第二章・全36話中 16話

第十六話 献血会場の血が、ひとつにつながっている

読書サポート

BGMと読み上げは同時に利用できます

♫ BGM

停止中

🔊 本文読み上げ

停止中

本文をドラッグして開始位置を選び、「▶ 選択位置から」を押してください。

ブラウザの自動再生制限により、音声はボタンを押すと始まります。読み上げ中はBGMを自動的に小さくします。

 翌日の昼休み、五人は学食の一番奥にある窓際の席へ集まっていた。

 鷺宮透羽が昨夜新しく閲覧できた《百獣繭》の記録を説明し終えたあとも、しばらく誰も箸を動かさなかった。

「つまり、私は玄兎一人の夢からできたわけじゃない」

 蝶ヶ森依澄が、自分の前に置いたオムライスを見ながら確認する。

「記録をそのまま読む限りは、そうです」

 透羽は慎重に答えた。

「《百獣繭》の夢層に蓄積していた、叶わなかった願い、途中で終わった夢、忘れられた記憶。そういった複数のものが集まって、D-02という輪郭を作った可能性が高い。ただし、まだ完全な成立過程までは分かりません」

「玄兎と接触したあと、人の形に近づいた?」

「外部器との接触後に自己組織化が進み、玄兎の夢や記憶を参照して人型人格の形成を始めた、という記録はあります。ただし、その接触が六歳時のいつ起きたのかまでは、まだ分かっていません」

「でも、私の中身が玄兎のコピーだったわけじゃない」

「はい。人格内容は外部器の記憶の複製とは一致せず、独自の選択反応も確認されています」

 依澄は少し考えたあと、オムライスを一口食べた。

「よかった」

「何が?」

 鵺代玄兎が尋ねる。

「今日のケチャップの量は、私が決めた」

「そこ?」

「大事」

「昨日の話を引き継いでるなら、かなり大事か」

「うん」

 依澄は満足したようにもう一口食べた。

 白狼院小毬も、自分の唐揚げ定食から顔を上げる。

「じゃあ、依澄先輩は依澄先輩ってことでいいんですよね?」

「最終的な正体はまだ調査が必要です」

 透羽が答える。

「でも、今の依澄先輩が自分で考えてるのは確定?」

「それは、昨日の時点でも十分確認できています」

「じゃあ大丈夫です!」

「小毬は結論が速いな」

「先輩たちが慎重すぎるんです」

「こっちは調査してるから」

 そんな会話の間も、緋鴉千燈だけはほとんど口を挟まなかった。

 いつもなら、小毬の「大丈夫です!」に何か一言乗せる。依澄のオムライスにも、透羽の甘いデザートにも、玄兎のブラックコーヒーにも、だいたい何かしら余計なことを言う。

 今日は、アイスコーヒーの氷をストローでゆっくり回しているだけだった。

「先輩」

 玄兎が呼ぶ。

「ん?」

「静か」

「たまにはいいでしょ」

「具合悪い?」

「そういう聞き方するようになったんだね」

「嫌ならやめる」

「嫌じゃない」

 千燈は少し笑った。

 けれど、その笑顔がいつもの逃げ道としての笑顔であることを、玄兎はもう知っている。

「何か考えてる?」

「考えてるよ」

「依澄のこと?」

「それも」

 千燈はストローから手を離した。

「玄兎くん。六歳の時のこと、本当に何も覚えてない?」

「うん」

「黒い水も。大きな月も」

「千燈が前に血から見たって言った景色は、何も」

「そっか」

 千燈の視線が、玄兎の手へ落ちた。そこには傷ひとつなく、昨日から今日にかけても、玄兎は珍しく一度も怪我をしていない。

「読めば、見えるかもしれない」

 小毬の箸が止まった。

 透羽の目も一瞬で鋭くなる。

 依澄だけが、静かに千燈を見た。

「俺の血?」

「うん。前に偶然触れた時、六歳くらいの君がどこかで倒れている断片までは見えた。でも、あの時も言ったけど、血読だけじゃ本当に死んでいたかまでは分からない」

 千燈は一度言葉を切り、玄兎の顔を見た。

「今は《百獣繭》やD-02、それに六歳時の内部記録まである。もう少し深く読めば、あの景色が何だったのか、前より意味を拾えるかもしれないって考えてた」

「千燈」

 透羽が名前を呼ぶ。

「分かってる」

 千燈は苦笑した。

「やらないよ」

「……」

「そんな顔しないで、透羽ちゃん。今日は提案してない」

「では、なぜ口にしたのですか」

「私が考えてたことを、玄兎くんに聞かれたから」

 玄兎は千燈を見る。

「読みたい?」

「すごく」

 答えは思ったより速かった。

「黒い水も、大きな月も、倒れていた君も、今なら前より近いところまで意味が分かるかもしれない。六歳時の記録と本当に同じ場面なのかも確かめたい」

 そこで千燈は、少しだけ視線を落とした。

「でも、読みたくない」

「どっち?」

「両方」

 千燈はアイスコーヒーの表面を見つめた。

「《血読》で見た記憶は、映像を見るだけじゃないんだよ。その人がその時感じていた感情まで、私の中へ入ってくる」

「前に聞いた」

「うん。非常階段で胸を潰されて、本当に死ぬ直前に感じていた怖さも、しばらく私の中に残った」

「……」

「六歳くらいの断片だって同じ。あの時の君が誰かを好きだったり、誰かを憎んでいたり、もう助からないと思うほど怖がっていたなら、その感情まで一緒に私の中へ入ってくる」

