
頭の上には、半透明の短い突起が二つ。
耳のようにも見える。
角のようにも見える。
単に毛が固まって立っているだけにも見えた。
人を襲う怪異としては、あまりにも迫力がない。
白い毛玉は五人を順番に見たあと、玄兎へ視線を戻した。
「……ゆん?」
初めて見る相手をうかがうような、小さな声だった。
語尾だけが少し上がっている。
玄兎は反射的に透羽を見る。
「今、しゃべった?」
「発声は確認しました。言語かどうかはまだ分かりません」
「でも『ゆん』って」
「聞こえました」
透羽も少し困った顔をしている。
白い毛玉は鞄の縁へ短い前脚らしきものを掛けようとした。
一度目は届かない。
二度目も毛に埋もれた脚が滑る。
三度目に身体ごと持ち上がったが、縁へぶつかり、ころんと鞄の奥へ戻った。
小毬の口元が緩む。
「……かわいいです」
「白狼院さん」
「分かってます。安全かどうかと、かわいいかどうかは別です。だから安全判定より先に、かわいいだけ言いました」
透羽が一瞬だけ黙る。
「理屈としては否定しにくいですね」
「透羽ちゃんまで何言ってるの」
千燈が笑った。
玄兎もつられそうになり、そこで鞄の中を見る。
毛玉はまだ出ようとしていた。
「とりあえず外へ出す?」
「自分から出られるなら、その方がいいです。無理に掴まないでください」
玄兎はリュックをゆっくり横へ傾けた。
毛玉はしばらく考えるように動かなかった。
やがて、もぞもぞと縁まで移動する。
ぽて。
床へ落ちた。
一瞬だけ平たく潰れたように見え、すぐ元の丸さへ戻る。
「……丈夫そう」
玄兎が言う。
「少なくとも今の高さでは損傷なしです」
透羽が記録する。
毛玉は周囲を見回したあと、玄兎の靴へ近づいた。
白い身体を足首へぴたりと寄せる。
「ゆぅん」
さっきより柔らかく、少し長い。
「なんで俺?」
「鞄の持ち主だからでは?」
千燈が言う。
透羽がしゃがむ。
「接触を確認します。嫌なら離れてください」
相手が言葉を理解しているか分からないのに、許可を取るような言い方だった。
透羽は毛玉から少し離れた場所へ手を差し出す。
毛玉はその指先を見る。
数秒。
自分から近づき、鼻らしき部分を触れさせた。
透羽の肩へ僅かに力が入る。
「どう?」
「体温があります。人間より少し高い程度」
透羽が毛の表面へ指先を滑らせる。
指が白い毛へ沈んだ。
彼女の目が一瞬だけ大きくなる。
「……柔らかいです」
「そこも観察項目?」
「触覚情報です」
言いながら、もう一度撫でる。
今度は少し長かった。
千燈がすぐに気づく。
「透羽ちゃん。確認、一回でよくない?」
「毛の下に術式痕がないか見ています」
「その手つき、完全に撫でてるけど」
「確認です」
毛玉は目を細め、透羽の指へ頭を寄せる。
小毬もしゃがみ込んだ。
「私も近くで匂い見ます」
「近づきすぎないでください。相手がどう反応するか――」
透羽が言い終える前に、毛玉が小毬を向いた。
小毬も止まる。
数秒だけ、互いに顔を寄せる。
毛玉が小毬の鼻先へ少し近づき、身体を傾けた。
「……ゆん?」
好奇心が滲んだような、短い声だった。
小毬の表情が一気に崩れる。
「先輩、これ絶対いい子です」
「判定が早い」
「でも匂いがすごく素直です。飢えてる感じも、攻撃したい感じもないし、私の匂いを嗅いだあと安心してます」
小毬が指を一本出す。
毛玉が鼻先で触れた。
「ほら」
玄兎は笑った。
千燈も鞄から小袋のビスケットを出す。
「食べるかな」
「勝手に与えないでください」
「一欠片だけ。食性の確認」
透羽が止め切る前に、千燈は小さく割ったビスケットを床へ置いた。
毛玉は近づいた。
匂いを確かめるように顔を寄せる。
そして、ぷい、と反対を向く。
「いらないんだ」
「お菓子に興味ないの、珍しいね」
「千燈先輩、その基準だと私が珍しくない側です」
