翌朝、朽木ヶ丘大学では、授業が始まる前から妙な噂が広がっていた。
同じ夢を見た学生が、何人もいるらしい。
黒い水の上に、大きな月が浮かんでいる。遠くで誰かが泣いていて、白い蝶が一匹だけ暗闇を飛んでいる。そして夢の最後には、必ず同じ言葉が聞こえる。
――待っている。
鵺代玄兎がその話を初めて聞いたのは、二限の講義が始まる十分前だった。
「玄兎、お前も見た?」
同じ講義を取っている木崎が、席へ座るなり訊いてきた。
「何を?」
「変な夢。黒い池みたいなのと、月と、蝶」
玄兎の手が止まった。
「……見てない」
「俺だけじゃないんだよ。昨日の夜、サークルのやつも三人見たって。SNSにも上がってる」
「同じ内容?」
「だいたい同じ。細かいところは違うけど、最後に『待ってる』って声がするらしい」
木崎は怪談の種でも見つけたように笑った。
「大学の七不思議に追加されるんじゃね?」
「そうかもな」
玄兎も笑ったが、声は少し硬かった。
黒い水、大きな月、白い蝶。そのどれもが、これまで玄兎たちの前に断片的に現れている。千燈が玄兎の血から拾った幼い頃の感覚、地下の残留情報が一瞬だけ映した六歳頃の夢景色、そして大学の旧研究室で見つけたD-02の記録だ。
『夢層外部観測個体』
『蝶型反応』
『外部器との接触後、現実側への定着率上昇』
『外部器:鵺代玄兎』
偶然で片づけるには、重なりすぎていた。
「玄兎」
隣から静かな声がした。
蝶ヶ森依澄だった。
「何?」
「私も見た」
玄兎は依澄へ顔を向ける。
「同じ夢?」
「うん。黒い水も、月もあった」
「蝶も?」
依澄は一瞬だけ考えた。
「いた。でも、あれは私だった」
「自分で分かるの?」
「夢だから身体はなかった。でも、あの蝶が私だって分かった」
玄兎の胸の奥が僅かに冷える。
「声は?」
「聞いた」
「待っている、って?」
「うん」
玄兎は周囲を確認した。まだ講義前で、近くの学生たちはそれぞれ自分たちの話に夢中だ。
「誰を待ってた?」
依澄は玄兎を見た。
「玄兎」
「……」
「たぶん、ずっと」
そこへ鷺宮透羽が講義室へ入ってきた。
玄兎の顔を見るなり、いつもの挨拶より先に言う。
「夢の話を聞きましたか」
「今ちょうど」
「鷺宮家でも観測されています。市内で、同一傾向の夢が急増しています」
「昨夜の《百獣繭》の警戒値上昇と関係ある?」
「可能性が高いです」
透羽の視線が依澄へ向く。
「依澄さん。何か感じますか」
「昨日より、夢が近い」
「現実との境界が?」
「うん。大学全体が、少し眠りかけてる感じ」
玄兎が眉を寄せた。
「大学が眠るって何」
「人じゃないから、本当に眠るわけじゃない」
「それは分かってる」
「でも、建物の向こうに夢が重なってる」
依澄は窓の外を見た。
透羽も同じ方向へ視線を向ける。朝の光を受けた講義棟、歩いていく学生、駐輪場へ滑り込む自転車。人間の目には、いつもと何も変わらない朝だった。
「今日の講義後、五人で集まりましょう」
「鷺宮家から何か来てる?」
「昨夜の警戒値上昇について、追加観測の依頼が来ています」
「依頼?」
玄兎は少し驚いた。
「命令じゃなくて?」
「昨日の件で、扱いが変わりました」
「少し進んだな」
「はい」
透羽はそれだけ答えた。
依澄は二人を見比べてから、また玄兎へ向き直る。
「玄兎」
「何?」
「夢の中の私は、玄兎を待ってた」
「うん」
「でも私は、いつから待ってたか覚えてない」
「それも調べよう」
「怖い?」
「かなり」
「私も」
依澄がそんなふうに自分から恐怖を口にするのは珍しかった。
玄兎は少しだけ表情を和らげる。
「じゃあ、一緒に怖がろう」
「うん」
依澄は、それで少し安心したように頷いた。
◇
昼休み。
五人は図書館の個室型学習スペースへ集まった。
千燈は午前の講義を終えてから合流し、小毬は購買で買った大きなカツサンドを持ち込んでいる。
「また夢の怪異ですか」
小毬はカツサンドを食べながら言った。
「最近、夢と記憶と写真と匂いが多いです」
「専門分野が揃ってきたね」
千燈が笑う。
「私は血、小毬ちゃんは匂い、依澄ちゃんは夢、透羽ちゃんは水」
「俺は?」
「死なない」
「最後だけ雑」
「でも事実」
「今は死なない方向で運用してる」
「そこ大事」
透羽が端末を机へ置いた。
「現在、同一夢の報告は大学関係者だけで百二十件を超えています」
「そんなに?」
「夢の内容を記録している人だけなので、実数はもっと多いと思います。市内全体でも、似た報告が増えています」
「共通点は?」
「黒い水、大きな月、白い蝶、それから『待っている』という声。この四つです」
千燈が腕を組む。
「玄兎くんの昔の記憶断片と一致しすぎてる」
「はい」
「D-02とも」
「はい」
依澄は黙って聞いていた。
玄兎が横顔を見る。
「大丈夫?」
「分からない」
「分からない時は、それでいい」
「うん」
小毬が水を一口飲んでから、依澄を見る。
「匂い、確認していいですか?」
「うん」
依澄が肩を向ける。
小毬は少し近づき、慎重に空気を吸った。
「……薄いです」
玄兎の声が少し強くなる。
「消えそう?」
「前に大学から名前が消えた時とは違います」
「どう違う?」
「前は、依澄先輩の匂いが世界から離れていく感じでした。今日は逆です」
「逆?」
「増えてます」
「何が?」
小毬は部屋の中を見回した。
「依澄先輩の匂いが、本人以外にもあります。壁、机、窓、床。すごく薄いけど、部屋全体に」
千燈の表情が変わった。
「依澄ちゃんが増えてる?」
「本人が増えてるというより」
小毬は言葉を探す。
「依澄先輩と同じ場所から来た匂いが、部屋に染みてる感じです」
「夢が現実へ滲んでる」
依澄が言った。
「私の方が現実へ来てるんじゃなくて、夢の方がこっちへ来てる」
透羽が端末へ新しい観測図を表示した。
「鷺宮家の観測でも、《百獣繭》内部の夢層が上昇しています」
「上昇?」
「地下で物理的に上がっているわけではありません。封印構造上、現実側との距離が近づいているという意味です」
