第二章・全36話中 22話

第二十二話 知らない場所へ、身体が勝手に帰ろうとする

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 朝六時四十分、鵺代玄兎は目覚まし時計が鳴るより少し早く目を覚ました。

 寒い。

 九月の朝だ。エアコンは二十七度に設定している。それなのに、胸の奥だけを冬の川へ浸したような冷たさがあった。

 玄兎は仰向けのまま、昨夜のことを思い返す。

 《百獣繭》が第二段階へ移行したあと、夢から目覚めなくなっていた一般人三名は、未明までに全員が意識を取り戻した。大きな身体異常はなく、眠っていた間の記憶もほとんど残っていない。

 助かった。それでも、市内の人間を夢へ引き込み始めた危険が消えたわけではない。

「……何だ、これ」

 身体を起こした時、左鎖骨の下が引きつった。

 玄兎はTシャツの襟を引き、鏡の前へ立った。

 生まれつきある黒い痣。その縁から、髪の毛ほど細い黒い線が三本伸びている。一本は胸の中央へ、一本は肩へ、もう一本は腹の方へ沈むように続いていた。

 皮膚へ描かれた線というより、身体の内側から影が浮き上がっているように見える。

 触れても痛くない。ただ、冷たい。

 玄兎は写真を撮り、五人のグループチャットへ送った。

 撮影した画面越しに見ると、黒い線は肉眼で見るより妙にくっきりしていた。血管とも傷とも違う。自分の身体にあるはずなのに、自分のものではない何かが、内側から経路を引いているように見える。