「小毬ちゃんは肉でしょ」
「甘いものも食べます!」
やり取りの間に、毛玉は依澄の足元へ移っていた。
依澄は静かに見下ろす。
「夢から出た。でも、夢そのものじゃない」
依澄の手のひらへ薄紫の蝶が一羽現れた。
毛玉の灰色の目が、すぐそちらを追う。
蝶がふわりと動く。
毛玉がぽん、と跳ねた。
捕まえようとする様子はない。
蝶が高くなれば見上げ、低くなれば追い、床すれすれを横切ると身体ごとくるりと向きを変える。
「遊んでる」
依澄の口元が少しだけ緩む。
「完全にペット動画の空気だなあ」
千燈が笑った。
「まだ怪異調査です」
透羽はそう答えたが、視線は蝶を追う毛玉から離れていなかった。
玄兎も同じだった。
小毬に至っては、毛玉が跳ねるたびに身体まで少し前へ動いている。
数分前まで、誰も正体を知らない怪異だった。
それなのに、今は五人とも同じものを見て笑っている。
毛玉が蝶を追うのをやめ、玄兎の足元へ戻って丸くなった。
目を閉じる。
「寝た?」
玄兎が小声で訊く。
「たぶん」
依澄も声を落とす。
数秒後、毛玉が目を開けた。
玄兎を探すように顔を動かす。
目が合う。
「……ゆぅん」
寝起きのように細く、柔らかい。
「いるよ」
玄兎が答える。
毛玉は安心したように、もう一度目を閉じた。
透羽の指が端末の上で止まった。
しばらく動かなかった。
「透羽?」
玄兎が呼ぶ。
返事がない。
「透羽」
「……はい」
透羽は端末を見たまま答えた。
「どうした?」
透羽はすぐには言わなかった。
それから、玄兎、小毬、千燈、依澄の顔を順番に見た。
「一度、この個体から離れてください」
柔らかくなっていた空気が、急に変わった。
◇
白い毛玉は、《水鏡》の中へ残された。
玄兎たちは資料室の反対側へ下がる。
距離は数メートルしかない。
それでも透羽は、それ以上近づかないよう手で示した。
「何か反応出た?」
玄兎が訊く。
「いいえ。観測値そのものは安定しています」
「じゃあ何で」
「私たちの方です」
透羽は自分の端末を見た。
「最初に接触してから十五分ほどです。その間、私は同じ個体へ必要以上に四回触れています」
「三回じゃなかった?」
依澄が言う。
「四回です。最後は自覚なく触れました」
透羽の声が少し硬い。
「白狼院さんは、まだ攻撃性も汚染性も確認できていない段階で『絶対いい子』と判断した」
小毬の顔から笑みが消える。
「……はい」
「千燈先輩は、警戒区画の中で食性確認を私の許可より先に始めました」
「それは……確かに」
「玄兎は?」
玄兎が自分を指す。
「俺?」
「先ほど『いるよ』と答えた時、どうして答えましたか」
「不安そうだったから」
「本当に?」
玄兎は言葉を止めた。
透羽は責めるようには言わなかった。
「私も分かりません。だから問題なんです」
毛玉が遠くからこちらを見ている。
灰色の目。
丸い身体。
何もしていない。
それでも、玄兎はすぐに近づきたくなる。
置いておくのがかわいそうだと思う。
透羽はその反応を見ていた。
「私たち、警戒を解くのが早すぎませんか」
誰もすぐに返事をしなかった。
千燈が腕を組む。
「可愛いと思うこと自体が能力だったら、ってこと?」
「可能性を除外できません」
小毬が毛玉を見る。
「でも、匂いには変な誘導感じません」
「白狼院さんの嗅覚が感情誘導まで必ず検出できるとは限りません」
「……そうですね」
以前、自分自身の匂いを認識できなくなる怪異に狙われた小毬は、そこで強く反論しなかった。
透羽は端末へ何かを入力する。
「まず、各自で外見を書いてください。相談なしで」
「外見?」
「はい。見たもの自体に認識差があるか確認します」
五人は別々の紙へ書いた。
玄兎は、
『白い長毛。灰色の丸い目。頭に半透明の短い角のような突起が二本。』
小毬。
