翌朝、一限が始まる少し前。緋鴉千燈が学食に隣接した学生ラウンジへ入ると、窓際のテーブルで白狼院小毬が共有ノートを開いていた。朝、久住研究室から持ち出してきたものだ。その隣には鵺代玄兎が座り、ブラックコーヒーを飲みながら、何となく面倒事の気配を察したような顔をしている。昼休みには学生で埋まる場所も、朝のこの時間はまだ静かで、三人の声がいつもよりよく通った。
千燈は一歩だけ足を止めた。ノートの開かれているページには、昨日の夕方、玄兎と川沿いで撮った二人の写真が貼られている。
「千燈先輩」
小毬が顔を上げた。
「おはよう、小毬ちゃん」
「説明を求めます」
千燈は苦笑しながら席へ向かった。写真を見れば、昨日の会話まで鮮明に思い出してしまう。
「なぜ二人だけで撮ったんですか」
「少し歩いてたから」
玄兎がコーヒーを置いた。
「小毬。昨日も説明しただろ。千燈の体調が完全じゃなかったから、少し歩いて送っただけ」
「撮ろうって言ったのは千燈先輩だよ」
小毬がむっとする。その反応が分かりやすくて、千燈はようやく普段に近い笑い方ができた。
そこへ鷺宮透羽と蝶ヶ森依澄も到着した。依澄は席へ着く前に共有ノートを覗き込み、写真を確認する。
「千燈が『まだ違う』って返してた。今日は?」
「一晩でそう簡単に変わらないよ」
今度は玄兎を見る。
「玄兎は?」
「まだ違う」
小毬が少しだけ安心したように息を吐いた。
透羽は口を挟まず席へ着いたが、共有ノートの写真へ一瞬だけ目を落とした。その後すぐに玄兎の方へ顔を向ける。
「玄兎。朝食は取りましたか」
「家で食べた。トーストと卵」
「頭痛、吐き気、記憶の欠損は」
「全部なし」
「では千燈。昨日の《血読》のあと、何か残っていますか」
千燈は肩をすくめた。
「頭痛は少し。吐き気はなし。他人の感情はだいぶ抜けた。ただ、海を見ると知らない誰かに謝りたい気持ちが少し残ってる」
透羽の眉が僅かに寄る。
「今日は能力を使わないでください」
「できればね」
玄兎が透羽を見る。
「透羽。昨日、千燈が必要だと思った時は自分で決めるって話した」
「覚えています」
「無茶しそうなら、その時止める」
透羽は少し考えてから千燈へ向き直った。
「では、使用前に必ず相談してください」
「了解」
その直後、玄兎のスマートフォンが震えた。画面を確認した玄兎が、少しだけ嫌そうな顔をする。
「久住教授からだ」
玄兎は苦笑しながら、届いたメッセージを読み上げた。
「旧八坂通りの写真館から寄贈された写真資料を整理するらしい。地域史演習の加点付き。『今回は祭具でも封印資料でもない。ただし、少しでも変だと思ったものは触らず呼べ』だって」
「写真館?」
千燈は写真館という言葉に引っかかった。胸の奥が小さくざわつく。
「夏祭りをやった通り?」
「そう。先月閉店した店らしい」
血ではなく、写真で記憶を残す。
昨日、そんな話をしたばかりだった。今日は古い写真の整理。偶然だと分かっていても、千燈には妙に出来すぎているように感じられた。
「千燈?」
玄兎が、表情を探るように声をかける。
「行く? 写真、好きだろ。SNSにもよく上げてるし」
「うん」
依澄も静かに「行きたい」と言い、小毬は一限後から、透羽は昼から合流することになった。
千燈は最後にもう一度、共有ノートの写真を見る。
血から読み取った誰かの記憶ではない。昨日、自分たちが自分たちの意思で残した記録だった。
それを確かめてから、千燈は静かに頷いた。
「私も行く」
◇
午後一時過ぎ。久住教授の研究室へ集まると、大きな段ボール箱が六つ、壁際に積まれていた。
ただし、以前の地域資料室の時とは違い、箱の前には受入番号と確認済みの札が一つずつ付けられている。机の上には寄贈目録と、個人情報を含む資料を分けるための一覧まで用意されていた。
玄兎は箱の数を見た瞬間に顔をしかめた。
「教授。慎重になったのは分かりますけど、量は減ってないですね」
「だから呼んだんだ。安全確認と作業量は別問題だ」
玄兎が作業用手袋を取ると、小毬が楽しそうに笑った。
久住教授は最上段の箱を開ける前に、五人を見回した。普段の講義中より少しだけ真面目な顔だった。
「先に確認しておく。旧八坂通りにあった月城写真館が先月閉店して、戦後から最近までの町の写真を大学へ寄贈してくれた。店主本人と大学側で権利関係を確認し、家族写真や個人情報の強いものは別室で保管してある。今日触るのは、祭り、商店街、学校行事、町内会、建物が中心だ」
透羽が目録へ視線を落とした。
「由来の分からない写真や、特定の信仰・祭祀に関係するものはありますか」
「目録上はない。俺も昨日、一通り封筒と箱の外側までは確認した。ただし――」
久住はそこで言葉を切り、箱ではなく五人の顔を見た。
