翌朝、朽木ヶ丘大学では、授業が始まる前から妙な噂が広がっていた。
同じ夢を見た学生が、何人もいるらしい。
黒い水の上に、大きな月が浮かんでいる。遠くで誰かが泣いていて、白い蝶が一匹だけ暗闇を飛んでいる。そして夢の最後には、必ず同じ言葉が聞こえる。
――待っている。
鵺代玄兎がその話を初めて聞いたのは、二限の講義が始まる十分前だった。
「玄兎、お前も見た?」
同じ講義を取っている木崎が、席へ座るなり訊いてきた。
「何を?」
「変な夢。黒い池みたいなのと、月と、蝶」
玄兎の手が止まった。
「……見てない」
「俺だけじゃないんだよ。昨日の夜、サークルのやつも三人見たって。SNSにも上がってる」
「同じ内容?」
「だいたい同じ。細かいところは違うけど、最後に『待ってる』って声がするらしい」
木崎は怪談の種でも見つけたように笑った。
「大学の七不思議に追加されるんじゃね?」
「そうかもな」
玄兎も笑ったが、声は少し硬かった。
血から見た幼い頃の断片も、D-02の記録も、その風景へつながっている。玄兎には偶然とは思えなかった。
「玄兎」
隣から静かな声がした。
蝶ヶ森依澄だった。
「私も見た。黒い水も、月もあった。蝶は……私だった」
依澄は一瞬考えてから続けた。
「身体はなかった。でも、あの蝶が私だって分かった。『待っている』って声も聞いた」
玄兎は周囲を確認した。まだ講義前で、近くの学生たちはそれぞれ自分たちの話に夢中だ。
「誰を待ってた?」
依澄は玄兎を見た。
「玄兎」
「……」
「たぶん、ずっと」
そこへ鷺宮透羽が講義室へ入ってきた。
玄兎の顔を見るなり、いつもの挨拶より先に言う。
「夢の話を聞きましたか」
「今ちょうど」
「鷺宮家でも観測されています。市内で、同一傾向の夢が急増しています」
「昨夜の《百獣繭》の警戒値上昇と関係ある?」
「可能性が高いです」
透羽の視線が依澄へ向く。
「依澄さん。何か感じますか」
「昨日より夢が近い。大学全体が、少し眠りかけてる感じ……建物の向こうに夢が重なってる」
依澄は窓の外を見た。
透羽も同じ方向へ視線を向ける。朝の光を受けた講義棟、歩いていく学生、駐輪場へ滑り込む自転車。人間の目には、いつもと何も変わらない朝だった。
「今日の講義後、五人で集まりましょう」
「鷺宮家から何か来てる?」
「昨夜の警戒値上昇について、追加観測の依頼が来ています」
「命令じゃなく、依頼?」
「昨日の件で、扱いが変わりました」
依澄は二人を見比べてから、また玄兎へ向き直る。
「夢では玄兎を待ってた。でも、いつから待ってたかは覚えてない」
「それも調べよう」
「怖い?」
「かなり」
「私も」
玄兎は少しだけ表情を和らげる。
「じゃあ、一緒に怖がろう」
「うん」
依澄は、それで少し安心したように頷いた。
◇
昼休み。
五人は図書館の個室型学習スペースへ集まった。
千燈は午前の講義を終えてから合流し、小毬は購買で買った大きなカツサンドを持ち込んでいる。
小毬はカツサンドを食べながら、端末の数字を覗き込んだ。
透羽が端末を机へ置いた。
「同じ夢を見たという報告は、大学の関係者だけでも百二十件を超えています」
「夢の内容を記録している人だけなので、実数はもっと多いと思います。市内全体でも増えています」
「共通するのは、玄兎くんの記憶断片とD-02に近い、あの夢か」
千燈が腕を組んだ。
依澄は黙って聞いていた。
玄兎が横顔を見る。
「大丈夫?」
「分からない」
「分からないなら、今は無理に答えなくていいよ」
「うん」
小毬が水を一口飲んでから、依澄を見る。
「匂い、確認していいですか?」
「うん」
依澄が肩を向ける。
小毬は少し近づき、慎重に空気を吸った。
