第二章・全36話中 23話

第二十三話 四人を、俺から切り離そうとしている

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 翌朝、鵺代玄兎は七時ちょうどに小毬からの電話で起こされた。

「先輩、生きてますか!」

 目覚めて最初に聞くには、ずいぶん物騒な挨拶だった。

「第一声がそれ?」

「大事です!」

「生きてる。今起きた」

 電話越しに、小毬が本気で息を吐いたのが分かった。

 昨日、《百獣繭》の回収工程が始まった。

 中央封印へ統合されれば、玄兎の肉体は「外部器」として独立して暮らす必要がなくなる。資料だけを読めば安全策にも見えるが、その後に大学へ通い、食事をし、四人と笑う生活は想定されていない。

 玄兎はそれを拒否した。

 止めるには、《百獣繭》の中央制御へ入り、二十年前から続く封印方式そのものを書き換えるしかない。第三段階へ移行するまで、最短四十八時間。

 そこまでは昨夜、五人で確認した。だから今朝になって同じ結論を考え直す必要はなかった。

「小毬。何時から起きてた?」

「五時半です!」

「早いな」

「先輩の匂いを確認しに行こうか迷いました」

「電話で正解」

「でも電話だと匂いが分かりません」

「そこは我慢して」

 玄兎は起き上がり、洗面所の鏡で左鎖骨の下を確認した。

 黒い痣から伸びる細い線は、昨日より二本増えている。胸の冷たさは少し弱まっているものの、異常そのものが消えたわけではない。

 指で触れても、皮膚そのものは普段と変わらない温度だった。冷たいのはもっと内側だ。胸骨の裏に細い氷を差し込まれ、それが呼吸に合わせてゆっくり形を変えているような感覚がある。

 昨日までは、それを一人で確かめて一人で判断しようとしていた。今朝は写真を撮り、迷わず四人へ送れた。その違いを、玄兎は少しだけ大事にしたかった。

 写真を五人のグループチャットへ送ると、透羽からすぐに「横方向への伸長を確認」と返り、千燈からは「朝から嫌な観察日記だね」と来た。

 最後に依澄。

『玄兎。今日は夢に来なかった。』

 少し安心した直後、もう一通届く。

『でも、夢の方が近い。』

「安心させる気あるのかな」

「依澄先輩は事実を言ってるだけだと思います」

「分かってる」

 通話を切る前、小毬の声が少しだけ低くなった。

「先輩。今日は絶対、一人にならないでください」

 以前なら、心配しすぎだと笑っていたかもしれない。今は、それが誰のためにもならないと知っている。

「うん。分かった」

 朝食は、ご飯と味噌汁と卵焼きにした。昨日と似た献立でも、今日食べるものは今日の自分が選んだものだ。

 そんな当たり前を、今は少し意識しておきたかった。

     ◇

 大学へ着くと、正門前には四人とも揃っていた。

「全員早い」

「あなたが遅いんです」

 透羽が即答する。

「集合時間、決めてないけど」

「普段なら八時十五分前後には来ます」

「生活習慣まで読まれてる」

「人格固定支援です」

 千燈が小さく笑った。

「透羽ちゃん、その言葉かなり便利になってきたね」

 そんな会話の間にも、小毬は玄兎の肩口へ顔を近づけていた。

「玄兎先輩自身の匂いは普通です。でも、帰巣標識は昨日より少し強いです。それと……」

 小毬は途中で止まり、透羽へ近づく。次に千燈、依澄、自分の腕まで確認したところで、表情が硬くなった。

「全員にあります。帰巣標識に似た匂い」

「四人に?」

「はい。昨日まではなかったのに」

 透羽が端末を開く。昨夜二十三時四十分、《百獣繭》は市内四か所の旧封印点を同時に起動していた。

 画面へ新しい警告が重なる。

『固定因子識別開始』
『外部器周辺・人格固定因子四名を確認』
『回収阻害要因として処理対象へ移行』

「処理対象……私たちのことですか」

 小毬が訊いた、その直後だった。

 透羽の靴の周囲へ、何もない舗装路から水が広がる。千燈の足元には血ではない赤い染みが浮かび、小毬の周囲では白い獣毛が舞い始めた。依澄の背後には白い蝶が集まり、その向こうへ夢の景色が扉のように開いていく。

