鷺宮透羽が家からの出頭要請を玄兎たちへ見せたのは、その翌朝だった。
五人は一限前の学食に集まっていた。窓際の席には夏の朝日が斜めに差し込み、まだ客の少ない店内にはコーヒーマシンの低い音と、厨房から聞こえる食器の音だけが響いている。
透羽は端末の画面を机の中央へ置いた。
『鷺宮透羽へ出頭要請』
『議題:外部器・鵺代玄兎への私的関与について』
『本日十五時、鷺宮家本邸』
玄兎は何度か読み返したあと、ブラックコーヒーへ手を伸ばした。
「私的関与って、俺と普通に飯食ってること?」
「それだけなら、ここまで正式な呼び出しにはならないと思います」
透羽の声は落ち着いていたが、カップを持つ指先にはいつもより力が入っている。
千燈が頬杖をついた。
「家の言い方って便利だねえ。『好きになりかけてるから距離取れ』って書くより、ずっと事務的」
「千燈」
「違う?」
「……違うとは、言い切れません」
小毬は口に運びかけた卵サンドを止め、二人を見比べた。
依澄は端末の文字をじっと見ていた。
「私的って、悪いこと?」
「悪いとは限りません」
透羽が答える。
「私は、必要なら玄兎を封じる側です。私情でそれができなくなったと思われたら、担当から外されます」
「昨日のこと?」
「隔離案に反対したことも、含まれると思います」
透羽は端末を伏せた。
「むしろ」
小毬が言った。
「昨日見つかった記録まで含めたら、今さら先輩から私たちを離す方が危なくないですか」
「私も、そこは確認するつもりです」
透羽は四人を見回した。
「今日は大学にいてください」
今度は玄兎の表情が変わった。
「議題は俺なのに、俺は呼ばれてない?」
「私への出頭要請です」
「俺も行っていい? 俺の措置の話を、あとから聞くのは嫌だ。中に入れないなら、門で待つ」
透羽は何も言わなかった。
小毬がすぐに手を上げ、依澄も頷いた。千燈は三限の休講通知を見せる。
透羽は四人を見て、伏せた端末をもう一度開いた。
「長く待たせるかもしれません。それでもよければ、一緒に来てください」
玄兎は頷いた。
◇
午後三時前。
五人は鷺宮家本邸の門前に立っていた。
玄兎がここへ来るのは、人格境界を確認する《水鏡検分》を受けた時以来だった。
石垣に囲まれた広い屋敷。
庭には細い水路が巡り、夏の日差しを受けて澄んだ水が静かに流れている。
以前はただ透羽の家に見えた。今は、水路が術式の一部であり、地下の封印系統にも接続していると知っている。
「やっぱり緊張する」
玄兎が言う。
「前は平気そうでした」
「平気なふりしてた」
小毬が少し笑う。
門の内側から、白い和装姿の男性が現れた。
透羽の家の使用人兼術者である鷺宮冬一だった。
「透羽様。お待ちしておりました」
「はい」
冬一の視線が玄兎たちへ移る。
「同行者については伺っておりません」
「承知しています。呼び出しを受けたのは私だけです」
「では、皆様はこちらで」
透羽が一歩前へ出た。
「玄兎だけ、同席を申請します」
「透羽」
玄兎自身が驚く。
冬一も一瞬だけ目を動かした。
「理由を」
「議題の対象本人です。また、昨日発見した帰巣標識と人格固定因子の記録について、本人の意思確認が必要です」
「当主へ確認します」
「お願いします」
冬一が奥へ戻る。
千燈が透羽の肩へ顔を近づける。
「全員は申請しないの?」
「最初の交渉で拒否される可能性が高いので」
数分後、冬一が戻ってきた。
「鵺代玄兎様のみ、同席を認めるとのことです。他の皆様は外待合をご利用ください」
「分かりました」
小毬が玄兎を見る。
「ちゃんと帰ってきてください」
「帰ってくるよ」
千燈も軽く手を上げる。
「何か血が必要って言われても、勝手に渡さないでね」
「分かってる」
依澄が答えた。
「帰ってきて」
「分かった」
