第二章・全36話中 19話

第十九話 大学の怪異が、みんな同じ方角を向いている

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 翌朝、白狼院小毬は鵺代玄兎の匂いを確かめると、昨日よりわずかに肩の力を抜いた。

 朽木ヶ丘大学の正門前。昨夜の雨を含んだ植え込みから湿った土の匂いが立ち上っている。

 玄兎はブラックコーヒーの缶を片手に、小毬が自分の周囲をゆっくり一周するのを待った。

 「どう?」

 「昨日より減ってます。昔の先輩たちの匂いは、かなり薄くなりました」

 前日、北講義棟で現れた複数の玄兎は、封印側へ残っていた彼自身の古い身体情報や人格・認知情報に近いものだった。

 小毬はそこで、同じ人間でも今日までの選択で変わっていくことを嫌というほど知った。

 ただ、彼女はすぐには笑わない。

 玄兎の正面へ戻ると、胸元よりさらに奥を探るように目を閉じた。

 「……やっぱり、一番奥は残ってます」

 「昨日言ってた、場所みたいな匂い?」

 「はい」

 今日の玄兎には、コーヒーや朝食、洗剤といった生活の匂いが重なっている。そのさらに奥にだけ、濡れた石、古い木、錆びた鉄、土、わずかなお香――個人の身体とは思えない広い匂いがあった。

