第二章・全36話中 18話

第十八話 俺と同じ顔の学生が、大学を歩いている

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 翌朝、鵺代玄兎は大学へ向かう前に、白狼院小毬から「十分だけ時間をください」と呼び出された。

 待ち合わせ場所は、朽木ヶ丘大学から歩いて五分ほどの小さな公園だった。朝のうちはまだ人が少なく、滑り台もブランコも静かなままだ。湿った夏の風が木々を揺らし、その隙間から蝉の声だけが降ってくる。

 玄兎がベンチの前へ着くと、小毬はすでに立って待っていた。

「おはよう」

「おはようございます!」

 返事はいつも通り元気だった。しかし、表情には昨夜のメッセージを送った時と同じ緊張が残っている。

「昨日言ってた、俺の匂いが増えてるって話?」

「はい。もう一度、ちゃんと確認したいです」

「分かった」

 小毬は玄兎の周りをゆっくり一周した。

 玄兎は黙って立っていたが、二周目に入ったところで耐え切れずに口を開く。

「改めてやられると、検疫されてるみたいだな」

「犬じゃないです。狼です」

「今日は犬って言ってない」

「先に言っておきました」

「用意がいいな」

 小毬は正面へ戻ると、玄兎を見上げた。

「先輩。もう少し近くてもいいですか」

「調査なら」

「調査です」

 ほとんど間を置かずに答えたものの、小毬自身も距離を詰めた瞬間に少しだけ頬を赤くした。

 彼女の鼻先が玄兎の肩口へ近づく。

「動かないでください」

「分かってる」

「緊張してます?」

「十九歳の女の子に首元の匂い嗅がれて平気な方が怖いだろ」

「……そういうこと言うんですね」

「俺が悪いみたいにするな」

 小毬は照れを追い払うように一度息を吸い、それから《狼域》へ意識を集中した。

 彼女の嗅覚は、単に人より鼻が利くという程度ではない。

 玄兎が今朝飲んだブラックコーヒーと、食パンや卵の匂い。いつものシャンプーや洗剤、大学へ来る前に触れた共有ノートの紙とインク。小毬は、そうした日常の細かな匂いを一つずつ別の情報として拾っていく。