「……薄いです」
玄兎の声が少し強くなる。
「消えそう?」
「前に大学から名前が消えた時とは違います。あの時は、依澄先輩の匂いが世界から離れていく感じでした」
小毬は肩口から顔を離し、部屋の中を見回した。
「今日は逆です。増えてます。壁、机、窓、床……本人以外にも依澄先輩の匂いがあります。すごく薄いけど、部屋全体に」
千燈の表情が変わった。
「本人が増えてるんじゃなくて……依澄先輩と同じ場所から来た匂いが、部屋に染みてる感じです」
小毬は言葉を探した。
「夢が現実へ滲んでる」
依澄が言った。
「私の方が現実へ来てるんじゃなくて、夢の方がこっちへ来てる」
透羽が端末へ新しい観測図を表示した。
「《百獣繭》内部の夢層が上昇しています。地面からせり上がるのではなく、現実との距離が近づくという意味です。夢が現実へ一時的に重なる可能性があります」
玄兎は依澄を見る。
「《蝶境》みたいに?」
「似てる。でも私がやってない」
透羽が観測図を見たまま言う。
「依澄さんが夢を送り出しているという意味ではありません。《百獣繭》から漏れた夢層に、依澄さんが一番強く共鳴していると考える方が自然です」
「受け取ってる側?」
「現時点では。ただし、D-02との関係はまだ断定できません」
「断定はしない。でも、分かったことは本人へ全部話す」
依澄は玄兎を見る。
「私がD-02だったら、人じゃない?」
透羽は少しだけ迷ったが、正直に答えた。
「人間ではない可能性は高いです」
依澄の視線が落ちた。
そのまま数秒、誰も口を挟まなかった。
玄兎が端末へ手を伸ばした時、左鎖骨の下を押さえて小さく息を止める。
依澄は先に気づいた。椅子を引き、玄兎の手から端末を取る。
「痛い?」
「少しだけ」
「じゃあ私が持つ」
依澄は端末を自分の膝へ置き、玄兎の顔色を見た。
玄兎は一度だけ言葉に詰まり、それから背もたれへ身体を預けた。
その時、図書館の外から誰かの悲鳴が聞こえた。
◇
五人が廊下へ出ると、図書館の閲覧スペースの景色が変わっていた。
最初に異常へ気づいたのは、音だった。ページをめくる音、椅子を引く音、学生たちの囁きが、全て水の底から聞くようにくぐもっている。口を動かす学生と声のタイミングも少しずつずれ、先に笑い声がしてから顔が笑う者までいた。
壁の時計は秒針だけが逆向きに進んでいた。窓の外には昼のキャンパスが見えるのに、ガラスへ映る室内は夜で、机の間を白い蝶が飛んでいる。玄兎が振り返るたび、本棚の列が一本ずつ増え、出口までの距離が長くなっていった。
本来は木目調の床であるはずの場所に、黒い水面が重なって見える。
実際に水が溜まっているわけではない。踏めば靴底は濡れず、床板の感触もある。それでも目には、暗い水がゆっくり波打っているように見えた。
天井近くには巨大な月が浮かび、その下を何匹もの白い蝶が舞っている。昼の建物の中にはあり得ない光景だった。
「夢が重なった」
依澄が言う。
学生たちは混乱していた。
「何これ」
「映像?」
「床、濡れてないよな?」
「蝶、本物?」
透羽がすぐに役割を決める。
「玄兎は学生を外へ。千燈は奥の確認。小毬は動けない人を探してください。依澄さんは夢の広がりを見て」
四人はすぐ動いた。
玄兎は近くの学生へ声をかけた。
「床は見た目だけです。走らず、出口へ移動してください」
「鵺代、これ何?」
「大学側が確認します。今は外へ」
数分で、閲覧スペースの学生をほぼ外へ出せた。
最後に残った一人の女子学生が、黒い水面を見たまま動けなくなっている。
「大丈夫?」
玄兎が近づく。
「弟が、あそこにいる」
彼女が指差した先には、黒い水の上へ小学生くらいの男の子が立っていた。
もちろん、現実にはいない。