『白くて丸い。目は薄い灰色。上に少し垂れた耳みたいなもの。』
千燈。
『白い毛玉。黒に近い灰色の目。頭上に丸い突起。角か耳かは不明。』
依澄。
『白い。丸い。上の二つは耳でも角でもない。境界だけ少し揺れる。』
透羽。
『白色長毛。灰色眼。頭頂部に半透明突起二。分類不能。』
紙を並べる。
「違うな」
玄兎が言う。
「でも、完全に別物を見ているほどではありません」
透羽は冷静だった。
「突起が曖昧な形なので、普通の認識差でも説明できます」
写真も撮った。
同じ結果だった。
玄兎には角寄りに見え、小毬には耳寄りに見える。
だが画像そのものが変化している証拠はない。
「認識改変は現時点で確認できない」
千燈が言う。
「ただし、感情の方は分からない」
「はい」
その時。
《水鏡》の中の毛玉が立ち上がった。
五人を見る。
「……ゆぅん……」
細く長い声だった。
寂しさが滲んでいるように聞こえた。
玄兎の身体が反射的に半歩前へ出た。
同時に、小毬も。
千燈の顔も毛玉へ向く。
依澄まで一歩動いた。
透羽自身の右手も、毛玉へ伸びかけて止まった。
全員が動きを止める。
部屋が静まり返った。
透羽がゆっくり手を下ろす。
「今のを記録します」
声は落ち着いていたが、顔は笑っていなかった。
「五人同時に、接近または注意を向ける反応が出ました」
小毬が唇を噛む。
「私、自分で動いたつもりでした」
「俺も」
玄兎は足元を見る。
戻ってやりたいと思った。
それは今も思っている。
だからこそ、自分の感情なのかどうかが分からない。
千燈が低い声で言う。
「これ、鷺宮家に報告した方がいいね」
「します」
透羽はその場で報告を送った。
返答は数分で来た。
『感情誘導の可能性を否定できない場合、直接接触を中止。視聴覚刺激を遮断した隔離観察へ移行。対象が隔離解除を強制する反応、観測者への執着誘導、結界破壊を示した場合は封印処置を検討。』
玄兎は画面を見る。
「封印、あり得るんだ」
「あります」
透羽は迷わず答えた。
「かわいいから、では判断できません」
毛玉が結界の向こうからこちらを見ている。
「ゆん……?」
今度は問いかけるような声だった。
小毬が胸元で手を握る。
玄兎も同じ気持ちだった。
でも、近づかなかった。
◇
隔離観察は、現在の旧研究棟にある民俗資料研究室の隣、ほとんど使われていない資料準備室で行うことになった。
一般学生の出入りが少なく、久住教授から一時利用の許可も取れた。
透羽は念のため、大学側へは「資料保存環境の確認」として部屋を押さえてもらった。
毛玉を運ぶ間も、直接抱かなかった。
小さな収納箱の内側へタオルを敷き、自分から入るのを待つ。
玄兎が箱を床へ置く。
「入ってくれる?」
「ゆん?」
毛玉は玄兎を見る。
箱を見る。
短い脚で一度乗ろうとして失敗した。
小毬の身体が動きかける。
自分で止まる。
「……手伝いたいです」
「私もです」
透羽が答えた。
「でも今は、待ちましょう」
二度目。
毛玉は身体を丸ごと跳ねさせ、箱の縁へ前脚を掛けた。
半分まで上がる。
滑る。
「ゆっ……ん」
驚いたように短く鳴き、そのまま床へ転がった。
玄兎は思わず笑いそうになった。
同時に手を出したくなる。
我慢した。
三度目。
今度は成功した。
箱の中へ入り、タオルの上でこちらを見る。
「ゆんっ」
得意げに聞こえた。
透羽はその様子まで記録する。
「自力移動可能。補助要求は確認できず」
「書き方が急にかわいくなくなる」
「それでいいんです」
透羽が答える。
「今は、かわいさを判断材料から外します」
資料準備室には小型カメラ、温度計、簡易術式計、扉周辺の水膜センサーを設置した。
ただし、五人は映像を直接見ない。
鳴き声も聞かない。
カメラ映像は久住教授の端末で自動解析し、五人へは一定時間ごとに行動だけを文章化した記録として送る。
