何も起きないことが、こんなに落ち着かないものだとは、鵺代玄兎は二十年生きてきて初めて知った。
《百獣繭》の中央制御から戻った夜から、三日が経っている。
あの夜、水路の出口で透羽の端末に異常通知が届いてから、五人は結局ほとんど休めなかった。鷺宮家へ戻るまでにも報告は増え、古い商店街では過去の魚屋が現在の街並みに重なり、住宅街では月が二つに見え、川沿いの監視カメラには顔のない黒い犬のような影が記録されていた。
ただ、そこで一気に街が壊れたわけではなかった。
鷺宮家を中心とする管理側は、五人が持ち帰った中央制御の記録と市内の観測値を照合し、夜明けまでに弱っていた既存の固定点を順番に再起動した。圧力の高い場所には応急の結界も追加され、表面へ出ていた異常の多くは朝までに薄れていった。最初の漏出で大きな人的被害が確認されなかったことだけは、全員が素直に安堵できる知らせだった。
けれど、それで《百獣繭》が直ったわけではない。
翌日も、その次の日も、監視網には小さな異常値が断続的に出た。昔の景色が数秒だけ窓へ映った場所もあれば、誰もいない路地で人の声を拾った記録もある。そのたびに固定点の出力を調整し、現地を確認し、広がる前に押し戻してきた。
だから、透羽が共有ノートへ残した「最大七日」という数字も、七日間は安全だという保証ではない。手動保留を続けられる時間の上限として示された推定値で、封印の破損が進めばもっと短くなる。あの夜からすでに三日が過ぎた今、残されているのは長く見積もっても数日しかなかった。
終わりの日を数えればいいわけでも、今日が安全だと決めつけていいわけでもない。その曖昧さのせいで、玄兎はこの三日間、スマートフォンが震えるたびに反射的に画面を見るようになっていた。電車の中でも、講義中でも、風呂へ入る前でさえ、通知欄の上に鷺宮家の緊急連絡が出ていないか確かめてしまう。
ところが今日は、朝から一度も警戒通知が来ていない。
異常がない。それだけのことが、かえって玄兎には落ち着かなかった。
午前八時二十五分。
朽木ヶ丘大学の正門前で、玄兎はまたスマートフォンを見下ろしていた。
「玄兎先輩、朝からそれを見るの何回目ですか。私が駅で合流してからだけでも、もう六回は確認してますよ」
横から白狼院小毬に覗き込まれ、玄兎は画面を伏せた。小毬は小柄な身体を少し前へ傾け、彼の表情まで確認してから、呆れたというより心配そうに眉を寄せている。
「六回も見てた?」
「見てました。二回目までは私も何か連絡が来たのかと思いましたけど、四回目くらいから『先輩が通知欄を信用できなくなってるだけだな』って分かりました」
「数え方が妙に具体的だな」
「先輩の状態確認は群れの仕事ですから。ちなみに今のところ、顔色は普通、歩き方も普通、匂いも昨日と大きな変化はありません」
小毬はそう言いながら、最後だけ少し鼻を動かした。
その仕草へ玄兎が何か言う前に、反対側から落ち着いた声が入る。
「白狼院さん。大学の正門前で毎朝堂々と匂いを確認するのは、そろそろ調査方法として改善を提案したいです」
鷺宮透羽だった。
薄い夏物のカーディガンを腕にかけ、もう片方の手には小さな紙袋を持っている。いつも通り整った黒髪と、少し眠そうな目元だけを見れば、深夜まで封印記録を読んでいた人間には見えない。
「でも透羽先輩、匂いは早いですよ」
「有効性は認めています。問題は場所です。通学中の学生から見ると、白狼院さんが玄兎の肩口へ顔を寄せているだけに見えます」
「それはそれで困るんだけど」
玄兎が言うと、小毬は一瞬だけ考えたあと、急に胸を張った。
「私は困りません」
「俺が困るって話をしてる」