「写真も安全とは限らない。古い記録には肖像を持ち主の代わりに扱った例もあるし、最近は俺の『記録上は問題ない』も信用できん」
「教授が悪いわけではありません」
透羽がすぐに言うと、久住は小さく肩をすくめた。
「分かってる。それでも学生に触らせる以上、用心する責任は俺にある。写っている人物が動いて見えた、声が聞こえた、急に昔の記憶が流れ込んだ――何でもいい。違和感があったら、勝手に確かめようとせず作業を止めて俺か鷺宮を呼べ」
久住は最上段の箱を開けた。中には古いアルバム、ネガフィルム、厚紙に貼られた写真、年代ごとに分けられた封筒などがぎっしり詰まっている。
「一番古いものは昭和二十年代だ。裏面に日付や場所が書いてあるものは入力、分からないものは保留。無理に推測して埋めるな。記録は、分からないものを分からないまま残すのも大事だ」
その年代を聞いた瞬間、千燈の指がわずかに止まった。昭和二十年代なら、すでに自分はこの街で暮らしていた。
「先輩、大丈夫?」
千燈は少し迷ってから答えた。
「昔の写真に私が写ってたら面倒だなと思っただけ」
小毬の目が丸くなる。
「写ってる可能性あるんですか?」
「あるよ。昔から写真は嫌いじゃなかったし」
「今と同じ顔で?」
「ほぼね」
少し離れた場所で目録を確認していた久住が顔を上げる。
「何かあったか?」
「まだ何もありません」
透羽が答えた。嘘ではない。
千燈は一瞬だけ教授を見てから、小声で言った。
「怪異のことを知ってるからって、私が何歳かまで話したことはないんだよね」
「そこは千燈が決めていいです」
透羽は即答した。
「必要になっても、まず本人に、話していいか聞きます。教授を信頼しているからといって、何でも明かしていいわけではありません」
千燈は少しだけ安心したように笑った。
「ありがと」
久住が手を叩く。
「相談が終わったなら始めるぞ。六箱あるんだ。雑談してたら日が暮れる」
五人はそれぞれの箱を受け持った。
◇
最初の一時間は、驚くほど平和だった。
まだアーケードが新しかった頃の八坂通り。今は駐車場になっている場所にあった映画館。川沿いへ並ぶ灯籠。大学の前身校の文化祭。
依澄は昔の服装に興味を示し、小毬は古い精肉店の写真ばかり見つけては喜んでいる。
「玄兎先輩、この店すごいです。牛肉が今より安い!」
「物価が違うから比較できない」
「でも肉です!」
「理由になってない」
依澄は昭和四十年代の女性たちが写った写真を玄兎へ見せた。
「この服、今着たら変?」
「千燈なら普通に着そう」
「私?」
千燈が覗き込む。
「形は今でもいけるよ。柄はちょっと難しいけど」
「じゃあ着たい」
「今度古着屋探す?」
「うん」
こういう何でもない会話をしながら写真を整理していると、千燈の緊張も少しずつ薄れていった。
自分の写真など出ないかもしれない。
そう思い始めた頃だった。
昭和四十年代と書かれた封筒から、一枚の白黒写真が机の下へ滑り落ちた。
千燈は何気なく拾い上げ、そこで息を止めた。
夏の河川敷だった。
古い欄干のそばに、浴衣姿の男女が並んでいる。
男は二十代前半ほど。短い髪に細身の身体で、写真越しでも分かるほど穏やかな笑い方をしている。
その隣には、黒い浴衣を着た女がいた。
今より少し髪は短い。
しかし、顔は現在の千燈とほとんど同じだった。
「……」
千燈は写真を裏返した。裏面には、古いペンで短い文字が残っている。
『昭和四十九年八月 灯籠祭』
『千燈と直哉』
『来年も』
胸の奥が一気に遠い時代へ引かれた。
「先輩?」
玄兎の声が近くでした。
千燈は反射的に写真を伏せる。
「どうした?」
「何でもない」
そう言ってから、千燈は自分で苦笑した。
昨日、玄兎へ「自分の気持ちで君を見る」と言ったばかりだった。
隠してもいい。秘密は悪ではない。
それでも今は、隠したいのではなく、怖くて反射的に伏せただけだ。
「玄兎くん」
「うん」
「これ」
千燈は写真を表へ戻した。
玄兎の目が僅かに大きくなる。
「先輩?」
「うん」
「五十年くらい前?」
「もっと近く見ていいよ」
玄兎は写真へ顔を近づけた。
「この人」
「直哉」
「祭りの時に出てきた人?」
以前、影の祭りで千燈の前へ現れた若い男。
千燈は小さく頷いた。
「たぶん、あの影の元になった人」
玄兎はそれ以上、すぐに質問しなかった。
その沈黙がありがたかった。
しかし、透羽たちも異変へ気づき、自然と集まってくる。
「千燈?」
「昔の私が出てきた」
写真を見せると、小毬も依澄も静かになった。
依澄がまっすぐに尋ねる。
「直哉は、大事な人?」
「うん」
「恋人?」
「依澄さん」
透羽が止めようとする。
「いいよ」
千燈は写真を見たまま答えた。
