翌朝、鵺代玄兎は大学へ向かう前に、白狼院小毬から「十分だけ時間をください」と呼び出された。
待ち合わせ場所は、朽木ヶ丘大学から歩いて五分ほどの小さな公園だった。朝のうちはまだ人が少なく、滑り台もブランコも静かなままだ。湿った夏の風が木々を揺らし、その隙間から蝉の声だけが降ってくる。
玄兎がベンチの前へ着くと、小毬はすでに立って待っていた。
「おはよう」
「おはようございます!」
返事はいつも通り元気だった。しかし、表情には昨夜のメッセージを送った時と同じ緊張が残っている。
「昨日言ってた、俺の匂いが増えてるって話?」
「はい。もう一度、ちゃんと確認したいです」
「分かった」
小毬は玄兎の周りをゆっくり一周した。
玄兎は黙って立っていたが、二周目に入ったところで耐え切れずに口を開く。
「改めてやられると、検疫されてるみたいだな」
「犬じゃないです。狼です」
「今日は犬って言ってない」
「先に言っておきました」
「用意がいいな」
小毬は正面へ戻ると、玄兎を見上げた。
「先輩。もう少し近くてもいいですか」
「調査なら」
「調査です」
ほとんど間を置かずに答えたものの、小毬自身も距離を詰めた瞬間に少しだけ頬を赤くした。
彼女の鼻先が玄兎の肩口へ近づく。
「動かないでください」
「分かってる」
「緊張してます?」
「十九歳の女の子に首元の匂い嗅がれて平気な方が怖いだろ」
「……そういうこと言うんですね」
「俺が悪いみたいにするな」
小毬は照れを追い払うように一度息を吸い、それから《狼域》へ意識を集中した。
彼女の嗅覚は、単に人より鼻が利くという程度ではない。
玄兎が今朝飲んだブラックコーヒーと、食パンや卵の匂い。いつものシャンプーや洗剤、大学へ来る前に触れた共有ノートの紙とインク。小毬は、そうした日常の細かな匂いを一つずつ別の情報として拾っていく。
「今朝、ブラックコーヒー飲みました」
「飲んだ」
「トーストと卵」
「正解」
「昨日の夜、共有ノート触りましたね」
「紙の匂いまで分かるの?」
「インクも少し」
「便利だけど怖いな」
「褒めてください」
「すごい」
「はい!」
少し嬉しそうに笑ったあと、小毬はすぐに真顔へ戻った。
「でも、それとは別にあります」
「増えた匂い?」
「はい。怪異が先輩の匂いを真似してるんじゃありません。そこが怖いです」
「全部、俺に感じる?」
「はい」
小毬は言葉を探すように、玄兎の胸元へ視線を落とした。
「一つは、今ここにいる先輩です。今朝のコーヒーとか、今日の服とか、今の体温が混ざってる」
「うん」
「もう一つは、ほとんど同じなのに、今日の匂いがないです。昨日より前の先輩を、そのまま薄く重ねたみたいな感じ」
「昔の俺?」
「たぶん」
「それがいくつある?」
「昨日は三つに感じました。今日は少なくとも四つあります」
「増えてるな」
「はい」
玄兎は自分の腕を見た。
皮膚も指紋も爪も、昨日までと何も変わっていない。自分自身には、身体が何層にも重なっている感覚などまったくなかった。
「《還月》に関係してるのかな」
「可能性はあると思います」
小毬は慎重に答えた。
《還月》との関係はありそうだったが、記録だけでは何が何回残ったのかまでは分からない。
「原因はまだ分からない。でも全部、俺自身の情報に感じるんだな」
「はい」
小毬は玄兎をまっすぐ見上げた。
「だから、ちゃんと今の先輩を見つけたいです」
「見つけられる?」
「見つけます」
「自信あるな」
「群れなので」
「またそれ」
「でも今回は、それだけじゃありません」
「何?」
小毬は一瞬だけ視線を逸らし、それでもすぐに玄兎へ戻した。
「好きな人なので」
玄兎の返事が少し遅れた。
「朝から強いな」
「昨日、千燈先輩がかなり進みましたから」
「競争じゃないぞ」
「分かってます」
「本当に?」
