第二章・全36話中 20話

第二十話 監視役の先輩が、本家に呼び出された

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 鷺宮透羽が家からの出頭要請を玄兎たちへ見せたのは、その翌朝だった。

 五人は一限前の学食に集まっていた。窓際の席には夏の朝日が斜めに差し込み、まだ客の少ない店内にはコーヒーマシンの低い音と、厨房から聞こえる食器の音だけが響いている。

 透羽は端末の画面を机の中央へ置いた。

『鷺宮透羽へ出頭要請』
『議題:外部器・鵺代玄兎への私的関与について』
『本日十五時、鷺宮家本邸』

 玄兎は何度か読み返したあと、ブラックコーヒーへ手を伸ばした。

「私的関与って、俺と普通に飯食ってること?」

「それだけなら、ここまで正式な呼び出しにはならないと思います」

 透羽の声は落ち着いていたが、カップを持つ指先にはいつもより力が入っている。

 千燈が頬杖をついた。

「家の言い方って便利だねえ。『好きになりかけてるから距離取れ』って書くより、ずっと事務的」

「千燈」

「違う?」

「……完全には否定しません」

 透羽がそう答えた瞬間、小毬が口に入れかけていた卵サンドを止めた。

「否定しないんですか?」

「そこに食いつくんだ」

 玄兎が苦笑する。

「重要です!」

「今は呼び出しの話」

「それも重要です!」

 依澄は端末の文字をじっと見ていた。

「私的って、悪いこと?」

「悪いとは限りません」

 透羽が答える。

「ただ、鷺宮家にとって私は玄兎の監視と、必要な場合の封印処置を担う立場です。その対象へ個人的な感情を持てば、判断が鈍ると考える人はいます」

「鈍った?」

 依澄が訊く。

 透羽は少し考えた。

「家の基準では、そう見えるでしょうね」

「例えば?」

「玄兎を管理施設へ隔離する案を拒否したこと。水鏡検分で家の命令より救助を優先したこと。昨日も帰巣標識の記録を、許可を待たずに皆さんへ共有しました」

「それ、全部正解だったと思うけど」

 玄兎が言う。

「私もそう思っています」

「なら」

「家が同じ評価をするとは限りません」

 透羽は端末を伏せた。

 昨日見つかった古い記録には、玄兎の人格境界を維持するものとして、対人関係、生活習慣、自己選択の反復、そして外部からの継続的識別が挙げられていた。

 しかも、それは紙の上だけの話ではなかった。旧《帰巣壇》の影響を受けた玄兎は、朝に何を食べたかも、ブラックコーヒーが好きなことも覚えていたのに、「今どちらを選びたいか」だけが急速に平らになった。最後に小毬から「今、私たちと一緒に帰りたいですか」と問われ、玄兎自身が「みんなと帰りたい」と選び直した時、少なくとも悪化していた状態には変化が見えた。

 それだけで記録の因果関係まで証明できるわけではない。それでも、五人で食事をすること、共有ノートへ自分の選択を残すこと、誰かが今の玄兎を見て名前を呼ぶことが、単なる慰めではない可能性は高かった。

