第二章・全36話中 19話

第十九話 大学の怪異が、みんな同じ方角を向いている

無料で読める全36話完結のオリジナルライトノベル。ブラウザ読み上げ・BGM対応。

読書サポート

BGMと読み上げは同時に利用できます

♫ BGM

停止中

🔊 本文読み上げ

停止中

本文をドラッグして開始位置を選び、「▶ 選択位置から」を押してください。

ブラウザの自動再生制限により、音声はボタンを押すと始まります。読み上げ中はBGMを自動的に小さくします。

🔖 しおり

この話には、しおりがありません

 翌朝。

 朽木ヶ丘大学の正門前には、昨夜の雨を含んだ植え込みから湿った土の匂いが立ち上っていた。

 玄兎はブラックコーヒーの缶を片手に、小毬と並んで歩く。

 前日、小毬が玄兎の奥に感じ取った「場所みたいな匂い」の正体は、まだ分かっていない。濡れた石、古い木、錆びた鉄、土、わずかなお香。個人の身体ではなく、どこかへ続く場所そのものを思わせるものだった。

 正門を抜けたところで、透羽と千燈、依澄が合流した。

 千燈は玄兎の缶を見る。

 「今日もブラック?」

 「うん」

 「甘い方と迷わなかった?」

 「朝から甘いのは重い」

 千燈は何気なく笑った。

◇

 一限前、前日から残っている手掛かりを五人で整理した。

 透羽は端末へ記録を出す。

 「小毬さんが玄兎の奥に感じた『場所に似た匂い』は、既存記録にありません」

 「血を読んだ時の感じとは近いよ」

 千燈が言う。

 「でも今また玄兎くんの血を読む必要はないと思う。別の手掛かりがあるなら、そっちから見よう」

 「ありがとう」

 依澄は玄兎の横で目を閉じていた。数秒後、千燈とのやり取りが途切れたところで言う。

「玄兎に、帰る時に通る道が重なってる。夢じゃない。玄兎そのものとは違う」

 左鎖骨の下の痣が、わずかに熱を持った。

 小毬がすぐに反応する。

 「それ、私の感じ方に近いです」

 透羽は頷いた。

 「怪異が玄兎を『帰る場所』と呼ぶ件とつながる可能性はあります。ただし、玄兎自身が封印の一部なのか、別の機能が重なっているだけなのかはまだ決められません」

 「じゃあ、外に同じ匂いがないか探します」

 小毬が手を上げる。

 透羽は少し考えてから頷いた。

 「大学周辺から確認しましょう。ただし授業は受けます」

◇

 午前中は、驚くほど普通に過ぎた。

 玄兎は講義を受け、ノートを取り、透羽に一度だけ「その字は後で読めますか」と確認された。

 小毬からは昼食候補として焼肉丼、唐揚げ定食、豚生姜焼き定食の三択が届いた。

 玄兎は『全部肉じゃん』と返し、そのあと『唐揚げ』を選んだ。

 依澄は二限の途中で「焼きそばも気になる」と言い出した。

 千燈は別棟の講義へ行った。

 昨日まで、自分と同じ顔の人間が何人も大学を歩いていたとは思えないほど、いつもの大学だった。

 その普通さに、玄兎は少し救われていた。

 昼休み。

 五人で学食へ向かおうとしていた時、小毬が足を止めた。

 玄兎はもう、彼女の表情が変わる速度で異常かどうか分かるようになっていた。

 「奥の匂い?」

 「はい。でも先輩からじゃありません」

 小毬は西側の窓を見る。

 「外です。川の方から、すごく強くなってます」

 依澄も同じ方向へ顔を向けた。

 「小さい怪異が、たくさん動いてる」

 「大学へ?」

 「違う」

 玄兎たちは窓際へ寄った。

 最初はただ、昼の道路が見えるだけだった。

 けれど注意していると、街路樹の影から黒い猫の形をしたものが出てきた。道路脇の水溜まりには、子供の足跡だけが一歩ずつ増えている。電柱の上には、身体に対して首が不自然に長い鳥が止まっていた。