「このままだと?」
「夢の内容が現実へ一時的に重なる可能性があります」
玄兎は依澄を見る。
「《蝶境》みたいに?」
「似てる。でも私がやってない」
「百獣繭が勝手に?」
「うん」
千燈が少し考えた。
「D-02が依澄ちゃんだとしたら、夢層が現実へ近づくことで依澄ちゃんの情報が増幅されてる?」
「可能性があります」
透羽が答える。
「ただし、D-02と依澄さんが完全に同一だとは、まだ断定できません」
「断定しない」
玄兎が言った。
「でも、分かったことは本人へ全部話す」
「はい」
依澄は玄兎を見る。
「玄兎」
「何?」
「私がD-02だったら、私は人じゃない?」
透羽は少しだけ迷ったが、正直に答えた。
「人間ではない可能性は高いです」
依澄の目が僅かに下がる。
「じゃあ私は」
「でも」
玄兎が先に言った。
「それで今の依澄が変わるわけじゃない」
「まだ何も聞いてない」
「『じゃあ私は何』って言いそうだった」
依澄は少し驚いたような顔をした。
「言おうとした」
「分かるようになってきた」
「私を?」
「少し」
依澄はそれを聞いて、僅かに笑った。
「嬉しい」
「それも分かる」
「すごい」
「依澄が分かりやすくなった」
「人間っぽい?」
「依澄っぽい」
「それ好き」
小毬が口を挟む。
「そのやり取り、最近の定番ですね」
「好きだから」
依澄が当然のように言う。
「何が?」
玄兎が聞き返した。
「玄兎に『依澄っぽい』って言われるの」
今度は玄兎の方が少し黙った。
千燈が楽しそうに目を細める。
「依澄ちゃん、最近かなり言うね」
「言わないと分からないから」
「誰が?」
「玄兎」
「それはそう」
「千燈まで」
玄兎が困った顔をする。
透羽は少しだけ目を逸らした。
小毬はその反応を見逃さない。
「透羽先輩」
「何ですか」
「通常ですか」
「通常です」
「便利」
千燈まで同じ言葉を使った。
「千燈まで言わないでください」
ほんの少し空気が和らいだ。
その時、図書館の外から誰かの悲鳴が聞こえた。
◇
五人が廊下へ出ると、図書館の閲覧スペースの景色が変わっていた。
最初に異常へ気づいたのは、音だった。ページをめくる音、椅子を引く音、学生たちの囁きが、全て水の底から聞くようにくぐもっている。口を動かす学生と声のタイミングも少しずつずれ、先に笑い声がしてから顔が笑う者までいた。
壁の時計は秒針だけが逆向きに進んでいた。窓の外には昼のキャンパスが見えるのに、ガラスへ映る室内は夜で、机の間を白い蝶が飛んでいる。玄兎が振り返るたび、本棚の列が一本ずつ増え、出口までの距離が長くなっていった。
本来は木目調の床であるはずの場所に、黒い水面が重なって見える。
実際に水が溜まっているわけではない。踏めば靴底は濡れず、床板の感触もある。それでも目には、暗い水がゆっくり波打っているように見えた。
天井近くには巨大な月が浮かび、その下を何匹もの白い蝶が舞っている。昼の建物の中にはあり得ない光景だった。
「夢が重なった」
依澄が言う。
学生たちは混乱していた。
「何これ」
「映像?」
「床、濡れてないよな?」
「蝶、本物?」
透羽がすぐに役割を決める。
「玄兎は学生を外へ。千燈は奥の確認。小毬は動けない人を探してください。依澄さんは夢の広がりを見て」
「分かった」
「了解」
「はい!」
「うん」
玄兎は近くの学生へ声をかけた。
「床は見た目だけです。走らず、出口へ移動してください」
「鵺代、これ何?」
「大学側が確認します。今は外へ」
自分でも苦しい説明だと思う。
けれど、パニックを抑える方が先だった。
数分で、閲覧スペースの学生をほぼ外へ出せた。
最後に残った一人の女子学生が、黒い水面を見たまま動けなくなっている。
「大丈夫?」
玄兎が近づく。
「弟が」
「弟?」
「あそこにいる」
彼女が指差した先には、黒い水の上へ小学生くらいの男の子が立っていた。
もちろん、現実にはいない。
男の子の制服からは水が滴っていた。だが黒い水面へ落ちるはずの雫は途中で止まり、下から上へ戻っていく。青白い顔には笑みがあり、唇だけが何度も「お姉ちゃん」と動いているのに、声は女子学生の背後から聞こえた。
玄兎が横へ一歩動くと、男の子の目だけがこちらを追った。姉へ向けているはずの笑顔を崩さず、黒い瞳で玄兎を見ている。夢が本人の記憶から姿を借りているだけで、その中身は弟ではない。頭ではそう分かっていても、女子学生には一番会いたかった顔にしか見えないのだろう。
「亡くなった弟です。去年」
女子学生の声が震える。
夢が、人の強い願いを現実へ引き出している。
玄兎は依澄を見る。
「《夢蛹》に近い?」
「うん。でも私がやってない」
女子学生が弟へ一歩進んだ。
「待って!」
玄兎が腕を掴む。
「離して!」
「本物じゃない!」
「でも、一回だけ」
「一回が終わらなくなるかもしれない」
玄兎は言葉を選んだ。
以前、自分も幸せな夢に留まりかけたことがある。依澄と二人で暮らし、何の不安もなく朝を迎える夢だった。
幸せだった。
だからこそ、危険だった。
偽物だから価値がないのではない。心地よすぎるから、現実へ戻る理由を失ってしまう。
「そこに行ったら、明日へ戻れないかもしれない」
女子学生は泣きながら首を振る。
「会いたいの」
「分かる」
依澄が静かに言った。
「夢は、欲しいものをくれる。でも、欲しいものだけにすると、明日がなくなる」
女子学生が依澄を見る。
「あなた誰?」
「夢にいたことがある人」
「何それ」
「私も、戻りたくなくなったことがある」
依澄は男の子を見る。
「でも私は、明日を選んだ」
女子学生の足が止まった。
玄兎はゆっくり腕を離す。
「外へ行こう」
しばらくして、彼女は泣きながら頷いた。
小毬が駆け寄り、そのまま出口まで付き添う。
玄兎は依澄を見る。
「今の言葉、覚えてた?」
「覚えてる」
「俺も」
「よかった」
「うん」
その直後、一匹の白い蝶が玄兎の胸元へ降りた。
