旧八坂水路の中央管理口を抜けてから、五人はずっと地下へ降り続けていた。
先頭を歩く透羽が、指先に小さな水球を浮かべている。淡い青白い光が濡れた石段を照らし、そのさらに先は暗闇へ沈んでいた。
階段そのものは古い。石の角は丸く削れ、壁には何度も補修された跡がある。
ただ、奇妙なのは距離だった。
「もう十分以上、降りてるよな」
玄兎が言った。
「はい。物理的にはかなり地下へ進んでいます」
透羽が答える。
「でも、同じ場所を歩いてる感じがする」
「距離認識への干渉です。水の流れは少しずつ変化しているので、同じ場所を循環しているわけではありません」
依澄が壁へ手を近づけた。
「夢も混ざってる」
「《蝶境》みたいな?」
「似てる。でも、私がやってない。ここ自体が、夢と現実を分けなくなってる」
玄兎は左胸へ手を当てた。
痣はずっと冷たい。
回収工程が始まった時のように無理やり身体を引かれる感覚はまだないが、下へ進むほど、胸の奥に「こっちで合っている」という気味の悪い確信が強くなっている。
「玄兎」
透羽が振り返る。
「体調を」
「息苦しさなし。痛みもない。記憶も大丈夫。痣は冷たい。あと、下へ行くほど自然な感じがする」
「自然?」
「上へ戻る方が間違ってるみたいに感じる」
透羽の表情が硬くなる。
「それは回収誘導の可能性があります」
「分かってる」
「だからこそ、違和感が強くなったら言ってください」
「うん」
小毬も玄兎のすぐ後ろから言った。
「匂いは私が見てます。先輩の匂いが埋もれたら、すぐ言います」
「頼む」
「はい」
千燈が最後尾から小さく笑った。
「みんなで玄兎くんの本人確認しながら地下迷宮って、なかなか珍しいね」
「先輩も確認される側だから」
「分かってるよ」
五人は再び歩き始めた。
しばらくすると、後ろから子供の笑い声が聞こえた。
玄兎は反射的に振り返ったが、そこには誰もいなかった。
それでも笑い声だけは、石段の奥から何人分も重なって聞こえてくる。
やがて、その幼い笑い声に五人の声が混じり始めた。
『玄兎、こっち』
依澄の声だった。だが、本物の依澄は玄兎の隣で息を詰めている。
『先輩、置いていかないでください』
次は小毬だった。甘えるような響きまで本人と同じなのに、声は足元の石の内側から聞こえた。千燈の笑い声、透羽の冷静な指示、そして玄兎自身の声までが順番に名を呼ぶ。
呼ばれるたび、振り返った記憶のない景色が頭へ差し込まれた。赤い鞠を追って階段を駆け下りたこと。暗がりで母親とはぐれ、泣きながら知らない手を握ったこと。水の底から、先に沈んだ友人を見上げたこと。どれも経験した覚えはないのに、膝には転んだ痛みが、喉には溺れた水の冷たさが残った。
もし何度も聞いているうちに、この声を本物だと思い始めたら。逆に、隣にいる四人の声を偽物だと疑い始めたら。
その想像が、暗闇そのものより恐ろしかった。
「小毬」
「聞こえます。三人……違う、もっといます」
「怪異?」
「匂いがありません」
依澄が目を閉じた。
「夢でもない」
「じゃあ何?」
「記憶」
その言葉と同時に、階段の壁へ次々と影が浮かび始めた。
制服姿の少女、杖をついた老人、泣きじゃくる子供、片足を引きずる犬、羽の欠けた鳥、顔のない人。さらに古い木造家屋や知らない道路、花に埋もれた葬式の景色まで重なっていく。
どれも玄兎自身の記憶にはない。
それなのに、見た瞬間、胸の奥へ感情だけが流れ込んできた。
恐怖、帰りたいという願い、悔しさ、寂しさ、忘れたくないという執着、許してほしいという後悔、誰かを傷つけたいほどの怒り。もう終わりにしたいという諦めと、それでもまだ終わりたくないという願いまで、互いに矛盾した感情が区別なく押し寄せてくる。
「っ……」
玄兎は手すりを強く掴んだ。
「玄兎!」
透羽がすぐに腕を支える。
「大丈夫ですか」
「今のは……たぶん、俺の中にあるやつ」
「怪異の記憶?」
千燈が近づいた。
「たぶん」
「自分と混ざってる?」
「感情だけ一気に来る。でも、まだ分かる。俺のじゃない」
「何を基準に?」
玄兎は少し考えた。
「今日の俺は、朝に味噌汁と卵食べた」
小毬が即座に頷く。
「合ってます」
「大学へ行って、みんなと合流した。小毬が朝から匂い確認した」
「しました」
「透羽が集合時間決めてないのに遅いって言った」
「普段の時間を基準にしただけです」
「千燈がそれを笑った」
「うん」
「依澄が、今日は夢に来なかったって言った」
「言った」
玄兎は四人を見る。
「それが今日の俺。今流れてきたのは、俺が体験した今日じゃない」
千燈が少しだけ目を細めた。
「ちゃんと分けられてる」
「今は」
「なら、そのままでいこう」
小毬も玄兎の肩口へ少し顔を近づけた。
「怪異の匂い、増えてます。でも一番外側に先輩の匂いがあります」
「一番外側?」
「はい。今日の先輩です」
「じゃあ、まだ大丈夫」
「まだじゃなくて、ちゃんと先輩です」
小毬が少し怒ったように言う。
玄兎はその言い方に笑った。
「分かった。ちゃんと俺」
「はい」
その時、暗闇の奥から一匹の白い蝶が飛んできた。
蝶は依澄の指先へ止まる。
依澄の肩が僅かに震えた。
「依澄?」
「来た」
「何が?」
「私の方」
次の瞬間、依澄の目が大きく見開かれた。
玄兎へ怪異の記憶が流れ込んだのと同じように、依澄の中へは無数の願いや夢が押し寄せているらしい。
「何が見える?」
玄兎が手を握る。
「たくさん」
「言える?」
「もう一回会いたい。謝りたい。子供の頃へ戻りたい。明日の学校、休みたい」
小毬が少しだけ笑いそうになる。
「それも願いなんですね」
「うん。本気なら」
依澄は続ける。
「宝くじ当たりたい。病気治ってほしい。死んだ人に会いたい。嫌われたくない。好きな人に好きって言ってほしい」
そこで依澄は一度、玄兎を見た。
「最後のは、私もある」
「混ざってる?」
「うん。でも分かる」
「どうやって?」
依澄は握っている手へ目を落とした。
「玄兎がいるから」
玄兎は少し笑った。
「俺と同じだ」
「うん」
玄兎へ集まる黒い気配と、依澄へ集まる白い光。
二人は違うものを受け取っている。
それでも、その流れは同じ地下深くへ向かっていた。
その後も階段は続いた。
途中から、五人のものではない足音が一つ増えた。
玄兎たちが止まれば、それも止まる。歩き出せば、同じ間隔を保って後ろから付いてくる。
「振り向かない方がよさそうですね」