「そこは慣れてください」
「慣れる方向で解決するの?」
透羽が小さく息を吐いた。その口元がほんの少しだけ緩んでいるのを見て、玄兎もようやくスマートフォンをポケットへしまう。
「透羽の方は、朝の連絡なかった?」
「ありません。午前七時の定時報告では、中央拘束値は昨日の同時刻とほぼ同じです。市内の漏出監視にも新規の警戒判定はありません」
「ほぼ同じ、か」
「改善ではありませんが、悪化でもありません。今はそれを良い材料として扱いましょう」
透羽の言い方はいつも通り慎重だった。楽観もしないし、不必要に不安を煽りもしない。
その時、正門の内側から薄紫色の髪が近づいてきた。
蝶ヶ森依澄は玄兎たちの前まで来ると、挨拶より先に三人の顔を順番に見た。最後に玄兎を見て、少し首を傾げる。
「月、一つだった」
「朝一番の報告がそれ?」
「大事。昨日も一つだったけど、今日も一つ」
「そうだな。二個あったらかなり困る」
「あと、駅前のパン屋も今日のパン屋だった」
依澄は真面目だった。
二つの月も、昔の商店が現在へ重なった現象も、彼女にとっては夢層の漏出を測る分かりやすい基準らしい。玄兎は笑いかけて、それから思い直した。
「その確認、俺もやってたかもしれない。今朝コンビニ入った時、店員が昔の人じゃないかちょっと見た」
「玄兎も同じ」
「同じでいいのかな」
「安心するためならいいと思う」
依澄が自然に玄兎の隣へ並ぶ。
そこへ、少し遅れて緋鴉千燈が現れた。片手にはアイスコーヒー、もう片方には黒い日傘。まだ朝だというのに、彼女だけは一日の面倒事をすでに二、三個片づけてきたような顔をしている。
「おはよう。何の集会?」
「異常がないことを確認してました」
小毬が答えると、千燈は日傘の下から空を見上げた。
「空は青い。月は増えてない。校舎は今の校舎。玄兎くんは一人。今のところ百点じゃない?」
「最後だけ確認方法が雑じゃない?」
「二人いたら大事件でしょ」
「それはそうだけど」
千燈はストローをくわえながら笑った。
五人はそのまま正門をくぐった。
誰も口にはしなかったが、歩き始める時に一度だけ、全員がほぼ同時に大学の時計塔へ目を向けた。二十年前の形へ変わっていない。空にも余計な月はない。植え込みから黒い犬が出てくる気配もない。
それを確認してから、ようやく講義棟へ向かった。
◇
一限の講義は、驚くほど普通だった。
驚くほど普通、という表現自体がおかしいのだが、玄兎にはそれ以外の言い方が見つからなかった。
教授はいつもの速度で板書を進め、前の席の学生は開始十五分で眠り始め、後ろの方では誰かがタブレットのキーボードを妙に強く叩いている。冷房の風は席によって当たり方が違い、玄兎の右腕だけが少し冷えた。
隣に座る透羽は講義ノートを取りながら、時々机の端へ置いた端末へ目を落としている。
玄兎も同じだった。
ただし、自分のスマートフォンへ手を伸ばそうとするたび、その前に透羽の視線が飛んでくる。
三回目で玄兎は諦めた。
「何も来てないか見るだけなんだけど」
教授の声を邪魔しない程度に小さく言うと、透羽は前を向いたまま答えた。
「緊急通知は音が鳴ります。通常のメッセージまで三分おきに確認しても、封印の状態は改善しません」
「三分おきではないよ」
「先ほどから四分、三分、五分です。平均すると四分です」
「計ってたの?」
「隣なので目に入ります」
透羽はそこで一度ペンを止め、玄兎の方へほんの少しだけ顔を向けた。
「心配するなとは言いません。でも、異常がない時間まで異常を待つために使うのは、もったいないです」
言われた玄兎は、机の上に置いた自分の指を見る。
「透羽がそれ言うんだ」