 千燈は少しだけ目を細めた。

「その感情を使って、私が今の君を好きなのかどうか分からなくなるのは、ちょっと嫌」

 玄兎は返事を失った。

 小毬が千燈を見つめる。

「千燈先輩」

「何、小毬ちゃん」

「今の、かなり本気です?」

「聞く?」

「聞きたいです」

「じゃあ内緒」

「何でですか!」

 千燈がようやく少しだけ、いつもの笑い方をした。

 玄兎は、その笑顔を見てから言った。

「じゃあ、読まなくていい」

「そんな簡単に?」

「俺も知りたいけど」

「うん」

「千燈が自分じゃなくなるかもしれない方法で調べるのは違う」

 千燈の瞳が、わずかに揺れる。

「玄兎くん」

「何」

「最近、まともなこと言うね」

「前から」

「それは審議」

「ひどい」

 透羽が静かに息を吐いた。

「少なくとも、玄兎の血を追加調査に使うことは保留します」

「保留じゃなくてもいいけど」

「将来的に、本人たちが必要と判断する可能性は否定しません。ただし、安全策なしでは認めません」

「透羽らしい」

「当然です」

 依澄が千燈へ尋ねる。

「千燈」

「なに?」

「自分の気持ちと、他人の気持ちが混ざるのは怖い?」

「怖いよ」

「私が消えるのと似てる?」

 千燈は少し考えた。

「似てるところもあるかもね。依澄ちゃんは世界から自分を見失われる。私は、自分の中で自分を見失う」

「じゃあ」

「うん?」

「千燈も、消えたくない」

 千燈は一瞬だけ、何も言わなかった。

「そうだね」

 その返事には、冗談がなかった。

     ◇

 昼休みが終わり、五人が学食を出たところで、中央広場に赤いテントが並んでいるのが見えた。

 大学の保健管理センターと地域の医療機関が共同で行う献血協力日だった。

 白い献血車が二台。学生ボランティアが案内板を持ち、テントでは飲み物や菓子が配られている。

「お菓子」

 小毬が足を止めた。

「献血した人用だぞ」

 玄兎が言う。

「分かってます!」

「目が完全にお菓子見てた」

「活動に興味を持っただけです!」

「肉系のお菓子ないぞ」

「失礼です!」

 千燈が献血車を眺め、乾いた笑いを漏らした。

「大学って面白いよね」

「何が?」

「私が一番近づいちゃいけないイベントを、正面玄関の近くでやるんだもん」

「吸血種目線で献血を見るな」

「大丈夫。飲まないよ」

「当たり前です」

 透羽が即座に言った。

「透羽ちゃん、私への信用が低い」

「実績です」

「玄兎くんの血を『一口だけ』って言ったの、まだ覚えてる?」

「忘れるわけないだろ」

「根に持ってる」

「普通は持つ」

 玄兎が苦笑する。

 その時、テントの向こうから一人の女子学生が千燈へ大きく手を振った。

「千燈ー!」

「ん?」

 千燈も手を上げる。

「知り合い?」

「同じ学部の友達」

 女子学生はボランティア用の赤いビブスを着ていた。

「助かった! 今、人足りないんだけど少し手伝えない?」

「私を献血会場で働かせるの?」

「何その言い方。受付だけ!」

「私、血を見ると性格変わるかもよ」

「いつもの冗談でしょ。十五分だけお願い!」

 友人は千燈が本当に吸血種だとは知らないらしい。

 千燈は玄兎たちを見る。

「どうしよ」

「知り合い多いな」

「大学三年やってるからね」

「行ってきたら?」

「玄兎くんが寂しい?」

「全然」

「即答ひどい」

「千燈先輩、私も受付手伝います!」

 小毬が手を上げる。

「お菓子目的?」

「社会貢献です!」

「じゃあ小毬ちゃんも借りる」

 透羽は時計を見た。

「私は次の講義があります」

「俺も」

「私は空いてる」

 依澄がそう答えると、千燈は彼女へ顔を向けた。

「じゃあ依澄ちゃんも来る?」

「血、見ていい?」

「見学はほどほどに」

「分かった」

 玄兎と透羽は三人を献血会場に残し、次の講義へ向かった。この時はまだ、ほんの一時間後に、集められた血が他人の記憶を語り始めるとは誰も思っていなかった。

     ◇

 異変の最初は、献血を終えた一年生の男子学生だった。

 休憩用の椅子へ座り、紙パックの飲み物を飲んでいた彼が、突然泣き始めた。

「え、ちょっと。大丈夫?」

 近くにいたボランティアが声をかける。

 男子学生は自分でも理由が分からないようだった。

「違う……」

「何が?」

「俺、妹いないのに」

 涙を拭いながら、彼は震える声で言った。

「妹を置いてきた気がする」

 周囲が静まる。

「家に帰らないと。今日、誕生日で……ケーキ買うって」

「君、一人っ子だよね?」

 友人らしい学生が戸惑う。

「そうだけど。でも、違う。いる。七歳で、苺が嫌いで……」

 男子学生自身が混乱していた。

 少し離れた受付にいた千燈が立ち上がる。

 表情から笑みが消えた。

「小毬ちゃん」

「はい」

「玄兎くんと透羽ちゃん呼んで」

「怪異?」

「たぶん」

 依澄も男子学生を見ていた。

「この人の夢じゃない」

「分かる?」

「うん。誰か別の人の『帰りたい』が混ざってる」

 千燈は男子学生のそばへ行き、しゃがんだ。

「ねえ。今、指とか痛くない?」

「え?」

「献血した腕じゃなくて、他に傷」

「ない、と思います」

「じゃあ無理に何もしなくていい」

 千燈は医療スタッフへ向き直った。

「体調として変なところは?」

「血圧も脈拍も大きな異常はありません。念のため別スペースで休ませます」

「お願いします」

 千燈は血の匂いを意識して嗅いだ。

 会場には、当然ながら普段より多くの血の気配がある。

 ただ、今日はその全部が妙に「近い」。

 本来、他人の血はそれぞれ別々の匂いとして感じられる。

 ところが献血車の奥から漂ってくる気配は、何人分もの血が一本の糸で縫い合わされているようだった。

「……嫌だな」

「何が?」

 依澄が聞く。

「血が喋りたがってる」

「声?」

「私にはそう感じる」

 そこへ、別のテントから女性の声が上がった。

「知らない! その人、知らないのに!」

 今度は二人目の異変だった。二年生の女子学生が、自分の胸を押さえながら混乱した顔をしている。

「何でこんなに会いたいの……?」

 彼女は「靖人」という知らない男の名前を何度も口にした。

 数分もしないうちに三人目、四人目の異変が続いた。献血を終えた学生たちは、誰かの子供の顔、知らない実家の台所、見たことのない海辺、何十年も前の卒業式といった、自分には覚えのない情景を次々と口にし始める。

 混線は思い出すだけでは終わらなかった。

 知らない海辺を語っていた学生の靴から、濡れた砂がこぼれた。床へ落ちた砂はすぐに消えたが、足跡だけはテントの外へ続き、誰もいない広場の中央で途切れた。別の学生は、存在しないはずの左手の指を痛がった。目には五本揃って見えるのに、本人は「薬指がない」と泣き叫び、そこへ包帯を巻いてくれと訴える。

 最初の男子学生は、妹のために帰ると言って立ち上がった。友人が止めると、彼は初対面の相手を見る目で怯えた。

「誰だよ。妹を隠したの、お前か」

 声つきまで別人のように低い。次の瞬間には我に返り、友人の名を呼んだが、また数秒後には「早くケーキを買わないと」と同じ言葉を繰り返す。

 会場の時計が、一斉に二十三分だけ巻き戻った。秒針は正常に進んでいるのに、表示される時刻だけが何度直しても同じ瞬間へ戻る。

 血液バッグの中では、赤い液体が人の呼吸のように膨らんだり縮んだりしていた。一本が動くと隣も続き、やがて百人分近い血が同じ拍動を始める。採血管の細いチューブが床へ垂れ、何かを探す触手のようにゆっくり向きを変えた。