最後に玄兎は透羽を見る。
「行こう」
「はい」
二人で門をくぐった。
◇
通されたのは、以前、検分の説明を受けた広間ではなかった。
本邸のさらに奥にある、畳敷きの細長い部屋だった。正面には鷺宮家当主の鷺宮静嶺が座り、その左右を透羽より年上の男女四人が固めている。いずれも親族としてではなく、封印管理を担う実務者としてこの場に臨んでいるようだった。
玄兎と透羽は向かい合う形で座る。
「鷺宮透羽」
「はい」
静嶺が卓上の端末へ目を落とした。
「『監視対象を囮として現場へ残留』。『承認手順外の《水鏡》多重分流』。『《白鷺浄界》の帰路形成への転用』。『術者判断による続行』」
「すべて事実です」
「説明しろ」
透羽は膝の上で指を揃えた。
「既定手順では、帰る道まで塞いでしまいました。そこで《水鏡》を分流に、《白鷺浄界》を経路の交差点だけに使いました」
「家にない手順を、承認も取らず使ったな」
「はい。私の判断です」
左側に座る年配の男性が口を開いた。
「鵺代玄兎を失いたくないという私情で、手順を破ったのではないか」
透羽は少しも目を逸らさなかった。
「失いたくないと思っています。それは否定しません」
玄兎の呼吸が一瞬だけ止まる。
「ですが、判断の根拠は別です。既定手順で状況が悪化したこと。各個体の帰還先を判別できる情報が揃っていたこと。玄兎への集中を解除しなければ被害が拡大すると判断できたこと。その三点です」
「感情がなければ、同じ判断をしたと?」
「同じ観測結果なら、同じ判断をします」
「なら規定違反を正当化するのか」
「いいえ。規定外の運用をした事実と、その責任は私にあります」
透羽はそこで一度だけ息を吸った。
「ただ、既定手順が失敗したあとまで、失敗した手順を守ることを正解にはできませんでした」
部屋が静かになった。
静嶺の視線が玄兎へ移る。
「鵺代玄兎。本人を同席させたのも透羽の希望だ」
「本来、管理対象本人を管理方針の審議へ参加させる必要はない」
玄兎は少しだけ眉を寄せた。
「俺の話なのに?」
「対象の感情と、封印管理上の判断は別だ」
「でも、俺が何を選ぶかまで別にはできないですよね」
静嶺の目が細くなる。
透羽が続けた。
「昨夜確認した記録でも、玄兎の人格境界を扱う上で、自己選択と対人関係は無視できません。ですから本人を外したまま、日常的な関係まで切り離す判断には反対します」
「それが、お前の管理判断か」
「はい」
そこで玄兎は、前から引っかかっていたことを口にした。
「もう一つ聞いていいですか。俺の資料、なんで毎回ちょっとずつ出てくるんだ?」
静嶺は表情を変えなかった。
「隠しているのではない。外部器に関する記録は、二十年前の事故後に意図的に分割された」
「外部器、再構築、人格固定、帰巣、封印運用。あれらを一つに揃えれば、外部器を封印維持へ利用する一連の手順になる」
玄兎の顔から、わずかに笑みが消えた。
「二十年前の事故後、同じ運用を一人の管理者だけで再現できないよう、記録と閲覧権限を分けた」
「当主でも、最初から全部知ってるわけじゃないんですか」
「必要な事象と根拠が揃った時点で、該当する記録を個別に照合する。私も同じだ」
玄兎は一度だけ頷いた。
年配の男性は、帰巣壇の記録を玄兎の方へ向けた。
「関係が役立つことと、監視担当がお前でなければならないことは別だ。そこまで証明した記録ではない」
「はい」
透羽はその紙を読んだ。すぐに反論するのではなく、一度、膝へ戻した。
玄兎は横にいる透羽を見る。
透羽は前を向いたまま動かない。
静嶺が訊いた。
「透羽。お前は鵺代玄兎へ、管理者として必要な範囲を超える感情を持っているか」
透羽は逃げずに答えた。
「はい」
静嶺が続ける。
「なら監視任務から外れるか」
透羽の表情が変わった。
「後任を付ける」