「たぶん、恋人って呼んでよかった人」
「たぶん?」
玄兎が少し不思議そうに聞き返した。
「当時の私は、今以上に関係へ名前を付けるのが苦手だったから」
千燈は少し笑った。
「でも、好きだったよ。かなり」
小毬も茶化さなかった。
「その人は」
「もういない」
声にすると、胸の奥に古い痛みが戻る。
「ずっと前に亡くなった」
依澄は写真を見つめた。
「直哉は歳を取った?」
「取ったよ」
「千燈は?」
「ほとんど変わらなかった」
「寂しかった?」
千燈は少しだけ目を伏せた。
「寂しかった」
過去形で言った。
けれど、完全な過去ではない。
「この写真の頃は、直哉も自分が私より先に歳を取ることを、まだ本当には分かってなかったと思う。私も分かってたつもりだったけど、実際にそうなった時は全然違った」
小毬が慎重に訊く。
「直哉さんは、千燈先輩が普通の人じゃないって知ってたんですか?」
「知ってた」
「怖がらなかった?」
「最初は少し」
千燈は写真の中の若い男を見た。
「でも最後には、私より自分の血圧の方を怖がってた」
玄兎が思わず笑う。
少しだけ空気が柔らかくなる。
透羽は写真に触れず、裏書きを見た。名前、年代、外見が重なる。
「どこまで話すかは、千燈が決めてください」
千燈は写真の中の自分を見つめた。
五十年以上前の自分。隣には、もう会えない人がいる。
「……必要になったら、その時考える。今はまだ、教授の研究対象になるために昔話したい気分じゃないかな」
「久住教授なら無理には聞かないと思う」
玄兎が言う。
「うん。だから余計に、私の方で決めたい」
千燈が少し笑った、その瞬間だった。写真の中の直哉が、ほんの少しだけこちらへ顔を向けた。
千燈の笑顔が消えた。
「……」
「先輩?」
玄兎がすぐに気づく。
「写真」
透羽の表情も変わった。
「全員、少し離れてください」
透羽が水滴を写真の周囲へ浮かせる。
千燈は手を離した。
机の上へ置かれた白黒写真の中で、直哉がゆっくり笑った。
『千燈』
古い写真の中から、確かに声が聞こえた。
◇
幸い、久住教授は別室で寄贈資料の受け取り作業をしていた。
研究室には五人だけが残っている。
透羽は写真の周囲へ《水鏡》の薄い膜を張り、怪異反応の広がりを抑えた。
「まだ狭い範囲だけですが、反応が急に強くなっています」
玄兎は千燈を見る。
「本物の声?」
千燈は答えられなかった。写真からもう一度、自分の名が呼ばれる。
『千燈』
「似てる。でも、分からない。私が本物の声を忘れてるから、同じか判断できない」
写真の中の直哉の隣で、若い頃の千燈までこちらを向いた。
『戻っておいで』
玄兎の表情が強張る。
「影の祭りと同じ」
「分かってる」
千燈は自分へ言い聞かせるように答えた。
「本物なら、私に昔へ戻れなんて言わない」
『ここへ戻れば、何も変わらない』
その言葉に、千燈の指先が冷たくなる。
写真の中には、若い直哉と若い千燈、灯籠の流れる河川敷、そしてこの先に老いも別れもまだ訪れていない五十年以上前の夏の一瞬が、そのまま残されている。
『このままでいられる』
『歳を取らない』
『あの頃のまま』
「最悪のタイミングだなあ」
千燈は笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
小毬が写真の匂いを探る。
「古い紙だけじゃなくて、人の匂いみたいなのがあります」
「誰の?」
「分かりません。何人も重なってます」
依澄は目を閉じた。
「写真の中に、見た人の願いが溜まってる」
「撮られた人の?」
「それもある。でも、後から写真を見て『この時に戻りたい』『この先を迎えたくない』って思った人の気持ちも」
「記録を残したいんじゃなくて、時間そのものを止めたいのか」
玄兎が言った。
その時、周囲の箱から紙が擦れる音がした。古い祭りや卒業式、商店街の記録など、何十枚、何百枚もの写真に写った人々が、一斉にこちらへ顔を向けた。
『ここにいて』
『このまま』
『ずっと』
『変わらない』
研究室の光が揺らぎ、壁や床へ古い町並みが薄く重なり始める。
「広がります。局所封鎖では抑え切れません」
透羽は《水鏡》の膜を厚くしながら、空いた手でスマートフォンを取り出した。久住教授へ短く、しかし曖昧さのない文章を送る。
『写真資料から怪異反応。研究室へ入らないでください。周囲の立入を止めてください。』
送信表示を確認した直後、廊下側で何かが落ちる音がした。
「反応が壁を越える前に、教授にも離れてもらいます。玄兎、入口まで行って廊下の外へ誘導してください。施設管理への連絡もお願いします」
「分かった。すぐ戻る」
「入口まで。それ以上は行かない。何かあったらすぐ呼ぶ」
透羽が頷いた。