「むしろ」

 小毬が言った。

「今さら先輩から私たちを離したら、記録と逆じゃないですか」

「その通りです」

「じゃあ勝てます!」

「何に?」

 玄兎が言った。

「鷺宮家に!」

「喧嘩しに行くわけではありません」

 透羽は即座に否定した。

 千燈が笑う。

「でも、透羽ちゃんの顔はわりと戦う顔だよ」

「普通です」

「昨日からその言葉、便利だね」

 玄兎が言うと、透羽は少しだけ彼を睨んだ。

「玄兎」

「はい」

「今日は大学にいてください」

 今度は玄兎の表情が変わった。

「一人で行くの?」

「私への出頭要請です」

「でも議題は俺」

「はい」

「なら俺も」

「呼ばれていません」

「透羽」

 玄兎は少しだけ声を低くした。

「昨日、帰る場所くらい自分で選ぶって言ったばっかりなんだ」

「……」

「だから今日も、自分で決める。家の中まで入れないなら門の外で待つ。でも、透羽が一人で全部背負うのを、俺が何も言わず大学で待つ方は選びたくない」

 透羽は何も言わなかった。

「前の俺なら、『呼ばれてないなら仕方ない』って引いたかもしれない。でも今は、一緒に行きたい」

 小毬もすぐに頷く。

「私も行きます」

「私も」

 依澄が答えた。

「私も暇だし」

 千燈が言う。

「千燈先輩、三限ありますよね」

 小毬が答えた。

「休講になった」

「怪異運」

「それやめて」

 透羽は四人を順番に見た。

 呼び出されたのは自分であり、自分の家の問題なのだから、一人で処理すべきだと、ほんの数秒前まで考えていた。

 けれど、その考え方そのものが、玄兎が昔やっていたことと同じだと気づく。

 誰かを守ろうとして一人で抱え、負担をかけまいとして相談する前から距離を取る。そのやり方では、結局、残された者の不安を大きくしてしまう。

 透羽は小さく息を吐いた。

「本邸の中へ入れる保証はありません」

「門まででいい」

 玄兎が言った。

「待たせる可能性があります」

「待つ」

「かなり長くなるかもしれません」

「それでも」

 透羽は一度目を伏せた。

「……分かりました」

 顔を上げる。

「一緒に来てください」

 玄兎が少し笑った。

「うん」

 依澄がそのやり取りを見ていた。

「透羽」

「何ですか」

「今、自分で助けてって言った?」

「そこまでは言っていません」

「でも近い?」

 透羽は少しだけ考えた。

「近いかもしれません」

「いい」

「何がですか」

「進んだ」

 千燈が楽しそうに笑う。

「依澄ちゃん、人の成長記録みたいになってるね」

「毎日変わるから」

「それはそう」

     ◇

 午後三時前。

 五人は鷺宮家本邸の門前に立っていた。

 玄兎がここへ来るのは、人格境界を確認する《水鏡検分》を受けた時以来だった。

 石垣に囲まれた広い屋敷。

 庭には細い水路が巡り、夏の日差しを受けて澄んだ水が静かに流れている。

 以前はただ「透羽の家」として見た景色だった。

 今は少し違う。

 この水路の一つ一つが術式の一部であり、地下の封印系統にも接続していることを玄兎は知っている。

「やっぱり緊張する」

 玄兎が言う。

「先輩でも?」

 小毬が答えた。

「するよ」

「前は平気そうでした」

「平気なふりしてた」

 小毬が少し笑う。

「今の先輩です」

「そういう確認?」

「はい」

 門の内側から、白い和装姿の男性が現れた。

 透羽の家の使用人兼術者である鷺宮冬一だった。

「透羽様。お待ちしておりました」

「はい」

 冬一の視線が玄兎たちへ移る。

「同行者については伺っておりません」

「承知しています。呼び出しを受けたのは私だけです」

「では、皆様はこちらで」

 透羽が一歩前へ出た。

「玄兎だけ、同席を申請します」

「透羽」

 玄兎自身が驚く。

 冬一も一瞬だけ目を動かした。

「理由を」

「議題の対象本人です。また、昨日発見した帰巣標識と人格固定因子の記録について、本人の意思確認が必要です」

「当主へ確認します」

「お願いします」

 冬一が奥へ戻る。

 千燈が透羽の肩へ顔を近づける。

「最初から強いね」

「必要なことです」

「玄兎くんだけ連れてくの?」

「全員を申請すると、最初の交渉で拒否される可能性が高いので」

「戦ってる」

「交渉です」

 数分後、冬一が戻ってきた。

「鵺代玄兎様のみ、同席を認めるとのことです。他の皆様は外待合をご利用ください」

「分かりました」

 小毬が玄兎を見る。

「先輩」

「うん」

「匂い、覚えてます」

「今日の?」

「はい」

「戻ったら確認して」

「任せてください」

 千燈も軽く手を上げる。

「何か血が必要って言われても、勝手に渡さないでね」

「分かってる」

 依澄が答えた。

「帰ってきて」

「行ってくるだけだよ」

「うん。でも帰ってきて」

「分かった」

 最後に玄兎は透羽を見る。

「行こう」

「はい」

 二人で門をくぐった。

     ◇

 通されたのは、以前の水鏡検分を行った広間ではなかった。

 本邸のさらに奥にある、畳敷きの細長い部屋だった。正面には鷺宮家当主の鷺宮静嶺が座り、その左右を透羽より年上の男女四人が固めている。いずれも親族としてではなく、封印管理を担う実務者としてこの場に臨んでいるようだった。

 玄兎と透羽は向かい合う形で座る。

「鷺宮透羽」

「はい」

「今回の呼び出しの理由は理解しているな」

「玄兎への私的関与について、と」

「そうだ」

 静嶺の視線が玄兎へ向く。

「鵺代玄兎。本人を同席させたのは透羽の希望だ」

「聞きました」

「本来、管理対象本人を管理方針の審議へ参加させる必要はない」

 玄兎は少しだけ眉を寄せた。

「俺の話なのに?」

「対象の感情と、封印管理上の判断は別だ」

 昨日の地下石室が、玄兎の頭へ浮かんだ。

 怪異たちは一体ずつ違う場所で暮らしていたのに、古い帰巣壇は個々の行き先を弱め、全てを同じ場所へ歩かせていた。玄兎自身も「どこでも同じ」と感じ始め、決められた帰り先へ従いかけた。

 もちろん、目の前の鷺宮家があの術式と同じだと言うつもりはない。

 それでも、自分の行き先を自分のいない場所で決められるという構図だけは、玄兎には妙に近く感じられた。

「昨日、自分で選べなくなるのがどれだけ気持ち悪いか知りました」

 静嶺の目が玄兎へ向く。

「だから今日、俺の管理方針まで俺抜きで決められるのは嫌です」

 透羽の横顔が僅かに動いた。

「そこも、本日の議題です」

 静嶺が透羽を見る。

「どういう意味だ」

「玄兎を『対象』としてのみ扱うことが、現在の記録と矛盾しています」

「説明しろ」

 透羽は端末を開いた。

「昨日確認された《帰巣壇》関連記録では、帰巣標識と器人格は別の機能であると明記されています。また長期運用時に人格境界が不鮮明化する可能性がある一方、人格固定因子として『対人関係』『生活習慣』『自己選択の反復』『外部からの継続的識別』が挙げられています」

「既知だ」

「昨日の帰巣壇では、玄兎の事実記憶は保たれたまま、個人的な選択の方向だけが弱まる現象も確認しました。本人が周囲との関係を具体的に思い出し、自分で『みんなと帰る』と選び直した時に状態が変化しています。これだけで人格固定因子との因果を断定はできませんが、少なくとも古い記録と矛盾しません」

 透羽の声が少し強くなる。

「その状況で、玄兎から日常的な対人関係を意図的に切り離す判断には、相応の根拠が必要です」

 左側に座っていた年配の男性が口を開いた。

「対人関係そのものを否定しているわけではない」

「では何を問題視していますか」

「帰巣壇の一件で、特定個人との私的関係が必要だと証明されたわけでもない。人格固定に関係が有効だとしても、それと監視担当者が対象へ感情移入することは別問題だ」

 透羽は一度だけ息を整えた。

「その区別には同意します」

「なら話は早い。問題は、お前自身がその関係へ深く入りすぎていることだ」

 透羽は黙った。

「監視対象と毎日行動を共にし、大学生活まで共有している。怪異対応では本人の救命を優先し、管理施設への収容にも反対した」

「はい」

「家の判断より、鵺代玄兎個人の希望を優先する場面が増えている」

「必要な場面でです」

「それを判断する者が、対象へ私情を持っている」

 部屋が静かになる。

 玄兎は横にいる透羽を見る。

 透羽は前を向いたまま動かない。

 静嶺が訊いた。

「透羽。お前は鵺代玄兎へ、管理者として必要な範囲を超える感情を持っているか」

 玄兎の心臓が強く鳴った。

「本人の前で聞くんですか」

 思わず口を挟む。

「本人が同席することを選んだのは透羽だ」

 静嶺の声は変わらない。

 透羽がゆっくり息を吸った。

「はい」

 玄兎が横を見る。

 透羽は顔を赤くしていない。

 逃げてもいない。

「持っています」

「それは何だ」

「玄兎が傷つけば嫌です。死ねば怖い。記憶を失えば悲しい」

「それは以前も聞いた」

「今は、それだけではありません」

 透羽の指が膝の上で僅かに握られる。

「大学で隣に座ると安心します。朝、玄兎がちゃんと来ていると嬉しい。食事をしていると、今日も生きていると思えます」

 玄兎は息を止めた。

「玄兎が他の人と近いと」

 透羽が一瞬だけ言葉を詰まらせる。

「……少し、落ち着かないこともあります」

「透羽」

「今は黙っていてください」

「はい」

 千燈がここにいたら絶対に笑う。

 小毬なら騒ぐ。

 依澄なら「嫉妬?」と訊く。

 玄兎はそれを想像して、こんな場面なのに少しだけ笑いそうになった。

 透羽は続ける。

「それが何という感情か、私はもう分かっています」

 玄兎の心臓がまた鳴る。

 けれど透羽は、その先の名前までは口にしなかった。

「だからこそ、私は自分の判断が偏る可能性も認識しています」

 静嶺が訊く。

「なら監視任務から外れるか」

 透羽の表情が変わった。

「……何ですか」

「後任を付ける」

 玄兎も顔を上げる。

「透羽を外す?」

「管理者が対象へ過度な私情を持つなら、通常の処置だ」

「通常って」

「玄兎」

 透羽が止める。

「聞きます」

 透羽は当主を見た。

「後任へ引き継いだ場合、私は玄兎との私的接触を続けられますか」

「原則として制限する」

「大学でも?」

「必要なら履修や行動範囲を調整する」

 透羽の顔から血の気が引いた。

「それは」

「対象の人格安定に必要な対人関係は、他の三名でも維持できる」

 玄兎の胸の奥に、冷たいものが落ちた。

 千燈、小毬、依澄の三人がいれば、人数としては足りる。記録に書かれた「外部識別者」という機能だけを考えるなら、そう整理できるのかもしれない。

 けれど昨日、帰巣壇に集められた怪異たちは、全部「帰巣対象」として扱われた結果、猫も犬も鳥も同じ歩幅になった。違うものを役割だけでまとめた時、失われるものを玄兎は目の前で見たばかりだった。

