第二章・全36話中 22話

第二十二話 知らない場所へ、身体が勝手に帰ろうとする

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 朝六時四十分、鵺代玄兎は目覚まし時計が鳴るより少し早く目を覚ました。

 寒い。

 九月の朝だ。エアコンは二十七度に設定している。それなのに、胸の奥だけを冬の川へ浸したような冷たさがあった。

 玄兎は仰向けのまま、昨夜のことを思い返す。

 《百獣繭》が第二段階へ移行したあと、夢から目覚めなくなっていた一般人三名は、未明までに全員が意識を取り戻した。大きな身体異常はなく、眠っていた間の記憶もほとんど残っていない。

 助かった。

 その報告を読んだ時には、確かにそう思えた。

 けれど、《百獣繭》が市内の人間を夢の奥へ引き込み始めている事実まで消えたわけではない。

「……何だ、これ」

 身体を起こした時、左鎖骨の下が引きつった。

 玄兎はTシャツの襟を引き、鏡の前へ立った。

 生まれつきある黒い痣。その縁から、髪の毛ほど細い黒い線が三本伸びている。一本は胸の中央へ、一本は肩へ、もう一本は腹の方へ沈むように続いていた。

 皮膚へ描かれた線というより、身体の内側から影が浮き上がっているように見える。

 触れても痛くない。ただ、冷たい。

 玄兎は写真を撮り、五人のグループチャットへ送った。

 撮影した画面越しに見ると、黒い線は肉眼で見るより妙にくっきりしていた。血管とも傷とも違う。自分の身体にあるはずなのに、自分のものではない何かが、内側から経路を引いているように見える。

 昨夜までの玄兎なら、まず長さを測り、熱を確認し、何分で変化するか記録していたかもしれない。今もそれは必要だと思う。けれど一人で判断しないことも、ここ数週間で覚えた。

『起きてる人。ちょっと見てほしい。』

 十五秒も経たず、透羽から返事が来た。

『動かないでください。今から行きます。』

 続いて小毬。

『先輩!? 痛いですか!?』

『痛くない。胸が冷たい。』

 千燈からも返信が入る。

『朝から嫌な写真だね。私も向かう。』

 最後に依澄。

『玄兎。帰らないで。』

 玄兎の指が止まった。

『どこに?』

 少し間があってから、

『分からない。でも、帰る感じがする。』

 と返ってきた。

 胸の冷たさが、わずかに強くなる。

 その時、玄関の方から低い軋みが聞こえた。

 鍵もチェーンも掛かっている。それなのに、扉が外側からゆっくり押されるように内側へ撓んだ。

 床板の継ぎ目から、細い黒い水が染み出す。

 水は玄兎の足元まで一本の筋を作り、そのまま床の下へ続いていた。下の階には普通に住人の部屋があるはずなのに、耳を澄ますと遥か地下から水の流れる音がする。

 玄兎はドアスコープを覗かなかった。

 誰もいないと分かる方が怖い気がした。

 扉の向こうには、いつもの共用廊下がある。朝になれば隣室の住人が出勤し、階段を下りれば自動販売機があり、建物を出ればコンビニまで三分もかからない。そんな普通の場所のはずなのに、今だけ玄関が別のどこかへ通じる入口のように感じられた。