静嶺が言い切るより早く、透羽は膝の上に置いていた資料を閉じた。玄兎の方は見ない。
「後任への引き継ぎには反対します」
「理由を」
「交代すれば安全になる根拠を、先に確認してください」
透羽は玄兎を一度見た。
「本人の関係を変える術なら、玄兎にも説明を。私だけの希望で決めることではありません」
静嶺はしばらく透羽を見た。
「なら、確認する」
その声で部屋の空気が変わった。
◇
静嶺が立ち上がる。
「《無縁水鏡》で確かめる」
透羽が息を止めた。玄兎は、まだ聞いたことのない名前を彼女へ問い返した。
「知識は残したまま、人を大事だと感じる実感だけを、一時的に離す術です」
「昨日みたいに、選びたい気持ちがなくなる?」
「同じではありません。誰と何をしたかは分かる。でも、それを大切に思った理由が遠くなる」
静嶺が言う。
「恐れる必要はない。十分もかからない」
「帰巣標識との境界が不鮮明化している可能性があります」
透羽がすぐに反論する。
「今、対人関係を切る術を使うのは危険です」
「だから確認する」
「記録に人格固定因子だと」
「短時間の切り離しだ」
「それでも」
「透羽」
静嶺の声が低くなる。
「お前が拒むなら、それ自体を判断材料にする」
透羽の手が強く握られる。
玄兎は、準備を始めかけた冬一を呼び止めた。
「俺の同意は、まだです」
静嶺が玄兎を見る。
「危険が出たら止める。俺が嫌だと言っても止める。その条件なら、俺も確かめたいです」
「家が続けろと言っても、止めます」
透羽は一秒も迷わず答えた。
「死亡の危険と、記憶の異常。それは玄兎が言えなくても中止します」
玄兎は頷いた。冬一が、今の条件を端末へ書き込むまで待った。
静嶺が冬一へ合図した。
「準備しろ」
◇
《無縁水鏡》は、本邸の地下にあった。
以前の水鏡検分よりも小さな部屋。
中央に直径三メートルほどの浅い水盤があり、天井から細い水が絶えず落ちている。
水滴が落ちるたび、部屋のどこかで同じ音が遅れて返った。一度目はすぐ近く、二度目は壁の奥、三度目は地面のはるか下から聞こえる。小さな部屋のはずなのに、音だけが底のない空間を作っていた。
壁には人の名前を削り取ったような長方形の痕が幾つも残っている。この水鏡で関係を切られた者たちの名札が、かつてそこへ掛けられていたのかもしれない。玄兎は読めない痕の一つを見つめ、そこへ四人の名前が並ぶ光景を想像してしまった。
玄兎は水盤の中央へ立った。
水は足首ほどしかない。
透羽は水盤の外。
そのさらに外側に静嶺と術者たちがいる。
透羽は、水盤へ入るまで手を貸してくれていた。縁で離れた指の温度だけが、まだ手首に残っている。
術者が四方の水路を開く。
水盤へ透明な水が流れ込み、玄兎の足元を円を描くように巡った。
「開始する」
静嶺の声。
透羽は玄兎を見る。
「何か変なら、すぐ言ってください」
「分かった」
最初は何も起きなかった。足首を流れる水は冷たく、ただそれだけのことに思えた。
しかし数十秒が過ぎると、玄兎の周囲に光が滲み、やがて白、赤、銀、淡紫の四つの淡い光となって浮かび上がった。
「これが」
玄兎が見る。
「関係性の反応です」
透羽が答えた。
「誰がどの光かは、断定できません」
銀色は小毬を思わせ、淡紫は依澄に見える。
そして最後に残った白い光を見て、玄兎は思わず透羽へ視線を向けた。
透羽もその光を見ていた。
「それが私とは限りません」
術式が進む。
赤、銀、淡紫、白の四つの光が、術式に押し出されるように、少しずつ玄兎から水盤の外側へ離れていった。
光が一つ離れるたび、玄兎の中から小さな実感が抜け落ちた。赤い光が遠ざかると、千燈の笑い方を知っているのに、その笑顔を見て安心した理由が分からなくなる。銀色が離れると、小毬の声が思い出せても、名前を呼ばれた時に胸が緩む感覚だけが消えた。