「……たぶん」
「たぶんなんだ」
小毬は小さく笑った。
「でも、本気です」
玄兎は少し考えてから頷いた。
「分かった。小毬がそう思ってること、忘れない」
「はい」
満足そうに頷いた小毬は、そこでさらに一歩近づいた。
「次は心拍も確認します」
「心拍?」
「匂いだけじゃなくて、今の先輩の音も覚えたいです。《狼域》なら服の上からでも聞こえます」
「そこまでやるの?」
「必要です」
小毬は玄兎の胸へ耳を寄せようとして、途中でぴたりと止まった。
「……先輩」
「何」
「これ、かなり近いです」
「今さら気づいた?」
「今気づきました」
「やめる?」
小毬は数秒だけ迷った。
「やります。調査なので」
「便利だな、調査」
玄兎が動かずにいると、小毬はそっと耳を胸元へ当てた。
薄いシャツ一枚を隔てた向こうから、規則的な心音が伝わってくる。とくん、とくん、と一定の間隔を刻んでいるのに、普段よりわずかに速い。小毬には、その速さだけでなく、息を吸った時に胸郭が持ち上がる微かな振動や、喉の奥で呼吸が擦れる音まで聞き取れた。
今この瞬間、胸の内側で鳴っている音は一つだけだった。
小毬は目を閉じたまま、その音を記憶するようにしばらく耳を澄ませた。
「先輩」
「何?」
「ちょっと速いです」
「言わなくていい」
「私も速いです」
「それも言わなくていい」
玄兎の声にも、わずかな照れが混じっていた。
小毬は小さく笑ったものの、すぐに表情を引き締めた。ふざけるために近づいたのではない。今聞いているものを、本当に覚えておきたかった。
「これが今日の先輩の音です」
「昨日とはそんなに違う?」
「少しずつ違います。寝不足なら速くなるし、緊張しても変わるし、走ったあとも違う。だからいいんです」
「どうして?」
「昔の先輩の匂いが何人分重なっても、今ここで生きてる先輩の音は今しかないからです」
小毬は胸元から耳を離し、少しだけ名残惜しそうに玄兎を見上げた。
「匂いだけじゃなくて、音も、今日触ったものも、今しゃべったことも。そういうのを全部合わせて、私は今の先輩を覚えます」
「そこまで覚えるの?」
「はい」
「忘れない?」
「忘れません」
迷いのない答えだった。
玄兎はすぐには答えられなかった。
好意を知っているからこそ簡単には応えられない。それでも、今ここまで真剣に自分を覚えようとしている小毬を、ただの後輩として受け流すこともできなかった。
玄兎は困ったように視線を逸らした。
「先輩」
「何」
「また心拍上がりました」
「だから言わなくていいって」
その時、公園の入口から聞き慣れた声が飛んできた。
「……何をしているのですか」
玄兎と小毬が同時に振り向く。
鷺宮透羽が立っていた。その隣には緋鴉千燈と蝶ヶ森依澄までいる。
「おはよう」
千燈が楽しそうに笑う。
「朝からかなり近いねえ」
「調査です!」
小毬は勢いよく玄兎から離れた。
「何の調査ですか」
透羽の声は静かだった。
「玄兎先輩の匂いと心拍です!」
「心拍まで?」
「はい!」
依澄が玄兎を見る。
「私も聞く?」
「聞かなくていい」
「恋人は心音を聞く?」
「場合による」
「また便利」
「今日はそれで逃げる」
千燈が笑いを堪えながら言った。
「小毬ちゃん、一歩進んだね」
「はい!」
「競争ではありません」
透羽が静かに釘を刺す。
「でも透羽先輩、少し怖い顔です」
「通常です」
玄兎は思わず笑った。
「便利だな、それ」
「玄兎」
「はい」
◇
五人はそのまま学食へ移動した。
小毬が見つけた「複数の玄兎の匂い」について詳しく説明すると、今度は誰も冗談で流さなかった。
透羽は昨夜までの《還月》関連記録を端末で確認し、千燈は玄兎へ近づきすぎない距離から顔色や動きを観察する。依澄は何度か目を閉じ、玄兎の周囲へ意識を向けていた。
「依澄。何か分かる?」
「夢じゃない」