「私も気にしています。だから端末はここに置いています」
「じゃあ同じじゃん」
「私は講義ノートも取っています」
「俺だって取ってる」
「さっきから三行止まっています」
見れば本当に三行分ほど空いていた。
玄兎は苦笑し、教授が今説明している箇所へ視線を戻した。
「分かった。講義聞く」
「はい。その方がいいです」
「でも、本当に何かあったら言って」
「当然です。玄兎だけ知らない状態にはしません」
その一言に、玄兎の肩から少し力が抜けた。
以前なら、透羽は「危険だから知らせない」という選択をする可能性があった。玄兎も「自分だけで片づける」という選択をしたかもしれない。
今は違う。
知らせる。
相談する。
全員で決める。
共有ノートへ何度も書いた約束は、こういう小さな場面でも効いているらしい。
玄兎は空白になっていた三行を埋めるため、板書へ目を戻した。
その直後だった。
教室の天井から、低い電子音が鳴った。
玄兎の背筋が反射的に伸びる。
透羽の右手もほぼ同時に止まり、視線が教室前方ではなく窓と出入口を確認した。
周囲の学生たちは誰も反応していない。
次の瞬間、天井のスピーカーから事務的な声が流れた。
『設備点検のため、ただいまより三号館北側エレベーターを一時停止します。ご利用の方は中央階段をご使用ください』
教室の空気は何も変わらなかった。
玄兎と透羽だけが、数秒遅れて互いを見る。
「……エレベーター」
「エレベーターですね」
「怪異じゃない」
「設備点検です」
玄兎は机へ肘をつきそうになり、講義中なのを思い出して姿勢を戻した。
透羽も何事もなかったようにペンを動かし始める。
ただし、耳が少し赤い。
「透羽も警戒した?」
「していません」
「今、完全に入口見たよね」
「避難経路の確認です」
「それを警戒って言うんじゃない?」
「講義を聞いてください」
声だけは冷静だった。
玄兎は笑いを堪えながらノートへ向き直った。
何も起きなかった。
ただの設備点検だった。
それだけのことが、少しおかしかった。
◇
午前中が終わるころには、五人の警戒はそれぞれ妙な方向へずれ始めていた。
小毬は中庭の植え込みが大きく揺れたのを見て一度立ち止まったが、中から出てきたのは怪異ではなく、昼寝の場所を探していた茶色い猫だった。
千燈は学生会館前の自動販売機から「返金してください」という声が聞こえたため足を止めたものの、実際には百円玉を飲み込まれた男子学生が機械へ文句を言っていただけだった。
依澄は講義棟の窓に知らない女の顔が映ったと言い、全員が緊張したが、振り返ると清掃員がガラスの内側を拭いていた。
そして玄兎は、廊下の先に一瞬だけ白い人影を見て足を止めた。
白衣を着た理工系の教員だった。
「もう駄目だな、俺たち」
昼休み。学食の五人席へ着くなり玄兎が言うと、小毬がトレーを置きながら首を横に振った。
「駄目じゃありません。警戒できている証拠です。ただ、猫まで怪異だと思ったのは少し反省しています」
「俺の白衣もかなりひどかったよ」
「玄兎くん、白衣の先生に一回身構えてたもんね。向こうも『何だこの学生』って顔してたよ」
千燈が楽しそうに言う。
「見てたなら助けてくださいよ」
「何をどう助けるの。『すみません、この子は最近、白いもの全部封印関係に見えるんです』って説明する?」
「それは余計に駄目だな」
玄兎は自分のトレーを机へ置いた。
今日選んだのは唐揚げ定食だった。大きめの唐揚げが五個、千切りキャベツ、ご飯、味噌汁。三日前まで「自分の人格を維持できるか」だの「完全器へ移行するか」だのという話をしていた人間が、今は唐揚げ五個の配分を確認している。
我ながら落差が大きい。