男の子の制服からは水が滴っていた。だが黒い水面へ落ちるはずの雫は途中で止まり、下から上へ戻っていく。青白い顔には笑みがあり、唇だけが何度も「お姉ちゃん」と動いているのに、声は女子学生の背後から聞こえた。
玄兎が横へ一歩動くと、男の子の目だけがこちらを追った。姉へ向けているはずの笑顔を崩さず、黒い瞳で玄兎を見ている。夢が本人の記憶から姿を借りているだけで、その中身は弟ではない。頭ではそう分かっていても、女子学生には一番会いたかった顔にしか見えないのだろう。
「亡くなった弟です。去年」
女子学生の声が震える。
夢が、人の強い願いを現実へ引き出している。
玄兎は依澄を見る。
「《夢蛹》に近い?」
「うん。でも私がやってない」
女子学生が弟へ一歩進んだ。
「待って!」
玄兎が腕を掴む。
「離して!」
「本物じゃない!」
「でも、一回だけ」
「一回が終わらなくなるかもしれない」
玄兎は言葉を選んだ。
幸せな夢に、帰る理由を失いかけたことがある。玄兎はその心地よさを覚えていた。
「そこに行ったら、明日へ戻れないかもしれない」
女子学生は泣きながら首を振る。
「会いたいの」
「分かる」
依澄が静かに言った。
「夢は、欲しいものをくれる。でも、欲しいものだけにすると、明日がなくなる」
女子学生が依澄を見る。
「あなた誰?」
「夢にいたことがある人」
「私も、戻りたくなくなったことがある」
依澄は男の子を見る。
「でも私は、明日を選んだ」
女子学生の足が止まった。
玄兎はゆっくり腕を離す。
「外へ行こう」
しばらくして、彼女は泣きながら頷いた。
小毬が駆け寄り、そのまま出口まで付き添う。
玄兎は依澄を見た。あの言葉は、二人とも覚えていた。
その直後、一匹の白い蝶が玄兎の胸元へ降りた。
実体はないはずなのに、左鎖骨の下の痣が強く熱を持つ。
「っ……」
「玄兎」
依澄がすぐに手を伸ばした。
蝶が光へ変わり、その光が弾けた瞬間、図書館の景色は跡形もなく消えた。
◇
気づくと、玄兎は黒い水の上に立っていた。
そこにはもう大学の建物はなかった。空には巨大な月が浮かび、足元にはどこまでも黒い水が続いている。不思議なことに、靴も服も濡れていない。
遠くに、六歳くらいの小さな子供が一人座っていた。黒い髪も、華奢な肩も、幼い頃の玄兎自身によく似ている。身体そのものはきちんと人の形を保ち、胸も一定の間隔で上下していた。
けれど、近づくほど別の異常が見えてきた。
黒い水面に映る子供の顔が、一呼吸ごとに少しずつ変わる。六歳の玄兎だったはずの顔が、知らない子供の輪郭へ滲み、次の瞬間にはまた元へ戻る。子供が自分の手を見るたび、指の数や形が変わるのではなく、「これは自分の手だ」という確信だけが抜け落ちるように表情が怯えた。
周囲には、家の台所、学校の廊下、母親らしい人影、知らない病室が、薄いガラス板を何枚も重ねたように現れては消えていた。同じ場所なのに家具の位置が変わり、同じ人影なのに顔だけが思い出せない。名前を呼ぼうとすると別の名前が口元まで浮かび、すぐ黒い水へ沈んでいく。
身体はすでに生きている。
それなのに、自分が誰で、どこへ帰ればよくて、目の前の記憶が本当に自分のものなのか。そのつながりだけが何度もほどけかけていた。
玄兎は、その後ろ姿を見ただけで胸が詰まった。
「俺だ」
おそらく六歳頃の、認知と人格が安定しなかった時期だ。
子供の玄兎は、黒い水の上へ裸足で座り込んでいた。
玄兎が名前を呼ぼうとすると、口から出かかった「玄兎」という音が途中でほどけ、知らない誰かの名前へ変わりかけた。慌てて口を閉じると、今度は自分の家の玄関がどんな形だったのか分からなくなる。
