第二章・全36話中 24話

第二十四話 百獣繭の中へ、五人で降りる

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 旧八坂水路の中央管理口を抜けてから、五人はずっと地下へ降り続けていた。

 先頭を歩く透羽が、指先に小さな水球を浮かべている。淡い青白い光が濡れた石段を照らし、そのさらに先は暗闇へ沈んでいた。

 階段そのものは古い。石の角は丸く削れ、壁には何度も補修された跡がある。

 ただ、奇妙なのは距離だった。

「もう十分以上、降りてるよな。同じ場所を歩いてる感じがする」

「水の流れは少しずつ変わっています。距離の感じ方へ干渉しているだけで、同じ場所を回っているわけではありません」

 依澄が壁へ手を近づけた。

「夢も混ざってる」

「《蝶境》みたいな?」

「似てる。でも、私がやってない。ここ自体が、夢と現実を分けなくなってる」

 玄兎は左胸へ手を当てた。

 痣はずっと冷たい。

 回収工程が始まった時のように無理やり身体を引かれる感覚はまだないが、下へ進むほど、胸の奥に「こっちで合っている」という気味の悪い確信が強くなっている。

「玄兎」

 透羽が振り返る。

「体調を」

「息苦しさなし。痛みもない。記憶も大丈夫。痣は冷たい。あと、下へ行くほど自然な感じがする」

「上へ戻る方が、間違ってるみたいに感じる」

 透羽の表情が硬くなる。

「それは回収誘導の可能性があります」

「違和感が強くなったら、すぐ言ってください」

「うん」

 五人は再び歩き始めた。

 しばらくすると、後ろから子供の笑い声が聞こえた。

 玄兎は反射的に振り返ったが、そこには誰もいなかった。

 それでも笑い声だけは、石段の奥から何人分も重なって聞こえてくる。

 やがて、その幼い笑い声に五人の声が混じり始めた。

『玄兎、こっち』

 依澄の声だった。だが、本物の依澄は玄兎の隣で息を詰めている。

『先輩、置いていかないでください』

 次は小毬だった。甘えるような響きまで本人と同じなのに、声は足元の石の内側から聞こえた。千燈の笑い声、透羽の冷静な指示、そして玄兎自身の声までが順番に名を呼ぶ。

 呼ばれるたび、振り返った記憶のない景色が頭へ差し込まれた。赤い鞠を追って階段を駆け下りたこと。暗がりで母親とはぐれ、泣きながら知らない手を握ったこと。水の底から、先に沈んだ友人を見上げたこと。どれも経験した覚えはないのに、膝には転んだ痛みが、喉には溺れた水の冷たさが残った。

 もし何度も聞いているうちに、この声を本物だと思い始めたら。逆に、隣にいる四人の声を偽物だと疑い始めたら。

 その想像が、暗闇そのものより恐ろしかった。

「小毬」

「聞こえます。三人……違う、もっといます」

「匂いがありません」

 依澄が目を閉じた。

「夢でもない。記憶」

 その言葉と同時に、階段の壁へ次々と影が浮かび始めた。

 制服姿の少女、杖をついた老人、泣きじゃくる子供、片足を引きずる犬、羽の欠けた鳥、顔のない人。さらに古い木造家屋や知らない道路、花に埋もれた葬式の景色まで重なっていく。

 どれも玄兎自身の記憶にはない。

 それなのに、見た瞬間、胸の奥へ感情だけが流れ込んできた。

 恐怖、帰りたいという願い、悔しさ、寂しさ、忘れたくないという執着、許してほしいという後悔、誰かを傷つけたいほどの怒り。もう終わりにしたいという諦めと、それでもまだ終わりたくないという願いまで、互いに矛盾した感情が区別なく押し寄せてくる。

