翌朝、鵺代玄兎は七時ちょうどに小毬からの電話で起こされた。
「先輩、生きてますか!」
目覚めて最初に聞くには、ずいぶん物騒な挨拶だった。
「生きてる。今起きた」
電話越しに、小毬が本気で息を吐いたのが分かった。
回収を拒否した以上、中央制御へ入り、分散固定へ切り替える必要がある。最短四十八時間の猶予を、五人は昨夜確かめた。
「小毬。何時から起きてた?」
「五時半です!」
「電話くれて助かった。匂いは、会ってからで頼む」
玄兎は起き上がり、洗面所の鏡で左鎖骨の下を確認した。
黒い痣から伸びる細い線は、昨日より二本増えている。胸の冷たさは少し弱まっているものの、異常そのものが消えたわけではない。
指で触れても、皮膚そのものは普段と変わらない温度だった。冷たいのはもっと内側だ。胸骨の裏に細い氷を差し込まれ、それが呼吸に合わせてゆっくり形を変えているような感覚がある。
写真を五人のグループチャットへ送ると、透羽からすぐに「横方向への伸長を確認」と返り、千燈からは「朝から嫌な観察日記だね」と来た。
最後に依澄。
『玄兎。今日は夢に来なかった。』
少し安心した直後、もう一通届く。
『でも、夢の方が近い。』
通話を切る前、小毬の声が少しだけ低くなった。
「先輩。今日は絶対、一人にならないでください」
「うん。分かった」
朝食は、ご飯と味噌汁と卵焼きにした。食べ終えると、玄兎はいつも通り食器を洗ってから家を出た。
◇
大学へ着くと、正門前には四人とも揃っていた。
「全員早い」
「あなたが遅いんです」
透羽が即答する。
「集合時間、決めてないけど」
「普段なら八時十五分前後には来ます」
「生活習慣まで読まれてる」
「人格固定支援です」
千燈が小さく笑った。
小毬は玄兎の肩口へ顔を寄せていた。
「先輩自身はいつもの匂いです。帰巣標識は昨日より少し強いけど……」
小毬は途中で止まり、透羽へ近づく。次に千燈、依澄、自分の腕まで確認したところで、表情が硬くなった。
「全員にあります。帰巣標識に似た匂い」
「昨日まではなかったのに」
透羽が端末を開く。昨夜二十三時四十分、《百獣繭》は市内四か所の旧封印点を同時に起動していた。
画面へ新しい警告が重なる。
『固定因子識別開始』
『外部器周辺・人格固定因子四名を確認』
『回収阻害要因として処理対象へ移行』
その直後だった。
透羽の靴の周囲へ、何もない舗装路から水が広がる。千燈の足元には血ではない赤い染みが浮かび、小毬の周囲では白い獣毛が舞い始めた。依澄の背後には白い蝶が集まり、その向こうへ夢の景色が扉のように開いていく。
水面には玄兎のいない透羽だけが映り、赤い染みからは知らない誰かの泣き声が滲んだ。白い毛は小毬の身体から外側へ引き抜かれるように舞い、夢の扉の向こうでは依澄が一人、誰もいない図書館の椅子へ座っている。
四人とも身体を傷つけられてはいない。なのに、「玄兎と出会わなかった形」へ戻されようとしているのだと、見ただけで分かった。
「全員、玄兎から離れてください!」
透羽が叫んだ。
玄兎から一歩離れた瞬間、足元の水面に映る透羽の姿から、玄兎と過ごした時間だけが薄くなった。学食の席が一つ消え、並んで歩いた帰り道から隣の影が抜け落ちる。
透羽はそれを一秒見た。
「……違う」
次の一歩は、玄兎の方だった。薄い《水鏡》を五人の足元へ走らせ、広がる水をまとめて断つ。
赤い染みが千燈の靴を過去へ引いた。知らない誰かの泣き声に混じって、もう聞けないはずの声が幾つも名を呼ぶ。千燈は一瞬だけそちらへ顔を向けたあと、玄兎の手首を取った。
「脈、ある」
白い獣毛が小毬の周囲を逆巻く。彼女は鼻を押さえかけ、すぐに手を下ろした。数歩離れた玄兎へまっすぐ近づき、袖を掴む。