 内容はばらばらなのに、そこへ伴う感情だけは共通していた。どの記憶にも、「失いたくない」「忘れたくない」という強い執着が貼り付いている。

「依澄ちゃん」

「うん」

「会場から一般学生を離せる?」

「夢を使う?」

「まだ使わなくていい。普通に誘導して」

「分かった」

「小毬ちゃんは」

「玄兎先輩たち、もう来ます!」

「じゃあ、医療スタッフへ『設備の異常かもしれない』って伝えて。血液バッグを動かさないようにしてもらって」

「はい!」

 千燈は献血車の入り口へ視線を向け、さらに濃くなった血の匂いを慎重に嗅ぎ分けた。その中に一つだけ、周囲の新しい血とは明らかに違う、長い時間を経た古い血の匂いが混じっている。

「何で、こんなところに」

 千燈は小さく呟いた。

 何十年も前に乾いたはずの血が、献血車の奥からではなく、広場の地下から匂っていた。

     ◇

 玄兎と透羽が戻ってきた時には、中央広場の一角は簡易的に封鎖されていた。

 大学側には「複数の体調不良者が出たため」と説明され、献血は中断されている。

「千燈!」

 透羽が駆け寄る。

「状況は?」

「献血した人に、別人の記憶と感情が混ざってる」

「血液を介して?」

「まだ断定できない。でも、全員ここで献血した直後」

 玄兎は休憩テントの学生たちを見る。

「命に関わる状態は?」

「今のところない。混乱が強いだけ」

「よかった」

「ただし」

 千燈は広場の地面を見た。

「下に古い血がある」

「地下?」

「うん。かなり古い」

 透羽はすぐ施設図面を端末で確認した。

「この広場の下は、現在は閉鎖された旧保健管理棟の地下倉庫です」

「また旧施設」

 玄兎が顔をしかめる。

「この大学、古いもの残しすぎじゃない?」

「私も最近そう思います」

 透羽まで真顔で同意した。

 小毬が地面へ鼻を近づける。

「鉄っぽい匂い、あります。千燈先輩が言う方向」

「小毬にも分かる?」

「古いから薄いです。でも、何人分か混ざってます」

 依澄は広場の端へ視線を向けた。

「下で、誰かが『残して』って言ってる」

「夢?」

「夢と記憶の間みたい」

 玄兎は透羽を見る。

「行く?」

 玄兎に問われ、透羽はすぐには頷かなかった。地面の下に怪異反応があるからといって、閉鎖された大学施設へ勝手に入るわけにはいかない。まして今回は、献血に使われた血液と学生の体調にまで影響が出ている。

「まず久住教授へ連絡します。旧施設と認知環境研究室が関係しているなら、施設管理課だけに事情を伏せて鍵を借りるより、その方が早いです」

「教授には怪異のことも話す?」

「隠す理由がありません。これまでの件も把握しています」

 透羽はその場で久住へ電話をかけた。短く状況を説明し、中央広場の地下から古い血の気配がすること、献血後の学生に他人の記憶らしきものが混ざっていることを伝える。

 数秒の沈黙のあと、電話の向こうで久住の声が低くなった。

『認知環境研究室の名前がまた出たのか』

「はい。地下区画との直接の関係はまだ確認できていません」

『旧保健管理棟には、あの研究室が使っていた保管区画があったという記録を見た覚えがある。生体試料まで残っているとは思っていなかったが……分かった。施設管理には俺から話す。一般の職員は地下へ入れないようにする』

 透羽はわずかに眉を寄せた。

「教授は来ないでください。記憶へ干渉する怪異なら、見えるかどうかに関係なく影響を受ける可能性があります」

『この前、依澄を認識できなくなった件を経験したあとで、その忠告を無視するほど自信家じゃないよ。俺は上で人を止める。お前たちも、原因を確かめることと無茶をすることを混同するな』

「分かっています」

 通話を切ったところで、千燈が広場の地面へ視線を落としたまま口を開いた。

「手順を踏むのは賛成。でも、あまり時間はかけられないよ。血液バッグの方にも、古い感情が入り始めてる」

 透羽の顔色が変わる。

「医療用途へ影響する可能性があるのですか」

「まだ分からない。だからこそ、原因が怪異なら先に切り離した方がいい」

 そこからの判断は速かった。献血で集められた血液は医療スタッフの管理下で通常の搬送から外され、鷺宮家の協力者が到着するまで別区画で隔離される。体調不良を訴えた学生たちは保健管理センターで経過観察となり、一般学生には「複数の体調不良者が出たため」とだけ説明して広場から離れてもらった。

 十分もしないうちに、施設管理課の職員が地下区画の鍵を持ってきた。久住から話が通っているらしく、余計な詮索はせず、「中で異常があればすぐ戻るように」とだけ念を押して引き返していく。

 五人は互いの顔を確認してから、旧保健管理棟の地下倉庫へ向かった。久住は約束どおり地上に残り、施設管理と保健管理センターの間に立って、誰も地下へ近づかないよう調整していた。

「千燈」

 地下へ向かう途中、玄兎が呼ぶ。

「何?」

「無理に血読しなくていいから」

「さっきからそれ言われると思ってた」

「必要なら、他の方法考える」

「玄兎くん」

「うん」

「私は自分で使うか決めるよ」

 声は穏やかだった。

「止めてほしい時は言う。その代わり、私が必要だと思った時まで先回りして禁止しないで」

 玄兎は少し考える。

「分かった」

「素直」

「最近よく言われる」

「成長期だね」

「二十歳」

「まだ若い若い」

「千燈は二十一設定だろ」

「設定って言い方やめて」

 少しだけ、いつもの千燈が戻った。

     ◇

 旧保健管理棟の地下倉庫は、現在の中央広場の真下にあった。

 階段を降りると、消毒薬と湿ったコンクリートの匂いが混じった空気が流れてくる。

 電灯は生きていたが、半分ほどが点かない。

 壁際には古い金属棚や医療器具のケースが並び、使われなくなった机や椅子が白い布を被せられて積まれている。

「千燈先輩」

 小毬が小声で呼ぶ。

「匂い、強くなってます?」

「うん。この奥」

 千燈は冗談を言わず、真剣な顔で歩いていた。

 血の匂いが強い。

 けれど生々しい匂いではない。

 古い紙の中へ染み込んだ錆のような、時間の経った匂いだった。

 それでも千燈には、一滴ごとの違いが分かってしまう。高熱に浮かされながら採られた血、別れを告げられた直後に流した血、誰にも言えない願いを抱えたまま差し出された血。それぞれの感情が腐らずに匂いへ残り、暗い廊下の奥から彼女の名前を呼んでいた。

 他の四人には聞こえていないはずなのに、千燈は何度も後ろを振り返った。足音が一つ多い。立ち止まれば消え、歩き出すとまた付いてくる。百年以上生きた自分の歩幅へ、知らない誰かがぴたりと合わせていた。