 どれも大きな害を起こすほど強い怪異ではない。

 しかし、種類も棲みついている場所も違うはずの怪異が、全て同じ方向へ移動していた。

 「川の下流です」

 小毬が言う。

 「私が先輩の奥で感じてるのと、同じ匂いを追ってます」

 透羽は即座に鷺宮家へ連絡を入れた。

 「河川沿いの一般人を遠ざけてもらいます。強制的な避難ではなく、護岸設備点検として誘導します」

◇

 川沿いへ出て、玄兎はすぐに違和感の正体へ気づいた。

 怪異たちは玄兎へ寄ってこない。

 むしろ彼の横を通り過ぎ、そのまま下流へ向かう。

 ただし、通過する瞬間だけは、どの怪異も一度玄兎へ顔を向けた。

 黒い猫の怪異。

 水面を歩く白い犬。

 片翼しかない鳥。

 角の生えた子供。

 顔のない老人。

 同じ種類どころか、同じ場所に棲む理由さえなさそうなものたちが、一定の間隔を空けて並んでいる。

 「行列みたい」

 玄兎が言う。

 「嫌な行列です」

 小毬は列の少し前方を見ながら眉を寄せた。

 「先輩、あの黒い子、見覚えあります」

「八坂通りの昔の魚屋さんの裏にいる子です。白狼院家の巡回記録にも何回か出てます」

 透羽も確認する。

 「人へ害を与えた記録はありません。魚屋跡と隣の路地からほとんど離れない低位個体です」

 黒猫は片方の耳が欠けていた。

 時々、列から左へ外れようとする。

 そのたびに前を歩く白い犬と、後ろを歩く子供の影が身体を寄せ、何事もなかったように列へ戻していた。

 「嫌がってない?」

 玄兎が訊く。

 小毬はすぐには答えず、猫の動きを追った。

 「帰る方向の匂いは出ています。でも……いつもの魚屋さんの方も何度も見てます」

 列は進む。

 下流へ百メートル。

 さらに百メートル。

 その間に、怪異たちの動きが少しずつ変わった。

 最初、黒猫は何度も横道を見ていた。

 白い犬は水面を歩きながら前足で水を蹴っていた。

 片翼の鳥は、歩調に合わせられず何度か低く飛んでいた。

 ところが下流へ近づくにつれ、その癖が一つずつ消える。

 猫は横を見なくなる。

 犬は水を蹴らなくなる。

 鳥は羽を畳み、歩き始める。

 やがて姿の違う怪異たちが、同じ幅で足を出し、同じ速度で首を上下させるようになった。

 呼吸の必要があるのかも分からない存在まで、

 すう。

 はあ。

 すう。

 はあ。

 同じ間隔で息をしている。

 川の音の下へ、何十もの同じ呼吸が重なった。

 玄兎は立ち止まった。

「これ、自分で帰ってるんじゃないと思う。猫はさっきまで別の道へ行こうとしてた。犬も鳥も動き方が違ったのに、今は全部同じだ」

 玄兎は怪異たちの背中を見た。

 小毬が低い声で続けた。

 「帰らされてる」

 列の中から声がした。

 『かえる』

 一体ではない。

 『かえる』
 『かえる』
 『かえる』

 姿も由来も違う怪異たちが、同じ抑揚で繰り返す。

 黒猫まで口を開いた。

 『かえる』

 小毬の顔が強張った。

「あの子、普段は声を出さないです。魚屋跡で寝てるだけなのに、そんな鳴き方……」

 玄兎の背中に冷たいものが走った。

 襲っても叫んでもいない。ただ、自分らしい動きを失い、同じ言葉で同じ方角へ歩いている。その静かさが恐ろしかった。

 そして玄兎は気づく。

 自分の足も、いつの間にか列と同じ速さで動いていた。

◇

 「玄兎」

 透羽に呼ばれ、玄兎は足を止めた。

 「何?」

 「今、どうして列へ近づいたのですか」

 玄兎は少し考えた。

 「……近い方が調べやすいから?」

 自分で口にしたのに、言葉へ実感がない。

 透羽が続ける。

 「大学へ戻るのと、このまま追うのでは、どちらがいいですか」

 「どちらでもいい」

 透羽の目が細くなった。

 千燈がすぐに訊く。

 「玄兎くん。朝はブラックを選んだよね。今、ブラックと甘いカフェオレならどっちが飲みたい?」

 玄兎は答えようとして、止まった。

 「……どっちでも同じだろ」

 記憶はある。朝、自分でブラックを選んだことも覚えている。

 ただ、そこにあったはずの「こっちがいい」という感覚だけが遠い。

 透羽はすぐに玄兎の腕を掴んだ。

 「記憶ではなく、選択への干渉です」

 「俺は普通だよ」

 「普通の玄兎は、少なくともコーヒーを『どちらでも同じ』とは言いません」

 冗談めかして返したつもりだったが、笑えなかった。

 好きなものを覚えているのに、好きだと思う感覚だけがない。それは記憶を失うのとは別の薄気味悪さだった。自分の頭の中へ、誰かが静かに水平器を置いて、傾いていたはずの心を平らにならしているような感覚がある。

 依澄が玄兎を見上げる。

 「玄兎。今、帰りたい?」

 「帰る場所が決まってるなら、そこへ行けばいい」

 言った瞬間、四人の表情が変わった。

 玄兎自身も、自分の声を少し遅れて聞いたような気がした。

 小毬が一歩近づき、胸元へ意識を向ける。

 「先輩自身の匂いは消えてません。でも、奥の道の匂いが上から覆ってきてます」

 透羽は行列を見る。魚屋跡を何度も振り返っていた黒猫は、もう前しか見ていない。

 「帰る先を一つへ揃えるために、それぞれの『別の方へ行きたい』を弱めているのかもしれません」

 『かえる』

 玄兎の口も、無意識に同じ形を作りかけた。

 小毬がすぐに頬を軽く叩く。

 「勝手に帰らないでください」

 琥珀色の瞳には、はっきり恐怖があった。

 昨日までなら、小毬は匂いを頼りに「先輩は先輩です」と言えた。けれど今日は、その先輩自身の選び方が少しずつ薄くなっている。だからこそ、彼女は匂いだけに逃げず、玄兎の顔を見ていた。

 それを見て初めて、「小毬を不安にさせたくない」という自分の意思が少し戻る。

 「追う。でも俺がおかしくなったら止めて」

 「はい」

 透羽も頷く。

 「判断への干渉が強まったら、すぐに離れます」

 千燈は反対側へ回った。

 「私は会話を見る。依澄ちゃんは?」

 依澄は玄兎の袖を掴む。

 「離れそうなら引っ張る」

 玄兎は四人を見た。

 自分一人なら、この変化に気づけなかった。

 それが一番怖かった。

◇

 怪異の列は八坂通りの古い商店街を抜け、今は使われていない水門へ入っていった。

 透羽が管理側へ連絡し、旧排水路の扉を開けてもらう。重い鉄扉の向こうから、夏とは思えない冷気が流れ出した。

 階段を下りるほど街の音が遠ざかる。代わりに、水がどこかで落ち続ける音と、怪異たちの足音とも擦過音ともつかない気配が、水路の奥から重なって聞こえてきた。

 小毬には何百もの怪異の匂いが重なる厳しい場所だったが、今追っている「帰る道」の匂いだけは、それらを塗り潰すほど濃い。

 「こっちです」

 左の分岐を進むと、壁は途中からコンクリートではなく古い石積みに変わり、腐食した木柱まで現れた。現代の排水路の途中へ、もっと古い構造だけが継ぎ足されたようだった。

 足元には浅く水が流れている。玄兎が踏むたびに波紋が広がるのに、前を進む怪異の列はほとんど水面を揺らさなかった。

 『かえる』
 『かえる』
 『かえる』

 反響する声が、玄兎の頭の中で少しずつ自分の考えに近くなる。

 決められたところへ行けばいい。

 考えなくていいなら、その方が楽だ。

 玄兎は朝、自分でブラックコーヒーを選んだ感覚を思い出そうとした。くだらない好みでも、自分で決めたものだった。

 「玄兎」

 透羽の声が飛ぶ。

 「今、何を考えていました?」

 「決めなくていいなら楽だなって」

 素直に答えると、透羽の手が腕を少し強く掴んだ。

 小毬も鼻から息を吸う。

 「道の匂い、また強くなってます」

 「まだ俺の匂いは分かる?」

 「分かります」

 「なら、もう少しだけ行く。消えそうなら止めて」

 「はい」

 小毬の表情が少し緩んだ。

 「今の『頼む』は先輩です」

 反論できなかった。

◇

 通路の最奥に石扉があった。

 透羽が内部を確かめてから五人で開けると、その先には古い石室が広がっていた。

 壁一面に狼、狐、蛇、鳥、魚、人の顔を持つものまで何百という異形が描かれ、その全てが中央の円形基礎を向いている。

 絵は一つの時代に描かれたものではなかった。線の太さも、顔料の色も違う。古いものの上へ後世の誰かが描き足し、また別の誰かが補修した跡がある。それでも向いている先だけは同じだった。