実体はないはずなのに、左鎖骨の下の痣が強く熱を持つ。
「っ……」
「玄兎」
依澄がすぐに手を伸ばした。
蝶が光へ変わり、その光が弾けた瞬間、図書館の景色は跡形もなく消えた。
◇
気づくと、玄兎は黒い水の上に立っていた。
そこにはもう大学の建物はなかった。空には巨大な月が浮かび、足元にはどこまでも黒い水が続いている。不思議なことに、靴も服も濡れていない。
遠くに、六歳くらいの小さな子供が一人座っていた。黒い髪も、華奢な肩も、幼い頃の玄兎自身によく似ている。身体そのものはきちんと人の形を保ち、胸も一定の間隔で上下していた。
けれど、近づくほど別の異常が見えてきた。
黒い水面に映る子供の顔が、一呼吸ごとに少しずつ変わる。六歳の玄兎だったはずの顔が、知らない子供の輪郭へ滲み、次の瞬間にはまた元へ戻る。子供が自分の手を見るたび、指の数や形が変わるのではなく、「これは自分の手だ」という確信だけが抜け落ちるように表情が怯えた。
周囲には、家の台所、学校の廊下、母親らしい人影、知らない病室が、薄いガラス板を何枚も重ねたように現れては消えていた。同じ場所なのに家具の位置が変わり、同じ人影なのに顔だけが思い出せない。名前を呼ぼうとすると別の名前が口元まで浮かび、すぐ黒い水へ沈んでいく。
身体はすでに生きている。
それなのに、自分が誰で、どこへ帰ればよくて、目の前の記憶が本当に自分のものなのか。そのつながりだけが何度もほどけかけていた。
玄兎は、その後ろ姿を見ただけで胸が詰まった。
「俺だ」
おそらく、六歳頃。
鷺宮家の内部記録で、生命活動が戻ったあとも認知と人格の照合値が三日間安定しなかった時期。
子供の玄兎は、黒い水の上へ裸足で座り込んでいた。
玄兎が名前を呼ぼうとすると、口から出かかった「玄兎」という音が途中でほどけ、知らない誰かの名前へ変わりかけた。慌てて口を閉じると、今度は自分の家の玄関がどんな形だったのか分からなくなる。
過去を眺めているだけのはずなのに、「自分だと思っていたものが一つずつ手から滑り落ちる」感覚だけが現在の玄兎にも流れ込んできた。
足元の水面には、今の玄兎と六歳の玄兎が交互に映る。その間へ見覚えのない顔が一瞬だけ混じるたび、玄兎は自分の名前を頭の中で確かめた。
鵺代玄兎。
今ここにいる自分は、その名前で呼ばれている。
そう確かめなければ、夢の水にまで輪郭を奪われそうだった。
「痛い」
小さな声がする。
「痛い」
玄兎はゆっくり近づいた。
「おい」
子供は反応しない。
「死ぬの嫌だ」
玄兎の足が止まった。
事故の瞬間に感じた恐怖まで、この夢には混ざっているらしい。
けれど、子供が次に口にしたのは傷のことではなかった。
「忘れたくない」
小さな手が、自分の胸元を押さえる。
「お母さんの顔、分かんなくなるの嫌だ。家、どこだったか分かんなくなるの嫌だ」
「……」
「俺が俺じゃなくなるの、嫌だ」
玄兎は息を呑んだ。
六歳の自分が実際に同じ言葉を口にしたのか、それとも不安定だった認知を今の玄兎が夢の中で言葉へ置き換えているのかは分からない。
それでも、恐怖だけは作り物には思えなかった。
「これ……俺の記憶なのか?」
返事はない。
その時、一匹の白い蝶が子供の玄兎の周囲を飛び始めた。
「誰?」
子供が顔を上げる。
蝶は答えない。
「帰りたい」
白い蝶が淡く光る。
「お母さん」
また光る。
「家」
さらに強く。
「俺の部屋。いつものご飯。俺の名前」
子供の周囲へ、少しずつ景色が生まれていく。暖かい部屋と小さな食卓、見慣れていたはずの椅子、玄関へ置かれた小さな靴。断片しかなかったものが、子供の言葉へ応じるように一つの場所へ結び直されていく。
誰かが子供へ手を差し出していた。
玄兎には、その人の顔までは見えない。それでも子供は、その人影を見た瞬間に「お母さん」と呼んだ。
失われた記憶が完全に戻ったわけではない。ただ、自分が帰りたい場所と、自分を呼んでくれる誰かの存在だけは、夢の中で細い一本の道になっていた。
「依澄」
玄兎は思わず呟いた。
白い蝶が、こちらを向いたように見えた。
「これ、依澄なのか」
子供の玄兎が蝶へ手を伸ばす。
「待ってて」
玄兎の身体が強張った。
以前見つけた古い記録の最後に残っていた言葉。
『待っている』
「俺が言ったのか?」
子供は蝶へ向かって何かを続けようとする。
「戻ったら……一緒に」
その先の声は途切れた。
黒い水面が大きく揺れる。
今度は、どこからともなく機械的な声が聞こえた。
『心肺反応停止』
『再構築反応、開始』
『外部器、呼吸再開』
『生命活動、安定域へ移行』
『認知照合値、不安定』
『人格照合値、不安定』
『夢層反応、接近』
『D-02、外部器へ接触』
『再接触条件:外部器の再構築に伴う人格情報の夢層深部への沈降』
『条件一致』
玄兎は反射的に振り返った。
誰もいない。
『認知照合値、回復傾向』
『人格安定率、上昇』
『現実側自己認識、接続率上昇』
『夢層個体、外部器記憶を参照』
『D-02自己組織化、進行』
「待て!」
玄兎は声を上げた。
「それ、どういう意味だ!」
答えの代わりに、遠くから幼い女の子の声が聞こえた。
『待っている』
依澄の声によく似ている。
けれど、今よりずっと幼い。
「玄兎」
今度は、はっきりと今の依澄の声だった。
「玄兎。起きて」
夢の景色が、ガラスのように大きく割れた。
◇
玄兎が目を開けると、図書館の床に座り込んでいた。
依澄が目の前にいる。
両手で玄兎の頬を挟み、珍しく切迫した顔をしていた。
「玄兎」
「依澄」
「分かる?」
「分かる」
「私」
「蝶ヶ森依澄」
「よかった」
依澄の肩から、目に見えるほど力が抜けた。
透羽もすぐ隣へ膝をついている。
「意識消失は約二分です」
「そんなに短い?」
「体感は?」
「もっと長かった」
千燈もしゃがみ込む。
「何を見た?」
「六歳くらいの俺」
四人の表情が変わる。
透羽が慎重に確認する。
「鷺宮家の内部記録に、事故直後の短い心肺停止相当反応と、その後の再構築反応が残っていた時期ですか」