人間側の「かわいい」という反応をできる限り介さず、毛玉が実際に何をするのかを見るためだ。
「そこまでやるんですね」
小毬が言う。
「そこまでやらないと、今の私たち自身を信用できません」
透羽は扉へ認識阻害の札を貼る。
「観察は六十分。誰も扉を開けない。異常があれば私の端末へ警報。解除要求らしき声が聞こえても、音声は通さないので反応しない」
「……一時間」
小毬が小さく言う。
千燈が肩を軽く叩く。
「長く感じるね」
「はい」
玄兎は準備室を見る。
自分も同じだった。
たった一時間。
なのに、待たせることへ罪悪感がある。
それが怪異の影響かもしれない。
だからこそ今は戻らない。
「行こう」
玄兎が先に言った。
五人は隣の研究室へ移った。
◇
最初の十分は、ほとんど何も起きなかった。
久住教授の端末から自動送信された記録だけが、五分ごとに届く。
『00:00 対象、収納箱内。』
『00:02 起立。扉方向へ移動。』
『00:04 扉前で停止。』
『00:05 結界接触なし。発声あり。音声遮断のため内容評価せず。』
小毬が画面を見つめる。
「扉の前」
「まだ五分です」
透羽が言う。
十分。
『00:08 対象、扉前で座位相当。』
『00:10 扉・壁・結界への攻撃行動なし。』
千燈が息を吐く。
「少なくとも出ようとはしてない」
「まだ早いです」
透羽はそう言うものの、声は少しだけ柔らかくなった。
二十分。
『00:14 室内を一周。』
『00:16 床上の筆記具を発見。接触。』
『00:19 筆記具を口部相当で保持。扉前へ移動。』
『00:20 筆記具を扉前へ置く。』
玄兎が画面を二度見した。
「筆記具?」
自分の胸ポケットへ手をやる。
いつも使っている黒いボールペンがない。
「俺のだ」
「いつ落としたんですか」
「設置してる時かも」
小毬の目が少し大きくなる。
「返そうとしてる?」
「まだそう決めないで」
透羽が言う。
けれど彼女自身も、その記録を長く見ていた。
三十分。
『00:23 対象、扉前。』
『00:27 収納箱へ戻る。』
『00:30 静止。睡眠状態の可能性。』
誰も呼ばない。
扉を叩かない。
結界を壊そうとしない。
五人の端末にも、術式干渉や精神反応の上昇は出ていない。
「鳴き声、聞こえないと普通に待てるな」
玄兎が言う。
自分自身の感情についてだった。
声を聞かなければ、もちろん気にはなる。
だが、身体が勝手に扉へ向くような衝動はない。
透羽が記録する。
「視聴覚刺激の遮断後、観測者側に強制接近と判断できる反応なし」
「じゃあ、さっきのは声の能力?」
「断定できません。単純に五人とも、寂しそうな鳴き声へ普通に反応した可能性もあります」
「そこ、まだ分からないんだ」
「はい」
透羽は画面から目を上げた。
「でも、それで構いません」
「構わない?」
「今の目的は、この個体を完全に理解することではありません。今この場所で危険な拘束や誘導を行うかどうかを判断することです」
玄兎は頷いた。
怪異の全てを一日で説明できる方が不自然だ。
残り三十分。
『00:35 覚醒。』
『00:37 扉前の筆記具を確認。』
『00:40 室内隅の黒色羽毛を発見。』
千燈が自分の烏を見るために窓へ目を向けた。
「羽?」
「設置の時、烏を窓辺に止めました?」
透羽が訊く。
「うん。一枚落ちたのかも」
記録が続く。
『00:42 黒色羽毛を保持。』
『00:43 扉前へ移動。』
『00:44 黒色羽毛を筆記具の横へ置く。』
『00:45 扉前で静止。』
小毬が口元を押さえた。
「……だめです。これ、かわいいって言っちゃだめですか」
「今は記録を見ているだけです」
「だからこそです。姿も鳴き声も見てないのに、もうかわいいです」
千燈が笑いそうになり、耐える。
玄兎も同じだった。
