翌日の昼休み、五人は学食の一番奥にある窓際の席へ集まっていた。
鷺宮透羽が昨夜新しく閲覧できた《百獣繭》の記録を説明し終えたあとも、しばらく誰も箸を動かさなかった。
「玄兎一人の夢から、できたわけじゃないんだ」
依澄は、自分のオムライスを見た。
「願いや記憶が集まってD-02になった。記録では、そう読めます。玄兎と触れて人の形へ近づいたようですが、六歳のいつだったのかも、詳しい過程もまだ分かりません」
透羽は資料の端を指した。玄兎と一致しない選択が確認された、その行だけは読めた。
依澄は少し考えたあと、オムライスを一口食べた。
「よかった」
「何が?」
鵺代玄兎が尋ねる。
「今日のケチャップの量は、私が決めた」
「そこ?」
「大事」
「昨日の話を引き継いでるなら、かなり大事か」
「うん」
依澄は満足したようにもう一口食べた。
そんな会話の間も、緋鴉千燈だけはほとんど口を挟まなかった。
いつもなら、依澄のオムライスにも何か一言乗せるところだ。
今日は、アイスコーヒーの氷をストローでゆっくり回しているだけだった。
「先輩」
玄兎が呼ぶ。
「ん?」
「静か」
「たまにはいいでしょ」
「体調、悪い?」
「平気。ちょっと考えてた」
千燈はストローから手を離した。
「玄兎くん。六歳の時のこと、本当に何も覚えてない?」
「うん」
「黒い水も。大きな月も」
「千燈が前に血から見たって言った景色は、何も」
「そっか」
千燈の視線が、玄兎の手へ落ちた。そこには傷ひとつなく、昨日から今日にかけても、玄兎は珍しく一度も怪我をしていない。
「前に見たのは、倒れていた六歳くらいの君だった。死んでいたかまでは、血読だけじゃ分からない。でも今の資料があれば、景色の意味も、もう少し拾えるかもしれない」
透羽が名前を呼ぶより先に、千燈は首を振った。
「でも、今日は頼んでないよ。読めば確かめられることと、読みたいことは別」
「……俺の昔の気持ちまで、入ってくるから?」
「うん。非常階段で君が怖かったことも、しばらく私の中に残った。六歳の君が誰を好きで、誰を憎んでいたのかまで見たら」
千燈はコーヒーの氷を見た。
「私が今の君を好きなのか、分からなくなるのは嫌」
玄兎は返事を失った。小毬も何か言いかけて、千燈の顔を見て口を閉じた。
千燈がようやく少しだけ、いつもの笑い方をした。
玄兎は、その笑顔を見てから言った。
「じゃあ、今は頼まない」
「知りたくない?」
「知りたい。でも、先輩が怖い方法だけで調べなくてもいい」
千燈の瞳が揺れた。
「最近、まともなこと言うね」
「前から」
「それは審議」
透羽も資料を閉じた。必要になれば本人たちで考え直す。使うなら、その前に安全策を決める。それだけ確認した。
「千燈も、消えたくないんだ」
依澄が言うと、千燈は少し考えた。
「依澄ちゃんは、世界に自分を見失われる。私は、自分の中で見失う。似てるところはあるね」
その返事には冗談がなかった。
◇
昼休みが終わり、五人が学食を出たところで、中央広場に赤いテントが並んでいるのが見えた。
大学の保健管理センターと地域の医療機関が共同で行う献血協力日だった。
白い献血車が二台。学生ボランティアが案内板を持ち、テントでは飲み物や菓子が配られている。
「お菓子」
小毬が足を止めた。
「献血した人用だぞ」
玄兎が言う。
「分かってます!」
「目が完全にお菓子見てた」
「活動に興味を持っただけです!」
千燈が献血車を眺め、乾いた笑いを漏らした。
「大学って面白いよね」
「何が?」
「私が一番近づいちゃいけないイベントを、正面玄関の近くでやるんだもん」
「吸血種目線で献血を見るな」
「大丈夫。飲まないよ」
「当たり前です」
透羽が即座に言った。
「透羽ちゃん、私への信用が低い」
「実績です」
玄兎が苦笑する。
その時、テントの向こうから一人の女子学生が千燈へ大きく手を振った。
「千燈ー!」
「ん?」
千燈も手を上げる。
「知り合い?」
「同じ学部の友達」
女子学生はボランティア用の赤いビブスを着ていた。
「助かった! 今、人足りないんだけど少し手伝えない?」
「私を献血会場で働かせるの?」
「何その言い方。受付だけ!」
「私、血を見ると性格変わるかもよ」
「いつもの冗談でしょ。十五分だけお願い!」
友人は千燈が本当に吸血種だとは知らないらしい。
千燈は玄兎たちを見る。
「どうしよ」
「知り合い多いな」
「大学三年やってるからね」
「行ってきたら?」
「千燈先輩、私も受付手伝います!」
小毬が手を上げる。
「お菓子目的?」
「社会貢献です!」
「じゃあ小毬ちゃんも借りる」
透羽は時計を見た。
「私は次の講義があります」
「俺も」
「私は空いてる」
依澄がそう答えると、千燈は彼女へ顔を向けた。
「じゃあ依澄ちゃんも来る?」
「血、見ていい?」
「見学はほどほどに」
「分かった」
玄兎と透羽は三人を献血会場に残し、次の講義へ向かった。この時はまだ、ほんの一時間後に、集められた血が他人の記憶を語り始めるとは誰も思っていなかった。