 中央には直径二メートルほどの円形基礎が残っている。上に何かを載せていた金具は錆び、肝心のものだけが引き抜かれたように空いていた。

 怪異たちは基礎を囲み、同じ速度で歩き始めた。

 川沿いではまだ不揃いだった姿が、ここではいっそう均されて見える。四本脚も、二本脚も、そもそも脚のない影まで、中央を基準に同じ周期で動いていた。

 透羽が壁の汚れを水で落とす。

 「《帰巣壇》……『諸怪異、個別の帰路を一時鎮め、共通の標へ従わせ、睡眠層へ送る』」

「多数の怪異を一つの封印へ送るため、それぞれの帰りたい先を弱め、共通の標識だけを強くしたのでしょう」

 小毬が空気を嗅いだ。

 「ここです。先輩の奥と同じ匂いが、一番強い」

 玄兎の胸の痣が熱を持つ。

 「中央の標識が失われたあと、その機能だけが玄兎へ移った可能性があります」

 透羽の言葉に、玄兎は円形基礎を見る。

 自分そのものが怪異たちの巣なのではない。少なくとも、小毬が最深部で嗅いでいたのはこの設備と同じものだった。

 安堵しかけた時、天井から水が落ちた。

 ぴちゃん。

 床の細い溝へ入り、中央へ流れる。

 怪異たちが一斉に一歩進んだ。

 玄兎も。

 「……今、俺も動いた?」

 「はい」

 もう一滴。

 ぴちゃん。

 また全員が一歩進む。

 玄兎は床を見た。円形基礎から三方向へ伸びる溝へ、地下水が一定の間隔で流れ込んでいる。

 「透羽。これ、ずっと命令が出てる」

 透羽も水を走らせ、流れを読んだ。

「水滴が周期信号になっています。自然流入だけで術式が生き残っている」

 「じゃあ昨日の変動で、弱ってたものが強く動き出した?」

 「可能性はあります。ただ、そこは記録を確認しないと断定できません」

 また、水が落ちる。

 ぴちゃん。

 玄兎の身体が中央へ一歩進んだ。

 今度は自分で止められなかった。

◇

 円形基礎へ近づくほど、玄兎の中から「どちらがいい」という感覚が消えていった。

 記憶はある。小毬の名前も、透羽と初めて会った夜も、千燈に血を読まれたことも、依澄と食べたパンも覚えている。

 ただ、それらを大切だと思うための向きだけが平らになっていく。

 透羽が玄兎の前へ立った。

 「玄兎。こちらへ来てください」

 「ここでも同じだろ」

 小毬がすぐに首を振る。

 「同じじゃありません。先輩、普段は場所でも相手でも全然態度違うじゃないですか。講義では眠そうだし、私が食べすぎると引くし、怪異の前では怖いくせに平気なふりします」