「今朝、ブラックコーヒー飲みました」

「飲んだ」

「トーストと卵」

「正解」

「昨日の夜、共有ノート触りましたね」

「紙の匂いまで分かるの?」

「インクも少し」

「便利だけど怖いな」

「褒めてください」

「すごい」

「はい!」

 少し嬉しそうに笑ったあと、小毬はすぐに真顔へ戻った。

「でも、それとは別にあります」

「増えた匂い?」

「はい。怪異が先輩の匂いを真似してるんじゃありません。そこが怖いです」

「全部、俺に感じる?」

「はい」

 小毬は言葉を探すように、玄兎の胸元へ視線を落とした。

「一つは、今ここにいる先輩です。今朝のコーヒーとか、今日の服とか、今の体温が混ざってる」

「うん」

「もう一つは、ほとんど同じなのに、今日の匂いがないです。昨日より前の先輩を、そのまま薄く重ねたみたいな感じ」

「昔の俺?」

「たぶん」

「それがいくつある?」

「昨日は三つに感じました。今日は少なくとも四つあります」

「増えてるな」

「はい」

 玄兎は自分の腕を見た。

 皮膚も指紋も爪も、昨日までと何も変わっていない。自分自身には、身体が何層にも重なっている感覚などまったくなかった。

「《還月》に関係してるのかな」

「可能性はあると思います」

 小毬は慎重に答えた。

 《還月》との関係はありそうだったが、記録だけでは何が何回残ったのかまでは分からない。

「原因はまだ分からない。でも全部、俺自身の情報に感じるんだな」

「はい」

 小毬は玄兎をまっすぐ見上げた。

「だから、ちゃんと今の先輩を見つけたいです」

「見つけられる?」

「見つけます」

「自信あるな」

「群れなので」

「またそれ」

「でも今回は、それだけじゃありません」

「何?」

 小毬は一瞬だけ視線を逸らし、それでもすぐに玄兎へ戻した。

「好きな人なので」

 玄兎の返事が少し遅れた。

「朝から強いな」

「昨日、千燈先輩がかなり進みましたから」

「競争じゃないぞ」

「分かってます」

「本当に?」

「……たぶん」

「たぶんなんだ」

 小毬は小さく笑った。

「でも、本気です」

 玄兎は少し考えてから頷いた。

「分かった。小毬がそう思ってること、忘れない」

「はい」

 満足そうに頷いた小毬は、そこでさらに一歩近づいた。

「次は心拍も確認します」

「心拍?」

「匂いだけじゃなくて、今の先輩の音も覚えたいです。《狼域》なら服の上からでも聞こえます」

「そこまでやるの?」

「必要です」

 小毬は玄兎の胸へ耳を寄せようとして、途中でぴたりと止まった。

「……先輩」

「何」

「これ、かなり近いです」

「今さら気づいた?」

「今気づきました」

「やめる?」

 小毬は数秒だけ迷った。

「やります。調査なので」

「便利だな、調査」

 玄兎が動かずにいると、小毬はそっと耳を胸元へ当てた。

 薄いシャツ一枚を隔てた向こうから、規則的な心音が伝わってくる。とくん、とくん、と一定の間隔を刻んでいるのに、普段よりわずかに速い。小毬には、その速さだけでなく、息を吸った時に胸郭が持ち上がる微かな振動や、喉の奥で呼吸が擦れる音まで聞き取れた。