「匂い、まだ分かります」
依澄の背後では、白い蝶の向こうに誰もいない図書館が開いていた。
依澄は一度だけ振り返る。
椅子は空いている。机の上には、玄兎だけを待っていればよかった頃の本が開かれていた。
依澄は扉へ手を伸ばし――そのまま掌を返して閉じた。白い蝶が潰れるように散り、彼女は何も言わず小毬の隣へ戻る。
四つの異変が、同時に勢いを失った。
玄兎はようやく息を吐く。
しかし、透羽の端末から警告は消えない。
『固定因子処理、一時失敗』
『個別処理へ移行』
五人の表情が同時に変わった。
◇
一限は休み、五人は図書館の個室型学習スペースへ移った。
透羽が地図へ示したのは四か所。旧水道塔、旧八坂通りの廃献血所、西山の旧獣道封印、旧認知環境研究室の夢層観測点だった。
水は透羽、血は千燈、獣道は小毬、夢層は依澄を狙っている。
「能力に合わせて選んでる?」
玄兎が訊くと、透羽は首を横へ振った。
「逆です。私たちが『自分だ』と思っている部分を使って、玄兎との関係だけを切りやすい場所を選んでいるんです」
「行かなかったら?」
「行かなくても、離れたまま処理が進むかもしれません」
「なら、行くしかない。全員で」
四人が頷いた、その時、千燈のスマートフォンが震えた。
知らない番号だった。
それなのに着信音を聞いた瞬間、千燈の顔から笑みが消えた。
「……出る」
通話の向こうはしばらく無音だった。
やがて、年を重ねた男の声が聞こえる。
『千燈』
スマートフォンを持つ手が僅かに震えた。
『まだ生きているのか。帰ってこい』
「……兄さん?」
通話は、それだけで切れた。
玄兎は初めて聞いた事実に目を見開く。
「兄さんって」
「百年以上前の人。私より先に老いて、死んだ」
千燈は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
透羽が地図を見る。
「最初に起動したのは廃献血所です」
「私からか」
千燈は暗くなった画面を握り直した。
「昔の関係を使って、今の関係を切るつもりなんだね」
「一人では行かせない」
玄兎が言うと、千燈は少しだけ目を細めた。
「言うと思った。じゃあ、一人で昔へ戻らないために一緒に来て」
「うん」
◇
旧八坂通りの廃献血所は、商店街の外れに残る古い建物だった。色褪せた赤い十字の向こうは、昼間なのに薄暗い。
中へ入るまでの間、千燈は兄のことを少しだけ話した。
真面目で、人間と深く関わることを嫌い、「どうせ先に死なれる」と妹にも繰り返した人。それなのに最後には人間の妻と暮らしたという。
千燈は笑ったが、採血室の前で足を止めた時には、その笑みも消えていた。
奥の椅子に、一人の男が座っている。
千燈に似た赤い目。腕から伸びる透明な管の中を流れているのは血ではなく、古い写真や手紙の断片だった。千燈が一歩近づくたび、男の顔は若者から老人へ変わり、最後には彼女が看取った時の年齢で止まる。
壁の時計も、その死の時刻から一秒も進んでいなかった。
「兄さん」
千燈の足が半歩動く。
「本物?」
玄兎が訊くと、千燈は途中で止まった。
「違う。血がない」
『帰ってこい』
男が手を差し出す。
その背後で採血室の壁が古い家へ変わった。兄がまだ若かった頃の食卓。千燈が人間の友人を作る前、誰かの死を恐れる必要もなかった時間。湯気の立つ茶と、途中まで読んだ新聞まで記憶のまま置かれている。
『疲れただろう』
千燈の指が僅かに動いた。
玄兎は呼び止めなかった。
男の足元へ、一枚の写真が滑ってくる。幼い兄妹が並んだ古い写真だった。
千燈はそれを拾った。
紙の縁を親指でなぞる。兄の顔を長く見たあと、写真を胸元へ抱えたまま、差し出された手の前まで歩く。