過去を眺めているだけのはずなのに、「自分だと思っていたものが一つずつ手から滑り落ちる」感覚だけが現在の玄兎にも流れ込んできた。
足元の水面には、今の玄兎と六歳の玄兎が交互に映る。その間へ見覚えのない顔が一瞬だけ混じるたび、玄兎は自分の名前を頭の中で確かめた。
鵺代玄兎。
今ここにいる自分は、その名前で呼ばれている。
そう確かめなければ、夢の水にまで輪郭を奪われそうだった。
「痛い」
小さな声がする。
「痛い」
玄兎はゆっくり近づいた。
「おい」
子供は反応しない。
「死ぬの嫌だ」
玄兎の足が止まった。
事故の瞬間に感じた恐怖まで、この夢には混ざっているらしい。
けれど、子供が次に口にしたのは傷のことではなかった。
「忘れたくない」
小さな手が、自分の胸元を押さえる。
「お母さんの顔、分かんなくなるの嫌だ。家、どこだったか分かんなくなるの嫌だ」
「……」
「俺が俺じゃなくなるの、嫌だ」
玄兎は息を呑んだ。
六歳の自分が実際に同じ言葉を口にしたのか、それとも不安定だった認知を今の玄兎が夢の中で言葉へ置き換えているのかは分からない。
それでも、恐怖だけは作り物には思えなかった。
「これ……俺の記憶なのか?」
記憶が戻った感覚はなかった。自分の中から思い出したのではなく、夢の中にある過去の断片へ触れている――そんな感覚だった。
返事はない。
その時、一匹の白い蝶が子供の玄兎の周囲を飛び始めた。
「誰?」
子供が顔を上げる。
蝶は答えない。
「帰りたい」
白い蝶が淡く光る。
「お母さん」
また光る。
「家」
さらに強く。
「俺の部屋。いつものご飯。俺の名前」
子供の周囲へ、少しずつ景色が生まれていく。暖かい部屋と小さな食卓、見慣れていたはずの椅子、玄関へ置かれた小さな靴。断片しかなかったものが、子供の言葉へ応じるように一つの場所へ結び直されていく。
誰かが子供へ手を差し出していた。
玄兎には、その人の顔までは見えない。それでも子供は、その人影を見た瞬間に「お母さん」と呼んだ。
それでも、自分が帰りたい場所と、自分を呼んでくれる誰かの存在だけは、夢の中で細い一本の道になっていた。
「これ、依澄なのか」
子供の玄兎が蝶へ手を伸ばす。
「待ってて」
玄兎の身体が強張った。『待っている』という記録は、ここへつながるのか。
子供は蝶へ向かって何かを続けようとする。
「戻ったら……一緒に」
その先の声は途切れた。
黒い水面が大きく揺れる。
今度は、どこからともなく機械的な声が聞こえた。
『心肺反応停止』
『再構築反応、開始』
『外部器、呼吸再開』
『生命活動、安定域へ移行』
『認知照合値、不安定』
『人格照合値、不安定』
『夢層反応、接近』
『D-02、外部器へ接触』
『再接触条件:外部器の再構築に伴う人格情報の夢層深部への沈降』
『条件一致』
玄兎は反射的に振り返った。
誰もいない。
『認知照合値、回復傾向』
『人格安定率、上昇』
『現実側自己認識、接続率上昇』
『夢層個体、外部器記憶を参照』
『D-02自己組織化、進行』
「待て!」
玄兎は声を上げた。
「それ、どういう意味だ!」
答えの代わりに、遠くから幼い女の子の声が聞こえた。
『待っている』
依澄の声によく似ている。
けれど、今よりずっと幼い。
「玄兎」
今度は、はっきりと今の依澄の声だった。
「玄兎。起きて」
夢の景色が、ガラスのように大きく割れた。
◇
玄兎が目を開けると、図書館の床に座り込んでいた。
依澄が目の前にいる。
両手で玄兎の頬を挟み、珍しく切迫した顔をしていた。
「私が分かる?」
「蝶ヶ森依澄」
「よかった」
依澄の肩から、目に見えるほど力が抜けた。
透羽もすぐ隣へ膝をついている。
「意識消失は約二分です」
「もっと長く感じた」
千燈もしゃがみ込む。