透羽が前を向いたまま言った。
「見たらまずい?」
「この場所では、認識したものへ形を与える可能性があります」
千燈が苦笑する。
「怪談としては王道だね」
「笑ってる場合ですか」
「怖いから喋ってる」
千燈はあっさり認めた。
その言葉に、玄兎は少しだけ安心した。
千燈が恐怖を冗談だけで隠さなくなったことを、今の玄兎は知っている。
「私も怖いです」
小毬が続いた。
「後ろの匂い、玄兎先輩と少し似ています」
「俺?」
「先輩の中にある怪異の匂いだけを抜き出したみたいです」
「なら、なおさら振り向かない」
「はい」
依澄が玄兎の手を握ったまま言う。
「前を見る」
「うん」
十数段降りたところで、六つ目の足音はふっと消えた。
代わりに、透羽の前方で石段の表面が半透明になった。
石の下には暗い空洞ではなく、乳白色の膜が幾重にも詰まっている。筋肉の繊維にも、古い紙を重ねた断面にも見えた。膜の間には人や獣の身体が押し花のように薄く挟まれ、目だけを動かして五人を見上げている。
「本物?」
玄兎が訊く。
透羽は指先から一滴だけ水を飛ばした。
水滴は半透明の膜へ沈まず、普段と変わらない石段の上で弾けた。
「石段は本物です。見えている内部だけが、記憶か夢でしょう」
依澄が膜の中を見つめる。
「保存された身体の記憶」
膜の内側から何本もの手が押し当てられ、石段の表面へ手形を浮かべた。
実際には触れていない。それでも玄兎の足裏には、下から指を絡められた感覚が伝わる。
指先は死人のように冷たいものばかりではなかった。子供の小さな手、働き慣れた固い手、指輪をはめた手。中には、見覚えのある腕時計や、大学の購買で売っている細い髪留めをつけた手まである。
あり得ないと分かっているのに、その一本が透羽の手に見え、別の一本から小毬の匂いがした。膜は五人の特徴を読み取り、保存済みの身体へ貼りつけているらしい。
次の瞬間、膜の中にもう一人の玄兎が現れた。身体は紙より薄く、胸の内側には獣の影が黒い染みとして閉じ込められている。薄い玄兎は本物と同時に息を吸い、吐くたびに少しずつ厚みを増した。
その分だけ、本物の玄兎から身体の重さが失われていく。足が軽くなるのではない。骨、内臓、体温という「身体を持っている実感」が、膜の中の保存標本へ写し取られている。
玄兎が手を握ると、石の下の玄兎も一拍遅れて同じ動きをした。二度目には遅れがなくなり、三度目には向こうが先に拳を作る。
「っ……」
「先輩!」
小毬が玄兎の前へ出た。
「待って。実体はない」
「分かってても嫌です!」
透羽が《水鏡》を薄く広げ、石段の現実と内部へ重なった保存像を分離する。
「こちらが現実です。足元には石しかありません」
千燈も声をかけた。
「玄兎くん、私の声は?」
「聞こえる」
「透羽ちゃんの水は?」
玄兎の手首へ、透羽が一滴だけ本物の水を落とす。
「冷たい」
「それが現実です」
依澄が握った手へ少し力を入れた。
「これは?」
「依澄の手」
「小毬は?」
「前にいる」
「千燈は?」
「後ろ」
「透羽は?」
「隣」
依澄が頷く。
「じゃあ五人」
「うん」
玄兎がそう答えた瞬間、石段の内側に重なっていた膜と手形は消えた。
「五人の位置を確認すると、干渉が弱まります」
透羽が言う。
「人格固定因子の記録は、ここでも有効ですね」
「その呼び方、前より嫌いじゃなくなってきた」
玄兎が言う。
「監視対象よりはいいでしょう」
「かなり」
怖さそのものは消えない。
それでも、恐怖を感じるたびに誰がどこにいるかを確かめることで、五人は足元の現実を取り戻しながら進んだ。
◇
長く続いていた階段は、何の前触れもなく終わった。
五人の前に広がったのは、地下空間と呼ぶにはあまりにも大きな場所だった。
天井も壁も見えない。
足元から先には黒い水面が果てしなく続き、その中央へ巨大な何かが浮かんでいる。
「……あれが」
小毬が息を呑んだ。
そこに浮かんでいたのは、白とも黒とも呼べない巨大な繭だった。無数の色を持つ糸が絡み合い、一つの塊を作っている。
遠目には糸に見えたものも、目を凝らすほど別のものへ変わった。髪の毛、獣の腱、古い映写フィルム、血管、墨で書かれた文字の列。そのどれともつかない細いものが幾重にも絡み、巨大な皮膚を作っている。
繭は十数秒おきにゆっくり膨らみ、また縮んだ。そのたびに黒い水面へ低い振動が走る。床を伝った震えは五人の足裏から骨へ入り込み、心臓の鼓動を繭と同じ速さへ合わせようとした。
表面の一部が内側から押し上げられた。
人の顔ほどの膨らみが現れ、目と鼻らしき窪みを作る。口の位置が裂け、声にならない息を吐いたあと、顔は糸の中へ沈んだ。すぐ隣には犬の吻が、さらにその上には無数の指が浮かび、外側へ出ようと皮膜を掻き続ける。
爪が内側から擦れる音は、耳で聞くには小さいはずなのに、なぜか歯の根へ直接響いた。
空気には湿った土と古い血、それに病室や葬儀場を思わせる消毒薬と香の匂いが混じっている。小毬が鼻を押さえた理由を、玄兎にもようやく理解できた。ここには一つの死臭があるのではない。長い年月のあいだ忘れられなかった死が、互いに混ざらないまま詰め込まれている。
その表面には、建物や木、獣、人、蝶、文字、知らない顔、誰かの夢らしき景色が浮かんでは消えていく。
資料に描かれていた《百獣繭》とは、まるで違った。
あの図は、仕組みを説明するための単純な模式図だったのだ。
目の前にあるものは、封印装置という言葉だけでは足りない。
朽木ヶ丘市に積み重なった恐怖、願い、怪異、記憶、死者への執着、叶わなかった未来。
そうしたものを長い時間かけて溜め込み、眠らせ続けてきた場所そのものだった。
「匂いが……多すぎます」
小毬が鼻を押さえた。
「無理して全部嗅ぐな」
「閉じます。でも、先輩だけは追います」
「それでいい」
小毬は一度深呼吸し、嗅覚の範囲を絞る。
「います」
「俺?」
「はい。ちゃんと一番分かります」
「よかった」
千燈も繭を見上げていた。
「ここ、血の気配もすごい。死ぬ直前の感情とか、怪異になる直前の人の感情とか、触らなくても滲んでくる」
「《血読》使うなよ」
「今は使わない。使ったら私の方が戻れなくなりそう」
「それくらい?」
「それくらい」
依澄は、他の三人よりずっと静かだった。
「依澄」
玄兎が呼ぶ。
「うん」
「知ってる場所?」
「知ってる」
依澄の顔には懐かしさより、先に恐怖が浮かんでいた。
「帰ってきた感じがする」