 黒い水は敷居を越えない。まるで玄兎が自分から一歩踏み出すのを待っているようだった。

 代わりに、扉の向こうから声がした。

『帰還準備』

 男とも女ともつかない、古い録音のような平坦な声だった。

『外部器人格、安定を確認』
『回収条件、一部達成』

「……本人の確認は?」

 思わず訊いた。

 返事はない。

 ただ、胸の黒い線だけが、一度脈打った。

     ◇

 透羽たち四人が玄兎の部屋へ揃ったのは、それから二十分ほど後だった。

「朝ごはん食べました?」

 玄関で靴を脱ぐなり、小毬が訊いた。

「そこから?」

「大事です」

「まだ。今から卵と味噌汁」

「なら許します」

「何の審査なんだよ」

 いつもの調子で返すと、小毬は少しだけ安心した顔をした。

 千燈は靴を脱ぎながら、玄兎の顔色と玄関の床を交互に見た。

「朝七時から部屋に黒い水が出る生活、慣れたくないね」

「俺も」

「雑巾で拭いた?」

「触っていいか分からなかった」

「正解」

 依澄は黒い水の跡が消えた床へしゃがみ込み、しばらく何もない場所を見ていた。

「まだ道がある」

「見える?」

「見えない。でも、こっちじゃないって感じる」

 彼女が指したのは床だった。

 玄兎は朝から何度目か分からない寒気を覚えた。それからすぐ玄兎へ近づき、肩口から胸元まで慎重に匂いを確かめる。

「玄兎先輩の匂いはあります。でも、奥にあった帰巣標識の匂いが、今日は近いです」

「近い?」

「皮膚のすぐ下まで出てきてる感じです」

 透羽も黒い線へ薄い水膜を触れさせた。

 波紋が細かく震える。

「封印術式の反応です。《百獣繭》の第二段階移行と連動している可能性が高いです」

 千燈が玄兎の顔を覗き込む。

「気分は?」

「胸が冷たい。あと、地下へ行った方が自然な気がする時がある」

「自然?」

「身体じゃなくて、意識が引っ張られる感じ」

 依澄が小さく頷いた。

「夢で呼ばれる時と似てる」

 透羽は端末を開いた。

「昨夜から旧資料の復号が進んでいます。まだ一部ですが、今朝の現象と一致する記述があります」

 画面には短い記録が表示されていた。

『外部器運用・第二段階』
『人格形成および外部生活による境界安定を確認後、回収工程へ移行』
『回収目的:中央大封印の再統合』

「人格が安定したら回収するのか」

 玄兎が言うと、透羽は一瞬だけ視線を伏せた。

「記録上は、そう読めます。ただ、回収後に玄兎の身体や人格がどうなるかは、まだ復号できていません」

「分からないまま戻れって言われてる?」

「はい」

 小毬が眉を寄せる。

「駄目です」

「まだ行くって言ってない」

「先輩、こういう時に『自分一人で戻れば街が助かるかも』って考えるでしょう」

 玄兎は返事に詰まった。

「今、考えましたね」

「……一瞬」

「先に嫌だって思ってください」

 玄兎は胸の黒い線を見る。

 その線を作った仕組みには、玄兎が大学へ通った日も、初めて一人でうまく味噌汁を作れた日も、四人と馬鹿な話をした夜も、たぶん全部ただの『安定化過程』にしか見えない。

 けれど玄兎にとっては、それぞれが別の日だった。失敗したことも、笑ったことも、今さら恥ずかしいこともある。封印を安定させるために積み上げたつもりなど、一度もない。

 以前なら、街が安全になる可能性を聞いた時点で、自分が消える条件を計算し始めていたかもしれない。

 今は違う。

「嫌だよ」

 口にすると、思ったより簡単だった。

「何が?」

 依澄が訊く。

「俺が知らない場所を、勝手に帰る場所って決められるのが」

「家じゃない?」

「違う」

「じゃあ帰還じゃない」

 依澄は平然と言った。

「連行」

 千燈が少しだけ笑う。

「言葉が強くなったね」

「合ってる?」

「かなり」

 玄兎は端末に残る『帰還準備』の文字を見た。

「じゃあ訂正しとく。俺は帰るって決めてない」

 胸の黒い線が、また一度だけ脈打った。

     ◇

 大学へ行くかどうかは少し揉めた。

 透羽は休むことを勧めたが、熱もなく、脈拍も正常だった。何より玄兎自身が、部屋で回収を待つように過ごしたくなかった。