「たぶん。病院に着いた頃にはもう喋れてたって記録の、あの事故だと思う」
「依澄さんは?」
透羽が訊く。
「いた」
玄兎は依澄を見る。
「白い蝶で」
依澄の目が少し大きくなる。
「私?」
「たぶん」
「話した?」
「俺が一方的に」
「何を?」
「痛い。死ぬの嫌だ。家に帰りたいって」
自分の幼い声を思い出すだけで、胸が苦しくなる。
「それで、蝶が夢を作った。暖かい部屋とか、食卓とか」
「玄兎の欲しいもの」
「うん」
「私が作った?」
「たぶん」
依澄の表情が僅かに歪んだ。
「他には?」
透羽が慎重に訊く。
「記録みたいな声がした。最初に心肺反応停止。そのあと再構築反応が始まって、呼吸再開、生命活動は安定域へ移行。それでも認知と人格の照合値は不安定って続いてた」
玄兎はそこで一度言葉を切った。夢の中で聞いた機械音を、抜け落ちないようにゆっくり思い返す。
「そのあと、D-02が外部器へ接触。『再接触条件』は、『外部器の再構築に伴う人格情報の夢層深部への沈降』。条件一致。それから認知照合値が回復傾向、人格安定率上昇、現実側の自己認識との接続率も上がった。D-02の方は俺の記憶を参照して、自己組織化が進んだって」
透羽の眉がわずかに寄った。
「生命活動が戻ったあとも不安定だった認知と人格が、D-02との接触後に安定方向へ動いている……」
「うん。鷺宮家で見せてもらった六歳時の記録では、その値が安定するまで三日かかったって話だったよな」
「はい。夢の中で聞いた内容と矛盾しません」
透羽の表情が変わった。
「……以前の記録とつながります」
「何?」
「依澄さんの観測記録に、最後だけ黒く伏せられていた一文がありました。『再接触条件:外部器の――』。そこから先を読むことができなかったんです」
透羽は端末を開き、保存していた転記を確認する。玄兎も横から覗き込んだ。
『再接触条件:外部器の――』
確かに、そこで途切れている。
「今、玄兎が夢の中で聞いた内容を続ければ、文として自然につながります」
透羽は指先で黒塗りの部分をなぞった。
「六歳の事故では、心肺停止に相当する反応のあと、身体の再構築と生命活動の回復は比較的早く進んでいます。一方で、内部記録では認知と人格の照合値が三日間安定しなかった。その不安定な期間に、玄兎の人格情報の一部が夢層深部へ沈み、D-02と接触した――今の記録を合わせるなら、そう読むことができます」
「じゃあ、三日間ずっと死んでたんじゃなくて、身体は戻ってるのに、俺の中の何かだけが夢の深いところまで落ちてた?」
「その可能性が高いです。ただし、『人格情報が沈んだ』ことが玄兎の意識そのものを意味するのか、記憶や認知の一部だけなのかまでは、この記録だけでは決められません」
透羽はそこで一度言葉を切った。
「少なくとも、依澄さんが現実側から玄兎を無理に引き込んだというより、再構築後も不安定だった玄兎側の情報が夢層深部へ届き、そこでD-02と接触したと考える方が自然です」
透羽は記録をもう一度見てから付け加えた。
「順番も重要です。呼吸と生命活動の安定は、D-02との接触より前に記録されています。ですからD-02が玄兎の身体を蘇生させた、と読むことはできません。接触後に変化しているのは、認知・人格の照合と、現実側の自己認識へつながる値です」
依澄はしばらく黙って玄兎を見ていた。
「じゃあ、待ってた場所に玄兎が来た」
「うん」
玄兎は頷いた。
「たぶん、あの時の俺が」
千燈が最初に口を開く。
「かなり強い証拠だね」
「うん」
「依澄ちゃん」
「うん」
「これまでで一番、D-02が君だって可能性が高くなった」
「うん」
依澄は否定しなかった。
そこへ小毬が戻ってくる。
「外の避難、終わりました。どうしました?」
玄兎が簡単に説明すると、小毬の表情もすぐに真剣になった。
「じゃあ依澄先輩は、六歳の玄兎先輩の夢を見て、それを使って」
「私になった?」
依澄が自分で言った。
玄兎はすぐに首を振る。
「まだそこまでは言えない」
「でも、玄兎の記憶を参照した」
「うん」
「人格安定化」
「うん」
「私の性格も、好きなものも、玄兎から?」
「分からない」
「玄兎のコピー?」
「違う」
今度は、玄兎が強く言った。
「そこは違うと思う」
「どうして?」
「俺、メロンパンよりブラックコーヒーの方が好き」
「私は日によって変わる」
「今日は?」
依澄は少し考える。
「塩パン」
「ほら」
「それだけ?」
「それだけじゃない」
玄兎は依澄を見る。
「俺は、知らない人にいきなり恋人って訊かない」
「私は訊いた」
「俺は人の袖を勝手につままない」
「私はつまむ」
「俺は毎日好きなパン変わらない」
「私は変わる」
「だから、少なくとも今の依澄は俺じゃない」
依澄は少しだけ笑った。
けれど、その笑顔にはまだ不安が残っていた。
「玄兎」
「何?」
「もし私が、玄兎が寂しかったからできたなら」
「うん」
「玄兎が寂しくなくなったら、私はいらない?」
その問いに、玄兎はすぐに答えられなかった。
依澄の目が少し下がる。
「やっぱり」
「違う」
「遅かった」
「ちゃんと考えた」
「何を?」
「いらないとか、必要とか、そういう言い方にしたくないから」
玄兎は依澄を見る。
「俺が六歳の時、依澄を必要としたのかもしれない」
「うん」
「でも今は、必要だから一緒にいるんじゃない」
「じゃあ何?」
「一緒にいたいから」
依澄の目が止まる。
透羽も千燈も小毬も、何も言わず二人を見ていた。
「必要と、いたいは違う?」
「違うと思う」
「私は玄兎が必要」
「うん」
「でも」
依澄は自分の胸へ手を置いた。
「玄兎がいなくても、千燈と話したい。小毬とご飯食べたい。透羽に怒られたい」
「最後は変じゃない?」
透羽が思わず言う。
「怒られると、人間っぽい」
「そういう理由で怒っているのではありません」
「でも好き」
「……そうですか」
依澄は小さく笑った。
「じゃあ、私も玄兎だけからできてるわけじゃない」