 廊下の突き当たりに、小さな保管室がある。

 扉には古いプレートが残っていた。

『認知環境研究室 生体試料保管』

「また認知環境研究室か」

 玄兎の声から、さっきまで残っていた軽さが消えた。

 透羽は扉のプレートへ触れず、まず周囲へ細い水の膜を走らせる。

「昨日確認した記憶保存庫と同じ研究系統です。久住教授が言っていた『保健管理棟の保管区画』は、ここでしょう」

「心理研究で、生体試料まで扱ってたってこと?」

「当時の研究計画を読まなければ断定できません。ただ、少なくとも記録の移管が完全ではなかった可能性があります」

 千燈が扉の向こうから漂う匂いに顔をしかめた。

「その移管漏れの中に、血が残ってる」

「嫌な予感しかしないな」

「私も同感です。開けますが、誰も先に触れないでください」

 透羽が鍵を開けると、その先は小さな保管室になっていた。壁一面に小さな引き出しが並び、中央には古い金属製の箱が置かれている。

 箱の蓋には、薄れた文字でこう書かれていた。

『情動記憶残留試験 記録票』

「情動記憶」

 玄兎が読み上げる。

「血に強い感情が残るかを調べてた?」

 千燈が呟いた。

「私の《血読》みたいな発想」

 透羽が箱の周囲へ水を流し、怪異反応を確認する。

「反応があります。かなり強い」

 依澄も目を細めた。

「中に、いっぱいある」

「夢?」

「『忘れないで』がいっぱい」

 玄兎は箱へ近づこうとして、透羽に腕を掴まれた。

「待ってください」

「触らないよ」

「玄兎は怪異にとって反応が強すぎます。少し離れて」

「はい」

 千燈が玄兎の前へ出る。

「私が見る」

「千燈」

「触る前に確認するだけ」

 彼女は箱の蓋へ顔を近づけ、匂いを確かめた。

「乾いた血。かなりの人数。たぶん、指先を刺して紙に押した程度」

「研究試料?」

「そうだと思う」

 透羽が古い記録簿を棚から見つけた。

「ありました」

 埃を払い、慎重にページを開く。

『情動記憶残留試験』

『被験者に「絶対に忘れたくない記憶」を一件想起させ、指尖採血による血痕と自由記述を保存。一定期間後、記憶再生時の生理反応との相関を観測する。』

「何人?」

「最終番号は百十二」

「百十二人分の『絶対に忘れたくない記憶』」

 千燈が苦い顔をする。

「そりゃ怪異になるよ」

 小毬が箱の周囲を嗅ぐ。

「でも、何で今なんですか?」

「献血」

 千燈が答えた。

「今日、真上で大量の新しい血が集まった。その匂いに反応して、昔の血が起きた」

 依澄が箱を見つめる。

「新しい身体が来たと思った?」

「採血したばかりの傷と、身体から離れた血液バッグ。その両方を、記憶の移り先へ通じる入口にしたのかもしれない」

 千燈は、地上に残してきた学生たちを思い浮かべるように目を細めた。

「記憶の移し先」

 玄兎が言う。

「忘れないために、別の人へ入る」

 玄兎がそう言い終えた直後、金属箱の内側から、こつ、と小さな音がした。全員が息を止めて見守る中、同じ音がもう一度響き、やがて蓋の隙間から赤黒い糸のようなものがゆっくりと伸び始めた。

「下がって!」

 透羽が水の膜を広げる。

 赤い糸は水へ触れた瞬間、何十もの声を上げた。

『忘れたくない』
『母さんの声』
『あの夏』
『卒業式』
『約束』
『顔を忘れたくない』
『私が死んでも』
『誰かの中に』

 声が保管室を埋める。

 引き出しという引き出しが内側から震え始めた。金属の取っ手が細かく鳴り、壁一面から歯を打ち鳴らすような音がする。声は箱一つから出ているのではない。この部屋に保存された全ての血が目を覚まし、長いあいだ言えなかった言葉を一斉に吐き出していた。

 千燈の視界へ、知らない顔が瞬くたびに差し込む。泣いている老女、歯を食いしばる少年、眠ったまま採血された患者。次の瞬間には誰の顔だったか分からなくなるのに、失いたくないという感情だけが胸へ残り、自分自身の記憶と区別できなくなっていく。

 千燈が顔をしかめた。

「うるさい……」

「千燈先輩?」

「私には、みんな血から直接喋ってるみたいに聞こえる」

 赤い糸が一斉に千燈へ向いた。

「千燈!」

 玄兎が叫ぶ。

 透羽が《白羽》で糸を切る。

 切断された糸は床へ落ちる前に血の粒へ変わり、また箱へ戻っていく。

「狙いは千燈?」

「私の方が記憶を保持しやすいって分かってるのかも」

 千燈は後退する。

『器』

 今度は別の声が混じる。

 玄兎の胸の痣が熱くなった。

「俺もか」

『空白』
『たくさん空いている』
『入れられる』

 玄兎の顔から血の気が引く。

「……俺の消えた記憶のところに入る気?」

「玄兎、下がって!」

 透羽の声が鋭くなる。

「分かってる!」

 玄兎は自分から距離を取った。

 以前のように、囮になるため近づかない。

 小毬がすぐ玄兎の横へ立つ。

「先輩、こっちです!」

「うん」

 依澄は箱から溢れる声を聞いていた。

「この怪異」

「何?」

「消えたくないんじゃない」

 玄兎が依澄を見る。

「じゃあ?」

「自分が誰だったか分からなくなってる」

 百十二人分の強い記憶が長い間混ざり続けた結果、怪異自身も、どの感情が誰のものだったのか分からなくなっている。

 千燈の顔が硬くなる。

「……私と同じだ」

「千燈?」

「深く読みすぎた時の私」

 赤い糸がまた伸びる。

 今度は、切られても切られても増えた。

「このままだと献血会場の血まで全部繋がる!」

 千燈が言う。

「元の記憶を分ける必要がある」

「どうやって?」

「私が読む」

「千燈」

 玄兎の声が低くなる。

「全部じゃない」

 千燈は玄兎を見た。

「核になってる感情だけ探す。誰か一人の『忘れたくない』が、全部を束ねてるはず」

「危険です」

 透羽が即座に言う。

「百人以上の血が混ざっています」

「分かってる。でも私以外が触れたら、今みたいに記憶を押しつけられるだけ」

「依澄の夢で」

「夢は記憶の映像を見せられても、血に残った感情の持ち主までは分けにくい」

 依澄も、悔しそうに小さく頷いた。

「千燈の方が分かる」

 玄兎は千燈を見る。

「止めてほしい時は言うって言ったな」

「うん」

「今は?」

「止めないで」

 玄兎は少しだけ迷ったものの、最後には千燈の意思を尊重して頷いた。

「分かった」

 透羽が玄兎を見る。

「玄兎」

「千燈が決めた」

「しかし」

「無茶しそうなら、その時止める」

 千燈が微笑む。

「信用されてる?」

「半分」

「少ない」

「残り半分は監視」

「透羽ちゃんみたいになってきた」

「嫌なの?」

「悪くない」

 千燈は自分の右手を見た。

「じゃあ、行くね」

     ◇

 千燈が金属箱へ指先を触れた瞬間、保管室の床が消えた。

 正確には、千燈の意識から現実が剥がれ落ちた。

 最初に流れ込んできたのは、知らない母親が台所で味噌汁を作りながら笑っている光景だった。次の瞬間には夏の河原へ切り替わり、裸足で走る少年の足裏へ冷たい水が跳ね、夕焼けが水面へ滲む。さらに卒業式の体育館で泣きながら笑う友人、病院の白い廊下、潮風の強い海辺、古いアパートの狭い玄関、新幹線のホームで振られる手が、順番も年代も無視して次々と押し寄せた。

