第二章・全36話中 23話

第二十三話 四人を、俺から切り離そうとしている

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 翌朝、鵺代玄兎は七時ちょうどに小毬からの電話で起こされた。

「先輩、生きてますか!」

 目覚めて最初に聞くには、ずいぶん物騒な挨拶だった。

「生きてる。今起きた」

 電話越しに、小毬が本気で息を吐いたのが分かった。

 回収を拒否した以上、中央制御へ入り、分散固定へ切り替える必要がある。最短四十八時間の猶予を、五人は昨夜確かめた。

「小毬。何時から起きてた?」

「五時半です!」

「電話くれて助かった。匂いは、会ってからで頼む」

 玄兎は起き上がり、洗面所の鏡で左鎖骨の下を確認した。

 黒い痣から伸びる細い線は、昨日より二本増えている。胸の冷たさは少し弱まっているものの、異常そのものが消えたわけではない。

 指で触れても、皮膚そのものは普段と変わらない温度だった。冷たいのはもっと内側だ。胸骨の裏に細い氷を差し込まれ、それが呼吸に合わせてゆっくり形を変えているような感覚がある。

 写真を五人のグループチャットへ送ると、透羽からすぐに「横方向への伸長を確認」と返り、千燈からは「朝から嫌な観察日記だね」と来た。

 最後に依澄。

『玄兎。今日は夢に来なかった。』

 少し安心した直後、もう一通届く。

『でも、夢の方が近い。』

 通話を切る前、小毬の声が少しだけ低くなった。

「先輩。今日は絶対、一人にならないでください」

「うん。分かった」

 朝食は、ご飯と味噌汁と卵焼きにした。食べ終えると、玄兎はいつも通り食器を洗ってから家を出た。

     ◇

 大学へ着くと、正門前には四人とも揃っていた。

「全員早い」

「あなたが遅いんです」

 透羽が即答する。

「集合時間、決めてないけど」

「普段なら八時十五分前後には来ます」

「生活習慣まで読まれてる」

「人格固定支援です」

 千燈が小さく笑った。

 小毬は玄兎の肩口へ顔を寄せていた。

「先輩自身はいつもの匂いです。帰巣標識は昨日より少し強いけど……」

 小毬は途中で止まり、透羽へ近づく。次に千燈、依澄、自分の腕まで確認したところで、表情が硬くなった。

「全員にあります。帰巣標識に似た匂い」

「昨日まではなかったのに」

 透羽が端末を開く。昨夜二十三時四十分、《百獣繭》は市内四か所の旧封印点を同時に起動していた。

 画面へ新しい警告が重なる。

『固定因子識別開始』
『外部器周辺・人格固定因子四名を確認』
『回収阻害要因として処理対象へ移行』

 その直後だった。

 透羽の靴の周囲へ、何もない舗装路から水が広がる。千燈の足元には血ではない赤い染みが浮かび、小毬の周囲では白い獣毛が舞い始めた。依澄の背後には白い蝶が集まり、その向こうへ夢の景色が扉のように開いていく。

 水面には玄兎のいない透羽だけが映り、赤い染みからは知らない誰かの泣き声が滲んだ。白い毛は小毬の身体から外側へ引き抜かれるように舞い、夢の扉の向こうでは依澄が一人、誰もいない図書館の椅子へ座っている。

 四人とも身体を傷つけられてはいない。なのに、「玄兎と出会わなかった形」へ戻されようとしているのだと、見ただけで分かった。

「全員、玄兎から離れてください!」

 透羽が叫んだ。

 玄兎から一歩離れた瞬間、足元の水面に映る透羽の姿から、玄兎と過ごした時間だけが薄くなった。学食の席が一つ消え、並んで歩いた帰り道から隣の影が抜け落ちる。

 透羽はそれを一秒見た。

「……違う」

 次の一歩は、玄兎の方だった。薄い《水鏡》を五人の足元へ走らせ、広がる水をまとめて断つ。

 赤い染みが千燈の靴を過去へ引いた。知らない誰かの泣き声に混じって、もう聞けないはずの声が幾つも名を呼ぶ。千燈は一瞬だけそちらへ顔を向けたあと、玄兎の手首を取った。