 今この瞬間、胸の内側で鳴っている音は一つだけだった。

 小毬は目を閉じたまま、その音を記憶するようにしばらく耳を澄ませた。

「先輩」

「何?」

「ちょっと速いです」

「言わなくていい」

「私も速いです」

「それも言わなくていい」

 玄兎の声にも、わずかな照れが混じっていた。

 小毬は小さく笑ったものの、すぐに表情を引き締めた。ふざけるために近づいたのではない。今聞いているものを、本当に覚えておきたかった。

「これが今日の先輩の音です」

「昨日とはそんなに違う?」

「少しずつ違います。寝不足なら速くなるし、緊張しても変わるし、走ったあとも違う。だからいいんです」

「どうして?」

「昔の先輩の匂いが何人分重なっても、今ここで生きてる先輩の音は今しかないからです」

 小毬は胸元から耳を離し、少しだけ名残惜しそうに玄兎を見上げた。

「匂いだけじゃなくて、音も、今日触ったものも、今しゃべったことも。そういうのを全部合わせて、私は今の先輩を覚えます」

「そこまで覚えるの?」

「はい」

「忘れない?」

「忘れません」

 迷いのない答えだった。

 玄兎はすぐには答えられなかった。

 好意を知っているからこそ簡単には応えられない。それでも、今ここまで真剣に自分を覚えようとしている小毬を、ただの後輩として受け流すこともできなかった。

 玄兎は困ったように視線を逸らした。

「先輩」

「何」

「また心拍上がりました」

「だから言わなくていいって」

 その時、公園の入口から聞き慣れた声が飛んできた。

「……何をしているのですか」

 玄兎と小毬が同時に振り向く。

 鷺宮透羽が立っていた。その隣には緋鴉千燈と蝶ヶ森依澄までいる。

「おはよう」

 千燈が楽しそうに笑う。

「朝からかなり近いねえ」

「調査です!」

 小毬は勢いよく玄兎から離れた。

「何の調査ですか」

 透羽の声は静かだった。

「玄兎先輩の匂いと心拍です!」

「心拍まで?」

「はい!」

 依澄が玄兎を見る。

「私も聞く?」

「聞かなくていい」

「恋人は心音を聞く?」

「場合による」

「また便利」

「今日はそれで逃げる」

 千燈が笑いを堪えながら言った。

「小毬ちゃん、一歩進んだね」

「はい!」

「競争ではありません」

 透羽が静かに釘を刺す。

「でも透羽先輩、少し怖い顔です」

「通常です」

 玄兎は思わず笑った。

「便利だな、それ」

「玄兎」

「はい」

     ◇

 五人はそのまま学食へ移動した。

 小毬が見つけた「複数の玄兎の匂い」について詳しく説明すると、今度は誰も冗談で流さなかった。

 透羽は昨夜までの《還月》関連記録を端末で確認し、千燈は玄兎へ近づきすぎない距離から顔色や動きを観察する。依澄は何度か目を閉じ、玄兎の周囲へ意識を向けていた。

「依澄。何か分かる?」

「夢じゃない」

「じゃあ何?」

「重なってる感じがする」

 依澄は二本の指を少しずらして重ねた。

「同じ絵を何枚も重ねてるみたい。でも全部、玄兎」

「小毬と同じか」

 透羽が端末から目を上げる。

「既存の経過観察記録には、再構築後の身体機能は正常としか書かれていません。記憶欠損については記録がありますが、身体情報の多重化については確認できません」

「匂いなんて普通の検査項目じゃないしね」

 千燈がそう指摘すると、透羽も頷いた。

「はい。小毬だから気づけた可能性があります」

 小毬の顔が少し明るくなる。

「役に立ってます?」

「かなり」

「はい!」

「褒められるとすぐ元気だな」

 玄兎が呆れながら笑う。

「先輩も褒めてください」

「さっき褒めた」

「もう一回」

「すごい」

「はい!」

 その反応があまりに素直で、千燈は楽しそうに笑った。

「安いねえ」

「無料です!」

「そういう意味じゃないよ」

 その時、玄兎のスマートフォンが震えた。

 大学の施設管理課から一斉通知が届いている。

『北講義棟周辺で学生証認証機器の誤作動が発生しています。同一IDの重複検出が複数確認されているため、復旧まで職員の案内に従ってください。』

 五人の間から笑いが消えた。

「同一IDの重複」

 玄兎は通知文を読み返しながら、小さく呟いた。

「嫌なタイミングだね」

 千燈も同意する。

 その瞬間、小毬が立ち上がった。

「先輩」

「増えた?」

「違います」

 小毬は北講義棟の方向を見た。

「向こうから、先輩の匂いがします」

「俺、ここにいるけど」

「はい」

 小毬の表情が強張る。

「別の玄兎先輩の匂いが、大学の中を歩いてます」

     ◇

 北講義棟へ近づくほど、小毬の顔は険しくなっていった。

「距離は?」

 玄兎が周囲を警戒しながら尋ねると、小毬は空気の流れへ意識を集中した。

「右へ百メートルくらい。一人、ゆっくり歩いてます」

「一人?」

 小毬は少し立ち止まり、もう一度空気を確かめた。

「……左にもいます」

「二人?」

「もう一人、上の階にも」

 小毬は玄兎を見た。

「今ここにいる先輩を入れると、六人です」

「増え方がおかしいな」

 北講義棟の入口では、学生証ゲートを開放し、職員が目視で学生を通していた。

 玄兎の顔を見るなり、職員が首を傾げる。

「あれ? 鵺代、お前さっき二階へ行かなかったか?」

 五人の表情が変わる。

「俺、今来ました」

「いや、確かに見たと思うんだが……」

「服は?」

「そのまま。黒いシャツだった」

「顔も俺?」

「たぶん。何だ、双子でもいたか?」

「いません」

 透羽が一歩前へ出た。

「少し確認してきます」

 職員へ短く頭を下げ、五人は中へ入った。

「見えてるんだな」

 玄兎が先ほどの職員を振り返りながら言った。

「少なくとも一部の人には。ただし、職員の認識が曖昧でした」

 透羽は先ほどの職員の様子を思い返しながら答えた。

「昨日の依澄とは逆かもしれない」

 依澄が静かに言う。

「本当は一人なのに、複数いることを世界が変だと思ってない」

「それも怖いな」

 廊下を進んでいた小毬が突然、玄兎の腕を掴んだ。

「止まってください」

「何?」

「前にいます」

 廊下の先にある階段の踊り場へ、一人の男が静かに立っていた。

 男は黒い髪に黒いシャツという玄兎と同じ姿をしており、身長も顔も変わらない。ただし、表情だけが少し違っていた。

 照明が一度ちらつく。その短い暗闇のあいだに、男は一段ぶん近づいていた。足音はしなかった。もう一度明かりが揺れると、今度は顔の向きだけが変わり、首から下を動かさないまま小毬を見ていた。

 玄兎が右手を上げると、男も同じ手を上げた。ただし、鏡映しではない。玄兎と同じ右手だった。指の曲がり方も、手首に残る薄い傷も一致している。自分の身体から剥がれた影が、立体になって先回りしていたように見えた。