 映像だけではない。嬉しさ、寂しさ、会いたさ、帰りたさ、許してほしい気持ち、忘れたくない執着、愛情、憎しみ、恐怖。百を超える人生から最も強く残った感情だけが、同時に千燈の胸へ流れ込んでくる。

 味まであった。誕生日の甘いケーキ、病室で無理に飲み込んだ薄い粥、喧嘩のあとに噛んだ唇の鉄臭さ。皮膚には真冬の火葬場の風と、夏祭りで繋いだ手の汗が同時に蘇る。千燈の身体は一つしかないのに、百十二人分の心臓が別々の速さで胸を叩き始めた。

 誰かの母親を恋しく思った直後、自分にもその母親がいたような気がした。知らない青年を愛した痛みが、昔の自分の恋と同じ場所へ重なる。このまま受け入れ続ければ、最後には「千燈」という名前が、他人の記憶を束ねる紐にしかならなくなる。

 千燈は歯を食いしばった。

「違う。これじゃない」

 声に出したつもりだった。

 自分の声なのかも分からない。

 濁流のような感情の中に、一つだけ異様に強い核があった。視界が古い研究室へ固定され、一人の女子学生が机の前へ座っている。目の前には、実験用の記入用紙が置かれていた。

『絶対に忘れたくない記憶を書いてください』

 彼女は長い時間、何も書けずにいた。やがて震える手でペンを取り、質問とは少しずれた一文を書き込んだ。

『忘れられたくない』

 彼女が残したかったのは「忘れたくない記憶」ではなく、「自分を誰かに忘れてほしくない」という願いだった。

 女子学生は笑っていたが、その周囲には誰もいない。卒業を目前にして、親しい友人たちはそれぞれ別の街へ進み、恋人ともすでに別れ、家族との関係も遠くなっていた。

『私がいなくなっても、誰かの中に残れるなら』

 指先から一滴の血を落とす。

『誰かの記憶になりたい』

 その願いが、百十二人分の「忘れたくない」に絡みついている。

「見つけた」

 千燈がそう呟いた瞬間、女子学生がゆっくり振り返った。ところが、その顔は見る間に別人のものへ変わり、祭りの夜に千燈の前へ現れた昔の青年の姿になった。

「……」

『千燈』

 心臓が止まりそうになる。

「違う」

『まだ夜を歩いているのか』

「あなたじゃない」

『忘れたくないだろう』

 声は記憶の中と同じように優しく、その優しさがかえって千燈を怖がらせた。

『私の声も』

 千燈の喉が詰まる。

 記憶の中にいた青年の、本当の声を千燈はもう正確には思い出せない。語尾の癖も、笑い方も、自分の名前を呼ぶ時の声の高さも、長く生きた時間の中で少しずつ薄れてしまった。

『忘れたくないなら、血に残せばいい』

 青年の顔が玄兎へ変わる。

『玄兎も』

「……やめて」

『消える』

 目の前では玄兎が笑っていた。今の二十歳の姿だったものが次の瞬間には六歳の少年へ変わり、さらに顔もはっきりしない赤ん坊へと遡っていく。

『死ぬたびに』
『忘れる』
『なら』
『あなたが持てばいい』

 千燈の目の前へ、赤い血が差し出される。

『読めばいい』
『全部』
『あなたの中なら残る』

 千燈の指が、差し出された血へ無意識に伸びた。玄兎がこれから失っていく記憶を、自分なら代わりに残せるかもしれない。彼が忘れてしまっても、自分が覚えていればいい――そんな考えが、恐ろしいほど自然に胸へ入り込む。

「……」

 指先が赤い液面へ触れる寸前で、千燈は昼間に聞いた玄兎の声を思い出した。

 ――千燈が自分じゃなくなるかもしれない方法で調べるのは違う。

 千燈は手を止めた。

「違う」

『何が』

「それは、玄兎くんの記憶」

『忘れる』

「だからって」

 千燈は震える手を握った。

「私が盗んでいい理由にはならない」

『覚えていたい』

「覚えていたいよ」

 胸が痛んだ。その痛みが自分のものなのか、流れ込んだ誰かのものなのか、一瞬分からなくなる。昔の青年を失った自分の寂しさ、玄兎を失いたくない今の自分の恐怖、そして百十二人の「大切な誰かを失いたくない」という感情が、境界をなくして混ざり合っていた。

「でも」

 千燈は、混ざり合う感情の中から自分自身の輪郭を一つずつ拾い直した。

「緋鴉千燈」

 大学では三年生として暮らしている。夜型で、人工血は冷やしすぎると味が落ちる。流行りの服が好きで、烏と視界を共有しすぎれば頭が痛くなる。透羽をからかうのは楽しいし、小毬の反応は分かりやすい。依澄の質問は時々、長く生きた自分でも答えに困る。