 どこか一か所の匂いではない。それでも小毬には、そこから「どこかへ続いている」と感じられる。

 「先輩の中に誰かがいる感じじゃありません。でも、何なのかはまだ分かりません」

 「慎重になったな」

 「昨日、匂いだけで何でも決めないって決めましたから」

 小毬は少しだけ胸を張り、それから玄兎の顔を見る。

 「でも、一つだけ決まってます。先輩の奥に何があっても、群れをやめる理由にはなりません」

 「俺の土台が怪異でも?」

 「土台だけで今の先輩全部が決まるなら、昨日の先輩たちは全員同じだったはずです」

 小毬は迷わなかった。

 「私が群れにしたのは、今日ここにいる玄兎先輩です」

 玄兎は缶へ目を落とし、少し笑った。

 「ありがとう」

 「はい」

 そこへ背後から、淡々とした声が飛んできた。

 「朝から玄兎の匂いを確認しているのですか」

 透羽だった。その隣には千燈と依澄もいる。

 「経過観察です!」

 小毬が答える。

 千燈は玄兎の缶を見た。

 「今日もブラック?」

 「うん」

 「甘い方と迷わなかった?」

 「朝から甘いのは重い」

 千燈は何気なく笑った。

 そのやり取りが数時間後に意味を持つとは、まだ誰も思っていなかった。

 一限前、小毬の報告を聞いた透羽は端末へ記録を出した。

 「昨日の残留情報が薄くなっている点は経過と矛盾しません。ただ、その下の『場所に似た匂い』は既存記録にありません」

 「血を読んだ時の感じとは近いよ」

 千燈が言う。

 「でも今また玄兎くんの血を読む必要はないと思う。別の手掛かりがあるなら、そっちから見よう」

 「ありがとう」

 「そこでお礼言われると、昔の私がだいぶひどく見えるんだけど」

 「昔というほど前じゃないだろ」

 依澄は玄兎の横で目を閉じ、数秒後に言った。

 「夢じゃない。でも、道に似てる」

 「道?」

 「帰る時に通るところ。玄兎そのものじゃなくて、玄兎に道が重なってる」

 左鎖骨の下の痣が、わずかに熱を持った。

 小毬がすぐに反応する。

 「それ、私の感じ方に近いです」

 透羽は頷いた。

 「怪異が玄兎を『帰る場所』と呼ぶ件とつながる可能性はあります。ただし、玄兎自身が封印の一部なのか、別の機能が重なっているだけなのかはまだ決められません」

 「じゃあ、外に同じ匂いがないか探します」

 小毬が手を上げる。

 「場所の匂いなら、元があるかもしれない?」

 「はい」

 透羽は少し考えてから頷いた。

 「大学周辺から確認しましょう。ただし授業は受けます」

 「そこは守るんだな」

 「怪異が単位を補填してくれるわけではありません」

 千燈が笑った。

 午前中は、驚くほど普通に過ぎた。

 玄兎は講義を受け、ノートを取り、透羽に一度だけ「その字は後で読めますか」と確認された。

 小毬からは昼食候補として焼肉丼、唐揚げ定食、豚生姜焼き定食の三択が届いた。

 玄兎は『全部肉じゃん』と返し、そのあと『唐揚げ』を選んだ。

 依澄は二限の途中で「焼きそばも気になる」と言い出した。

 千燈は別棟の講義へ行った。

 昨日まで、自分と同じ顔の人間が何人も大学を歩いていたとは思えないほど、いつもの大学だった。

 その普通さに、玄兎は少し救われていた。

 昼休み。

 五人で学食へ向かおうとしていた時、小毬が足を止めた。

 玄兎はもう、彼女の表情が変わる速度で異常かどうか分かるようになっていた。

 「奥の匂い?」

 「はい。でも先輩からじゃありません」

 小毬は西側の窓を見る。

 「外です。川の方から、すごく強くなってます」

 依澄も同じ方向へ顔を向けた。

 「小さい怪異が、たくさん動いてる」

 「大学へ?」

 「違う」

 玄兎たちは窓際へ寄った。

 最初はただ、昼の道路が見えるだけだった。

 けれど注意していると、街路樹の影から黒い猫の形をしたものが出てきた。道路脇の水溜まりには、子供の足跡だけが一歩ずつ増えている。電柱の上には、身体に対して首が不自然に長い鳥が止まっていた。