玄兎は握っている手へ少し力を入れた。
「でも帰らないんだろ」
「うん」
「なら、それでいい」
依澄は巨大な繭を見た。
「ここは、私がいた場所」
透羽の端末が反応する。
『D-02、中央夢層へ接近』
『同期率上昇』
ほぼ同時に、玄兎の胸の痣が強く熱を持った。
『外部器、中央怪異層へ接近』
『内部保持断片、帰還反応』
「俺も帰ってきた扱いか」
「記録上は」
透羽が答える。
「でも、ここは俺の家じゃない」
玄兎ははっきり言った。
すると、巨大な繭の内部から無機質な声が響く。
『外部器』
「鵺代玄兎」
『D-02』
「蝶ヶ森依澄」
『固定因子』
小毬が眉を寄せる。
「私たちにも名前あります」
「はい。その分類は受け入れません」
透羽も続けた。
千燈は肩をすくめる。
「二十年前の機械に言っても仕方ないかもしれないけど、呼び方くらい更新してほしいね」
「名前、覚えて」
依澄が繭へ言った。
《百獣繭》は返事をしなかった。
代わりに黒い水面へ五本の細い道が浮かび、すべて中央の繭へ向かって伸びていく。
「罠っぽい」
玄兎が言う。
「おそらく罠です」
透羽は否定しなかった。
「でも、中央制御へ行くには進むしかありません」
「じゃあ行こう」
「はい」
小毬も頷く。
「群れで行きます」
「今更ここで帰れないし」
千燈が言った。
「一緒」
依澄が答えた。
五人は互いの位置を確認しながら、黒い水の上へ作られた道へ足を踏み出した。
道の両側では、ときどき何かが水面へ浮かび上がった。
古い人形、子供用の靴、壊れた携帯電話、錆びた鍵、白い花束。
どれも一瞬だけ姿を見せ、玄兎たちが意味を考える前に沈んでいく。
「全部、怪異の核?」
玄兎が訊く。
「違うと思います」
透羽は慎重に周囲を観察した。
「物に残った執着や記憶も混じっています」
千燈が沈んでいく携帯電話を見る。
「誰かから連絡が来るのをずっと待ってた、とか」
「ありそう」
「怪異になるほど強くなくても、ここには残るのかもしれないね」
依澄は白い花束を見つめた。
「願いもある」
「何が分かる?」
「もう一回、渡したかった」
「誰に?」
「分からない。でも渡せなかった」
玄兎は、花束が黒い水へ沈んでいくのを黙って見た。
《百獣繭》は悪意だけを集めた場所ではない。
誰かを思う優しい願いも、届かなかった言葉も、行き場を失えばここへ沈む。
それが長い時間をかけ、怪異や夢の材料になっていく。
「怪異だから全部消せばいい、じゃないんだな」
「はい」
透羽が答えた。
「ここにあるもの全てが、人を害したいという意思から生まれたわけではありません」
「でも、今のまま外へ出たら危ない」
小毬が言う。
「それも事実です」
千燈が巨大な繭を見た。
「眠らせて先送りするだけで二十年。もう限界が来たってことか」
「おそらく」
玄兎は自分の胸へ触れた。
「俺の中の断片も、分散固定なら外へ出すんだよな」
「はい。中央と玄兎へ集中している負荷を、市内の複数拠点へ再配置する構想です」
「俺は空になる?」
「分かりません」
透羽は正直に答えた。
「少なくとも、今と同じ状態ではなくなる可能性があります」
「《還月》も?」
「再構築機能が保持断片と結びついているなら、失う可能性があります」
玄兎は一瞬、黙った。
死んでも戻らない身体になる。以前なら、それを「普通になれる」と軽く考えたかもしれないが、今は違う。戻らない死が、はっきりと怖かった。
「玄兎」
依澄が呼ぶ。
「何?」
「怖い?」
「うん」
「私も。現実に残れなくなるの怖い」
「うん」
「一緒」
「そうだな」
千燈が二人を見て小さく笑った。
「怖いって言えるチーム、だいぶ健全になったね」
「最初が不健全すぎた?」
「かなり」
玄兎も笑った。
◇
繭へ近づくほど、周囲の景色は現実らしさを失っていった。
最初に見えたのは、講義棟、正門、学食が並ぶ朽木ヶ丘大学だった。見慣れた場所のはずなのに、その景色は一つの時代に固定されていない。
二十年前の古い校舎と現在の建物が重なり、その間には誰かが想像した未来の大学まで混ざっている。
「これも夢?」
玄兎が訊く。
「夢だけじゃない」
依澄が答える。
「土地の記憶もある」
透羽が端末の観測値を見る。
「《百獣繭》では、土地の記憶と人の夢が完全には別管理されていないようです」
景色が変わる。
次は八坂通りの商店街。
今ではシャッターが閉じた店の前を、昔の人々が買い物袋を持って歩いている。
さらに景色が切り替わると、護岸工事前の川が現れ、その遠くには現在の大学が建っていた。
「時間まで混ざってる」
千燈が言う。
「順番じゃなくて、場所で溜まってるのかも」
「可能性はあります」
透羽が答えた。
玄兎は歩きながら、自分の記憶とそうでない景色を一つずつ分けていた。
目の前の大学は知っているが、そこに重なる古い購買は知らない。八坂通りの商店街は歩いたことがあるが、この魚屋には覚えがない。
そんな確認を続けていると、一人の子供が道の中央へ立った。
六歳頃の玄兎だった。
「また来た」
子供は今の玄兎を見上げる。
「帰る?」
「帰らない」
「痛いよ」
「知ってる」
「死ぬよ」
「知ってる」
「忘れるよ」
玄兎は少しだけ息を止めた。
「それでも?」
子供が訊く。
玄兎はすぐには答えなかった。
怖い。死ぬのは嫌だし、記憶を失うのも嫌だ。痛いことだって、できるなら二度と経験したくない。
できるなら全部避けたい。
それでも、中央へ統合されて、何も感じないまま「安全」になることを望んでいるわけでもなかった。
「明日も大学へ行きたい」
玄兎は言った。
透羽が僅かに顔を上げる。
「学食で飯食いたい。みんなと話したい。俺が何を忘れるか怖いけど、それでも、まだ終わりたくない」
子供の玄兎が首を傾げた。
「怖いのに?」
「怖いから、終わりたくない」
「痛いのに?」
「痛くない方がいい」
「忘れるのに?」
「忘れたくない」
「じゃあ、どうするの」
玄兎は四人を見る。
「今は、明日が欲しい」
依澄が静かに玄兎を見つめた。
何か言いかけたが、言わない。
以前なら、「それは生きたいに近い」と口にしたかもしれない。
でも今回は、その言葉を玄兎自身が選ぶ時まで待つことにしたらしい。
子供の玄兎は少しだけ笑った。
「そっか」
幼い姿は、光の粒となって消えていった。
小毬が玄兎の袖を掴む。
「先輩」
「何?」
「今の、共有ノートに書いてください」
「自分で書く」
「絶対ですよ」