『起きてる人。ちょっと見てほしい。』

 十五秒も経たず、透羽から返事が来た。

『動かないでください。今から行きます。』

 続いて小毬。

『先輩!? 痛いですか!?』

『痛くない。胸が冷たい。』

 千燈からも返信が入る。

『朝から嫌な写真だね。私も向かう。』

 最後に依澄。

『玄兎。帰らないで。』

 玄兎の指が止まった。

『どこに?』

 少し間があってから、

『分からない。でも、帰る感じがする。』

 と返ってきた。

 胸の冷たさが、わずかに強くなる。

 その時、玄関の方から低い軋みが聞こえた。

 鍵もチェーンも掛かっている。それなのに、扉が外側からゆっくり押されるように内側へ撓んだ。

 床板の継ぎ目から、細い黒い水が染み出す。

 水は玄兎の足元まで一本の筋を作り、そのまま床の下へ続いていた。下の階には普通に住人の部屋があるはずなのに、耳を澄ますと遥か地下から水の流れる音がする。

 玄兎はドアスコープを覗かなかった。

 誰もいないと分かる方が怖い気がした。

 扉の向こうは、いつもの共用廊下のはずだった。今だけ、別のどこかへ通じる入口のように感じる。

 黒い水は敷居を越えない。まるで玄兎が自分から一歩踏み出すのを待っているようだった。

 代わりに、扉の向こうから声がした。

『帰還準備』

 男とも女ともつかない、古い録音のような平坦な声だった。

『外部器人格、安定を確認』
『回収条件、一部達成』

「……本人の確認は?」

 思わず訊いた。

 返事はない。

 ただ、胸の黒い線だけが、一度脈打った。

     ◇

 透羽たち四人が玄兎の部屋へ揃ったのは、それから二十分ほど後だった。

「朝ごはん食べました?」

 玄関で靴を脱ぐなり、小毬が訊いた。

「まだ。今から卵と味噌汁」

 いつもの調子で返すと、小毬は少しだけ安心した顔をした。

 千燈は靴を脱ぎながら、玄兎の顔色と玄関の床を交互に見た。

「朝七時から部屋に黒い水が出る生活、慣れたくないね」

「俺も」

「雑巾で拭いた?」

「触っていいか分からなかった」

 依澄は黒い水の跡が消えた床へしゃがみ込み、しばらく何もない場所を見ていた。

「まだ道がある。見えないけど、こっちじゃないって感じる」

 彼女が指したのは床だった。玄兎は朝から何度目か分からない寒気を覚えた。

 小毬がすぐ玄兎へ近づき、肩口から胸元まで慎重に匂いを確かめる。

「玄兎先輩の匂いはあります。でも、帰巣標識が今日は近いです。皮膚のすぐ下まで出てきてる感じ」

 透羽も黒い線へ薄い水膜を触れさせた。

 波紋が細かく震える。

「封印術式の反応です。《百獣繭》の第二段階移行と連動している可能性が高いです」

 千燈が玄兎の顔を覗き込む。

「気分は?」

「胸が冷たい。あと、地下へ行った方が自然な気がする時がある」

「意識が、地下へ引っ張られる感じがする」

 依澄が小さく頷いた。

「夢で呼ばれる時と似てる」

 透羽は端末を開いた。

「昨夜から旧資料の復号が進んでいます。まだ一部ですが、今朝の現象と一致する記述があります」

 画面には短い記録が表示されていた。

『外部器運用・第二段階』
『人格形成および外部生活による境界安定を確認後、回収工程へ移行』
『回収目的:中央大封印の再統合』

「人格が安定したら回収するのか」

 玄兎が言うと、透羽は一瞬だけ視線を伏せた。

「記録はそう読めます。ただ、回収されたあと、玄兎の身体や人格がどうなるのか。その部分はまだ復号できていません」

 小毬が眉を寄せた。

「駄目です」

 玄兎は胸の黒い線を見る。

 その線を作った仕組みには、玄兎が大学へ通った日も、初めて一人でうまく味噌汁を作れた日も、四人と馬鹿な話をした夜も、たぶん全部ただの『安定化過程』にしか見えない。

 けれど玄兎にとっては、それぞれが別の日だった。失敗したことも、笑ったことも、今さら恥ずかしいこともある。封印を安定させるために積み上げたつもりなど、一度もない。

「知らない場所を、勝手に帰る場所って決められるのは嫌だ」

「じゃあ、帰還じゃない。連行」

 依澄は平然と言った。

 千燈が少しだけ笑う。

 玄兎は端末に残る『帰還準備』の文字を見た。

「じゃあ訂正しとく。俺は帰るって決めてない」

 胸の黒い線が、また一度だけ脈打った。

     ◇

 大学へ行くかどうかは少し揉めた。

 透羽は休むことを勧めたが、熱もなく、脈拍も正常だった。何より玄兎自身が、部屋で回収を待つように過ごしたくなかった。

「大学へ行きたい」

 それだけ言うと、透羽はしばらく玄兎を見てから息を吐いた。

「では全員で行きます」

 小毬が冷蔵庫から卵を出した。

 朝食を五人で片づけてから、大学へ向かった。

 外へ出る瞬間だけ、玄兎は玄関の敷居で足を止めた。

 朝、黒い水が引いていた線はもうない。

 それでも身体の奥では、建物の外へ出ることより、床を抜けて下へ行く方が近道だと分かっているような感覚が残っていた。

「玄兎?」

 透羽が振り返る。

「大丈夫。こっちから行く」

 玄兎は自分で扉を開け、廊下へ出た。

 たったそれだけの動作が、その朝は小さな選択に思えた。

 一限の講義は、驚くほど普通だった。

 地域都市史の教授が古い朽木ヶ丘市の地図を映し、玄兎はノートを取る。隣には透羽がいる。

 講義の途中、何度か地下へ引かれる感覚が強くなった。

「玄兎」

 透羽が小声で呼ぶ。

「今、少し遠くなりました」

「地下へ行った方が楽かもって思った」

「行きたいですか」

「行きたくない」

 即答すると、透羽は机の下で小さな水滴を一つ作り、玄兎の手首へ触れさせた。

 玄兎は水滴の冷たさを手首に感じた。

 講義が終わるまで、その水滴は玄兎の手首に残っていた。

 黒板も、今日の日付も、隣の透羽も、今いる場所を示していた。地下へ引かれていても、講義は進み、誰かのシャープペンシルが床へ落ちる。その普通さが、ありがたかった。

     ◇

 昼休み、五人はいつもの学食へ集まった。

 玄兎が鶏の照り焼き定食の箸を取った瞬間、胸の奥を強く引かれた。

「……っ」

「先輩?」

「来た」

 透羽の端末がほぼ同時に震える。

『回収路・局所起動』
『外部器位置:朽木ヶ丘大学』
『誘導開始』

 照明が一度だけ落ち、すぐに点いた。

 周囲の学生たちは「あれ?」と顔を上げるだけだった。

 けれど玄兎の目には、非常口の表示へ別の文字が重なって見えた。

『帰還』

 廊下の案内板にも、スマートフォンの地図にも同じ文字が浮かぶ。現在地から地下へ伸びた青い経路が、画面の中だけでなく玄兎の指先へ這い上がり、血管に沿って冷たい光を走らせた。