 「最後余計じゃない?」

 思わず返すと、小毬がほんの少しだけ息をついた。

 まだ自分で返せる。

 しかし水滴が落ち、玄兎はまた一歩進んだ。

 片耳の黒猫も進む。その前足が一瞬だけ横へずれ、すぐ後ろの怪異に押し戻された。

 玄兎は、その小さな抵抗を見た。

 嫌だと思った。

 「透羽。これ止めたら、あいつらどうなる?」

 「強制指向は切れます。ただ、そのあとどこへ戻るかは、一体ずつ確かめないといけません」

 「危険なやつもいる?」

 「可能性はあります。ですが、今ここに集まっているのは低危険度として把握されていた個体が中心です」

 考えようとした玄兎の頭へ、別の考えが滑り込んだ。

 管理するなら、同じ場所へ送った方が簡単だ。

 怪異も迷わない。

 自分も中央へ立てばいい。

 「……それでいいんじゃないか」

 「危なくないなら、ここへ帰せばいい。俺も標識なら、中央に立った方が早い」

 透羽が肩を掴む。

 「それはあなたが選んだ結論ですか」

 「どっちでも同じなら、簡単な方でいい」

 「同じではありません。あなたが、違いを選べなくなっている」

 何をそんなに怒っているのか、一瞬分からなかった。

 透羽が自分を止めようとしていることは理解できる。小毬が怖がっていることも見える。なのに、それを大切なこととして受け取る方向だけが薄い。

 感情が消えているわけではない。むしろ、そこにあるはずの重みだけを抜かれている。

 そのことが、玄兎には怖かった。

 小毬が玄兎の正面へ回る。

 もう食べ物も、帰り先も訊かなかった。

 「先輩。一つだけ答えてください」

 玄兎は小毬を見る。

 「今、自分で選びたいですか」

 簡単な問いのはずなのに、答えようとすると鈍い抵抗が広がる。

 選ばなくていいなら楽だ。

 誰かが決めた一つへ従えば、迷わなくていい。

 「……選ばなくていいなら、その方が」

 そこで、黒猫がまた前足を横へ出した。

 ほんの数センチ。それでも列から外れようとした動きだった。

 すぐに押し戻される。

 嫌だ。

 魚屋跡へ戻りたいのか、ただこの列から外れたいのか、玄兎には分からない。それでも、その個体が自分で向きを変えようとしたことまで消されるのは嫌だった。

 自分の中でも、同じものが消えかけている。

 玄兎はゆっくり息を吸った。

 「……選びたい」

 声に出した途端、胸の奥に小さな痛みが戻った。選べば迷う。選べば間違える。誰かを選べば、選ばなかった方が残る。

 面倒で、怖くて、それでもその面倒まで自分のものだった。

 小毬は急かさない。

 「面倒でも、間違ってもいいから、自分で決めたい」

 小毬の目元から、少しだけ緊張が抜けた。

 「じゃあ、もう一つだけ。今、私たちと一緒に帰りたいですか」

 玄兎は四人を見る。

 命令された場所へ戻るのではない。大学へ戻って、飯を食べて、明日また会う。その先を、自分で選びたい。

 「みんなと帰りたい」

 透羽の手から力が抜け、千燈が静かに笑った。依澄は玄兎の袖を握ったまま頷く。

 「今の玄兎」

 「うん」

 また水滴が落ちる。

 足が一歩進みかける。

 玄兎は歯を食いしばり、自分で止めた。

 「俺から、選ぶことまで取るな」

◇

 「帰巣壇を止めます」

 透羽が決断した。

 「止めた瞬間、個体ごとの帰巣指向が戻る可能性があります。玄兎は中央から離れてください。あなたに残っている標識反応が、失われた壇の代わりに拾われるかもしれません」

 玄兎は頷き、円形基礎から距離を取ろうとした。

 足が重い。

 中央へ行きたいわけではない。どこへ行っても同じだという感覚が、離れる理由まで薄くしている。

 小毬が無言で手を差し出した。

 玄兎は少しだけ迷ってから、その手を握る。

 「引っ張って」

 「はい」

 依澄が反対側の袖を掴み、千燈も背中へ手を添えた。

 その間に透羽は床へ片膝をつき、三本の溝へ指先を向ける。

 細い清め水が地下水の流れへ割り込み、中央へ向かっていた三本をそれぞれ外側へ押し返した。一本だけ止めれば、残った二本へ信号が寄るかもしれない。三つを同じ瞬間に断つ必要がある。

 「《禊牢》」

 白い水の輪が円形基礎を囲んだ。

 天井から水滴が落ちる。

 ぴちゃん。

 今度は中央へ届かなかった。

 石室を満たしていた足音が、一斉に止まる。

 あまりにも同時だったので、玄兎には最初、それが成功した音に聞こえた。

 片耳の黒猫が首を傾げた。

 白い犬が前足で水面を一度蹴る。片翼の鳥は身体を傾け、羽を広げた。角の生えた子供は隣の影から離れ、顔のない老人は長く曲がっていた背をゆっくり起こした。

 同じ歩幅がほどけていく。

 小毬が息を吐いた。

 「戻った……」

 その言葉が終わるより早く、玄兎の左鎖骨の下が焼けるように熱くなった。

 黒猫が振り返る。

 白い犬も。

 鳥も、子供も、老人も。

 数十体の怪異が、円形基礎ではなく一斉に玄兎を見た。

 玄兎の喉が乾いた。

 「……透羽」

 「動かないでください」

 透羽の声も硬い。

 怪異たちの口がばらばらに開いた。

 今度は同じ歩調ではなかった。それでも、出てきた言葉だけは重なる。

 『かえる』

 黒猫が一歩。

 『かえる』

 白い犬が二歩。

 『かえる』

 片翼の鳥が水を跳ね上げて飛ぶ。

 玄兎が後ろへ下がると、全ての向きがそれを追った。

 「壇を止めたから……俺が次になった?」

 「その可能性が高いです」

 透羽は立ち上がりながら、玄兎と怪異の間へ水を走らせる。

 「全員、玄兎から離れて。まず分けます。《水鏡》!」

 床から薄い水の膜が立ち上がった。

 一枚、二枚、三枚。

 玄兎を囲うように重ねられた水鏡が、迫ってくる怪異との間へ透明な境界を作る。

 相互干渉を切り、危険度を一体ずつ確かめる。透羽が最も慣れている手順だった。

 最初の黒猫が水鏡の前で止まった。

 身体を低くし、耳を伏せる。

 次に来た白い犬も、その横で足を止めた。

 猫が右へ走った。

 犬は左へ回る。

 鳥は水鏡の上端へ向かって羽ばたき、子供の影は床すれすれを滑った。

 どれも透羽を狙わない。小毬にも、千燈にも、依澄にも見向きもしない。

 水鏡の向こうにいる玄兎へ近づくためだけに、別々の隙間を探している。

 「透羽、右!」

 玄兎が声を上げる。

 透羽はすぐに右の膜を広げた。すると猫はさらに外側へ回り、その動きへ押されるように後続の怪異まで同じ場所へ集中した。

 水面が大きくたわむ。

 小毬が顔を上げた。

 「まずいです。先輩の奥の匂い、さっきより強くなってる!」

 「境界を増やしたことで、玄兎以外の方向を切ってしまっています」

 透羽の表情が変わった。

 「外へ戻ろうとしていた向きまで、私が閉じた……」

 猫は爪で水鏡を引っかき、犬は鼻先を押しつけ、鳥は翼を打ちつける。角の子供は、泣きそうな顔で玄兎へ両手を伸ばしていた。

 「《白鷺浄界》」

 透羽は即座に次の手へ移った。

 白く光る水が、水鏡へ押しつけられた怪異たちの表面を撫でていく。壇から残った強制指向だけを剥がせるなら、それで終わる。

 だが白い光は濁らなかった。

 黒い汚れも、切り離すべき異物も浮かばない。

 ただ、水に触れた怪異の輪郭から、細い線のようなものが見えた。

 一本。

 十本。

 数えきれないほど。

 その全てが、水鏡を回り込みながら玄兎の胸へ伸びている。

 「これは……歪みではありません」

 透羽が呟いた。

 帰りたいという性質と、玄兎に重なった標識が噛み合っている。白鷺浄界で消すべきものではなかった。

 その間にも、怪異は増えていく。

 石室の入口から、遅れて壇へ向かっていた個体まで流れ込んできた。壁の隙間を這う黒い虫の群れ。水だけで形を作った魚。古びた傘を引きずる女の影。人の背丈ほどある白い紙片。

 全てが玄兎を見つける。

 左鎖骨の痣が、脈打つたびに熱を増した。

 「玄兎、下がって!」

 千燈の声に、玄兎は一歩退く。

 怪異全体が一歩分だけ動いた。

 それを見て、玄兎は逆に足を止めた。

「俺を追ってるなら、空いてる方へ動けば密集をずらせる」

 玄兎は水鏡の内側で、石室の壁から離れるように横へ歩いた。

 猫が向きを変える。犬が追う。鳥が旋回する。それに引かれて後ろの怪異もずれ、今にも割れそうだった水鏡への圧力が少し抜けた。

 「できる。でも、絶対に触れさせないで」

 透羽が言う。

 玄兎は胸の熱を押さえた。

 「一体でも帰巣が成立したら、俺に何が起きる?」

 千燈の顔から笑みが消えた。

 「分からない。君の中へ重なるのか、封印側まで巻き込むのか。帰巣先が君に重なってる最中だから、試して確かめるわけにもいかない」

 透羽も即座に頷く。

 「一体も触れさせません。玄兎は誘導だけに使います」

 玄兎は数十体の怪異を見る。

 自分へ入りたがっているようにしか見えないものもいる。それでも、その一体一体には元の場所があった。魚屋跡の庇で眠っていた猫も、支流の水面を歩いていた犬も、送電線へ戻る鳥も、壇が動き出すまではそこで暮らしていた。