『戻れば、もう失わない』
千燈の手が上がった。
指先が触れる寸前、背後で玄兎が小さく咳をした。
千燈の目だけが動く。
玄兎の胸元。そこにあるはずの呼吸。
千燈は兄の手ではなく、写真をもう一度見た。
「……持っていく」
そう言って、幻の写真を胸へ押し当てる。
次の瞬間には男へ背を向け、玄兎のところまで戻ってきた。いつものように手首を取る。指先が脈を探し、見つける。
「脈、少し遅い」
「普通だと思うけど」
「じゃあいい」
男が後ろからもう一度呼ぶ。
『千燈』
千燈は振り返らなかった。
握っていた写真だけが赤い光になって指の間からこぼれた。それを追おうとはせず、玄兎の手首を離して前を向く。
「次、行こう」
『固定因子一、分離失敗』
採血室の赤い光が消え、時計の秒針が一つだけ先へ進んだ。
千燈は出口へ向かいかけ、二歩目で振り返った。
「さっき、止めなかったね」
「千燈先輩が決めるところだと思ったから」
千燈は一瞬目を細めた。
「……うん。それでいい」
今度の笑い方は、冗談で逃げる時のものではなかった。
◇
二つ目は小毬だった。
『固定因子二 対象:白狼院小毬 旧西山獣道封印』
車で西山へ向かう途中、小毬は窓の外を見たまま何度も鼻を鳴らしていた。玄兎が声をかけても「大丈夫です」とだけ返し、そのたびに耳が僅かに伏せる。
旧西山獣道封印は、湿った木と土の匂いに満ちていた。
森へ入った途端、人にも狼にもなり切れていない白い影が木々の間を走った。人の腕を四本使うもの、幼い子供の顔を持つもの、口の奥にさらに小さな狼の顔を抱えたもの。どれも小毬とよく似た匂いをまとっている。
「私の匂いばっかりです」
小毬は鼻を押さえた。
遠吠えが重なる。
『戻れ』
『血の群れへ』
声が響くたび、小毬の爪が少しずつ伸びた。膝が低く沈み、足の運びまで四つ足の獣に近づいていく。
森の奥に、大きな白い狼が現れた。
その背後には同じ匂いが何十、何百と続いている。迷う必要のない道だった。鼻が示す一番強い匂いだけを辿れば、そこへ行ける。
小毬が一歩進む。
玄兎は呼ばなかった。
二歩目。
白い狼が尾を上げる。
その時、風向きが変わった。
強い血の匂いの隙間を縫って、四つの弱い匂いが届く。
水の湿り気。古い血とコーヒー。夢の白い花。それから、何度嗅いでも説明しきれない玄兎の匂い。
小毬の耳が後ろへ向いた。
『戻れ』
白い狼がもう一度呼ぶ。
小毬は森の奥ではなく、肩越しに振り返った。
玄兎たちは何も言わず、その場にいる。
小毬は鼻を一度強く鳴らした。
次の瞬間、白い狼へ向けていた身体を反転させた。土を蹴り、四人のところまで一気に戻る。勢いのまま玄兎の袖を掴み、反対の手で透羽の腕を取った。
「こっちです」
「私が分かる方へ」
小毬は四人を引いて、白い狼とは別の細い獣道へ入った。
そこは匂いが薄い。人の足跡も混じり、狼だけなら選ばない道だった。
けれど小毬は迷わない。
倒木の前では先に跳び越え、すぐ振り返って依澄へ手を出す。ぬかるみでは千燈の靴が沈む前に腕を引く。玄兎が枝に引っかけた服を、爪で切らず指で丁寧に外す。
後ろから白い狼の遠吠えが追ってきた。
『混ざり物』
『不完全』
小毬は返事をしなかった。
ただ、玄兎の袖を掴んだ手を離さない。
やがて獣道の先へ古い石柱が見えた。小毬がそこへ四人を押し込むように通した瞬間、森を満たしていた白い影が一斉に光へ崩れる。
『固定因子二、分離失敗』
緊張が切れた小毬は、その場へ座り込んだ。
「大丈夫?」
「はい。でも少し疲れました」
「五分休もう」
「四分で」
小毬はまだ玄兎の袖を掴んでいることに気づき、少しだけ顔を赤くした。
それでも、離さなかった。