 どれも大きな害を起こすほど強い怪異ではない。

 しかし、種類も棲みついている場所も違うはずの怪異が、全て同じ方向へ移動していた。

 「川の下流です」

 小毬が言う。

 「私が先輩の奥で感じてるのと、同じ匂いを追ってます」

 透羽は即座に鷺宮家へ連絡を入れた。

 「河川沿いの一般人を遠ざけてもらいます。強制的な避難ではなく、護岸設備点検として誘導します」

 「また設備点検」

 玄兎が言う。

 「便利です」

 「大学の設備、怪異のせいで信用なくならない?」

 「表向きには点検が多い大学になるだけです」

 千燈が肩をすくめた。

 「それも嫌だなあ」

 川沿いへ出て、玄兎はすぐに違和感の正体へ気づいた。

 怪異たちは玄兎へ寄ってこない。

 むしろ彼の横を通り過ぎ、そのまま下流へ向かう。

 ただし、通過する瞬間だけは、どの怪異も一度玄兎へ顔を向けた。

 黒い猫の怪異。

 水面を歩く白い犬。

 片翼しかない鳥。

 角の生えた子供。

 顔のない老人。

 同じ種類どころか、同じ場所に棲む理由さえなさそうなものたちが、一定の間隔を空けて並んでいる。

 「行列みたい」

 玄兎が言う。

 「嫌な行列です」

 小毬は列の少し前方を見ながら眉を寄せた。

 「先輩、あの黒い子、見覚えあります」

 「猫?」

 「はい。八坂通りの昔の魚屋さんの裏にいる子です。何回か白狼院家の巡回記録にも出てます」

 透羽も確認する。

 「人へ害を与えた記録はありません。魚屋跡と隣の路地からほとんど離れない低位個体です」

 黒猫は片方の耳が欠けていた。

 時々、列から左へ外れようとする。

 そのたびに前を歩く白い犬と、後ろを歩く子供の影が身体を寄せ、何事もなかったように列へ戻していた。

 「嫌がってない?」

 玄兎が訊く。

 小毬はすぐには答えず、猫の動きを追った。

 「帰る方向の匂いは出ています。でも……いつもの魚屋さんの方も何度も見てます」

 列は進む。

 下流へ百メートル。

 さらに百メートル。

 その間に、怪異たちの動きが少しずつ変わった。

 最初、黒猫は何度も横道を見ていた。

 白い犬は水面を歩きながら前足で水を蹴っていた。

 片翼の鳥は、歩調に合わせられず何度か低く飛んでいた。

 ところが下流へ近づくにつれ、その癖が一つずつ消える。

 猫は横を見なくなる。

 犬は水を蹴らなくなる。

 鳥は羽を畳み、歩き始める。

 やがて姿の違う怪異たちが、同じ幅で足を出し、同じ速度で首を上下させるようになった。

 呼吸の必要があるのかも分からない存在まで、

 すう。

 はあ。

 すう。

 はあ。

 同じ間隔で息をしている。

 川の音の下へ、何十もの同じ呼吸が重なった。

 玄兎は立ち止まった。

 「これ、帰ってるんじゃない」

 透羽が見る。

 「どういう意味ですか」

 「あの猫、さっきまで何度も別の道へ行こうとしてた」

 「はい」

 「犬も鳥も、最初は動き方が違った。でも今は全部同じだ」

 玄兎は怪異たちの背中を見る。

 「自分で帰ってるなら、こんなに同じにはならないと思う」

 小毬が低い声で続けた。

 「帰らされてる」

 列の中から声がした。

 『かえる』

 一体ではない。

 『かえる』
 『かえる』
 『かえる』

 姿も由来も違う怪異たちが、同じ抑揚で繰り返す。

 黒猫まで口を開いた。

 『かえる』

 小毬の顔が強張った。

 「あの子、そんな鳴き方しません」

 「普段は?」

 「声、出さないです。魚屋跡で寝てるだけです」

 玄兎の背中に冷たいものが走った。

 怪異が襲ってくるわけではない。

 誰も叫んでいない。

 ただ、自分らしい動きを一つずつ失い、同じ言葉を口にして同じ方向へ歩いている。

 その静かさが、妙に恐ろしかった。

 そして玄兎は気づく。

 自分の足も、いつの間にか列と同じ速さで動いていた。

 「玄兎」

 透羽に呼ばれ、玄兎は足を止めた。

 「何?」

 「今、どうして列へ近づいたのですか」

 玄兎は少し考えた。

 「……近い方が調べやすいから?」

 自分で口にしたのに、言葉へ実感がない。

 透羽が続ける。

 「大学へ戻るのと、このまま追うのでは、どちらがいいですか」

 「どちらでもいい」

 透羽の目が細くなった。

 千燈がすぐに訊く。

 「玄兎くん。朝はブラックを選んだよね。今、ブラックと甘いカフェオレならどっちが飲みたい?」

 玄兎は答えようとして、止まった。

 「……どっちでも同じだろ」

 記憶はある。朝、自分でブラックを選んだことも覚えている。

 ただ、そこにあったはずの「こっちがいい」という感覚だけが遠い。

 透羽はすぐに玄兎の腕を掴んだ。

 「記憶ではなく、選択への干渉です」

 「俺は普通だよ」

 「普通の玄兎は、少なくともコーヒーを『どちらでも同じ』とは言いません」

 「そこ?」

 「そこもです」

 冗談めかして返したつもりだったが、笑えなかった。

 好きなものを覚えているのに、好きだと思う感覚だけがない。それは記憶を失うのとは別の薄気味悪さだった。自分の頭の中へ、誰かが静かに水平器を置いて、傾いていたはずの心を平らにならしているような感覚がある。

 依澄が玄兎を見上げる。

 「玄兎。今、帰りたい?」

 「帰る場所が決まってるなら、そこへ行けばいい」

 言った瞬間、四人の表情が変わった。

 玄兎自身も、自分の声を少し遅れて聞いたような気がした。

 小毬が一歩近づき、胸元へ意識を向ける。

 「先輩自身の匂いは消えてません。でも、奥の道の匂いが上から覆ってきてます」

 透羽は行列を見る。魚屋跡を何度も振り返っていた黒猫は、もう前しか見ていない。

 「帰る先を一つへ揃えるために、それぞれの『別の方へ行きたい』を弱めているのかもしれません」

 『かえる』

 玄兎の口も、無意識に同じ形を作りかけた。

 小毬がすぐに頬を軽く叩く。

 「勝手に帰らないでください」

 「……まだ帰ってない」

 「帰りそうでした」

 琥珀色の瞳には、はっきり恐怖があった。

 昨日までなら、小毬は匂いを頼りに「先輩は先輩です」と言えた。けれど今日は、その先輩自身の選び方が少しずつ薄くなっている。だからこそ、彼女は匂いだけに逃げず、玄兎の顔を見ていた。