「何を見た?」
「六歳くらいの俺」
四人の表情が変わる。
透羽が慎重に確認する。
「六歳の事故の頃ですか」
「たぶん。病院に着いた頃には喋れてたって記録の、あの事故だと思う」
「依澄さんは?」
透羽が訊く。
玄兎は依澄を見た。
「白い蝶がいた。たぶん、依澄。子供の俺は、痛い、死ぬの嫌だ、家に帰りたいって、一方的に話してた」
幼い声を思い出すだけで、胸が苦しくなる。
「それで蝶が、暖かい部屋や食卓を作った。俺の欲しいものを」
依澄の表情が僅かに歪んだ。
「他には?」
透羽が慎重に訊く。
「記録みたいな声がした。再構築のあと、D-02が外部器へ接触したって。ほかにもかなり細かく聞こえた」
「覚えていますか」
「かなり。でも、ここで言い直すより原記録と照らしたい」
「旧認知環境研究室ですね」
「うん」
依澄はしばらく黙って玄兎を見ていた。
「D-02が私なら、玄兎の記憶に触れた?」
「そういう内容もあった。でも、夢で聞いただけじゃ断定できない」
「じゃあ、記録を見る」
そこへ小毬が戻ってくる。
「外の避難、終わりました。玄兎先輩、顔色悪いです」
「夢に落ちてたからな」
玄兎が立とうとすると、膝に力が入らなかった。
依澄が先に腕を取る。
「座ってて」
「もう大丈夫」
「大丈夫じゃない」
依澄は玄兎を椅子へ戻し、机の上の水を渡した。自分の出生を示す端末は、その間ずっと伏せたままだった。
玄兎が半分ほど飲むまで待ってから、依澄はようやく端末へ視線を戻す。
「もし私が、玄兎の寂しさから始まってても、もう寂しくなくても……今日は一緒に帰る。明日も大学に来る」
玄兎は黙って聞いてから、頷いた。
「塩パンじゃないかもしれない」
「そこは自由だろ」
依澄は小さく笑った。
「じゃあ、あとで決める」
それで話を終え、玄兎の空になった紙コップを受け取った。
◇
図書館の夢の重なりは、玄兎が目を覚ましたあと少しずつ薄れていった。
ただ、市内の夢現象そのものが止まったわけではない。
透羽の端末には、《百獣繭》内部の観測値が上昇し続けていることを示す警告が出ている。
「夢層圧が上がっています」
「今ので原因分かった?」
「一部だけです」
「依澄と同期してる?」
「可能性はあります。ただ、夢層だけではありません」
透羽は画面を拡大する。
「怪異層も同時に上昇しています」
千燈の表情が曇った。
「夢層も怪異層も、玄兎くんと依澄ちゃんに重なるんだね」
依澄は玄兎を見た。怖い意味の記録でも、同じ欄にいることは少し嬉しかった。
透羽が画面から目を離した。
「問題は、夢層と怪異層が同時に現実へ近づいていることです」
「混ざったら?」
「百獣繭が保持している怪異、願い、恐怖、記憶が、区別されないまま現実側へ漏れる可能性があります」
「市全体?」
「最悪の場合は」
部屋の空気が重くなる。
「いつ?」
玄兎が訊く。
「分かりません。ただ、警戒値の上がり方が昨夜より速い」
「鷺宮家は何する?」
「封印圧を下げる手順を準備しています」
「俺は?」
透羽が少し黙った。
「家からは、今は待機するように言われています。外部器を不用意に《百獣繭》本体へ近づけるのは危険です」
「でも向こうが俺を呼んでる」
「はい」
「依澄も?」
「たぶん」
依澄が自分の胸元へ手を置く。
「私は呼ばれてるというより、『戻ってきて』って感じ」
「どこへ?」
「夢の中」
玄兎の顔が強張る。
「行かないで」
考えるより先に言葉が出た。依澄は少し驚いたように目を瞬いた。
「まだ行ってない」
「分かってる。でも、行かないでほしい。もう、依澄が消えるのは嫌だ」
依澄の表情が少しだけ柔らかくなる。
依澄は胸元へ置いていた手を下ろした。