見ているのは文章だけ。
白い毛も、灰色の目も、「ゆん」という声もない。
それでも、誰かの物らしいものを拾い、扉の前へ並べて待っている行動には、どうしても感情を感じてしまう。
透羽はすぐには何も言わなかった。
五十五分。
『00:51 収納箱へ戻る。』
『00:55 静止。』
『00:58 覚醒。扉方向を注視。』
『01:00 観察終了。結界破壊・攻撃・増殖・強制追跡・外部術式干渉、いずれも確認されず。』
六十分が終わった。
透羽は端末を置いた。
「戻ります」
小毬が立ち上がる。
「いいんですか?」
「観察は終了です」
透羽はそこで一度間を置いた。
「ただし、入る前に確認します」
「何を?」
「私たちの判断です」
五人が立ったまま透羽を見る。
「この個体を残したい理由を、外見と鳴き声以外で一つずつ挙げてください」
玄兎は少し考える。
「離れた相手を追って拘束しなかった。六十分、扉を壊さず待てた」
小毬。
「誰もいない間も暴れなかった。自分から外へ出ようとしなかった」
千燈。
「拾った物を隠したり持っていったりせず、扉の前へ置いた」
依澄。
「待てる」
短い。
でも一番本質に近かった。
透羽は頷く。
「私は、現時点の観測で、攻撃性・汚染性・増殖性・強制拘束性を確認できなかったことです」
「じゃあ」
玄兎が訊く。
透羽は扉を見る。
「可愛いから残すのではありません」
静かな声だった。
「可愛くなくても、今は残す判断ができます」
小毬が大きく息を吐いた。
「よかった……」
「ただし」
透羽はすぐ続けた。
「感情誘導が完全にないと証明できたわけではありません。鳴き声に対する五人の同時反応も未解明です。ですから低危険度個体として継続観察。一般学生との接触は避ける。異常が出れば再評価します」
「うん。それでいい」
玄兎は素直に答えた。
分からない部分が残ったままでも、今できる判断はある。
それで十分だった。
◇
資料準備室の扉を開ける。
白い毛玉は、収納箱ではなく扉のすぐ内側にいた。
玄兎の黒いボールペン。
千燈の烏の羽。
二つを前へ並べて座っている。
五人の姿を見た瞬間。
「ゆんっ!」
声が弾けた。
毛玉が一度、ぽん、と跳ねる。
二度目は少し高い。
「ゆんっ、ゆんっ!」
玄兎の方へ来ようとして、途中でボールペンを踏みそうになり、慌てたように横へ避ける。
「ゆっ」
短く驚いた声。
小毬がとうとう笑った。
「かわいい!」
「今は言っていいです」
透羽が答えた。
「透羽先輩から許可出ました!」
「感情評価を禁止していたわけではありません」
毛玉は玄兎の靴まで来る。
足首へ身体を寄せる。
「ゆぅん……」
さっきまでとは違う。
帰ってきたことを確かめて、力が抜けたようにゆっくり下がる声だった。
玄兎はしゃがむ。
手を出す前に、一度透羽を見る。
透羽が僅かに頷いた。
玄兎は白い背中へ触れた。
柔らかい。
やっぱり柔らかい。
「……でも、やっぱりこれはずるいな」
「何がですか」
「見た目抜きで残していいって判断したあとに、これが戻ってくる」
毛玉が玄兎の掌へ額を押しつける。
「ゆんっ」
千燈も扉前の羽を拾った。
「これ、私のだね」
「返してくれた可能性は高いと思います」
透羽が言う。
「可能性、なんだ」
「『返す』という意図まで断定はできません」
千燈は笑う。
「いいよ。私は返してくれたことにする」
毛玉が千燈を見る。
「ゆん?」
「ありがと」
「ゆんっ」
「ほら、通じてる気がする」
「そこも断定は」
「透羽ちゃん、今だけ夢を壊さないで」
透羽は口を閉じた。
ほんの少しだけ笑っていた。
◇
午後になり、五人はもう一度、毛玉が最初に現実側へ固定された可能性が高い中庭を調べた。
玄兎が朝、リュックを一分ほど置いていたベンチ。
昨日、古い大学の風景が重なった窓にも近い。
小毬はベンチの周囲を嗅ぎ、すぐにしゃがんだ。