「じゃあ何?」
「重なってる感じがする」
依澄は二本の指を少しずらして重ねた。
「同じ絵を何枚も重ねてるみたい。でも全部、玄兎」
「小毬と同じか」
透羽が端末から目を上げる。
「既存の経過観察記録には、再構築後の身体機能は正常としか書かれていません。記憶欠損については記録がありますが、身体情報の多重化については確認できません」
「匂いなんて普通の検査項目じゃないしね」
千燈がそう指摘すると、透羽も頷いた。
「はい。小毬だから気づけた可能性があります」
小毬の顔が少し明るくなる。
「役に立ってます?」
「かなり」
「はい!」
「褒められるとすぐ元気だな」
玄兎が呆れながら笑う。
「先輩も褒めてください」
「さっき褒めた」
「もう一回」
「すごい」
「はい!」
その反応があまりに素直で、千燈は楽しそうに笑った。
「安いねえ」
「無料です!」
「そういう意味じゃないよ」
その時、玄兎のスマートフォンが震えた。
大学の施設管理課から一斉通知が届いている。
『北講義棟周辺で学生証認証機器の誤作動が発生しています。同一IDの重複検出が複数確認されているため、復旧まで職員の案内に従ってください。』
五人の間から笑いが消えた。
「同一IDの重複」
玄兎は通知文を読み返しながら、小さく呟いた。
「嫌なタイミングだね」
千燈も同意する。
その瞬間、小毬が立ち上がった。
「先輩」
「増えた?」
「違います」
小毬は北講義棟の方向を見た。
「向こうから、先輩の匂いがします」
「俺、ここにいるけど」
「はい」
小毬の表情が強張る。
「別の玄兎先輩の匂いが、大学の中を歩いてます」
◇
北講義棟へ近づくほど、小毬の顔は険しくなっていった。
「距離は?」
玄兎が周囲を警戒しながら尋ねると、小毬は空気の流れへ意識を集中した。
「右へ百メートルくらい。一人、ゆっくり歩いてます」
「一人?」
小毬は少し立ち止まり、もう一度空気を確かめた。
「……左にもいます」
「二人?」
「もう一人、上の階にも」
小毬は玄兎を見た。
「今ここにいる先輩を入れると、六人です」
「増え方がおかしいな」
北講義棟の入口では、学生証ゲートを開放し、職員が目視で学生を通していた。
玄兎の顔を見るなり、職員が首を傾げる。
「あれ? 鵺代、お前さっき二階へ行かなかったか?」
五人の表情が変わる。
「俺、今来ました」
「いや、確かに見たと思うんだが……」
「服は?」
「そのまま。黒いシャツだった」
「顔も俺?」
「たぶん。何だ、双子でもいたか?」
「いません」
透羽が一歩前へ出た。
「少し確認してきます」
職員へ短く頭を下げ、五人は中へ入った。
「見えてるんだな」
玄兎が先ほどの職員を振り返りながら言った。
「少なくとも一部の人には。ただし、職員の認識が曖昧でした」
透羽は先ほどの職員の様子を思い返しながら答えた。
「昨日の依澄とは逆かもしれない」
依澄が静かに言う。
「本当は一人なのに、複数いることを世界が変だと思ってない」
「それも怖いな」
廊下を進んでいた小毬が突然、玄兎の腕を掴んだ。
「止まってください」
「何?」
「前にいます」
廊下の先にある階段の踊り場へ、一人の男が静かに立っていた。
男は黒い髪に黒いシャツという玄兎と同じ姿をしており、身長も顔も変わらない。ただし、表情だけが少し違っていた。
照明が一度ちらつく。その短い暗闇のあいだに、男は一段ぶん近づいていた。足音はしなかった。もう一度明かりが揺れると、今度は顔の向きだけが変わり、首から下を動かさないまま小毬を見ていた。
玄兎が右手を上げると、男も同じ手を上げた。ただし、鏡映しではない。玄兎と同じ右手だった。指の曲がり方も、手首に残る薄い傷も一致している。自分の身体から剥がれた影が、立体になって先回りしていたように見えた。
今の玄兎より、感情が薄い。
「……俺」