 今の玄兎より、感情が薄い。

「……俺」

 玄兎は自分と同じ顔を見つめ、信じられないというように呟いた。

 向こうもこちらを見る。

「鵺代玄兎」

 声まで同じだった。

「誰だ」

「鵺代玄兎」

「それは俺」

「俺もそうだ」

 小毬は玄兎の腕から手を離さなかった。

「違います」

 コピーが小毬を見る。

「何が?」

「あなたは今の先輩じゃない」

「匂いは同じだろ」

 小毬の表情が僅かに揺れた。

「ほとんど同じです」

「なら、俺が本物でもおかしくない」

「止まってください」

 透羽が二人の間へ水の膜を広げる。

「あなたは何ですか。名前以外で答えてください」

 コピーは少し考えるような顔をした。

「大学二年。ブラックコーヒーが好き。料理はそこそこ。痛いのは嫌いだが、誰かが傷つくなら自分が代わった方がいい」

 玄兎の表情が変わった。

「昔の俺だ」

「今も同じだろ」

「違う」

「死んでも戻る」

「記憶が消える」

「それでも戻る」

「俺は嫌だ」

 玄兎ははっきりと言った。

「今は、死ぬのが怖い。忘れたくない」

 コピーは黙った。

 小毬は二人を交互に見る。

「分かりました」

「何が?」

 千燈が小毬の表情を見ながら尋ねた。

「匂いだけなら、ほとんど同じです。でも今の先輩とは違います」

「どうして分かる」

 コピー自身が尋ねる。

 小毬は迷わなかった。

「今の先輩は、怖いって言えます」

 玄兎の胸が少し動いた。

「前の先輩は、怖くても自分で何とかしようとしてました。でも今は、必要なら『手伝って』って言う」

「……」

「千燈先輩に大事だって言われても、危ないからって逃げなかった」

「小毬、そこまで言わなくても」

「重要です!」

「そうだけど」

 小毬はコピーへ向き直った。

「匂いが同じでも、今日まで選んできたことが違います」

「選んだこと?」

「はい。先輩は毎日少しずつ変わってます」

 小毬は玄兎を見る。

「昔と同じ匂いがしても、昔と同じ人じゃありません」

「それ、褒めてる?」

「褒めてます」

「そっか」

 コピーは小さく「昔の俺」と繰り返した。

 その輪郭が僅かに揺らぐ。

 透羽が《水鏡》を広げる。

「怪異の模倣というより、玄兎本人の情報に近い反応です」

「残留した人格情報?」

 千燈が水鏡の中のコピーを見ながら問い返した。

「可能性はあります」

 コピーは玄兎を見る。

「俺が消えるのは怖くない?」

「俺は怖い」

 玄兎は正直に答えた。

「だから、お前が昔の俺なら、いたことまで消さなくていいと思う」

「なら、俺は何だ」

「まだ分からない。でも、今の俺の代わりではない」

 コピーは少しだけ目を伏せた。

 その時、廊下の奥からもう一人の玄兎が歩いてきた。

     ◇

 それから一時間ほどで、合計七人の「玄兎」が見つかった。今の玄兎を含めれば八人になる。

 顔も声も身体つきも同じで、遠目では小毬以外にはほとんど見分けがつかない。けれど話してみれば、全員が少しずつ違っていた。

 一人は、状況を聞くなり当然のように言った。

「他の人を帰して。俺が残ればいい」

「それを今の玄兎が言ったら、私は怒ります」

 透羽が即座に返す。

「なぜ。俺は戻る」

 今の玄兎は顔をしかめた。

「その言い方、今は嫌いだ」

 別の一人は透羽を見ても、鷺宮家の監視役としてしか認識していなかった。

「必要以上に信用しない方がいい」

「今は違う」

 玄兎は迷った末に続ける。

「透羽は、俺が帰ってきてほしいと思う人の一人だ」

 透羽の目が僅かに揺れた。

 三人目は、小毬から真っ直ぐ「好きです」と言われても、困ったように笑った。

「ありがとう。いい後輩だと思ってる」

「違います!」