「戻る途中で景色がおかしく見えたら、進まず呼んでください」
玄兎は研究室を出た。
幸い、久住教授はすぐ近くにいた。透羽のメッセージを読んだところだったらしく、玄兎の顔を見るなり、状況説明を求めるより先に資料室の扉を閉めた。
「広がってるのか」
「はい。写真の中の景色が研究室に重なり始めてます」
「分かった。俺はここから人を遠ざける。施設管理には『資料保存環境に異常が出たので立入禁止』で通す。怪異の説明まで広げる必要はない」
「鷺宮が対処するなら任せる。お前も早く戻れ。ただし、危なくなったら資料は捨てろ。写真一枚残すために学生を残す気はない」
「分かりました」
「終わったら連絡だけ寄越せ。俺からは入らない」
玄兎は頷き、研究室へ引き返した。
写真の中から、再び声が届く。
『千燈』
写真の中から呼ばれる声を、もっと聞きたいと思う自分もいる。
ここへ入れば、直哉が歳を取り、別れが来るより前の時間へ戻れるのかもしれない。
「写真の中、入りたい?」
依澄が静かに訊いた。
「入りたいよ」
透羽がこちらを見る。
「でも、行かない」
「どうして?」
「本物の直哉なら、たぶん止めるから」
声や細かな仕草が薄れても、その人がどんな時に何を選ぶ人だったかは、まだ覚えている。
◇
久住教授が廊下の立入を止め、施設管理への説明を引き受けたことを確認して戻ってきた玄兎が見たのは、半分ほど写真の中へ沈んだ研究室だった。
床は古い八坂通りの石畳へ変わり、窓の外には本来見えないはずの川が流れている。遠くから祭囃子まで聞こえた。
「先輩」
「戻った」
「遅い」
「三分くらい」
「長かった」
口にしてから、千燈は自分でも少し驚いた。
玄兎も目を丸くした。
「ごめん」
「謝るほどじゃない。でも」
千燈は一度だけ息を整えた。
「今は近くにいて」
「うん」
玄兎は余計なことを言わず、千燈の隣まで来た。手には触れないまま、それでも近くに立ってくれるだけで、現実へ戻る足場が一つ増えた気がした。
「あの影の祭りは町全体が昔へ引っ張られてた。これは、同じ瞬間を何度も再生してる」
依澄が祭りの風景を見つめた。
祭りの景色は連続して動いていなかった。
研究室の蛍光灯が点いている間、人々は写真の中の姿勢で完全に静止している。灯りが一度明滅すると、男の笑顔が少し深くなり、女はいつの間にかこちらを向いている。次の暗転では、川へ流したはずの灯籠が玄兎の足元へ置かれていた。
小毬が耳を澄ますと、暗転のたびに何十人もの足音と、濡れた紙を剥がす音が聞こえた。灯りが戻れば全員が静止している。ただし、そのたびに五人を囲む輪は狭くなっていた。
祭りの匂いには、焼けた醤油や川の湿気、火薬、汗だけでなく、現像液の刺激臭が混じっている。千燈の指先から少しずつ色が抜け、肌が白黒写真と同じ灰色へ変わり始めた。
玄兎が屋台の柱へ触れると、木ではなく、まだ乾いていない印画紙のぬめりが指へ返った。触れた部分へ玄兎の指紋が大きく浮かび、その下に写っていた店主の顔が指紋の渦へ巻き込まれて消える。
ここでは写真が記憶を見せているのではない。触れた現在を新しい被写体として取り込み、代わりに古い写真の一部へ変えようとしている。
奥から若い直哉が歩いてきた。白黒写真に残されたままの姿と、変わらない笑顔だった。
「千燈」
声は鮮明だった。
千燈の胸が痛む。
「直哉」
「本物じゃない?」
「違う。本物は、もっと歳を取ったから」
千燈は直哉から目を逸らさなかった。
写真の直哉は二十代のまま。
けれど、千燈が瞬きをするたび、その顔へ後の年月が重なった。目尻へ皺が増え、頬が痩せ、髪が白くなり、病室で見た最後の顔へ変わる。次の瞬きではまた若返り、祭りの夜の笑顔へ戻っている。
変化の途中で、直哉の口だけが歳を取らずに笑い続けていた。若い顔にも老いた顔にも同じ笑みが貼りつき、千燈が最も愛した瞬間を選べと迫ってくる。選ばなかった顔は、写真の縁から黒く焼け落ちていった。
「私はこの人が五十代になった顔も、六十代になった顔も知ってる。最後の方は髪も白かった」
喉が少し詰まる。
「この姿は、私が一番幸せだった頃の直哉なんだと思う」
『一番幸せだった』
「そうだね」
『なら、ここに残ればいい』
「嫌」
『どうして』
「この後も直哉は生きたから」
『老いた』
『弱った』
『死んだ』
一つひとつが胸へ刺さる。
「うん。全部本当」
『なら、この瞬間だけでいい』
「違うよ」
千燈は少し強い声で答えた。
「そこを切り捨てたら、私が好きだった直哉じゃなくなる」
玄兎が千燈を見る。
「歳を取って、皺が増えて、昔より頑固になって。途中から歩くのが遅くなって、私の方が歩幅を合わせるようになった」
千燈は涙が出ていることに気づいた。
今度は隠さなかった。