「大学へ行きたい」

 それだけ言うと、透羽はしばらく玄兎を見てから息を吐いた。

「では全員で行きます」

「監視?」

「人格固定支援です」

「便利な名前になったな」

 千燈が笑い、小毬は冷蔵庫から勝手に卵を出した。

「私は群れ支援です」

「勝手に部署を作るな」

「無給です!」

「なお悪い」

 朝食を五人で片づけてから、大学へ向かった。

 外へ出る瞬間だけ、玄兎は玄関の敷居で足を止めた。

 朝、黒い水が引いていた線はもうない。

 それでも身体の奥では、建物の外へ出ることより、床を抜けて下へ行く方が近道だと分かっているような感覚が残っていた。

「玄兎?」

 透羽が振り返る。

「大丈夫。こっちから行く」

 玄兎は自分で扉を開け、廊下へ出た。

 たったそれだけの動作が、その朝は小さな選択に思えた。

 一限の講義は、驚くほど普通だった。

 地域都市史の教授が古い朽木ヶ丘市の地図を映し、玄兎はノートを取る。隣には透羽がいる。

 講義の途中、何度か地下へ引かれる感覚が強くなった。

「玄兎」

 透羽が小声で呼ぶ。

「今、少し遠くなりました」

「地下へ行った方が楽かもって思った」

「行きたいですか」

「行きたくない」

 即答すると、透羽は机の下で小さな水滴を一つ作り、玄兎の手首へ触れさせた。

「現在位置の確認です」

「冷たい」

「ここにいると分かれば十分です」

 講義が終わるまで、その水滴は玄兎の手首に残っていた。

 黒板の文字も、ノートへ書いた今日の日付も、隣の透羽も、全部が今いる場所を示していた。

 教授が戦後の水路再整備について淡々と話し続けている間にも、玄兎の胸の奥では別の水路が自分を待っている。

 その不釣り合いさが、むしろありがたかった。

 世界の全部が自分の異常へ付き合っているわけではない。講義は進み、学生は眠そうにノートを取り、誰かのシャープペンシルが床へ落ちる。

 玄兎はその普通さの中に、自分の席がまだあることを確かめた。

     ◇

 昼休み、五人はいつもの学食へ集まった。

 玄兎が鶏の照り焼き定食の箸を取った瞬間、胸の奥を強く引かれた。

「……っ」

「先輩?」

「来た」

 透羽の端末がほぼ同時に震える。

『回収路・局所起動』
『外部器位置:朽木ヶ丘大学』
『誘導開始』

 照明が一度だけ落ち、すぐに点いた。

 周囲の学生たちは「あれ?」と顔を上げるだけだった。

 けれど玄兎の目には、非常口の表示へ別の文字が重なって見えた。

『帰還』

 廊下の案内板にも、スマートフォンの地図にも同じ文字が浮かぶ。現在地から地下へ伸びた青い経路が、画面の中だけでなく玄兎の指先へ這い上がり、血管に沿って冷たい光を走らせた。

 周囲の学生は何も知らず、その「帰還」と書かれた出口を通り抜けていく。

 世界が変わったのではない。

 非常口を抜けた学生が、一瞬だけ底のない穴へ落ちたように見える。息を呑むと、その学生は数歩先の廊下を何事もなく歩いていた。

 玄兎が見ている『正しい道』と、他の人が歩いている現実がずれている。

 目を閉じれば少し楽になる。けれど目を閉じた瞬間、今度は身体の中に地下への傾斜が生まれた。

 視界だけの問題ではない。

 玄兎の認識だけが、中央へ戻るのに都合よく書き換えられている。

 そう理解した直後、右足が勝手に一歩前へ出た。

「先輩!」

 小毬が腕を掴む。

 止まろうとすると吐き気がした。床は水平なのに、地下へ向かう方向だけが「下」に感じられる。

「平衡感覚と方向認識への干渉です」

 透羽が玄兎の足元へ水を広げた。

「地下へ向かう方を自然な姿勢だと誤認させています」

「嫌な親切だな」

 その時、無機質な声が耳元へ響いた。

『外部器、中央へ』
『損耗停止』
『記憶摩耗停止』
『再構築負荷停止』

 玄兎は息を止めた。

 戻れば、もう死ななくていい。

 記憶も減らない。

 透羽が自分の死体の前で唇を噛むことも、千燈が血の中から壊れた記憶を拾うことも、小毬が生きている匂いを確かめることも、依澄が玄兎の記憶を心配することも、なくなるかもしれない。