玄兎が割り箸を取ったところで、小毬の視線に気づいた。
彼女は自分の焼肉定食を前にしながら、なぜか玄兎の唐揚げを見ている。
「小毬」
「何ですか?」
「俺の唐揚げ見てるよね」
「見てません」
「じゃあ今どこ見てるの」
「先輩の昼食全体を観察しています」
「唐揚げだけ目で追ってたけど」
「状態確認です。先輩がちゃんと食べるかどうかも大事ですから」
もっともらしいことを言っているが、箸の先がわずかに玄兎の皿へ近づいている。
「自分の焼肉あるだろ」
「唐揚げは別です」
「食べ物の分類として?」
「心の分類としてです」
「初めて聞いた分類だな」
玄兎が皿を少し自分側へ寄せる。
小毬も諦めずに箸を伸ばそうとした、その時だった。
別方向から伸びてきた箸が、唐揚げを一つ正確につまみ上げた。
「あ」
小毬と玄兎の声が重なる。
唐揚げはそのまま、千燈の口へ消えた。
千燈はゆっくり噛んでから、満足そうに頷く。
「おいしい」
「先輩!」
小毬が立ち上がりかける。
「私が狙ってたんですよ!」
「狙ってたって認めたね」
玄兎が言うと、小毬は一瞬だけ固まった。
「それとこれとは別です!」
「何が別なの」
「千燈先輩が横取りしたことです!」
「玄兎くんの唐揚げなのに?」
千燈は悪びれない。
小毬が納得できない顔をしている横で、依澄が自分のカレーを食べながら静かに訊いた。
「玄兎、怒ってる?」
「いや、そこまでじゃないけど」
「じゃあ私も一個ほしい」
「なんで被害が増える流れになるの?」
依澄は少し考えたあと、玄兎の皿と自分のカレーを見比べた。
「交換」
「何と?」
「じゃがいも」
「交換比率おかしくない?」
「にんじんもつける」
「野菜で唐揚げを買おうとするな」
玄兎が笑いながら断ると、依澄は本気で少し残念そうな顔をした。
その様子を見ていた透羽が、静かに味噌汁の椀を置く。
「玄兎。最初から一つずつ分ければ早いのではありませんか」
「透羽までそっち?」
「私は求めていません。争いを終わらせるための提案です」
「じゃあ透羽はいらない?」
「……いらないとは言っていません」
ほんの少し間があった。
千燈がすぐに気づく。
「透羽ちゃんも欲しいんじゃん」
「今のは、分配するなら受け取るという意味です」
「何その公的支援みたいな受け取り方」
玄兎は結局、残った四個のうち三個を小毬、依澄、透羽へ一つずつ渡した。
自分の分は一個になった。
「これ、俺の唐揚げ定食だったよね」
「群れで分けるとおいしいです!」
小毬は満足そうに食べている。
「それ、小毬が言うと全部正当化できると思ってない?」
「便利な言葉です」
「自覚あるんだ」
千燈が横で笑い、依澄は玄兎からもらった唐揚げを半分だけかじったあと、残りを自分のカレーへ載せた。
透羽は最初こそ遠慮するように箸を止めていたが、一口食べるとわずかに目元を緩めた。
「どう?」
玄兎が聞く。
「普通においしいです」
「その感想、今日のテーマみたいだな」
「今日のテーマ?」
「朝からずっと、普通だなって」
その言葉で、四人が少しだけ静かになった。
学食は混んでいる。近くでは学生たちがテストの日程について話し、別のテーブルではサークルの夏合宿の相談をしている。食器の触れ合う音、厨房から聞こえる揚げ物の音、冷房に負けないくらい大きな笑い声。
誰も空を見上げて月の数を数えていない。
誰も床の下に怪異がいないか確認していない。
自分の記憶が自分のものかどうかを、食事のたびに確かめている学生もいない。
少なくとも、見える範囲では。
「今のところ、今日って本当に何も起きてないよな」
玄兎が言うと、透羽は反射的に端末へ手を伸ばしかけた。
途中で止める。