 「じゃあ、帰すしかないな」

 「はい」

 透羽は答えたものの、すぐには術を動かさなかった。

 透羽は一度だけ目を閉じた。

     ◇

 最初に動いたのは小毬だった。

 「透羽先輩。黒い子、魚屋さんの方の匂いをまだ持ってます」

 水鏡へ爪を立てている黒猫を指す。

 「先輩から出てる匂いじゃありません。この子自身の毛に、干物と古い木と、昼に熱くなるトタンの匂いが残ってる。西です」

 「本来の場所を追えますか」

 「一体ずつなら。でも多すぎます」

 小毬は鼻から大きく息を吸い、目を閉じた。

 《狼域》が広がる。

 何十もの匂いが重なる石室で、彼女の眉間に深い皺が寄った。

 「白い犬は川。上流の泥と草。鳥は金属と日なたの匂い。あっちの子供は……土と線香。傘の人は雨の古いアスファルト。全部違います」

 同じ方向を向いている怪異たちから、ばらばらの生活の残り香が立ち上がっている。

 小毬は息を詰めかけ、それでも一体ずつ指を向けた。

 「帰る場所、残ってます。消えてません」

 千燈がその横で目を閉じた。

 血には触れない。

 今必要なのは過去を深く読むことではなく、この場へ滲み出ている感情の強さを聞き分けることだった。

 「猫は焦ってるだけ。犬も怖がってる。でも、あの角の子はかなり混乱してる。押さえ込むと暴れるよ。あと奥の赤い顔のやつ、帰りたい気持ちとは別に怒りが強い。あれは他と一緒に通さない方がいい」

 「危険度の高い順を見てください」

 「了解。帰路を塞がれた時に他人を巻き込みそうなのから言う」

 依澄は石室全体を見回し、淡紫の蝶を一匹だけ指先へ出した。

 「待って」

 彼女の視線が、人の背丈ほどある白い紙片へ止まる。

 「それ、場所へ帰すと違う」

 小毬が振り向いた。

 「匂いはあります。古いアパートみたいな」

 「身体がいた場所はそこ。でも、この子が残ってるのは夢の方」

 依澄が《蝶境》を薄く開く。

 白い紙片の向こうへ、誰もいない六畳間が一瞬重なった。現実の部屋ではない。眠っている人間が何度も見た、窓だけが明るい夢の部屋だった。

 「現実へ返したら、また迷う」

 透羽がすぐに頷く。

 「依澄さんは、現実と夢の帰還先を分けてください」

 「うん」

 情報は集まった。それでも、分かっただけでは帰せない。

 鷺宮家で教えられてきた水は、危険を一か所へまとめ、外へ出さず、境界を決めるためのものだった。

 今必要なのは逆だった。

 何十体もの怪異を、一体ずつ違う方向へ出す。

 しかも一つの帰巣標識へ吸われ続けている流れを、その直前で分けなければならない。

 透羽の端末には、そんな手順はない。

 「透羽」

 玄兎の声がした。

 彼は水鏡の内側をゆっくり歩きながら、怪異の密集を自分の後ろへ引きつけていた。走れば一斉に追われる。止まりすぎれば押し寄せる。数歩ずつ位置を変え、全員が術を使える空間を作っている。

 額には汗が浮かんでいる。

 「まだ閉じる?」

 透羽は答えなかった。

 玄兎が続ける。

「小毬が全部違うって言った。なら、出口も一個じゃ駄目だろ」

 簡単な言葉だった。

 けれど透羽の中で、それまで一つに重なっていたものがほどけた。

 水鏡を壁にしなければいい。

 境界は、閉じるためだけにあるわけではない。

 違う流れが混ざらないようにするためにも使える。

 白鷺浄界も、全部を消す必要はない。壇から残った「全員同じ場所へ」という強制だけを、分かれ目で剥がせばいい。

 透羽は水鏡を一枚消した。

 怪異たちが一斉に玄兎へ詰める。

 小毬が息を呑む。

 「透羽先輩!」

 「大丈夫です」

 もう一枚消す。

 玄兎の前から、守っていた壁がなくなる。

 片耳の黒猫が飛び出した。

 透羽はそれを止めなかった。

 床へ指を滑らせる。

 一本の水が、猫の足元から西側の通路へ伸びた。

 ただの細い水路だった。

 途中で二枚の《水鏡》を斜めに立てる。囲うのではなく、左右から挟み、流れが別の水と混ざらないようにする。

 小毬が叫ぶ。

 「その子、西! 魚屋さん!」

 透羽は水路の先を西へ曲げた。

 猫は玄兎へ向かって二歩走ったところで、足を止めた。

 鼻を動かす。

 水路の上を漂った干物と古木の残り香へ、欠けた耳が向く。

 それでも胸の標識に引かれ、顔だけが玄兎へ戻りかけた。

 「《白鷺浄界》」

 白い光が、水路と玄兎へ伸びる細い帰巣線の交点だけを洗った。

 猫の身体が小さく震えた。

 そして、玄兎ではなく西側の通路を見た。

 小毬の目が大きくなる。

 「向いた」

 黒猫が走った。

 今度は誰にも押されず、誰とも歩幅を揃えず、片耳を伏せた自分の走り方で石室を出ていく。

 一体。

 それだけだった。

 けれど透羽は、初めて顔を上げた。

 「できます」

 声は静かだった。

 「閉じません。帰路を分けます」

     ◇

 そこから先は、戦いになった。

 誰かを倒すためではない。一体も間違った場所へ帰さないための戦いだった。

 「小毬、次!」

 「白い犬は北、川の上流! 鳥は東、金属と日なた!」

 「犬も鳥も焦ってるだけ。通して大丈夫」

 千燈が感情を拾い、依澄がすぐに重ねる。

 「どっちも現実。白い紙だけは夢の方」

 透羽の水が三方向へ走った。薄い《水鏡》が水路の間へ立ち、互いの流れを混ぜない。玄兎は二歩左へ動き、追ってきた白い犬を北の入口へ引く。小毬が「今!」と叫んだ瞬間、《白鷺浄界》の白い光が玄兎へ伸びる線との交点だけを洗った。