「先輩の匂いと、この子の匂いがあります。それと古い紙」
透羽も周囲の残留値を確認する。
「ベンチ下だけ、ごく僅かに夢層反応が残っています」
依澄が石畳へ手を触れた。
「ここ、昔が近い」
「昨日の十一秒とつながってる?」
「たぶん」
玄兎は毛玉を地面へ下ろす。
毛玉はすぐベンチの下へ入った。
少し奥まで進む。
「……ゆぅん」
今度は何かを探るような低い声だった。
小毬が鼻を動かす。
「この奥」
ベンチの下、石畳と植え込みの境目に、薄い金属板のようなものが埋まっていた。
透羽が手袋をつけて取り出す。
泥を落とす。
『民俗資料研究室 連絡札』
文字はかなり掠れている。
その下に、
『外出時は行先と戻りの時間を記入すること』
と残っていた。
「帰室予定?」
千燈が覗き込む。
透羽は古い大学配置図と現在地を重ねる。
「この位置は、二十年前の再整備で撤去された旧民俗資料棟の一階付近です。現在使っている旧研究棟とは別の建物です」
昔の建物の輪郭は、今の中庭を斜めに横切るように表示されている。
「民俗資料研究室って名前は?」
「機能と資料の一部が後に現在の旧研究棟へ移されています。名前も引き継がれたのでしょう。ただ、この札が使われていた部屋そのものはもうありません」
玄兎は古い札を見る。
「外に出る人が、戻る時間を書く場所だった」
「はい」
依澄が目を閉じる。
薄紫の蝶が二羽、白い毛玉の周囲を静かに回った。
毛玉は追いかけず、目だけで動きを追う。
「待つ感じ、ある」
「この札に?」
「ここにも。大学の別の場所にも、薄いのがいっぱい」
「何を待つ?」
玄兎が訊く。
依澄はゆっくり言葉を選ぶ。
「行ってらっしゃい。遅い。まだかな。帰ってきた。よかった。また明日」
小毬が毛玉を見る。
白い怪異は、連絡札の横へ座っていた。
「じゃあ、この子って」
透羽がすぐに止める。
「成立要因の一つかもしれません」
小毬が透羽を見る。
「断定しないんですね」
「はい。昨日の夢層漏出、旧民俗資料棟の土地記憶、帰還を待つ感情。この三つが関係している説明は成り立ちます。でも、この個体が誰か一人を待っていたのか、大学全体の感情が形になったのか、それとも別の要因があるのかは分かりません」
「そのくらいの方が怪異らしいか」
玄兎が言う。
「分からないものを、分かったことにしない方がいいです」
「うん」
白い毛玉が玄兎を見る。
「ゆん?」
「お前も自分が何か説明できないだろ」
「ゆん」
「俺も人のこと言えないけど」
千燈が笑う。
「そこで仲間意識持つんだ」
◇
その後も観察を続けた。
毛玉は千燈の感覚共有用の烏を見つけると、明らかに遊びたそうに身体を起こした。
「ゆんっ!」
烏が一歩下がる。
毛玉が一歩進む。
烏が横へ跳ぶ。
毛玉がぽん、と追う。
千燈が意識を繋ぎ、少し眉を上げる。
「烏の感想、『何これ』だって」
「そのままなんですね」
小毬が笑う。
烏が低く羽ばたいた拍子に、一枚の黒い羽が落ちた。
毛玉が止まる。
羽へ近づく。
口らしき部分で先をくわえた。
「食べないでよ」
千燈が言う。
毛玉は羽を引きずり、千燈の靴の前まで持ってくる。
置く。
「ゆんっ」
胸を張ったように見えた。
千燈の声が柔らかくなる。
「……やっぱり返してるじゃん」
「朝の隔離観察と同じ行動ですね」
透羽が記録する。
「他者に関連する物品を、当人がいる方向へ運ぶ傾向あり」
「言い方」
「正確です」
小毬がしゃがむ。
「ユン、いい子ですね」
毛玉が小毬を見る。
「ゆん?」
「……ユン?」
小毬が自分の言葉を聞き返した。
「今、名前みたいに言った?」
千燈が反応する。
「ずっと『ゆん』って鳴くし、そのままでよくない?」
「ユン!」
小毬が呼ぶ。
毛玉が振り向く。
「ゆんっ!」
「返事しました!」
「鳴いただけかもしれない」