「脈、ある」

 白い獣毛が小毬の周囲を逆巻く。彼女は鼻を押さえかけ、すぐに手を下ろした。数歩離れた玄兎へまっすぐ近づき、袖を掴む。

「匂い、まだ分かります」

 依澄の背後では、白い蝶の向こうに誰もいない図書館が開いていた。

 依澄は一度だけ振り返る。

 椅子は空いている。机の上には、玄兎だけを待っていればよかった頃の本が開かれていた。

 依澄は扉へ手を伸ばし――そのまま掌を返して閉じた。白い蝶が潰れるように散り、彼女は何も言わず小毬の隣へ戻る。

 四つの異変が、同時に勢いを失った。

 玄兎はようやく息を吐く。

 しかし、透羽の端末から警告は消えない。

『固定因子処理、一時失敗』
『個別処理へ移行』

 五人の表情が同時に変わった。

     ◇

 一限は休み、五人は図書館の個室型学習スペースへ移った。

 透羽が地図へ示したのは四か所。旧水道塔、旧八坂通りの廃献血所、西山の旧獣道封印、旧認知環境研究室の夢層観測点だった。

 水は透羽、血は千燈、獣道は小毬、夢層は依澄を狙っている。

「能力に合わせて選んでる?」

 玄兎が訊くと、透羽は首を横へ振った。

「逆です。私たちが『自分だ』と思っている部分を使って、玄兎との関係だけを切りやすい場所を選んでいるんです」

「行かなかったら?」

「行かなくても、離れたまま処理が進むかもしれません」

「なら、行くしかない。全員で」

 四人が頷いた、その時、千燈のスマートフォンが震えた。

 知らない番号だった。

 それなのに着信音を聞いた瞬間、千燈の顔から笑みが消えた。

「……出る」

 通話の向こうはしばらく無音だった。

 やがて、年を重ねた男の声が聞こえる。

『千燈』

 スマートフォンを持つ手が僅かに震えた。

『まだ生きているのか。帰ってこい』

「……兄さん?」

 通話は、それだけで切れた。

 玄兎は初めて聞いた事実に目を見開く。

「兄さんって」

「百年以上前の人。私より先に老いて、死んだ」

 千燈は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。

 透羽が地図を見る。

「最初に起動したのは廃献血所です」

「私からか」

 千燈は暗くなった画面を握り直した。

「昔の関係を使って、今の関係を切るつもりなんだね」

「一人では行かせない」

 玄兎が言うと、千燈は少しだけ目を細めた。

「言うと思った。じゃあ、一人で昔へ戻らないために一緒に来て」

「うん」

     ◇

 旧八坂通りの廃献血所は、商店街の外れに残る古い建物だった。色褪せた赤い十字の向こうは、昼間なのに薄暗い。

 中へ入るまでの間、千燈は兄のことを少しだけ話した。

 真面目で、人間と深く関わることを嫌い、「どうせ先に死なれる」と妹にも繰り返した人。それなのに最後には人間の妻と暮らしたという。

 千燈は笑ったが、採血室の前で足を止めた時には、その笑みも消えていた。

 奥の椅子に、一人の男が座っている。

 千燈に似た赤い目。腕から伸びる透明な管の中を流れているのは血ではなく、古い写真や手紙の断片だった。千燈が一歩近づくたび、男の顔は若者から老人へ変わり、最後には彼女が看取った時の年齢で止まる。

 壁の時計も、その死の時刻から一秒も進んでいなかった。

「兄さん」

 千燈の足が半歩動く。

「本物?」

 玄兎が訊くと、千燈は途中で止まった。

「違う。血がない」

『帰ってこい』

 男が手を差し出す。

 その背後で採血室の壁が古い家へ変わった。兄がまだ若かった頃の食卓。千燈が人間の友人を作る前、誰かの死を恐れる必要もなかった時間。湯気の立つ茶と、途中まで読んだ新聞まで記憶のまま置かれている。