 周囲の学生は何も知らず、その「帰還」と書かれた出口を通り抜けていく。

 非常口を抜けた学生が、一瞬だけ底のない穴へ落ちたように見える。息を呑むと、その学生は数歩先の廊下を何事もなく歩いていた。

 玄兎が見ている『正しい道』と、他の人が歩いている現実がずれている。

 目を閉じれば少し楽になる。けれど目を閉じた瞬間、今度は身体の中に地下への傾斜が生まれた。

 視界だけの問題ではない。

 玄兎の認識だけが、中央へ戻るのに都合よく書き換えられている。

 そう理解した直後、右足が勝手に一歩前へ出た。

「先輩!」

 小毬が腕を掴む。

 止まろうとすると吐き気がした。床は水平なのに、地下へ向かう方向だけが「下」に感じられる。

「平衡感覚と方向認識への干渉です」

 透羽が玄兎の足元へ水を広げた。

「嫌な親切だな」

 その時、無機質な声が耳元へ響いた。

『外部器、中央へ』
『損耗停止』
『記憶摩耗停止』
『再構築負荷停止』

 玄兎は息を止めた。

 戻れば、もう死ななくていい。

 記憶も減らない。

 四人も、もう傷つかなくて済むかもしれない。胸の奥へ安堵が広がった。痛いのも、死ぬのも、忘れるのも嫌だからこそ、心が動いた。

 ただ、その安堵が自分の意思なのか、回収路に作られた感情なのかが分からない。

 それを分からないまま選ぶことだけは、したくなかった。

「玄兎」

 透羽の声で顔を上げる。

「今、何を考えました」

「……行けば、みんなも少し楽になるかもって」

 小毬が何か言いかけたが、千燈が先に訊いた。

「その声、条件を全部言ってる?」

「いや」

「じゃあ、都合のいいところだけ見せてる可能性がある」

 依澄がカレーのスプーンを置いた。

「眠れば痛くない。夢なら嫌なことも少ない。でも、明日がなくなるなら嫌」

 玄兎は非常口の『帰還』を見る。

「俺が戻ったあとも、大学へ来られる?」

 声は答えない。

「飯は食える?」

 答えない。

「みんなと話せる?」

 やはり答えない。

 玄兎は箸を持ち直した。

「じゃあ、今は行かない」

 照り焼きを一口食べる。

 甘辛い味が、ちゃんと舌に残った。

「うまい」

 小毬が目を丸くしてから笑い、千燈も肩の力を抜いた。

 玄兎はもう一口食べた。

 痛みがないことより、今ここで自分が何を食べたいかを選べることの方を、その時は大事にしたかった。

     ◇

 昼食が終わる頃には、回収路の気配は大学の広い範囲へ伸びていた。

 一般の学生には見えない。

 けれど玄兎には、廊下のどちらへ曲がれば《百獣繭》へ近づくか、地図を見なくても分かった。

 小毬が空気を嗅ぐ。

「床の下だけじゃないです。古い水路とか排水路とか、いろんなところで同じ匂いがします」

「市内の封印支流を回収路に使っているのかもしれません」

 透羽が言った。

 その時、依澄が立ち止まった。

「私にも、帰る道が見える。玄兎と同じ方へ。でも、もっと薄い」

 透羽がすぐに鷺宮家へ照会を送った。

 直後、玄兎の胸の黒い線が一気に伸びた。

「っ……!」

 膝から力が抜ける。

 透羽と小毬が左右から支えた。

『回収工程を継続』
『外部器抵抗を確認』
『人格付着情報の分離を開始』

 四人の声が、急に遠くなる。

 目の前にいるのに、透羽がなぜ自分を支えているのか分からなくなる。千燈、小毬、依澄も、顔は知っているのに、その顔へ結びつく時間だけが薄く剥がれていく。

 透羽の手が肩にある。触れられている感覚は分かる。それなのに、その手に安心していい理由だけが思い出せない。

 千燈が何かを言っている。声は聞こえるのに、彼女が自分の血を欲しがった夜や、その後で何度も自分を生きている側へ引き戻してくれたことが、古い写真の説明文のように遠くなる。