「病院が嫌いで、薬の時間を誤魔化そうとして。最後まで私のことを心配してた」
『ここを出れば、もう戻れない』
「戻らないよ」
千燈は逃げずに答えた。
「楽しいことだけじゃなかった。声も全部は思い出せないし、別れだって来た」
『なら、ここにいればいい』
「でも」
千燈は自分の胸へ手を置いた。
「その先まで全部あったから、私が一緒に過ごした直哉なんだよ」
写真の世界が僅かに揺れた。
透羽が水鏡の反応を確かめる。
「効いています」
「人は、その後も変わる」
依澄が静かに言った。
「そう」
玄兎も写真の景色を見た。
「去年の祭りの写真に写ってる俺と、今の俺が違ってても、どっちもいた」
「先輩。昔の先輩も今の先輩も、どっちか消す必要ないと思う」
千燈は少しだけ笑った。
「それ、今の私にはかなり効く」
怪異は次の誘惑を見せた。透羽の前には幼い頃の家族写真が、小毬の前には家族に囲まれて安心した顔をする幼い自分の写真が浮かぶ。依澄の前に現れたのは、存在しないはずの「家族」と一緒に写った写真だった。
そして玄兎の前には、六歳ほどの玄兎と、顔が白く欠けた女性が並ぶ写真が現れた。
欠けた部分は白く塗り潰されているのではない。そこだけ写真が奥へ深く窪み、底の見えない穴になっていた。穴の縁から細い髪が何本も伸び、幼い玄兎の肩を撫でている。母親なのか、封印に関わった誰かなのか、顔を見れば答えが得られる気がした。
その一方で、穴の奥からは湿った呼吸が聞こえた。写真の中の女性がこちらへ顔を向けようとするたび、首の骨が小さく鳴る。もし完全に振り向かせたら、知りたかった過去ではなく、玄兎の中から失われた何かがこちらへ出てくる――根拠はないのに、身体だけがそう理解していた。
白い穴から伸びた髪が写真の縁を越えた。細い一本が玄兎の手首へ触れると、そこから皮膚の色が古い写真の灰色へ変わっていく。
玄兎の耳元で、知らない女の声がした。
『ここなら、何も変わらない』
知らないはずだ。そう答えたいのに、口から出そうになったのは「ただいま」だった。
喉の奥に、その言葉を何度も口にしてきた感覚がある。幼い手で女の服を掴んだ感触も、膝へ抱きついた時の体温も、現実の記憶と同じ鮮明さで身体に残っていた。偽物だから恐ろしいのではない。自分の中にある本物の記憶と区別できないほど、懐かしかった。
女性の顔の穴に、少しずつ目鼻が浮かび始める。最初は母親らしい優しい輪郭だった。次に透羽、依澄、小毬、千燈と顔が入れ替わり、最後には玄兎自身の顔になった。
『一人選べば、その人だけはここに留めてあげる』
写真の周囲にいた四人の輪郭が薄くなる。選ばなければ全員が写真から消え、初めから出会わなかったことになる。そんな確信だけが、命令のように頭へ植えつけられた。
玄兎は誰かの名を呼ぼうとした。しかし一人を呼べば、残りの三人を捨てることになる気がして、声が出せなかった。
「玄兎!」
透羽が声を上げる。
玄兎は無意識に一歩前へ出かけた。
「俺、これ……」
玄兎にその光景の記憶はない。それでも、だからこそ知りたいという気持ちが身体を前へ押した。千燈はすぐに玄兎の腕を掴んだ。
「行かない」
「先輩」
「今の私と同じ」
「……」
「知りたいことと、写真の中へ入ることは別」
玄兎は目を閉じ、一度息を吐いた。
そして自分で一歩下がる。
「ありがとう」
千燈の胸がまた少し熱くなる。
透羽が水の流れを広げた。
「現実と写真を分離します。依澄さんは夢との境界を薄く、小毬は現実側の出口を追ってください」
「はい!」
「うん」
「千燈」
玄兎が彼女の判断を待つように名前を呼んだ。
「どうする?」
千燈は若い直哉の写真を見つめた。
「写真は壊さない。でも、そこへ閉じ込められないようにする」
「記録と現実を分ける」
透羽は千燈の意図を理解し、静かに頷いた。
「そういうこと」
千燈は直哉へ向き直った。
「昔は、昔として大事にする」
『千燈』
「うん」
『戻らないのか』
「戻らない」
『ここなら変わらない』
「うん。だから行かない」
『この先には、別れがある』
「知ってる」
「でも、その別れまで含めて直哉と過ごした時間だから」
『写真は残る』
「残すよ」
千燈は少しだけ笑った。
「でも、私はここには残らない」
若い直哉の輪郭が揺れる。
「さよならじゃないよ」
『……』
「大事な過去のまま、持っていく」
直哉の笑顔が、怪異の作った表情ではなく、元の写真に写っていた穏やかなものへ戻っていく。そこに残ったのは、昭和四十九年の夏に撮られた白黒写真と、その中で並ぶ二人だけだった。
祭囃子が遠ざかり、石畳が研究室の床へ戻っていった。
◇
現実へ戻ると、研究室の床には大量の写真が散らばっていた。