 胸の奥へ、ほっとするような感覚が広がった。

 それが怖かった。

 嫌悪ではなく、安堵に近かったからだ。

 痛いのは嫌だ。死ぬのも怖い。忘れるのはもっと怖い。四人がそのたびに傷つくのを見るのも嫌だった。

 だから『全部終わる』という言葉に心が動くこと自体は、嘘ではない。

 ただ、その安堵が自分の意思なのか、回収路に作られた感情なのかが分からない。

 それを分からないまま選ぶことだけは、したくなかった。

「玄兎」

 透羽の声で顔を上げる。

「今、何を考えました」

「……行けば、みんなも少し楽になるかもって」

 小毬が何か言いかけたが、千燈が先に訊いた。

「その声、条件を全部言ってる?」

「いや」

「じゃあ、都合のいいところだけ見せてる可能性がある」

 依澄がカレーのスプーンを置いた。

「眠れば痛くない。夢なら嫌なことも少ない」

「うん」

「でも、明日がなくなるなら嫌」

 玄兎は非常口の『帰還』を見る。

「俺が戻ったあとも、大学へ来られる?」

 声は答えない。

「飯は食える?」

 答えない。

「みんなと話せる?」

 やはり答えない。

 玄兎は箸を持ち直した。

「じゃあ、今は行かない」

 照り焼きを一口食べる。

 甘辛い味が、ちゃんと舌に残った。

「うまい」

 小毬が目を丸くしてから、ようやく笑った。

「回収路起動中に昼ごはん続けるんですか」

「腹減ったし」

 千燈も肩の力を抜く。

「それでいいと思う」

 玄兎はもう一口食べた。

 痛みがないことより、今ここで自分が何を食べたいかを選べることの方を、その時は大事にしたかった。

     ◇

 昼食が終わる頃には、回収路の気配は大学の広い範囲へ伸びていた。

 一般の学生には見えない。

 けれど玄兎には、廊下のどちらへ曲がれば《百獣繭》へ近づくか、地図を見なくても分かった。

「嫌なナビだな」

「使わないでください」

「使わない」

 小毬が空気を嗅ぐ。

「床の下だけじゃないです。古い水路とか排水路とか、いろんなところで同じ匂いがします」

「市内の封印支流を回収路に使っているのかもしれません」

 透羽が言った。

 その時、依澄が立ち止まった。

「私にも見える」

「何が?」

「帰る道」

 全員が黙る。

「百獣繭へ?」

「同じ方。でも、玄兎より薄い」

 透羽がすぐに鷺宮家へ照会を送った。

 直後、玄兎の胸の黒い線が一気に伸びた。

「っ……!」

 膝から力が抜ける。

 透羽と小毬が左右から支えた。

『回収工程を継続』
『外部器抵抗を確認』
『人格付着情報の分離を開始』

 四人の声が、急に遠くなる。

 目の前にいるのに、透羽がなぜ自分を支えているのか分からなくなる。千燈、小毬、依澄も、顔は知っているのに、その顔へ結びつく時間だけが薄く剥がれていく。

 透羽の手が肩にある。触れられている感覚は分かる。それなのに、その手に安心していい理由だけが思い出せない。

 千燈が何かを言っている。声は聞こえるのに、彼女が自分の血を欲しがった夜や、その後で何度も自分を生きている側へ引き戻してくれたことが、古い写真の説明文のように遠くなる。

 小毬の指が腕へ食い込む。痛い。それでも、なぜこの後輩がこんなに必死なのかが一瞬だけ分からなくなり、その瞬間の方が痛みより怖かった。

 依澄を見ると、知らない女の子に見えかけた。

 六歳の頃から何かがつながっていたかもしれない相手。昨日、自分の過去から始まっても今は自分で選んでいると確かめた相手。その全部が、意味のない情報へ平らにされようとしている。