透羽は慎重だった。
依澄も呼ぶ。
「ユン」
「ゆん」
玄兎。
「ユン?」
毛玉がこちらを向き、少し首を傾げる。
「ゆん?」
千燈が笑う。
「もうこれでいいでしょ」
最後に透羽が見る。
「……ユン」
毛玉の身体が透羽へ向く。
「ゆんっ」
透羽は数秒だけ黙った。
そして端末へ入力する。
「仮称、ユン」
「仮なんですか!」
「本人の意思確認ができない以上、記録上は仮称です」
「でも普段は?」
玄兎が訊く。
透羽は白い毛玉を見る。
「ユン、と呼びます」
小毬が嬉しそうに笑った。
◇
夕方までに、鷺宮家へ送る暫定報告がまとまった。
『新規小型怪異個体。仮称ユン。』
『夢層漏出地点周辺で現実固定した可能性。成立過程は未確定。』
『攻撃性、汚染性、増殖性、物理的拘束、追跡強制、結界破壊を現時点で確認せず。』
『発声時、観測者五名に同時注意・接近反応あり。感情誘導の有無は未確定。継続監視対象。』
『視聴覚遮断下六十分の隔離観察では、観測者を呼び戻すための強制行動を確認せず。』
『人物関連物品を扉前へ運び、待機する行動あり。』
『現時点では再収容より現地隔離観察を推奨。』
透羽が送信する。
数分後、返答。
『現地観察を許可。一般学生との接触禁止。異常時は即時再評価。』
玄兎は画面を見た。
「残れるんだ」
「今のところは」
依澄が言う。
透羽も頷く。
「ユンという一個体について、今すぐ再収容する根拠が不足しているという判断です」
「怪異全部を外に出していい、とは違う」
「もちろんです」
透羽は明確に言った。
「今日確認したのは、この個体の現在の性質だけです。それ以上の一般化はしません」
「うん」
玄兎はそれでよかった。
大きな方針は、もっと材料が必要になった時に考えればいい。
今はユンがここにいても、人を傷つけていない。
それだけでも十分な事実だった。
透羽が端末の時刻を確認する。
「……記録庫は今日は無理ですね」
玄兎も時計を見る。
朝の時点では午後へ回しただけの予定だったが、ユンの隔離観察と成立地点の確認に想定以上の時間がかかっていた。ここから鷺宮家へ移動しても、落ち着いて資料を確認できる時間はほとんど残らない。
「ごめん。俺の鞄から出てきたせいで」
「玄兎のせいではありません」
透羽はすぐに否定した。
「未確認個体を見つけて、その性質も分からないまま放置する方が問題です。記録庫は、まとまった時間を取れる日に改めます」
「今日の予定、だいぶ変わったな」
「怪異相手に予定通りを期待する方が難しいです」
透羽はそう言って、予定表の記録庫の欄へ小さく延期と書き込んだ。
◇
ユンの一時的な居場所は、民俗資料研究室の隣にある小さな資料準備室になった。
一般学生はほとんど入らず、研究室からも近い。
朝の隔離観察で使った部屋なので、水膜センサーもそのまま利用できる。
問題は寝床だった。
「箱が必要です」
小毬が言った。
「観察個体用の?」
透羽が確認する。
「ユン用です。床で寝るより柔らかい方がいいです」
「本人がすでに毛だらけだけど」
「自分がふわふわなのと、寝床がふわふわなのは別です」
「その理論、よく分からない」
「分かります!」
結局、研究室に余っていた小さな段ボール箱を一つ借りた。
底へ古いタオルを畳んで敷く。
箱を置く。
ユンが覗く。
「入る?」
玄兎が訊く。
「ゆん?」
ユンは一度、縁へ前脚を掛けた。
失敗する。
「ゆっ」
転がる。
小毬が両手を握った。
「手伝っていいですか?」
透羽が少し考える。
「本人が自力で試している間は待ちましょう」
「はい……」
二度目も失敗。
三度目。
ぽん、と身体を跳ね上げ、今度は箱の中へ入った。
「ゆんっ!」
明らかに誇らしげに聞こえる声だった。
「できました!」
小毬が自分のことのように喜ぶ。
ユンはタオルの上を一度回り、そのまま身体を沈めた。