玄兎は自分と同じ顔を見つめ、信じられないというように呟いた。
向こうもこちらを見る。
「鵺代玄兎」
声まで同じだった。
「誰だ」
「鵺代玄兎」
「それは俺」
「俺もそうだ」
小毬は玄兎の腕から手を離さなかった。
「違います」
コピーが小毬を見る。
「何が?」
「あなたは今の先輩じゃない」
「匂いは同じだろ」
小毬の表情が僅かに揺れた。
「ほとんど同じです」
「なら、俺が本物でもおかしくない」
「止まってください」
透羽が二人の間へ水の膜を広げる。
「あなたは何ですか。名前以外で答えてください」
コピーは少し考えるような顔をした。
「大学二年。ブラックコーヒーが好き。料理はそこそこ。痛いのは嫌いだが、誰かが傷つくなら自分が代わった方がいい」
玄兎の表情が変わった。
「昔の俺だ」
「今も同じだろ」
「違う」
「死んでも戻る」
「記憶が消える」
「それでも戻る」
「俺は嫌だ」
玄兎ははっきりと言った。
「今は、死ぬのが怖い。忘れたくない」
コピーは黙った。
小毬は二人を交互に見る。
「分かりました」
「何が?」
千燈が小毬の表情を見ながら尋ねた。
「匂いだけなら、ほとんど同じです。でも今の先輩とは違います」
「どうして分かる」
コピー自身が尋ねる。
小毬は迷わなかった。
「今の先輩は、怖いって言えます」
玄兎の胸が少し動いた。
「前の先輩は、怖くても自分で何とかしようとしてました。でも今は、必要なら『手伝って』って言う」
「……」
「千燈先輩に大事だって言われても、危ないからって逃げなかった」
「小毬、そこまで言わなくても」
「重要です!」
「そうだけど」
小毬はコピーへ向き直った。
「匂いが同じでも、今日まで選んできたことが違います」
「選んだこと?」
「はい。先輩は毎日少しずつ変わってます」
小毬は玄兎を見る。
「昔と同じ匂いがしても、昔と同じ人じゃありません」
「それ、褒めてる?」
「褒めてます」
「そっか」
コピーは小さく「昔の俺」と繰り返した。
その輪郭が僅かに揺らぐ。
透羽が《水鏡》を広げる。
「怪異の模倣というより、玄兎本人の情報に近い反応です」
「残留した人格情報?」
千燈が水鏡の中のコピーを見ながら問い返した。
「可能性はあります」
コピーは玄兎を見る。
「俺が消えるのは怖くない?」
「俺は怖い」
玄兎は正直に答えた。
「だから、お前が昔の俺なら、いたことまで消さなくていいと思う」
「なら、俺は何だ」
「まだ分からない。でも、今の俺の代わりではない」
コピーは少しだけ目を伏せた。
その時、廊下の奥からもう一人の玄兎が歩いてきた。
◇
それから一時間ほどで、合計七人の「玄兎」が見つかった。今の玄兎を含めれば八人になる。
顔も声も身体つきも同じで、遠目では小毬以外にはほとんど見分けがつかない。けれど話してみれば、全員が少しずつ違っていた。
一人は、状況を聞くなり当然のように言った。
「他の人を帰して。俺が残ればいい」
「それを今の玄兎が言ったら、私は怒ります」
透羽が即座に返す。
「なぜ。俺は戻る」
今の玄兎は顔をしかめた。
「その言い方、今は嫌いだ」
別の一人は透羽を見ても、鷺宮家の監視役としてしか認識していなかった。
「必要以上に信用しない方がいい」
「今は違う」
玄兎は迷った末に続ける。
「透羽は、俺が帰ってきてほしいと思う人の一人だ」
透羽の目が僅かに揺れた。
三人目は、小毬から真っ直ぐ「好きです」と言われても、困ったように笑った。
「ありがとう。いい後輩だと思ってる」
「違います!」
小毬が本気で怒鳴り、今の玄兎は横で気まずそうに目を逸らした。
ほかの個体にも、依澄を怪異として強く警戒する者、千燈へ簡単に血を渡そうとする者、「自分から離れた方がみんなは安全だ」と決めつける者がいた。
どれも、玄兎には心当たりがあった。