 小毬の指が腕へ食い込む。痛い。それでも、なぜこの後輩がこんなに必死なのかが一瞬だけ分からなくなり、その瞬間の方が痛みより怖かった。

 依澄を見ると、知らない女の子に見えかけた。

 六歳の頃から何かがつながっていたかもしれない相手。昨日、自分の過去から始まっても今は自分で選んでいると確かめた相手。その全部が、意味のない情報へ平らにされようとしている。

 玄兎は奥歯を噛んだ。

 昨日の《無縁水鏡》とは違う。

 今度は回収機構そのものが、四人との関係を「邪魔な付着物」として切り離そうとしている。

「付着じゃないです」

 小毬が玄兎の腕を強く掴んだ。

「私、先輩に勝手にくっついたゴミじゃないです」

「言い方……」

 苦しいのに、少し笑えた。

「小毬」

「はい」

「千燈」

「いるよ」

「依澄」

「いる」

「透羽」

「ここです」

 名前を呼ぶたび、声へ意味が戻ってくる。

 顔を見るだけでは足りない。透羽の早い返信、千燈の冗談、小毬の念押し、依澄の変わる好み。些細なことを思い返すたび、四人の輪郭が戻った。

 透羽が水膜を玄兎の周囲へ広げ、認識干渉を薄めた。

 千燈が周囲を見回す。

「自動処理なら、近くに中継点がない?」

 小毬はすでに匂いを追っていた。

「あります。地下じゃなくて、北講義棟の方」

 五人は回収路の示す『正しい道』を外れ、自分たちで選んだ方向へ進んだ。

     ◇

 匂いが辿り着いたのは、北講義棟の一階奥にある旧資料保管庫だった。

 大学側の許可を取り、透羽が扉を開ける。

 現在はデジタル化済みの資料を一時的に置くだけの、何の変哲もない部屋だ。古い棚と段ボールの間を、小毬は迷わず奥へ進んだ。

「これです」

 壁際に、古い金属製の設備票が取り付けられている。

 埃と大学の備品番号に埋もれ、ただの設備札にしか見えなかった。そんな日常の壁で、二十年もの間、中央へ戻す目印が残っていた。

 透羽が裏側を見ると、表情が変わった。

「回収標です。外部器の位置を固定し、中央へ向かう経路を決めるための中継標識です」

「止められる?」

「一時的なら。ただ、単純に壊すと別の標識へ切り替わる可能性があります」

 透羽が水を伸ばすより先に、金属板が反応した。

『外部器確認』
『人格完成』
『回収優先度、上昇』

 さらに、

『D-02反応を確認』
『補助個体、現実定着を確認』
『外部器回収時、D-02同期接続を推奨』

 と続いた。

 依澄が一歩前へ出る。

「私も帰る?」

『D-02は夢層へ復帰』

「復帰したら、大学は?」

 返事はない。

「パンは食べられる?」

 返事はない。

「玄兎たちと話せる?」

 沈黙したままだ。

 依澄は少しだけ眉を寄せた。

 夢層が本来の場所でも、今の依澄には大学の生活も、四人と明日の話をした時間もある。その先を答えない『復帰』を、彼女はじっと見た。

「嫌」

 迷いのない声だった。

「私も帰らない」

『回収工程に抵抗を確認』

「抵抗じゃない」

 玄兎は金属板へ一歩近づいた。

「本人として、回収を拒否する」

『外部器は中央封印資産』

「俺は資産じゃない」

『外部器は回収対象』

「俺は、今ここで生活してる」

『人格完成を確認』

「勝手に完成って決めるな」

 胸の痣が冷たく脈打つ。

「俺は明日も変わる」

『境界安定値、基準達成』

「好きなものも、怖いものも、誰を大事にするかも、まだ増える」

『回収条件達成』

「だったら、その条件が間違ってる」

 玄兎は金属板を睨んだ。

「俺の人生は、封印の完成品じゃない」

 短い沈黙が落ちた。

 声は怒りも戸惑いも見せず、条件を満たした対象としてしか扱わない。玄兎は、それでも自分と四人へ何を選んだかを残したかった。

 透羽が水を回収標へ流し込む。

「今、切ります」

「俺は?」

「ここにいてください。自分がどこにいたいかだけ、忘れないで」

「分かった」

 透羽の《白鷺浄界》が、旧式術式を一層ずつ剥がしていく。

 千燈は烏を外へ放ち、別の中継点の起動を監視する。小毬は匂いの流れを追い、依澄は夢側から重なる「帰還」の像を薄めた。

 玄兎は今日のことを思い出す。

 朝、五人で卵焼きを食べた。