「うん」
千燈も笑った。
「忘れたら私たちが教える。でも、できれば忘れないでね」
「努力する」
透羽が玄兎を見る。
「そのためにも、戻ります」
「うん」
その時、《百獣繭》の奥から低い音が響いた。
『人格境界、最終基準達成』
『外部器人格、完成』
『回収工程、最終段階へ移行』
「今の会話で?」
玄兎が顔をしかめる。
「人格境界値が上昇した可能性があります」
透羽が答えた。
「完成って何ですか!」
小毬が本気で怒る。
「先輩は明日も変わるって言ってるのに!」
「同感」
千燈も繭を睨んだ。
次の瞬間、玄兎の身体が前へ引かれた。
「っ!」
自分の意思とは関係なく、足が繭の方へ踏み出す。
巨大な繭の表面が裂け、その内側へ底の見えない黒い空間が開いた。
裂け目の縁から何百本もの細い糸が飛び出し、玄兎の影へ突き刺さった。皮膚には触れていない。それなのに、身体の内側で何かが次々とほどけていく。
名前や年齢、大学までの通学路に、ブラックコーヒーの苦さ。さらに、透羽の手の温度、千燈の笑い方、小毬が怒った時に耳を伏せる癖、依澄が「ただいま」と言うまでに置くわずかな間までが、次々と引き出されていく。
大切さに順番をつけられるはずのない記憶が、古い標本の札のように分類されていく。これは外部器の機能に必要、これは不要、これは人格の雑音。自分の人生を、持ち主ではない何かに勝手に仕分けされる感覚だった。
不要と判定された記憶から色が抜けた。忘れたのではない。そこに感情だけが存在しなくなり、「知っている事実」へ変わっていく。その静かな喪失が、傷つけられる痛みよりも恐ろしい。
玄兎の右手が、本人の意思を無視して繭へ伸びた。
「放してください……俺の中から、勝手に持っていくな!」
叫んだ声さえ、最後の一音だけが裂け目へ吸い込まれ、何百人もの声になって返ってきた。
「玄兎!」
透羽が水で玄兎の足を固定する。
小毬が腰へ腕を回し、千燈は右腕を掴んだ。
依澄は最初から握っていた手を離さない。
『外部器、回収』
「拒否!」
玄兎が叫ぶ。
『人格完成』
「勝手に完成扱いするな!」
『基準達成』
「俺は明日も変わる!」
『外部器』
「鵺代玄兎です!」
小毬が大声で割り込んだ。
「大学二年!」
透羽も続ける。
「ブラックコーヒー!」
千燈が言った。
「料理できます!」
小毬が勢いよく続けた。
「明日も大学へ行きたい!」
依澄が最後を引き取った。
「最後それ俺の言葉!」
「玄兎の言葉だから」
「そうだけど!」
繭からの引力がさらに強くなる。
五人まとめて前へ倒れそうになった。
「《水鏡》!」
透羽が玄兎と繭の間へ水膜を張る。
引力が一瞬だけ弱まる。
「左!」
千燈が叫んだ。
裂け目から黒い触手のような怪異が飛び出す。
小毬が素早く反応し、横から蹴って軌道を逸らした。
「まだ来ます!」
「倒す?」
玄兎が訊く。
「ここで大量浄化すると封印圧が変わります。分離だけ!」
「了解!」
千燈は烏を一羽だけ呼び、上空から怪異の流れを見る。
「右側が薄い! そこから抜けられる!」
依澄が《蝶境》を薄く広げた。
現実へ別の夢景色を重ねると、黒い触手が進行方向を一瞬見失う。
「こっち」
依澄が玄兎の手を引く。
その隙に透羽が足の固定を解除し、五人は横へ走った。
回収路から外れた瞬間、玄兎を引く力が弱まる。
玄兎は息を切らしながら膝へ手をついた。
「明日も大学へ行きたいって言った直後に回収されるの、かなり納得いかない」
「皮肉としては完成度高いね」
千燈が笑う。
「笑うところ?」
「今は笑っとく」
小毬がすぐに玄兎の匂いを確認する。
「玄兎先輩です」
「ありがとう」
「痣は?」
透羽が訊く。
「熱い」
「見せてください」
玄兎が襟元を少しずらす。
黒い線は胸の中央まで広がっていた。
ただし、その中心部だけが今までとは違う。円形の術式のような模様へ変化している。
「これは……」
透羽が目を細めた。
「何?」
「制御鍵です」
「俺が鍵?」
「人格境界が基準へ達したことで、中央制御へ接続できる状態になったのだと思います」
その横で、依澄が自分の胸元を見る。
「私も」
薄い服の上から、淡い白色の蝶のような模様が浮かんでいた。
「依澄さんも?」
透羽が確認する。
「夢層側の鍵だと思います」
千燈が二人を見比べる。
「黒と白。怪異と夢」
小毬が言った。
「二人で一組なんですか」
「機能上は、そうかもしれません」
玄兎は依澄を見る。
「この先も一緒に行ける?」
「怖いけど、玄兎と行く。玄兎は?」
「俺も怖い。だからこそ、一人にはなりたくない」
「じゃあ、五人で行こう」
今度は五人全員で、繭の中心へ向かった。
◇
中央制御は、繭の内側にあった。
玄兎と依澄が同時に表面へ触れると、巨大な繭がゆっくり開く。
内部には広大な空間があり、その中央へ白と黒の二つの球体が浮かんでいた。
そこは機械の制御室というより、巨大な生き物の胸腔に見えた。天井から垂れた糸の束が一定の間隔で収縮し、二つの球体へ濁った光を送り込んでいる。足元の半透明な膜の下では、人影とも獣影ともつかないものが、眠ったままゆっくり寝返りを打っていた。
一歩進むたび、膜の奥から手のひらが押し当てられる。指は玄兎たちの足跡をなぞるようについてきた。振り向くと止まり、前を向けばまた湿った擦過音を立てて追ってくる。
呼吸をするたび、胸へ入る空気には知らない誰かの最後の言葉が混じった。
『寒い』
『まだ帰りたくない』
『忘れないで』
声は肺の内側から聞こえた。玄兎が息を吐くと、今度は自分の口からその声が漏れそうになる。唇を噛んで堪えると、鉄の味に混じって、誰かが安堵する感情が流れ込んだ。
ここへ蓄えられたものは、静かに保管されているのではない。今も出口を探し、触れられる身体を待っている。
黒い球体には、怪異、恐怖、死者への執着、土地に染みついた異常な記憶や怨念が渦巻いている。
白い球体には、夢、願い、叶わなかった未来、誰かへの祈りが光の流れとなって漂っていた。
その二つの間から、人の輪郭に似た細い黒い光が伸びて玄兎の胸へ繋がる。
もう一方の白い光は蝶の形を作りながら依澄へ繋がっていた。
「これが……」
玄兎は自分の胸と黒い球体を見比べた。
「俺と依澄?」
透羽の端末へ大量の情報が流れ込む。
「《百獣繭》は、もともと二つの主要層を持っています」
「怪異と夢?」
千燈が訊く。