 犬の鼻先が川の匂いへ向く。次いで片翼の鳥も、斜めに立った水鏡へ羽ばたきをずらされ、そのまま東の細い流れへ乗った。

 二体が別々の通路へ消える。

 その間にも別の三体が玄兎へ迫る。玄兎は逃げ切ろうとはしなかった。右へ寄れば群れが右へ流れ、中央へ戻れば左右へ空間ができる。自分を追わせながら、透羽が作った入口へ群れを寄せる。

 「先輩、後ろ!」

 角の生えた子供が泣きながら飛びついてきた。玄兎が腕を出しかけるより早く、千燈が上着を広げて視界を遮る。

 「この子、怒ってない。怖いだけ!」

 「南です! 土と線香、古い石!」

 「現実」

 三人の声を受け、透羽が南へ水を引く。だが途中で北の流れと交差し、触れた二本が一つになろうとした。子供の顔がまた玄兎へ戻る。

 透羽は反射的に《水鏡》を交点へ差し込んだ。透明な膜の両側を、水が別々のまま抜けていく。

 子供の前に南の水だけが残り、土と線香の匂いへ泣き顔が向いた。

 千燈が短く息を吐く。

 「透羽ちゃん、それ家で習った使い方?」

 「いいえ」

 透羽は次の水鏡を立てた。手順を探すために端末を見ることはしない。四人から上がる情報と、目の前の流れだけを見て、次の水を置く。

 「小毬さんは帰る方向を。千燈さんは危険と感情の動きを。依澄さんは夢と現実の境目を見てください。玄兎は私が示す入口まで引いてください。四人の情報は私がまとめて、帰路を作ります」

 四人が頷いた。

 同じ『かえる』を重ねていた群れが、少しずつ別々の動きを取り戻していく。

 「右奥、赤いの来るよ!」

 千燈が叫んだ。

 最後まで待たせていた赤い顔の怪異が、他の個体が減ったことで玄兎をはっきり捉えた。

 顔を歪め、床を踏み抜く勢いで走ってくる。

 帰りたい焦りに、別の怒りが混ざっている。

 玄兎が横へ避ける。

 怪異はその動きを追い、壁へ肩をぶつけた。石が砕ける。

 小毬は怪異の匂いを追っている。

 「南東! 古い油と鉄! でも近くに人の匂いも多いです!」

 「帰還先周辺の危険が高い?」

 透羽が訊く。

 「たぶん。元の場所は合ってるけど、そのまま行かせたら人に会います!」

 「千燈さん」

 「怒りが強い。帰った直後に人を見たら危ないかも」

 透羽は一瞬だけ迷った。

 「玄兎、南東の通路へ寄せてください。出口直前で一度止めます。観測班へ引き継ぎます」

 「了解!」

 玄兎が走る。

 赤い怪異が追う。

 他の怪異と違い、速い。

 距離が一気に縮まった。

 一体でも触れられれば、何が起きるか分からない。玄兎は背中の寒気を振り切るように、足を速めた。

 「先輩、三歩先で右!」

 小毬の声。

 「見えてる!」

 「見えてないです! 床!」

 足元に子供の足跡だけの怪異が横切っていた。

 玄兎は寸前で踏み越える。

 赤い怪異の手が背中へ伸びる。

 次の瞬間、千燈の姿が玄兎の横から消えた。

 人間なら踏み込む間もない距離を一息で詰め、赤い怪異と玄兎の間へ滑り込む。伸びてきた腕だけを狙い、長い爪を横へ走らせた。

 赤い腕の表面が裂け、勢いがわずかに外へ流れる。

 千燈はそれ以上追わなかった。

 そこへ水鏡が横から滑り込み、その腕の軌道をさらに外へ逸らした。

 「玄兎、前!」

 透羽が作った太い水路が、南東の通路へ伸びている。

 玄兎はその入口を横切り、直前で左へ飛んだ。

 赤い怪異の視線が玄兎を追う。

 その瞬間、白鷺浄界の細い光が二者の間へ走った。

 帰巣線が揺らぐ。

 怪異の鼻先へ、古い油と鉄の匂いを含んだ水が届く。

 首が止まる。

 玄兎。

 水路。

 玄兎。

 水路。

 迷うように二度見比べたあと、赤い顔が南東を向いた。

 「今です!」

 透羽が水を押し出す。

 怪異が通路へ駆け込んだ。

 出口側で《水鏡》が閉じる。

 完全に封印するのではない。観測班へ引き渡すまで、人のいる方向だけを遮るための短い境界だった。

 「一番危ないの、抜けた!」

 千燈が息を吐く。

 その直後だった。

 石室全体が大きく震えた。

 帰巣壇の円形基礎に亀裂が走る。

 止められた地下水が別の隙間から溢れ、床の上へ一気に広がった。

 透羽が作った細い水路へ、古い壇の水が横からぶつかる。

 十数本の流れが揺れた。

 「まずい!」

 水鏡の一枚が割れる。

 分けていた二本が混ざった。

 その瞬間、帰りかけていた怪異たちの顔が一斉に玄兎へ戻る。

 あと十数体。

 全てが同時に向きを変えた。

 全てが同じ一点、玄兎を見た。

 左鎖骨の痣が焼ける。

 玄兎の足が、怪異の方へ一歩出た。

 「先輩!」

 小毬が腕を掴む。

 「俺、今……」

 「向こうから引かれてます!」

 怪異が集まるだけではない。

 玄兎自身も、帰巣先としてそれらを受け入れようとしている。

 頭の奥へ、さっきまでとは別の甘い感覚が広がった。

 帰してやればいい。

 ここへ。

 全部、自分のところへ。

 そうすれば迷わない。

 玄兎は歯を食いしばった。

 「透羽!」

 返事がない。

 透羽は割れた水鏡の前で、両手を水へ沈めていた。

 十数本の水路を維持しながら、新しく溢れた壇の水まで押さえようとしている。

 規定手順なら、ここで《禊牢》を閉じ直して応援を待つ。

 だが、それでは最初の失敗を繰り返す。玄兎だけを残した瞬間、十数体の帰巣線がまた一つへ束ねられる。

 透羽は割れた水鏡を戻さなかった。

 代わりに、床へ溢れた水へ小さな水鏡を次々と差し込む。指ほどの幅、手のひらほどの高さ。大きな壁を作るのではなく、混ざった流れをほどくための薄い境界だけを置いていく。