透羽の端末には、《百獣繭》本体へ近づかないよう待機要請が出ている。依澄はその画面を覗き込み、自分の名前の横へ指を置いた。
「私は行かない」
「戻ってきてって聞こえても、今は行かない」
依澄は玄兎を見た。
「玄兎が行こうとしたら止める」
「俺も待機要請なんだけど」
「破りそう」
「否定しづらい」
依澄は玄兎の袖を摘まんだまま、少しだけ眉を寄せた。
「玄兎が死ぬのは嫌。忘れられるのも嫌。ほかの人と近いと、少し嫌な時もある」
「最後だけ種類違わない?」
「だから聞く」
依澄は玄兎を見る。
「これ、恋?」
玄兎は少しだけ考えてから答える。
「俺には、そう聞こえる。依澄は?」
「今、そう呼びたい。ずっと考えてた」
玄兎は、続く言葉を待った。
依澄は小さく息を吸う。
「私は玄兎が好き」
声は静かだったが、言葉ははっきりしていた。
「恋として」
玄兎の目が大きく見開かれる。
透羽は一度、静かに目を閉じた。
玄兎は何度か瞬きをした。胸の奥が一気に熱くなり、少しだけ視線を逸らす。
「……嬉しい」
依澄が瞬きをする。
「でも、恋人になりたいかは、まだ自分で分からない」
「うん」
依澄は少し笑った。
「玄兎が今、誰を選ぶか決めてないの知ってる」
「うん」
「だから、私の気持ちを、今の玄兎が覚えてて」
「分かった」
「忘れたら、私がまた教える」
「うん。頼む」
小毬も千燈も、今は口を挟まなかった。透羽は一度口を開きかけ、端末へ視線を戻した。頬の赤さだけは残っていた。
◇
その日の夕方。
五人は鷺宮家から送られてきた許可証を使い、大学旧北棟地下の旧認知環境研究室へ入った。
依澄の存在が大学記録から消えた時に訪れた場所だ。
ただし、今回の目的は「空席」の調査ではなく、D-02の原記録を探すことだった。
「前より寒いです」
小毬が言う。
「匂いも増えてます。依澄先輩の匂いが、部屋全体に」
依澄は古い研究机へ触れた。
「覚えてる感じがする」
「夢で、来たことがあるのかも」
透羽が古い端末へアクセスする。
「D-02で検索します」
古い端末は動作が遅く、検索結果が出るまで数分かかった。
やがて、一件だけ該当記録が表示された。
『D-02/夢層外部観測個体』
『観測開始:二十年前』
『発生源:中央大封印・夢層』
『初期言語反応:なし』
『外部器接触後、言語模倣を確認』
『外部器が保持する生活記憶・言語情報・情動反応を参照』
『外部器不在時の自発行動を確認』
『外部器の嗜好記録と一致しない選択、複数』
依澄の手が止まる。
玄兎は横から画面を覗いたが、何も言わなかった。
「次」
依澄が自分で言った。
透羽が新しい記録を開いた。
『外部器・鵺代玄兎、六歳時再構築反応』
『生命活動安定後、認知・人格照合値の不安定を継続』
『人格情報の夢層深部への沈降を確認』
『D-02が外部器人格情報へ接触』
『外部器、現実側自己認識への接続率上昇』
『認知・人格照合値、安定方向へ移行』
『D-02側、発話数増加・現実定着率上昇』
「生命活動が安定した時刻は?」
「D-02接触より前です」
透羽が時刻欄を指した。
「接触後に動いたのは、認知・人格照合値と自己認識接続率。ここまでが記録から言える範囲です」
「原因だったかは?」
「確定できません」
依澄は二つの時刻を見比べたあと、玄兎へ向き直った。
「昔の玄兎、帰れた?」
「たぶん」
「今は?」
「今はここにいる」
依澄はそれを聞くと、玄兎の袖を一度だけ摘まんだ。
「じゃあ次を見る」
指はすぐ離れた。
◇
透羽が次の階層を開くと、文字だけではなく、当時の観測員が残した短い記録も表示された。
『観測個体D-02、外部器睡眠時に高頻度で接近』
『当初、言語反応なし』
『三十二日目、単語模倣を確認』