「正確には、怪異層と夢層です。怪異層には恐怖、執着、死者への未練、土地の異常記憶。夢層には願い、未完の夢、叶わなかった未来、祈りが蓄積されています」
「二十年前に両方壊れた?」
玄兎が言った。
「はい。大規模破断で両方が外へ漏れています」
「それで俺と依澄」
「玄兎は怪異層側から漏れた多数の断片を保持する外部器」
「俺が怪異そのものってわけじゃない?」
「違います」
透羽ははっきり否定した。
「玄兎という人間の中に、怪異層から漏れた断片が保持されています。玄兎自身と、それらは同一ではありません」
玄兎は少し息を吐いた。
「依澄は?」
本人が訊く。
「夢層から漏れた願いや未完の夢が集まり、自我を形成した存在。D-02という観測名が付けられた」
「私」
「はい」
依澄は黒い球体と白い球体を見比べる。
「玄兎は怖いもの側」
「言い方」
「私は願う方」
「機能上はね」
依澄は玄兎を見る。
「でも玄兎も願う」
「うん」
「私も怖い」
「うん」
千燈が小さく笑った。
「やっぱり、役割と本人は別なんだよ」
透羽も頷く。
「それが重要です」
中央へ文字が浮かんだ。
『外部器:怪異層境界鍵』
『D-02:夢層境界鍵』
『再統合可能』
「再統合って?」
玄兎が訊く。
透羽が表示を読む。
「二人を中央へ戻すことです」
「それは却下。俺は中央へ戻らない」
玄兎は一秒も迷わなかった。
「私も」
依澄も即答する。
すると表示が切り替わった。
『分散固定案』
『中央負荷を複数拠点へ再配分』
『外部器保持断片を解放・再配置』
『夢層個体の現実定着維持可能』
『必要条件:現実側識別者三以上』
『必要条件:外部器人格境界維持』
『必要条件:D-02自我維持』
「ある!」
小毬が声を上げる。
「これなら誰も戻さなくていい?」
「理論上は」
透羽が答える。
「玄兎から怪異断片を解放し、市内の複数封印点へ再分配する。依澄さんも現実側に定着したまま維持できる」
「やろう」
小毬がすぐに言う。
「待って」
千燈が止めた。
「こういうのは絶対、続きがある」
表示は無情に次の警告を出した。
『警告』
『現行百獣繭、破損率六十三%』
『分散固定実行時、中央拘束力一時消失』
『内部怪異・夢像、大規模流出予測』
全員が黙った。
「市内に全部出る?」
玄兎が訊く。
「全部ではないと思います。ただ、大規模流出は避けられません」
「どれくらい?」
「予測不能です」
千燈が低い声で言う。
「今やったら、市全体が怪異と夢でかなり危ないことになる」
「じゃあ今はできない」
「でも回収工程は?」
小毬が透羽を見る。
「回収だけを保留する項目があります」
透羽が別の表示を開く。
『外部器回収工程:手動保留』
『猶予:中央拘束力維持限界まで』
「鍵が二つ揃っているから使える?」
「はい」
「どれくらい止められる?」
表示が切り替わる。
『初期推定維持限界:現時点で最大七日』
『算出条件:現在の破損率・中央拘束負荷』
『状態変化時:要再計算』
「一週間……持つってこと?」
玄兎が訊くと、透羽はすぐには頷かなかった。表示された三行を一つずつ確かめるように目で追ってから、慎重に口を開く。
「七日間が保証されたわけではありません。これは、今この瞬間の破損率と中央へかかっている負荷だけから算出した初期推定です」
「じゃあ、明日になったら変わる?」
「変わる可能性があります。市内の固定点を立て直して中央への負荷を減らせれば、持ちこたえられる時間が延びることもあります。逆に、漏出が増えたり破損が進んだりすれば、七日より早く限界へ達します」
透羽はそこで一度言葉を切り、全員を見る。
「ですから、『七日後が期限』と決めて動くのは危険です。観測値が変わるたびに計算し直して、その時点で使える時間を判断します」
昨日まで示されていた四十八時間よりは、少なくとも選択肢を探す余地が増えた。
けれど、カレンダーの七日後へ一本の線を引けば済む話ではない。今見えている「最大七日」は、あくまで最初の目安だ。応急処置が効けば数字は変わり、状況が悪化すれば容赦なく縮む。
玄兎はその意味を飲み込み、表示された数字ではなく、透羽の言葉の方を覚えておこうと思った。
「保留して、その間に分散固定の準備」
玄兎が言った。
「街への流出を抑える方法も探す」
透羽が答えた。
「市内の封印点を先に使える状態へ直すとか?」
千燈が言った。
「可能性があります」
「じゃあ」
小毬が玄兎と依澄を見る。
「今は保留です」
玄兎は依澄へ確認する。
「一緒に?」
「うん」
二人は同時に制御鍵へ触れた。
『回収工程を手動保留』
『確認』
「本人として、拒否を継続します」
玄兎が言う。
「私も」
依澄が答えた。
確認表示が切り替わり、手動保留が確定した。
黒と白の光が一瞬だけ爆発するように広がり、五人は眩しさに目を閉じる。
数秒後、中央制御には不気味なほどの静けさが戻った。
◇
保留処理が終わったあと、中央制御の最深部へ別の記録が開いた。
透羽が表示を確認する。
「二十年前の事故記録です」
玄兎は少し緊張した。
『朽木ヶ丘中央封印破断』
『怪異層漏出率、危険域』
『夢層漏出率、危険域』
『外部器候補選定』
次の行で、玄兎は息を止めた。
『候補:鵺代家新生児』
『理由:境界適合値最高』
『鵺代家、旧来より多層怪異封印の補助系統を保持』
『緊急措置として実施』
「鵺代家は、元から封印に関わってた?」
「少なくとも、一族の年長者の一部は補助系統として関わっていたようです」
透羽が答える。
玄兎は、少し間を置いてから尋ねた。
「じゃあ、親父と母さんも知ってたのかな」
「そこまでは、この記録からは言えません」
透羽は画面上の『鵺代家』という文字を指先で示した。
「ここで分かるのは、鵺代家の管理に関わる者が《百獣繭》との関係を知っていた可能性が高い、ということです。ご両親まで同じ情報を共有されていたとは限りません。以前、お母様から聞いた話では、出生直後の異変も年長の親族が『こちらで診てもらう』と引き取ったのでしたね」
「うん。母さんたちは、専門の先生に診てもらうんだと思ってた」
さらに下へ目を移す。
『保護者同意記録:欠損』
玄兎はその一文を長く見た。
「じゃあ、親が同意したのかどうかも?」
「分かりません。少なくとも、現存する記録だけでは確認できません」
「そっか」
玄兎は少しだけ息を吐いた。
生まれて間もない自分には、当然選べない。
鵺代家の年長者が決めたのか。両親にも説明したうえで進めたのか。それとも、緊急措置としてほとんど選択肢を与えられなかったのか。