「っ……」

 玄兎は手すりを強く掴んだ。

「玄兎!」

 透羽がすぐに腕を支える。

「感情だけ、一気に来る。たぶん俺の中の怪異の記憶だ。でも、まだ分かる。俺が体験したものじゃない」

 玄兎が答えると、千燈が近づいた。

「何を基準に?」

 玄兎は少し考えた。

「今日の俺は、朝に味噌汁と卵食べた」

 小毬がすぐ頷いた。

「大学へ行って、みんなと合流した。久住研究室から共有ノートを持ち出して、今もリュックの底に入ってる」

 玄兎は背中のリュックを軽く叩いた。

「透羽が集合時間決めてないのに遅いって言った」

「普段の時間を基準にしただけです」

「千燈がそれを笑って、依澄は今日は夢に来なかったって言った」

 玄兎は四人を見る。

「それが今日の俺。今流れてきたのは、俺が体験した今日じゃない」

 千燈が少しだけ目を細めた。

「ちゃんと分けられてる」

「今は」

「なら、そのままでいこう」

 その時、暗闇の奥から一匹の白い蝶が飛んできた。

 蝶は依澄の指先へ止まる。

 依澄の肩が僅かに震えた。

「私の方にも、来た」

 次の瞬間、依澄の目が大きく見開かれた。

 玄兎へ怪異の記憶が流れ込んだのと同じように、依澄の中へは無数の願いや夢が押し寄せているらしい。

 玄兎が手を握る。

「何が見える?」

「もう一回会いたい。謝りたい。子供の頃へ戻りたい。明日の学校、休みたい」

 小毬が少しだけ笑いそうになる。

「それも願いなんですね」

「うん。本気なら」

 依澄は続ける。

「宝くじ当たりたい。病気治ってほしい。死んだ人に会いたい。嫌われたくない。好きな人に好きって言ってほしい」

 そこで依澄は一度、玄兎を見た。

「最後のは、私もある」

「混ざってるけど、分かる。玄兎がいるから」

 依澄は握った手を見た。

 玄兎へ集まる黒い気配と、依澄へ集まる白い光。

 二人は違うものを受け取っている。

 それでも、その流れは同じ地下深くへ向かっていた。

 その後も階段は続いた。

 途中から、五人のものではない足音が一つ増えた。

 玄兎たちが止まれば、それも止まる。歩き出せば、同じ間隔を保って後ろから付いてくる。

「振り向かない方がよさそうですね」

 透羽が前を向いたまま言った。

「認識したものへ、形を与える可能性があります」

 千燈が苦笑する。

「怪談としては王道だね」

「怖いから喋ってる」

 千燈はあっさり認めた。

「私も怖いです」

 小毬が続いた。

「後ろの匂い、玄兎先輩と少し似ています」

「先輩の中にある怪異の匂いだけを、抜き出したみたいです」

「なら、なおさら振り向かない」

「はい」

 依澄が玄兎の手を握ったまま言う。

「前を見る」

「うん」

 十数段降りたところで、六つ目の足音はふっと消えた。

 代わりに、透羽の前方で石段の表面が半透明になった。

 石の下には暗い空洞ではなく、乳白色の膜が幾重にも詰まっている。筋肉の繊維にも、古い紙を重ねた断面にも見えた。膜の間には人や獣の身体が押し花のように薄く挟まれ、目だけを動かして五人を見上げている。

「本物?」

 玄兎が訊く。

 透羽は指先から一滴だけ水を飛ばした。

 水滴は半透明の膜へ沈まず、普段と変わらない石段の上で弾けた。

「石段は本物です。見えている内部だけが、記憶か夢でしょう」

 依澄が膜の中を見つめる。

「保存された身体の記憶」

 膜の内側から何本もの手が押し当てられ、石段の表面へ手形を浮かべた。

 実際には触れていない。それでも玄兎の足裏には、下から指を絡められた感覚が伝わる。

 指先は死人のように冷たいものばかりではなかった。子供の小さな手、働き慣れた固い手、指輪をはめた手。中には、見覚えのある腕時計や、大学の購買で売っている細い髪留めをつけた手まである。

 あり得ないと分かっているのに、その一本が透羽の手に見え、別の一本から小毬の匂いがした。膜は五人の特徴を読み取り、保存済みの身体へ貼りつけているらしい。

 次の瞬間、膜の中にもう一人の玄兎が現れた。身体は紙より薄く、胸の内側には獣の影が黒い染みとして閉じ込められている。薄い玄兎は本物と同時に息を吸い、吐くたびに少しずつ厚みを増した。

 その分だけ、本物の玄兎から身体の重さが失われていく。足が軽くなるのではない。骨、内臓、体温という「身体を持っている実感」が、膜の中の保存標本へ写し取られている。

 玄兎が手を握ると、石の下の玄兎も一拍遅れて同じ動きをした。二度目には遅れがなくなり、三度目には向こうが先に拳を作る。

「っ……」

「先輩!」

 小毬が玄兎の前へ出た。

「待って。実体はない」

「分かってても嫌です!」

 透羽が《水鏡》を薄く広げ、石段の現実と内部へ重なった保存像を分離する。

「こちらが現実です。足元には石しかありません」

 千燈も声をかけた。

「玄兎くん、私の声は?」

「聞こえる」

「透羽ちゃんの水は?」

 玄兎の手首へ、透羽が一滴だけ本物の水を落とす。

「冷たい」

「それが現実です」

 依澄が握った手へ少し力を入れた。

「これは?」

「依澄の手」

「小毬は前、千燈は後ろ、透羽は隣。俺と依澄で、五人いる」

 依澄が頷いた。

 玄兎がそう答えた瞬間、石段の内側に重なっていた膜と手形は消えた。

「五人の位置を確かめると、干渉が弱まります。人格固定因子の記録は、ここでも有効ですね」

 透羽が言う。

 怖さそのものは消えない。

 それでも、恐怖を感じるたびに誰がどこにいるかを確かめることで、五人は足元の現実を取り戻しながら進んだ。

     ◇

 長く続いていた階段は、何の前触れもなく終わった。

 五人の前に広がったのは、地下空間と呼ぶにはあまりにも大きな場所だった。

 天井も壁も見えない。

 足元から先には黒い水面が果てしなく続き、その中央へ巨大な何かが浮かんでいる。

「……あれが」

 小毬が息を呑んだ。

 そこに浮かんでいたのは、白とも黒とも呼べない巨大な繭だった。無数の色を持つ糸が絡み合い、一つの塊を作っている。

 遠目には糸に見えたものも、目を凝らすほど別のものへ変わった。髪の毛、獣の腱、古い映写フィルム、血管、墨で書かれた文字の列。そのどれともつかない細いものが幾重にも絡み、巨大な皮膚を作っている。

 繭は十数秒おきにゆっくり膨らみ、また縮んだ。そのたびに黒い水面へ低い振動が走る。床を伝った震えは五人の足裏から骨へ入り込み、心臓の鼓動を繭と同じ速さへ合わせようとした。

 表面の一部が内側から押し上げられた。

 人の顔ほどの膨らみが現れ、目と鼻らしき窪みを作る。口の位置が裂け、声にならない息を吐いたあと、顔は糸の中へ沈んだ。すぐ隣には犬の吻が、さらにその上には無数の指が浮かび、外側へ出ようと皮膜を掻き続ける。

 爪が内側から擦れる音は、耳で聞くには小さいはずなのに、なぜか歯の根へ直接響いた。

 空気には湿った土と古い血、それに病室や葬儀場を思わせる消毒薬と香の匂いが混じっている。小毬が鼻を押さえた理由を、玄兎にもようやく理解できた。ここには一つの死臭があるのではない。長い年月のあいだ忘れられなかった死が、互いに混ざらないまま詰め込まれている。