否定したくなる考え方ばかりなのに、その時々には本気でそう思っていた自分だ。偽物として切り捨てるには、癖も判断もあまりに自分自身だった。
その一方で、今はもう選ばない答えもはっきり分かる。
「全部、先輩です」
小毬は七人を順に見てから、今の玄兎へ戻った。
「でも、今の先輩なら言わないことがたくさんあります」
「それでも俺、分かる?」
「はい」
小毬は迷わず答えた。
「匂いだけじゃなくて、今日まで何を選んできたかも覚えてます」
玄兎は七人の自分を見回した。
左肩を引く癖も、怖い時ほど声が静かになる癖も同じだ。それでも、自分は彼らの続きにいるのであって、彼らのどれかへ戻るわけではない。
透羽も《水鏡》の反応を確認した。
「この七人を、七回の死亡や再構築と対応させることはできません。今分かるのは、玄兎本人の過去の身体・人格・認知情報に非常に近い、ということだけです」
その時、一人のコピーが突然、廊下の奥へ顔を向けた。
「来る」
「何が?」
答えが返る前に、床が低く揺れた。
地下から、巨大なものが身じろぎしたような鈍い振動が伝わる。
透羽の顔が変わった。
「封印系の反応です」
七人のコピーが一斉に同じ方向を向く。
『戻る』
声が重なった。
小毬の表情が強張る。
「全部の匂いが地下へ引かれてます。帰ろうとしてるみたいに」
玄兎の胸の痣まで熱を持った。
『器』
『還る』
『戻れ』
耳の奥で声が響く。
気づけば玄兎自身も、地下へ続く階段の方へ一歩踏み出していた。
「玄兎!」
透羽が腕を掴む。
玄兎は自分の足元を見て息を呑んだ。
「小毬。止めて」
「はい。止めます」
小毬が反対側の腕を掴む。
コピーたちは次々と階段へ向かい始めた。最初に出会った一人だけが、玄兎の呼びかけに振り返る。
「戻るだけだ。身体は知ってる」
「知ってても、俺が行きたい場所じゃない」
コピーの足が一瞬止まった。
小毬は階段の先を見据える。
「全部の先輩が同じところへ集まるなら、原因もそこにあります」
「行きます。ただし全員で」
透羽が言う。
玄兎は四人を見て、今度は自分から頼んだ。
「手伝って」
「はい!」
小毬の返事はすぐだった。
◇
北講義棟の地下には、現在は使われていない古い管理通路が残っていた。
透羽が大学と鷺宮家へ緊急連絡を入れ、施設管理職員に最初の扉まで案内してもらう。
「この先は昔の給排水設備くらいしかありません。普段は閉鎖しています」
「ありがとうございます。ここからは専門対応します」
職員が戻るのを確認してから、小毬が先頭へ出た。
「七人分、全部こっちです」
「俺は何人目?」
「今の先輩は後ろです」
「よかった」
「匂いだけなら八人の先輩です」
「玄兎くんだらけの地下って嫌だなあ」
千燈が半ば本気で嫌そうな顔をしながら言った。
「本人も嫌だよ」
依澄は少し考えた。
「玄兎が八人なら、恋人候補も八人?」
「増えない」
玄兎が即答する。
「残念」
「何が」
緊張した状況でも、そんな会話があるだけで現実から切り離されずに済む。
通路へ入ると、空気が一段冷たくなった。
湿ったコンクリートと錆びた鉄の匂いが濃い。壁には何十年も前の配管番号が薄く残り、天井から落ちる水滴が一定の間隔で床を叩いている。人が使わなくなって久しい場所なのに、奥のどこかでは低い機械音のような振動が続いていた。
小毬は先頭を歩きながら、ときどき足を止めて匂いを拾う。
「七人とも同じ方向です」
「距離は?」
「だんだん重なってきてます。奥で一つになろうとしてるみたい」
その言い方が嫌だった。
玄兎は自分の胸へ手を当てる。痣はまだ熱くない。それでも身体の深いところで、何かがこちらを呼んでいるような落ち着かなさがあった。
やがて床の排水溝が見えた。
本来なら出口へ向かって流れるはずの水が、傾斜に逆らって奥へ進んでいる。小さな泡まで逆向きに運ばれ、建物全体の水が地下の一点へ吸い込まれているようだった。