記録が欠けている以上、今ここで両親の意思まで推測して決めることはできなかった。
「玄兎」
透羽が言う。
「二十年前の玄兎には選べませんでした」
「うん」
「でも、今は選べます」
玄兎は透羽を見る。
「うん」
その言葉だけは、はっきり受け取った。
透羽が画面を閉じようとした時、その端に別の履歴項目が残っていることに気づいた。
「待ってください。外部器の再構築履歴が、まだあります」
玄兎は顔を上げた。
「俺の?」
「識別番号は、今まで確認した外部器記録と一致しています」
透羽が項目を開く。それは病院や警察が残した事故記録ではなく、《百獣繭》の中央制御が外部器の状態を自動観測して残した内部履歴だった。
玄兎が生後間もなく外部器へ接続されて以来、中央側は痣や封印系統を通じて、器の状態が大きく崩れた時と、その後に修復反応が生じた時の変化を記録していたらしい。そこに事故現場の様子や医師の死亡確認が記されているわけではない。中央制御が一定の反応をまとめて『再構築』と分類しているだけで、その全てが実際の死亡後に起きたものかどうかまでは分からなかった。
「……俺が知らないところで、ずっと記録されてたのか」
「少なくとも中央制御は、外部器としての状態変化を観測していたようです。ただし、詳細記録はかなり壊れています」
画面の文字は一部が欠け、時刻欄も途中から読めなくなっていた。それでも、残っている行だけで玄兎の背筋が冷えた。
『外部器再構築反応履歴:複数』
『前年分保存記録:八月』
『再構築反応後、認知整合性低下を検出』
『欠損対象:特定不能』
『詳細時刻・事象記録:破損』
玄兎は、すぐには何も言えなかった。
前年八月。
頭に浮かんだのは、去年の灯籠祭の写真だった。木崎と肩を組んで笑っている自分。写真の中には確かに自分がいるのに、その一日だけを自分の記憶として辿れなかった。
「……去年の灯籠祭」
声に出すと、胸の奥が少し重くなった。
「俺、あの日だけ丸ごと覚えてない。この八月の反応と、関係あるのかな」
透羽は画面と玄兎を交互に見た。答えを急がず、読める範囲をもう一度確かめる。
「関連を疑う材料は増えました。ただ、この記録だけで灯籠祭の前後に玄兎が死亡したとは言えません」
「中央では『再構築反応』が出てるのに?」
「はい。先ほど確認した通り、中央制御の分類は身体や封印系統の状態変化に基づくものです。実際に心肺停止していたのか、重傷から修復されたのか、それとも別の異常から復元反応だけが起きたのかまでは残っていません」
透羽は画面をもう一度拡大した。
「分かるのは、前年八月に中央が『再構築反応』と分類した変化を記録し、その後に『認知整合性低下』を検出していることです。ただし、灯籠祭当日だったのか、その前後だったのかは分かりませんし、『認知整合性低下』が具体的にどの記憶を指すのかも欠けています」
玄兎は、地下封印から戻った日のことを思い返した。
あの時は、地下へ入る直前まで自分で思い出せていた昼食の記憶が、死亡と身体復元を挟んだあと、自力では辿れなくなっていた。前後関係までは確認できたが、《還月》そのものが記憶を失わせたとまでは断定していない。
今回見つかった古い内部記録は、その関連をさらに疑わせる材料ではある。
しかし、それでもまだ「再構築反応が記憶を消した」と証明したわけではなかった。
玄兎は静かに頷いた。
地下封印から戻ったあとの昼食の欠落と、去年の灯籠祭を思い出せないこと。ずっと別々の不安として残っていた二つの近くに、同じ種類の内部記録が置かれた。
ただし、線は最後までつながっていない。
写真に写る自分が、あの日何を見て、何を話し、どう笑ったのか。中央制御の記録は、その答えも、失った時間そのものも返してはくれなかった。
「原因が分かれば、思い出せるような気がしてた」
玄兎が小さく言う。
「でも、分かったかもしれないだけで、戻ってくるわけじゃないんだな」
「……はい」
透羽は慰めるための言葉を足さなかった。
代わりに小毬が、玄兎の背負っているリュックへ視線を向ける。
「だから、ノートに残してきたんですよね」
玄兎も共有ノートの入った場所を見る。
「そうだな。俺が覚えてなくても、なかったことにはならない」
千燈が静かに続けた。
「写真もあるし、木崎くんは覚えてる。玄兎くん自身の記憶とは違うけど、その日が存在した証拠は残ってる」
依澄が玄兎の袖を軽く掴む。
「今は、なくさない」
「うん」
玄兎は答えた。
「今ある方を、ちゃんと持って帰る」
それで失った一日が埋まるわけではない。それでも、分からない過去を追うために、今持っている時間まで軽く扱う理由にはならなかった。
透羽は記録画面を保存し、最後に注記を加えた。
『前年八月の再構築反応記録と灯籠祭の記憶欠損に関連の可能性あり。死亡の有無、発生時刻、欠損対象はいずれも確認不能。因果関係は断定せず。』
「これ以上は、証拠が見つかるまで保留します」
「うん。それでいい」
玄兎は素直に頷いた。
依澄が次の記録へ目を向ける。
『夢層漏出個体、暫定観測D-02』
『外部器夢内への接触を確認』
『相互安定作用あり』
『長期観測へ移行』
「私も、事故のあとからいた」
「そうみたいだな」
「長い」と依澄が呟いた。
「二十年も、ここにいたんだな」
「玄兎を待ったのは、もっとあと」
「六歳の俺と会ってからなら、十数年だな」
依澄は玄兎を見る。
「玄兎」
「何?」
「戻ってきた」
「うん」
「遅い」
「ごめん」
「許す」
千燈が小さく笑った。
「十数年越しの待ち合わせだね」
小毬も笑う。
「でも、大学で会えてよかったです」
「うん」
依澄は頷く。
「大学、好き」
「知ってる」
ほんの少しだけ、空気が柔らかくなった。
その直後、中央制御へ新しい警告が表示された。
『百獣繭拘束力、低下』
『夢層・怪異層境界、局所破断』
「もう?」
玄兎が顔を上げる。
「保留は成功しています」
透羽が地図を開く。
「でも、《百獣繭》自体の破損は止まっていません」
市内地図へ赤い点が次々と増えていく。
「これは?」
「漏出点です」
「小規模な怪異と夢像が、市内へ出始めています」
「一週間、待ってくれない?」
「封印は待ってくれません」
透羽の声は静かだった。
「できるだけ早く戻って準備する必要があります」
「じゃあ帰ろう」
「まず鷺宮家へ」
「現実的」
玄兎が少し笑う。