 「透羽先輩、匂いが混ざって――」

 「一体ずつではなく、まず方向でください。違うものだけ追加してください!」

 小毬が息を整える。

 「西、四! 北、三! 東、二! 南、三! 夢が二つ!」

 「夢は私」

 依澄の蝶が二方向へ開く。

 「北の三体目が危ない! 南の一体は怖がりすぎて他を押す!」

 千燈の声も重なる。

 「玄兎、私の水路の中央へ。あなたを追わせます。ただし怪異側へ自分から一歩でも出たら、小毬さんが止めてください」

 「了解!」

 玄兎が走り、十数体の視線を引き受ける。

 透羽は四人の情報を一つの術へ落とし込んだ。

 使っている術は同じだ。変えるのは、組み方。

 「《水鏡》」

 声は一度だけだった。

 石室の床へ無数の水鏡が立ち上がる。

 玄兎を囲わない。

 怪異も囲わない。

 西へ四本。

 北へ三本。

 東へ二本。

 南へ三本。

 そして依澄の蝶へ重なる、現実とは違う二本。

 次に白い光が走る。

 「《白鷺浄界》」

 玄兎へ繋がる十四本の帰巣線、その交点だけを白い水が次々に走った。

 玄兎が中央で叫んだ。

 「来い!」

 怪異が殺到する。

 小毬の声が重なる。

 「西、一!」

 黒い影が水へ乗る。

 「北、一!」

 白い獣が向きを変える。

 「夢!」

 依澄の蝶が白い紙を包む。

 「南の怖がってるやつ、先!」

 千燈が叫ぶ。

 透羽の指が動く。

 水鏡が開き、閉じ、別の道を残す。

 玄兎へ伸びた怪異の手が胸へ届く寸前で、横から来た水がその顔を本来の方向へ向ける。

 一体が西。

 一体が北。

 一体が夢。

 東。

 南。

 また西。

 同じ方向を向いていた怪異たちの首が、一つずつ違う方向へ回っていく。

 玄兎の目の前で、世界がほどけるようだった。

 片耳の猫はもういない。

 白い犬も、片翼の鳥も帰った。

 『かえる』

 同じ声が響く。

 けれど今度は、その言葉の向きが違った。

 西へ。

 北へ。

 川へ。

 古い路地へ。

 夢へ。

 最後の一体が玄兎の前で止まった。

 顔のない老人だった。

 小毬が息を吸う。

 「分からない……匂いが古すぎます」

 千燈も眉を寄せる。

 「怒ってない。怖がってもない。ただ、ずっと待ってる感じ」

 依澄が首を振った。

 「夢じゃない」

 玄兎の胸だけが強く熱を持つ。

 老人の手が伸びた。

 ここだけは、帰還先が判別できない。

 なら玄兎へ入れるしかない。

 そんな考えが一瞬浮かぶ。

 透羽がそれを否定した。

 「分からないものを、玄兎へ戻しません」

 水鏡が老人と玄兎の間へ立つ。

 老人だけが止まり、ほかの帰路は開いたままだった。

 小毬がもう一度、必死に匂いを探る。

 「……待って。石です。でもここの石じゃない。もっと乾いてる。日なた……お墓?」

 「感情、少し動いた」

 千燈が老人を見る。

 「懐かしい方。嫌じゃない」

 依澄が老人の足元へ蝶を飛ばす。

 「現実」

 透羽は三人の言葉を重ね、石室の古い図面を思い出す。河川沿いの旧施設、そのさらに南側には、再開発で移された古い墓地跡がある。

 断定はしない。

 けれど試すことはできる。

 透羽が南へ細い水を伸ばした。

 老人は動かない。

 さらに少し東へ振る。

 顔のない頭が、初めて玄兎以外へ向いた。

 「そこ」

 小毬が言う。

 透羽は水路を固定する。

 老人は一歩踏み出した。

 玄兎へではない。

 南東へ。

 ゆっくり、ゆっくりと石室を出ていった。

 その背中が見えなくなるまで、誰も声を出さなかった。

 やがて玄兎の痣から、熱が引いた。

 床の水が静かになる。

 石室に残ったのは五人だけだった。

 透羽はその場へ膝をついた。

 玄兎がすぐ近づく。

 「透羽」

 「大丈夫です。水を同時に扱いすぎただけです」

 「立てます」

 立とうとして少しふらつき、玄兎が腕を支えた。

 透羽は反射的に「離してください」と言いかけ、やめた。

 「……少しだけ、そのままで」

 「うん」

 小毬もその場へ座り込み、大きく息を吐いた。

 「鼻、しばらく何も嗅ぎたくないです」

 千燈が笑う。

 依澄は床に残った細い水路を見ていた。

 透羽は床に残る何本もの筋を見た。

 玄兎が訊く。

 「怒られる?」

 「可能性は高いです」

 「じゃあ俺のせいにしていいよ」

 「しません」

 即答だった。

 「私が決めて、使ったんです」

 玄兎は少し笑った。

 透羽も、ほんの少し口元を緩めた。

     ◇

 地上へ出たあと、五人は鷺宮家の観測班と合流した。

 片耳の黒猫は八坂通りの魚屋跡へ戻り、庇の下で丸くなっていた。白い犬と片翼の鳥も、それぞれ支流と送電線付近で確認された。赤い顔の個体と顔のない老人は、帰還先周辺を観測班が継続監視する。夢側へ送った二体は、《蝶境》を閉じたあと現実側の反応が消えた。

 透羽は報告をまとめながら、一つだけ条件を書き添えた。

 今回返せたのは、元の場所が残り、匂い・感情・夢の像から行き先を判別できた個体だけだ。帰還先そのものが失われた怪異や、由来の混ざった個体へ同じ方法を使える保証はない。