「以前の地下封印異常と似ています」
透羽がしゃがみ込み、水へ指先を触れる。
触れた瞬間、透羽の顔が僅かに強張った。
「流れは冷たいのに、霊的な圧だけが熱い。通常の地下水ではありません」
「《百獣繭》?」
「まだ断定しません。ただ、封印系統の支流である可能性は高いです」
千燈が周囲を見回す。
「嫌な場所だね。音が少なすぎる」
言われて玄兎も気づいた。
大学の足音も、車の音も、蝉の声さえ届かない。五人の呼吸と、逆流する水音しかない。
依澄が小さく玄兎の袖をつまんだ。
「何?」
「ここ、夢じゃないのに夢の入口に似てる」
「嫌な情報ありがとう」
「どういたしまして」
「褒めてない」
「知ってる」
そのやり取りに、小毬が一瞬だけ笑った。
しかし次の瞬間には、鼻を利かせて前を向く。
「近いです」
通路の突き当たりに、古い円形の鉄扉があった。
錆で赤黒く変色した表面には、大学施設の管理番号とは別に、細い墨で何重もの術式が書き込まれている。一般の設備ではない。
透羽が息を呑んだ。
「鷺宮家の旧式封印です」
「開けて大丈夫?」
「すでに内側から破られています」
よく見ると、扉の合わせ目が数センチだけ開いている。
小毬が鼻を動かす。
「七人とも中です」
玄兎は一度、四人を見た。
「入る?」
「全員で」
透羽が迷いなく答える。
「はい」
小毬もすぐに頷いた。
「もちろん」
千燈も穏やかに続く。
「うん」
依澄も短く答えた。
玄兎は頷き、扉へ手をかけた。
金属の擦れる重い音が、地下通路へ長く響く。
設備室は円形だった。
壁沿いには古い配管と壊れた計測器が並び、中央だけが不自然に広く空いている。七人のコピーは、その中央を囲むように等間隔で立っていた。
彼らの視線の先に、一本の石杭が突き立っている。
高さは玄兎の腰ほど。黒い紋様がびっしり刻まれ、長い年月の間に何度も水へ濡れたように表面が鈍く光っていた。
透羽の顔が強張った。
「鷺宮家の封印杭です」
「いつ頃の?」
「少なくとも二十年以上前」
「俺が生まれた頃」
「可能性はあります」
七人のコピーが石杭へ近づいた。
『戻る』
石杭の周囲に黒い水面のようなものが広がる。
そこに映ったものを見た瞬間、玄兎は息を止めた。
黒い水面には無数の玄兎が映っていた。幼い玄兎、少年の玄兎、大学生らしい玄兎と、年齢も状態も少しずつ違っている。
年齢が違うように見えるものもあれば、今とほとんど変わらないものもある。
水面は部屋の天井を映していなかった。その奥には別の部屋、そのさらに奥にも同じ部屋が重なり、どの階層にも玄兎が立っている。数えようと視線を動かすほど奥行きが増し、幼い姿は赤ん坊へ、老いた姿は骨だけの輪郭へと枝分かれしていった。
中には胸を貫かれたまま立つ玄兎もいた。濡れた服から黒い血を垂らし、口だけを動かしている。声は水面を越えてこないが、唇は確かに「次はお前だ」と形を作っていた。
別の玄兎は、四人の名前を順番に呼ぼうとしていた。透羽までは言える。千燈も、小毬も言える。だが依澄のところで口が止まり、困惑した顔のまま何度も最初からやり直す。そのたび、忘れられた名前の場所だけ水面が黒く腐っていった。
「小毬」
玄兎は目を逸らさずに訊いた。
「匂いは?」
小毬の顔から血の気が引いている。
「多すぎて、数えられません」
「全部俺?」
「全部、玄兎先輩の匂いです」
玄兎は思わず半歩下がった。
透羽が《水鏡》を広げた。黒い水面に浮かぶ像を確かめるほど、その反応は怪異の模倣より玄兎本人に近い。
「中央側に残った身体・認知・人格情報の断片だと思います。ただし、ここに見える数を再構築回数として数えることはできません」
「ここが俺を作る元データってこと?」
「そこまでは断定できません。今は、残った情報が異常に表へ出ている、と考えるだけにしてください」