『九十七日目、質問形式を獲得』
『外部器不在時にも周辺夢層を自発観測』
『他者の願望・恐怖への反応を確認』
『頻出発話――「一緒とは」「家族とは」「好きとは」』
『外部器の嗜好記録にない対象を選択した例、複数』
依澄は画面をじっと見ていた。
「何を選んだか書いてない」
依澄は画面を閉じず、そのまま次の記録へ指を滑らせた。
記録の隅には、観測員が文章にしきれなかった映像断片も残されていた。
誰もいない教室で、輪郭の定まらない依澄が椅子に座っている。窓の外では季節が数秒ごとに変わり、桜が咲いては腐り、蝉の声が雪へ埋まり、また春へ戻る。それでも教室の扉は一度も開かなかった。
家族が食卓を囲む夢では、輪郭の薄い彼女が「一緒」と口を動かした。別れ話をする恋人たちの夢では、「好き」と何度も繰り返した。病室で親子が手を握る夢では、自分の手を見下ろして同じ形を作ろうとしていた。
夢を見ている人々は彼女の身体を通り抜け、自分が望む誰かだけを抱き締めて消えていく。
時折、背後へ顔のない影が集まった。影が「一緒」「家族」「好き」と真似るたび、依澄は振り向き、輪郭を削られて逃げた。
幼い玄兎が夢へ沈んでくる夜だけ、映像に変化があった。依澄の周囲へ小さな部屋が現れ、顔のない影がその外側で止まる。
最後の映像では、依澄が眠る玄兎の傍らへ座り、まだ上手く作れない指で彼の手を包もうとしていた。触れるたびに指が光へ崩れる。それでも次の記録でも、その次の記録でも、同じ手を伸ばしていた。
「誰も覚えてなくても、記録は残ってた」
依澄が画面を見た。
「玄兎も覚えてない」
「ごめん」
依澄は首を横に振った。
「謝らなくていい。今、一緒に見てるから」
さらに奥の記録には、現在へつながる情報が残っていた。
『D-02、外部器からの距離拡大時に現実定着率低下』
『外部器以外の識別者確認後:低下幅縮小』
『複数識別者確認後:現実定着率上昇』
依澄は小毬、千燈、透羽の順に見た。
小毬が自分を指さす。
「私たち?」
「観測時期は一致しています」
透羽が答えた。
依澄は画面の端に表示された別ファイルへ指を向けた。
「次」
透羽が開く。
『D-02仮称:蝶ヶ森』
『外部器夢内に存在した地名断片より命名』
『個体発話:「依澄」』
『以後、呼称「蝶ヶ森依澄」への反応を確認』
『選択理由:記録なし』
依澄はしばらく何も言わなかった。
やがて、画面の「依澄」という二文字へ指先を置く。
「外に出てから、名前呼んで」
依澄は自分で次の画面を閉じた。
◇
研究室を出る前に、透羽はD-02の記録を鷺宮家へ正式に送信した。
送ったのは観測日時、数値、発話、行動履歴。端末に書かれていない答えを、透羽は付け足さなかった。
階段を上がり始めてすぐ、依澄が玄兎の袖を引いた。
「さっきの、名前」
「依澄」
「もう一回」
「蝶ヶ森依澄」
依澄は一段上で立ち止まり、音を確かめるように目を閉じた。
「もう一回」
「今日は多くない?」
「今日は多くていい」
玄兎は苦笑した。
「蝶ヶ森依澄」
今度は、依澄が先に階段を上がった。
依澄は少し笑った。
「玄兎も」
「鵺代玄兎。大学二年で、ブラックコーヒーが好き。死ぬのは怖い」
「私が好き?」
玄兎の足が止まる。
「……そこ、聞くんだ」
「確認」
玄兎は少しだけ目を逸らした。さっきの告白を思い出して、また頬が熱くなる。
「返事はまだ決められてない。でも、依澄が消えるのは嫌だし、一緒にいたい」
「うん」
依澄の目が少し柔らかくなる。
「今はそれでいい」
「ありがとう」
「でも、いつか聞く」
玄兎は依澄を見て、小さく頷いた。
「その時は、ちゃんと答える」
「恋だから」
「そうやって真っ直ぐ言うの、まだ慣れない」
「慣れて」