 玄兎は奥歯を噛んだ。

 昨日の《無縁水鏡》とは違う。

 今度は回収機構そのものが、四人との関係を「邪魔な付着物」として切り離そうとしている。

「付着じゃないです」

 小毬が玄兎の腕を強く掴んだ。

「私、先輩に勝手にくっついたゴミじゃないです」

「言い方……」

 苦しいのに、少し笑えた。

「小毬」

「はい」

「千燈」

「いるよ」

「依澄」

「いる」

「透羽」

「ここです」

 名前を呼ぶたび、声へ意味が戻ってくる。

 顔を見ただけでは足りなかった。

 透羽は、朝一番で十五秒もせず返事をした人だ。

 千燈は、危険な時ほど冗談を一枚挟んでから本気のことを言う。

 小毬は、匂いで分かるくせに言葉でも何度も確認する。

 依澄は、昨日まで好きだったものを今日あっさり変える。

 記録として並べれば些細な特徴だ。けれど、それを思い出した瞬間に四人の輪郭が戻った。

 回収機構が『人格付着情報』と呼んだものは、玄兎にとっては自分が今の自分でいるための外側だった。

 透羽が水膜を玄兎の周囲へ広げ、認識干渉を薄めた。

 千燈が周囲を見回す。

「自動処理なら、近くに中継点がない?」

 小毬はすでに匂いを追っていた。

「あります。地下じゃなくて、北講義棟の方」

 五人は、回収路が示す「正しい道」から横へ逸れた。

 地下へ行けという感覚に逆らい、自分たちで選んだ道を進んだ。

     ◇

 匂いが辿り着いたのは、北講義棟の一階奥にある旧資料保管庫だった。

 大学側の許可を取り、透羽が扉を開ける。

 現在はデジタル化済みの資料を一時的に置くだけの、何の変哲もない部屋だ。古い棚と段ボールの間を、小毬は迷わず奥へ進んだ。

「これです」

 壁際に、古い金属製の設備票が取り付けられている。

 埃をかぶり、大学の備品番号まで貼られている。怪異の核らしい威圧感など何もない。ここで働いていた職員が見ても、古い設備管理用の札としか思わなかっただろう。

 だから二十年残ったのかもしれない。

 特別な地下室ではなく、誰も気に留めない日常の壁に、中央へ戻すための目印だけが残されていた。

 透羽が裏側を見ると、表情が変わった。

「回収標です。外部器の位置を固定して、中央への経路を確定する中継標識」

「止められる?」

「一時的なら。ただ、単純に壊すと別の標識へ切り替わる可能性があります」

 透羽が水を伸ばすより先に、金属板が反応した。

『外部器確認』
『人格完成』
『回収優先度、上昇』

 さらに、

『D-02反応を確認』
『補助個体、現実定着を確認』
『外部器回収時、D-02同期接続を推奨』

 と続いた。

 依澄が一歩前へ出る。

「私も帰る?」

『D-02は夢層へ復帰』

「復帰したら、大学は?」

 返事はない。

「パンは食べられる?」

 返事はない。

「玄兎たちと話せる?」

 沈黙したままだ。

 依澄は少しだけ眉を寄せた。

 夢層へ戻る、という言葉だけを聞けば、依澄にとっては本来の場所へ帰るようにも聞こえる。

 けれど、彼女はもう夢層だけでできているわけではない。学食で選んだパンも、大学の講義も、小毬との言い合いも、千燈の血の匂いを嫌がったことも、透羽に注意されたことも、玄兎と明日の話をしたこともある。