「三人いれば一人抜いても同じ、ってことですか」

 玄兎が訊く。

「機能上は代替可能だという意味だ」

「俺には同じに聞こえません」

 静嶺が玄兎を見る。

「昨日、怪異を全部同じ行き先へ揃える仕組みを止めました。人との関係まで同じだとは言いません。でも、俺にとって透羽は『固定因子の一人』だから誰かと交換できる、っていう関係じゃないです」

 その言葉よりわずかに早く、透羽が答えた。

「嫌です」

 透羽が言った。

 あまりにも早い答えだった。

 静嶺の眉が僅かに動く。

「理由を」

「私が嫌だからです」

 透羽自身も、言ってから一瞬だけ目を見開いた。

 管理上の理屈も、封印上の都合も、記録上の根拠も探す前に、透羽の口から感情の方が先に出た。

「透羽」

 玄兎が小さく呼ぶ。

 透羽は玄兎を見ない。

 けれど、もう一度はっきり言った。

「玄兎の隣から離れるのは、私が嫌です」

 部屋の空気が変わった。

 年配の男性が険しい顔になる。

「それこそ、管理者として不適格だという証明ではないか」

「かもしれません」

「透羽」

「ですが」

 透羽は顔を上げる。

「管理者として不適格であることと、玄兎の人格維持に私が不要であることは同じではありません」

 静嶺が目を細めた。

「監視役を外れても、関係を継続したいと?」

「はい」

「家の任務よりも?」

「任務を捨てるとは言っていません」

「両方取るつもりか」

「取れる方法を探します」

「甘い」

「そうかもしれません」

 透羽は引かなかった。

「でも、最初からどちらかを捨てる必要があると決める方が、私は不自然だと思います」

 玄兎は横でその言葉を聞いていた。

 透羽は変わった。最初に会った頃なら、家の命令を正しいものとして受け入れ、自分の感情を後回しにしていただろう。けれど今は、自分の気持ちも選択の理由にしていいのだと、少しずつ理解し始めている。

 静嶺が玄兎へ視線を向けた。

「鵺代玄兎」

「はい」

「お前はどう考える」

「俺?」

「透羽を監視任務から外せば、お前は自由度を失う可能性がある。後任は今ほど個人的判断を認めない」

「それ、選択肢になってないですよね」

「答えろ」

 玄兎は少し考えた。

「透羽に監視されたいわけじゃないです」

 透羽の目が僅かに動く。

「でも、隣にはいてほしい」

 今度は透羽が玄兎を見る。

「監視役じゃなくても」

 玄兎は続けた。

「透羽だから」

「……」

「俺が死にそうになった時に怒るのも、忘れたくないって言った時に一緒に記録してくれるのも、家の仕事だからだけじゃないのは分かってます」

 透羽の頬が少しだけ赤くなる。

「だから」

 玄兎は静嶺を見る。

「任務から外すことと、俺から離すことを同じにしないでください」

 部屋はしばらく静かだった。

     ◇

 審議はそこで終わらなかった。

 鷺宮家側が用意していたのは、透羽を説得する言葉だけではなかった。

「なら、確認する」

 静嶺が立ち上がる。

「何をですか」

「私情が人格安定へ寄与しているのか。それとも、管理判断を歪めているだけなのか」

 透羽の表情が変わる。

「術式を使うのですか」

「《無縁水鏡》を使う」

「……」

 透羽が息を止めた。

「何それ」

 玄兎が小声で訊く。

「鷺宮家の古い識別術です」

「危ない?」

「本来は危険ではありません」

「本来は?」

「対象の人間関係に由来する霊的な付着を、一時的に水鏡から切り離して観察します」

「つまり」

「玄兎から、私たちとの関係に由来する反応を一時的に外す」

「嫌な名前だな」

「私も好きではありません」

 静嶺が言う。

「恐れる必要はない。十分もかからない」

「帰巣標識との境界が不鮮明化している可能性があります」

 透羽がすぐに反論する。

「今、対人関係を切る術を使うのは危険です」

「だから確認する」

「記録に人格固定因子だと」

「短時間の切り離しだ」

「それでも」

「透羽」

 静嶺の声が低くなる。

「お前が拒むなら、それ自体を判断材料にする」

 透羽の手が強く握られる。

 玄兎が言った。

「俺が決めてもいいですか」

「何」

「対象本人なので」

 静嶺は少し黙った。

「言ってみろ」

 玄兎は透羽を見る。

「危険なら止める?」

「止めます」

「途中で俺が嫌だって言ったら?」

「止めます」

「家が続けろって言っても?」

 透羽は一秒も迷わなかった。

「止めます」

 玄兎は少し笑った。

「じゃあやる」

「玄兎」

「透羽が止めてくれるなら」

「……」

「それに」

 玄兎は静嶺を見る。

「俺も知りたいです。俺が今の俺でいるのに、みんなとの関係が本当に必要なのか」

 透羽は心配そうな顔をした。

「無理はしないと約束してください。死ぬ可能性が出た時も、記憶に異常が起きた時も、すぐに中止します」

「分かった。どちらか一つでも異常があれば、その場で止める」

「絶対です」

「約束する」

 静嶺が冬一へ合図した。

「準備しろ」

     ◇

 《無縁水鏡》は、本邸の地下にあった。

 以前の水鏡検分よりも小さな部屋。

 中央に直径三メートルほどの浅い水盤があり、天井から細い水が絶えず落ちている。

 水滴が落ちるたび、部屋のどこかで同じ音が遅れて返った。一度目はすぐ近く、二度目は壁の奥、三度目は地面のはるか下から聞こえる。小さな部屋のはずなのに、音だけが底のない空間を作っていた。

 壁には人の名前を削り取ったような長方形の痕が幾つも残っている。この水鏡で関係を切られた者たちの名札が、かつてそこへ掛けられていたのかもしれない。玄兎は読めない痕の一つを見つめ、そこへ四人の名前が並ぶ光景を想像してしまった。