淡紫の光が水盤の縁を越えた。依澄と一緒に食べたパンの種類は言える。けれど、それが大切な思い出だという確信がない。白い光が最後に残り、透羽が水盤の外へ立っている。玄兎は彼女の顔を知っているはずなのに、見知らぬ退魔師の写真を眺めているような距離を感じ始めた。
知識は残っている。だから、失われていくものを他の誰かへ説明しづらい。
「みんなのことを考える感じが、遠い」
玄兎は胸へ手を当てた。
透羽の顔が硬くなる。
「術式の範囲内です」
静嶺が言った。
「続行」
四つの光が水鏡の外へ出た。
その瞬間。
玄兎の表情が消えた。
「玄兎?」
透羽が呼ぶ。
玄兎は透羽を見る。
玄兎と目は合っている。それなのに、透羽にはそこにいる彼が急に遠くなったように感じられた。
「……鷺宮」
「下の名前は?」
玄兎は答えられなかった。
「中止してください。記憶の異常です」
「一時的な認知低下も、想定範囲だ」
静嶺は水面から目を離さない。
「説明されたのは、関係に結びつく実感だけです。名前まで失うとは聞いていません」
透羽は冬一の端末を指した。書き込まれた中止条件は、まだそこにある。
透羽は水盤を見る。
玄兎の足元から、黒い何かが水へ溶け出すように浮き上がった。
「帰巣標識が強くなっています」
黒い筋が水の中を這い、四つの光が離れた空白を埋めるように、濁った水が玄兎の周囲へ広がっていく。
濁りの中へ、幾つもの口が浮かんだ。唇の形だけが水面へ現れ、声を出さずに玄兎の名前を食べている。一つが「鵺代」を噛み砕き、別の一つが「玄兎」を舌の上で転がすたび、自分の名前が借り物の記号へ変わっていく。
足首へまとわりつく水からは、土の下で腐った木と古い獣の匂いが上がった。玄兎の身体はその匂いを嫌悪する一方で、胸の奥にいる何かだけが懐かしそうに脈打っている。四人との関係が空けた場所へ、帰巣標識が自分こそ最初からここにいたのだと根を伸ばし始めていた。
「中止!」
透羽は迷わず水盤へ踏み込もうとした。
「待て!」
静嶺が言った。
「術式が不安定だ!」
「だから止めます!」
透羽は構わず水へ入った。
しかし水鏡の境界が強い抵抗を生み、透羽の身体を外側へ弾いた。
「っ」
透羽の身体が後ろへ押される。
「透羽!」
玄兎が今度は、はっきりと彼女の名前を呼んだ。
透羽が顔を上げる。
「分かるんですか!」
「分からない。でも」
玄兎の顔が苦しそうに歪む。
「呼ばないと駄目な気がした」
黒い水は玄兎の足元から膝の高さまで這い上がってきた。
「器」
声は、水盤の底そのものから響いてくるようだった。
「帰る場所」
「違う」
否定しても、声に力が入らない。朝のコーヒーが苦かったことは言えた。その続きを透羽と飲みたいと思ったかどうかが、分からない。
怖いはずなのに、その怖さまで薄れていく。
水面に映る玄兎の顔から、まず目が消えた。次に鼻と口が平らになり、名前を持つ必要のない器の輪郭だけが残る。
その背後へ、幾つもの別の顔が浮かび上がった。玄兎の中に収められている怪異たちが、空になりかけた身体を順番に試しているようだった。泣く子供、口の裂けた女、鹿の角を生やした老人、黒い羽毛に覆われた獣。それぞれが水面の玄兎へ重なり、彼の口を借りて息をした。
『これなら入れる』
『名前が空いた』
『帰ろう』
複数の声が、玄兎の歯を震わせながら囁く。唇は閉じたままなのに、舌が自分のものではない発音を作ろうと動いた。
水盤の外にいる透羽が、ひどく遠い。助けを求めるべき相手だという判断はできても、なぜ彼女でなければならないのか分からない。むしろ、必死にこちらへ手を伸ばす姿が術式を邪魔する障害物に見え始めた。