玄兎がそれを見て笑う。
「見る?」
「……見ません」
「我慢してる?」
「玄兎に言われたくありません」
「それはそう」
依澄がスプーンを置いた。
「何もない日」
「うん」
「嫌?」
「いや。むしろ――」
玄兎が答えかけたところで、学食の入口から大きな破裂音が響いた。
五人が同時に振り向く。
小毬は椅子から腰を浮かせ、透羽の手は紙コップではなく腰の護符入れへ向かい、千燈の視線が鋭くなり、依澄の周囲には薄紫の光が一瞬だけ浮かんだ。
入口付近にいた学生が笑っている。
床には、破裂した紙袋。
どうやら誰かが空気を入れた袋を友人の背後で叩いただけらしい。
「……」
五人はゆっくり元の姿勢へ戻った。
玄兎は額へ手を当てる。
「俺たち、今日ずっとこれやる?」
千燈が肩を震わせた。
「だって今の音、絶対何か出たと思うじゃん」
「蝶、出しかけた」
依澄が自分の手を見る。
「私は浄化水を使う寸前でした」
「私、飛びかかる寸前でした」
小毬も真面目に言う。
玄兎は数秒考えてから、机の中央へ人差し指を立てた。
「ルール作らない?」
「どんな?」
透羽が訊く。
「怪異だと思った時、動く前に普通の理由を三つ考える」
「緊急時には遅れます」
「じゃあ危険が迫ってない時だけ。音がした、窓に何か映った、植え込みが揺れた、くらいならまず普通の可能性を考える」
千燈が面白そうに頷いた。
「いいね。さっきの音なら、一つ目が悪ふざけ、二つ目が何か落とした、三つ目が……」
「風船」
依澄が言う。
「それで三つ」
「じゃあ怪異判定は四番目?」
小毬が聞く。
「少なくとも、猫を見ていきなり《狼域》に入るよりは平和だと思う」
「猫は匂いですぐ分かりました!」
「身構えてから分かったんだろ」
小毬は少しだけ頬を膨らませた。
透羽は真面目に考えたあと、端末のメモへ何か入力する。
「緊急性が低い異常候補について、通常現象を複数検討してから術式を使う。考え方としては悪くありません」
「本当にルールとして記録するの?」
「今の私たちは過敏になっています。過剰反応を減らす基準は必要です」
「じゃあ名前もつけようよ」
千燈が言う。
「『まず怪異じゃない方から考えよう規則』」
「長いです」
「透羽ちゃんが考えると管理規則みたいになるでしょ」
「実際、管理上の手順ですから」
そのやり取りを聞いて、玄兎は笑った。
何も起きていない。
なのに、思っていたよりずっと忙しい昼休みだった。
◇
午後の講義が終わっても、緊急連絡は来なかった。
正確には、連絡自体は何件か来た。
鷺宮家からの定時観測値。
市内北部の固定点で一時的に夢層圧が上がったという報告。
昨夜確認された黒い影について、今朝以降は追跡反応なしという更新。
大学周辺の監視値は正常範囲。
どれも「今すぐ来てください」ではなかった。
五人は講義棟を出たあと、そのまま帰らず、中庭の木陰にあるベンチへ集まった。
本来なら、分散固定の資料を読む予定だった。
透羽の鞄には鷺宮家から持ち出した複写資料が入っているし、千燈も古い記録から読み取った用語をまとめてきている。小毬は過去の帰巣地点を地図へ印をつけ、依澄は夢層側から見えた場所を重ねる準備をしていた。
しかし、ベンチへ座って五分ほど経っても、誰も資料を開かなかった。
小毬は売店で買ったアイスを食べている。
千燈は日傘を閉じ、木陰でスマートフォンを見ている。
依澄は風で揺れる木の葉を眺めている。
透羽だけは最初こそ資料へ手をかけていたが、玄兎がベンチの背もたれへ身体を預けたのを見ると、結局鞄を閉じた。
「やらないの?」
玄兎が訊くと、透羽は一瞬考えた。
「一時間休憩してからにします」
「珍しい」