 玄兎は水盤の中央へ立った。

 水は足首ほどしかない。

 透羽は水盤の外。

 そのさらに外側に静嶺と術者たちがいる。

「本当に十分?」

 玄兎が訊く。

「通常なら数分です」

「透羽が言うと安心する」

「今、そういうことを言わないでください」

「何で」

「集中できません」

「ごめん」

 透羽は少しだけ耳を赤くした。

 術者が四方の水路を開く。

 水盤へ透明な水が流れ込み、玄兎の足元を円を描くように巡った。

「開始する」

 静嶺の声。

 透羽は玄兎を見る。

「何か変なら、すぐ言ってください」

「分かった」

 最初は何も起きなかった。足首を流れる水は冷たく、ただそれだけのことに思えた。

 しかし数十秒が過ぎると、玄兎の周囲に光が滲み、やがて白、赤、銀、淡紫の四つの淡い光となって浮かび上がった。

「これが」

 玄兎が見る。

「関係性の反応です」

 透羽が答えた。

「誰がどれ?」

「断定は」

 玄兎は赤い光を見る。

「千燈っぽい」

「今は集中してください」

「はい」

 銀色は小毬を思わせ、淡紫は依澄に見える。

 そして最後に残った白い光を見て、玄兎は思わず透羽へ視線を向けた。

 透羽もその光を見ていた。

「それが私とは限りません」

「でも」

「玄兎」

「はい」

 術式が進む。

 赤、銀、淡紫、白の四つの光が、術式に押し出されるように、少しずつ玄兎から水盤の外側へ離れていった。

 光が一つ離れるたび、玄兎の中から小さな実感が抜け落ちた。赤い光が遠ざかると、千燈の笑い方を知っているのに、その笑顔を見て安心した理由が分からなくなる。銀色が離れると、小毬の声が思い出せても、名前を呼ばれた時に胸が緩む感覚だけが消えた。

 淡紫の光が水盤の縁を越えた。依澄と一緒に食べたパンの種類は言える。けれど、それが大切な思い出だという確信がない。白い光が最後に残り、透羽が水盤の外へ立っている。玄兎は彼女の顔を知っているはずなのに、見知らぬ退魔師の写真を眺めているような距離を感じ始めた。

 知識は残っている。だから、失われていくものを他の誰かへ説明しづらい。

 昨日の帰巣壇では、選択肢を前にした時の「こっちがいい」という傾きが平らになっていった。今は違う。選んだ相手の顔も、交わした言葉も覚えているのに、なぜその人を選び続けてきたのかという実感だけが削られていく。

 似ているのは、どちらも玄兎から「自分であるための向き」を奪うことだけだった。起きている現象そのものは別だ。

「変な感じ」

「何が?」

「音が遠い」

「耳ですか」

「違う」

 玄兎は胸へ手を当てる。

「みんなのこと考える感じが」

 透羽の顔が硬くなる。

「術式の範囲内です」

 静嶺が言った。

「続行」

 四つの光が水鏡の外へ出た。

 その瞬間。

 玄兎の表情が消えた。

「玄兎?」

 透羽が呼ぶ。

 玄兎は透羽を見る。

 玄兎と目は合っている。それなのに、透羽にはそこにいる彼が急に遠くなったように感じられた。

「……誰」

 透羽の呼吸が止まる。

「玄兎」

「名前は分かる」

「私が分かりますか」

 玄兎は透羽を見る。

 数秒。

「鷺宮」

 透羽の胸が冷たくなる。

「下の名前は」

「……」

「玄兎」

「分からない」

「中止してください」

 透羽が即座に言った。

「まだ想定範囲だ」

 静嶺が言った。

「中止してください」

「関係反応を切り離せば、一時的な認知低下は」

「昨日の帰巣壇と同じ反応ではありません。事実記憶を残したまま選択指向が弱まった時とも違う。今は関係に結びつく実感が失われ、その直後から名前の検索まで崩れています」

 透羽は水盤を見る。

 玄兎の足元から、黒い何かが水へ溶け出すように浮き上がった。

「帰巣標識が強くなっています」

 黒い筋が水の中を這い、四つの光が離れた空白を埋めるように、濁った水が玄兎の周囲へ広がっていく。

 濁りの中へ、幾つもの口が浮かんだ。唇の形だけが水面へ現れ、声を出さずに玄兎の名前を食べている。一つが「鵺代」を噛み砕き、別の一つが「玄兎」を舌の上で転がすたび、自分の名前が借り物の記号へ変わっていく。

 足首へまとわりつく水からは、土の下で腐った木と古い獣の匂いが上がった。玄兎の身体はその匂いを嫌悪する一方で、胸の奥にいる何かだけが懐かしそうに脈打っている。四人との関係が空けた場所へ、帰巣標識が自分こそ最初からここにいたのだと根を伸ばし始めていた。

「中止!」

 透羽は迷わず水盤へ踏み込もうとした。

「待て!」

 静嶺が言った。

「術式が不安定だ!」

「だから止めます!」

 透羽は構わず水へ入った。

 しかし水鏡の境界が強い抵抗を生み、透羽の身体を外側へ弾いた。

「っ」

 透羽の身体が後ろへ押される。

「透羽!」

 玄兎が今度は、はっきりと彼女の名前を呼んだ。

 透羽が顔を上げる。

「分かるんですか!」

「分からない。でも」

 玄兎の顔が苦しそうに歪む。

「呼ばないと駄目な気がした」

 黒い水は玄兎の足元から膝の高さまで這い上がってきた。

「器」

 声は、水盤の底そのものから響いてくるようだった。

「帰る場所」

「違う」

 玄兎は否定したが、その声には普段の力がなかった。

「誰が違う」

 水盤の底から響く声が、玄兎の否定を嘲るように問い返した。

「お前は器」

 「俺は」と玄兎は答えかけたが、その先の言葉が出てこなかった。

 自分の名前は分かる。けれど、何が好きなのか、誰と一緒にいたいのか、どう生きたいのか。そうした自分を形作っていた感覚が、急に薄い膜の向こうへ遠ざかっていた。

 ブラックコーヒーが好きだという事実は言える。しかし苦味を美味しいと思った朝が、自分の経験だったのか資料で読んだ情報なのか分からない。大学へ通っていることも知っているが、明日も行きたいという気持ちが見つからない。

 最も怖いのは、その状態を怖いと思う心まで弱くなっていくことだった。少し前まで必死に守ろうとしていたものが、どうでもよい情報へ変わっていく。このままなら、自分から水の底へ歩いていきながら、それを合理的な選択だと受け入れてしまう。

 水面に映る玄兎の顔から、まず目が消えた。次に鼻と口が平らになり、名前を持つ必要のない器の輪郭だけが残る。

 その背後へ、幾つもの別の顔が浮かび上がった。玄兎の中に収められている怪異たちが、空になりかけた身体を順番に試しているようだった。泣く子供、口の裂けた女、鹿の角を生やした老人、黒い羽毛に覆われた獣。それぞれが水面の玄兎へ重なり、彼の口を借りて息をした。