 水面には玄兎のいない透羽だけが映り、赤い染みからは知らない誰かの泣き声が滲んだ。白い毛は小毬の身体から外側へ引き抜かれるように舞い、夢の扉の向こうでは依澄が一人、誰もいない図書館の椅子へ座っている。

 四人とも身体を傷つけられてはいない。なのに、「玄兎と出会わなかった形」へ戻されようとしているのだと、見ただけで分かった。

「全員、玄兎から離れてください!」

 透羽が叫ぶ。

「嫌だ。離すのが目的かもしれない」

 四人を《固定因子》と判定した直後に始まった現象だ。玄兎の人格境界が四人との関係によって支えられているなら、回収を優先する古い機構が、その関係から先に切ろうとするのは不自然ではない。

「距離じゃない方法で固定する」

 玄兎は透羽を見る。

「鷺宮透羽。最初は俺の監視役だった。でも今は、監視役じゃなくても隣にいたいと言った人」

 足元の水が揺れ、広がる勢いを失う。

「緋鴉千燈。俺の血を面白がる先輩で、本当は俺が死んだり忘れたりするのをずっと怖がってる」

 赤い染みが止まった。千燈は茶化さず、ただ玄兎を見返す。

「白狼院小毬。俺を勝手に群れにした後輩」

「勝手じゃないです!」

「俺も今は群れだと思ってる」

 白い毛が風へほどけて消えた。小毬は抗議しかけた口を閉じ、代わりに少しだけ嬉しそうに笑った。

 最後に依澄を見る。

「蝶ヶ森依澄。自分で名前を選んだ。俺の夢から始まったとしても、今は俺の夢じゃない。明日、自分で何を好きになるかを選ぶ人」

「うん」

 依澄の背後の景色が閉じた。

 四人とも、ここにいる。

 名前だけではなく、今日まで積み重ねた関係ごと識別した途端、《百獣繭》の干渉は目に見えて弱まった。

 しかし、透羽の端末から警告は消えない。

『固定因子処理、一時失敗』
『個別処理へ移行』

 五人の表情が同時に変わった。

     ◇

 一限は休み、五人は図書館の個室型学習スペースへ移った。

 透羽が地図へ示したのは四か所。旧水道塔、旧八坂通りの廃献血所、西山の旧獣道封印、旧認知環境研究室の夢層観測点だった。

 場所を見れば、誰を狙っているかは説明されなくても分かる。水は透羽、血は千燈、獣道は小毬、夢層は依澄だ。

「能力に合わせて選んでる?」

 玄兎が訊くと、透羽は首を横へ振った。

「逆です。私たちが自分だと思っている部分を利用して、玄兎との関係だけを切断しやすい場所が選ばれています」

 四人を別人にする必要はない。四人を“四人であるまま”、玄兎からだけ切り離せばいい。

 その方が古い機構には都合がいいのだろう。透羽は透羽のまま、千燈は千燈のまま、小毬も依澄も、それぞれ自分の人生へ戻る。ただし、その人生から玄兎だけを「不要な接続」として抜き取る。