 その全部を答えない『復帰』という言葉を、依澄はじっと見た。

「嫌」

 迷いのない声だった。

「私も帰らない」

『回収工程に抵抗を確認』

「抵抗じゃない」

 玄兎は金属板へ一歩近づいた。

「本人として、回収を拒否する」

『外部器は中央封印資産』

「俺は資産じゃない」

『外部器は回収対象』

「俺は、今ここで生活してる」

『人格完成を確認』

「勝手に完成って決めるな」

 胸の痣が冷たく脈打つ。

「俺は明日も変わる」

『境界安定値、基準達成』

「好きなものも、怖いものも、誰を大事にするかも、まだ増える」

『回収条件達成』

「だったら、その条件が間違ってる」

 玄兎は金属板を睨んだ。

「俺の人生は、封印の完成品じゃない」

 短い沈黙が落ちた。

 無機質な声は、怒りもしなければ戸惑いもしない。玄兎が何を言っても、条件を満たした対象としてしか扱わない。

 それが逆に、玄兎の腹を決めさせた。

 相手に理解してもらうために言っているのではない。

 自分が何を選んだのかを、自分と四人へ残すために言っている。

 透羽が水を回収標へ流し込む。

「今、切ります」

「俺は?」

「ここにいてください。自分がどこにいたいかだけ、忘れないで」

「分かった」

 透羽の《白鷺浄界》が、旧式術式を一層ずつ剥がしていく。

 千燈は烏を外へ放ち、別の中継点の起動を監視する。小毬は匂いの流れを追い、依澄は夢側から重なる「帰還」の像を薄めた。

 玄兎は今日のことを思い出す。

 朝、五人で卵焼きを食べた。

 一限で地域都市史を受けた。

 昼は鶏の照り焼きを選んだ。

 そして、明日何を食べるかはまだ決めていない。

「明日の分まで、勝手に回収するな」

 透羽の水が術式の中心へ届いた。

 金属板を走っていた黒い線が、一本だけ音もなく途切れる。

『局所回収路、切断』

 無機質な声が消えた。

 玄兎の胸を満たしていた冷たさも、少しだけ遠のいた。

 張り詰めていた力が抜け、玄兎は棚へ背を預けた。

「先輩!」

「大丈夫。今回は本当に」

「毎回それ言います」

 小毬は文句を言いながらも、玄兎の肩口へ顔を寄せて匂いを確かめる。

「帰巣標識の匂い、薄くなりました。でも消えてません」

「一個止めただけだからな」

 透羽も無効化した金属板を確認し、頷いた。

「局所中継点です。市内には同型が複数残っているはずです。第二段階そのものを止めなければ、別経路から再開します」

「根本は百獣繭」

「はい」

 依澄が玄兎の隣へしゃがんだ。

「玄兎」

「何?」

「私も対象だった」

「うん」

「ちょっと怖い」

「俺も」

 依澄は少し考えてから言った。

「一緒に怖がる?」

 夢の異変を調べ始めた頃、玄兎が彼女へかけた言葉だった。

 返されると、妙に胸へ残った。

「うん。一緒に怖がろう」

 その時、透羽の端末が震えた。

 静嶺からの連絡だった。

『回収工程の原記録を一部復号した』
『外部器およびD-02を本邸へ移送し、共有したい』
『拘束目的ではない』
『本人同意を求める』

 玄兎は最後の一行を二度読んだ。

「同意を求める、って書いてある」

「はい」

 透羽の声が少しだけ柔らかくなる。

「今の鷺宮家は、少なくとも二十年前の自動機構と同じ判断をしないつもりです」

「行く?」

 千燈が訊いた。

 玄兎は依澄を見る。

「私は行く。私のことでもあるから」

「俺も行く」

 言ってから、玄兎は四人を見回した。

「ただし全員で」

「最初からそのつもりです」

 透羽が答えた。

     ◇

 夕方六時を過ぎた頃、五人は鷺宮家本邸にいた。

 静嶺から届いた連絡には、珍しく最初から『本人同意を求める』と書かれていた。

 昼の回収標で玄兎と依澄が拒否したことを前提に、復号したばかりの記録を共有するためだった。

 広間の机へ、静嶺が三枚の紙を並べる。

「まず、昼の拒否は撤回しなくていい」

 玄兎は顔を上げた。

「そこまで分かった?」

「ああ」

 静嶺は一枚目を指した。

『回収工程』
『外部器肉体を中央封印へ接続』
『保持断片を百獣繭内部へ再配置』
『人格境界を中枢識別層として固定』
『以後、外部器肉体の独立運用を終了』

 玄兎は最後の一行を読み直した。

「独立運用を終了」

「記録上、回収後に外へ戻し、人として生活させる想定はない」

 静嶺が答える。

「人格は?」

「中枢識別層として残る。ただし、今の玄兎として考え、話し、外部と関係を続けられる保証はない」

 玄兎は小さく息を吐いた。

 昼に声が答えなかった理由が、ようやく分かった。

 嘘をついていたわけではない。

 回収されれば、外で死ぬことはなくなるのかもしれない。再構築を繰り返さなければ、記憶摩耗の原因の一部も減るかもしれない。

 ただし、それは『玄兎を安全に生かす』方法ではなく、『玄兎を外で生かす必要をなくす』方法だった。

 似ているようで、玄兎にとってはまるで違う。

 次に静嶺は二枚目を示した。

『人格境界が強固であるほど、回収抵抗値上昇』
『対人固定因子が複数形成された場合、強制回収は推奨されず』
『強制回収時、固定因子との断裂により人格境界崩壊の危険』
『崩壊時、内部保持断片が同時解放される可能性』