 そして最後に、玄兎の血について考える。そこだけは、自分の感情を誤魔化せなかった。

「……読みたくなるくらい、気になる」

 自分の言葉だった。

「でも、読まない」

 赤い世界へ向かって言う。

「あなたを覚えていたいから、血では読まない」

 目の前の玄兎が、ゆっくり崩れる。

 昔の青年も消える。

 最後に残ったのは、一人の女子学生だった。

『忘れられたくない』

「うん」

 千燈は彼女へ近づく。

「分かるよ」

『誰かの中に残りたい』

「それも分かる」

『じゃあ』

「でも、人の中へ勝手に入ったら」

 千燈は自分の胸へ手を当てた。

「その人が誰か分からなくなる」

『私は消える』

「記録に残ればいい」

『記録』

「名前でも、写真でも、誰かが覚えてる話でもいい」

『血じゃなくても?』

「血じゃなくても」

 千燈は笑った。

「むしろ、そっちの方が安全」

 女子学生の表情が、少しだけ緩んだ。

     ◇

「千燈!」

 現実へ戻った瞬間、最初に聞こえたのは玄兎の声だった。

 千燈は床へ膝をついていた。

 右手は金属箱に触れたまま。

 透羽がすぐに手首を掴む。

「離してください!」

「……うん」

 千燈は自分で指を離した。

 その瞬間、赤い糸が箱から一気に溢れ出す。

「来ます!」

 小毬の警告と同時に、透羽が前へ出て水の壁を張った。

「《水鏡》!」

 赤い糸が水膜へぶつかり、何百もの声を上げる。

 千燈は立ち上がろうとして、ふらついた。

 玄兎が手を伸ばしかける。

「触っていい?」

 千燈は一瞬驚いた。

 以前、血読の後で混乱した千燈は「離して」と言った。

 それを覚えている。

「……肩だけ」

「分かった」

 玄兎は千燈の肩へ手を添え、身体を支えた。

「自分の名前」

 透羽が確認する。

「緋鴉千燈」

「今いる場所」

「朽木ヶ丘大学、旧保健管理棟の地下」

「今日の昼食」

「アイスコーヒーだけ。玄兎くんに食べろって言われた」

「言ってない」

「今、ちょっと混ざったかも」

「そこ冗談?」

「半分」

 透羽が眉を寄せる。

「まだ不安定です」

「分かってる」

 依澄が千燈の前へ立った。

「千燈」

「なに?」

「一番強い気持ち、誰の?」

 千燈は答えようとして言葉を失った。胸の中には、怖さも、誰かに会いたい気持ちも、何かを忘れたくない執着も同時に残っている。どこまでが自分の感情なのか、まだ完全には切り分けられない。

「まだ混ざってる」

「じゃあ」

 依澄は静かに言った。

「千燈が今、自分で選べることを言って」

「自分で?」

「うん」

 千燈は少し考え、目の前の玄兎を見た。彼は自分の肩を支えているが、その手には傷もなく、血も一滴も出ていない。

「玄兎くんの血を読まない」

「うん」

「今日は」

 玄兎が言う。

「今日だけ?」

「今は、それでいいでしょ」

 千燈は少し笑った。

「それから」

「うん」

「この怪異を、血の中じゃなくて記録に戻す」

 透羽が頷く。

「方法は」

「核は、一人の女子学生の『忘れられたくない』だった。名前を探して」

「記録簿」

 小毬がすぐ棚へ走る。

「何年くらいですか?」

「二十数年前。卒業前。女性」

「それだけだと多い!」

「試料番号、たぶん最後の方」

 小毬が記録簿をめくる。

「ありました! 一〇八番から女性が三人!」

 千燈は記録簿へ並ぶ名前を順番に追った。一人目には何も感じない。二人目へ視線を移した瞬間、先ほど血読の中で触れた感情が胸の奥で強く反応した。

「この人」

 透羽が読む。

「被験者一一〇。水城真帆。当時二十二歳、文学部四年」

「水城真帆」

 千燈は名前を口にした。

 箱の中の声が、一瞬だけ静まる。

「名前、効いてる」

 玄兎が言う。

「記録を読んで」

 千燈に促され、透羽はページの続きを読み上げる。

「記述内容――『忘れられたくない』。卒業後の連絡先……記録あり。研究終了後、試料廃棄予定」

「廃棄されなかった」

「はい。研究室閉鎖時の移管漏れと思われます」

 水城真帆。それは百十二人分の血と感情に埋もれ、いつの間にか誰のものか分からなくなっていた記憶へ、ようやく戻された一人分の名前だった。

 依澄が目を閉じる。

「私、見せる」

「何を?」

「記録される未来」

 《蝶境》が薄く広がる。

 保存庫の壁へ、現実にはまだ存在しない大学の歴史資料室が重なった。小さな展示棚には古い研究記録が整理され、その中に「水城真帆」という名前もきちんと残されている。

 ほかの百十一人も、匿名ではなく研究参加者として整理されている。

「これ」

 依澄が言う。

「玄兎が望んでる明日」

「俺?」

「この人たちを、血じゃなくて紙に戻したいって思った」

「……うん」

 玄兎は怪異へ向かって言う。

「水城真帆」

 赤い糸が震える。

「お前の血に残らなくても、名前は残せる」

 透羽も、曖昧な約束で済ませないよう言葉を選んで続けた。

「私たちだけで大学の保存方針を決めることはできません。でも、久住教授へこの記録を渡して、正式な整理と保存の手続きを取ってもらいます。個人情報を無制限に公開することはできなくても、あなたたちが研究に参加し、この記録がここに残された事実まで消させません」

 小毬が記録簿を胸の前で大切そうに抱える。

「私たちも今日のこと覚えてます!」

 千燈は最後に、箱へ向かって言った。

「誰かの中へ混ざらなくても、あなたがいたことは消えないよ」

 赤い糸が、ゆっくりと力を失っていく。

『忘れない?』

「全部は無理」

 千燈は正直に答えた。

「人は忘れるし、私だって長く生きてるうちに忘れたことがいっぱいある」

『なら』

「でも、忘れることと、いなかったことになるのは違う」

 糸が一本ずつ箱へ戻る。

「思い出せなくなったら、記録を見ればいい。誰かに聞けばいい」

 玄兎が千燈を見る。

「群れ日記とか?」

「名前はどうかと思うけどね」

「小毬が怒るぞ」

「聞こえてます!」

 緊張の中で、小さな笑いが起きる。

 最後の赤い糸が箱へ戻った。

 金属箱の蓋が、自分から静かに閉じた。

     ◇

 献血会場で記憶の混線を起こしていた学生たちは、夕方までにほぼ元の状態へ戻った。

 知らない妹の誕生日を心配していた男子学生も、自分が一人っ子であることを普通に認識している。ただ、「苺が嫌いな七歳の女の子」の記憶だけは、夢を見たように薄く残っているという。

 医療スタッフと鷺宮家の確認により、集められた血液には怪異反応が残っていないことも確認された。ただし安全を優先し、その日の分は通常の流通へ回さず、専門機関で追加確認されることになった。

 地下から戻ると、旧保健管理棟の入口近くで久住教授が待っていた。施設管理の職員を先に帰したあと、五人の顔を一人ずつ見て、最後に千燈の足元で視線を止める。

「全員、自分の名前と今日の日付は言えるか」

「教授、そこから確認するんですか」

 玄兎が苦笑すると、久住は笑わなかった。

「記憶に触るものだったんだろう。この前の依澄の件で、自分の認識ほど当てにならないものはないと教わったからな」

 透羽が簡潔に経緯を報告した。旧研究室に百十二人分の血痕試料が残されていたこと、それらへ強い感情が蓄積し、今日の献血をきっかけに怪異化したこと。核となっていたのが、当時の学生・水城真帆の『忘れられたくない』という願いだったことまで説明する。

 久住は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。やがて古い記録簿を受け取ると、表紙を開かずに両手で持った。

「俺が確認した過去の移管目録には、生体試料の現物が残っているとは書かれていなかった。研究室閉鎖時の整理漏れだろうが……大学の中で二十年以上忘れられていたなら、これは大学側の問題でもある」