 玄兎には、それが消されることより嫌だった。四人の人生まで否定するのではなく、四人の中にある自分だけを余分なものとして扱われているからだ。

 その考え方の方が、かえって気味が悪かった。

「行かなかったら?」

「遠隔処理が進む可能性があります」

「なら、行くしかない。全員で」

 四人が頷いた、その時、千燈のスマートフォンが震えた。

 知らない番号だった。

 それなのに着信音を聞いた瞬間、千燈の顔から笑みが消えた。

「……出る」

 通話の向こうはしばらく無音だった。

 やがて、年を重ねた男の声が聞こえる。

『千燈』

 スマートフォンを持つ手が僅かに震えた。

『まだ生きているのか。帰ってこい』

「……兄さん?」

 通話は、それだけで切れた。

 玄兎は初めて聞いた事実に目を見開く。

「兄さんって」

「百年以上前の人。私より先に老いて、死んだ」

 千燈は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。

 透羽が地図を見る。

「最初に起動したのは廃献血所です」

「私からか」

 千燈は暗くなった画面を握り直した。

「昔の関係を使って、今の関係を切るつもりなんだね」

「一人では行かせない」

 玄兎が言うと、千燈は少しだけ目を細めた。

「言うと思った。じゃあ、一人で昔へ戻らないために一緒に来て」

「うん」

     ◇

 旧八坂通りの廃献血所は、商店街の外れに残る古い建物だった。色褪せた赤い十字の向こうは、昼間なのに薄暗い。

 中へ入るまでの間、千燈は兄のことを少しだけ話した。

 真面目で、人間と深く関わることを嫌い、「どうせ先に死なれる」と妹にも繰り返した人。それなのに最後には人間の妻と暮らしたという。

「矛盾してるな」

「でしょ」

「でも普通だと思う。最近、みんな矛盾してるって分かってきた」

「玄兎くん、成長したね」

 千燈は笑ったが、採血室の前で足を止めた時には、その笑みも消えていた。

 奥の椅子に、一人の男が座っている。

 千燈に似た赤い目。腕から伸びる透明な管の中を流れているのは血ではなく、古い写真や手紙の断片だった。千燈が一歩近づくたび、男の顔は若者から老人へ変わり、最後には彼女が看取った時の年齢で止まる。

 壁の時計も、その死の時刻から一秒も進んでいなかった。

 秒針だけが小刻みに震えている。進もうとしては同じ位置へ戻り、また震える。透明な管の中を一枚の写真が通るたび、千燈の表情も僅かに変わった。幼い頃の兄妹、古い着物姿の家族、見知らぬ町並み。百年以上の時間が細い管一本の中へ押し込まれている。

 玄兎は、千燈が普段ほとんど過去を語らない理由を少しだけ理解した。彼女にとって昔話は懐かしさだけでは終わらない。話した相手の多くが、もうどこにもいない。

「兄さん」

 千燈の足が半歩動く。

「本物?」

 玄兎が訊くと、千燈は途中で止まった。

「違う。血がない」

 声も顔も記憶通りなのに、そこに本人の血の気配だけがなかった。

『帰ってこい』

「どこへ?」

『昔へ』

「私は戻らない」

『疲れただろう』

 その一言だけで、千燈の表情が僅かに揺れた。

 男は、人は先に死ぬと告げた。兄もそうだった。これから大切にする誰かもそうなる。玄兎もいつか死ぬ。身体が戻ることがあったとして、そのあと千燈を覚えていないかもしれない。

 確定した未来ではない。過去の記録と千燈の恐れを繋ぎ、最も痛い形へ膨らませているだけだ。

 分かっていても、声にされれば傷は痛む。

『だから戻れ。誰も好きにならなかった頃へ』

 採血室の壁が一瞬だけ別の景色へ変わった。兄がまだ若かった頃の家。千燈が人間の友人を作る前、誰かの死を恐れる必要もなかった時間。そこでは彼女自身も今より少し幼い顔で笑っている。