その瞬間、玄兎の右手が勝手に持ち上がった。透羽を遠ざけるための印を結ぼうとしている。指の関節は人の手ではあり得ない向きへ折れかけ、皮膚の下を黒い筋が走った。
痛みはある。しかし痛いのが自分だという実感がない。
「玄兎!」
透羽が水鏡の境界へ手を当てる。
「私を見て!」
玄兎が見る。
「鷺宮」
「透羽です」
「透羽」
「はい」
名前を声にしたことで、切れていたものが一つだけ繋がり直したように感じられた。
「ここへ来る前に、私が止めると約束しました」
透羽は境界へ両手を押し当てた。弾かれても離さない。
「玄兎が言えない時も。だから今、止めます」
白い光が、水盤の外側で小さく震えた。
「術式へ干渉するな!」
静嶺が言った。
透羽は振り返らなかった。
もう一度、境界へ体重をかける。
「玄兎」
「……透羽」
「はい」
白い光が水鏡の境界を押し返し、玄兎の方へ戻り始めた。
その光が胸元へ吸い込まれる。
「千燈」
赤い光も僅かに揺れた。
「小毬」
銀色の光が動く。
「依澄」
淡紫の光も続いた。
「外にいます」
透羽は短く告げた。
玄兎は黒い水の向こうを見た。
「大学に戻る」
声はまだ弱かったが、今度は自分から続けた。
「みんなと飯食う。何食うかは、その時決める」
透羽の指先から少しだけ力が抜けた。
それでも水鏡から手は離さなかった。
黒い水が玄兎の脚から剥がれるように落ちていく。
それに合わせて、帰巣標識の反応も弱まった。
四つの光はすべて玄兎へ戻った。
透羽を邪魔だと思った記憶は消えない。だが、今は水盤の外で傷ついた手を、邪魔なものとは思えなかった。
水面から顔を出していた怪異たちは、空き場所を失って一斉に歪んだ。泣き顔も獣の顔も内側へ潰れ、黒い水の底へ引き戻されていく。最後まで残った口が、玄兎の声で囁いた。
『また空になる』
玄兎の背中へ冷たいものが走った。
「玄兎。今、私が見えますか」
透羽の声へ、自分の意思で頷いた。
「術式停止!」
静嶺がようやく停止を命じた。
四方の水路が閉じられ、水の流れが止まった。
水盤はゆっくりと静けさを取り戻した。
◇
水盤を出ると、透羽が玄兎の両肩を掴んだ。名前と朝食を聞かれ、一つずつ答える。
「俺が死ぬと怒る人、だろ」
「怒ります」
ようやく彼女が息を吐いた。胸元へ額が寄り、背中へ腕が回る。玄兎も遅れて抱き返した。今は、その手に掴まれていることが分かる。
けれど審議は終わっていない。透羽は腕をほどき、玄兎の手首を確かめてから廊下へ出た。
◇
術式を停止したあと、一同は再び審議室へ戻った。
空気は最初より重かった。
静嶺は玄兎を見る。
「気分は」
「最悪でした」
「名前が出なくなった時、止める条件でしたよね」
玄兎は冬一の端末を指した。透羽も、その横へ停止要求が記された時刻を出した。
「昨日の規定外の判断と同じように、今日、続けた判断も残してください」
静嶺は二つの時刻を見た。
「残す。今回一度で、各要素の寄与までは断定せん。だが関係を切った直後、人格境界が下がり、帰巣標識が強まった。急な切り離しは不適切だ」
透羽は黙って頷く。
「今後、鵺代玄兎の対人関係は、人格固定因子として管理上も考慮する」
「なら」
透羽が改めて顔を上げた。
「後任への即時交代案を撤回してください」
「条件付きだ」
「条件は」
「監視任務という名称を変更する」
透羽が少し驚く。
「今後、お前を単独の監視者とはしない」
「人格固定支援および封印状態観察。鵺代玄兎本人の自己決定を原則尊重する。ただし、市全体へ危険が及ぶ場合は別だ」
「承知しました」
「それと、昨日の規定外運用を承認手順へ繰り上げるわけではない」
「はい」
「結果が出たことと、再現可能な手順であることは別だ。報告書へ、既定手順が失敗した経緯、判断根拠、使用条件を追記しろ」
「私が書きます」
「署名も付けろ」
「はい」
透羽はまっすぐ頷いた。