 小毬が本気で怒鳴り、今の玄兎は横で気まずそうに目を逸らした。

 ほかの個体にも、依澄を怪異として強く警戒する者、千燈へ簡単に血を渡そうとする者、「自分から離れた方がみんなは安全だ」と決めつける者がいた。

 どれも、玄兎には心当たりがあった。

 否定したくなる考え方ばかりなのに、その時々には本気でそう思っていた自分だ。偽物として切り捨てるには、癖も判断もあまりに自分自身だった。

 その一方で、今はもう選ばない答えもはっきり分かる。

「全部、先輩です」

 小毬は七人を順に見てから、今の玄兎へ戻った。

「でも、今の先輩なら言わないことがたくさんあります」

「それでも俺、分かる?」

「はい」

 小毬は迷わず答えた。

「匂いだけじゃなくて、今日まで何を選んできたかも覚えてます」

 玄兎は七人の自分を見回した。

 左肩を引く癖も、怖い時ほど声が静かになる癖も同じだ。それでも、自分は彼らの続きにいるのであって、彼らのどれかへ戻るわけではない。

 透羽も《水鏡》の反応を確認した。

「この七人を、七回の死亡や再構築と対応させることはできません。今分かるのは、玄兎本人の過去の身体・人格・認知情報に非常に近い、ということだけです」

 その時、一人のコピーが突然、廊下の奥へ顔を向けた。

「来る」

「何が?」

 答えが返る前に、床が低く揺れた。

 地下から、巨大なものが身じろぎしたような鈍い振動が伝わる。

 透羽の顔が変わった。

「封印系の反応です」

 七人のコピーが一斉に同じ方向を向く。

『戻る』

 声が重なった。

 小毬の表情が強張る。

「全部の匂いが地下へ引かれてます。帰ろうとしてるみたいに」

 玄兎の胸の痣まで熱を持った。

『器』
『還る』
『戻れ』

 耳の奥で声が響く。

 気づけば玄兎自身も、地下へ続く階段の方へ一歩踏み出していた。

「玄兎!」

 透羽が腕を掴む。

 玄兎は自分の足元を見て息を呑んだ。

「小毬。止めて」

「はい。止めます」

 小毬が反対側の腕を掴む。

 コピーたちは次々と階段へ向かい始めた。最初に出会った一人だけが、玄兎の呼びかけに振り返る。

「戻るだけだ。身体は知ってる」

「知ってても、俺が行きたい場所じゃない」

 コピーの足が一瞬止まった。

 小毬は階段の先を見据える。

「全部の先輩が同じところへ集まるなら、原因もそこにあります」

「行きます。ただし全員で」

 透羽が言う。

 玄兎は四人を見て、今度は自分から頼んだ。

「手伝って」

「はい!」

 小毬の返事はすぐだった。

     ◇

 北講義棟の地下には、現在は使われていない古い管理通路が残っていた。

 透羽が大学と鷺宮家へ緊急連絡を入れ、施設管理職員に最初の扉まで案内してもらう。

「この先は昔の給排水設備くらいしかありません。普段は閉鎖しています」

「ありがとうございます。ここからは専門対応します」

 職員が戻るのを確認してから、小毬が先頭へ出た。

「七人分、全部こっちです」

「俺は何人目?」

「今の先輩は後ろです」

「よかった」

「匂いだけなら八人の先輩です」

「玄兎くんだらけの地下って嫌だなあ」

 千燈が半ば本気で嫌そうな顔をしながら言った。

「本人も嫌だよ」

 依澄は少し考えた。

「玄兎が八人なら、恋人候補も八人?」

「増えない」

 玄兎が即答する。

「残念」

「何が」

 緊張した状況でも、そんな会話があるだけで現実から切り離されずに済む。

 通路へ入ると、空気が一段冷たくなった。

 湿ったコンクリートと錆びた鉄の匂いが濃い。壁には何十年も前の配管番号が薄く残り、天井から落ちる水滴が一定の間隔で床を叩いている。人が使わなくなって久しい場所なのに、奥のどこかでは低い機械音のような振動が続いていた。