しかし、中央制御の表示はもう一度切り替わった。
『緊急安定化手段』
五人が足を止める。
『選択肢A』
『外部器を完全器へ移行』
『怪異層を外部器へ集約』
『市街漏出を停止』
『外部器人格維持保証なし』
玄兎の表情が固まった。
続いて次の選択肢が表示される。
『選択肢B』
『D-02を夢層へ再統合』
『夢層を中央へ固定』
『封印寿命延長』
『D-02現実定着終了』
依澄の目も止まった。
中央制御室が静まり返る。
最初に口を開いたのは千燈だった。
「なるほど」
「何が?」
玄兎が訊く。
「古い仕組みが好きそうな答え」
小毬の声が低くなる。
「どっちも一人を使う」
「選択しません」
透羽は即答した。
「私が戻れば」
依澄が言いかける。
「駄目」
玄兎は一秒も迷わなかった。
依澄が見る。
「まだ何も言ってない」
「何を考えたかは分かる」
「夢層が安定する」
「一人で決めない」
依澄は数秒黙った。
「約束」
「うん」
玄兎も画面を見る。
「俺が完全器になれば」
「玄兎」
透羽の声が強くなる。
「同じです」
「分かってる」
「本当に?」
「考えただけ」
「なら、そこから先を一人で決めないでください」
「うん」
千燈が言う。
「第三の答えを探す」
「五人で」
小毬が続けた。
「誰も夢へ戻さない」
依澄も頷く。
「誰も器にしない」
玄兎も続けた。
透羽が四人を見る。
「そのための分散固定です」
それでも、誰もすぐには歩き出せなかった。
玄兎は選択肢Aを見ていた。
自分が完全な器になれば、市街への怪異漏出を止められる。
人格が残る保証はない。
それでも、街は助かるかもしれない。
その事実だけを切り取れば、以前の玄兎なら答えは早かった。
「玄兎」
透羽が名前を呼ぶ。
「うん」
「今、考えていますね」
「考えてる」
「言ってください」
玄兎は画面から目を離さないまま答えた。
「俺一人で止まるなら、それもありなんじゃないかって、一瞬思った」
小毬が何か言おうとする。
玄兎はその前に続けた。
「でも、一人で決めない。約束したから」
小毬は口を閉じ、それからしっかり頷いた。
「はい」
「依澄も同じだろ」
玄兎が隣を見る。
依澄は選択肢Bを見ていた。
「うん」
「夢層へ戻れば、封印が長持ちする」
「うん」
「それでいいって思った?」
「少し」
「俺も同じ」
依澄が玄兎を見る。
「嫌?」
「嫌」
「私も、玄兎が器になるの嫌」
「じゃあ同じだな」
「うん」
千燈が腕を組んだ。
「二人とも、自分の方なら犠牲にしていいって考えやすいところが問題だね」
「刺さる」
玄兎が苦笑する。
「依澄ちゃんも」
「刺さる?」
「言葉が痛いって意味」
「痛い」
「でも必要」
透羽は中央制御の表示を保存した。
「この二案は非常時の安定化手段です。つまり古い封印設計では、最後には一人を使うことが安全策として残されている」
「二十年前から変わってない」
玄兎が言う。
「はい」
「なら、そこを変える」
「そのために分散固定を成立させます」
「成功する?」
小毬が訊く。
「成功させるための準備をします。ただ、今の段階で成功率を断言はできません」
「でもやる」
「はい」
千燈が少し笑った。
「透羽ちゃんらしい答え」
「俺も、その方が信用できる」
玄兎が言う。
「ありがとうございます」
依澄が中央制御を見上げた。
「古い仕組み」
「何?」
「私たちが嫌って言っても、まだ二つの答えを出してくる」
「そうだな」
「じゃあ、新しい仕組みにする」
玄兎はようやく画面から目を離した。
「うん」
今度こそ、五人は地上へ戻ることにした。
◇
外へ戻る道は、来た時より短かった。
《百獣繭》が五人を吐き出すように出口へ押し戻したのかもしれない。
中央管理口から旧八坂水路へ戻った時、時計は午前一時四十七分を示していた。
「三時間くらい?」
玄兎が訊く。
「体感はもっと長かった」
千燈が時計を見る。
「夢の中みたい」
依澄が答える。
「半分はそうだった」
小毬は水路へ戻るなり玄兎の匂いを確認した。
「今日の玄兎先輩です」
「よかった」
「でも、少し変わりました」
「何が?」
小毬は言葉を探すように考えた。
「前より、玄兎先輩の匂いが強いです」
「怪異が減った?」
「違います。怪異の匂いはまだいっぱいある。でも、その上にいる先輩が前より分かりやすい」
「人格境界値が上がった影響かもしれません」
透羽が言う。
「完成って言われたけど」
玄兎は少し顔をしかめた。
「俺はまだ変わる」
「うん」
依澄が頷く。
「明日も」
「うん」
「変わる」
「そのつもり」
五人は出口へ向かって水路を歩き始めた。
玄兎は歩きながら、今日分かったことを頭の中で並べ直していた。
自分は怪異そのものではない。二十年前、怪異層から漏れた多数の断片を保持するため、赤ん坊だった自分が緊急の外部器にされた。
依澄もまた、玄兎の夢の複製ではない。夢層に溜まった願いや未完の夢から自我を形作り、玄兎との接触をきっかけに現実側へ定着していった。二人は《百獣繭》の別々の層へ対応する存在ではあっても、その役割だけが本人のすべてではない。
それでも、それだけで今の二人を説明しきることはできない。
玄兎には大学で過ごした時間がある。
依澄には自分で選んだ名前がある。
透羽には家の使命だけではない感情があり、千燈は失う怖さを抱えたまま誰かを好きになり、小毬は血筋よりも自分で選んだ群れを大切にしている。
秘密を知ることは、誰かの正体を一言で決めることではなかった。
むしろ、何から始まったかを知ったからこそ、それだけでは今の自分は決まらないと分かった。
「玄兎」
透羽が呼ぶ。
「何?」
「歩く速度が落ちています」
「考え事してた」
「何を?」
「俺が器で、依澄が夢層の個体で。それでも今の俺たちは、それだけじゃないなって」
依澄が頷く。
「私は依澄」
「うん」
「玄兎は玄兎」
「うん」
小毬も続けた。
「千燈先輩は千燈先輩、透羽先輩は透羽先輩、私は小毬です」
「当たり前だけど、今は大事だね」
千燈が言う。
「たぶん、ここまでずっとそれを確認してきたんだと思う」
玄兎は共有ノートが入ったリュックを背負い直した。
「じゃあ、忘れる前に書く」
その先で玄兎が足を止める。
「何ですか?」
透羽が振り返る。
「共有ノート」
「今?」
「今」
玄兎はリュックから共有ノートを取り出し、立ったまま最初の一行を書いた。
『百獣繭の中で、俺は「明日も大学へ行きたい」と言った。』