 一限で地域都市史を受けた。

 昼は鶏の照り焼きを選んだ。

 そして、明日何を食べるかはまだ決めていない。

「明日の分まで、勝手に回収するな」

 透羽の水が術式の中心へ届いた。

 金属板を走っていた黒い線が、一本だけ音もなく途切れる。

『局所回収路、切断』

 無機質な声が消えた。

 玄兎の胸を満たしていた冷たさも、少しだけ遠のいた。

 張り詰めていた力が抜け、玄兎は棚へ背を預けた。

「先輩!」

「大丈夫。今回は本当に」

 小毬は文句を言いながらも、玄兎の肩口へ顔を寄せて匂いを確かめる。

「帰巣標識の匂い、薄くなりました。でも消えてません」

「一個止めただけだからな」

 透羽も無効化した金属板を確認し、頷いた。

「止めたのは、この中継点だけです。市内には同じものがいくつも残っているはずなので、第二段階そのものを止めなければ、別の経路からまた始まります」

 依澄が玄兎の隣へしゃがんだ。

「私も対象だった。ちょっと怖い」

「俺も」

 依澄は少し考えた。

「一緒に怖がる?」

「うん。一緒に怖がろう」

 その時、透羽の端末が震えた。

 静嶺からの連絡だった。

『回収工程の原記録を一部復号した』
『外部器およびD-02を本邸へ移送し、共有したい』
『拘束目的ではない』
『本人同意を求める』

 玄兎は最後の一行を二度読んだ。

 透羽の声が少し柔らかくなった。

「行く?」

 千燈が訊いた。

 玄兎は依澄を見る。

「私は行く。私のことでもあるから」

「俺も行く」

 言ってから、玄兎は四人を見回した。

「ただし全員で」

「最初からそのつもりです」

 透羽が答えた。

     ◇

 夕方六時を過ぎた頃、五人は鷺宮家本邸にいた。

 広間の机へ、静嶺が三枚の紙を並べる。

「まず、昼の拒否は撤回しなくていい」

 玄兎は顔を上げた。

「そこまで分かった?」

「ああ」

 静嶺は一枚目を指した。

『回収工程』
『外部器肉体を中央封印へ接続』
『保持断片を百獣繭内部へ再配置』
『人格境界を中枢識別層として固定』
『以後、外部器肉体の独立運用を終了』

 玄兎は最後の一行を読み直した。

「独立運用を終了」

「記録上、回収後に外へ戻し、人として生活させる想定はない」

 静嶺が答える。

「人格は?」

「中枢識別層として残る。ただし、今の玄兎として考え、話し、外部と関係を続けられる保証はない」

 玄兎は小さく息を吐いた。

 回収は、外で玄兎を生かす方法ではなく、外で生かす必要をなくす方法だった。昼の声が、その先へ答えなかった理由が分かった。

 次に静嶺は二枚目を示した。

『人格境界が強固であるほど、回収抵抗値上昇』
『対人固定因子が複数形成された場合、強制回収は推奨されず』
『強制回収時、固定因子との断裂により人格境界崩壊の危険』
『崩壊時、内部保持断片が同時解放される可能性』

 千燈が低く言う。

 その声には、いつもの軽さがなかった。

「強引に回収したら、玄兎くんの中の怪異まで一気に出るかもしれない」

「そうだ」

「じゃあ、今の自動工程は安全策ですらないんだ」

「現在の玄兎が、二十年前の設計者の想定以上に多くの固定因子を持ったからだろう」

 小毬が少し胸を張った。

「群れが強すぎた」

 静嶺が真顔のまま言った。

「表現はともかく、意味は近い」

 静嶺は最後の紙を出す。

「問題は、回収工程を止めても《百獣繭》そのものを放置できないことだ」

「俺を回収しない。それだけじゃ解決にならないんですね」

玄兎が言った。

「そうだ。本人の生活を守ることと、市内の封印を維持することを両立させる必要がある」

 静嶺は玄兎を見る。

「二十年前なら、そこで外部器の側へ負担を押しつけた。今それを繰り返すつもりはない」

 玄兎は、静嶺本人の言葉に少し驚いた。

「別の方法がある?」

 透羽が訊く。

「古い案だが、残っている。分散固定」

 一つの器へ全てを集約せず、複数の封印点と識別者へ負荷を分ける方式。

 紙面には、現在使われている中央集約式より古い考え方だと記されていた。効率が悪く、管理点が増え、維持する人間も必要になる。だから二十年前、より強力で単純な中央集約へ置き換えられたらしい。