 千燈が低く言う。

 その声には、いつもの軽さがなかった。

 千燈は他人の血から記憶を拾える。だからこそ、人格という言葉をただの術式上の数値として扱う危うさを、他の誰より嫌っているのかもしれなかった。

「強引に回収したら、玄兎くんの中の怪異まで一気に出るかもしれない」

「そうだ」

「じゃあ、今の自動工程は安全策ですらないんだ」

「現在の玄兎が、二十年前の設計者の想定以上に多くの固定因子を持ったからだろう」

 小毬が少し胸を張った。

「群れが強すぎた」

「そこ誇るところ?」

「はい」

 静嶺が真顔のまま言う。

「表現はともかく、意味は近い」

 小毬が目を丸くした。

「当主さんが認めた」

「その言葉は使っていない」

 重い空気が、ほんの少しだけ緩んだ。

 静嶺は最後の紙を出す。

「問題は、回収工程を止めても《百獣繭》そのものを放置できないことだ」

 夢から戻れなくなった三人は助かった。けれど第二段階が続けば、同じことがまた起きる可能性がある。玄兎たちが回収を拒否したからといって、街の側の危険まで待ってはくれない。

「俺を回収しない。それだけじゃ解決にならないんですね」

 透羽が言う。

「そうだ。本人の生活を守ることと、市内の封印を維持することを両立させる必要がある」

 静嶺は玄兎を見る。

「二十年前なら、そこで外部器の側へ負担を押しつけた。今それを繰り返すつもりはない」

「鷺宮家として?」

「ああ」

 短い返事だった。

 玄兎はその言葉を、透羽ではなく静嶺本人から聞けたことに少し驚いた。

 過去の仕組みを作った家だから責任を取れ、と簡単に言える問題ではない。それでも、今いる人間が過去の仕組みをそのまま正しいことにしない。その一点だけは、朝の無機質な声とは明らかに違っていた。

「別の方法がある?」

 透羽が訊く。

「古い案だが、残っている。分散固定」

 一つの器へ全てを集約せず、複数の封印点と識別者へ負荷を分ける方式。

 紙面には、現在使われている中央集約式より古い考え方だと記されていた。効率が悪く、管理点が増え、維持する人間も必要になる。だから二十年前、より強力で単純な中央集約へ置き換えられたらしい。