 その表面には、建物や木、獣、人、蝶、文字、知らない顔、誰かの夢らしき景色が浮かんでは消えていく。

 模式図とは違う。恐怖、願い、怪異、記憶、死者への執着、叶わなかった未来。町が溜め込み、眠らせてきたものが、目の前にある。

「匂いが……多すぎます」

 小毬が鼻を押さえた。

「全部追うのはきついだろ。無理しないでくれ」

「閉じます。でも、先輩だけは追います」

「うん。俺の方は頼む」

 小毬は一度深呼吸し、嗅覚の範囲を絞る。

「ちゃんと、先輩が一番分かります」

 千燈も繭を見上げていた。

「ここ、血の気配もすごい。死ぬ直前の感情とか、怪異になる直前の人の感情とか、触らなくても滲んでくる」

「《血読》は控えた方がよさそうだな」

「今は使わない。使ったら私の方が戻れなくなりそう」

 依澄は、他の三人よりずっと静かだった。

「知ってる場所?」

「知ってる」

 依澄の顔には懐かしさより、先に恐怖が浮かんでいた。

「帰ってきた感じがする」

 玄兎は握っている手へ少し力を入れた。

「でも帰らないんだろ」

「うん」

「分かった。一緒に行こう」

 依澄は巨大な繭を見た。

「ここは、私がいた場所」

 透羽の端末が反応する。

『D-02、中央夢層へ接近』
『同期率上昇』

 ほぼ同時に、玄兎の胸の痣が強く熱を持った。

『外部器、中央怪異層へ接近』
『内部保持断片、帰還反応』

「でも、ここは俺の家じゃない」

 玄兎ははっきり言った。

 すると、巨大な繭の内部から無機質な声が響く。

『外部器』

「鵺代玄兎」

『D-02』

「蝶ヶ森依澄」

『固定因子』

 小毬が眉を寄せる。

「私たちにも名前あります」

「はい。私たちを、そんな呼び方でまとめないでください」

 透羽も続けた。

 千燈は肩をすくめる。

「二十年前の機械に言っても仕方ないかもしれないけど、呼び方くらい更新してほしいね」

「名前、覚えて」

 依澄が繭へ言った。

 《百獣繭》は返事をしなかった。

 代わりに黒い水面へ五本の細い道が浮かび、すべて中央の繭へ向かって伸びていく。

「おそらく罠です」

 透羽が道を見た。

「でも、中央制御へ行くには進むしかありません」

「じゃあ行こう」

「はい」

 三人も頷いた。

 五人は互いの位置を確認しながら、黒い水の上へ作られた道へ足を踏み出した。

 道の両側では、ときどき何かが水面へ浮かび上がった。

 古い人形、子供用の靴、壊れた携帯電話、錆びた鍵、白い花束。

 どれも一瞬だけ姿を見せ、玄兎たちが意味を考える前に沈んでいく。

「全部、怪異の核?」

 玄兎が訊く。

「違うと思います」

 透羽は慎重に周囲を観察した。

「物に残った執着や記憶も混じっています」

 千燈が沈んでいく携帯電話を見る。

「誰かから連絡が来るのをずっと待ってた、とか」

「怪異になるほど強くなくても、残るのかもしれないね」

 依澄は白い花束を見つめた。

「願いもある」

「もう一回、渡したかった。誰にかは分からないけど、渡せなかった」

 玄兎は、花束が黒い水へ沈んでいくのを黙って見た。

「怪異だから全部消せばいい、じゃないんだな」

「はい」

 透羽が答えた。

「ここにあるもの全てが、人を害したいという意思から生まれたわけではありません」

「でも、今のまま外へ出たら危ない」

 小毬が言う。

「それも事実です」

 千燈が巨大な繭を見た。

「眠らせて先送りするだけで二十年。もう限界が来たってことか」

「おそらく」

 玄兎は自分の胸へ触れた。

「俺の中の断片も、分散固定なら外へ出すんだよな」

「はい。中央と玄兎へ集中している負荷を、市内の複数拠点へ再配置する構想です」

「俺は空になる?」

「分かりません」

 透羽は正直に答えた。

「少なくとも、今と同じ状態ではなくなる可能性があります」

「《還月》も?」

「再構築機能が保持断片と結びついているなら、失う可能性があります」

 玄兎は一瞬、黙った。

 死んでも戻らない身体になる。以前なら、それを「普通になれる」と軽く考えたかもしれないが、今は違う。戻らない死が、はっきりと怖かった。

「怖い?」

「うん」

「私も。現実に残れなくなるのが怖い」

 千燈が二人を見て、小さく笑った。

     ◇

 繭へ近づくほど、周囲の景色は現実らしさを失っていった。