「努力する」
後ろで千燈が小さく笑った。
依澄は、玄兎の半歩前を歩いていた。
地上へ出ると、夏の夕方の熱気が戻ってきた。
地下の冷たい空気に慣れていたせいか、外気が妙に現実的に感じられる。
「夢では、昔の玄兎が蝶へ手を伸ばしてた。今は?」
依澄が隣へ並んだ。
依澄が自分の手を少しだけ持ち上げた。
意味を理解して、玄兎は一瞬だけ迷う。
「握る?」
「うん」
玄兎は少しだけためらってから、手を差し出した。
「……こういうの、ちょっと緊張するな」
「私も」
「今は、戻ってきた確認」
「分かった」
依澄の指が重なる。
体温はちゃんとある。
夢の蝶ではなく、現実にいる依澄の手だった。
依澄は、握った手を静かに見つめた。
依澄は数歩だけ手を繋いで歩き、それから自分から離した。
「今いるの、分かった」
依澄が言った。玄兎は頷き、少し先を歩く透羽へ追いついた。
◇
その夜、五人は久住研究室へ戻り、一冊の共有ノートを囲んで順番に書いた。
透羽が最初に一行だけ書く。
『D-02の原記録を五人で確認。』
その下へ依澄が続けた。
『今日、玄兎を夢から起こした。』
『今日、玄兎に好きだと言った。恋として。』
玄兎はページを見ながら、最後に短く書き足した。
『今日のことは覚えている。起こしてくれてありがとう。』
依澄がその下へ書き足した。
『明日も起こす。寝坊したら。』
玄兎は文字を見つめた。
胸の奥が熱くなったが、それは痛みではなかった。
◇
同じ日の深夜、鷺宮家本邸では、まだ明かりの消えていない部屋が一つあった。
静嶺の端末には、大学地下から回収されたD-02の原記録と、透羽からの報告が同期されていた。
確認を終え、静嶺は次の警告画面を開いた。
『中央大封印《百獣繭》』
『夢層・怪異層、同時上昇継続』
『第二段階警戒値、上限接近』
さらに古い自動判定が表示される。
『外部器およびD-02の同時安定を確認』
『次段階移行条件、一部達成』
「安定が条件?」
静嶺の眉が寄る。
普通なら、外部器とD-02が安定すれば封印も安定するはずだ。
それなのに、実際には逆に警戒値が上がっている。
静嶺は別の古い記録を開いた。
『百獣繭は、外部器を一時容器として運用するものではない』
『最終工程――』
肝心の部分は黒塗りだった。
ただ、一行だけ文字が残っている。
『外部器人格完成後、回収を開始』
静嶺はその一文を見て、息を止めた。
「回収……?」
その瞬間、端末が警報を発した。
『第二段階移行』
朽木ヶ丘市の地下深く、誰にも見えない場所で、巨大な繭のような封印がゆっくりと脈打った。
一度脈打つたび、市内で眠る人間の夢が同じ方向へ僅かに引かれる。数百人が寝返りを打ち、名前の分からない誰かを探すように、暗い部屋で同時に手を伸ばした。
眠る者の中には、自分の手が誰かの指を掴んだ感触で目を覚ます者もいた。けれど握っていたのは家族の手ではない。布団の隙間から伸びた、白く濡れた指だった。
悲鳴を上げて灯りを点ければ、指は消える。代わりに枕元へ白い蝶が一匹だけ止まり、眠っていた本人の声で「待っている」と囁いた。
市内の同じ方角を向いた窓へ、白い蝶が一匹ずつ張りついていく。翅の模様はどれも人の眼に似ており、室内を覗くようにゆっくり開閉した。
その夜、夢から目覚められなかった者が三人いた。呼吸も脈も正常で、家族の声にも揺さぶる手にも反応しない。ただ三人とも、閉じた瞼の下で同じものを追うように眼球を動かし、口元へかすかな笑みを浮かべていた。
夢の中で彼らは、黒い水の向こうにある懐かしい家へ歩いていた。玄関には、もう会えないはずの人が立っている。その背後で巨大な白い繭が脈打っていることには、誰も気づかなかった。
――第二十一話・了