 けれど、その『効率』のために一人へ全部を集めた結果が、今の玄兎だった。

 透羽は図から目を離さない。

「完全な解答ではありません。でも、玄兎一人を終点にする以外の考え方が、最初から存在していた」

「捨てられた方法?」

「はい。ただ、捨てられた理由と、今また使えるかは別です」

 玄兎はその言葉を覚えておくことにした。

「それに変えれば、俺へ全部集めなくていい?」

「理屈の上では」

「理屈の上では、ね」

「中央制御へ直接アクセスしなければ切り替えられない」

 玄兎は嫌な予感を覚えた。

「誰が入る?」

「少なくとも外部器。それと、夢層側の識別を行うD-02」

 依澄が静かに頷く。

「私」

「さらに現実側から人格境界を固定する識別者が必要になる可能性が高い」

 透羽、千燈、小毬が同時に玄兎を見た。

「……五人?」

「現段階では、その可能性が高い」

「危険は」

「高い。誰も死なない保証はできない」

 玄兎の喉が乾いた。

 自分一人なら、と考えかける。

 そこで止めた。

「考える時間は?」

 静嶺が答える。

「第三段階へ移行するまで。最短で四十八時間」

 部屋が静まり返った。

 玄兎は四人を見る。

 誰も、代わりに決めようとはしなかった。

 透羽は止めるとも行けとも言わない。千燈も、小毬も、依澄も同じだった。

 危険だから拒否するだけなら簡単だ。けれど放置すれば《百獣繭》は第三段階へ進む。市内の夢へ影響が出始めている以上、『何もしない』もまた一つの選択になる。

 だからこそ、玄兎一人の自己犠牲でも、四人の感情だけでも決められなかった。

「今日は決めない」

 玄兎が言った。

 透羽が頷く。

「はい」

「明日、五人で決める」

「うん」

 依澄も答えた。

 玄兎はその言葉を、自分一人で危険へ行くための猶予ではなく、本当に五人で考えるための時間として受け取った。

     ◇

 鷺宮家からの帰り道、五人はしばらく黙って歩いた。

 四十八時間。

 短い。

 けれど、急いで一人で決めていい時間ではない。

「玄兎」

 透羽が呼ぶ。

「何」

「一人で結論を出さないでください」

「今ちょうど、それ考えてた」

「悪い意味で?」

「いや。今回はちゃんと、五人で決める方」

 小毬が振り返った。

「本当ですか?」

「本当」

「匂いで確認します?」

「それで分かる?」

「分かりません!」

「分からないのかよ」

 千燈が笑い、依澄が玄兎の隣へ並ぶ。

「玄兎」

「何?」

「明日、何食べる?」

「まだ決めてない」

「じゃあ明日決める」

「うん」

 それで十分だった。

 回収機構は、玄兎を「完成した」と判定した。

 けれど玄兎には、まだ決めていない明日の昼ごはんすらある。

 完成した人生に、そんなものは残っていないはずだった。

     ◇

 同じ頃、朽木ヶ丘市の地下深く、人の目に届かない封印層で《百獣繭》がゆっくり脈打った。

『外部器回収』
『D-02同期回収』
『固定因子、四』
『強制回収危険度:高』

 警告が並んでも、二十年前の自動機構は止まらない。

『第三段階準備』
『回収抵抗を排除』

 その瞬間、市内四か所に残された古い封印点が、一斉に起動した。

――第二十二話・了

👥 登場人物紹介ネタバレを抑えた基本プロフィール
鵺代玄兎

CHARACTER 01

鵺代玄兎

ぬえしろ げんと

現実的で、妙な状況でもまず話を整理しようとする常識人寄りの青年。突然の怪異や騒動には戸惑いながらも、困っている相手を放っておけない。深刻な場面でも自然にツッコミが出るタイプ。

  • 物語の主人公
  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 常識人寄りのツッコミ役
俺が何者でも、困ってる人を置いていく理由にはならない。
鷺宮透羽

CHARACTER 02

鷺宮透羽

さぎみや とわ

冷静で生真面目。怪異への警戒心が強く、必要なことははっきり言う。危険な場面では自分が前に出ようとする、責任感の強い少女。

  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 鷺宮家の退魔師
  • 礼儀正しいがやや堅い
私が間に合う時は、あなたを死なせません。
緋鴉千燈

CHARACTER 03

緋鴉千燈

ひがらす ちとせ

余裕のある笑みを浮かべ、人をからかうのが上手な先輩。自然に距離を詰めてくる、つかみどころのない雰囲気を持つ。

  • 玄兎たちの先輩
  • 赤褐色の瞳
  • 人をからかうのが得意
秘密って、暴くより自分から話してもらう方が面白いよ。
白狼院小毬

CHARACTER 04

白狼院小毬

はくろういん こまり

明るく人懐っこい一年生。気になったことはすぐ口にし、匂いを確かめることに夢中になると相手との距離感まで忘れがち。

  • 朽木ヶ丘大学の一年生
  • 非常に鋭い嗅覚
  • 人懐っこく表情豊か
匂いは嘘をつきません。だから、何度でも見つけます!
蝶ヶ森依澄

CHARACTER 05

蝶ヶ森依澄

ちょうがもり いすみ

静かで穏やか、言葉数は少なめ。初対面からどこか不思議な印象を残し、感情表現は控えめだが答え方は率直。

  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 淡い青紫の瞳
  • 物静かでマイペース
今日が初めてなら、明日また会えばいい。

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