 透羽は、中央へ集める線と分散する線を見比べた。

「今の条件で使えるか、確かめる必要があります」

「それに変えれば、俺へ全部集めなくていい?」

「理屈の上では」

「中央制御へ直接アクセスしなければ切り替えられない」

 玄兎は嫌な予感を覚えた。

「誰が入る?」

「少なくとも外部器。それと、夢層側の識別を行うD-02」

 依澄が静かに頷く。

「私」

「さらに現実側から人格境界を固定する識別者が必要になる可能性が高い」

 透羽、千燈、小毬が同時に玄兎を見た。

「……五人?」

「現段階では、その可能性が高い」

「危険は」

「高い。誰も死なない保証はできない」

 玄兎の喉が乾いた。

 自分一人なら、と考えかける。

 そこで止めた。

「考える時間は?」

 静嶺が答える。

「第三段階へ移行するまで。最短で四十八時間」

 部屋が静まり返った。

 玄兎は四人を見た。今ここで、自分一人の答えにはできなかった。

「明日、五人で決めたい」

 透羽は頷き、資料を閉じずに玄兎の前へ残した。

     ◇

 鷺宮家からの帰り道、五人はしばらく黙って歩いた。

 四十八時間。

 短い。

 依澄が玄兎の隣へ並ぶ。

「明日、何食べる?」

「まだ決めてない」

「じゃあ、明日決める」

 回収機構は完成したと判定した。けれど玄兎には、まだ決めていない明日の昼飯がある。

     ◇

 同じ頃、朽木ヶ丘市の地下深く、人の目に届かない封印層で《百獣繭》がゆっくり脈打った。

『外部器回収』
『D-02同期回収』
『固定因子、四』
『強制回収危険度:高』

 警告が並んでも、二十年前の自動機構は止まらない。

『第三段階準備』
『回収抵抗を排除』

 その瞬間、市内四か所に残された古い封印点が、一斉に起動した。

――第二十二話・了

この話、どうでしたか?

👥 登場人物紹介ネタバレを抑えた基本プロフィール
鵺代玄兎

CHARACTER 01

鵺代玄兎

ぬえしろ げんと

現実的で、妙な状況でもまず話を整理しようとする常識人寄りの青年。突然の怪異や騒動には戸惑いながらも、困っている相手を放っておけない。深刻な場面でも自然にツッコミが出るタイプ。

  • 物語の主人公
  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 常識人寄りのツッコミ役
俺が何者でも、困ってる人を置いていく理由にはならない。
鷺宮透羽

CHARACTER 02

鷺宮透羽

さぎみや とわ

冷静で生真面目。怪異への警戒心が強く、必要なことははっきり言う。危険な場面では自分が前に出ようとする、責任感の強い少女。

  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 鷺宮家の退魔師
  • 礼儀正しいがやや堅い
私が間に合う時は、あなたを死なせません。
緋鴉千燈

CHARACTER 03

緋鴉千燈

ひがらす ちとせ

余裕のある笑みを浮かべ、人をからかうのが上手な先輩。自然に距離を詰めてくる、つかみどころのない雰囲気を持つ。

  • 玄兎たちの先輩
  • 赤褐色の瞳
  • 人をからかうのが得意
秘密って、暴くより自分から話してもらう方が面白いよ。
白狼院小毬

CHARACTER 04

白狼院小毬

はくろういん こまり

明るく人懐っこい一年生。気になったことはすぐ口にし、匂いを確かめることに夢中になると相手との距離感まで忘れがち。

  • 朽木ヶ丘大学の一年生
  • 非常に鋭い嗅覚
  • 人懐っこく表情豊か
匂いは嘘をつきません。だから、何度でも見つけます!
蝶ヶ森依澄

CHARACTER 05

蝶ヶ森依澄

ちょうがもり いすみ

静かで穏やか、言葉数は少なめ。初対面からどこか不思議な印象を残し、感情表現は控えめだが答え方は率直。

  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 淡い青紫の瞳
  • 物静かでマイペース
今日が初めてなら、明日また会えばいい。

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