◇
異変の最初は、献血を終えた一年生の男子学生だった。
休憩用の椅子へ座り、紙パックの飲み物を飲んでいた彼が、突然泣き始めた。
「え、ちょっと。大丈夫?」
近くにいたボランティアが声をかける。
男子学生は自分でも理由が分からないようだった。
「違う……」
「何が?」
「俺、妹いないのに」
涙を拭いながら、彼は震える声で言った。
「妹を置いてきた気がする」
周囲が静まる。
「家に帰らないと。今日、誕生日で……ケーキ買うって」
「君、一人っ子だよね?」
友人らしい学生が戸惑う。
「そうだけど。でも、違う。いる。七歳で、苺が嫌いで……」
男子学生自身が混乱していた。
少し離れた受付にいた千燈が立ち上がる。
表情から笑みが消えた。
「小毬ちゃん、玄兎くんと透羽ちゃんを呼んで」
依澄も男子学生を見ていた。
「この人の夢じゃない。誰か別の人の『帰りたい』が混ざってる」
千燈は男子学生のそばへ行き、しゃがんだ。
「ねえ。今、指とか痛くない?」
「え?」
「献血した腕じゃなくて、他に傷」
「ない、と思います」
「じゃあ無理に何もしなくていい」
千燈は医療スタッフへ向き直った。
「体調として変なところは?」
「血圧も脈拍も大きな異常はありません。念のため別スペースで休ませます」
「お願いします」
千燈は血の匂いを意識して嗅いだ。
会場には、当然ながら普段より多くの血の気配がある。
ただ、今日はその全部が妙に「近い」。
本来、他人の血はそれぞれ別々の匂いとして感じられる。
ところが献血車の奥から漂ってくる気配は、何人分もの血が一本の糸で縫い合わされているようだった。
「……血が喋りたがってる。私にはそう感じる」
そこへ、別のテントから女性の声が上がった。
「知らない! その人、知らないのに!」
今度は二人目の異変だった。二年生の女子学生が、自分の胸を押さえながら混乱した顔をしている。
「何でこんなに会いたいの……?」
彼女は「靖人」という知らない男の名前を何度も口にした。
数分もしないうちに三人目、四人目の異変が続いた。献血を終えた学生たちは、誰かの子供の顔、知らない実家の台所、見たことのない海辺、何十年も前の卒業式といった、自分には覚えのない情景を次々と口にし始める。
混線は思い出すだけでは終わらなかった。
知らない海辺を語っていた学生の靴から、濡れた砂がこぼれた。床へ落ちた砂はすぐに消えたが、足跡だけはテントの外へ続き、誰もいない広場の中央で途切れた。別の学生は、存在しないはずの左手の指を痛がった。目には五本揃って見えるのに、本人は「薬指がない」と泣き叫び、そこへ包帯を巻いてくれと訴える。
最初の男子学生は、妹のために帰ると言って立ち上がった。友人が止めると、彼は初対面の相手を見る目で怯えた。
「誰だよ。妹を隠したの、お前か」
声つきまで別人のように低い。次の瞬間には我に返り、友人の名を呼んだが、また数秒後には「早くケーキを買わないと」と同じ言葉を繰り返す。
会場の時計が、一斉に二十三分だけ巻き戻った。秒針は正常に進んでいるのに、表示される時刻だけが何度直しても同じ瞬間へ戻る。
血液バッグの中では、赤い液体が人の呼吸のように膨らんだり縮んだりしていた。一本が動くと隣も続き、やがて百人分近い血が同じ拍動を始める。採血管の細いチューブが床へ垂れ、何かを探す触手のようにゆっくり向きを変えた。
内容はばらばらなのに、そこへ伴う感情だけは共通していた。どの記憶にも、「失いたくない」「忘れたくない」という強い執着が貼り付いている。
「依澄ちゃん」
「うん」
「会場から一般学生を離せる?」
「夢を使う?」
「まだ使わなくていい。普通に誘導して」
「分かった」
「小毬ちゃんは」
「玄兎先輩たち、もう来ます!」
「じゃあ、医療スタッフへ『設備の異常かもしれない』って伝えて。血液バッグを動かさないようにしてもらって」
「はい!」
千燈は献血車の入り口へ視線を向け、さらに濃くなった血の匂いを慎重に嗅ぎ分けた。その中に一つだけ、周囲の新しい血とは明らかに違う、長い時間を経た古い血の匂いが混じっている。
「何で、こんなところに」
千燈は小さく呟いた。
何十年も前に乾いたはずの血が、献血車の奥からではなく、広場の地下から匂っていた。
◇
玄兎と透羽が戻ってきた時には、中央広場の一角は簡易的に封鎖されていた。
大学側には「複数の体調不良者が出たため」と説明され、献血は中断されている。
「千燈!」
透羽が駆け寄る。
「状況は?」
「献血した人に、別人の記憶と感情が混ざってる」
「血液を介して?」
「まだ断定できない。でも、全員ここで献血した直後」
玄兎は休憩テントの学生たちを見る。
「命に関わる状態は?」
「今のところない。混乱が強いだけ」
「よかった」
「ただし」
千燈は広場の地面を見た。
「地下に、かなり古い血がある」
透羽はすぐ施設図面を端末で確認した。