『疲れただろう』

 千燈の指が僅かに動いた。

 玄兎は呼び止めなかった。

 男の足元へ、一枚の写真が滑ってくる。幼い兄妹が並んだ古い写真だった。

 千燈はそれを拾った。

 紙の縁を親指でなぞる。兄の顔を長く見たあと、写真を胸元へ抱えたまま、差し出された手の前まで歩く。

『戻れば、もう失わない』

 千燈の手が上がった。

 指先が触れる寸前、背後で玄兎が小さく咳をした。

 千燈の目だけが動く。

 玄兎の胸元。そこにあるはずの呼吸。

 千燈は兄の手ではなく、写真をもう一度見た。

「……持っていく」

 そう言って、幻の写真を胸へ押し当てる。

 次の瞬間には男へ背を向け、玄兎のところまで戻ってきた。いつものように手首を取る。指先が脈を探し、見つける。

「脈、少し遅い」

「普通だと思うけど」

「じゃあいい」

 男が後ろからもう一度呼ぶ。

『千燈』

 千燈は振り返らなかった。

 握っていた写真だけが赤い光になって指の間からこぼれた。それを追おうとはせず、玄兎の手首を離して前を向く。

「次、行こう」

『固定因子一、分離失敗』

 採血室の赤い光が消え、時計の秒針が一つだけ先へ進んだ。

 千燈は出口へ向かいかけ、二歩目で振り返った。

「さっき、止めなかったね」

「千燈先輩が決めるところだと思ったから」

 千燈は一瞬目を細めた。

「……うん。それでいい」

 今度の笑い方は、冗談で逃げる時のものではなかった。

     ◇

 二つ目は小毬だった。

『固定因子二 対象:白狼院小毬 旧西山獣道封印』

 車で西山へ向かう途中、小毬は窓の外を見たまま何度も鼻を鳴らしていた。玄兎が声をかけても「大丈夫です」とだけ返し、そのたびに耳が僅かに伏せる。

 旧西山獣道封印は、湿った木と土の匂いに満ちていた。

 森へ入った途端、人にも狼にもなり切れていない白い影が木々の間を走った。人の腕を四本使うもの、幼い子供の顔を持つもの、口の奥にさらに小さな狼の顔を抱えたもの。どれも小毬とよく似た匂いをまとっている。