説明が終わる前に、七人のコピーが黒い水面へ歩き始めた。
小毬の顔色が変わる。
「止めます。今の先輩の匂いまで薄くなってます」
「俺も引っ張られてる?」
「分かりません。でも、嫌です」
小毬は玄兎の前へ出た。
「今度は私が見つけます。だから手伝ってください」
「何をすればいい?」
「今のことを話してください。昔の先輩が知らない、今日の先輩を」
玄兎は一度、息を吸った。
「怖い。できれば逃げたい」
「はい」
「でも四人を置いていきたくない。昨日、千燈に好きだって言われた。今朝は小毬に心音を聞かれて、かなり恥ずかしかった」
「そこまで言わなくてもいいです!」
「言えって言ったの小毬だろ」
千燈が緊張の中で小さく笑い、依澄も「今の玄兎」と呟いた。
玄兎が話すたびに、呼吸が変わる。心拍が変わり、汗と体温が変わる。地下へ入って靴底についた湿った埃、錆びた扉に触れた指先の鉄臭さ、小毬に腕を掴まれた場所へ移った彼女自身の匂い――数分前にはなかった情報が、今の玄兎にだけ増えていく。
対して、周囲のコピーは違った。
言葉を発しても、姿勢を変えても、匂いの層が更新されない。保存された時点から先へ進まない写真のように、身体の情報が止まっている。
《狼域》へ流れ込む情報の多さに小毬のこめかみが痛んだ。けれど、今度は迷わなかった。
「分かりました」
「何が?」
「他の先輩は、止まってます」
小毬は玄兎の腕を掴む。
「でも今の先輩は、朝に覚えた時からもう変わってる。怖がって、笑って、誰かに触れて、そのたび新しい匂いと音が増えてます」
小毬は息を整え、まっすぐ玄兎を見る。
「変わり続けてるから、今なんです」
黒い水面が激しく波打った。
『今とは何だ』
『全部同じ』
『同じ器』
「違います!」
小毬の声が地下に響く。
「今日まで生きた分は、同じじゃない!」
玄兎の胸の痣が熱を持ち、身体が水面へ引かれる。小毬が腕を強く掴んだ。
「先輩。今の先輩はここです」
玄兎は目を閉じた。聞こえるのは無数の自分の声ではなく、速くなった自分自身の心臓だった。
「死ぬのが怖い。忘れたくない」
「はい」
「一人で決めない。手伝ってって言う」
「はい」
「小毬が俺を好きだってことも、ちゃんと分かってる」
「……はい!」
玄兎は目を開けた。
「俺は今、ここにいる」
「見つけました」
小毬は笑った。
「今の玄兎先輩です」
「分離します!」
透羽の《白鷺浄界》が石杭を囲み、現在の玄兎と残留情報の境界を作る。千燈がコピーの動きを見極め、小毬が玄兎へ重なろうとした一体を押し返した。
「俺も玄兎だ」
「知ってます。昔の先輩がいたことは消しません。でも、今の先輩を上書きしないで!」
コピーの足が止まる。
その時、依澄が声を上げた。
「夢が混ざる」
黒い水面に、大きな月と六歳ほどの玄兎、その周囲を漂う蝶のような光が浮かんだ。
「依澄。閉じて」
「知りたいんじゃない?」
「知りたい。でも今は見ない。今日は今の俺を守る」
依澄は静かに頷き、《蝶境》を閉じた。
過去の像が消えると、七人のコピーは少しずつ淡い光へ変わっていった。消滅ではない。透羽の水鏡には、封印側へ情報が戻っていく反応が映っている。
最後まで残ったのは、最初に会った玄兎だった。
「俺は、死ぬのが怖かった」
玄兎の胸が痛んだ。
「そっか」
「言えなかった」
「今は言える」
コピーは少しだけ笑った。
玄兎も笑い返す。
「ありがとな。今まで生きてくれて」
その顔が初めて今の玄兎に近いものへ変わり、静かに光となって石杭へ戻っていった。
◇
設備室を出た後も、小毬は玄兎の袖を離さなかった。
「小毬」
「何ですか」
「もう大丈夫?」
「昔の先輩の匂いは、まだ少し重なってます。でも、さっきよりずっと薄いです」
「なら、そろそろ袖を」
「嫌です」
「即答」