「そう」
「今の私は、増えた?」
「かなり」
「何が?」
「千燈、小毬、透羽、大学、パン、昨日、今日」
「玄兎も」
「俺も?」
「私の中に増えた」
玄兎は少し黙った。
「それ、嬉しい」
「私も」
依澄は今度こそ、ちゃんと笑った。
けれど、笑顔が消える前に、依澄はもう一つだけ訊いた。
「玄兎」
「何?」
「私が玄兎の記憶を使って人になったなら、玄兎を好きなのも、そのせいかもしれない?」
その問いには、さっきまでとは違う怖さがあった。
それは、自分が誰なのかという不安だけではない。自分の気持ちまで自分のものではないかもしれない、という恐怖だった。
玄兎はすぐに軽い言葉で否定しなかった。
「可能性だけで言えば、最初のきっかけには影響してるかもしれない」
依澄の目が僅かに曇る。
「でも」
玄兎は続けた。
「俺の記憶を参照しただけで、今の依澄の気持ち全部が決まるなら、依澄はもっと俺に似てるはずだと思う」
「さっきのパン?」
「パンだけじゃない」
玄兎は指を折りながら考える。
「俺は初対面の相手に、恋人は何をする人かなんて訊かない。人の袖を自然に掴んだりもしない。昨日と今日で好きな食べ物が変わることもそんなにない」
「うん」
「千燈が寂しそうな時に、理由を説明される前から気づくのも依澄だし、小毬が怒ってる時に真正面から『怒ってる?』って聞けるのも依澄だし」
「透羽は?」
「透羽に怒られるの好きなのも、たぶん依澄だけ」
「それは好き」
「知ってる」
透羽が横から少しだけ眉を寄せた。
「私を例に使わないでください」
「ごめん」
依澄は小さく笑う。
玄兎はその笑い方を見てから、もう一度真面目に言った。
「俺の中にあった言葉とか記憶が、最初の材料になったのかもしれない。でも、その材料で何を選んだかは依澄だろ」
「選んだ」
「名前も」
「うん」
「明日も大学へ来たいって思ったのも」
「うん」
「俺を好きかもしれないって悩んだのも」
「うん」
「じゃあ、少なくとも今の気持ちは依澄のものだと思う」
依澄はしばらく玄兎を見つめていた。
「玄兎」
「何?」
「今の言葉、覚えてて」
「分かった」
「私がまた怖くなったら、言って」
「何回でも?」
「何回でも」
玄兎は少し笑う。
「みんな同じこと言うようになってきたな」
「大事だから」
依澄はそう言って、今度こそ安心したように息を吐いた。
◇
図書館の夢の重なりは、玄兎が目を覚ましたあと少しずつ薄れていった。
ただ、市内の夢現象そのものが止まったわけではない。
透羽の端末には、《百獣繭》内部の観測値が上昇し続けていることを示す警告が出ている。
「夢層圧が上がっています」
「今ので原因分かった?」
「一部だけです」
「D-02が動いたから?」
「依澄さんの反応と同期している可能性はあります。ただ、夢層だけではありません」
透羽は画面を拡大する。
「怪異層も同時に上昇しています」
「両方?」
千燈の表情が曇る。
「はい」
「玄兎くんと依澄ちゃん」
「外部器とD-02」
玄兎は嫌そうな顔をした。
「俺ら、記録上ずっとセット扱い?」
「かなり」
依澄が玄兎を見る。
「セット」
「嬉しい?」
「少し」
「そこは嬉しいんだ」
「玄兎と同じ記録にいる」
「意味は怖いけどな」
「うん。でも少し嬉しい」
小毬がすぐに口を挟む。
「私たちも共有ノートではセットです!」
「競うところ?」
「大事です!」
透羽が画面から目を離した。
「問題は、夢層と怪異層が同時に現実へ近づいていることです」
「混ざったら?」
「百獣繭が保持している怪異、願い、恐怖、記憶が、区別されないまま現実側へ漏れる可能性があります」
「市全体?」
「最悪の場合は」
部屋の空気が重くなる。
「いつ?」
玄兎が訊く。
「分かりません。ただ、警戒値の上がり方が昨夜より速い」
「鷺宮家は何する?」
「封印圧を下げる手順を準備しています」
「俺は?」
透羽が少し黙った。
「現時点では待機要請です。外部器を不用意に《百獣繭》本体へ近づけるのは危険です」
「でも向こうが俺を呼んでる」
「はい」
「依澄も?」
「たぶん」
依澄が自分の胸元へ手を置く。
「私は呼ばれてるというより、『戻ってきて』って感じ」
「どこへ?」
「夢の中」
玄兎の顔が強張る。
「行かないで」
考えるより先に言葉が出た。依澄は少し驚いたように目を瞬いた。
「まだ行ってない」
「分かってる。でも、行かないでほしい」
「私が消えるの嫌?」
「嫌」
今度は、考える時間さえ必要なかった。
「前に一度、依澄が消えかけた時でもう十分だ」
「うん」
「もう嫌だ」
依澄の表情が少しだけ柔らかくなる。
「私は玄兎が死ぬの嫌」
「うん」
「記憶なくすのも嫌」
「うん」
「千燈と小毬と透羽がいなくなるのも嫌」
「うん」
「前は、それが何か分からなかった」
「今は?」
依澄は少し考える。
「好き、に近い」
「誰が?」
「みんな」
「うん」
「でも玄兎は、もっと苦しい」
玄兎の喉が少し詰まる。
千燈も、小毬も、透羽も静かに聞いている。
「玄兎が他の人と近いと、嫌な時がある」
「うん」
「玄兎が私を忘れるのも嫌」
「うん」
「玄兎が私を必要じゃなくなっても、一緒にいたい」
「……うん」
「これ」
依澄は玄兎を見る。
「恋?」
以前なら、玄兎は答えを避けたかもしれない。
今は、少しだけ考えてから答える。
「かなり近いと思う」
「じゃあ」
「でも、依澄が自分でそう呼びたいって思った時でいい」
「今」
依澄は玄兎を見た。
「今、呼びたい」
玄兎は思わず固まった。
「今?」
「うん。ずっと考えてた」
「そっか」
依澄は小さく息を吸う。
「私は玄兎が好き」
声は静かだったが、言葉ははっきりしていた。
「恋として」
玄兎の目が大きく見開かれる。
小毬は思わず口を開いた。
「依澄先輩!」
千燈が楽しそうに笑う。
「言ったねえ」
透羽は一度、静かに目を閉じた。
「……そうですか」
玄兎は何度か瞬きをする。
「今、返事は必要?」
「聞きたい。でも」
「でも?」