「午前から全員、必要以上に緊張しています。集中力が落ちた状態で封印設計を読む方が危険です」
「それ、本音何割?」
「七割です」
「残り三割は?」
透羽は少しだけ視線を逸らした。
「……今日は、少しくらい普通にしていてもいい気がしました」
玄兎はすぐには返事をしなかった。
代わりに隣を見る。
依澄は木漏れ日の形が地面で動くのを目で追い、小毬はアイスが溶ける前に食べようとして妙に真剣な顔をしている。千燈はスマートフォンの画面を玄兎へ向けた。
「見て。駅前のカフェ、新作出てる」
「今その情報?」
「こういう時こそでしょ。世界が終わりそうだからって毎日封印の話だけしてたら、本当に封印しか残らなくなるよ」
「世界が終わりそう、は軽く言わないでください」
透羽がたしなめる。
「じゃあ、街の境界がちょっと危ないから」
「軽くしすぎです」
「難しいなあ」
千燈は笑い、また画面へ戻った。
玄兎は空を見上げた。
青い空に雲が流れている。
月は見えない。
蝶の群れもいない。
古い校舎も重なっていない。
ただの午後だった。
「そういえば、今週の課題やった?」
玄兎が何となく訊くと、小毬がアイスの棒を持ったまま固まった。
「何のですか」
「基礎演習。明日提出のやつ」
「……」
「小毬?」
「怪異より危険なもの思い出しました」
「普通の危機だな」
「先輩、見せてください!」
「駄目。教えるのはいいけど写すのは駄目」
「群れなのに!」
「群れでも課題は別」
小毬が本気で困った顔をし、千燈が横から笑う。
「小毬ちゃん、さっきまで街の封印心配してたのに、急に学生に戻ったね」
「提出期限は待ってくれません!」
「封印も待ってくれないって透羽が言ってたな」
玄兎が言うと、透羽が小さく笑った。
「同列にはしないでください。ただ、提出物は出した方がいいです」
「透羽先輩まで!」
「当たり前です」
依澄が静かに手を上げる。
「私は終わった」
「依澄先輩、見せてください!」
「いいよ」
「依澄」
玄兎と透羽の声が重なった。
依澄が二人を見る。
「写すの、駄目?」
「駄目」
「駄目です」
「じゃあ教える」
「お願いします!」
小毬はすぐに鞄からノートを出した。
その切り替えの速さに玄兎は笑う。
一時間だけ休むつもりだったのに、結局ベンチでは小毬の課題を四人で教えることになった。
千燈は専門外なのに妙に口を出し、透羽は説明が正確すぎて途中から講義のようになり、依澄は答えを感覚で言うため小毬が余計に混乱する。
玄兎はその全部を整理しながら、できるだけ普通の言葉へ直した。
「つまり、ここはこの式を使えばいい。前のページの例題とほぼ同じ」
「最初からそう言ってください!」
「透羽がちゃんと理屈から説明してくれたじゃん」
「正しいですけど長いです!」
小毬が訴えると、透羽が少しだけ傷ついたような顔をした。
「理解のためには途中の過程も必要です」
「分かってます。でも今は提出期限が近いので、速さも大事なんです」
「それは白狼院さんが昨日までに進めていれば解決していました」
「正論が強い!」
また笑いが起きる。
玄兎はその声を聞きながら、ふとスマートフォンの存在を忘れていたことに気づいた。
最後に確認してから、三十分以上経っている。
気づいた途端、反射的にポケットへ手を伸ばしかける。
しかし、そこで止めた。
緊急通知の音は鳴っていない。
透羽も隣にいる。
小毬も、千燈も、依澄もいる。
なら、今は目の前の課題で困っている後輩を助ける方がいい。
玄兎は手をポケットから離し、小毬のノートを指差した。
「次。ここ自分でやってみて」
「はい。今度こそいけます」
小毬がペンを動かす。