『これなら入れる』

『名前が空いた』

『帰ろう』

 複数の声が、玄兎の歯を震わせながら囁く。唇は閉じたままなのに、舌が自分のものではない発音を作ろうと動いた。

 水盤の外にいる透羽が、ひどく遠い。助けを求めるべき相手だという判断はできても、なぜ彼女でなければならないのか分からない。むしろ、必死にこちらへ手を伸ばす姿が術式を邪魔する障害物に見え始めた。

 その瞬間、玄兎の右手が勝手に持ち上がった。透羽を遠ざけるための印を結ぼうとしている。指の関節は人の手ではあり得ない向きへ折れかけ、皮膚の下を黒い筋が走った。

 痛みはある。しかし痛いのが自分だという実感がない。

「玄兎!」

 透羽が水鏡の境界へ手を当てる。

「私を見て!」

 玄兎が見る。

「鷺宮」

「透羽です」

「透羽」

「はい」

 名前を声にしたことで、切れていたものが一つだけ繋がり直したように感じられた。

「大学で、あなたの隣に座っている人です」

 以前、もし玄兎が自分を忘れたら、そう名乗ると透羽は言った。

 今、その約束を本当に使う時が来てしまった。

「朝、あなたが食事をしたか確認します」

「……」

「あなたが無茶をすると怒ります」

「……」

「あなたが死ぬのが怖いです」

 玄兎の目が少し揺れる。

「あなたが戻ってきて、私を忘れたら悲しい」

 玄兎の周囲で広がっていた黒い水が、僅かに動きを鈍らせる。

「それから」

 透羽の声が震える。

「私は、あなたの隣にいたい」

 玄兎の目が大きく見開かれた。

「監視役だからではありません」

 透羽は水鏡へ両手を当てる。

「任務だからでもありません」

「透羽」

「私がそうしたいからです」

 水盤の外側へ切り離されていた白い光が、透羽の言葉へ応じるように動き始めた。水鏡の境界を押し返すようにして、少しずつ玄兎の方へ戻ってくる。

「術式へ干渉するな!」

 静嶺が言った。

「しています!」

 透羽が答えた。

「玄兎の人格を守るために!」

 白い光が水鏡の境界を越え、玄兎の方へ戻ってくる。

 その光は玄兎の胸元へ静かに吸い込まれた。

「……透羽」

「はい」

「透羽」

「はい」

 玄兎は確かめるように何度も透羽の名前を呼び、そのたびに記憶と感情が少しずつ定着していく。

「千燈」

 赤い光も僅かに揺れた。

「小毬」

 銀色の光が動く。

「依澄」

 淡紫の光も続いた。

 四つの反応すべてが、玄兎の元へ戻ろうとしている。

「外にいる」

 透羽が答えた。

「皆、待っています」

「うん」

 透羽は一度息を整えた。昨日、小毬が玄兎を帰巣壇から引き戻した時にした質問を思い出す。

「玄兎。今、どこへ帰りたいですか」

 玄兎はすぐには答えなかった。

 水盤の底からは『帰れ』という声が響いている。だが、今問われているのは命令ではない。玄兎自身の答えだった。

「……大学」

「誰と?」

「みんなと」

「そのあと何をしますか」

「飯」

「何を食べますか」

「まだ決めてない。自分で決める」

 透羽はこんな状況なのに、少しだけ笑いそうになった。

「小毬は」

「肉を勧める」

「千燈は」

「からかう」

「依澄は」

「今日好きなものがまた変わってるかもしれない」

「私は」

 玄兎は透羽を見る。

 今度は迷わなかった。

「隣にいてほしい」

 透羽の目に、ほんの少し涙が浮かんだ。

「はい」

 黒い水が玄兎の脚から剥がれるように落ちていく。

 それに合わせて、帰巣標識の反応も弱まった。

 四つの光はすべて玄兎へ戻った。

 戻ったのは記憶だけではなかった。

 千燈の光が胸へ触れた瞬間、からかう声に腹を立てながらも、その声が聞こえると安堵していた自分が戻った。小毬の光からは、袖を掴まれる煩わしさと、それを振りほどかなかった理由が流れ込む。依澄の光は、短い言葉の続きを待つ静かな時間を、大切だと思う感覚ごと連れ帰った。

 最後に白い光が定着すると、透羽が初めて玄兎を監視対象と呼んだ日の冷たい目と、今、水鏡を壊してでも手を伸ばそうとしている目が、一つの連続した記憶として繋がった。

 失っている間には分からなかった。感情は記憶へ後から添えられた飾りではない。同じ出来事を自分の人生として持ち続けるための、見えない血肉だった。

 水面から顔を出していた怪異たちは、空き場所を失って一斉に歪んだ。泣き顔も獣の顔も内側へ潰れ、黒い水の底へ引き戻されていく。最後まで残った口が、玄兎の声で囁いた。

『また空になる』

 それは予言ではなく、彼の恐怖を読んだだけの言葉だった。それでも背中へ冷たいものが走る。次に死んだ時、次に忘れた時、今日と同じように空いた場所を奪われない保証はない。