「玄兎が今、誰を選ぶか決めてないの知ってる」
「うん」
「だから」
依澄は少し笑った。
「私の気持ちを、今の玄兎が覚えてて」
玄兎の胸の奥が少しだけ熱くなる。
「分かった」
「忘れたら?」
「また教えて」
「うん」
「何回でも?」
「何回でも」
小毬が勢いよく手を上げる。
「私もそれです!」
「小毬は前から言ってる」
「はい!」
千燈も口を挟む。
「私も似たこと言った」
「うん」
透羽だけは黙った。
全員の視線が透羽へ集まる。
「何ですか」
玄兎が少し困りながら訊く。
「透羽は?」
「今は関係ありません」
「そう?」
「そうです」
どう見ても通常ではなく、透羽の頬は少し赤い。
それでも今回は、誰もそこへ追い打ちをかけなかった。
◇
その日の夕方。
五人は鷺宮家から送られてきた許可証を使い、大学旧北棟地下の旧認知環境研究室へ入った。
依澄の存在が大学記録から消えた時に訪れた場所だ。
当時は「空席」の怪異が、依澄の過去のなさを不正な記録として削除しようとした。
ただし、今回の目的は「空席」の調査ではなく、D-02の原記録を探すことだった。
「前より寒いです」
小毬が言う。
「地下だから?」
「違います。匂いも増えてる」
「依澄?」
「はい。依澄先輩の匂いが、部屋全体にあります」
依澄は古い研究机へ触れた。
「覚えてる感じがする」
「来たことある?」
「分からない」
「夢で?」
「たぶん」
透羽が古い端末へアクセスする。
「D-02で検索します」
古い端末は動作が遅く、検索結果が出るまで数分かかった。
やがて、一件だけ該当記録が表示された。
『D-02/夢層外部観測個体』
『観測開始:二十年前』
『発生源:中央大封印・夢層』
『分類:自我未確定』
『外部器接触後、人格形成反応』
依澄の手が止まる。
「人格形成」
玄兎はそのまま続きを読んだ。
『外部器が保持する生活記憶・言語情報・情動反応を参照』
『ただし、参照後に独自学習を開始』
『外部器の記憶複製ではない』
『個体固有反応を確認』
「ほら」
玄兎はすぐに依澄の方を見た。
「コピーじゃない」
依澄は画面へ視線を戻した。
「書いてある」
「うん」
「独自」
「うん」
「私」
「うん」
依澄の目が少しだけ潤む。
「よかった」
小毬が嬉しそうに依澄の腕へ抱きついた。
「よかったです!」
「小毬、近い」
「今日はいいです!」
「基準は?」
「今決めました!」
千燈は笑っていたが、その目はいつもより少し優しかった。
「依澄ちゃん、自分の名前が残ってたね」
「まだ名前じゃない」
「次を見よう」
透羽が新しい記録を開いた。
『外部器・鵺代玄兎、六歳時再構築反応』
『生命活動安定後、認知・人格照合値の不安定を継続』
『人格情報の夢層深部への沈降を確認』
『D-02が外部器人格情報へ接触』
『外部器、現実側自己認識への接続率上昇』
『認知・人格照合値、安定方向へ移行』
『D-02側の自我形成、同時に進行』
「現実側自己認識への接続率」
玄兎が画面を見つめる。
「俺が、自分が誰なのかを取り戻す方向へ動いたってこと?」
「その解釈が近いと思います」
透羽が答える。
「身体の生命活動は、この記録より前にすでに安定しています。そのうえで、D-02との接触後に認知と人格の値が改善している」
玄兎は依澄を見る。
「じゃあ依澄は、俺を生き返らせたんじゃなくて……俺が俺として現実へつながり直すのを、手伝ったのかもしれない?」
「はい。その可能性は高いです。ただし、D-02だけが原因だったとまでは断定できません。再構築後の自然な回復と重なった可能性もあります」
依澄はしばらく画面を見たあと、玄兎へ向き直った。
「私、玄兎を待ってた」
「うん」
「玄兎は、帰る場所を探してた」
「たぶん」
「少し、手伝えた?」
玄兎は一度だけ記録へ目を戻した。
「そうだったなら、助かった」
依澄が小さく笑う。
「よかった」
「俺も」
千燈が静かに二人を見る。
「何か、十年以上も前から続いてるんだね」
「覚えてないけど」
玄兎が言う。
「覚えてなくても、あった時間は消えない」
千燈の目が少しだけ細くなる。
前に自分が辿り着いた答えを、玄兎が今度は別の形で使っている。
「そうだね」
千燈はそれだけ答えた。
◇
透羽が次の階層を開くと、文字だけではなく、当時の観測員が残した短い記録も表示された。
『観測個体D-02、外部器睡眠時に高頻度で接近』
『当初、言語反応なし』
『三十二日目、単語模倣を確認』
『九十七日目、質問形式を獲得』
『外部器不在時にも周辺夢層を自発観測』
『他者の願望・恐怖への反応を開始』
依澄は画面をじっと見ていた。
「質問」
「依澄っぽい」
玄兎が言う。
「昔から?」
「少なくとも記録上は」
千燈が次の行を指す。
『観測員との接触不可。夢内から現実側を観察するのみ』
『個体反応:人間の関係性に強い興味』
『頻出質問――「一緒とは」「家族とは」「好きとは」』
小毬が玄兎を見る。
「今とほとんど同じです」
「だな」
依澄は少しだけ恥ずかしそうに画面へ近づいた。
「昔の私も、好きって何か分からなかった」
「二十年考えてた?」
「途中は覚えてない」
「長い宿題だな」
「今日、答えた」
「うん」
透羽がさらにスクロールする。
『個体固有の選好反応を確認』
『外部器由来記憶と一致しない対象への興味多数』
『自我独立性、上昇』
玄兎はその一文を見て、依澄へ顔を向けた。
「これも強いな」
「何が?」
「俺由来じゃない興味が、昔からあった」
「うん」
「依澄は最初から、少しずつ依澄になってた」
依澄は画面へ指先を触れた。
古い研究者の記録に過ぎない。
けれど、自分が今日突然作られたわけではなく、誰にも知られない夢の中で、長い時間をかけて少しずつ自分になっていった痕跡だった。
記録の隅には、観測員が文章にしきれなかった映像断片も残されていた。
誰もいない教室で、輪郭の定まらない依澄が椅子に座っている。窓の外では季節が数秒ごとに変わり、桜が咲いては腐り、蝉の声が雪へ埋まり、また春へ戻る。それでも教室の扉は一度も開かなかった。