 手を伸ばせば届きそうなほど穏やかな景色だった。だからこそ、玄兎には怖かった。苦痛ではなく安堵の形で差し出されるものの方が、拒むには力がいる。

 千燈は長い時間の中で、兄も友人も、自分より先に老いていく人たちを何度も見送ってきた。新しく誰かを大切にするほど、別れも増える。

 だから冗談で距離を作り、血への興味という分かりやすい理由へ気持ちを隠してきた。

「……楽だね」

 千燈が小さく言った。

「誰も好きじゃなかったことにできたら、もう失わなくていい」

 玄兎はすぐに否定しなかった。

「うん」

 千燈は一度目を閉じる。

 それから、ゆっくり開いた。

「でも、つまらない」

 男の表情が止まった。

「兄さんが死んだのは、今でも嫌。でも忘れるのも嫌。死んだことを忘れたら、一緒にいた時間まで薄くなる」

『忘れれば楽だ』

「楽な記憶だけ残して生きるほど、私は器用じゃないよ」

 千燈は玄兎へ視線を移した。

「痛いのも、後悔も、《血読》でたくさん見てきた。でも、忘れたくないものもある」

 玄兎はその視線から逃げなかった。

「千燈。この先、俺が何かを忘れる可能性がないとは言えない」

「うん」

「でも、怖いから先に全部捨てるのはやめる。忘れないために生きるし、危ないなら死なない方法を選ぶ」

 千燈はようやく、いつもの柔らかい笑い方をした。

「それでいい。それ、好き」

「言葉が?」

「玄兎くんが」

 男の輪郭が赤い光へ溶ける。

『固定因子一、分離失敗』

 採血室に残っていた赤い光も消えた。

 千燈は玄兎の肩へ軽く手を置く。

「今の言葉、覚えてて」

「忘れないために生きる?」

「それも。私が好きって言ったことも」

 玄兎が返事に詰まると、千燈は少し笑った。

「返事はまだいいよ。今は次へ行こう」

 冗談で逃げる笑い方ではなかった。

     ◇

 二つ目は小毬だった。

『固定因子二 対象:白狼院小毬 旧西山獣道封印』

 車で西山へ向かう途中、さっきまで気丈に振る舞っていた小毬が窓の外を見たまま言った。

「先輩。もし私が群れを忘れたら、もう一回、群れにしてくれます?」

「する」

「匂いが分からなくなっても?」

「小毬は小毬だろ」

「私が狼じゃなくなっても?」

「うん」

「先輩を好きって言わなくなっても?」

 玄兎は少し考えた。

「それは寂しいけど、それでも小毬は小毬だと思う」

 小毬は顔を赤くしたあと、ようやく肩の力を抜いた。

 旧西山獣道封印は、湿った木と土の匂いに満ちていた。

 森の奥から遠吠えが重なり、木々の間へ、人にも狼にもなり切れていない白い影が現れる。人の腕を四本使って走るもの、幼い子供の顔を持つもの、口の奥にさらに小さな狼の顔を抱えたもの。どれも小毬と似た匂いを持ちながら、形だけがどこか間違っていた。

 小毬には玄兎たちより多くのものが聞こえているらしい。耳が何度も別の方向へ動き、鼻を押さえるように眉間へ力が入る。土、獣毛、古い血、雨に濡れた木。そこへ自分自身とよく似た匂いが何十もの方向から重なるのだから、玄兎には想像することしかできない。

「私の匂いばっかりです」

 小毬は小さく言った。

「でも、全部私じゃない」

 自分の匂いさえ当てにならず、莉奈も自分自身も見失いかけた日のことを思い出しているのかもしれない。玄兎は答えを教えず、ただ隣を歩いた。

「正しい形に戻れ」と、遠吠えの隙間から小毬自身の声で囁かれる。

 人の言葉を捨て、四つ足で森へ入れば、二つの血の間で迷う必要はなくなる。誘いに応えるように、小毬の爪が僅かに伸びた。

 石の封印跡の中央には、大きな白い狼が座っていた。

『戻れ。血の群れへ』

「私の群れはここです」

『人ではない。器と共にいるな』

 小毬の目つきが変わる。

「先輩は群れです」

『お前は狼』

「人でもあります」

『どちらでもない』

 その言葉だけは、小毬の表情を少し痛そうに歪めた。

 人には良すぎる耳や鼻を怖がられ、狼として生きるにも中途半端だと思った時期があったのだろう。玄兎は前へ出かけたが、途中で止まる。

「小毬。答えは小毬が決めて」

「……はい」

『混ざり物』

「そうです」

『不完全』

「そうです」

 小毬は一度大きく息を吸った。

「だから何ですか」

 白い狼が動きを止める。

「私は狼です。人でもあります。大学のご飯は美味しいし、みんなといるのも楽しいです。それに」

 小毬は玄兎を見る。

「先輩が好きです」

「知ってる」

「はい!」

『群れは血』

「違います」

 今度は迷わない。

「誰を群れにするかは、私が選びます」

 白い狼の輪郭が光へ崩れ、森の遠吠えが止んだ。

『固定因子二、分離失敗』

 緊張が切れた小毬は、その場へ座り込んだ。

「大丈夫?」

「はい。でも少し疲れました」

「五分休もう」

「四分で」

「そこは譲らないんだ」

「群れなので、急ぐのも休ませるのも両方大事です」

 疲れていても笑える。その顔を確認してから、五人は次へ向かった。

     ◇

 三つ目は透羽だった。

『固定因子三 対象:鷺宮透羽 朽木ヶ丘大学旧水道塔』

 塔の内壁を、鷺宮家の旧式術式を帯びた水が細く流れていた。

 一筋ごとの水面には、幼い透羽、修練中の透羽、初めて玄兎を監視した日の透羽が映る。どの顔も感情を押し殺し、家からの命令を待っていた。

 水は鏡より正確だった。修練で指を切った日の傷、初めて術式を成功させた時にほんの少し上がった口角、玄兎へ刃を向けた夜の冷たい目まで再現している。

 けれど、大学の学食で笑った透羽も、離れられなくなった日に玄兎を抱きしめた透羽も、そこには一人もいない。家の役目から外れた記憶だけが、最初から存在しなかったように抜け落ちていた。