 最初に見えたのは、講義棟、正門、学食が並ぶ朽木ヶ丘大学だった。見慣れた場所のはずなのに、その景色は一つの時代に固定されていない。

 二十年前の古い校舎と現在の建物が重なり、その間には誰かが想像した未来の大学まで混ざっている。

「夢だけじゃない。土地の記憶もある」

 依澄が答えた。

 透羽が端末の観測値を見る。

「《百獣繭》では、土地の記憶と人の夢が完全には別管理されていないようです」

 景色が変わる。

 次は八坂通りの商店街。

 今ではシャッターが閉じた店の前を、昔の人々が買い物袋を持って歩いている。

 さらに景色が切り替わると、護岸工事前の川が現れ、その遠くには現在の大学が建っていた。

「時間まで混ざってる」

 千燈が言う。

「順番じゃなくて、場所で溜まってるのかも」

「可能性はあります」

 透羽が答えた。

 玄兎は歩きながら、自分の記憶とそうでない景色を一つずつ分けていた。

 目の前の大学は知っているが、そこに重なる古い購買は知らない。八坂通りの商店街は歩いたことがあるが、この魚屋には覚えがない。

 そんな確認を続けていると、一人の子供が道の中央へ立った。

 六歳頃の玄兎だった。

「また来た」

 子供は今の玄兎を見上げる。

「帰る?」

「帰らない」

「痛いよ」

「知ってる」

「死ぬよ」

「知ってる」

「忘れるよ」

 玄兎は少しだけ息を止めた。

「それでも?」

 子供が訊く。

 玄兎はすぐには答えなかった。

 怖い。死ぬのは嫌だし、記憶を失うのも嫌だ。痛いことだって、できるなら二度と経験したくない。

 できるなら全部避けたい。

 それでも、中央へ統合されて、何も感じないまま「安全」になることを望んでいるわけでもなかった。

「明日も大学へ行きたい」

 玄兎は言った。

 透羽が僅かに顔を上げる。

「学食で飯食いたい。みんなと話したい。俺が何を忘れるか怖いけど、それでも、まだ終わりたくない」

 子供の玄兎が首を傾げた。

「怖いのに?」

「怖いから、終わりたくない」

「痛いのに?」

「痛くない方がいい」

「忘れるのに?」

「忘れたくない」

「じゃあ、どうするの」

 玄兎は四人を見る。

「今は、明日が欲しい」

 依澄が静かに玄兎を見つめた。

 何か言いかけたが、結局口を閉じた。

 子供の玄兎は少しだけ笑った。

「そっか」

 幼い姿は、光の粒となって消えていった。

 小毬が玄兎の袖を掴む。

「今の、ノートに書いてください」

「自分で書く」

 千燈も笑った。

「忘れたら私たちが教える。でも、できれば忘れないでね」

「努力する」

 透羽が玄兎を見る。

「そのためにも、戻ります」

「うん」

 その時、《百獣繭》の奥から低い音が響いた。

『人格境界、最終基準達成』
『外部器人格、完成』
『回収工程、最終段階へ移行』

「今の会話で?」

 玄兎が顔をしかめる。

「人格境界値が上昇した可能性があります」

 透羽が答えた。

「完成って何ですか!」

 小毬が本気で怒る。

「先輩は明日も変わるって言ってるのに!」

「同感」

 千燈も繭を睨んだ。

 次の瞬間、玄兎の身体が前へ引かれた。

「っ!」

 自分の意思とは関係なく、足が繭の方へ踏み出す。

 巨大な繭の表面が裂け、その内側へ底の見えない黒い空間が開いた。

 裂け目の縁から何百本もの細い糸が飛び出し、玄兎の影へ突き刺さった。皮膚には触れていない。それなのに、身体の内側で何かが次々とほどけていく。

 名前や年齢、大学までの通学路に、ブラックコーヒーの苦さ。さらに、透羽の手の温度、千燈の笑い方、小毬が怒った時に耳を伏せる癖、依澄が「ただいま」と言うまでに置くわずかな間までが、次々と引き出されていく。

 大切さに順番をつけられるはずのない記憶が、古い標本の札のように分類されていく。これは外部器の機能に必要、これは不要、これは人格の雑音。自分の人生を、持ち主ではない何かに勝手に仕分けされる感覚だった。

 透羽が息を呑んだ。事故、再構築、人格固定。分かれていた記録が、目の前では一つの手順としてつながっている。

「……だから記録を分けたんだ」

 不要と判定された記憶から色が抜けた。忘れたのではない。そこに感情だけが存在しなくなり、「知っている事実」へ変わっていく。その静かな喪失が、傷つけられる痛みよりも恐ろしい。