「この広場の下は、現在は閉鎖された旧保健管理棟の地下倉庫です」
「また旧施設」
玄兎が顔をしかめる。
「この大学、古いもの残しすぎじゃない?」
「私も最近そう思います」
透羽まで真顔で同意した。
小毬が地面へ鼻を近づける。
「鉄っぽい匂い、あります。千燈先輩が言う方向」
「小毬にも分かる?」
「古いから薄いです。でも、何人分か混ざってます」
依澄は広場の端へ視線を向けた。
「下で、誰かが『残して』って言ってる」
「夢?」
「夢と記憶の間みたい」
玄兎は透羽を見る。
「行く?」
玄兎に問われ、透羽はすぐには頷かなかった。地面の下に怪異反応があるからといって、閉鎖された大学施設へ勝手に入るわけにはいかない。まして今回は、献血に使われた血液と学生の体調にまで影響が出ている。
「まず久住教授へ連絡します。認知環境研究室が関係しているなら、施設管理課だけで進めるより早いです」
透羽はその場で久住へ電話をかけた。短く状況を説明し、中央広場の地下から古い血の気配がすること、献血後の学生に他人の記憶らしきものが混ざっていることを伝える。
数秒の沈黙のあと、電話の向こうで久住の声が低くなった。
『認知環境研究室の名前がまた出たのか』
「はい。地下区画との直接の関係はまだ確認できていません」
『旧保健管理棟には、あの研究室が使っていた保管区画があったという記録を見た覚えがある。生体試料まで残っているとは思っていなかったが……分かった。施設管理には俺から話す。一般の職員は地下へ入れないようにする』
透羽はわずかに眉を寄せた。
「教授は来ないでください。記憶へ干渉する怪異なら、見えるかどうかに関係なく影響を受ける可能性があります」
『この前、依澄を認識できなくなった件を経験したあとで、その忠告を無視するほど自信家じゃないよ。俺は上で人を止める。お前たちも、原因を確かめることと無茶をすることを混同するな』
「分かっています」
通話を切ったところで、千燈が広場の地面へ視線を落としたまま口を開いた。
「手順を踏むのは賛成。でも、あまり時間はかけられないよ。血液バッグの方にも、古い感情が入り始めてる」
透羽の顔色が変わる。
「その血を治療に使う時にも、影響が出るかもしれないのですか」
「まだ分からない。だからこそ、原因が怪異なら先に切り離した方がいい」
そこからの判断は速かった。献血で集められた血液は医療スタッフの管理下で通常の搬送から外され、鷺宮家の協力者が到着するまで別区画で隔離される。体調不良を訴えた学生たちは保健管理センターで経過観察となり、一般学生には「複数の体調不良者が出たため」とだけ説明して広場から離れてもらった。
十分もしないうちに、施設管理課の職員が地下区画の鍵を持ってきた。久住から話が通っているらしく、余計な詮索はせず、「中で異常があればすぐ戻るように」とだけ念を押して引き返していく。
五人は互いの顔を確認してから、旧保健管理棟の地下倉庫へ向かった。久住は約束どおり地上に残り、施設管理と保健管理センターの間に立って、誰も地下へ近づかないよう調整していた。
「千燈」
地下へ向かう途中、玄兎が呼ぶ。
「何?」
「無理に血読しなくていいから」
「さっきからそれ言われると思ってた」
「必要なら、他の方法考える」
「玄兎くん」
「うん」
「私は自分で使うか決めるよ」
声は穏やかだった。
「止めてほしい時は言う。その代わり、私が必要だと思った時まで先回りして禁止しないで」
玄兎は少し考える。
「分かった」
少しだけ、いつもの千燈が戻った。
◇
階段を降りると、消毒薬と湿ったコンクリートの匂いが混じった空気が流れてくる。
電灯は生きていたが、半分ほどが点かない。
壁際には古い金属棚や医療器具のケースが並び、使われなくなった机や椅子が白い布を被せられて積まれている。
「千燈先輩」
小毬が小声で呼ぶ。
「匂い、強くなってます?」
「うん。この奥」
千燈は冗談を言わず、真剣な顔で歩いていた。
血の匂いが強い。
けれど生々しい匂いではない。
古い紙の中へ染み込んだ錆のような、時間の経った匂いだった。
それでも千燈には、一滴ごとの違いが分かってしまう。高熱に浮かされながら採られた血、別れを告げられた直後に流した血、誰にも言えない願いを抱えたまま差し出された血。それぞれの感情が腐らずに匂いへ残り、暗い廊下の奥から彼女の名前を呼んでいた。
他の四人には聞こえていないはずなのに、千燈は何度も後ろを振り返った。足音が一つ多い。立ち止まれば消え、歩き出すとまた付いてくる。百年以上生きた自分の歩幅へ、知らない誰かがぴたりと合わせていた。
廊下の突き当たりに、小さな保管室がある。
扉には古いプレートが残っていた。
『認知環境研究室 生体試料保管』
「また認知環境研究室か」
玄兎の声から、さっきまで残っていた軽さが消えた。
透羽は扉のプレートへ触れず、まず周囲へ細い水の膜を走らせる。