「空になっても、呼び戻します」

 聞こえたはずのない囁きへ、透羽が答えた。

「何度でも、名前を呼びます」

 玄兎はようやく、自分の意思で頷いた。

「術式停止!」

 静嶺がようやく術式停止を命じる。

 四方の水路が閉じられ、水の流れが止まった。

 水盤はゆっくりと静けさを取り戻した。

     ◇

 玄兎は水盤から出た直後、透羽に両肩を掴まれた。

「名前」

「鵺代玄兎」

「年齢」

「二十」

「大学」

「朽木ヶ丘大学二年」

「今日の朝食」

「味噌汁と鮭」

「私」

 玄兎は少し止まった。

 透羽の顔が強張る。

「鷺宮透羽」

「それだけ?」

 透羽自身が聞いてから、少し後悔したような顔をした。

 玄兎は何度か瞬きをする。

「大学で俺の隣に座ってる人」

「……はい」

「俺が死ぬと怒る」

「怒ります」

「最近、俺が他の人と近いとちょっと不機嫌」

「玄兎」

「確認」

「必要ありません」

「覚えてる」

 透羽は大きく息を吐いた。

「よかった」

 その声は、とても小さかった。

 透羽の指先はまだ玄兎の肩を掴んだままだった。確認が終わったのに、離すのを忘れているらしい。

 玄兎は息を吐いた。

 水盤の中で、透羽をただの「障害物」として見ていた数秒間の記憶は残っている。思い返せば気味が悪い。けれど今は、それ以上にはっきりしたことがあった。

 目の前の少女を見れば、透羽だと分かる。
 名前だけではない。言い方の癖も、少し怒った時の目も、平静を装う時ほど指先に力が入ることも知っている。

 そして、それを知っていることに安心している自分がいる。

「玄兎」

「何?」

 返事をした次の瞬間、透羽が一歩近づいた。

 玄兎の胸元へ額を寄せ、そのまま両腕を背中へ回す。

「……透羽?」

 突然のことに、玄兎は両手を行き場のないまま浮かせた。

 怪我を支えるためでも、術式を止めるためでもない。
 透羽はただ玄兎を抱きしめていた。

「少しだけ」

 胸元から、透羽の声が聞こえる。

「このままでいてください」

「体調確認?」

「違います」

 即答だった。

 玄兎は思わず目を瞬いた。
 いつもなら「人格境界の確認です」くらいの理由をつけそうな透羽が、何も取り繕わなかった。

「じゃあ、透羽がしたいから?」

 ほんの少し間が空いた。

「……はい」

 その一言で、玄兎の胸の奥が妙に温かくなった。

 水盤の中では分からなかった感覚だった。
 透羽が自分の名前を呼ぶことが嬉しい。こうして触れられていることに安心する。そして、彼女が離れたら少し寂しいと思う。

 そのどれもが、戻ってきた自分の感情だった。

 玄兎はゆっくり腕を下ろし、まず片手を透羽の背中へ添えた。
 少し迷ってから、もう片方の腕も回す。

 今度は誰かを支えるためではない。

 玄兎自身がそうしたくて、透羽を抱き返した。

 透羽の身体が一瞬だけ固まる。
 けれど、離れなかった。

「俺、ちゃんと分かる」

「何がですか」

「透羽だって」

「……はい」

「名前を知ってるってだけじゃなくて」

 玄兎は少し考えてから続けた。

「隣にいると落ち着くし、いなくなると困る人」

 透羽が胸元で小さく息を止めた。

「それは、確認項目に必要ですか」

「今追加した」

「勝手に増やさないでください」

「でも合ってるだろ」

 返事はすぐには来なかった。
 ただ、玄兎の背中へ回った腕がほんの少しだけ強くなる。

「……否定はしません」

 玄兎は小さく笑った。

 さっきまで、水盤の中では透羽を邪魔だと判断していた。
 今は、その逆だった。

「俺、さっき透羽を邪魔だと思った」

「術式の影響です」

「分かってる。でも、今は全然違う」

「どう違いますか」

 透羽が聞き返す。

 玄兎は少しだけ迷った。
 冗談に逃げることもできたが、今ここでそれをすると、せっかく戻った感情を自分でごまかす気がした。

「今は、離れる方が嫌だ」

 透羽は何も言わなかった。

 ただ、玄兎の胸元へ額を預けたまま、しばらく動かなかった。

 玄兎も急かさない。

 言葉がなくても、腕の中にいる相手が誰なのか分かる。
 自分がどうしてこの人を抱きしめているのかも分かる。

 それが今は嬉しかった。

「透羽」

「はい」

「戻ってきてよかった」

「玄兎が、ですか」

「俺も。でも、それだけじゃない」

 玄兎は抱いた腕に少しだけ力を込める。

「透羽のことを大事だと思える俺が戻ってきて、よかった」

 透羽の指が玄兎の服を小さく掴んだ。

「……私もです」

 それはひどく静かな答えだった。

「玄兎がまた私を見て、私の名前を呼んでくれて……嬉しいです」

 その言葉に、玄兎はもう一度笑った。

 しばらくして、二人はゆっくり腕をほどいた。
 離れたあとも、透羽の指先が玄兎の手へ触れたままだったので、玄兎はその指を軽く握り返した。

 今度は確認のためではない。

 ただ、もう少し触れていたかった。

 自分の名前を知っている。

 透羽の名前も知っている。

 それだけではなく、彼女がどんな時に怒り、どんな時に黙り込み、甘いものを隠して買うことまで思い出せる。

 戻っている。

 知識ではなく、自分の記憶として。

「透羽」

「何ですか」

「さっき言ったの、覚えてる?」

 透羽の動きが止まる。

「何を」

「隣にいたいって」

「……」

「監視役じゃなくても」

「……」

「忘れた?」

「忘れていません」

 透羽の頬が急に赤くなった。

「非常時です」

「非常時なら嘘?」

「そうではありません」

「じゃあ」

「今は体調確認を優先してください!」

「はい」

 玄兎は笑った。透羽は怒ったような顔をしていたが、その奥には少しだけ安心した表情も混じっていた。

     ◇

 術式を停止したあと、一同は再び審議室へ戻った。

 空気は最初より重かった。

 静嶺はしばらく何も言わなかった。

 最初に口を開いたのは、先ほど透羽を不適格だと言った年配の男性だった。

「《無縁水鏡》の短時間使用で、帰巣標識反応が急激に上昇した」

「はい」

 透羽が答えた。

「対人関係に由来する反応を切り離した直後、器人格の境界低下と帰巣標識反応の上昇が同時に起きた」

「はい」

「再接続の過程では、透羽の呼びかけをきっかけに本人が他の三人の名前と生活上の選択を取り戻し、境界値も回復した」

「はい。ただし、今回一度の術式結果だけで、どの要素がどの程度寄与したかまでは断定できません」

 透羽は言った。

「それでも、記録にある『対人関係』『生活習慣』『自己選択の反復』『外部からの継続的識別』と、今回の反応は明確に整合します」

 静嶺はしばらく黙った。

 静嶺は玄兎を見る。

「気分は」

「最悪でした」

「率直だな」

「みんなのことが、知識だけになった感じでした」

「知識?」

「名前は知ってる。でも、その人を大事だと思う感じが消える」

 玄兎は自分の胸へ手を当てた。

「その空いたところに、帰巣標識が入り込んできた」

 静嶺は黙る。

「これで」

 玄兎が言った。

「透羽を離すのが管理上も危ないって、分かりました?」

 静嶺はすぐには答えなかった。

「少なくとも、急な切り離しは不適切だ」

 静嶺はそこまで言ってから、卓上の記録へ目を落とした。

「これまで我々は、器を安定させるためには感情の揺れを減らし、管理者との距離を一定に保つ方がよいと考えてきた」

「はい」

「だが今回、関係反応の切り離しと同時に、玄兎の人格境界が不安定化し、帰巣標識が前面化した。昨日の帰巣壇で起きた選択指向への干渉とは別の現象だが、どちらも本人の自己決定や人格境界を軽視できないことを示している」