「私の匂いばっかりです」

 小毬は鼻を押さえた。

 遠吠えが重なる。

『戻れ』
『血の群れへ』

 声が響くたび、小毬の爪が少しずつ伸びた。膝が低く沈み、足の運びまで四つ足の獣に近づいていく。

 森の奥に、大きな白い狼が現れた。

 その背後には同じ匂いが何十、何百と続いている。迷う必要のない道だった。鼻が示す一番強い匂いだけを辿れば、そこへ行ける。

 小毬が一歩進む。

 玄兎は呼ばなかった。

 二歩目。

 白い狼が尾を上げる。

 その時、風向きが変わった。

 強い血の匂いの隙間を縫って、四つの弱い匂いが届く。

 水の湿り気。古い血とコーヒー。夢の白い花。それから、何度嗅いでも説明しきれない玄兎の匂い。

 小毬の耳が後ろへ向いた。

『戻れ』

 白い狼がもう一度呼ぶ。

 小毬は森の奥ではなく、肩越しに振り返った。

 玄兎たちは何も言わず、その場にいる。

 小毬は鼻を一度強く鳴らした。

 次の瞬間、白い狼へ向けていた身体を反転させた。土を蹴り、四人のところまで一気に戻る。勢いのまま玄兎の袖を掴み、反対の手で透羽の腕を取った。

「こっちです」

「私が分かる方へ」

 小毬は四人を引いて、白い狼とは別の細い獣道へ入った。

 そこは匂いが薄い。人の足跡も混じり、狼だけなら選ばない道だった。

 けれど小毬は迷わない。

 倒木の前では先に跳び越え、すぐ振り返って依澄へ手を出す。ぬかるみでは千燈の靴が沈む前に腕を引く。玄兎が枝に引っかけた服を、爪で切らず指で丁寧に外す。

 後ろから白い狼の遠吠えが追ってきた。

『混ざり物』
『不完全』

 小毬は返事をしなかった。

 ただ、玄兎の袖を掴んだ手を離さない。

 やがて獣道の先へ古い石柱が見えた。小毬がそこへ四人を押し込むように通した瞬間、森を満たしていた白い影が一斉に光へ崩れる。

『固定因子二、分離失敗』

 緊張が切れた小毬は、その場へ座り込んだ。

「大丈夫?」

「はい。でも少し疲れました」

「五分休もう」

「四分で」

 小毬はまだ玄兎の袖を掴んでいることに気づき、少しだけ顔を赤くした。

 それでも、離さなかった。

 疲れていても笑える。その顔を確認してから、五人は次へ向かった。

     ◇

 三つ目は透羽だった。

『固定因子三 対象:鷺宮透羽 朽木ヶ丘大学旧水道塔』

 塔の内壁を、鷺宮家の旧式術式を帯びた水が細く流れていた。

 一筋ごとの水面には、幼い透羽、修練中の透羽、初めて玄兎を監視した日の透羽が映る。家の役目から外れた記憶だけが、最初から存在しなかったように抜け落ちている。

 水面の透羽たちは本物より一拍遅れて口を動かし、やがて同時になり、最後には本物より先に玄兎へ術具を構えた。

『任務へ戻れ』
『対象との私情を切断』
『判断純度を回復』
『鷺宮家継承者として復帰』

 透羽の右手が、ほとんど反射で術具を取った。

 構えも呼吸も完璧だった。

 玄兎の喉元へ水の刃が伸びる。

 小毬が動きかける。

「待って」

 玄兎が止めた。

 刃先は玄兎の皮膚から数センチで止まった。

 水面には、昔の透羽が映っている。命令を受け、対象を封じ、結果を報告する。迷いの入り込む余地がない姿だった。

『執行』

 命令が落ちる。

 透羽の指が動く。

 水刃が走った。

 玄兎ではなく、その横を。

 刃は塔の壁を這う旧式術式の水脈へ突き刺さった。玄兎と透羽の間を切ろうとしていた一本の流れが、逆に根元から断ち切られる。

『誤作動』

 水面の透羽たちが一斉にこちらを見る。

 透羽は答えず、もう一度術具を振った。

 今度は《水鏡》を玄兎へ向けず、命令を運んでくる水路の間へ薄く差し込む。古い命令が鏡面で折れ、別方向へ流れた。