 それを見て初めて、「小毬を不安にさせたくない」という自分の意思が少し戻る。

 「追う。でも俺がおかしくなったら止めて」

 「はい」

 透羽も頷く。

 「判断への干渉が強まれば即座に離脱します」

 千燈は反対側へ回った。

 「私は会話を見る。依澄ちゃんは?」

 依澄は玄兎の袖を掴む。

 「離れそうなら引っ張る」

 玄兎は四人を見た。

 自分一人なら、この変化に気づけなかった。

 それが一番怖かった。

 怪異の列は八坂通りの古い商店街を抜け、今は使われていない水門へ入っていった。

 透羽が管理側へ連絡し、旧排水路の扉を開けてもらう。重い鉄扉の向こうから、夏とは思えない冷気が流れ出した。

 階段を下りるほど街の音が遠ざかる。代わりに、水がどこかで落ち続ける音と、怪異たちの足音とも擦過音ともつかない気配が、水路の奥から重なって聞こえてきた。

 小毬には何百もの怪異の匂いが重なる厳しい場所だったが、今追っている「帰る道」の匂いだけは、それらを塗り潰すほど濃い。

 「こっちです」

 左の分岐を進むと、壁は途中からコンクリートではなく古い石積みに変わり、腐食した木柱まで現れた。現代の排水路の途中へ、もっと古い構造だけが継ぎ足されたようだった。

 足元には浅く水が流れている。玄兎が踏むたびに波紋が広がるのに、前を進む怪異の列はほとんど水面を揺らさなかった。

 『かえる』
 『かえる』
 『かえる』

 反響する声が、玄兎の頭の中で少しずつ自分の考えに近くなる。

 決められたところへ行けばいい。

 考えなくていいなら、その方が楽だ。

 玄兎は朝、自分でブラックコーヒーを選んだ感覚を思い出そうとした。くだらない好みでも、自分で決めたものだった。

 「玄兎」

 透羽の声が飛ぶ。

 「今、何を考えていました?」

 「決めなくていいなら楽だなって」

 素直に答えると、透羽の手が腕を少し強く掴んだ。

 小毬も鼻から息を吸う。

 「道の匂い、また強くなってます」

 「まだ俺の匂いは分かる?」

 「分かります」

 「なら、もう少しだけ行く。消えそうなら止めて」

 「はい」

 「頼む」

 小毬の表情が少しだけ緩んだ。

 「今の『頼む』は先輩です」

 「判定基準そこ?」

 「人に頼るようになったの、最近なので」

 反論できなかった。

 短いやり取りでも、自分で返す言葉を選ぶことが、今の玄兎には必要だった。

 通路の最奥に石扉があった。

 透羽が内部を確かめてから五人で開けると、その先には古い石室が広がっていた。

 壁一面に狼、狐、蛇、鳥、魚、人の顔を持つものまで何百という異形が描かれ、その全てが中央の円形基礎を向いている。

 絵は一つの時代に描かれたものではなかった。線の太さも、顔料の色も違う。古いものの上へ後世の誰かが描き足し、また別の誰かが補修した跡がある。それでも向いている先だけは同じだった。