丸い身体がさらに丸くなる。
「……ゆぅん」
眠気にほどけた、弱い声。
透羽が端末へ記録する。
その左手が一度だけ止まった。
玄兎は見た。
「撫でたい?」
「……」
「今なら観察外じゃない?」
「継続観察中です」
「じゃあ触覚確認」
千燈が笑う。
透羽は少し迷い、それからユンの前へ手を差し出した。
「触れます」
ユンが自分から額を寄せる。
透羽は一度だけ、白い背中をゆっくり撫でた。
「柔らかいです」
「朝と同じ感想」
「物性は変化していません」
「そういうことにしとこう」
千燈が笑った。
夕方。
五人は大学を出ることにした。
資料準備室の扉の前で、玄兎が段ボール箱を見る。
「じゃあ、帰るな」
ユンが目を開けた。
「ゆん……?」
語尾が上がる。
朝の隔離前と同じ、不安を含んだ声に聞こえる。
玄兎の胸が少しだけ痛む。
でも、今度はその感情を怖がりすぎなかった。
自分が心配することと、ユンが危険な怪異であることは同じではない。
逆に、かわいいと思うことと、安全であることも同じではない。
その二つを分けて考える方法を、今日一日かけて確かめた。
「明日また来る」
「……ゆん」
まだ不安そう。
小毬も箱の前へしゃがむ。
「私も来ます。朝早く」
透羽が言う。
「私は七時半に観測確認へ来ます」
「じゃあ私は七時二十九分!」
「白狼院さん、一分競う意味はありません」
「あります!」
千燈は笑う。
「私は昼前かな。烏も連れてくる」
依澄も言う。
「私も来る」
ユンは五人を順番に見た。
それから箱の中へ身体を沈める。
「ゆぅん……」
今度は、息をゆっくり吐くような声だった。
玄兎は扉へ向かう。
一度だけ振り返る。
ユンは追ってこない。
箱の中からこちらを見ている。
待っている。
それだけだった。
透羽が扉へ認識阻害の札を貼り、一般学生が不用意に入らないようにする。
廊下へ出てから、小毬が小さく息を吐いた。
「やっぱり帰りづらいです」
「分かる」
玄兎も答える。
透羽がこちらを見る。
「戻りますか?」
「いや」
玄兎は首を横に振った。
「明日戻る」
透羽の表情が少しだけ柔らかくなる。
「はい」
階段を下りる。
玄兎は考える。
ユンが本当に何から生まれたのかは、まだ分からない。
鳴き声に人を振り向かせる作用があるのかも、今日だけでは決められない。
それでも一つだけ、自分たちの感情とは切り離して確認できたことがある。
誰もいない部屋で、ユンは扉を壊さなかった。
人を追わなかった。
ただ、落ちていた持ち物を扉の前へ運び、戻るのを待っていた。
かわいいから許したのではない。
その行動を見て、今はここにいていいと判断した。
玄兎には、その順番が大事な気がした。
大学を出る前、小毬が共有チャットへ一枚の写真を送った。
昼間、許可を取って記録用端末で撮ったユンの寝顔だった。
『今日いちばんです!』
玄兎が隣を見る。
「今、横にいるのに送る必要ある?」
「記録です!」
透羽もスマートフォンを見る。
「白狼院さん。共有記録用画像を私用チャットへ転送しないでください」
「五人しかいないからいいじゃないですか!」
「管理上――」
千燈が透羽の画面を横から覗いた。
「透羽ちゃん、保存した?」
透羽の指が止まった。
「……観察記録の確認用です」
「お気に入りに入ってるけど」
「千燈先輩」
「はいはい」
依澄が玄兎へスマートフォンを見せる。
同じ写真を保存していた。
「依澄も?」
「かわいいから」
「結局そこには戻るんだな」
玄兎は笑った。
今日一日、本気で疑った。
怖がった。
距離を取った。
可愛さを遮断してまで、危険かどうかを確かめた。
そのうえで、やっぱり可愛いと思う。
それならもう、その感情まで疑い続けなくてもいい気がした。
夕暮れの正門を五人で出る。
明日も大学へ来る理由が、一つ増えた。
――第二十六話・了