「昨日の記憶保存庫と同じ研究系統です。誰も先に触れないでください」
「心理研究で、生体試料まで扱ってたってこと?」
「当時の研究計画を読まなければ断定できません。ただ、少なくとも記録の移管が完全ではなかった可能性があります」
千燈が扉の向こうから漂う匂いに顔をしかめた。
「その移管漏れの中に、血が残ってる」
「嫌な予感しかしないな」
透羽は周囲の水膜を保ったまま鍵を取り出した。
透羽が鍵を開けると、その先は小さな保管室になっていた。壁一面に小さな引き出しが並び、中央には古い金属製の箱が置かれている。
箱の蓋には、薄れた文字でこう書かれていた。
『情動記憶残留試験 記録票』
「情動記憶」
玄兎が読み上げる。
「血に強い感情が残るかを調べてた?」
千燈が呟いた。
「私の《血読》みたいな発想」
透羽が箱の周囲へ水を流し、怪異反応を確認する。
「反応があります。かなり強い」
依澄も目を細めた。
「中に、いっぱいある」
「夢?」
「『忘れないで』がいっぱい」
玄兎は箱へ近づこうとして、透羽に腕を掴まれた。
「待ってください」
「触らないよ」
「玄兎は怪異にとって反応が強すぎます。少し離れて」
「はい」
千燈が玄兎の前へ出る。
「私が見る」
「千燈」
「触る前に確認するだけ」
彼女は箱の蓋へ顔を近づけ、匂いを確かめた。
「乾いた血。かなりの人数。たぶん、指先を刺して紙に押した程度」
「研究試料?」
「そうだと思う」
透羽が古い記録簿を棚から見つけた。
「ありました」
埃を払い、慎重にページを開く。
『情動記憶残留試験』
『被験者に「絶対に忘れたくない記憶」を一件想起させ、指尖採血による血痕と自由記述を保存。一定期間後、記憶再生時の生理反応との相関を観測する。』
「何人?」
「最終番号は百十二」
「百十二人分の『絶対に忘れたくない記憶』」
千燈が苦い顔をする。
「そりゃ怪異になるよ」
小毬が箱の周囲を嗅ぐ。
「でも、何で今なんですか?」
「献血」
千燈が答えた。
「今日、真上で大量の新しい血が集まった。その匂いに反応して、昔の血が起きた」
依澄が箱を見つめる。
「新しい身体が来たと思った?」
「採血したばかりの傷と、身体から離れた血液バッグ。その両方を、記憶の移り先へ通じる入口にしたのかもしれない」
千燈が、地上を意識するように天井へ目を向ける。
「……上の人たち、このまま近くに置けないな」
玄兎がそう言い終えた直後、金属箱の内側から、こつ、と小さな音がした。全員が息を止めて見守る中、同じ音がもう一度響き、やがて蓋の隙間から赤黒い糸のようなものがゆっくりと伸び始めた。
「下がって!」
透羽が水の膜を広げる。
赤い糸は水へ触れた瞬間、何十もの声を上げた。
『忘れたくない』
『母さんの声』
『あの夏』
『卒業式』
『約束』
『顔を忘れたくない』
『私が死んでも』
『誰かの中に』
声が保管室を埋める。
引き出しという引き出しが内側から震え始めた。金属の取っ手が細かく鳴り、壁一面から歯を打ち鳴らすような音がする。声は箱一つから出ているのではない。この部屋に保存された全ての血が目を覚まし、長いあいだ言えなかった言葉を一斉に吐き出していた。
千燈の視界へ、知らない顔が瞬くたびに差し込む。泣いている老女、歯を食いしばる少年、眠ったまま採血された患者。次の瞬間には誰の顔だったか分からなくなるのに、失いたくないという感情だけが胸へ残り、自分自身の記憶と区別できなくなっていく。
千燈が顔をしかめた。
「うるさい……」
「千燈先輩?」
「私には、みんな血から直接喋ってるみたいに聞こえる」
赤い糸が一斉に千燈へ向いた。
「千燈!」
玄兎が叫ぶ。
透羽が《白羽》で糸を切る。
切断された糸は床へ落ちる前に血の粒へ変わり、また箱へ戻っていく。
「狙いは千燈?」
「私の方が記憶を保持しやすいって分かってるのかも」
千燈は後退する。
『器』
今度は別の声が混じる。
玄兎の胸の痣が熱くなった。
「俺もか」
『空白』
『たくさん空いている』
『入れられる』
玄兎の顔から血の気が引く。
「……俺の消えた記憶のところに入る気?」
「玄兎、下がって!」
透羽の声が鋭くなる。
「分かってる!」
玄兎は自分から距離を取った。
以前のように、囮になるため近づかない。
小毬がすぐ玄兎の横へ立つ。
「先輩、こっちです!」
「うん」
依澄は箱から溢れる声を聞いていた。
「この怪異、消えたくないんじゃない。自分が誰だったか分からなくなってる」
玄兎が依澄を見る。
箱の中では、「母さん」「卒業式」「私が死んでも」という声が互いの声色へ入り込み、どの言葉が誰のものか境目を失っていた。
千燈の顔が硬くなる。
「……私と同じだ」
「千燈?」
「深く読みすぎた時の私」
赤い糸がまた伸びる。
今度は、切られても切られても増えた。
「このままだと献血会場の血まで全部繋がる!」
千燈が言う。
「元の記憶を分ける必要がある」
「どうやって?」
「私が読む」
「千燈」
玄兎の声が低くなる。