 中央には直径二メートルほどの円形基礎が残っている。上に何かを載せていた金具は錆び、肝心のものだけが引き抜かれたように空いていた。

 怪異たちは基礎を囲み、同じ速度で歩き始めた。

 川沿いではまだ不揃いだった姿が、ここではいっそう均されて見える。四本脚も、二本脚も、そもそも脚のない影まで、中央を基準に同じ周期で動いていた。

 透羽が壁の汚れを水で落とす。

 「《帰巣壇》……『諸怪異、個別の帰路を一時鎮め、共通の標へ従わせ、睡眠層へ送る』」

 千燈が行列を見る。

 「今起きてること、そのままだね」

 「多数の怪異を一つの封印へ送るため、それぞれの帰りたい先を弱めて共通の標識だけを強くしたのでしょう」

 小毬が空気を嗅いだ。

 「ここです。先輩の奥と同じ匂いが、一番強い」

 玄兎の胸の痣が熱を持つ。

 「中央の標識が失われたあと、その機能だけが玄兎へ移った可能性があります」

 透羽の言葉に、玄兎は円形基礎を見る。

 自分そのものが怪異たちの巣なのではない。少なくとも、小毬が最深部で嗅いでいたのはこの設備と同じものだった。

 安堵しかけた時、天井から水が落ちた。

 ぴちゃん。

 床の細い溝へ入り、中央へ流れる。

 怪異たちが一斉に一歩進んだ。

 玄兎も。

 「……今、俺も動いた?」

 「はい」

 もう一滴。

 ぴちゃん。

 また全員が一歩進む。

 玄兎は床を見た。円形基礎から三方向へ伸びる溝へ、地下水が一定の間隔で流れ込んでいる。

 「透羽。これ、ずっと命令が出てる」

 透羽も水を走らせ、流れを読む。

 「……水滴が周期信号になっています。自然流入だけで術式が生き残っている」

 機械なら壊れて止まるはずの年月を、水だけが勝手に越えてきた。その単純さが、かえって不気味だった。誰かが今ここで操作しているのではない。昔作られた命令だけが、作った人間のいない場所でまだ働いている。

 「じゃあ昨日の変動で、弱ってたものが強く動き出した?」

 「可能性はあります。ただ、そこは記録を確認しないと断定できません」

 また、水が落ちる。

 ぴちゃん。

 玄兎の身体が中央へ一歩進んだ。

 今度は自分で止められなかった。

 円形基礎へ近づくほど、玄兎の中から「どちらがいい」という感覚が消えていった。

 記憶はある。小毬の名前も、透羽と初めて会った夜も、千燈に血を読まれたことも、依澄と食べたパンも覚えている。

 ただ、それらを大切だと思うための向きだけが平らになっていく。

 透羽が玄兎の前へ立った。

 「玄兎。こちらへ来てください」

 「ここでも同じだろ」

 小毬がすぐに首を振る。

 「同じじゃありません。先輩、普段は場所でも相手でも全然態度違うじゃないですか。講義では眠そうだし、私が食べすぎると引くし、怪異の前では怖いくせに平気なふりします」