その横顔は真剣だった。
怪異と戦っている時より、少しだけ平和な真剣さだった。
◇
午後六時前。
結局、封印資料を広げたのは休憩開始から一時間半ほど経ってからだった。
それでも必要な確認は進んだ。
市内の固定点候補を七か所に絞り、過去の怪異発生記録と夢層の偏りを重ね、翌日は鷺宮家の古い記録庫を確認する予定まで決めた。
作業を終え、五人は大学を出るため講義棟の長い廊下を歩いていた。
西日が窓から差し込み、床へ長い四角を作っている。
昼間ほど人は多くない。遠くでサークル帰りの学生が笑いながら階段を下りていく音が聞こえる。
「今日は結局、呼び出されなかったな」
玄兎が言った。
「まだ大学を出ていません。油断しないでください」
透羽はそう返したものの、声には朝ほどの硬さがなかった。
「でも、透羽も今日は途中から通知見てなかったよね」
「必要な定時確認はしました」
「それ以外」
「……見ていません」
「いいことじゃん」
「そうですね」
透羽は素直に認めた。
前を歩いていた小毬が振り返る。
「今日は怪異ゼロです! 猫一匹、紙袋一個、白衣の先生一人でした!」
「それ全部怪異候補に入れるのやめない?」
「候補から除外した実績です」
「前向きだな」
千燈が笑う。
「自販機に文句言ってた学生も入れて」
「あれも怪異じゃありませんでした」
「当たり前だよ」
依澄が窓の外を見る。
「今日、普通だった」
「うん」
玄兎も同じ方向へ目を向けた。
窓の向こうには大学の中庭と自転車置き場があり、その先に少し古い講義棟と住宅街が続いている。三日前、《百獣繭》の中央で見たものに比べれば、何も特別ではない景色だった。
だからこそ、玄兎は少し立ち止まった。
「こういう何もない日、結構好きかも」
自分でも、口にしてから妙にしっくりきた。
小毬たちも足を止める。
玄兎は窓へ背を向け、四人を見る。
「怪異が出なくて助かったって意味だけじゃなくてさ。講義受けて、昼飯の唐揚げ取られて、小毬の課題手伝って、どうでもいいことで何回も怪異だと思って……そういう日」
「最後のは普通の日に入れていいの?」
千燈が聞く。
「今の俺たちには入るんじゃない?」
「確かに」
千燈は納得したように頷いた。
玄兎は続ける。
「二十年前に何があったとか、俺が何の器だったとか、これから《百獣繭》をどうするかとか。もちろん全部大事なんだけど、それだけ考えてると、何のために何とかしたいのか分からなくなる気がする」
透羽は黙って聞いている。
「俺、別に大きなことしたいわけじゃないんだと思う。明日も大学来て、また昼飯食って、授業が面倒だとか言って、そのくらいでいい」
依澄が玄兎の隣へ一歩近づいた。
「夢じゃなく?」
「うん。現実で」
「いいね」
それだけ言って、依澄は少し笑った。
小毬もすぐに頷く。
「私もです。あと、できれば明日の昼は唐揚げじゃなくて肉多めがいいです」
「今日も焼肉定食だっただろ」
「明日は明日の肉があります!」
「哲学みたいに言うな」
千燈が肩をすくめる。
「私は新作カフェ行きたいな。封印資料持ち込み禁止で」
「先輩はもう少し真面目に――と言いたいところですけど」
透羽はそこで言葉を切った。
玄兎が見ると、彼女は窓の外へ目を向けている。
「私も、今日は悪くなかったと思います」
「かなり控えめだな」
「では言い直します」
透羽は一度だけ息を吸った。
「こういう日が続けばいいと思いました」
玄兎は少し驚いた。
透羽は照れた様子を見せず、そのまま続ける。
「もちろん、状況は楽観できません。分散固定の準備も必要ですし、漏出監視も続けなければなりません。でも、そのために大学へ通う時間まで全部捨てる必要はない。むしろ、玄兎の人格境界を保つという意味でも、私たち自身が今の生活を失わないという意味でも、普通の時間は必要です」