疲れていても笑える。その顔を確認してから、五人は次へ向かった。
◇
三つ目は透羽だった。
『固定因子三 対象:鷺宮透羽 朽木ヶ丘大学旧水道塔』
塔の内壁を、鷺宮家の旧式術式を帯びた水が細く流れていた。
一筋ごとの水面には、幼い透羽、修練中の透羽、初めて玄兎を監視した日の透羽が映る。家の役目から外れた記憶だけが、最初から存在しなかったように抜け落ちている。
水面の透羽たちは本物より一拍遅れて口を動かし、やがて同時になり、最後には本物より先に玄兎へ術具を構えた。
『任務へ戻れ』
『対象との私情を切断』
『判断純度を回復』
『鷺宮家継承者として復帰』
透羽の右手が、ほとんど反射で術具を取った。
構えも呼吸も完璧だった。
玄兎の喉元へ水の刃が伸びる。
小毬が動きかける。
「待って」
玄兎が止めた。
刃先は玄兎の皮膚から数センチで止まった。
水面には、昔の透羽が映っている。命令を受け、対象を封じ、結果を報告する。迷いの入り込む余地がない姿だった。
『執行』
命令が落ちる。
透羽の指が動く。
水刃が走った。
玄兎ではなく、その横を。
刃は塔の壁を這う旧式術式の水脈へ突き刺さった。玄兎と透羽の間を切ろうとしていた一本の流れが、逆に根元から断ち切られる。
『誤作動』
水面の透羽たちが一斉にこちらを見る。
透羽は答えず、もう一度術具を振った。
今度は《水鏡》を玄兎へ向けず、命令を運んでくる水路の間へ薄く差し込む。古い命令が鏡面で折れ、別方向へ流れた。
『対象との私情を切断』
同じ命令が繰り返される。
透羽は玄兎を一度だけ見る。
「動かないでください」
「うん」
それだけ確認すると、三本目の水路を切った。
壁一面の過去の透羽が揺れる。家の紋、修練場、命令書。どれも消さない。ただ、そこから玄兎へ伸びていた一本の指示系統だけを、透羽自身の手で外していく。
最後の一本が切れた瞬間、水面に現在の透羽が映った。
白と薄青の服。少し乱れた髪。術具の切っ先は玄兎ではなく、断ち切った水脈の方へ向いている。
『固定因子三、分離失敗』
塔を流れていた水が透明へ戻る。
透羽は術具を下ろした。
その直後、玄兎の襟元が水で濡れているのに気づき、無言でハンカチを押し当てる。
「ありがとう」
「少しだけ、動きましたね」
耳が少し赤い。
依澄が何か言いかけたが、千燈が肩を引いた。
透羽は何も説明せず、濡れた襟を拭き終えると次の場所の地図を開いた。
◇
最後は依澄だった。
『固定因子四 対象:D-02 旧認知環境研究室・夢層観測点』
何度も来た研究室なのに、今日は地下へ降りるほど現実へ夢が染み出していた。白い蝶が廊下を埋め、足元が一瞬だけ夢の図書館の床へ変わっては戻る。
依澄は玄兎へ手を差し出した。
「手」
玄兎が握る。
研究室の中央には、依澄の身体をぴたりと収める白い椅子が浮かんでいた。
その周囲には、名前を持たなかった頃の彼女に似た影が立っている。顔も服もなく、白い蝶だけで人の形を作ったものたちが、感情のない声を繰り返した。
『玄兎を待つ』
『玄兎を安定させる』
『それ以外は不要』
依澄が大学で覚えたものが、白い砂になって足元へ落ち始めた。
塩パン。講義室。学食の窓際。小毬の笑い声。千燈のブラックコーヒー。透羽に注意された帰り道。
砂が落ちるたび、依澄の視線は少しずつ玄兎だけへ狭まっていく。
最後には、握っている手だけを見ていた。
『玄兎が必要な依澄を選べ』
白い椅子が近づく。
椅子に座れば、玄兎を待つことだけは忘れない。玄兎に必要とされる形だけを残せる。
玄兎は口を開きかけた。
だが、何も言わず手の力を抜いた。
依澄の指がするりと離れる。
「玄兎?」
不安そうな声だった。