『対象との私情を切断』

 同じ命令が繰り返される。

 透羽は玄兎を一度だけ見る。

「動かないでください」

「うん」

 それだけ確認すると、三本目の水路を切った。

 壁一面の過去の透羽が揺れる。家の紋、修練場、命令書。どれも消さない。ただ、そこから玄兎へ伸びていた一本の指示系統だけを、透羽自身の手で外していく。

 最後の一本が切れた瞬間、水面に現在の透羽が映った。

 白と薄青の服。少し乱れた髪。術具の切っ先は玄兎ではなく、断ち切った水脈の方へ向いている。

『固定因子三、分離失敗』

 塔を流れていた水が透明へ戻る。

 透羽は術具を下ろした。

 その直後、玄兎の襟元が水で濡れているのに気づき、無言でハンカチを押し当てる。

「ありがとう」

「少しだけ、動きましたね」

 耳が少し赤い。

 依澄が何か言いかけたが、千燈が肩を引いた。

 透羽は何も説明せず、濡れた襟を拭き終えると次の場所の地図を開いた。

     ◇

 最後は依澄だった。

『固定因子四 対象:D-02 旧認知環境研究室・夢層観測点』

 何度も来た研究室なのに、今日は地下へ降りるほど現実へ夢が染み出していた。白い蝶が廊下を埋め、足元が一瞬だけ夢の図書館の床へ変わっては戻る。

 依澄は玄兎へ手を差し出した。

「手」

 玄兎が握る。

 研究室の中央には、依澄の身体をぴたりと収める白い椅子が浮かんでいた。

 その周囲には、名前を持たなかった頃の彼女に似た影が立っている。顔も服もなく、白い蝶だけで人の形を作ったものたちが、感情のない声を繰り返した。

『玄兎を待つ』
『玄兎を安定させる』
『それ以外は不要』

 依澄が大学で覚えたものが、白い砂になって足元へ落ち始めた。

 塩パン。講義室。学食の窓際。小毬の笑い声。千燈のブラックコーヒー。透羽に注意された帰り道。

 砂が落ちるたび、依澄の視線は少しずつ玄兎だけへ狭まっていく。

 最後には、握っている手だけを見ていた。

『玄兎が必要な依澄を選べ』

 白い椅子が近づく。

 椅子に座れば、玄兎を待つことだけは忘れない。玄兎に必要とされる形だけを残せる。

 玄兎は口を開きかけた。

 だが、何も言わず手の力を抜いた。

 依澄の指がするりと離れる。

「玄兎?」

 不安そうな声だった。

 玄兎は手を差し出したまま、握り直さない。

 白い椅子と、玄兎の手。

 その二つしか見えなくなりかけたところで、後ろから小さな音がした。

「っ……」

 小毬が膝をついた。

 白い砂が足首へ絡み、名前を削るように皮膚の上を這っている。透羽が水を伸ばすより先に、依澄の顔がそちらを向いた。

『不要』

 白い影が告げる。

『玄兎以外は不要』

 依澄は白い椅子を見る。

 次に玄兎を見る。

 そして、玄兎の手を取らずに走った。

「小毬」

 しゃがみ込み、両手で白い砂を払う。指先から蝶を出し、小毬の足首へ絡んだ夢だけを現実から剥がした。

「依澄先輩……」

「立てる?」

「はい」

 依澄は小毬を引き起こす。

 その間にも白い椅子は玄兎の背後で光り続けていた。

『役割へ復帰』
『外部器を安定させよ』

 依澄は振り返る。

 玄兎は何も言わない。

 依澄は小毬の手を離さず、そのまま透羽と千燈のところまで戻った。四人の顔を一人ずつ見る。

 最後に玄兎を見る。

「玄兎」

「うん」

 依澄は今度は自分から手を差し出した。

 玄兎が握る。

 白い椅子に亀裂が入った。

『D-02』
『役割終了』

 依澄は椅子ではなく、小毬の足元をもう一度確認した。

「痛くない?」

「大丈夫です」

 それを聞いてから、ようやく玄兎の方へ戻る。

『固定因子四、分離失敗』

 白い椅子も、人型の影も、砂も光へほどけた。