 玄兎の右手が、本人の意思を無視して繭へ伸びた。

「放してください……俺の中から、勝手に持っていくな!」

 叫んだ声さえ、最後の一音だけが裂け目へ吸い込まれ、何百人もの声になって返ってきた。

「玄兎!」

 透羽が水で玄兎の足を固定する。

 小毬が腰へ腕を回し、千燈は右腕を掴んだ。

 依澄は最初から握っていた手を離さない。

『外部器、回収』

「拒否!」

 玄兎が叫ぶ。

『人格完成』

「勝手に完成扱いするな!」

『基準達成』

「俺は明日も変わる!」

『外部器』

「鵺代玄兎です!」

 小毬が大声で割り込んだ。

「大学二年!」

 透羽も続ける。

「ブラックコーヒー!」

 千燈が言った。

「料理できます!」

 小毬が勢いよく続けた。

「明日も大学へ行きたい!」

 依澄が最後を引き取った。

 繭からの引力がさらに強くなる。

 五人まとめて前へ倒れそうになった。

「《水鏡》!」

 透羽が玄兎と繭の間へ水膜を張る。

 引力が一瞬だけ弱まる。

「左!」

 千燈が叫んだ。

 裂け目から黒い触手のような怪異が飛び出す。

 小毬が素早く反応し、横から蹴って軌道を逸らした。

「まだ来ます!」

「倒す?」

 玄兎が訊く。

「ここで大量浄化すると封印圧が変わります。分離だけ!」

「了解!」

 千燈は烏を一羽だけ呼び、上空から怪異の流れを見る。

「右側が薄い! そこから抜けられる!」

 依澄が《蝶境》を薄く広げた。

 現実へ別の夢景色を重ねると、黒い触手が進行方向を一瞬見失う。

「こっち」

 依澄が玄兎の手を引く。

 その隙に透羽が足の固定を解除し、五人は横へ走った。

 回収路から外れた瞬間、玄兎を引く力が弱まる。

 玄兎は膝へ手をつき、引きずられかけた足がまだ踏ん張れることを確かめた。息だけが切れていた。

「痣は?」

 透羽が訊く。

「熱い」

「見せてください」

 玄兎が襟元を少しずらす。

 黒い線は胸の中央まで広がっていた。

 ただし、その中心部だけが今までとは違う。円形の術式のような模様へ変化している。

「制御鍵です。人格境界が基準に達して、中央制御へつながれるようになったのだと思います」

 透羽が痣の変化を見た。

 その横で、依澄が自分の胸元を見る。

「私も」

 薄い服の上から、淡い白色の蝶のような模様が浮かんでいた。

「夢層側の鍵だと思います」

 千燈が二人を見比べる。

「黒と白。怪異と夢」

 小毬が言った。

「二人で一組なんですか」

「機能上は、そうかもしれません」

 玄兎は依澄を見る。

「この先も一緒に行ける?」

「怖いけど、玄兎と行く。玄兎は?」

「俺も怖い。だからこそ、一人にはなりたくない」

「じゃあ、五人で行こう」

 今度は五人全員で、繭の中心へ向かった。

     ◇

 中央制御は、繭の内側にあった。

 玄兎と依澄が同時に表面へ触れると、巨大な繭がゆっくり開く。

 内部には広大な空間があり、その中央へ白と黒の二つの球体が浮かんでいた。

 そこは機械の制御室というより、巨大な生き物の胸腔に見えた。天井から垂れた糸の束が一定の間隔で収縮し、二つの球体へ濁った光を送り込んでいる。足元の半透明な膜の下では、人影とも獣影ともつかないものが、眠ったままゆっくり寝返りを打っていた。

 一歩進むたび、膜の奥から手のひらが押し当てられる。指は玄兎たちの足跡をなぞるようについてきた。振り向くと止まり、前を向けばまた湿った擦過音を立てて追ってくる。

 呼吸をするたび、胸へ入る空気には知らない誰かの最後の言葉が混じった。

『寒い』

『まだ帰りたくない』

『忘れないで』

 声は肺の内側から聞こえた。玄兎が息を吐くと、今度は自分の口からその声が漏れそうになる。唇を噛んで堪えると、鉄の味に混じって、誰かが安堵する感情が流れ込んだ。

 ここへ蓄えられたものは、静かに保管されているのではない。今も出口を探し、触れられる身体を待っている。

 黒い球体には、怪異、恐怖、死者への執着、土地に染みついた異常な記憶や怨念が渦巻いている。

 白い球体には、夢、願い、叶わなかった未来、誰かへの祈りが光の流れとなって漂っていた。

 その二つの間から、人の輪郭に似た細い黒い光が伸びて玄兎の胸へ繋がる。

 もう一方の白い光は蝶の形を作りながら依澄へ繋がっていた。

「これが……」

 玄兎は自分の胸と黒い球体を見比べた。

「俺と依澄?」

 透羽の端末へ大量の情報が流れ込む。

「黒い方が怪異層、白い方が夢層です」

 透羽は、二つへ分かれた端末の表示を五人に見せた。

「二十年前に両方壊れた?」

 玄兎が言った。

「はい。大規模破断で両方が外へ漏れています」

「玄兎という人間の中に、怪異層から漏れた多数の断片が保持されています。玄兎自身と、それらは同一ではありません」

 透羽ははっきり言った。

 玄兎は少し息を吐いた。

「依澄は?」

 本人が訊く。

「夢層から漏れた願いや未完の夢が集まり、自我を形成した存在。D-02という観測名が付けられた」

 依澄は黒い球体と白い球体を見比べる。

「玄兎も願う。私も、怖い」

 依澄は二人の繋がる光を見た。

 中央へ文字が浮かんだ。

『外部器:怪異層境界鍵』
『D-02:夢層境界鍵』
『再統合可能』

「再統合って?」

 玄兎が訊く。

 透羽が表示を読む。

「二人を中央へ戻すことです」

「それは却下。俺は中央へ戻らない」

 玄兎は一秒も迷わなかった。

「私も」

 依澄も即答する。

 すると表示が切り替わった。

『分散固定案』
『中央負荷を複数拠点へ再配分』
『外部器保持断片を解放・再配置』
『夢層個体の現実定着維持可能』
『必要条件:現実側識別者三以上』
『必要条件:外部器人格境界維持』
『必要条件:D-02自我維持』