 水面の透羽たちは本物より一拍遅れて口を動かし、やがて同時になり、最後には本物より先に玄兎へ術具を構える。

『任務へ戻れ』
『対象との私情を切断』
『判断純度を回復』
『鷺宮家継承者として復帰』

 透羽の指が強く握られる。

 私情を捨てれば、迷わなくて済む。自分の気持ちのせいで判断を誤る恐怖もなくなる。その代わり、玄兎の隣にいたいと思った自分まで、水で洗い流される。

「私は鷺宮家の人間です。継承者でもあります」

『ならば任務へ』

「でも、それだけではありません」

 透羽は玄兎を見た。

「玄兎の隣にいたいと思ったのも、私です」

『私情。濁り』

「違います」

 透羽の声が強くなる。

「私は、玄兎が好きだからこそ、玄兎の全部を肯定するつもりはありません」

 それは告白であると同時に、透羽なりの反論だった。好きだから判断が濁るのではない。好きな相手が間違える可能性まで見て、それでも隣にいると決める。その選択を、家の命令より劣ったものとして扱わせないための言葉だった。

 玄兎の呼吸が一瞬止まった。

 小毬も目を大きくし、千燈は口元を緩めた。依澄だけが真顔で言う。

「好きって言った」

「依澄さん、今はそこを拾わないでください!」

 顔を赤くしながらも、透羽は水面から目を逸らさなかった。

「玄兎が間違えたら止めます。死のうとしたら怒ります。一人で決めようとしたら、何度でも止めます。それは判断を捨てたことではありません」

 壁を流れていた水が大きく波打つ。

『固定因子三、分離失敗』

 過去の透羽たちは水面から消え、ただの透明な水へ戻った。

 玄兎は、まだ耳まで赤い透羽へ言う。

「ありがとう」

「何がですか」

「俺の全部を肯定しないって言ってくれたこと。そこが一番安心した」

 透羽は少し驚き、それから息を抜いた。

「……なら、覚えていてください」

「好きも?」

「今は聞かないと言ってください」

「分かった。今は聞かない」

 透羽は困ったように、それでもほんの少し笑った。

     ◇

 最後は依澄だった。

『固定因子四 対象:D-02 旧認知環境研究室・夢層観測点』

 何度も来た研究室なのに、今日は地下へ降りるほど現実へ夢が染み出していた。白い蝶が廊下を埋め、足元が一瞬だけ夢の図書館の床へ変わっては戻る。

「依澄、平気か」

「怖い。でも、一人で来たわけじゃないから進める」

 依澄はそう答え、玄兎へ手を差し出した。

「握ってもいい?」

「もちろん」

 研究室の中央には、依澄の身体をぴたりと収める白い椅子が浮かんでいた。

 その周囲には、名前を持たなかった頃の彼女に似た影が立っている。顔も服もなく、白い蝶だけで人の形を作ったものたちが、感情のない声を繰り返した。

『玄兎を待つ』
『玄兎を安定させる』
『それ以外は不要』

 依澄が大学で覚えた言葉や好きになった食べ物、三人と過ごした時間が、白い砂となって足元へ落ち始めた。

 砂へ変わるたび、依澄の表情から小さな反応が消えた。塩パンという言葉が落ちると、購買の方角へ向きかけた視線が止まる。小毬の名前が砂へ沈むと、隣にいる彼女を見ても一瞬だけ誰だか分からない顔をした。

「依澄」

 玄兎が名前を呼ぶと、依澄はすぐにこちらを向いた。けれど、その反応が残っていること自体を《百獣繭》が「役割」として利用しているのだと思うと、安心だけはできなかった。

 砂は別の依澄を作る。

 玄兎の名前だけを知る依澄。夢の図書館で永遠に待ち続ける依澄。D-02として微笑み、外部器を安定させることだけを望む依澄。

 どれも完全な偽物ではない。途中で出会いや選択を失っていれば、そうなっていたかもしれない姿だった。

『玄兎が必要な依澄を選べ』

 玄兎の頭へ、扱いやすい一人を選べばいいという考えが滑り込む。

 夢の中なら、誰かの望みに合わせて姿や状況が変わることは珍しくない。だからこの誘惑は、依澄という存在の成り立ちにひどく馴染んでいた。玄兎が望めば、それに合わせた依澄を作れる。玄兎が困らない依澄だけを残せる。