依澄は夢へ流れ込んでくる他人の生活を見ながら、言葉を一つずつ覚えていた。家族が食卓を囲む夢を見て「一緒」を知り、別れ話をする恋人たちから「好き」が終わることを知り、病室で手を握る親子から、死んでも関係を残したいという願いを知った。
だが映像の中の彼女へは、誰も話しかけない。夢を見ている人々は依澄の身体を通り抜け、自分が望む誰かだけを抱き締めて消えていく。
時折、依澄の背後へ顔のない影が集まった。他人の悪夢からこぼれたものたちだ。影は彼女が覚えたばかりの声を真似て、「一緒」「家族」「好き」と囁く。その意味を知りたくて振り向くたび、影は口だけを大きく開き、依澄の輪郭を食べようとした。
依澄は逃げる方法も、助けを呼ぶ言葉も知らなかった。ただ、幼い玄兎が夢へ沈んでくる夜だけは、影が少し遠ざかった。玄兎も依澄を認識してはいなかったが、彼の夢にある「誰かと朝を迎えたい」という願いが、彼女の周囲へ小さな部屋を作った。
映像の最後で、依澄は眠る玄兎の傍らへ座り、まだ上手く作れない指で彼の手を包もうとしていた。触れるたびに指が光へ崩れ、それでも夜が来るたび同じ動作を繰り返している。
記録にはない孤独な時間が、そこには確かに積み重なっていた。
「誰も覚えてないのに」
依澄が言う。
「記録は残ってた」
「うん」
「玄兎も覚えてない」
「ごめん」
「謝らなくていい」
依澄は首を横に振った。
「今、一緒に見てるから」
玄兎は少しだけ笑った。
「そうだな」
さらに奥の記録には、現在へつながる情報が残っていた。
『D-02、外部器からの距離に比例して現実定着率低下』
『ただし、独自対人関係形成後は依存率低下』
『外部器以外の識別者獲得により、自我安定』
千燈が画面を見る。
「これ、今の私たちだ」
「はい」
透羽が頷く。
「依澄さんも、玄兎と同じです」
「同じ?」
「人との関係が、自我を安定させている」
小毬の顔が明るくなる。
「じゃあ私たち、二人分守ってます?」
「そういう見方もできます」
「群れ強い!」
「小毬、何でも群れにするな」
「今回は合ってます!」
依澄は画面の端に表示された別ファイルへ指を向けた。
「次」
透羽が開く。
『D-02仮称:蝶ヶ森』
『外部器夢内に存在した地名断片より命名』
『個体自身が後に「依澄」を選択』
『選択根拠:夢内言語から推定不能』
依澄はしばらく何も言わなかった。
「私が選んだ」
「名前を?」
「うん」
玄兎も記録を見つめる。
「俺が付けたんじゃない」
「うん」
「依澄が選んだ」
「うん」
依澄の声が少し震える。
「私の名前」
「依澄の」
千燈が静かに言う。
「これ、かなり大事だね」
「はい」
透羽も頷いた。
「本人による選択の記録です」
依澄は自分の胸へ手を当てた。
「私だった」
「最初から?」
「最初は自我未確定」
「でも、そこから依澄になった」
「うん」
「今はもっと依澄」
「どうして?」
「変なパン好きになるし」
「変じゃない」
「毎日変わるし」
「うん」
「俺に恋って言うし」
「うん」
「だから、かなり依澄」
依澄は少し笑った。
「それ好き」
「知ってる」
今度は玄兎も、ごく自然にそう言えた。
依澄はさらに嬉しそうに笑った。
◇
研究室を出る前に、透羽はD-02の記録を鷺宮家へ正式に送信した。
依澄について、これまで曖昧だったことが少しずつ形になってきた。
彼女は二十年前には《百獣繭》の夢層で観測され、十数年前、六歳の玄兎に再構築反応が起きたあと、認知と人格が不安定だった時期に玄兎側の人格情報へ接触した。その接触は玄兎の肉体を蘇生させたものではないが、現実側の自己認識へつながり直す過程と重なっていた。一方のD-02も、その際に玄兎の記憶や言語を参照しながら自己組織化を進めた。それでも玄兎の複製にはならず、自分で学び、自分で名前を選び、玄兎以外の人間関係も築くことで、独立した自我をさらに安定させている。
玄兎は階段を上がりながら、依澄へ訊いた。
「少し安心した?」
「かなり」
「どの辺が一番?」
「名前」
「依澄?」
「うん。誰かにつけられたんじゃなくて、私が選んだ」
「大事?」
「すごく」
依澄は一段上がったところで振り返り、自分の名前を呼んでほしいと玄兎へ頼んだ。
「依澄」
「もう一回、呼んで」
「蝶ヶ森依澄」
玄兎が今度は姓までつけて呼ぶと、依澄は音を確かめるように目を閉じた。
「今日は、何回も聞きたい」
「昔の記録を見たから?」
「うん。番号じゃなくて、私が選んだ名前で呼ばれたい」
「分かった。依澄は蝶ヶ森依澄で、俺たちと同じ大学二年。今日は塩パンが好きなんだろ」
「今日は塩パン。明日は何を好きになるか、まだ分からない」
「それでいい。明日になって選べばいい」
依澄は少し笑った。
「玄兎も」
「俺?」
「鵺代玄兎」
「うん」
「大学二年」
「うん」
「ブラックコーヒー」
「うん」
「死ぬの怖い」
「うん」
「私が好き?」
玄兎の足が止まる。
「そこ混ぜる?」
「確認」
「依澄が俺を好きなのは覚えてる」
「玄兎は?」
「返事はまだ」
「うん」
「でも、依澄が消えるのは嫌」
「うん」
「一緒にいたい」
依澄の目が少し柔らかくなる。
「今はそれでいい」
「ありがとう」
「でも、いつか聞く」
「強いな」
「恋だから」
玄兎は困ったように笑った。
「覚えとく」
「絶対」
「努力する」
「じゃあ、共有ノートにも書く」
「強制的に記録化するな」
「大事」
後ろを歩いていた千燈が笑う。
「依澄ちゃん、恋を覚えたらかなり強かったね」
「小毬から学んだ」
「えっ、私ですか?」
「好きは言った方がいい」
「それは正解です!」
透羽が小さく息を吐く。
「教育の方向を少し考えてください」
「透羽先輩も言えばいいです!」
「何をですか」
「好きなこと!」
「今は関係ありません」
「またそれ!」
玄兎は笑った。
ほんの数時間前まで、自分と依澄の正体を考えていた。