 「最後余計じゃない?」

 思わず返すと、小毬がほんの少しだけ息をついた。

 まだ自分で返せる。

 しかし水滴が落ち、玄兎はまた一歩進んだ。

 片耳の黒猫も進む。その前足が一瞬だけ横へずれ、すぐ後ろの怪異に押し戻された。

 玄兎は、その小さな抵抗を見た。

 嫌だと思った。

 「透羽。これ止めたら、あいつらどうなる?」

 「強制指向は切れます。ただ、どこへ戻るかは個体ごとに確認が必要です」

 「危険なやつもいる?」

 「可能性はあります。ですが、今ここに集まっているのは低危険度として把握されていた個体が中心です」

 考えようとした玄兎の頭へ、別の考えが滑り込んだ。

 管理するなら、同じ場所へ送った方が簡単だ。

 怪異も迷わない。

 自分も中央へ立てばいい。

 「……それでいいんじゃないか」

 「先輩」

 「危なくないなら、ここへ帰せばいい。俺も標識なら、中央に立った方が早い」

 透羽が肩を掴む。

 「それはあなたが選んだ結論ですか」

 「どっちでも同じなら、簡単な方でいい」

 「同じではありません。あなたが、違いを選べなくなっている」

 何をそんなに怒っているのか、一瞬分からなかった。

 透羽が自分を止めようとしていることは理解できる。小毬が怖がっていることも見える。なのに、それを大切なこととして受け取る方向だけが薄い。

 感情が消えているわけではない。むしろ、そこにあるはずの重みだけを抜かれている。

 そのことが、玄兎には怖かった。

 小毬が玄兎の正面へ回る。

 もう食べ物も、帰り先も訊かなかった。

 「先輩。一つだけ答えてください」

 玄兎は小毬を見る。

 「今、自分で選びたいですか」

 簡単な問いのはずなのに、答えようとすると鈍い抵抗が広がる。

 選ばなくていいなら楽だ。

 誰かが決めた一つへ従えば、迷わなくていい。

 「……選ばなくていいなら、その方が」

 そこで、黒猫がまた前足を横へ出した。

 ほんの数センチ。それでも列から外れようとした動きだった。

 すぐに押し戻される。

 嫌だ。

 魚屋跡へ戻りたいのか、ただこの列から外れたいのか、玄兎には分からない。それでも、その個体が自分で向きを変えようとしたことまで消されるのは嫌だった。

 自分の中でも、同じものが消えかけている。

 玄兎はゆっくり息を吸った。

 「……選びたい」

 声に出した途端、胸の奥に小さな痛みが戻った。選べば迷う。選べば間違える。誰かを選べば、選ばなかった方が残る。

 面倒で、怖くて、それでもその面倒まで自分のものだった。

 小毬は急かさない。

 「面倒でも、間違ってもいいから、自分で決めたい」

 小毬の目元から、少しだけ緊張が抜けた。

 「じゃあ、もう一つだけ。今、私たちと一緒に帰りたいですか」

 玄兎は四人を見る。

 命令された場所へ戻るのではない。大学へ戻って、飯を食べて、明日また会う。その先を、自分で選びたい。

 「みんなと帰りたい」

 言い切ってから、玄兎はようやくその言葉に自分の重さが戻ったのを感じた。

 透羽の手から力が抜け、千燈が静かに笑った。依澄は玄兎の袖を握ったまま頷く。

 「今の玄兎」

 「うん」

 また水滴が落ちる。

 足が一歩進みかける。

 玄兎は歯を食いしばり、自分で止めた。

 「俺から、選ぶことまで取るな」

 帰る先を決められることより、その指定へ逆らいたいとさえ思えなくなることの方が、ずっと怖かった。

 その一言だけは、自分で選んだ。

 「帰巣壇を止めます」

 透羽が決断した。

 「止めたあとの個体は一体ずつ確認します。今は、この壊れた設備が全員を強制的に集めている状態を切る方が先です」

 玄兎は頷いた。

 透羽は床の三本の溝を見る。

 「周期信号を同時に遮断します。玄兎は中央から離れてください。あなたがここにいれば、代わりの標識として固定される可能性があります」

 玄兎は足を動かそうとした。

 重い。

 中央へ行きたいのではない。「どこでもいい」という無関心が、外へ出る理由を薄くしている。

 小毬が手を差し出した。

 「先輩」

 「引っ張って」

 「はい」

 小毬が握り、依澄が反対側の袖を掴む。千燈も後ろへ回った。

 「三人がかり?」

 「今は自力で格好つける場面じゃないよ」

 「分かってる」

 玄兎は少し笑った。

 四人で中央から距離を取る。その間に透羽は床へ片膝をつき、指先から三本の細い水流を走らせた。

 古い溝を壊すのではない。流れてくる地下水だけを受け止め、三方向すべてで同時に中央への到達を止める。一本でも残れば、そこへ信号が集中するかもしれない。

 玄兎たちが基礎から離れたのを確認して、透羽が水流を押し返した。

 ぴちゃん。

 地下水が落ちる。

 今度は中央へ届かない。

 怪異たちの足が止まった。

 「《禊牢》」

 白い水の輪が円形基礎だけを囲み、刻まれた術式を覆っていく。

 『かえる』

 重なった声が揺らいだ。

 最初に片耳の黒猫が首を傾げた。

 前足を一度舐め、それから列を外れる。

 「戻った」

 小毬が呟く。

 続いて白い犬が身体を震わせ、水面を蹴るような癖を取り戻す。片翼の鳥は歩調を捨て、不器用に羽ばたいた。子供の足跡は円から外れて壁際を走り、顔のない老人はその場へ座り込んだ。

 誰も同じ方向を見なくなった。

 何十もの怪異が、歩くもの、飛ぶもの、動かないものへとばらばらになった。

 それが正常に見えた。

 「……こんなに違ったんだ」

 「最初から違いました」

 小毬が答える。

 「途中で揃えられてただけです」

 玄兎の痣から熱が引くのと同時に、平らだった感覚へ小さな凹凸が戻ってきた。

 喉が渇いた。冷たいブラックコーヒーが飲みたい。夕飯はハンバーグがいい。小毬には泣かないでほしい。透羽には隣にいてほしい。千燈には今だけ少し静かにしてほしいし、依澄には袖を掴むならもう少し弱くしてほしい。