 けれど、それは「依澄を守る」ことではない。玄兎にとって都合のいい形へ閉じ込めるだけだ。

 質問も嫉妬もせず、ただ自分の帰りを待つ依澄。それなら傷つけることも、返事に迷うこともない。

 甘い提案だった。

 そして、その甘さに一瞬でも安心しかけた自分を、玄兎は嫌悪した。

「俺が決めることじゃない」

 握った手の震えを確かめながら、影へ言う。

「どの依澄になるかは、依澄が明日また選ぶ」

 依澄の腕に走っていた細い亀裂が止まる。亀裂の奥で重なっていた白い蝶の翅が閉じ、指先へ体温が戻った。

『D-02』
『外部器人格安定、完了』
『役割終了』

 依澄の目が不安そうに揺れる。

「私の役割は、玄兎を安定させること?」

「昔そうだったとしても、今の答えは依澄が決めていい」

 玄兎は手を離さずに訊いた。

「今、何をしたい?」

 依澄は白い椅子を見たあと、透羽、千燈、小毬を順番に見た。

「大学へ行きたい。パンを食べたい。千燈と話したい。小毬とご飯食べたい。透羽に怒られるのも、たぶん必要」

「そこは必要なんですか」

 透羽が思わず口を挟み、依澄は少しだけ笑った。

「必要。それから、玄兎に好きって言いたい」

『不要』

「私には必要」

 依澄は玄兎の手を強く握った。

「私、玄兎を助けるために生まれたとしても、今はそれだけじゃない」

「うん」

「玄兎がいなくても、私は私でいたい」

 胸が少し痛んだ。

 それでも、依澄が玄兎の付属物ではなく、自分自身の人生を望んだことが嬉しかった。

「それでいい」

「でも、玄兎はいなくならないで」

「そこは即答なんだ」

「本気で」

「努力する。本気で」

 依澄が笑った。

『固定因子四、分離失敗』

 白い椅子も、砂でできた依澄たちも光へほどける。

 現実の研究室へ戻ると、透羽も千燈も小毬もすぐ近くにいた。

 依澄は三人を見て、それから玄兎を見る。

「いる」

「全員?」

「うん。全員いる」

     ◇

 四か所すべての固定因子処理を止めた。

 夕方、五人は大学の屋上でようやく足を止めた。小毬が自販機で買ってきた飲み物を配り、しばらく誰もまともに喋らなかった。

「疲れた」

 玄兎が言うと、透羽も珍しく素直に頷いた。

「かなり」

「お腹すきました」

 小毬だけは別の危機も深刻らしい。

 少し笑いかけたところで、透羽の端末が鳴った。

『固定因子処理、全件失敗』
『強制回収危険度、上昇』
『第三段階移行時刻を前倒し』

「どれくらい?」

「十二時間以内です」

 四十八時間あったはずの猶予は消えた。

 その直後、大学の窓が下の階から順番に黒く染まった。

 窓の中には、採血室で消えた千燈の兄、森の白い狼、幼い透羽、白い椅子に座る依澄が現れる。

 中央の大きな窓だけには、玄兎のいない四人の日常が映っていた。

 授業を受け、食事をし、笑う四人。席は四つしかなく、共有ノートにも玄兎の文字はない。

 小毬は誰か別の男子へ楽しそうに話しかけ、千燈は見知らぬ相手の手首を取って笑っている。透羽は一人で端末を操作し、依澄は玄兎が座っていたはずの席へ鞄を置いた。

 誰も泣いていない。誰も玄兎を探していない。むしろ最初から五人ではなかったかのように自然だった。

 それが一番残酷だった。

 世界は一人を抜き取っても何事もなく続く。

 そう見せつけるための景色だった。

 玄兎の痣が熱を持つたび、窓の中から自分に関する痕跡が一つずつ消えていく。