「ある!」

 小毬が声を上げる。

「理論上は、玄兎から怪異断片を解放し、複数拠点へ再配分できます。依澄さんも現実へ定着したまま維持できる」

 透羽が条件を読む。

「やろう」

 小毬がすぐに言う。

「待って」

 千燈が止めた。

「こういうのは絶対、続きがある」

 表示は無情に次の警告を出した。

『警告』
『現行百獣繭、破損率六十三%』
『分散固定実行時、中央拘束力一時消失』
『内部怪異・夢像、大規模流出予測』

 全員が黙った。

「市内に全部出る?」

 玄兎が訊く。

「全部ではないと思います。ただ、大規模流出は避けられません」

「規模は、予測不能です」

 千燈が低い声で言う。

「今やったら、市全体が怪異と夢でかなり危ないことになる」

「じゃあ今はできない」

「でも回収工程は?」

 小毬が透羽を見る。

「回収だけを保留する項目があります」

 透羽が別の表示を開く。

『外部器回収工程:手動保留』
『猶予:中央拘束力維持限界まで』

「二つの鍵が揃っているので、使えます」

「どれくらい止められる?」

 表示が切り替わる。透羽が数値を確認し、短く告げた。

「今の状態なら最大七日です。ただし、決まった期限ではありません。破損率や中央への負荷が変われば、見積もりも変わります」

「保留して、その間に分散固定の準備」

 玄兎が言った。

「街への流出を抑える方法も探す」

 透羽が答えた。

「市内の封印点を先に使える状態へ直すとか?」

 千燈が言った。

「可能性があります」

 小毬が二人を見た。玄兎と依澄は頷き合う。

 二人は同時に制御鍵へ触れた。

『回収工程を手動保留』
『確認』

「本人として、拒否を継続します」

 玄兎が言う。

「私も」

 依澄が答えた。

 確認表示が切り替わり、手動保留が確定した。

「止まったのは回収工程だけです。《百獣繭》そのものの破損と漏出は続いています」

 黒と白の光が一瞬だけ爆発するように広がり、五人は眩しさに目を閉じる。

 数秒後、中央制御には不気味なほどの静けさが戻った。

     ◇

 保留処理が終わったあと、中央制御の最深部へ別の記録が開いた。

 透羽が表示を確認する。

「二十年前の事故記録です」

 玄兎は少し緊張した。

『朽木ヶ丘中央封印破断』
『怪異層漏出率、危険域』
『夢層漏出率、危険域』
『外部器候補選定』

 次の行で、玄兎は息を止めた。

『候補:鵺代家新生児』
『理由:境界適合値最高』
『鵺代家、旧来より多層怪異封印の補助系統を保持』
『緊急措置として実施』

「鵺代家は、元から封印に関わってた?」

「少なくとも、一族の年長者の一部は補助系統として関わっていたようです」

 透羽が答える。

 玄兎は、少し間を置いてから尋ねた。

「じゃあ、親父と母さんも知ってたのかな」

「そこまでは、この記録からは言えません」

 透羽は画面上の『鵺代家』という文字を指先で示した。

「管理に関わる年長者が知っていた可能性は高いです。ただ、ご両親も同じ情報を知らされていたとは限りません」

「母さんたちは、専門の先生に診てもらうんだと思ってた」

 さらに下へ目を移す。

『保護者同意記録:欠損』

 玄兎はその一文を長く見た。

「じゃあ、親が同意したのかどうかも?」

「分かりません。少なくとも、現存する記録だけでは確認できません」

 玄兎は息を吐いた。生まれたばかりの自分には選べない。記録が欠けている以上、今ここで両親の意思まで決められなかった。

 その下に、鵺代家側の経過観察記録が一部だけ残っていた。

『幼児期説明記録』
『再構築現象の説明呼称として《還月》を使用』
『説明担当――鵺代家年長者』

 玄兎の目が止まった。

「小さい頃に、親戚から聞いてたんだ。《還月》って名前、自分でつけたんじゃなかった」

 玄兎は《還月》の文字を見つめた。

 誰に、いつ、どんな顔で教えられたのかは思い出せない。

「二十年前は選べませんでした。でも、今は選べます」

 透羽が言い、玄兎ははっきり頷いた。

 透羽が画面を閉じようとした時、その端に別の履歴項目が残っていることに気づいた。

「待ってください。外部器の再構築履歴が、まだあります」

 玄兎は顔を上げた。

「識別番号は、これまでの外部器記録と一致しています」

 透羽が項目を開く。それは病院や警察の事故記録ではなく、《百獣繭》の中央制御が外部器の状態変化を自動観測して残した内部履歴だった。

「……俺が知らないところで、ずっと記録されてたのか」

「少なくとも中央制御は、外部器としての状態変化を観測していたようです。ただし、詳細記録はかなり壊れています」

 画面の文字は一部が欠け、時刻欄も途中から読めなくなっていた。それでも、残っている行だけで玄兎の背筋が冷えた。

『外部器再構築反応履歴:複数』
『前年分保存記録:八月』
『再構築反応後、認知整合性低下を検出』
『欠損対象:特定不能』
『詳細時刻・事象記録:破損』

 玄兎は、すぐには何も言えなかった。

 去年の灯籠祭の写真が頭に浮かんだ。木崎と肩を組んで笑う自分がいる。けれど、その一日は思い出せない。

「……去年の灯籠祭」

 声に出すと、胸の奥が少し重くなった。

「俺、去年の八月十七日だけ丸ごと覚えてない。この反応と関係あるのかな」

 透羽は画面と玄兎を交互に見た。答えを急がず、読める範囲をもう一度確かめる。

「前年八月にも、『再構築反応』の直後に『認知整合性低下』が出ています。今回と近いです。ただ、中央制御の『再構築反応』は身体や封印系統の状態変化を記録したもので、実際に心肺停止していたとは限りません。《還月》だけが原因だとも、まだ断定できません」