 透羽は黙って頷く。

「少なくとも今の玄兎にとって、人との関係を単なる雑音として扱うべきではない」

 玄兎が少しだけ表情を変えた。

「俺を俺にする一部?」

「少なくとも、そう扱うべき段階に入った」

 家の当主からその言葉が出たことで、玄兎の胸の奥に小さな安堵が生まれた。

「なら」

 透羽が改めて顔を上げた。

「後任への即時交代案を撤回してください」

「条件付きだ」

「条件は」

「監視任務という名称を変更する」

 透羽が少し驚く。

「変更?」

「今後、お前を単独の監視者とはしない」

「では」

「人格固定支援および封印状態観察。鵺代玄兎本人の自己決定を原則尊重する。ただし、市全体へ危険が及ぶ場合は別だ」

 玄兎が言う。

「それなら、前より人扱いですね」

「言い方を選べ」

「すみません」

 それでも、静嶺はその言葉自体を完全には否定しなかった。

「もう一つ」

「何ですか」

 透羽が答えた。

「私的関係について、家は推奨しない」

 透羽の顔が硬くなる。

「ただし」

 静嶺は少しだけ間を置いた。

「現時点で禁止もしない」

 玄兎が透羽を見る。

 透羽はすぐに顔を逸らした。

「何ですか」

「いや」

「何も言わないでください」

「何も言ってない」

「顔が」

「最近みんな顔読むな」

 静嶺が小さく咳払いする。

「ここは審議の場だ」

「すみません」

 二人同時に頭を下げた。

     ◇

 屋敷を出たのは、日が傾き始めた頃だった。

 門の外に設けられた待合のベンチから、小毬が真っ先に立ち上がった。

「先輩!」

「ただいま」

「匂い!」

「そこから?」

「大事です!」

 小毬が玄兎へ近づき、すぐに鼻を動かす。

「今の先輩です」

「よかった」

「ちょっと変ですけど」

「何」

「透羽先輩の水の匂い、強いです」

 その言葉に、玄兎と透羽は同時に動きを止めた。

 千燈がゆっくり笑う。

「何があったのかな」

「術式です」

 透羽が答えた。

 即答。

「水鏡の術式を使いました」

「それだけ?」

「それだけです」

 依澄が二人を見比べ、玄兎へ視線を向けた。

「玄兎」

「何」

「透羽のこと忘れた?」

「一瞬」

 透羽が顔を上げる。

 小毬の表情も変わる。

「一瞬?」

「最初は透羽との関係に感じてた意味が抜けて、そのあと名前まで出にくくなった」

「先輩!」

「もう戻った」

「何したんですか!」

「無縁水鏡ってやつ」

 千燈の笑みが消える。

「関係に由来する反応を切り離す術?」

「一時的に」

「昨日あんなことがあった直後の玄兎くんに使った?」

「使いました」

 透羽の声は、自分でも納得していないことが分かるほど少し低かった。

「その直後、人格境界の低下と帰巣標識反応の上昇が同時に起きました」

「……最悪」

 千燈が言った。

「はい」

 小毬が眉を寄せた。

「怒っていいですか」

「もう終わりました」

「でも!」

「結果として、家も危険性を認めました」

 透羽が説明する。

「監視任務は変更されます。今後は人格固定支援と封印状態観察。玄兎の自己決定を、以前より明確に尊重する方針になりました」

 小毬はその説明を聞いて、ようやく少しだけ表情を和らげた。

「じゃあ透羽先輩は」

「離れません」

「よかった!」

 小毬が笑う。

 依澄が尋ねる。

「監視役じゃない?」

「今後は違います」

「じゃあ」

 依澄は真剣な顔で訊いた。

「隣にいる理由は何?」

 その問いに、透羽だけでなく玄兎まで動きを止めた。

 千燈の口元が楽しそうに上がる。

 小毬が慌てた声を上げた。

「依澄先輩、今それ聞きます?」

「大事」

「大事だけど!」

 透羽はしばらく黙っていた。

 それでも透羽は、今日は答えから逃げなかった。

「私が」

 透羽は玄兎を見た。

「いたいからです」

 小毬が小さく「おお」と声を漏らし、千燈も面白そうに笑った。

「言ったね」

 依澄だけは真顔のまま尋ねる。

「恋?」

「依澄さん」

「違う?」

 透羽の顔が目に見えて赤くなった。

「それは」

 玄兎は助け舟を出すつもりで口を開いた。

「今すぐ名前つけなくてもいいんじゃない?」

 透羽は意外そうに玄兎を見た。

「……はい」

 千燈が言った。

「玄兎くん、依澄ちゃんの気持ちを聞いた時より学んだね」

「かなり」

「でも」

 小毬がすかさず割り込んだ。

「私の時も名前つけなくていいって言います?」

「好意はもう名前ついてるだろ」

「はい!」

「そこ元気だな」

 五人の間に笑いが起きた。

 透羽もようやく少しだけ息を抜いた。

     ◇

 帰り道。

 千燈、小毬、依澄がコンビニへ寄ると言って先へ行き、玄兎と透羽だけが少し後ろを歩いていた。

 狙ってそうなったのか。

 偶然なのか。

 玄兎には分からない。

「透羽」

「何ですか」

「今日、ありがとう」

「何が」

「戻してくれて」

「私だけではありません」

「でも最初に名前呼んだの、透羽だった」

「そうですね」

「怖かった?」

 透羽は少し歩いたあと、正直に答えた。

「怖かったです」

「俺も」

「玄兎が私を見て」

 透羽の声が少しだけ細くなる。

「『鷺宮』としか言わなかった時」

「ごめん」

「謝らないでください」

「でも」

「あなたが悪いのではありません」

「うん」

「ただ」

 透羽は前を見る。

「本当に、いなくなったみたいでした」

「俺はいたけど」

「身体は」

「……」

「私を知らない玄兎が偽物だと言いたいわけではありません。でも」

 言葉を選ぶ。

「私が知っている玄兎が、遠くへ行ったように感じました」

「そっか」

「だから」

 透羽は少しだけ笑う。

「名前を呼びました」

「何回も」

「何回でも呼びます」

 玄兎の足が少し止まりかける。

「忘れても?」

「忘れても」

「また『どっちでもいい』みたいになっても?」

「その時は、昨日と同じように聞きます」

「何を」

「どこへ帰りたいか。誰といたいか。あなた自身が、今何を選びたいか」

 玄兎は笑った。

「小毬と似てる」

「少し違います」

「どう違う?」

 透羽は少しだけ考えた。

「私は、あなたが自分で選べる状態へ戻ったことを確認した上で」

「うん」

「それでも危険なことを選んだら怒ります」

「透羽っぽい」

「当然です」

「好き」

 玄兎は口にしてから、自分でも言葉の強さに気づいて足を止めた。

 透羽も足を止める。

「……何がですか」

「その感じ」

「……」

「透羽らしいって意味」

「先に言ってください」

「ごめん」

 透羽の耳が赤い。

 玄兎は少しだけ笑った。

「でも」

「何ですか」

「今日、俺も分かった」

「何を」

「透羽が監視役じゃなくても」

 玄兎は少し照れたように前を向いた。

「隣にいてほしい」

 その言葉で透羽の足が止まり、玄兎も少し先で立ち止まった。

 夕方の道路には、昼より少し涼しい風が吹いていた。

「それは」

 透羽が答えた。

「今日、家で言っていました」