 小毬は先頭を歩きながら、ときどき足を止めて匂いを拾う。

「七人とも同じ方向です」

「距離は?」

「だんだん重なってきてます。奥で一つになろうとしてるみたい」

 その言い方が嫌だった。

 玄兎は自分の胸へ手を当てる。痣はまだ熱くない。それでも身体の深いところで、何かがこちらを呼んでいるような落ち着かなさがあった。

 やがて床の排水溝が見えた。

 本来なら出口へ向かって流れるはずの水が、傾斜に逆らって奥へ進んでいる。小さな泡まで逆向きに運ばれ、建物全体の水が地下の一点へ吸い込まれているようだった。

「以前の地下封印異常と似ています」

 透羽がしゃがみ込み、水へ指先を触れる。

 触れた瞬間、透羽の顔が僅かに強張った。

「流れは冷たいのに、霊的な圧だけが熱い。通常の地下水ではありません」

「《百獣繭》?」

「まだ断定しません。ただ、封印系統の支流である可能性は高いです」

 千燈が周囲を見回す。

「嫌な場所だね。音が少なすぎる」

 言われて玄兎も気づいた。

 大学の足音も、車の音も、蝉の声さえ届かない。五人の呼吸と、逆流する水音しかない。

 依澄が小さく玄兎の袖をつまんだ。

「何?」

「ここ、夢じゃないのに夢の入口に似てる」

「嫌な情報ありがとう」

「どういたしまして」

「褒めてない」

「知ってる」

 そのやり取りに、小毬が一瞬だけ笑った。

 しかし次の瞬間には、鼻を利かせて前を向く。

「近いです」

 通路の突き当たりに、古い円形の鉄扉があった。

 錆で赤黒く変色した表面には、大学施設の管理番号とは別に、細い墨で何重もの術式が書き込まれている。一般の設備ではない。

 透羽が息を呑んだ。

「鷺宮家の旧式封印です」

「開けて大丈夫?」

「すでに内側から破られています」

 よく見ると、扉の合わせ目が数センチだけ開いている。

 小毬が鼻を動かす。

「七人とも中です」

 玄兎は一度、四人を見た。

「入る?」

「全員で」

 透羽が迷いなく答える。

「はい」

 小毬もすぐに頷いた。

「もちろん」

 千燈も穏やかに続く。

「うん」

 依澄も短く答えた。

 玄兎は頷き、扉へ手をかけた。

 金属の擦れる重い音が、地下通路へ長く響く。

 設備室は円形だった。

 壁沿いには古い配管と壊れた計測器が並び、中央だけが不自然に広く空いている。七人のコピーは、その中央を囲むように等間隔で立っていた。

 彼らの視線の先に、一本の石杭が突き立っている。

 高さは玄兎の腰ほど。黒い紋様がびっしり刻まれ、長い年月の間に何度も水へ濡れたように表面が鈍く光っていた。

 透羽の顔が強張った。

「鷺宮家の封印杭です」

「いつ頃の?」

「少なくとも二十年以上前」

「俺が生まれた頃」

「可能性はあります」

 七人のコピーが石杭へ近づいた。

『戻る』

 石杭の周囲に黒い水面のようなものが広がる。

 そこに映ったものを見た瞬間、玄兎は息を止めた。

 黒い水面には無数の玄兎が映っていた。幼い玄兎、少年の玄兎、大学生らしい玄兎と、年齢も状態も少しずつ違っている。

 年齢が違うように見えるものもあれば、今とほとんど変わらないものもある。

 水面は部屋の天井を映していなかった。その奥には別の部屋、そのさらに奥にも同じ部屋が重なり、どの階層にも玄兎が立っている。数えようと視線を動かすほど奥行きが増し、幼い姿は赤ん坊へ、老いた姿は骨だけの輪郭へと枝分かれしていった。

 中には胸を貫かれたまま立つ玄兎もいた。濡れた服から黒い血を垂らし、口だけを動かしている。声は水面を越えてこないが、唇は確かに「次はお前だ」と形を作っていた。

 別の玄兎は、四人の名前を順番に呼ぼうとしていた。透羽までは言える。千燈も、小毬も言える。だが依澄のところで口が止まり、困惑した顔のまま何度も最初からやり直す。そのたび、忘れられた名前の場所だけ水面が黒く腐っていった。

「小毬」

 玄兎は目を逸らさずに訊いた。

「匂いは?」

 小毬の顔から血の気が引いている。

「多すぎて、数えられません」

「全部俺?」

「全部、玄兎先輩の匂いです」

 玄兎は思わず半歩下がった。

 透羽が《水鏡》を広げた。黒い水面に浮かぶ像を確かめるほど、その反応は怪異の模倣より玄兎本人に近い。

「中央側に残った身体・認知・人格情報の断片だと思います。ただし、ここに見える数を再構築回数として数えることはできません」

「ここが俺を作る元データってこと?」

「そこまでは断定できません。今は、残った情報が異常に表へ出ている、と考えるだけにしてください」

 説明が終わる前に、七人のコピーが黒い水面へ歩き始めた。

 小毬の顔色が変わる。

「止めます。今の先輩の匂いまで薄くなってます」

「俺も引っ張られてる?」

「分かりません。でも、嫌です」

 小毬は玄兎の前へ出た。

「今度は私が見つけます。だから手伝ってください」

「何をすればいい?」

「今のことを話してください。昔の先輩が知らない、今日の先輩を」

 玄兎は一度、息を吸った。

「怖い。できれば逃げたい」

「はい」

「でも四人を置いていきたくない。昨日、千燈に好きだって言われた。今朝は小毬に心音を聞かれて、かなり恥ずかしかった」

「そこまで言わなくてもいいです!」

「言えって言ったの小毬だろ」

 千燈が緊張の中で小さく笑い、依澄も「今の玄兎」と呟いた。

 玄兎が話すたびに、呼吸が変わる。心拍が変わり、汗と体温が変わる。地下へ入って靴底についた湿った埃、錆びた扉に触れた指先の鉄臭さ、小毬に腕を掴まれた場所へ移った彼女自身の匂い――数分前にはなかった情報が、今の玄兎にだけ増えていく。