蛍光灯は元どおり点いているのに、五人の影だけが数秒遅れて写真の世界から戻ってきた。玄兎が腕を下ろしたあとも、床の影は白い穴へ手を伸ばした姿勢のまま動かない。やがて関節を一つずつ折り畳むような不自然な動きで本人へ重なった。
千燈の影だけは、最後まで祭りの方を向いていた。
「先輩、動かないで」
小毬が低い声で言い、千燈の足元へ近づいた。影の肩には、誰かの手らしきものが置かれている。千燈が振り返っても、当然そこには誰もいない。
小毬が慎重に指先を近づけると、影の上の手は名残惜しそうに千燈の背を一度撫で、散らばった白黒写真の一枚へ沈んだ。
その写真に写っていたのは、誰もいない祭りの石段だった。けれど耳を近づけると、紙の奥から祭囃子と一緒に、年老いた男が千燈の名を呼ぶ声が聞こえた。
千燈は写真を伏せた。聞き続けたい気持ちは消えていない。聞けば、本物の声を思い出せるかもしれないという期待もあった。それでも今は、自分の手で紙から離れた。
破れたものは一枚もない。
透羽が《水鏡》を巡らせ、一枚ずつ怪異反応を確認する。
「大丈夫です。今のところ反応はありません」
「よかった」
小毬はすぐにしゃがみ込み、床の写真を拾い始めた。
「踏まないようにしないと!」
「手伝う」
玄兎も隣へしゃがみ、依澄も一枚ずつ写真を戻していく。
「千燈」
玄兎が顔を上げた。
千燈は例の白黒写真を持ったまま立っていた。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないけど、帰れる」
千燈の指先には、まだ写真の冷たさが残っていた。手を開くと、掌の皺へ黒い現像液のような染みが入り込んでいる。目を凝らした途端に消えたが、鼻の奥には酢酸に似た匂いがいつまでもこびりついていた。
祭りから戻ったはずなのに、研究室の物音へ時折、直哉の足音が混じる。写真を拾う玄兎が一歩動くたび、その半歩後ろを杖の先がついてくる。若い直哉ではない。千燈が最後の数年間に聞き慣れていた、ゆっくりとした歩き方だった。
振り返れば消えると分かっていても、千燈は何度も確かめそうになった。もし本当に一度だけ戻ってきたのなら、無視したことを後悔するかもしれない。けれど、振り返るたび偽物へ返事をしていれば、いつか本物の記憶まで怪異の声に置き換わる。
「今も聞こえる?」
玄兎は千燈が何度も背後を気にしていることに気づいていた。
「少しだけ。直哉が歩いてるみたいな音がする」
「本物だと思う?」
「思いたい。でも、たぶん違う」
「じゃあ、先輩が覚えてる直哉の歩き方を、あとで聞かせて。今ここで聞こえてる音とは別に」
その言い方に、千燈はようやく背後から目を離した。
「長くなるよ。歳を取ってから、歩き方も何度か変わったから」
「なら、駅までじゃ足りないかもな」
「途中で嫌にならない?」
「その時は休憩する。でも、勝手には帰らない」
玄兎は少し安心したように頷いた。
「じゃあ、一緒に帰る」
千燈は玄兎を見て、少しだけ笑った。
透羽が二人へ近づいた。
「千燈。その写真ですが、大学資料として保管する場合、被写体の確認と公開範囲を決める必要があります」
玄兎も写真を見た。
「個人寄贈品として非公開扱いにできないかな」
「可能性はあります。ただ、私たちだけで決めることではありません。まず教授に――」
そこで透羽は言葉を止め、スマートフォンを確認した。
「久住教授からです。『反応が消えたなら、鷺宮が安全確認を終えてから入る』と」
透羽は研究室全体へ《水鏡》を巡らせ、床に散った写真にも強い反応が残っていないことを一枚ずつ確認した。それから久住へ「入って大丈夫です」と連絡する。
数分後、扉が静かに開いた。
「全員いるな」
久住教授は部屋へ入るなり、まず人数を数えた。資料ではなく学生を先に確認したことに、玄兎は少しだけ肩の力が抜ける。
「怪我は?」
「ありません。ただ、千燈に一時的な変色と聴覚的な残留がありました。今は安定しています」
透羽が答えると、久住は千燈へ視線を向けた。
「気分はどうだ」
「大丈夫じゃないけど、普通に歩いて帰れるくらい」
「なら今日はそれ以上、無理に整理しなくていい。残りは俺が止める」
久住はそこで、千燈が手にしている一枚の白黒写真へ気づいた。
「それが中心だった写真か?」
千燈の指がわずかに強くなる。
「たぶん」
「見てもいいか。嫌なら断って構わん」
その言い方に、千燈は一度だけ写真を見下ろしたあと、自分から差し出した。
「どうぞ」
久住は表を見て、次に裏書きを読んだ。
『昭和四十九年八月 灯籠祭』
『千燈と直哉』
『来年も』
しばらく黙ったあと、写真から顔を上げる。
「緋鴉」
「はい」
「確認したいのは一つだけだ。この写真の女性は、君本人か?」
玄兎も小毬も息を止めた。
千燈はすぐには答えなかった。