玄兎が言う。
「それなら、前より人扱いですね」
「言い方を選べ」
「すみません」
それでも、静嶺はその言葉自体を完全には否定しなかった。
「私的関係について、家は推奨しない」
透羽の顔が硬くなる。
「ただし」
静嶺は少しだけ間を置いた。
「現時点で禁止もしない」
玄兎が透羽を見る。
透羽はすぐに顔を逸らした。
静嶺が小さく咳払いする。
「ここは審議の場だ」
「すみません」
二人同時に頭を下げた。
◇
屋敷を出たのは、日が傾き始めた頃だった。
門の外に設けられた待合のベンチから、小毬が真っ先に立ち上がった。
「先輩!」
その声を聞いた瞬間、玄兎の肩から力が抜けた。小毬だ、と考えるより先に分かる。千燈の笑みを見れば見慣れた安心があり、依澄がこちらを見るだけで、自然に視線を返していた。
「ただいま」
小毬は玄兎の顔をじっと見た。
「……大丈夫でした?」
「最悪だった。でも、ちゃんと戻った」
その返事を聞いて、小毬の肩から力が抜けた。
千燈が二人を見比べる。
「何かあった?」
「《無縁水鏡》を使った。もう戻った」
千燈の笑みが消えたが、玄兎はそれ以上説明しなかった。
透羽が告げる。
「監視任務は、人格固定支援と封印状態観察へ変更されました」
依澄が首を傾げた。
「でも、そこにいる」
透羽の足が一瞬だけ止まった。
振り返らず、そのまま歩く。
千燈が小さく笑った。
「答えるより早いね」
小毬もすぐに二人を追った。
「待ってください! 私も帰ります!」
「じゃあ、全員で帰ろう」
玄兎が言うと、依澄も頷いた。
五人で門を離れた。
◇
帰り道。
千燈、小毬、依澄がコンビニへ寄ると言って先へ行き、玄兎と透羽だけが少し後ろを歩いていた。
「今日のこと、記録に残ってよかった」
玄兎が言うと、透羽は少し歩調を落とした。
「私が止めると約束したのに、遅くなりました」
「止めようとしたの、見てたよ」
透羽は何も言わず、玄兎の隣を歩いた。
少し歩いたところで、透羽がスマートフォンを取り出す。
「明日、七時四十分。いつもの場所にいます。玄兎も大学へ行くでしょう」
「たぶん」
透羽は予定を入力してスマートフォンをしまった。
玄兎は少し笑った。
「それ、俺が断る余地ある?」
「あります」
「私は行きますけど」
ちょうどその時、前方のコンビニから小毬が大きく手を振っているのが見えた。
「先輩ー! 何してるんですかー!」
「今行く!」
玄兎も返した。
透羽も隣で歩き出す。
今度は、二人の距離がさっきより少しだけ近かった。
◇
コンビニで三人と合流したあと、五人は大学へ戻った。別れる前、久住研究室で玄兎は共有ノートに二行だけ書いた。
『《無縁水鏡》。関係の実感を切ると、帰巣標識が強まった。』
『名前が分からなくなった時の中止要求と、停止命令の時刻を家の記録に残した。』
ノートを閉じ、いつもの保管場所へ戻した。
◇
同じ夜。
鷺宮家本邸では、静嶺が《無縁水鏡》の記録を閉じ、その下に表示された古い注記を見る。
『外部器運用において、強固な人格固定因子を形成した場合、従来型の単独管理は推奨されない』
『複数の外部識別者による分散固定が望ましい』
さらに、その下には新しい項目が追加されていた。
『ただし、固定因子の一名が失われた場合、器人格へ大きな反動を生じる可能性』
静嶺の表情が硬くなる。
静嶺は別の資料を開く。
『中央大封印《百獣繭》』
『第二段階警戒値、上昇』
『夢層・怪異層間の境界、局所的に薄化』
『外部器およびD-02の同時安定を確認』
『次段階移行条件――』
そこで画面が切り替わり、警告表示が現れた。
『封印圧上昇』
『推定猶予――』
続いて推定値が表示される。
静嶺はその数値を見て、静かに目を細めた。
「間に合うか」
静嶺は誰へともなく、低く呟いた。
――第二十話・了