 対して、周囲のコピーは違った。

 言葉を発しても、姿勢を変えても、匂いの層が更新されない。保存された時点から先へ進まない写真のように、身体の情報が止まっている。

 《狼域》へ流れ込む情報の多さに小毬のこめかみが痛んだ。けれど、今度は迷わなかった。

「分かりました」

「何が?」

「他の先輩は、止まってます」

 小毬は玄兎の腕を掴む。

「でも今の先輩は、朝に覚えた時からもう変わってる。怖がって、笑って、誰かに触れて、そのたび新しい匂いと音が増えてます」

 小毬は息を整え、まっすぐ玄兎を見る。

「変わり続けてるから、今なんです」

 黒い水面が激しく波打った。

『今とは何だ』
『全部同じ』
『同じ器』

「違います!」

 小毬の声が地下に響く。

「今日まで生きた分は、同じじゃない!」

 玄兎の胸の痣が熱を持ち、身体が水面へ引かれる。小毬が腕を強く掴んだ。

「先輩。今の先輩はここです」

 玄兎は目を閉じた。聞こえるのは無数の自分の声ではなく、速くなった自分自身の心臓だった。

「死ぬのが怖い。忘れたくない」

「はい」

「一人で決めない。手伝ってって言う」

「はい」

「小毬が俺を好きだってことも、ちゃんと分かってる」

「……はい!」

 玄兎は目を開けた。

「俺は今、ここにいる」

「見つけました」

 小毬は笑った。

「今の玄兎先輩です」

「分離します!」

 透羽の《白鷺浄界》が石杭を囲み、現在の玄兎と残留情報の境界を作る。千燈がコピーの動きを見極め、小毬が玄兎へ重なろうとした一体を押し返した。

「俺も玄兎だ」

「知ってます。昔の先輩がいたことは消しません。でも、今の先輩を上書きしないで!」

 コピーの足が止まる。

 その時、依澄が声を上げた。

「夢が混ざる」

 黒い水面に、大きな月と六歳ほどの玄兎、その周囲を漂う蝶のような光が浮かんだ。

「依澄。閉じて」

「知りたいんじゃない?」

「知りたい。でも今は見ない。今日は今の俺を守る」

 依澄は静かに頷き、《蝶境》を閉じた。

 過去の像が消えると、七人のコピーは少しずつ淡い光へ変わっていった。消滅ではない。透羽の水鏡には、封印側へ情報が戻っていく反応が映っている。

 最後まで残ったのは、最初に会った玄兎だった。

「俺は、死ぬのが怖かった」

 玄兎の胸が痛んだ。

「そっか」

「言えなかった」

「今は言える」

 コピーは少しだけ笑った。

 玄兎も笑い返す。

「ありがとな。今まで生きてくれて」

 その顔が初めて今の玄兎に近いものへ変わり、静かに光となって石杭へ戻っていった。

     ◇

 設備室を出た後も、小毬は玄兎の袖を離さなかった。

「小毬」

「何ですか」

「もう大丈夫?」

「昔の先輩の匂いは、まだ少し重なってます。でも、さっきよりずっと薄いです」

「なら、そろそろ袖を」

「嫌です」

「即答」

 小毬は一度だけ視線を落とし、それから思い切ったように言った。

「本当は、手がいいです」

 玄兎は少し迷った。以前なら、後輩だから、年下だからという理由を先に探していただろう。

 けれど今日は、自分自身でさえ見失いかけた「今の玄兎」を、小毬が最後まで離さなかった。

 玄兎は自分から手を差し出す。

「大学へ戻るまで」

 小毬の目が大きくなった。

「……調査ですか?」

「半分」

「残りは?」

「お礼。見つけてくれたから」

 小毬はしばらく差し出された手を見つめ、それから壊れ物へ触れるようにそっと握った。

 温かい指先が触れ、握り返す力が少しずつ変わる。その小さな変化さえ、保存された過去にはない「今」の証拠だった。

「先輩」

「何」

「心拍、また速いです」

「手だけで分かるの?」

「狼なので」

「便利だな」

「女の子です!」

「うん。分かってる」

 小毬の足が止まった。

「今の、もう一回言ってください」

「嫌だよ」

「先輩が私を、後輩とか妹みたいな安全なところじゃなくて、先輩を好きな女の子として分かってるってことですよね?」

 玄兎は逃げ道を探すように一度だけ視線を逸らしたが、結局、小さく頷いた。

「……そこも含めて、分かってる」

 小毬の顔が赤くなる。けれど繋いだ手は離さなかった。

「じゃあ今日、記念日です」

「何の?」

「私が今の先輩を見つけて、先輩が今の私をちゃんと見た日です」

 後ろで千燈が小さく笑い、透羽は二人の手を見て眉を寄せた。

「手を繋ぐ必要はありますか」

「半分は調査です!」

「残り半分は?」

 依澄が真顔で訊く。

「お礼です!」

 小毬はそう言い切った。玄兎は笑いながら歩き出し、その手は地上へ戻るまで離れなかった。