「全部じゃない」
千燈は玄兎を見た。
「核になってる感情だけ探す。誰か一人の『忘れたくない』が、全部を束ねてるはず」
「危険です」
透羽が即座に言う。
「百人以上の血が混ざっています」
「分かってる。でも私以外が触れたら、今みたいに記憶を押しつけられるだけ」
「依澄の夢で」
「夢は記憶の映像を見せられても、血に残った感情の持ち主までは分けにくい」
依澄も、悔しそうに小さく頷いた。
「千燈の方が分かる」
玄兎は千燈を見る。
「止めてほしい時は言うって言ったな」
「うん」
「今は?」
「止めないで」
玄兎は少しだけ迷ったものの、最後には千燈の意思を尊重して頷いた。
「分かった」
透羽が玄兎を見る。
「玄兎」
「千燈が決めた」
「しかし」
「無茶しそうなら、その時止める」
千燈が微笑む。
千燈は自分の右手を見た。
「じゃあ、行くね」
◇
千燈が金属箱へ指先を触れた瞬間、保管室の床が消えた。
正確には、千燈の意識から現実が剥がれ落ちた。
最初に流れ込んできたのは、知らない母親が台所で味噌汁を作りながら笑っている光景だった。次の瞬間には夏の河原へ切り替わり、裸足で走る少年の足裏へ冷たい水が跳ね、夕焼けが水面へ滲む。さらに卒業式の体育館で泣きながら笑う友人、病院の白い廊下、潮風の強い海辺、古いアパートの狭い玄関、新幹線のホームで振られる手が、順番も年代も無視して次々と押し寄せた。
映像だけではない。嬉しさ、寂しさ、会いたさ、帰りたさ、許してほしい気持ち、忘れたくない執着、愛情、憎しみ、恐怖。百を超える人生から最も強く残った感情だけが、同時に千燈の胸へ流れ込んでくる。
味まであった。誕生日の甘いケーキ、病室で無理に飲み込んだ薄い粥、喧嘩のあとに噛んだ唇の鉄臭さ。皮膚には真冬の火葬場の風と、夏祭りで繋いだ手の汗が同時に蘇る。千燈の身体は一つしかないのに、百十二人分の心臓が別々の速さで胸を叩き始めた。
誰かの母親を恋しく思った直後、自分にもその母親がいたような気がした。知らない青年を愛した痛みが、昔の自分の恋と同じ場所へ重なる。
千燈は歯を食いしばった。
「違う。これじゃない」
声に出したつもりだった。
自分の声なのかも分からない。
濁流のような感情の中に、一つだけ異様に強い核があった。視界が古い研究室へ固定され、一人の女子学生が机の前へ座っている。目の前には、実験用の記入用紙が置かれていた。
『絶対に忘れたくない記憶を書いてください』
彼女は長い時間、何も書けずにいた。やがて震える手でペンを取り、質問とは少しずれた一文を書き込んだ。
『忘れられたくない』
彼女が残したかったのは「忘れたくない記憶」ではなく、「自分を誰かに忘れてほしくない」という願いだった。
女子学生は笑っていたが、その周囲には誰もいない。卒業を目前にして、親しい友人たちはそれぞれ別の街へ進み、恋人ともすでに別れ、家族との関係も遠くなっていた。
『私がいなくなっても、誰かの中に残れるなら』
指先から一滴の血を落とす。
『誰かの記憶になりたい』
その願いが、百十二人分の「忘れたくない」に絡みついている。
「見つけた」
千燈がそう呟いた瞬間、女子学生がゆっくり振り返った。ところが、その顔は見る間に別人のものへ変わり、祭りの夜に千燈の前へ現れた昔の青年の姿になった。
「……」
『千燈』
心臓が止まりそうになる。
「違う」
『まだ夜を歩いているのか』
「あなたじゃない」
『忘れたくないだろう』
声は記憶の中と同じように優しく、その優しさがかえって千燈を怖がらせた。
『私の声も』
千燈の喉が詰まる。
記憶の中にいた青年の、本当の声を千燈はもう正確には思い出せない。語尾の癖も、笑い方も、自分の名前を呼ぶ時の声の高さも、長く生きた時間の中で少しずつ薄れてしまった。
『忘れたくないなら、血に残せばいい』
青年の顔が玄兎へ変わる。
『玄兎も』
「……やめて」
『消える』
目の前では玄兎が笑っていた。今の二十歳の姿だったものが次の瞬間には六歳の少年へ変わり、さらに顔もはっきりしない赤ん坊へと遡っていく。
『死ぬたびに』
『忘れる』
『なら』
『あなたが持てばいい』
千燈の目の前へ、赤い血が差し出される。
『読めばいい』
『全部』
『あなたの中なら残る』
千燈の指が、差し出された血へ無意識に伸びた。玄兎がこれから失っていく記憶を、自分なら代わりに残せるかもしれない。彼が忘れてしまっても、自分が覚えていればいい――そんな考えが、恐ろしいほど自然に胸へ入り込む。
「……」
指先が赤い液面へ触れる寸前で、千燈は昼間に聞いた玄兎の声を思い出した。
――千燈が自分じゃなくなるかもしれない方法で調べるのは違う。
千燈は手を止めた。
「違う」
『何が』
「それは、玄兎くんの記憶」
『忘れる』
「だからって」
千燈は震える手を握った。
「私が盗んでいい理由にはならない」
『覚えていたい』
「覚えていたいよ」