玄兎は手を差し出したまま、握り直さない。
白い椅子と、玄兎の手。
その二つしか見えなくなりかけたところで、後ろから小さな音がした。
「っ……」
小毬が膝をついた。
白い砂が足首へ絡み、名前を削るように皮膚の上を這っている。透羽が水を伸ばすより先に、依澄の顔がそちらを向いた。
『不要』
白い影が告げる。
『玄兎以外は不要』
依澄は白い椅子を見る。
次に玄兎を見る。
そして、玄兎の手を取らずに走った。
「小毬」
しゃがみ込み、両手で白い砂を払う。指先から蝶を出し、小毬の足首へ絡んだ夢だけを現実から剥がした。
「依澄先輩……」
「立てる?」
「はい」
依澄は小毬を引き起こす。
その間にも白い椅子は玄兎の背後で光り続けていた。
『役割へ復帰』
『外部器を安定させよ』
依澄は振り返る。
玄兎は何も言わない。
依澄は小毬の手を離さず、そのまま透羽と千燈のところまで戻った。四人の顔を一人ずつ見る。
最後に玄兎を見る。
「玄兎」
「うん」
依澄は今度は自分から手を差し出した。
玄兎が握る。
白い椅子に亀裂が入った。
『D-02』
『役割終了』
依澄は椅子ではなく、小毬の足元をもう一度確認した。
「痛くない?」
「大丈夫です」
それを聞いてから、ようやく玄兎の方へ戻る。
『固定因子四、分離失敗』
白い椅子も、人型の影も、砂も光へほどけた。
現実の研究室へ戻る。
依澄は握っていた玄兎の手を見下ろし、それから反対側の手で小毬の袖を軽く摘んだ。
「いる」
依澄は透羽、千燈、小毬を順番に見た。
「全員、いる」
◇
四か所すべての固定因子処理を止めた。
夕方、五人は大学の屋上でようやく足を止めた。小毬が自販機で買ってきた飲み物を配り、しばらく誰もまともに喋らなかった。
「疲れた」
玄兎が言うと、透羽も珍しく素直に頷いた。
「かなり」
「お腹すきました」
少し笑いかけたところで、透羽の端末が鳴った。
『固定因子処理、全件失敗』
『強制回収危険度、上昇』
『第三段階移行時刻を前倒し』
「第三段階まで、十二時間以内です」
その直後、大学の窓が下の階から順番に黒く染まった。
窓の中には、採血室で消えた千燈の兄、森の白い狼、幼い透羽、白い椅子に座る依澄が現れる。
中央の大きな窓だけには、玄兎のいない四人の日常が映っていた。
授業を受け、食事をし、笑う四人。席は四つしかなく、共有ノートにも玄兎の文字はない。
小毬は誰か別の男子へ楽しそうに話しかけ、千燈は見知らぬ相手の手首を取って笑っている。透羽は一人で端末を操作し、依澄は玄兎が座っていたはずの席へ鞄を置いた。
誰も泣かず、誰も玄兎を探していない。最初から五人ではなかったように自然だった。
玄兎の痣が熱を持つたび、窓の中から自分に関する痕跡が一つずつ消えていく。
「見ないでください」
透羽が玄兎の前へ立った。
「これは私たちの選択ではありません」
小毬が服を掴み、千燈が肩へ手を置く。依澄は何も言わず、先ほどまで繋いでいた手をもう一度握った。
四人分の重さと温度が、整いすぎた未来を押し返す。
やがて黒い窓へ亀裂が走り、夕焼けを映す普通の硝子へ戻った。
それでも痣の熱は引かない。
玄兎は四人を見る。
「《百獣繭》へ行きたい」
玄兎が言った。
千燈が缶コーヒーを額から離す。
「全部出したら、街が壊れるかもしれないよ」
「うん」
「怖い?」
「怖い」
千燈はしばらく玄兎を見てから、空になった缶をゴミ箱へ投げた。
「じゃあ準備しよう」
小毬はスマートフォンを開き、五人分の水と食べ物の準備にかかった。
依澄は玄兎の袖を摘んだまま、今夜の予定を確認している。透羽は返事より先に端末へ鷺宮家の装備一覧を呼び出していた。
玄兎は四人を見て、一度だけ息を整える。