 くだらない好みが戻ってくることが、今は嬉しい。

 玄兎は思わず笑った。

 「何ですか」

 透羽が訊く。

 「選べるって、結構うるさいなと思って」

 「それが普通です」

 依澄はまだ玄兎の袖を持っている。

 「離す?」

 「今はそのままで」

 玄兎が選んで答えると、依澄は満足そうに頷いた。

 地上へ戻る頃には、片耳の黒猫は八坂通りの方角へ消えていた。数時間後、鷺宮家の観測班から、以前と同じ魚屋跡の庇で丸くなっていると連絡が来る。

 白い犬は元々観測されていた支流へ戻り、片翼の鳥も以前の送電線付近へ移った。反対に、どこへ行くのか読めない個体、人へ近づきすぎる個体もいる。そうしたものは「自由になったから安全」と決めつけず、その場で記録して個別対応へ回した。

 「全部を一つへ戻さなくてもいいのかもしれないな」

 玄兎が言うと、透羽はすぐには頷かなかった。

 「今日確認できたのは、もともと各地域で安定していた個体が、旧設備に行き先を上書きされていたことまでです。《百獣繭》全体へ同じ結論を広げるのはまだ早いです」

 「そっか」

 「はい。でも、この結果は残します」

 大きな答えまで急いで作らない。

 今はそれで十分だった。

 夕方、五人は大学近くのファミリーレストランへ入った。

 玄兎が席へ着くなり、小毬がメニューを二枚並べる。

 「先輩。ハンバーグと焼き魚定食」

 「ハンバーグ」

 即答すると、小毬の顔が明るくなった。

 「明日のお昼、私たちと食べます?」

 「食べる」

 「よし」

 「検査されてる?」

 「選べるか確認してます」

 「最後は選択肢ですらないけど」

 「大事です」

 千燈が笑う。

 依澄が玄兎の袖を軽く引いた。

 「私は?」

 「何が?」

 「明日、会いたい?」

 玄兎は少しだけ考えた。考えてから答えられることが、今は嬉しい。

 「会いたい」

 依澄は満足そうに頷いた。

 「じゃあ私からも一問――」

 「余計な検査を増やさないでください」

 透羽が即座に止めた。

 玄兎は四人を見る。

 数時間前は、この四人と一緒にいることさえ「どちらでもいい」と感じていた。記憶から消えたわけでも、嫌いになったわけでもない。ただ、自分から選ぶ向きだけが失われていた。