胸が痛んだ。その痛みが自分のものなのか、流れ込んだ誰かのものなのか、一瞬分からなくなる。昔の青年を失った自分の寂しさ、玄兎を失いたくない今の自分の恐怖、そして百十二人の「大切な誰かを失いたくない」という感情が、境界をなくして混ざり合っていた。
「でも」
千燈は、混ざり合う感情の中から自分自身の輪郭を一つずつ拾い直した。
「緋鴉千燈」
大学では三年生として暮らしている。夜型で、人工血は冷やしすぎると味が落ちる。流行りの服が好きで、烏と視界を共有しすぎれば頭が痛くなる。透羽をからかうのは楽しいし、小毬の反応は分かりやすい。依澄の質問は時々、長く生きた自分でも答えに困る。
そして最後に、玄兎の血について考える。そこだけは、自分の感情を誤魔化せなかった。
「……読みたくなるくらい、気になる」
自分の言葉だった。
「でも、読まない」
赤い世界へ向かって言う。
「あなたを覚えていたいから、血では読まない」
目の前の玄兎が、ゆっくり崩れる。
昔の青年も消える。
最後に残ったのは、一人の女子学生だった。
『忘れられたくない』
「うん」
千燈は彼女へ近づく。
「分かるよ」
『誰かの中に残りたい』
「それも分かる」
『じゃあ』
「でも、人の中へ勝手に入ったら」
千燈は自分の胸へ手を当てた。
「その人が誰か分からなくなる」
『私は消える』
「記録に残ればいい」
『記録』
「名前でも、写真でも、誰かが覚えてる話でもいい」
『血じゃなくても?』
「血じゃなくても」
千燈は笑った。
「むしろ、そっちの方が安全」
女子学生の表情が、少しだけ緩んだ。
◇
「千燈!」
現実へ戻った瞬間、最初に聞こえたのは玄兎の声だった。
千燈は床へ膝をついていた。
右手は金属箱に触れたまま。
透羽がすぐに手首を掴む。
「離してください!」
「……うん」
千燈は自分で指を離した。
その瞬間、赤い糸が箱から一気に溢れ出す。
「来ます!」
小毬の警告と同時に、透羽が前へ出て水の壁を張った。
「《水鏡》!」
赤い糸が水膜へぶつかり、何百もの声を上げる。
千燈は立ち上がろうとして、ふらついた。咄嗟に右手をついた金属棚の縁で、人差し指の付け根を浅く擦る。細い赤が滲んだが、千燈は気にする余裕もなく顔を上げた。
玄兎が手を伸ばしかける。
「触っていい?」
千燈は一瞬驚いた。
以前、血読の後で混乱した千燈は「離して」と言った。
それを覚えている。
「……肩だけ」
「分かった」
玄兎は千燈の肩へ手を添え、身体を支えた。
「自分の名前」
透羽が確認する。
「緋鴉千燈」
「今いる場所」
「朽木ヶ丘大学、旧保健管理棟の地下」
「今日の昼食」
「アイスコーヒーだけ。玄兎くんに食べろって言われた」
「言ってない」
「今、ちょっと混ざったかも」
「そこ冗談?」
「半分」
透羽が眉を寄せる。
「まだ不安定です」
「分かってる」
依澄が千燈の前へ立った。
「千燈」
「なに?」
「一番強い気持ち、誰の?」
千燈は答えようとして言葉を失った。胸の中には、怖さも、誰かに会いたい気持ちも、何かを忘れたくない執着も同時に残っている。どこまでが自分の感情なのか、まだ完全には切り分けられない。
「まだ混ざってる」
「じゃあ」
依澄は静かに言った。
「千燈が今、自分で選べることを言って」
「自分で?」
「うん」
千燈は少し考え、目の前の玄兎を見た。彼は自分の肩を支えているが、その手には傷もなく、血も一滴も出ていない。
「玄兎くんの血を読まない」
「うん」
「今日は」
玄兎が言う。
「今日だけ?」
「今は、それでいいでしょ」
千燈は少し笑った。
「それから」
「うん」
「この怪異を、血の中じゃなくて記録に戻す」
透羽が頷く。
「方法は」
「核は、一人の女子学生の『忘れられたくない』だった。名前を探して」
「記録簿」
小毬がすぐ棚へ走る。
「何年くらいですか?」
「二十数年前。卒業前。女性」
「それだけだと多い!」
「試料番号、たぶん最後の方」
小毬が記録簿をめくる。
「ありました! 一〇八番から女性が三人!」
千燈は記録簿へ並ぶ名前を順番に追った。一人目には何も感じない。二人目へ視線を移した瞬間、先ほど血読の中で触れた感情が胸の奥で強く反応した。
「この人」
透羽が読む。
「被験者一一〇。水城真帆。当時二十二歳、文学部四年」
「水城真帆」
千燈は名前を口にした。
箱の中の声が、一瞬だけ静まる。
「名前、効いてる」
玄兎が言う。
「記録を読んで」
千燈に促され、透羽はページの続きを読み上げる。
「記述内容――『忘れられたくない』。卒業後の連絡先……記録あり。研究終了後、試料廃棄予定」
「廃棄されなかった」
「はい。研究室閉鎖時の移管漏れと思われます」
百十二人に埋もれていた一人の名前を呼ぶと、赤い糸が箱の縁で止まった。
依澄が目を閉じる。
「私、記録される未来を見せる」
《蝶境》が薄く広がる。
保存庫の壁へ、現実にはまだ存在しない大学の歴史資料室が重なった。小さな展示棚には古い研究記録が整理され、その中に「水城真帆」という名前もきちんと残されている。