 玄兎は川沿いから、もう誰も同じ方角を向いていないことを確かめた。

     ◇

 夕方、五人は大学近くのファミリーレストランへ入った。

 玄兎が席へ着くなり、小毬がメニューを二枚並べる。

 「先輩。ハンバーグと焼き魚定食」

 「ハンバーグ」

 即答すると、小毬の顔が明るくなった。

 「明日のお昼、私たちと食べます?」

 「食べる」

 小毬の顔がほっと緩んだ。

 依澄は、玄兎が選んだハンバーグの写真を覗き込み、自分のメニューも開いた。

 透羽が水を一口飲む。

 そのスマートフォンが震えた。

 画面を見た瞬間、わずかに目を細める。

 「何?」

 玄兎が訊く。

 透羽は隠さず画面を見せた。

『帰巣壇対応・術式運用確認』
『《水鏡》複数経路分流、《白鷺浄界》局所併用について、既定手順との不一致を確認』
『事後報告を要す』

 千燈が画面を覗き込んだ。

 玄兎は透羽を見る。

 「後悔してる?」

 透羽は答えるまでに、ほとんど時間をかけなかった。

 「していません」

 それだけ言って、事後報告の入力画面を開いた。

     ◇

 食事のあと、五人は大学へ戻り、久住研究室で共有ノートに今日の事実だけを残した。

『旧《帰巣壇》停止後、共通標を失った複数個体の帰巣反応が玄兎へ集中。』
『帰還先を判別できた個体のみ、複数情報を照合して個別誘導。判別不能個体は即時に玄兎へ通さない。』

 透羽は最後に、自分で一行追加した。

『《水鏡》複数経路分流、《白鷺浄界》局所併用。既定手順外。術式運用は私の判断。』

 玄兎はそれを読み、何も書き足さなかった。

     ◇

 同じ夜。

 鷺宮家の古い記録庫で、透羽は《帰巣壇》の資料を探していた。

 昼に撮った石室の写真と旧字、水路構造を照合し、やがて古い資料へ辿り着く。

『百獣繭前身封印・帰巣機構』
『帰巣標識は本来、固定壇へ付与』
『破断時、緊急措置として外部器へ転写可能』

 さらに下。

『二十年前の破断事故において、外部器・鵺代玄兎へ帰巣標識を転写』

 透羽は続きへ目を移す。

『注意』
『帰巣標識は器人格と同一ではない』
『標識反応をもって、器本人を怪異または封印本体と判定してはならない』

 透羽は長く息を吐いた。

 今度は、推測ではなく記録を渡せる。

 ただ、その下には別の注意が続いていた。

『長期運用時、標識と器人格の境界が不鮮明化する場合あり』

 その先は黒塗りだった。

 別紙を開く。

『人格固定因子:対人関係、生活習慣、自己選択の反復』
『外部からの継続的識別は、人格境界維持に有効』

 透羽の脳裏に、昼の石室で玄兎へ「みんなと帰りたいですか」と問いかけた小毬の声が蘇る。

 透羽は五人のグループチャットを開いた。

『《帰巣壇》の記録が見つかりました。帰巣標識は、玄兎本人の人格や正体とは別の機能だと明記されています。』

 玄兎から『よかった』と返る。透羽は続けて、長期運用で境界が曖昧になり得ること、対人関係・生活習慣・自己選択と外部の識別が境界維持に有効であることも送った。

『じゃあ、これからも頼む。』

 返信を読んでいる間に、三人の既読も揃った。

 透羽が『はい』と送信した直後、画面上部へ別の通知が現れた。

『鷺宮家当主より、鷺宮透羽へ出頭要請』
『議題:外部器・鵺代玄兎への私的関与について』

 透羽は通知を開いた。

 添付された監査項目の先頭には、今日の帰巣壇対応記録があった。

『監視対象を囮として現場へ残留』
『承認手順外の《水鏡》多重分流を実施』
『《白鷺浄界》を複数帰路形成へ転用』
『術者判断による続行』

 どれも事実だった。

 透羽は訂正しなかった。

 自分が何をしたかは、自分で説明する。

 画面を閉じる前に、玄兎から届いた『これからも頼む』をもう一度見た。

 そして出頭要請へ、短く『承知しました』と返信した。

――第十九話・了

この話、どうでしたか?

👥 登場人物紹介ネタバレを抑えた基本プロフィール
鵺代玄兎

CHARACTER 01

鵺代玄兎

ぬえしろ げんと

現実的で、妙な状況でもまず話を整理しようとする常識人寄りの青年。突然の怪異や騒動には戸惑いながらも、困っている相手を放っておけない。深刻な場面でも自然にツッコミが出るタイプ。

  • 物語の主人公
  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 常識人寄りのツッコミ役
俺が何者でも、困ってる人を置いていく理由にはならない。
鷺宮透羽

CHARACTER 02

鷺宮透羽

さぎみや とわ

冷静で生真面目。怪異への警戒心が強く、必要なことははっきり言う。危険な場面では自分が前に出ようとする、責任感の強い少女。

  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 鷺宮家の退魔師
  • 礼儀正しいがやや堅い
私が間に合う時は、あなたを死なせません。
緋鴉千燈

CHARACTER 03

緋鴉千燈

ひがらす ちとせ

余裕のある笑みを浮かべ、人をからかうのが上手な先輩。自然に距離を詰めてくる、つかみどころのない雰囲気を持つ。

  • 玄兎たちの先輩
  • 赤褐色の瞳
  • 人をからかうのが得意
秘密って、暴くより自分から話してもらう方が面白いよ。
白狼院小毬

CHARACTER 04

白狼院小毬

はくろういん こまり

明るく人懐っこい一年生。気になったことはすぐ口にし、匂いを確かめることに夢中になると相手との距離感まで忘れがち。

  • 朽木ヶ丘大学の一年生
  • 非常に鋭い嗅覚
  • 人懐っこく表情豊か
匂いは嘘をつきません。だから、何度でも見つけます!
蝶ヶ森依澄

CHARACTER 05

蝶ヶ森依澄

ちょうがもり いすみ

静かで穏やか、言葉数は少なめ。初対面からどこか不思議な印象を残し、感情表現は控えめだが答え方は率直。

  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 淡い青紫の瞳
  • 物静かでマイペース
今日が初めてなら、明日また会えばいい。

音声・文字設定つきの公式リーダーで読む