「うん」

「もう一度言う必要は」

「言いたかったから」

 透羽は返事を失い、数秒のあいだ黙った。

「……そうですか」

「うん」

「なら」

 透羽はほんの少しだけ笑った。

「聞いておきます」

「記録?」

「私が覚えます」

 玄兎の胸の奥が少しだけ熱くなった。

「じゃあ、お願い」

「はい」

 ちょうどその時、前方のコンビニから小毬が大きく手を振っているのが見えた。

「先輩ー! 何してるんですかー!」

「今行く!」

 玄兎も返した。

 透羽も隣で歩き出す。

 今度は、二人の距離がさっきより少しだけ近かった。

     ◇

 その夜。

 共有ノートには、今日の出来事がかなり多く書かれた。

 小毬が最初に書いた。

『透羽先輩は監視役じゃなくなりました!』
『でも隣にいます!』
『玄兎先輩を一瞬でも忘れさせる術は今後禁止にしたいです!』

 続いて、千燈が書いた。

『人間関係をノイズ扱いして取り除いたら、玄兎くんの方が危なくなった。』
『面白いというより、かなり重要。』
『誰かとの関係は、本人を歪めるだけじゃなく、本人を本人にしていることもある。』

 依澄も書き加えた。

『透羽は、いたいから隣にいる。』
『玄兎も、いてほしい。』
『これは恋に近い?』

 透羽がすぐに返した。

『最後の一行は不要です。』

 依澄は短く拒否した。

『消さない。』

 小毬も同意する。

『私も気になります!』

 千燈が余裕のある調子で続けた。

『私はだいたい分かってる。』

 透羽は話を打ち切るように返した。

『全員、今日の記録へ戻ってください。』

 玄兎は笑いながら、その下へ書いた。

『無縁水鏡で、四人との関係に結びついていた実感を一時的に切り離された。』
『昨日の帰巣壇では「どれを選びたいか」が平らになった。今日は、選んできた人や出来事を大事だと思う感覚の方が薄くなった。』
『起きたことは違う。でも、どちらも放っておくと俺自身の向きがなくなった。』
『その時、帰巣標識の反応も強くなった。』
『透羽が最初に俺の名前を呼んだ。』
『千燈、小毬、依澄の名前も自分で呼んだ。』
『戻れた。』

 玄兎は少し考えてから、さらに書き足した。

『透羽は監視役じゃなくても、隣にいたいと言った。』
『俺も、いてほしいと言った。』

 そこで玄兎のペンが止まった。実際に文字にしてみると、かなり恥ずかしい。

「……」

 消そうか迷う。

 それでも、これは残しておきたい記録だった。忘れたくないから、消さずにそのまま残す。

 そして最後に、今日の締めとして書いた。

『今日は、自分のまま帰れた。』
『忘れなかった。』
『明日も大学へ行く。』

 ノートを閉じる。

 ノートを閉じたところで、スマートフォンが震えた。

 透羽からだった。

『ノート、書きましたか。』

『書いた。』

『体調は。』

『問題なし。』

『記憶は。』

『透羽は大学で俺の隣に座ってる人。』

 少し間が空く。

『……それだけですか。』

 玄兎は画面を見ながら笑った。

『監視役じゃなくても、隣にいたい人。』

 すぐに既読は付いたが、返事は来なかった。一分、二分と時間だけが過ぎる。

『もう寝てください。』

『はい。』

 その直後、もう一つメッセージが届いた。

『私も、明日大学へ行きます。』

 玄兎も返した。

『隣、空けとく。』

『当然です。』

     ◇

 同じ夜。

 鷺宮家本邸では、静嶺が《無縁水鏡》の記録を一人で見返していた。

 玄兎から四つの関係反応を切り離した瞬間。

 帰巣標識の反応値が急上昇している。

 その後、透羽が自分の意思で水鏡へ介入したことで白い反応が再接続し、続いて他の三反応も復帰している。それとほぼ同時に、人格境界値も回復していた。

「……」

 静嶺は記録の下へ表示された古い注記を見る。

『外部器運用において、強固な人格固定因子を形成した場合、従来型の単独管理は推奨されない』
『複数の外部識別者による分散固定が望ましい』

 さらに、その下には新しい項目が追加されていた。

『ただし、固定因子の一名が失われた場合、器人格へ大きな反動を生じる可能性』

 静嶺の表情が硬くなる。

 四人が玄兎を支えることは大きな強みになる。しかし同時に、そのうち誰かを失った時の反動も大きくなる可能性がある。

 静嶺は別の資料を開く。

『中央大封印《百獣繭》』
『第二段階警戒値、上昇』
『夢層・怪異層間の境界、局所的に薄化』
『外部器およびD-02の同時安定を確認』
『次段階移行条件――』

 そこで画面が切り替わり、警告表示が現れた。

『封印圧上昇』
『推定猶予――』

 続いて推定値が表示される。

 静嶺はその数値を見て、静かに目を細めた。

「間に合うか」

 静嶺は誰へともなく、低く呟いた。

――第二十話・了

👥 登場人物紹介ネタバレを抑えた基本プロフィール
鵺代玄兎

CHARACTER 01

鵺代玄兎

ぬえしろ げんと

現実的で、妙な状況でもまず話を整理しようとする常識人寄りの青年。突然の怪異や騒動には戸惑いながらも、困っている相手を放っておけない。深刻な場面でも自然にツッコミが出るタイプ。

  • 物語の主人公
  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 常識人寄りのツッコミ役
俺が何者でも、困ってる人を置いていく理由にはならない。
鷺宮透羽

CHARACTER 02

鷺宮透羽

さぎみや とわ

冷静で生真面目。怪異への警戒心が強く、必要なことははっきり言う。危険な場面では自分が前に出ようとする、責任感の強い少女。

  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 鷺宮家の退魔師
  • 礼儀正しいがやや堅い
私が間に合う時は、あなたを死なせません。
緋鴉千燈

CHARACTER 03

緋鴉千燈

ひがらす ちとせ

余裕のある笑みを浮かべ、人をからかうのが上手な先輩。自然に距離を詰めてくる、つかみどころのない雰囲気を持つ。

  • 玄兎たちの先輩
  • 赤褐色の瞳
  • 人をからかうのが得意
秘密って、暴くより自分から話してもらう方が面白いよ。
白狼院小毬

CHARACTER 04

白狼院小毬

はくろういん こまり

明るく人懐っこい一年生。気になったことはすぐ口にし、匂いを確かめることに夢中になると相手との距離感まで忘れがち。

  • 朽木ヶ丘大学の一年生
  • 非常に鋭い嗅覚
  • 人懐っこく表情豊か
匂いは嘘をつきません。だから、何度でも見つけます!
蝶ヶ森依澄

CHARACTER 05

蝶ヶ森依澄

ちょうがもり いすみ

静かで穏やか、言葉数は少なめ。初対面からどこか不思議な印象を残し、感情表現は控えめだが答え方は率直。

  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 淡い青紫の瞳
  • 物静かでマイペース
今日が初めてなら、明日また会えばいい。

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