小毬は一度だけ視線を落とし、それから思い切ったように言った。
「本当は、手がいいです」
玄兎は少し迷った。以前なら、後輩だから、年下だからという理由を先に探していただろう。
けれど今日は、自分自身でさえ見失いかけた「今の玄兎」を、小毬が最後まで離さなかった。
玄兎は自分から手を差し出す。
「大学へ戻るまで」
小毬の目が大きくなった。
「……調査ですか?」
「半分」
「残りは?」
「お礼。見つけてくれたから」
小毬はしばらく差し出された手を見つめ、それから壊れ物へ触れるようにそっと握った。
温かい指先が触れ、握り返す力が少しずつ変わる。その小さな変化さえ、保存された過去にはない「今」の証拠だった。
「先輩」
「何」
「心拍、また速いです」
「手だけで分かるの?」
「狼なので」
「便利だな」
「女の子です!」
「うん。分かってる」
小毬の足が止まった。
「今の、もう一回言ってください」
「嫌だよ」
「先輩が私を、後輩とか妹みたいな安全なところじゃなくて、先輩を好きな女の子として分かってるってことですよね?」
玄兎は逃げ道を探すように一度だけ視線を逸らしたが、結局、小さく頷いた。
「……そこも含めて、分かってる」
小毬の顔が赤くなる。けれど繋いだ手は離さなかった。
「じゃあ今日、記念日です」
「何の?」
「私が今の先輩を見つけて、先輩が今の私をちゃんと見た日です」
後ろで千燈が小さく笑い、透羽は二人の手を見て眉を寄せた。
「手を繋ぐ必要はありますか」
「半分は調査です!」
「残り半分は?」
依澄が真顔で訊く。
「お礼です!」
小毬はそう言い切った。玄兎は笑いながら歩き出し、その手は地上へ戻るまで離れなかった。
◇
遅い昼食の席で、小毬はもう一度だけ玄兎の匂いを確かめた。
「昔の先輩は、かなり薄くなりました」
「よかった」
「でも、一番奥に別のものがあります」
玄兎の箸が止まる。
「どんな匂い?」
「人間の匂いじゃありません。怪異とも少し違います。濡れた石とか古い木とか、場所みたいな匂いです」
「昔の俺より奥?」
「はい」
依澄がオムライスのスプーンを止め、静かに言った。
「玄兎の土台みたいなところ?」
小毬は慎重に頷く。
「近いと思います。でも、まだ決めつけません」
「怖くない?」
「怖いです」
小毬は即答した。
「でも、先輩の中にあるなら知らないふりはしません。それが何でも、今日ここにいる先輩まで別のものになるわけじゃないです」
玄兎は少し笑った。
「強いな」
「狼なので」
「女の子でもあるんだろ」
「両方です!」
今度は玄兎も素直に笑った。
◇
その夜、鷺宮家の記録検索に一件だけ関連資料が引っかかった。
北講義棟地下の封印杭。管理対象欄には、こう記されていた。
『外部器再構築補助系』
『再構築反応の直前・直後に、身体・認知・人格照合情報を一時保持する場合あり』
『保持情報は通常、統合後に破棄』
その先の「長期運用時」の項目は破損していた。
透羽は五人のグループチャットへ要点だけを送った。
『今日の複数個体は、この一時保持機構に関係している可能性があります。ただし、七人と過去の死亡・再構築回数が一対一で対応する証拠はありません。』
玄兎からすぐに返事が来た。
『俺が何人もいたの、仕様に近かったのか。嫌な仕様だな。』
『仕様って呼ぶのは嫌だね』
千燈が返し、小毬が続けた。
『でも今の先輩は一人です!』
透羽はもう一つだけ追記する。
『なお、小毬が感じた「さらに奥の匂い」は、この記録では説明できません。』
少し間を置いて、玄兎が送った。
『怖い。でも、追う。』
続けて小毬へ向ける。
『一緒に追って。』
『もちろんです。』
今日、何人分もの玄兎の中から一人を見つけた時と同じように。
その奥に何があっても、小毬は今ここにいる玄兎だけは見失わないと決めていた。
――第十八話・了