「やっぱり途中から管理説明になるんだ」
「理由も大事です」
「でも、続けばいいって思ったのは本音?」
玄兎が聞く。
透羽はほんの少しだけ間を置いた。
「はい」
その返事が妙に嬉しかった。
玄兎は窓際から離れ、出口へ向かおうとする。
「じゃあ帰るか。明日もあるし」
「はい。明日の一限、遅刻しないでください」
「今日は遅れてないだろ」
「明日の話です」
「先回りしすぎじゃない?」
五人がまた歩き始める。
その時だった。
廊下の窓へ差し込んでいた夕日の色が、一瞬だけ変わった。
赤から、薄い灰色へ。
玄兎は足を止めた。
今度は誰も「普通の理由を三つ」とは言わなかった。
窓の向こうに見えていた現在の中庭が消えている。
代わりに、古い校舎があった。
今より低い建物。
色の褪せた壁。
舗装されていない道。
見覚えのない制服に近い服装の学生たちが、何人も校舎の間を歩いている。
風景は音を持っていなかった。
夕方の蝉の声も、廊下の空調音も消えていないのに、窓の向こうだけが無音の古い映像として重なっている。
「二十年前……?」
玄兎が小さく言う。
「おそらく、それに近い時期です」
透羽がすぐ隣へ来た。
端末を取り出すが、いきなり術式は使わない。
小毬も窓へ近づきすぎず、鼻を動かす。
「匂いは来ません。映像だけみたいです」
「夢層の記録」
依澄が静かに言った。
「前に見たのと似てる。でも、今は薄い」
千燈は窓の左右へ視線を走らせる。
「他の窓は?」
玄兎が振り返った。
廊下の反対側の窓には、今の大学が映っている。
異常なのは、この一枚だけだった。
数秒後。
古い校舎の景色が、夕日に溶けるように薄くなった。
現在の中庭が戻った。自転車置き場も植え込みも講義棟も、さっきまで見ていたいつもの大学の姿へ何事もなかったように収まっている。
透羽の端末が、その直後に一度だけ震えた。
全員の視線が集まる。
透羽が画面を確認する。
「大学周辺、夢層圧が一時的に上昇。継続時間は十一秒。現在は正常範囲へ戻っています」
「やっぱり、何もなくなったわけじゃないんだな」
玄兎は窓を見る。
「はい」
透羽は否定しなかった。
それでも、玄兎の中にあった先ほどまでの気持ちは消えなかった。
むしろ逆だった。
今の景色が一瞬消えたからこそ、戻ってきた現在の大学がさっきより少しだけ大事に見える。
「記録して帰ろう」
玄兎が言う。
「調べなくていいんですか?」
小毬が聞く。
「調べる。でも今日はここで全部やらない。透羽、緊急性は?」
透羽が観測値を確認する。
「現時点ではありません。再発した場合は大学周辺の監視を強化します」
「じゃあ今日は帰る。明日また来る」
依澄が隣で頷いた。
「明日も大学」
「うん」
玄兎は窓の向こうへ最後に一度だけ目を向けた。
夕方の校舎は、もう昔の形には見えない。
今日一日、本当に大きな事件は起きなかった。
怪異を倒してもいない。
誰かを救うために地下へ潜ってもいない。
《還月》を使うことも、自分が何者なのかを証明することもなかった。
講義を受けて、唐揚げを取られて、後輩の課題を手伝って、帰り道に少しだけ異常を見た。
完璧な「何もない日」ではなかったのかもしれない。
それでも玄兎は、こういう一日を守りたいと思った。
世界を救いたいという大げさな言葉よりも、その気持ちの方が今の自分にはずっと分かりやすかった。
五人で階段を下りる。
明日の予定は、一限の講義と、鷺宮家の記録庫、それから学食。
今のところ、それで十分だった。
――第二十五話・了