「見ないでください」

 透羽が玄兎の前へ立った。

「これは私たちの選択ではありません」

 小毬が服を掴み、千燈が肩へ手を置く。依澄は何も言わず、先ほどまで繋いでいた手をもう一度握った。

 四人分の重さと温度が、整いすぎた未来を押し返す。

 やがて黒い窓へ亀裂が走り、夕焼けを映す普通の硝子へ戻った。

 それでも痣の熱は引かない。

 玄兎は四人を見る。

「《百獣繭》へ行きたい」

 回収されたくない。

 四人を「固定因子」と呼んで切り捨てられるのも嫌だ。

 それに、自分の中にいる怪異たちを、ただ閉じ込め続ける以外に方法がないのか知りたい。

「全部出したら、街が壊れるかもしれないよ」

 千燈が言う。

「うん」

「怖い?」

「怖い」

「ならいい。怖いって分かってる玄兎くんの方が、昔より信用できる」

 小毬は迷わず続いた。

「私も行きます。群れなので」

「私も。一緒に戻る」

 依澄が頷き、千燈も缶コーヒーを額から離した。

「ここまで来て、私だけ置いていかれるのは嫌だな」

 最後に透羽を見る。

「行きます」

「即答」

「昨日から準備しています」

 それで五人の意思は揃った。

 誰か一人が「危ないから残る」と言えば、また説得から始めなければならないと思っていた。けれど、誰も言わなかった。四つの封印点で、自分だけを過去へ戻す誘惑をそれぞれ拒んできた直後だからこそ、今さら「一人だけ外へ残る」という選択が正しく見えないのだろう。

 ただ、玄兎には一つだけ、今のうちに言っておきたいことがあった。

「途中で、俺だけ回収されれば四人が助かるって状況になったら、たぶん俺は一瞬それを選びたくなる。その時は止めてほしい」

 透羽は迷わず頷く。

「当然です」

「それと同じことを、みんながやろうとした時は俺が止める」

「では、一つだけ規則にしましょう」

 透羽は四人を見回した。

「誰も、自分だけを例外にしない」

 千燈が小さく笑う。

「いいルールだね」

「共有ノートに書きます!」

 小毬がスマートフォンを出しかけ、玄兎が止めた。

「あとでいい。今は覚えてる」

「忘れません?」

「五人で覚えれば大丈夫」

 全員、怖い。

 それでも、怖さを隠して一人で正解を決めるよりは、ずっとましだった。

「怖いまま、準備しましょう」

 透羽の言葉に、四人が頷いた。

 明日を自分たちのものにするため、今夜、五人で地下へ行く。

     ◇

 玄兎は一度、自宅へ戻った。

 まず洗濯物を取り込んだ。

 こんな時に何をしているのかと自分でも思う。それでも、帰ってきた時に雨で濡れていたら嫌だから、一枚ずつ畳んだ。

 冷蔵庫には卵が三個残っている。炊飯器のご飯は一食分ずつ包み、冷凍庫へ入れた。

 そこまでしてから、玄兎は手を止める。

「帰ってくる前提だな」

 口にしてみると、少しだけ嬉しかった。

「それでいい」

 リュックには水、タオル、スマートフォン、それから共有ノートを入れた。

 五人が出会ってから積み重ねてきた記録が詰まっている。何を食べたか、誰と喧嘩したか、何を忘れ、何を覚えていられたか。玄兎が四人と過ごす中で変わってきた、その証拠だった。

 ページを開けば、小毬の丸い字で「焼肉」と大きく書かれた日があり、千燈の細い字で余計な注釈が足され、透羽がその横へ事実関係を訂正している。依澄の文字は最初の頃より少しずつ安定していた。