 玄兎は頷いた。原因に近づいても、失った時間が返るわけではなかった。

「原因が分かれば、思い出せる気がしてた。でも、戻ってくるわけじゃないんだな」

 透羽は、慰める言葉を足さなかった。

 代わりに小毬が、玄兎の背負っているリュックへ視線を向ける。

「だから、ノートに残してきたんですよね」

 玄兎も共有ノートの入った場所を見る。

「そうだな。俺が覚えてなくても、なかったことにはならない」

 千燈が静かに続けた。

「写真も、木崎くんの記憶もある。その日がなかったことにはならないよ」

 依澄が玄兎の袖を軽く掴む。

「今は、なくさない」

「うん」

 玄兎は答えた。

「今ある方を、ちゃんと持って帰る」

 透羽は記録画面を保存した。

「これ以上は、証拠が見つかるまで保留します」

 玄兎は頷いた。

 依澄が次の記録へ目を向ける。

『夢層漏出個体、暫定観測D-02』
『外部器夢内への接触を確認』
『相互安定作用あり』
『長期観測へ移行』

「私も、事故のあとからいた」

「そうみたいだな」

 「長い」と依澄が呟いた。

「二十年も、ここにいたんだな」

「玄兎を待ったのは、もっとあと」

「六歳の俺と会ってからなら、十数年だな」

 依澄は玄兎を見る。

「戻ってきた。遅い」

「ごめん」

「許す」

 千燈と小毬が、少しだけ笑った。

 依澄は頷く。

「大学、好き」

「知ってる」

 ほんの少しだけ、空気が柔らかくなった。

 その直後、中央制御へ新しい警告が表示された。

『百獣繭拘束力、低下』
『夢層・怪異層境界、局所破断』

 玄兎が顔を上げた。

「保留は成功しています」

 透羽が地図を開く。

「でも、《百獣繭》自体の破損は止まっていません」

 市内地図へ赤い点が次々と増えていく。

「小規模な怪異と夢像の漏出点です」

「できるだけ早く、鷺宮家へ戻って準備します」

 透羽が言い、玄兎は頷いた。

 しかし、中央制御の表示はもう一度切り替わった。

『緊急安定化手段』

 五人が足を止める。

『選択肢A』
『外部器を完全器へ移行』
『怪異層を外部器へ集約』
『市街漏出を停止』
『外部器人格維持保証なし』

 玄兎の表情が固まった。

 続いて次の選択肢が表示される。

『選択肢B』
『D-02を夢層へ再統合』
『夢層を中央へ固定』
『封印寿命延長』
『D-02現実定着終了』

 依澄の目も止まった。

 中央制御室が静まり返る。

 小毬は、二つの表示を見比べた。

「どっちも、一人を使う」

 玄兎はAから目を離せなかった。市街の漏出を止める、とある。自分の人格が残る保証はない。

 依澄もBを見ていた。

「考えているなら、言ってください」

 透羽は玄兎を見ていた。

 画面を見ている間に、胸の痣がまた熱を持った。

 玄兎は画面から目を離さないまま答えた。

「俺一人で止まるなら、それもありなんじゃないかって、一瞬思った」

 小毬が何か言おうとする。

 玄兎はその前に続けた。

「でも、一人で決めない。約束したから」

 小毬は口を閉じ、それからしっかり頷いた。

「はい」

「依澄も同じだろ」

 玄兎が隣を見る。

 依澄は選択肢Bを見ていた。

「私が戻れば封印が長持ちする。それでいいって、少し思った」

「俺も同じだ。でも、嫌だ」

「私も。玄兎が器になるのは嫌」

 千燈は二択の画面から目を離した。

「第三の答えを探そう」

 透羽は中央制御の表示を保存した。

「分散固定を成立させます」

 透羽は、成功率の欄へ数字を入れず、分散固定の資料を呼び出した。

 依澄が中央制御を見上げた。

「嫌だと言っても、古い仕組みは二つの答えしか出さない。じゃあ、新しい仕組みにする」

 今度こそ、五人は地上へ戻ることにした。

     ◇

 外へ戻る道は、来た時より短かった。

 《百獣繭》が五人を吐き出すように出口へ押し戻したのかもしれない。

 中央管理口から旧八坂水路へ戻った時、時計は午前一時四十七分を示していた。

「三時間くらい?」

 玄兎が訊く。

「体感はもっと長かった」

 千燈が時計を見る。

「夢の中みたい」

 依澄が答える。

「半分はそうだった」

 小毬は水路へ戻るなり玄兎の匂いを確認した。

「今日の玄兎先輩です」

「よかった」

 小毬は言葉を探すように考え、続けた。

「でも、少し変わりました。前より、玄兎先輩の匂いが強いです」

「怪異が減った?」

「違います。怪異の匂いはまだいっぱいある。でも、その上にいる先輩が前より分かりやすい」

「人格境界値が上がった影響かもしれません」

 透羽が言う。

「完成って言われたけど」

 玄兎は少し顔をしかめた。

「俺はまだ変わる」

「明日も、変わる」

 依澄が頷く。

 五人は出口へ向かって水路を歩き始めた。

「俺が器で、依澄が夢層の個体。それは分かった。でも、それだけじゃない」

 玄兎がゆっくり歩きながら言う。依澄も頷いた。

「私は依澄。玄兎は玄兎」

 小毬が玄兎のリュックを指した。

「じゃあ、忘れないうちに書きましょう」

「それが早いね」

 千燈が言う。

 玄兎は共有ノートが入ったリュックを背負い直した。

 玄兎は足を止め、リュックへ手をかけた。

 玄兎はリュックから共有ノートを取り出し、立ったまま最初の一行を書いた。

『百獣繭の中で、俺は「明日も大学へ行きたい」と言った。』

 小毬が覗き込む。

「その下に、今日の結論も」

 千燈が言った。

 玄兎は少し考えてから続けた。

『緊急安定化二案は選ばない。分散固定を準備する。』

 依澄がその文字を見て、手を出す。

「私も書く」

 玄兎はペンを渡した。

『私は帰らない。』

 次に透羽が書く。

『前年八月の関連記録あり。因果は保留。』
『手動保留――最大七日。破損状況により短縮の可能性あり。』

 最後に小毬がペンを取った。

『群れは全員で帰ります。』

 玄兎はページを見下ろした。五人で決めたことが、短い言葉で残っていた。

「行こう」

 玄兎はノートを閉じた。

「今夜は、まず鷺宮家へ戻りましょう」

 透羽が出口の方を見ながら言う。

「中央で確認した記録と、私たちが選ばなかった二つの非常手段、それから分散固定の準備について報告します。そこまで終えたら、少しでも休んでください」

「透羽もね」

「分かっています」

 千燈が肩を回しながら、少しだけ笑った。

「で、朝になって《百獣繭》が持ちこたえてたら?」

「大学へ行けるなら行きたい」

 玄兎が答えると、小毬がすぐに頷いた。