「保存してもらえますか」

 千燈が尋ねる。声には、血読の余韻でまだわずかな疲れが残っていた。

「保存する。ただし、名前を並べて誰でも見られる展示物にする、という意味じゃない。研究参加者の個人情報や同意の範囲を確認して、公開できないものは保護した上で、研究が行われた事実と資料の所在が二度と消えない形にする」

 久住は記録簿へ目を落とした。

「『覚えておく』ことと『晒す』ことは別だからな。残すなら、残し方にも責任がある」

 透羽が小さく頷く。

「お願いします」

「それと緋鴉。今日は一番深く触れたのは君なんだろう」

「……はい」

「帰る前に、自分の記憶と他人の記憶の区別がつくか、鷺宮たちと確認しておけ。俺にできるのは記録と場所を片づけるところまでだ。君の中のことまで、分かったふりはしない」

 その距離の取り方が、千燈にはありがたかった。彼女は少しだけ笑って、「分かりました」と答えた。

 大学側はその日のうちに旧保健管理棟の関連区画を立入禁止とし、久住を窓口に、残された研究資料の再整理を始めることになった。

「水城真帆さん」

 夕方、五人は学食のテーブルを囲みながら、久住の立ち会いのもとで照合した卒業生記録の内容を確認していた。透羽は必要な部分だけをメモに写しており、記録そのものを持ち出してはいない。

「卒業時点までは、通常の進路記録が残っています。それより後の個人情報を、今回の件だけを理由に追うことはしません」

「生きてたんだ」

 玄兎が言う。

「少なくとも卒業時点では。怪異になったのは本人ではなく、研究試料へ残った感情です」

「よかった」

 小毬が素直に言う。

「本人が怪異になって百年以上閉じ込められてた、とかじゃなくて」

「二十数年です」

「そこじゃないです!」

 千燈は少しだけ笑った。

 今日は珍しく、サンドイッチとスープをきちんと口にしている。

 玄兎はそれを見て言った。

「食べてる」

「何、その観察」

「昼、コーヒーだけだったから」

「心配?」

「少し」

「真っ直ぐ言うようになったね」

「隠しても分かるだろ」

「血読しなくてもね」

 千燈はサンドイッチを一口食べた。

 依澄がじっと見る。

「千燈」

「なに?」

「今の気持ち、誰の?」

「依澄ちゃん、その質問かなり怖いよ」

「分かる?」

 千燈は少し考えた。

「かなり戻った。まだ海辺の夕焼け見ると、知らない人に会いたくなる気はするけど」

 そう答えながら、千燈はスープの表面へ映る自分の顔を見た。

 一瞬だけ、知らない老女の顔が重なった。口元は千燈と同じように笑っているのに、目からは涙が流れている。瞬きをすると元へ戻ったが、胸には会ったことのない孫を抱き締めたいという切実な感情が残った。

 血から離れたからといって、読み取ったものがすぐ消えるわけではない。駅の発車音を聞けば誰かの葬儀を思い出し、消毒薬の匂いで知らない病室の天井が見える。自分の記憶ではないと頭で区別できても、身体は経験したものとして反応する。

「完全には戻ってない」

 千燈は冗談で薄めずに言い直した。

「今夜眠ったら、他人の夢を見るかもしれない。明日の朝、知らない人の名前を呼ぶかもしれない。それが少し怖い」

 玄兎はすぐに励ます言葉を探さなかった。代わりに共有ノートを開き、今日の日付の下へ千燈が昼に選んだ飲み物と、今食べているサンドイッチの具を書いた。

「何してるの?」

「今日の先輩を残してる。明日、誰の気持ちか分からなくなったら一緒に確認する」

「血じゃなくて?」

「血じゃなくて、先輩が自分で話したことを」

 千燈はしばらくその文字を見つめたあと、自分の手で一行を書き足した。

『怖い。でも、自分で帰ってくる。分からなければ四人に聞く。』

「それは他人?」

「たぶん」

「玄兎は?」

「何でそこで玄兎くん?」

「今日、血読の中で」

「依澄ちゃん」

 千燈の声が少し低くなる。

「何を見たかまでは言ってないよね?」

「顔」

 玄兎が吹き出す。

「みんな顔読むようになったな」

「玄兎の影響」

「俺?」

「分かりやすいから」

 透羽まで頷いた。

「そこ同意する?」

 小毬が千燈へ身を寄せる。

「先輩、本当に玄兎先輩の血、読まないんですか?」

「今日はね」

「今日は」

 玄兎がその言葉を拾うと、千燈は少し眉を上げた。

「言葉尻取らないの」

「先輩が曖昧だから」

 千燈は少し考え、それから玄兎を見た。

「少なくとも、記憶を保存するためには読まない」

「保存?」

「君が忘れるかもしれないから、私が代わりに血で覚えておこう、っていう使い方はしない」

「……」

「必要な調査で、他に方法がなくて、私も納得してるなら。その時はまた考える。でも」

 千燈の赤褐色の目が、玄兎をまっすぐ捉える。

「君の記憶を、私の中へ勝手に移して保管するのは違う」

「うん」

「君が忘れたら」

 千燈は少しだけ笑った。

「普通に教えてあげる」

「小毬と同じ」

「群れですから!」

 小毬が胸を張る。

「私、群れに入った?」

「今さらですか?」

「正式認定された覚えない」

「もう入ってます!」

「強制加入」

「嫌ですか?」

 千燈は少しだけ驚いた顔をしてから、笑った。

「嫌じゃない」

「よし!」

 玄兎はその会話を聞きながらコーヒーを飲んだ。怪異の事件が終わった後、こうして全員で食事をしている時間を、以前ならただ騒がしいと感じていたかもしれない。今はむしろ、こういう何でもない光景こそ覚えておきたいと思う。