「……はい。私です」
久住は目を見開かなかった。驚きがないわけではないらしく、写真と現在の千燈を一度ずつ見比べたが、それ以上の質問はしなかった。
「そうか」
「それだけ?」
「何歳なのか、なぜ見た目が変わらないのか、聞こうと思えばいくらでも聞ける。ただ、それは今回の資料保存に必要な質問じゃない」
久住は写真を千燈へ返した。
「君が自分から話したくなった時は聞く。研究者として興味がないと言えば嘘になるが、学生を勝手に研究対象へ変えるほど行儀は悪くないつもりだ」
千燈は数秒、何も言わなかった。やがて小さく息を吐く。
久住は苦笑してから、改めて写真を示した。
「保存については、本人がここにいるなら話は早い。公開を望まないなら非公開資料にできる。閲覧制限も付けられるし、怪異反応が再発する可能性があるなら通常の写真群とは分ける」
「残してもらえますか」
「君が望むなら。保管場所は鷺宮とも相談する」
千燈は写真の中の若い直哉を見た。
写真の裏には「来年も」とある。二人は実際に、その翌年も、そのさらに次の年も共に過ごした。この一枚に写っていない時間の方が、ずっと長い。
「お願いします。消したくはないです。でも、誰にでも見せたいわけでもない」
「分かった。それで十分だ」
久住はそれ以上踏み込まなかった。
「残せて、よかった?」
千燈は若い自分と直哉を見つめた。
「うん」
千燈は写真を新しい保護封筒へそっと戻した。
「私もそう思う」
◇
その日の作業を打ち切り、散らばった写真の回収と怪異発生時の記録を終えた頃には、午後六時を過ぎていた。
小毬は「お腹空きました」と依澄を連れて先に学食へ向かい、透羽は鷺宮家への報告のため研究室へ残った。
千燈は大学の玄関前で、一人でスマートフォンを見ていた。
「先輩」
玄兎が建物から出てくる。
「待ってた?」
千燈は少し迷ってから頷いた。
「うん。今日は駅まで、少し歩きたい」
二人は並んで歩き始めた。
まだ夏の明るさが残る時間だ。大学から駅へ向かう道には学生が多く、普通の夕方が流れている。
「直哉の話、聞きたい?」
玄兎は少し考えた。
「先輩が話したいなら。どんな人だった?」
千燈は空を見上げた。
「普通の人」
「それ、一番分からない」
「普通に歳を取って、普通に働いて、普通に頑固だった」
「最後の方は、病院嫌いで本当に大変だった。私が無理やり連れていったりね」
千燈は少し笑った。
二人で笑ったあと、千燈は少しだけ声を落とした。
「私、直哉のこと、今でも大事なんだ」
「うん」
「今日の写真を見て、やっぱりそう思った。声を全部思い出せなくても、あの人と過ごした時間までなくなるわけじゃない」
玄兎は何も急いで言わず、隣を歩いている。
「そのうえで」
千燈は少しだけ息を吸った。
「玄兎くんのことを考える時間が増えてる」
玄兎の歩調がほんの少しだけ乱れた。
「それがね。最初、すごく嫌だった」
「どうして?」
「直哉を裏切ってる気がした」
千燈は自嘲するように笑う。
「何十年も経ってるのに。別の人を大事だと思うと、じゃあ直哉はそんなに大事じゃなかったのかな、とか考えた」
玄兎はしばらく黙っていた。
「先輩」
「何?」
「大事な人が増えるのと、前の人が減るのは別じゃない?」
千燈が玄兎を見る。
「……」
「俺、小毬の『群れ』って、今はちょっと分かる。透羽が大事だから千燈が大事じゃない、そういう引き算じゃないと思う」
玄兎は少し遠くを見た。
「昔が本物だったことと、今、別の誰かを大事にすることは両立すると思う」
「玄兎くん」
「俺は記憶そのものが消えるかもしれないから、余計そう思う。覚えている量で、本物だったかどうかまで決まるわけじゃない」
その言葉は、今日の千燈には深く刺さった。
「今日、かなり効くこと言うね」
駅が近づき、人の流れが多くなる。
千燈は足を止めた。
「玄兎くん」
「うん」
声は少し震えていた。それでも今度は、冗談へ逃げずに言葉を続けた。
「私、君のこと好きになってる」
玄兎の目が少し大きくなる。
「たぶん、もうかなり」
とうとう言葉にした。胸は痛んだが、それは逃げたくなるような痛みではなかった。
玄兎はしばらく黙っていた。
「先輩」
「返事、聞くよ」
「今すぐ誰か一人選んで、って意味?」
「違う」
千燈は首を横に振った。
「私が言ったことを、玄兎くんがどう受け取ったか。それだけ聞きたい」
玄兎は逃げずに考えた。
「嬉しい」
千燈の目が揺れる。
「かなり嬉しい」
「……」
「でも、今ここで俺も好きだって返すのは、たぶん違う」
「そっか」
「ごめん」
「謝るところじゃないよ」
「分からなくて」
「正直でいい」
千燈は少し笑った。
「でも」
玄兎は少し考えながら、その先を続けた。