小毬が覗き込む。
「書きましたね」
「書いた」
「その下も」
千燈が言う。
「今日の結論」
玄兎は少し考えてから続けた。
『玄兎を完全な器にする案は選ばない。』
『依澄を夢層へ戻す案も選ばない。』
『分散固定を準備する。』
『誰も一人で犠牲になると決めない。』
依澄がその文字を見て、手を出す。
「私も書く」
玄兎はペンを渡した。
『私は帰らない。』
『玄兎も器にしない。』
『五人で明日へ行く。』
次に透羽が書く。
『前年八月に、中央制御が再構築反応と認知整合性低下を記録。灯籠祭の記憶欠損との関連は疑われるが、死亡の有無、時刻、欠損対象、因果関係はいずれも未確定。』
『回収保留の初期推定維持限界は、現時点で最大七日。保証された期限ではない。』
『封印破損、漏出量、応急固定の効果を反映し、観測値が変わるたびに再計算する。』
『市内への漏出が始まっている。』
『五人の生存と市民保護を両立する方法を探す。』
千燈がその下へ書き足す。
『古い仕組みは一人を使いたがる。』
『私たちは使わせない。』
最後に小毬がペンを取った。
『群れは全員で帰ります。』
玄兎はページを見下ろした。
五人の字は、それぞれ違う。
それでも、書かれている結論は同じ方向を向いていた。
「行こう」
玄兎はノートを閉じた。
「今夜は、まず鷺宮家へ戻りましょう」
透羽が出口の方を見ながら言う。
「中央で確認した記録と、私たちが選ばなかった二つの非常手段、それから分散固定の準備について報告します。そこまで終えたら、少しでも休んでください」
「透羽もね」
「分かっています」
千燈が肩を回しながら、少しだけ笑った。
「で、朝になって《百獣繭》が持ちこたえてたら?」
「大学へ行けるなら行きたい」
玄兎が答えると、小毬がすぐに頷いた。
「賛成です。ずっと地下と対策室だけだと、何を守ろうとしてるのか分からなくなりそうですし」
「学食も行く」
依澄が付け加える。
「そこは大事なんだ」
「大事」
深夜の水路には似つかわしくない話だった。それでも玄兎には、そのやり取りが妙にありがたかった。
数時間前まで、自分か依澄のどちらかを仕組みの一部へ戻す話をしていた。そんな場所から出てきた直後に、明日の講義や学食のことを話せる。それは危機感がないのではなく、五人でそこへ戻ると決めたからこそ口にできる予定だった。
水路の出口へ近づくにつれて、湿った空気の向こうから夏の夜の匂いが混じり始める。鉄柵の隙間には、深夜の空が細長く見えていた。
玄兎があと数歩で外へ出るというところで、透羽の端末が短く震えた。
全員の足が止まる。
透羽は画面を開き、表示された通知を読むうちに表情を引き締めた。
「鷺宮家の市内監視です。異常候補が三件。中央商店街、北側住宅地、それから川沿い」
「もう漏れてる?」
玄兎が訊くと、透羽はすぐには答えなかった。数秒かけて添付された測定値へ目を通し、それから小さく頷く。
「断定はまだできません。でも、三地点とも夢層か怪異層の反応が平常値を越えています。さっき中央で見た警告と無関係とは考えにくいです」
さきほどまで見えていた明日の予定が消えたわけではない。ただ、その明日へたどり着くまでに、今夜やるべきことが増えた。
玄兎は閉じたばかりの共有ノートをリュックへ戻した。
「じゃあ予定変更。急いで戻ろう」
「はい。全員で確認します」
五人は水路を出た。
◇
その少し前。
朽木ヶ丘市中心部の古い商店街では、一人の老人が閉店した店舗の前に立っていた。
午前二時を過ぎ、ほとんどの店は明かりを落としている。通りかかったタクシー運転手は、老人が長いあいだ同じシャッターを見つめていることに気づき、心配になって車を止めた。
「お父さん、こんな時間に大丈夫ですか」
老人は振り返り、閉じたシャッターを指差した。
「ここ、昔は魚屋だった」
「そうなんですか」
「俺の店だった」
運転手は返事に迷い、古びた看板を見上げた。今は空き店舗らしく、シャッターの隙間にも光はない。
老人がそこへ手を触れた、その瞬間だった。
灰色のシャッターの輪郭が水面のように揺れ、閉じていたはずの店先へ、別の時間の景色が重なった。
明るい裸電球。氷の上に並ぶ魚。値札の文字。昭和の頃らしい服装の客たち。その誰もが現在の商店街など存在しないかのように行き交っている。
店の奥から、若い女の声がした。
「あなた、今日は鯖安いよ」
老人の顔が崩れた。
「……母ちゃん」
運転手は声を失った。
老人は、もう戻らないはずの店先を見ながら泣き始めた。
「帰ってきた」
ほぼ同じ時刻、北側の住宅街では、眠れずに窓の外を見ていた子供が母親を呼んでいた。
「お母さん。月が二つある」
「寝ぼけてるのよ」
母親は笑いながらカーテンを開き、そのまま動きを止めた。
夜空には、本当に月が二つ浮かんでいた。片方はいつもの月で、もう片方は輪郭がわずかに滲み、薄い水膜の向こうにあるように揺れている。
その二つの月の間を、白い蝶の群れが横切った。
子供が窓硝子へ手をつくと、蝶の一匹が外側から同じ位置へ翅を重ねる。硝子を隔てているはずなのに、指先へ生温かい脈のような感触が伝わった。
「お母さん。この蝶、僕の名前を知ってる」
母親には声など聞こえなかった。ただ、空を漂っていた蝶が一斉に向きを変え、こちらを見たように感じた。
さらに川沿いの遊歩道では、街灯の下へ黒い犬のような影が現れていた。
最初は一匹だった。それが暗がりの奥で二つ、三つと増え、音も立てずに同じ方向を向く。
犬たちは吠えない。口を閉じたまま、喉の奥で人の話し声に似た音だけを転がしている。やがて先頭の一匹が街灯の光へ踏み出すと、顔にあるはずの目も鼻も見えず、その場所には濡れた子供の手形のような模様が幾つも重なっていた。
人のいない遊歩道で、その様子を見ていたのは監視カメラだけだった。
数秒後、映像が大きく乱れる。
復旧した最後の一コマには、直前まで何もいなかったカメラの真下から、黒い顔がレンズを覗き込む姿が残っていた。
それぞれの異常は、まだ市全体を覆うほど大きくはない。けれど、離れた三つの場所でほぼ同時に起きたという事実が、偶然では済まないことを示していた。
地下深くの《百獣繭》では、誰も見ていない表示板に新しい警告が重なる。
『中央拘束力、低下継続』
『夢層・怪異層漏出――複数地点で検出』
五人が選んだ「明日」は、ただ待っていれば来るものではなくなっていた。
――第二十四話・了