     ◇

 遅い昼食の席で、小毬はもう一度だけ玄兎の匂いを確かめた。

「昔の先輩は、かなり薄くなりました」

「よかった」

「でも、一番奥に別のものがあります」

 玄兎の箸が止まる。

「どんな匂い?」

「人間の匂いじゃありません。怪異とも少し違います。濡れた石とか古い木とか、場所みたいな匂いです」

「昔の俺より奥?」

「はい」

 依澄がオムライスのスプーンを止め、静かに言った。

「玄兎の土台みたいなところ?」

 小毬は慎重に頷く。

「近いと思います。でも、まだ決めつけません」

「怖くない?」

「怖いです」

 小毬は即答した。

「でも、先輩の中にあるなら知らないふりはしません。それが何でも、今日ここにいる先輩まで別のものになるわけじゃないです」

 玄兎は少し笑った。

「強いな」

「狼なので」

「女の子でもあるんだろ」

「両方です!」

 今度は玄兎も素直に笑った。

     ◇

 その夜、鷺宮家の記録検索に一件だけ関連資料が引っかかった。

 北講義棟地下の封印杭。管理対象欄には、こう記されていた。

『外部器再構築補助系』
『再構築反応の直前・直後に、身体・認知・人格照合情報を一時保持する場合あり』
『保持情報は通常、統合後に破棄』

 その先の「長期運用時」の項目は破損していた。

 透羽は五人のグループチャットへ要点だけを送った。

『今日の複数個体は、この一時保持機構に関係している可能性があります。ただし、七人と過去の死亡・再構築回数が一対一で対応する証拠はありません。』

 玄兎からすぐに返事が来た。

『俺が何人もいたの、仕様に近かったのか。嫌な仕様だな。』

『仕様って呼ぶのは嫌だね』

 千燈が返し、小毬が続けた。

『でも今の先輩は一人です!』

 透羽はもう一つだけ追記する。

『なお、小毬が感じた「さらに奥の匂い」は、この記録では説明できません。』

 少し間を置いて、玄兎が送った。

『怖い。でも、追う。』

 続けて小毬へ向ける。

『一緒に追って。』

『もちろんです。』

 今日、何人分もの玄兎の中から一人を見つけた時と同じように。

 その奥に何があっても、小毬は今ここにいる玄兎だけは見失わないと決めていた。

――第十八話・了

👥 登場人物紹介ネタバレを抑えた基本プロフィール
鵺代玄兎

CHARACTER 01

鵺代玄兎

ぬえしろ げんと

現実的で、妙な状況でもまず話を整理しようとする常識人寄りの青年。突然の怪異や騒動には戸惑いながらも、困っている相手を放っておけない。深刻な場面でも自然にツッコミが出るタイプ。

  • 物語の主人公
  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 常識人寄りのツッコミ役
俺が何者でも、困ってる人を置いていく理由にはならない。
鷺宮透羽

CHARACTER 02

鷺宮透羽

さぎみや とわ

冷静で生真面目。怪異への警戒心が強く、必要なことははっきり言う。危険な場面では自分が前に出ようとする、責任感の強い少女。

  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 鷺宮家の退魔師
  • 礼儀正しいがやや堅い
私が間に合う時は、あなたを死なせません。
緋鴉千燈

CHARACTER 03

緋鴉千燈

ひがらす ちとせ

余裕のある笑みを浮かべ、人をからかうのが上手な先輩。自然に距離を詰めてくる、つかみどころのない雰囲気を持つ。

  • 玄兎たちの先輩
  • 赤褐色の瞳
  • 人をからかうのが得意
秘密って、暴くより自分から話してもらう方が面白いよ。
白狼院小毬

CHARACTER 04

白狼院小毬

はくろういん こまり

明るく人懐っこい一年生。気になったことはすぐ口にし、匂いを確かめることに夢中になると相手との距離感まで忘れがち。

  • 朽木ヶ丘大学の一年生
  • 非常に鋭い嗅覚
  • 人懐っこく表情豊か
匂いは嘘をつきません。だから、何度でも見つけます!
蝶ヶ森依澄

CHARACTER 05

蝶ヶ森依澄

ちょうがもり いすみ

静かで穏やか、言葉数は少なめ。初対面からどこか不思議な印象を残し、感情表現は控えめだが答え方は率直。

  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 淡い青紫の瞳
  • 物静かでマイペース
今日が初めてなら、明日また会えばいい。

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