 現実の研究室へ戻る。

 依澄は握っていた玄兎の手を見下ろし、それから反対側の手で小毬の袖を軽く摘んだ。

「いる」

 依澄は透羽、千燈、小毬を順番に見た。

「全員、いる」

     ◇

 四か所すべての固定因子処理を止めた。

 夕方、五人は大学の屋上でようやく足を止めた。小毬が自販機で買ってきた飲み物を配り、しばらく誰もまともに喋らなかった。

「疲れた」

 玄兎が言うと、透羽も珍しく素直に頷いた。

「かなり」

「お腹すきました」

 少し笑いかけたところで、透羽の端末が鳴った。

『固定因子処理、全件失敗』
『強制回収危険度、上昇』
『第三段階移行時刻を前倒し』

「第三段階まで、十二時間以内です」

 その直後、大学の窓が下の階から順番に黒く染まった。

 窓の中には、採血室で消えた千燈の兄、森の白い狼、幼い透羽、白い椅子に座る依澄が現れる。

 中央の大きな窓だけには、玄兎のいない四人の日常が映っていた。

 授業を受け、食事をし、笑う四人。席は四つしかなく、共有ノートにも玄兎の文字はない。

 小毬は誰か別の男子へ楽しそうに話しかけ、千燈は見知らぬ相手の手首を取って笑っている。透羽は一人で端末を操作し、依澄は玄兎が座っていたはずの席へ鞄を置いた。

 誰も泣かず、誰も玄兎を探していない。最初から五人ではなかったように自然だった。

 玄兎の痣が熱を持つたび、窓の中から自分に関する痕跡が一つずつ消えていく。

「見ないでください」

 透羽が玄兎の前へ立った。

「これは私たちの選択ではありません」

 小毬が服を掴み、千燈が肩へ手を置く。依澄は何も言わず、先ほどまで繋いでいた手をもう一度握った。

 四人分の重さと温度が、整いすぎた未来を押し返す。

 やがて黒い窓へ亀裂が走り、夕焼けを映す普通の硝子へ戻った。

 それでも痣の熱は引かない。

 玄兎は四人を見る。

「《百獣繭》へ行きたい」

 玄兎が言った。

 千燈が缶コーヒーを額から離す。

「全部出したら、街が壊れるかもしれないよ」

「うん」

「怖い?」

「怖い」

 千燈はしばらく玄兎を見てから、空になった缶をゴミ箱へ投げた。

「じゃあ準備しよう」

 小毬はスマートフォンを開き、五人分の水と食べ物の準備にかかった。

 依澄は玄兎の袖を摘んだまま、今夜の予定を確認している。透羽は返事より先に端末へ鷺宮家の装備一覧を呼び出していた。

 玄兎は四人を見て、一度だけ息を整える。

「途中で、俺だけ回収されれば四人が助かるって状況になったら、たぶん一瞬そっちを選びたくなる」

 透羽の指が端末の上で止まった。

「その時は止めて」

「はい。止めます」

 玄兎が続ける前に、小毬が顔を上げる。

「先輩も、私たちが同じことしようとしたら止めてください」

「止める」

 千燈が笑う。

「全員、同じ扱いってことね」

 透羽はそれ以上ルールを言葉にせず、装備一覧の人数欄へ「5」と入力した。

 そのまま、五人は今夜の準備に入った。

     ◇

 玄兎は一度、自宅へ戻った。

 まず洗濯物を取り込んだ。

 こんな時に何をしているのかと自分でも思う。それでも、帰ってきた時に雨で濡れていたら嫌だから、一枚ずつ畳んだ。

 冷蔵庫には卵が三個残っている。炊飯器のご飯は一食分ずつ包み、冷凍庫へ入れた。

 玄兎は冷凍庫を閉じた。帰ってから、解凍すればいい。

 リュックには水、タオル、スマートフォン、それから久住研究室の保管場所から持ち出してきた共有ノートを入れた。

 ページを開けば、小毬の丸い字で「焼肉」と大きく書かれた日があり、千燈の細い字で余計な注釈が足され、透羽がその横へ事実関係を訂正している。依澄の文字は最初の頃より少しずつ安定していた。