 自分一人の日記なら、ここまで雑多にはならなかっただろう。だからこそ持っていく意味がある。玄兎一人では作れなかった玄兎の記録だった。

 最後に部屋を見回し、電気を消して鍵を閉める。

 またここへ帰ってくるつもりだからこそ、いつも通りに戸締まりをした。

     ◇

 午後十時三十分、鷺宮家本邸に五人が揃った。

 透羽は白と薄青の退魔装束、千燈と小毬は動きやすい服、依澄はいつもの淡い色の服。玄兎だけは、普段と変わらない黒いパーカーだった。

「先輩、戦闘服ないんですか」

「ない」

「帰ってきたら作りましょう!」

「私も蝶の戦闘服ほしい」

「帰ってから考えよう」

 千燈が笑う。

 「帰ってから」という言葉を、今日は誰も訂正しなかった。

 部屋の隅には護符、予備の術具、水筒、救急用品が並んでいる。遠足の準備のように見えなくもないが、静嶺の表情だけが、それほど気軽な場所へ行くのではないと教えていた。

 それでも「遺書」や「最後」という言葉を誰も使わない。使わないように避けているのではなく、帰るための準備だけをしている。

 玄兎のリュックには共有ノートが入っている。少し重いが、自分たちが今日までどう変わったかを持ち込むには、これ以上分かりやすい物もなかった。

 静嶺が最終状況を告げる。

「前倒しはさらに進んだ。第三段階まで、あと一時間二十二分だ」

 入口は旧八坂水路の中央管理口。中央制御を書き換え、分散固定を成立させれば外部通路が開く。失敗すれば閉じ込められ、死ぬ可能性もある。

「一度入れば、玄兎と依澄は回収工程の中心へ引かれる。透羽、千燈、小毬は固定因子として切断対象になる」

「分かっています」

 透羽が答えた。

 小毬も迷わない。

「全員で戻ります」

 出発前、依澄が玄兎へ手を差し出した。

「手」

「今?」

「入口まで」

 玄兎が握ると、小毬まですぐに手を上げた。

「私も!」

「俺、手二本しかないけど」

 結局、玄兎の右手を依澄、左手を透羽が取り、透羽の反対側に小毬、その隣へ千燈が繋がった。

 五人で、不格好な輪ができる。

「何これ」

「物理的な固定因子です!」

「群れ」

 依澄が付け足す。

「恋もある」

 透羽が疲れたように息を吐いた。

「今は分類しなくていいです」

 玄兎は笑った。

「行こう」

 移動のために手は離した。

 互いの体調と術具だけを短く確認する。誰かが「大丈夫」と言った時ほど注意するという癖は、もう全員に染みついていた。

 それでも五人の距離は、自然と近いままだった。

     ◇

 旧八坂水路の最深部で、中央管理口の扉がゆっくり開いた。

 その先には、暗闇へ向かって下りる長い階段が続いている。

 さらに向こうから、《百獣繭》の声が五人を呼んだ。

『外部器』
『D-02』
『固定因子』
『回収開始』

 玄兎の胸は冷たい。

 怖さも、はっきりある。

 それでも、もう逃げるつもりはなかった。

「本人として」

 玄兎は暗い階段へ向かって言った。

「最後まで拒否します」

 透羽が隣へ並ぶ。

「そのために行きます」

 千燈も一歩前へ出た。

「忘れないために」

 小毬が頷く。

「群れで帰るために」

 依澄が最後に言う。

「明日へ行くために」

 五人は並んで、暗い地下へ降りていった。

――第二十三話・了

👥 登場人物紹介ネタバレを抑えた基本プロフィール
鵺代玄兎

CHARACTER 01

鵺代玄兎

ぬえしろ げんと

現実的で、妙な状況でもまず話を整理しようとする常識人寄りの青年。突然の怪異や騒動には戸惑いながらも、困っている相手を放っておけない。深刻な場面でも自然にツッコミが出るタイプ。

  • 物語の主人公
  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 常識人寄りのツッコミ役
俺が何者でも、困ってる人を置いていく理由にはならない。
鷺宮透羽

CHARACTER 02

鷺宮透羽

さぎみや とわ

冷静で生真面目。怪異への警戒心が強く、必要なことははっきり言う。危険な場面では自分が前に出ようとする、責任感の強い少女。

  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 鷺宮家の退魔師
  • 礼儀正しいがやや堅い
私が間に合う時は、あなたを死なせません。
緋鴉千燈

CHARACTER 03

緋鴉千燈

ひがらす ちとせ

余裕のある笑みを浮かべ、人をからかうのが上手な先輩。自然に距離を詰めてくる、つかみどころのない雰囲気を持つ。

  • 玄兎たちの先輩
  • 赤褐色の瞳
  • 人をからかうのが得意
秘密って、暴くより自分から話してもらう方が面白いよ。
白狼院小毬

CHARACTER 04

白狼院小毬

はくろういん こまり

明るく人懐っこい一年生。気になったことはすぐ口にし、匂いを確かめることに夢中になると相手との距離感まで忘れがち。

  • 朽木ヶ丘大学の一年生
  • 非常に鋭い嗅覚
  • 人懐っこく表情豊か
匂いは嘘をつきません。だから、何度でも見つけます!
蝶ヶ森依澄

CHARACTER 05

蝶ヶ森依澄

ちょうがもり いすみ

静かで穏やか、言葉数は少なめ。初対面からどこか不思議な印象を残し、感情表現は控えめだが答え方は率直。

  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 淡い青紫の瞳
  • 物静かでマイペース
今日が初めてなら、明日また会えばいい。

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