ほかの百十一人も、匿名ではなく研究参加者として整理されている。
「これ」
依澄が言う。
「血じゃなくて、紙に残す明日」
玄兎は箱へ向き直った。
「水城真帆。血の中に混ざらなくても、名前を残せるようにする」
「久住教授へ記録を渡します」
透羽も続けた。
「保存の手続きは大学に取ってもらいます。何でも公開できるわけではありません。でも、ここに記録があることまで忘れさせません」
小毬が記録簿を胸の前で大切そうに抱える。
「私たちも今日のこと覚えてます!」
千燈は最後に、箱へ向かって言った。
「誰かの中へ混ざらなくても、あなたがいたことは消えないよ」
赤い糸が、ゆっくりと力を失っていく。
『忘れない?』
「全部は無理」
千燈は正直に答えた。
「人は忘れるし、私だって長く生きてるうちに忘れたことがいっぱいある」
『なら』
「でも、忘れることと、いなかったことになるのは違う」
糸が一本ずつ箱へ戻る。
「思い出せなくなったら、記録を見ればいい。誰かに聞けばいい」
最後の赤い糸が箱へ戻った。
金属箱の蓋が、自分から静かに閉じた。
◇
献血会場で記憶の混線を起こしていた学生たちは、夕方までにほぼ元の状態へ戻った。
知らない妹の誕生日を心配していた男子学生も、自分が一人っ子であることを普通に認識している。ただ、「苺が嫌いな七歳の女の子」の記憶だけは、夢を見たように薄く残っているという。
医療スタッフと鷺宮家の確認により、集められた血液には怪異反応が残っていないことも確認された。ただし安全を優先し、その日の分は通常の流通へ回さず、専門機関で追加確認されることになった。
地下から戻ると、旧保健管理棟の入口近くで久住教授が待っていた。施設管理の職員を先に帰したあと、五人の顔を一人ずつ見て、最後に千燈の足元で視線を止める。
「全員、自分の名前と今日の日付は言えるか」
「教授、そこから確認するんですか」
玄兎が苦笑すると、久住は笑わなかった。
「記憶に触るものだったんだろう。この前の依澄の件で、自分の認識ほど当てにならないものはないと教わったからな」
報告を聞いた久住は、古い記録簿を受け取った。過去の移管目録には、生体試料の現物が残っているとは書かれていなかったという。
「二十年以上、大学の中で忘れていた。大学側の問題だ」
「保存してもらえますか」
千燈が尋ねると、久住は頷いた。
「同意の範囲と個人情報を確認する。公開できないものは保護して、研究があったことと資料の所在は残す。覚えておくことと晒すことは別だ」
記録簿を鞄へ入れ、久住は千燈へ目を戻した。
「帰る前に、自分の記憶と他人の記憶を鷺宮たちと確認しておけ。君の中のことまで、俺が分かったふりはできん」
千燈は少し笑った。その距離がありがたかった。
大学側はその日のうちに旧保健管理棟の関連区画を立入禁止とし、久住を窓口に、残された研究資料の再整理を始めることになった。
夕方の学食で、透羽は卒業生記録と照合したメモを出した。久住の立ち会いで必要な部分だけを写したものだ。
水城真帆には、卒業時点まで通常の進路記録がある。今回の件でその後の私生活まで追うことはしない。怪異になったのは本人でなく、試料に残った感情だった。
千燈はメモを読んでから、サンドイッチを取った。
「昼より食べてる」
「見張らなくても食べるよ」
千燈は笑い、スープも自分の方へ寄せた。
その手を見て、玄兎は眉を寄せた。地下で金属棚に擦った右手の傷が、まだ薄く残っている。普段の千燈なら、あの程度はもう塞がっているはずだった。
「先輩、その傷まだ残ってる」
「ああ。血読みすぎると、治るのも遅くなるんだよね」
千燈はそれだけ言って、またサンドイッチへ手を伸ばした。
依澄がじっと見る。
「千燈」
「なに?」
「今の気持ち、誰の?」
「依澄ちゃん、その質問かなり怖いよ」
「分かる?」
千燈は少し考えた。
「かなり戻った。まだ海辺の夕焼け見ると、知らない人に会いたくなる気はするけど」
そう答えながら、千燈はスープの表面へ映る自分の顔を見た。
一瞬だけ、知らない老女の顔が重なった。口元は千燈と同じように笑っているのに、目からは涙が流れている。瞬きをすると元へ戻ったが、胸には会ったことのない孫を抱き締めたいという切実な感情が残った。
「完全には戻ってない」
千燈は冗談で薄めずに言い直した。
「今夜眠ったら、他人の夢を見るかもしれない。明日の朝、知らない人の名前を呼ぶかもしれない。それが少し怖い」
玄兎はすぐに励ます言葉を探さなかった。代わりに共有ノートを開き、今日の日付の下へ千燈が昼に選んだ飲み物と、今食べているサンドイッチの具を書いた。
「何してるの?」
「今日の先輩を残してる。明日、誰の気持ちか分からなくなったら一緒に確認する」
「血じゃなくて?」
「血じゃなくて、先輩が自分で話したことを」
千燈はしばらくその文字を見つめたあと、自分の手で一行を書き足した。