「賛成です。ずっと地下と対策室だけだと、何を守ろうとしてるのか分からなくなりそうですし」

「学食も行く」

 依澄が付け加える。

 玄兎は小さく笑った。

 水路の出口へ近づくにつれて、湿った空気の向こうから夏の夜の匂いが混じり始める。鉄柵の隙間には、深夜の空が細長く見えていた。

 玄兎があと数歩で外へ出るというところで、透羽の端末が短く震えた。

 全員の足が止まる。

 透羽は画面を開き、表示された通知を読むうちに表情を引き締めた。

「鷺宮家の市内監視です。異常候補が三件。中央商店街、北側住宅地、それから川沿い」

「もう漏れてる?」

 玄兎が訊くと、透羽はすぐには答えなかった。数秒かけて添付された測定値へ目を通し、それから小さく頷く。

「断定はまだできません。でも、三地点とも夢層か怪異層の反応が平常値を越えています。さっき中央で見た警告と無関係とは考えにくいです」

 玄兎は閉じたばかりの共有ノートをリュックへ戻した。

「じゃあ予定変更。急いで戻ろう」

「はい。全員で確認します」

 五人は水路を出た。

     ◇

 その少し前。

 朽木ヶ丘市中心部の古い商店街では、一人の老人が閉店した店舗の前に立っていた。

 午前二時を過ぎ、ほとんどの店は明かりを落としている。通りかかったタクシー運転手は、老人が長いあいだ同じシャッターを見つめていることに気づき、心配になって車を止めた。

「お父さん、こんな時間に大丈夫ですか」

 老人は振り返り、閉じたシャッターを指差した。

「ここ、昔は魚屋だった」

「そうなんですか」

「俺の店だった」

 運転手は返事に迷い、古びた看板を見上げた。今は空き店舗らしく、シャッターの隙間にも光はない。

 老人がそこへ手を触れた、その瞬間だった。

 灰色のシャッターの輪郭が水面のように揺れ、閉じていたはずの店先へ、別の時間の景色が重なった。

 明るい裸電球。氷の上に並ぶ魚。値札の文字。昭和の頃らしい服装の客たち。その誰もが現在の商店街など存在しないかのように行き交っている。

 店の奥から、若い女の声がした。

「あなた、今日は鯖安いよ」

 老人の顔が崩れた。

「……母ちゃん」

 運転手は声を失った。

 老人は、もう戻らないはずの店先を見ながら泣き始めた。

「帰ってきた」

 ほぼ同じ時刻、北側の住宅街では、眠れずに窓の外を見ていた子供が母親を呼んでいた。

「お母さん。月が二つある」

「寝ぼけてるのよ」

 母親は笑いながらカーテンを開き、そのまま動きを止めた。

 夜空には、本当に月が二つ浮かんでいた。片方はいつもの月で、もう片方は輪郭がわずかに滲み、薄い水膜の向こうにあるように揺れている。

 その二つの月の間を、白い蝶の群れが横切った。

 子供が窓硝子へ手をつくと、蝶の一匹が外側から同じ位置へ翅を重ねる。硝子を隔てているはずなのに、指先へ生温かい脈のような感触が伝わった。

「お母さん。この蝶、僕の名前を知ってる」

 母親には声など聞こえなかった。ただ、空を漂っていた蝶が一斉に向きを変え、こちらを見たように感じた。

 さらに川沿いの遊歩道では、街灯の下へ黒い犬のような影が現れていた。

 最初は一匹だった。それが暗がりの奥で二つ、三つと増え、音も立てずに同じ方向を向く。

 犬たちは吠えない。口を閉じたまま、喉の奥で人の話し声に似た音だけを転がしている。やがて先頭の一匹が街灯の光へ踏み出すと、顔にあるはずの目も鼻も見えず、その場所には濡れた子供の手形のような模様が幾つも重なっていた。

 人のいない遊歩道で、その様子を見ていたのは監視カメラだけだった。

 数秒後、映像が大きく乱れる。

 復旧した最後の一コマには、直前まで何もいなかったカメラの真下から、黒い顔がレンズを覗き込む姿が残っていた。

 地下深くの《百獣繭》では、誰も見ていない表示板に新しい警告が重なる。

『中央拘束力、低下継続』
『夢層・怪異層漏出――複数地点で検出』

 五人が選んだ「明日」は、ただ待っていれば来るものではなくなっていた。

――第二十四話・了

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👥 登場人物紹介ネタバレを抑えた基本プロフィール
鵺代玄兎

CHARACTER 01

鵺代玄兎

ぬえしろ げんと

現実的で、妙な状況でもまず話を整理しようとする常識人寄りの青年。突然の怪異や騒動には戸惑いながらも、困っている相手を放っておけない。深刻な場面でも自然にツッコミが出るタイプ。

  • 物語の主人公
  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 常識人寄りのツッコミ役
俺が何者でも、困ってる人を置いていく理由にはならない。
鷺宮透羽

CHARACTER 02

鷺宮透羽

さぎみや とわ

冷静で生真面目。怪異への警戒心が強く、必要なことははっきり言う。危険な場面では自分が前に出ようとする、責任感の強い少女。

  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 鷺宮家の退魔師
  • 礼儀正しいがやや堅い
私が間に合う時は、あなたを死なせません。
緋鴉千燈

CHARACTER 03

緋鴉千燈

ひがらす ちとせ

余裕のある笑みを浮かべ、人をからかうのが上手な先輩。自然に距離を詰めてくる、つかみどころのない雰囲気を持つ。

  • 玄兎たちの先輩
  • 赤褐色の瞳
  • 人をからかうのが得意
秘密って、暴くより自分から話してもらう方が面白いよ。
白狼院小毬

CHARACTER 04

白狼院小毬

はくろういん こまり

明るく人懐っこい一年生。気になったことはすぐ口にし、匂いを確かめることに夢中になると相手との距離感まで忘れがち。

  • 朽木ヶ丘大学の一年生
  • 非常に鋭い嗅覚
  • 人懐っこく表情豊か
匂いは嘘をつきません。だから、何度でも見つけます!
蝶ヶ森依澄

CHARACTER 05

蝶ヶ森依澄

ちょうがもり いすみ

静かで穏やか、言葉数は少なめ。初対面からどこか不思議な印象を残し、感情表現は控えめだが答え方は率直。

  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 淡い青紫の瞳
  • 物静かでマイペース
今日が初めてなら、明日また会えばいい。

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