 玄兎はページを閉じ、共有ノートをリュックの底へ収めた。

 最後に部屋を見回し、電気を消して、いつも通りに鍵を閉めた。

     ◇

 午後十時三十分、鷺宮家本邸に五人が揃った。

 透羽は白と薄青の退魔装束、千燈と小毬は動きやすい服、依澄はいつもの淡い色の服。玄兎だけは、普段と変わらない黒いパーカーだった。

「帰ってきたら、戦闘服も作りましょう」

 小毬が言い、依澄も頷いた。

「私も、蝶の服がいい」

「帰ってから考えよう」

 部屋の隅には護符、予備の術具、水筒、救急用品が並んでいる。遠足の準備のように見えなくもないが、静嶺の表情だけが、それほど気軽な場所へ行くのではないと教えていた。

 玄兎はリュックの中の共有ノートを一度だけ確かめ、静嶺へ向き直った。

 静嶺が最終状況を告げる。

「前倒しはさらに進んだ。第三段階まで、あと一時間二十二分だ」

 入口は旧八坂水路の中央管理口。中央制御を書き換え、分散固定を成立させれば外部通路が開く。失敗すれば閉じ込められ、死ぬ可能性もある。

「一度入れば、玄兎と依澄は回収工程の中心へ引かれる。透羽、千燈、小毬は固定因子として切断対象になる」

「分かっています」

 透羽が答えた。

 小毬も迷わない。

「全員で戻ります」

 出発前、依澄が玄兎へ手を差し出した。

「手」

「入口まで」

 玄兎が握ると、小毬まですぐに手を上げた。

「私も!」

「俺、手二本しかないけど」

 結局、玄兎の右手を依澄、左手を透羽が取り、透羽の反対側に小毬、その隣へ千燈が繋がった。

 不格好な五人の輪ができ、玄兎は少し笑った。

「行こう」

 移動のために手は離した。

 互いの体調と術具だけを短く確かめた。

 それでも五人の距離は、自然と近いままだった。

     ◇

 旧八坂水路の最深部で、中央管理口の扉がゆっくり開いた。

 その先には、暗闇へ向かって下りる長い階段が続いている。

 さらに向こうから、《百獣繭》の声が五人を呼んだ。

『外部器』
『D-02』
『固定因子』
『回収開始』

 玄兎の胸は冷たい。

 怖さも、はっきりある。

 それでも、もう逃げるつもりはなかった。

「本人として」

 玄兎は暗い階段へ向かって言った。

「最後まで拒否します」

 返事の代わりに、透羽が玄兎の隣へ出て小さな水球を灯した。

 千燈は袖を一つ折り、指先を動かす。小毬は階段の闇へ鼻を向け、依澄は玄兎の手を一度だけ握ってから離した。

 玄兎が一段目へ足を置く。

 四つの足音が、すぐ後ろから続いた。

 五人は並んで、暗い地下へ降りていった。

――第二十三話・了

この話、どうでしたか?

👥 登場人物紹介ネタバレを抑えた基本プロフィール
鵺代玄兎

CHARACTER 01

鵺代玄兎

ぬえしろ げんと

現実的で、妙な状況でもまず話を整理しようとする常識人寄りの青年。突然の怪異や騒動には戸惑いながらも、困っている相手を放っておけない。深刻な場面でも自然にツッコミが出るタイプ。

  • 物語の主人公
  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 常識人寄りのツッコミ役
俺が何者でも、困ってる人を置いていく理由にはならない。
鷺宮透羽

CHARACTER 02

鷺宮透羽

さぎみや とわ

冷静で生真面目。怪異への警戒心が強く、必要なことははっきり言う。危険な場面では自分が前に出ようとする、責任感の強い少女。

  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 鷺宮家の退魔師
  • 礼儀正しいがやや堅い
私が間に合う時は、あなたを死なせません。
緋鴉千燈

CHARACTER 03

緋鴉千燈

ひがらす ちとせ

余裕のある笑みを浮かべ、人をからかうのが上手な先輩。自然に距離を詰めてくる、つかみどころのない雰囲気を持つ。

  • 玄兎たちの先輩
  • 赤褐色の瞳
  • 人をからかうのが得意
秘密って、暴くより自分から話してもらう方が面白いよ。
白狼院小毬

CHARACTER 04

白狼院小毬

はくろういん こまり

明るく人懐っこい一年生。気になったことはすぐ口にし、匂いを確かめることに夢中になると相手との距離感まで忘れがち。

  • 朽木ヶ丘大学の一年生
  • 非常に鋭い嗅覚
  • 人懐っこく表情豊か
匂いは嘘をつきません。だから、何度でも見つけます!
蝶ヶ森依澄

CHARACTER 05

蝶ヶ森依澄

ちょうがもり いすみ

静かで穏やか、言葉数は少なめ。初対面からどこか不思議な印象を残し、感情表現は控えめだが答え方は率直。

  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 淡い青紫の瞳
  • 物静かでマイペース
今日が初めてなら、明日また会えばいい。

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