 思い返すほど気味が悪い。

 「玄兎。まだ違和感がありますか」

 「今は大丈夫。むしろ、選びたいことが多くて困る」

 「例えば?」

 玄兎はメニューを見る。

 「ハンバーグに目玉焼きを追加するか」

 透羽がほんの少し笑った。

 「それなら問題なさそうです」

 「判断基準が平和だな」

 「平和な方がいいです」

 玄兎も素直に頷いた。

 食事のあと、共有ノートには今日の事実だけを残した。

『旧《帰巣壇》を確認。個別の帰巣指向を弱め、共通の標へ誘導する旧式機構。』
『玄兎に残る標識反応と同調し、記憶ではなく選択・指向へ干渉した可能性あり。』

 玄兎はその下へ、自分の言葉で一行書いた。

『標識が行き先を示すことと、俺がそこへ行きたいことは同じじゃない。選べなくなったら、また聞いてほしい。』

 小毬がすぐ横へ書き足す。

『何回でも聞きます。』

 千燈は少し考えてから続けた。

『便利な仕組みほど、使われる側の都合を忘れやすい。本人が嫌だと言えなくなる仕組みなら、なおさら。』

 透羽はその一文をしばらく見つめた。

 依澄は最後に短く、

『玄兎は、みんなと帰りたいと言った。』

と書いた。

 それ以上は、もう書かなくても分かった。

 同じ夜。

 鷺宮家の古い記録庫で、透羽は《帰巣壇》の資料を探していた。

 昼に撮った石室の写真と旧字、水路構造を照合し、やがて古い資料へ辿り着く。

『百獣繭前身封印・帰巣機構』
『帰巣標識は本来、固定壇へ付与』
『破断時、緊急措置として外部器へ転写可能』

 さらに下。

『二十年前の破断事故において、外部器・鵺代玄兎へ帰巣標識を転写』

 昼の推測が、初めて記録で裏づけられた。

 透羽は続きへ目を移す。

『注意』
『帰巣標識は器人格と同一ではない』
『標識反応をもって、器本人を怪異または封印本体と判定してはならない』

 透羽は長く息を吐いた。

 昼間、石室で玄兎がほんの少し安堵した顔を思い出す。あの時はまだ推測しか渡せなかったが、今度は記録がある。

 自分の最深部そのものが怪異なのではないかと怖がっていた玄兎へ、早く知らせたかった。

 しかし、続きには別の注意がある。

『長期運用時、標識と器人格の境界が不鮮明化する場合あり』

 その先は黒塗りだった。

 別紙を開く。

『人格固定因子:対人関係、生活習慣、自己選択の反復』
『外部からの継続的識別は、人格境界維持に有効』

 透羽の脳裏に、昼の石室が浮かぶ。

 小毬が答えを教えるのではなく、玄兎自身に「選びたいか」と訊いたこと。玄兎が「みんなと帰りたい」と自分で選び直したこと。四人で彼を中央から引き離したこと。

 少なくとも、ただの気休めではなかったらしい。

 透羽は一人で抱え込まず、五人のグループチャットを開いた。

『《帰巣壇》の記録が見つかりました。帰巣標識は、玄兎本人の人格や正体とは別の機能だと明記されています。』

 玄兎からすぐに返事が来る。

『よかった。』

 続けて、小毬。

『やっぱり先輩は先輩です!』

 依澄。

『玄兎は道じゃなくて玄兎。』

 透羽はもう一つの記録も隠さず送った。

『ただし長期運用では、標識と人格の境界が曖昧になる場合があります。対人関係、生活習慣、自己選択、外から今の本人を識別し続けることが、境界維持に有効とあります。』

 少し間を置いて、玄兎から届いた。

『じゃあ、これからも頼む。』

 小毬がすぐ返す。

『何回でも見つけます。』

 千燈。

『選べなくなった時は、嫌になるくらい聞くよ。』

 依澄。

『明日も会う。』

 透羽が『はい』と送信した直後、別の通知が画面上部へ現れた。

『鷺宮家当主より、鷺宮透羽へ出頭要請』
『議題:外部器・鵺代玄兎への私的関与について』

 透羽は通知を開いた。

 数時間前、千燈が共有ノートへ残した言葉が頭をよぎる。

 ――便利な仕組みほど、使われる側の都合を忘れやすい。

 透羽は画面を閉じず、その通知をしばらく見つめていた。

――第十九話・了

👥 登場人物紹介ネタバレを抑えた基本プロフィール
鵺代玄兎

CHARACTER 01

鵺代玄兎

ぬえしろ げんと

現実的で、妙な状況でもまず話を整理しようとする常識人寄りの青年。突然の怪異や騒動には戸惑いながらも、困っている相手を放っておけない。深刻な場面でも自然にツッコミが出るタイプ。

  • 物語の主人公
  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 常識人寄りのツッコミ役
俺が何者でも、困ってる人を置いていく理由にはならない。
鷺宮透羽

CHARACTER 02

鷺宮透羽

さぎみや とわ

冷静で生真面目。怪異への警戒心が強く、必要なことははっきり言う。危険な場面では自分が前に出ようとする、責任感の強い少女。

  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 鷺宮家の退魔師
  • 礼儀正しいがやや堅い
私が間に合う時は、あなたを死なせません。
緋鴉千燈

CHARACTER 03

緋鴉千燈

ひがらす ちとせ

余裕のある笑みを浮かべ、人をからかうのが上手な先輩。自然に距離を詰めてくる、つかみどころのない雰囲気を持つ。

  • 玄兎たちの先輩
  • 赤褐色の瞳
  • 人をからかうのが得意
秘密って、暴くより自分から話してもらう方が面白いよ。
白狼院小毬

CHARACTER 04

白狼院小毬

はくろういん こまり

明るく人懐っこい一年生。気になったことはすぐ口にし、匂いを確かめることに夢中になると相手との距離感まで忘れがち。

  • 朽木ヶ丘大学の一年生
  • 非常に鋭い嗅覚
  • 人懐っこく表情豊か
匂いは嘘をつきません。だから、何度でも見つけます!
蝶ヶ森依澄

CHARACTER 05

蝶ヶ森依澄

ちょうがもり いすみ

静かで穏やか、言葉数は少なめ。初対面からどこか不思議な印象を残し、感情表現は控えめだが答え方は率直。

  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 淡い青紫の瞳
  • 物静かでマイペース
今日が初めてなら、明日また会えばいい。

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