怖さが消えたわけではない。《百獣繭》の夢層は今も上昇し、玄兎の身体には封印の機能が残り、依澄は二十年前の夢層から生まれた可能性が高い。
分からないことの方が、まだ多い。
それでも、五人でくだらない会話をしながら階段を上がっていると、正体より先に「今」があると思えた。
地上へ出ると、夏の夕方の熱気が戻ってきた。
地下の冷たい空気に慣れていたせいか、外気が妙に現実的に感じられる。
「玄兎」
依澄が隣へ並ぶ。
「何?」
「手」
「手?」
「夢で、昔の玄兎が蝶に伸ばしてた」
「うん」
「今は?」
依澄が自分の手を少しだけ持ち上げた。
意味を理解して、玄兎は一瞬だけ迷う。
「握る?」
「うん」
「恋人だから、ではないぞ」
「まだ」
「まだ、って」
「今は、戻ってきた確認」
それなら、と玄兎は手を出した。
依澄の指が重なる。
体温はちゃんとある。
夢の蝶ではなく、現実にいる依澄の手だった。
「どう?」
「玄兎」
「それだけ?」
「十分」
依澄は数歩だけ手を繋いで歩き、それから自分から離した。
「もういいの?」
「うん。今いるの分かった」
「そっか」
前を歩いていた小毬が振り返る。
「今、手繋いでました?」
「確認」
依澄が答える。
「何の確認ですか!」
「今いる確認」
「私もできます!」
「何を?」
「先輩が今いる確認!」
玄兎が苦笑する。
「小毬は昨日かなり確認しただろ」
「今日は今日です!」
千燈が笑う。
「毎日更新されるからね」
「そうです!」
透羽だけは少し先を歩きながら、何も言わなかった。
玄兎が横へ追いつく。
「透羽」
「何ですか」
「通常?」
「通常です」
「便利だな」
「今日はそれで結構です」
玄兎はまた笑った。
そんな小さなやり取りまで含めて、今の五人なのだと思った。
◇
その夜。
五人は共有ノートへ、新しいページを作った。
最初に依澄が書く。
『私はD-02だった可能性が高い。』
『二十年前、《百獣繭》の夢層にいた。』
『六歳の玄兎に再構築反応が起き、認知と人格の照合が不安定だった時に接触した可能性が高い。』
『玄兎の記憶を参照した。でも、玄兎のコピーではない。』
『私は自分で「依澄」を選んだ。』
『今の私は、玄兎だけではなく、透羽、千燈、小毬、大学、パン、昨日、今日、明日でできている。』
少し考えてから、依澄はさらに一行加えた。
『玄兎が好き。恋として。』
小毬がすぐに反応する。
『堂々と書いた!』
千燈も続ける。
『依澄ちゃんらしい。』
透羽からは少し硬い返事が来た。
『記録として必要な範囲を超えています。』
依澄もすぐに返した。
『必要。』
玄兎は笑いながら、その下へ書き足した。
『依澄は、昔の俺の夢や記憶に触れたところから始まったのかもしれない。』
『でも今の依澄は、俺の夢ではない。』
『自分で選んで、自分で変わっている。』
『六歳の俺が夢層でD-02と接触し、帰る場所や自分の名前へつながる夢を見た可能性が高い。』
『D-02との接触後、俺の認知と人格は安定方向へ動いている。ただし、それだけが原因だったとは断定できない。』
『それでも、あの時そばにいてくれたものが今の依澄につながっているなら、覚えていなくても、ありがとうと言いたい。』
依澄がすぐに返す。
『どういたしまして。』
玄兎はさらに続けた。
『待っていてくれたなら、あの時ちゃんと現実へ帰れてよかった。』
依澄からはしばらく返事がなかった。
数分後、ようやく新しいメッセージが届く。
『私も、待っていてよかった。』
玄兎は画面を見つめた。
胸の奥が熱くなったが、それは痛みではなかった。
◇
同じ日の深夜、鷺宮家本邸では、まだ明かりの消えていない部屋が一つあった。
静嶺の端末には、大学地下から回収されたD-02の記録が同期されていた。
透羽からの報告も届いている。
『D-02は独立人格を形成』
『外部器との関係は人格形成の起点だが、現在の自我は独立』
『外部器・D-02ともに複数対人関係により安定』
静嶺はそこまで読み、次の警告画面を開いた。
『中央大封印《百獣繭》』
『夢層・怪異層、同時上昇継続』
『第二段階警戒値、上限接近』
さらに古い自動判定が表示される。
『外部器およびD-02の同時安定を確認』
『次段階移行条件、一部達成』
「安定が条件?」
静嶺の眉が寄る。
普通なら、外部器とD-02が安定すれば封印も安定するはずだ。
それなのに、実際には逆に警戒値が上がっている。
静嶺は別の古い記録を開いた。
『百獣繭は、外部器を一時容器として運用するものではない』
『最終工程――』
肝心の部分は黒塗りだった。
ただ、一行だけ文字が残っている。
『外部器人格完成後、回収を開始』
静嶺はその一文を見て、息を止めた。
「回収……?」
その瞬間、端末が警報を発した。
『第二段階移行』
朽木ヶ丘市の地下深く、誰にも見えない場所で、巨大な繭のような封印がゆっくりと脈打った。
一度脈打つたび、市内で眠る人間の夢が同じ方向へ僅かに引かれる。数百人が寝返りを打ち、名前の分からない誰かを探すように、暗い部屋で同時に手を伸ばした。
眠る者の中には、自分の手が誰かの指を掴んだ感触で目を覚ます者もいた。けれど握っていたのは家族の手ではない。布団の隙間から伸びた、白く濡れた指だった。
悲鳴を上げて灯りを点ければ、指は消える。代わりに枕元へ白い蝶が一匹だけ止まり、眠っていた本人の声で「待っている」と囁いた。
市内の同じ方角を向いた窓へ、白い蝶が一匹ずつ張りついていく。翅の模様はどれも人の眼に似ており、室内を覗くようにゆっくり開閉した。
その夜、夢から目覚められなかった者が三人いた。呼吸も脈も正常で、家族の声にも揺さぶる手にも反応しない。ただ三人とも、閉じた瞼の下で同じものを追うように眼球を動かし、口元へかすかな笑みを浮かべていた。
夢の中で彼らは、黒い水の向こうにある懐かしい家へ歩いていた。玄関には、もう会えないはずの人が立っている。その背後で巨大な白い繭が脈打っていることには、誰も気づかなかった。
――第二十一話・了