「途中で、俺だけ回収されれば四人が助かるって状況になったら、たぶん一瞬そっちを選びたくなる」
透羽の指が端末の上で止まった。
「その時は止めて」
「はい。止めます」
玄兎が続ける前に、小毬が顔を上げる。
「先輩も、私たちが同じことしようとしたら止めてください」
「止める」
千燈が笑う。
「全員、同じ扱いってことね」
透羽はそれ以上ルールを言葉にせず、装備一覧の人数欄へ「5」と入力した。
そのまま、五人は今夜の準備に入った。
◇
玄兎は一度、自宅へ戻った。
まず洗濯物を取り込んだ。
こんな時に何をしているのかと自分でも思う。それでも、帰ってきた時に雨で濡れていたら嫌だから、一枚ずつ畳んだ。
冷蔵庫には卵が三個残っている。炊飯器のご飯は一食分ずつ包み、冷凍庫へ入れた。
玄兎は冷凍庫を閉じた。帰ってから、解凍すればいい。
リュックには水、タオル、スマートフォン、それから久住研究室の保管場所から持ち出してきた共有ノートを入れた。
ページを開けば、小毬の丸い字で「焼肉」と大きく書かれた日があり、千燈の細い字で余計な注釈が足され、透羽がその横へ事実関係を訂正している。依澄の文字は最初の頃より少しずつ安定していた。
玄兎はページを閉じ、共有ノートをリュックの底へ収めた。
最後に部屋を見回し、電気を消して、いつも通りに鍵を閉めた。
◇
午後十時三十分、鷺宮家本邸に五人が揃った。
透羽は白と薄青の退魔装束、千燈と小毬は動きやすい服、依澄はいつもの淡い色の服。玄兎だけは、普段と変わらない黒いパーカーだった。
「帰ってきたら、戦闘服も作りましょう」
小毬が言い、依澄も頷いた。
「私も、蝶の服がいい」
「帰ってから考えよう」
部屋の隅には護符、予備の術具、水筒、救急用品が並んでいる。遠足の準備のように見えなくもないが、静嶺の表情だけが、それほど気軽な場所へ行くのではないと教えていた。
玄兎はリュックの中の共有ノートを一度だけ確かめ、静嶺へ向き直った。
静嶺が最終状況を告げる。
「前倒しはさらに進んだ。第三段階まで、あと一時間二十二分だ」
入口は旧八坂水路の中央管理口。中央制御を書き換え、分散固定を成立させれば外部通路が開く。失敗すれば閉じ込められ、死ぬ可能性もある。
「一度入れば、玄兎と依澄は回収工程の中心へ引かれる。透羽、千燈、小毬は固定因子として切断対象になる」
「分かっています」
透羽が答えた。
小毬も迷わない。
「全員で戻ります」
出発前、依澄が玄兎へ手を差し出した。
「手」
「入口まで」
玄兎が握ると、小毬まですぐに手を上げた。
「私も!」
「俺、手二本しかないけど」
結局、玄兎の右手を依澄、左手を透羽が取り、透羽の反対側に小毬、その隣へ千燈が繋がった。
不格好な五人の輪ができ、玄兎は少し笑った。
「行こう」
移動のために手は離した。
互いの体調と術具だけを短く確かめた。
それでも五人の距離は、自然と近いままだった。
◇
旧八坂水路の最深部で、中央管理口の扉がゆっくり開いた。
その先には、暗闇へ向かって下りる長い階段が続いている。
さらに向こうから、《百獣繭》の声が五人を呼んだ。
『外部器』
『D-02』
『固定因子』
『回収開始』
玄兎の胸は冷たい。
怖さも、はっきりある。
それでも、もう逃げるつもりはなかった。
「本人として」
玄兎は暗い階段へ向かって言った。
「最後まで拒否します」
返事の代わりに、透羽が玄兎の隣へ出て小さな水球を灯した。
千燈は袖を一つ折り、指先を動かす。小毬は階段の闇へ鼻を向け、依澄は玄兎の手を一度だけ握ってから離した。
玄兎が一段目へ足を置く。
四つの足音が、すぐ後ろから続いた。
五人は並んで、暗い地下へ降りていった。
――第二十三話・了