「先輩が俺を好きだって分かったからって、危ないから離れるとか、そういうことはしない」
「……」
「逃げたくない」
千燈の胸が熱くなる。
「それ、かなり嬉しい」
「じゃあ今は、それで」
「うん」
駅前の改札が見えるところまで来た時、千燈は昨日の会話を思い出した。
「もし君が私を忘れたら、昨日の答え、覚えてる?」
「普通に教えてほしい。緋鴉千燈です、って」
玄兎は少し恥ずかしそうに目を逸らした。
「あと、俺のこと好きだったって」
千燈は数秒固まった。
「忘れた本人に『私はあなたのこと好きだった』って言うの、ものすごく勇気いるよ」
「じゃあ無理には」
「言うけど」
「何回でも」
千燈はそう言って、今度は穏やかに笑った。
「その時の私が、まだ君を好きならね」
「うん。その時の気持ちを聞かせて」
「逆に、私が君を忘れたら?」
「俺が言う。鵺代玄兎です。先輩に好かれてたらしいです、って」
千燈はとうとう笑いながら涙をこぼした。
千燈は指で涙を拭った。
「じゃあ次の写真、もっと近くで撮ろ」
「忘れた時に説明しやすいから?」
千燈は今度こそ自然に笑った。
「今の私が、そうしたいから」
玄兎も少し笑う。
「分かった」
◇
翌日の昼休み、五人はいつもの学食へ集まった。昨日の怪異騒ぎが嘘のように、周囲では学生たちが講義や課題の話をしながら昼食を取っている。
小毬は、千燈と玄兎が駅までの帰り道でどんな会話を交わしたのかまでは知らない。唐揚げを一つ頬張ってから、思い出したように玄兎へ身を乗り出した。
「先輩、今日、講義が全部終わったあと空いてます?」
「空いてるけど、何かある?」
「全員で写真を撮りたいです。千燈先輩だけ二人写真があるの、やっぱりずるいです!」
千燈はアイスコーヒーを飲みながら笑った。
「今日は全員ね」
「はい!」
依澄が千燈を見る。
「昨日、恋人になった?」
千燈が盛大にむせた。
「違う」
玄兎も同時に答える。
「また同じ」
依澄は二人を見比べた。
「でも、前と違う?」
千燈と玄兎は一瞬だけ目を合わせた。
先に玄兎が少し笑う。
「前より近い」
小毬の箸が止まった。
千燈は少しだけ意地悪く笑った。
「それ以外も」
「千燈先輩!」
小毬が立ち上がりそうになる。
透羽はゼリーのスプーンを置いた。
「写真は全員の講義が終わってから、五人で撮ります」
小毬が早くも隣の位置を取り、依澄は『私は袖』と手を上げる。千燈は笑って、その向かいでコーヒーを飲んだ。
◇
その日の夕方、五人は久住研究室へ戻り、そこで撮った写真を共有ノートの新しいページへ貼った。
中央に玄兎。その右に透羽、左に千燈。小毬は玄兎の腕へ自分の腕を絡め、依澄は反対側の袖をつまんでいる。
撮影直前、小毬と千燈が場所を争い、透羽が「写真くらい普通に撮れませんか」と注意し、依澄が「普通の写真とは」と真剣に訊き返したため、結局全員が笑ってしまった瞬間の一枚だった。
写真の下へ、千燈は自分の字で書いた。
『直哉と過ごした時間も、玄兎くんを好きになった今も、私が大事だと思っている。』
玄兎はその下へ書き足した。
『千燈が自分の気持ちでそう決めたなら、俺は逃げない。』
小毬は意味を分かっているのかいないのか、大きな文字で続けた。
『私からも逃げるの禁止です!』
依澄は少し考えてから、
『好きな人は増える?』
と素直な疑問を書き込んだ。
透羽はしばらく空白を残したあと、丁寧な字で書き込んだ。
『現在の関係にも、配慮を。』
千燈はそれを見て笑った。
玄兎もつられて笑った。千燈はもう一度写真を見る。今は、それで十分だった。
◇
その夜、小毬は自宅で、今日撮った五人の写真をもう一度眺めていた。
写真には、玄兎、透羽、千燈、依澄、そして小毬自身の五人全員が写っていた。
写真には当然、匂いはない。それでも小毬は玄兎の顔を見ているうちに、昨日からずっと引っかかっていた感覚を思い出した。
献血会場には多数の血の匂いが、写真事件には何十年分もの人の気配が重なっていた。玄兎の匂いがおかしいのも、その影響だと思っていた。けれど、記憶を辿るほど、それでは説明できないと分かってくる。
「違う」
小毬はスマートフォンを机へ置いた。
怪異が増えた匂いではない。玄兎自身の匂いが、一つの身体に二つ、三つと重なっている。同じ『鵺代玄兎』が、内側に複数いるようだった。
小毬の表情から笑みが消えた。
すぐに玄兎へメッセージを送る。
『先輩。明日の朝、会えますか?』
返事はすぐに来た。
『いいけど。何かあった?』
小毬は少し迷ってから入力する。
『匂いの確認です。』
『また怪異臭?』
『違います。』
小毬は一度、自分の鼻で感じたものを慎重に思い返し、それから覚悟を決めて文字を打った。
『玄兎先輩の匂いが、増えてます。』
――第十七話・了