『怖い。でも、自分で帰ってくる。分からなければ四人に聞く。』
依澄は、千燈がさっき目を逸らした窓へ顔を向けた。夕日が差している。
「知らない人に会いたくなるのは、その人の気持ち?」
「たぶん。自分のものじゃないって、今は分かる」
千燈はスープの水面から目を離した。
小毬が隣で共有ノートを覗く。千燈はその空欄へ指を置いた。
「玄兎くんの記憶を、代わりに血で保管するのはやめる。忘れたら、普通に話す」
「先輩が困った時も、聞いて」
「うん。調査に血読が要るかどうかは、その時また考える」
千燈は自分の名前を、先ほどの一行の下へ足した。小毬が満足そうに頷いた。
◇
食事のあと、千燈は「少し歩きたい」と言った。
透羽たちは先に久住研究室へ戻り、玄兎だけが何となく千燈と同じ方向へ歩いた。
「送る?」
「私を?」
「体調、まだ完全じゃないだろ」
「夜道で吸血種を送る大学生」
「前にも似た話した」
「覚えてる?」
「覚えてる」
千燈は少し安心したように笑った。
大学から駅へ続く道は、夕方の学生で混んでいる。
二人は人波を避けるように、川沿いの遊歩道へ回った。
夏の終わりが近づき、風が少しだけ涼しくなっている。
「玄兎くん」
「何」
「今日、血読の中でね」
「うん」
「昔の人が出てきた」
玄兎は、祭りの夜に千燈の前へ現れた昔の若い男を思い出した。あの時も千燈は相手の正体を詳しく語らず、玄兎もそれ以上は尋ねなかった。
「本人?」
「違う。怪異が私の記憶から形を借りただけ」
「そっか」
「でも、声が」
千燈は川面を見る。
「私、もう本物の声を正確に思い出せないんだよね」
玄兎は何も言わずに待った。
「写真で顔は分かる。でも声や匂いから、先に薄くなる。血を読めば、戻った気になれるんだよね」
千燈は川面へ目を落とした。
「本当に一緒にいた時の声か、あとから血で聞いただけなのか。それまで分からなくなったら、嫌だな」
風が川面を揺らす。
玄兎は少し考えてから言った。
「じゃあ、今ここで話したことは、普通に覚えてて」
千燈が足を止めた。
「俺も忘れるかもしれないけど」
「そういう『かもしれない』、前は平気だったんだけどな」
今度は笑顔で隠さなかった。玄兎も、すぐに軽い返事をしなかった。
「だから」
千燈はスマートフォンを取り出した。
「写真撮ろ」
「今?」
「今」
「二人で?」
「嫌?」
「嫌じゃないけど」
「じゃあ決まり」
千燈は玄兎の隣へ立ち、スマートフォンを少し上へ持ち上げた。
「もっと寄って」
「近い」
「写真だから」
玄兎が少し寄ると、千燈はもう一度画面を見た。
「撮るよ」
シャッター音が一度鳴った。画面には夕方の川を背景に、黒髪の玄兎と黒に深紅の混じる髪の千燈が並んでいる。玄兎は少し困った顔をしていて、千燈は自然に笑っていた。
「どう?」
「玄兎くん、硬い」
「写真苦手」
「もう一枚」
「まだ?」
「記憶は記録なんでしょ」
「小毬の影響受けてる」
「悪くないと思ってきた」
二度目のシャッター音が鳴る。今度は玄兎も少しだけ力を抜いて笑っていた。
千燈は二枚を見比べ、笑っている方を玄兎へ送った。
「群れ日記に貼ってもいい?」
「うん。二枚目で」
「私も、これを残したい」
千燈は画面を閉じずに、もう一度見た。
二人はそのまま大学へ戻り、久住研究室で待っていた三人と合流した。
◇
五人が別れる前、久住研究室の机で千燈が共有ノートを開き、今日の自分について書いた。
『今日は、血の中で知らない人に会いたくなった。帰り道では、自分で写真を撮りたくなった。』
その下に、夕方撮った二人の写真が貼られていた。
『次は全員!』と小毬が書き足し、透羽もその下へ同じ予定を入れた。透羽の『次回』だけは、普段より少し筆圧が強かった。
依澄は写真を見て、率直な疑問を書き込んでいた。
『これは恋人の写真?』
千燈はその下へ返事を残す。
『まだ違うよ。』
さらに少し間を空けて、もう一行だけ付け足していた。
『でも、ただの血の持ち主ではなくなった。』
玄兎は最後の一文をしばらく見つめた。
自分の番になってから、短く書いた。
『今日は誰も死ななかった。』
『千燈も千燈のまま帰った。』
『写真は、二枚目の方がまだまし。』
玄兎が書き終えると、共有ノートは久住研究室のいつもの保管場所へ戻され、五人はそこで別れた。
◇
その日の夜。
帰宅した玄兎のスマートフォンが震える。
千燈からだった。
『そこ感想?』
『大事。』
『じゃあ次はもっと笑って。』
『努力する。』
『本気で?』
依澄と同じ聞き方だった。
玄兎は少し笑う。
『本気で。』
千燈から返事が来るまで、少し時間がかかった。
『じゃあ、私も。』
『何を?』
メッセージはすぐ既読になったが、しばらく返事は来なかった。やがて画面へ、新しい一文が表示される。
『ちゃんと、自分の気持ちで君を見る。』
玄兎は返事を打ちかけ、しばらく画面を見た。その一文は共有ノートには写さず、千燈とのやり取りに残した。
――第十六話・了