     ◇

 食事のあと、千燈は「少し歩きたい」と言った。

 透羽たちは先に駅へ向かい、玄兎だけが何となく千燈と同じ方向へ歩いた。

「送る?」

「私を?」

「体調、まだ完全じゃないだろ」

「夜道で吸血種を送る大学生」

「前にも似た話した」

「覚えてる?」

「覚えてる」

 千燈は少し安心したように笑った。

 大学から駅へ続く道は、夕方の学生で混んでいる。

 二人は人波を避けるように、川沿いの遊歩道へ回った。

 夏の終わりが近づき、風が少しだけ涼しくなっている。

「玄兎くん」

「何」

「今日、血読の中でね」

「うん」

「昔の人が出てきた」

 玄兎は、祭りの夜に千燈の前へ現れた昔の若い男を思い出した。あの時も千燈は相手の正体を詳しく語らず、玄兎もそれ以上は尋ねなかった。

「本人?」

「違う。怪異が私の記憶から形を借りただけ」

「そっか」

「でも、声が」

 千燈は川面を見る。

「私、もう本物の声を正確に思い出せないんだよね」

 玄兎は何も言わずに待った。

「長く生きてると、忘れないと思ってたことも薄くなる。顔は写真があれば分かる。文字も残る。でも声とか、匂いとか、触った時の感じとか。そういうのから先に消えていく」

「……怖い?」

「怖い」

 千燈はすぐに答えた。

「だから《血読》があると、ちょっとずるしたくなることがある」

「ずる?」

「血に残ってる記憶を読めば、自分が忘れた感覚まで一瞬戻った気になれる」

「でも他人の記憶」

「そう。本人の血だとしても、それを読んだ私の中では私の体験みたいになる。だから」

 千燈は苦笑した。

「どこまでが本当に私が一緒に過ごした記憶で、どこからが血で見ただけなのか、分からなくなる」

 風が川面を揺らす。

 玄兎は少し考えてから言った。

「じゃあ、俺のことも」

「うん?」

「血じゃなくて覚えてて」

 千燈が足を止めた。

「玄兎くん」

「俺も忘れるかもしれないけど」

「……」

「千燈まで俺の血で俺を覚えたら、何か変だろ」

 千燈はしばらく玄兎の顔を見た。

「そういうこと言うんだ」

「変だった?」

「かなり」

「悪い意味?」

「逆」

 以前にも千燈から聞いたことのある返しだった。玄兎もそれを思い出して笑った。

「それ前も言ったな」

「覚えてるじゃん」

「今のところ」

「……」

「先輩?」

 千燈は一瞬だけ、泣きそうな顔をした。

 けれど今度は、すぐ笑顔で隠さなかった。

「そういう『今のところ』、前は平気だったんだけどな」

「今は?」

「嫌」

「そっか」

「君が忘れるのも嫌だし、私が忘れるのも嫌」

「うん」

「だから」

 千燈はスマートフォンを取り出した。

「写真撮ろ」

「今?」

「今」

「二人で?」

「嫌?」

「嫌じゃないけど」

「じゃあ決まり」

 千燈は玄兎の隣へ立ち、スマートフォンを少し上へ持ち上げた。

「もっと寄って」

「近い」

「写真だから」

「依澄が聞いたら恋人判定しそう」

「じゃあ内緒にする?」

「それはそれで怪しい」

「玄兎くん、意外と面倒」

「先輩に言われたくない」

 千燈が笑う。

 今度の笑顔は、何かを隠すためではないように見えた。

「撮るよ」

「はい」

 シャッター音が一度鳴った。画面には夕方の川を背景に、黒髪の玄兎と黒に深紅の混じる髪の千燈が並んでいる。玄兎は少し困った顔をしていて、千燈は自然に笑っていた。

「どう?」

「玄兎くん、硬い」

「写真苦手」

「もう一枚」

「まだ?」

「記憶は記録なんでしょ」

「小毬の影響受けてる」

「悪くないと思ってきた」

 二度目のシャッター音が鳴る。今度は玄兎も少しだけ力を抜いて笑っていた。

「これ、群れ日記に貼ろうかな」

「二人だけの写真を?」

「だめ?」

「だめじゃないけど」

「透羽ちゃん、どんな顔するかな」

「それ目的?」

「三割」

「残り七割」

 千燈はスマートフォンの画面を見た。

「覚えておきたいから」

 今度は冗談ではなかった。

     ◇

 その日の夜、紺色の共有ノートへ、千燈が珍しく長い文章を書き込んだ。

『今日は、昔の研究で残された血の記憶が怪異になった。』
『他人の中へ入れば忘れられないと思っていた。』
『でも、それをすると誰の記憶なのか分からなくなる。』
『私も《血読》で同じことをする時がある。』
『だから、玄兎くんの記憶を保存するためには血を読まない。』
『忘れたら、普通にもう一度話す。』

 その下に、夕方撮った二人の写真が貼られていた。

 すぐに小毬が書き足している。

『二人で写真ずるいです! 次は全員!』

 透羽の文字もあった。

『記録として写真を残すこと自体は有効です。次回は全員で撮影しましょう。』

 文章だけなら冷静だった。

 ただし、「次回」の文字が普段より少し強く書かれている。

 依澄は写真を見て、率直な疑問を書き込んでいた。

『これは恋人の写真?』

 千燈はその下へ返事を残す。

『まだ違うよ。』

 さらに少し間を空けて、もう一行だけ付け足していた。

『でも、ただの血の持ち主ではなくなった。』

 玄兎は最後の一文をしばらく見つめた。

 自分の番になってから、短く書いた。

『今日は誰も死ななかった。』
『千燈も千燈のまま帰った。』
『写真は、二枚目の方がまだまし。』

 スマートフォンが震える。

 千燈からだった。

『そこ感想?』

『大事。』

『じゃあ次はもっと笑って。』

『努力する。』

『本気で?』

 依澄と同じ聞き方だった。

 玄兎は少し笑う。

『本気で。』

 千燈から返事が来るまで、少し時間がかかった。

『じゃあ、私も。』

『何を?』

 メッセージはすぐ既読になったが、しばらく返事は来なかった。やがて画面へ、新しい一文が表示される。

『ちゃんと、自分の気持ちで君を見る。』

 玄兎は、その言葉を共有ノートには写さなかった。千燈がいつか自分の口で誰かへ伝えたいと思う時まで、それは千燈自身の言葉だからだ。

 ただ、忘れないように。玄兎はその一文を、自分の記憶の中へ静かに置いた。

――第十六話・了

👥 登場人物紹介ネタバレを抑えた基本プロフィール
鵺代玄兎

CHARACTER 01

鵺代玄兎

ぬえしろ げんと

現実的で、妙な状況でもまず話を整理しようとする常識人寄りの青年。突然の怪異や騒動には戸惑いながらも、困っている相手を放っておけない。深刻な場面でも自然にツッコミが出るタイプ。

  • 物語の主人公
  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 常識人寄りのツッコミ役
俺が何者でも、困ってる人を置いていく理由にはならない。
鷺宮透羽

CHARACTER 02

鷺宮透羽

さぎみや とわ

冷静で生真面目。怪異への警戒心が強く、必要なことははっきり言う。危険な場面では自分が前に出ようとする、責任感の強い少女。

  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 鷺宮家の退魔師
  • 礼儀正しいがやや堅い
私が間に合う時は、あなたを死なせません。
緋鴉千燈

CHARACTER 03

緋鴉千燈

ひがらす ちとせ

余裕のある笑みを浮かべ、人をからかうのが上手な先輩。自然に距離を詰めてくる、つかみどころのない雰囲気を持つ。

  • 玄兎たちの先輩
  • 赤褐色の瞳
  • 人をからかうのが得意
秘密って、暴くより自分から話してもらう方が面白いよ。
白狼院小毬

CHARACTER 04

白狼院小毬

はくろういん こまり

明るく人懐っこい一年生。気になったことはすぐ口にし、匂いを確かめることに夢中になると相手との距離感まで忘れがち。

  • 朽木ヶ丘大学の一年生
  • 非常に鋭い嗅覚
  • 人懐っこく表情豊か
匂いは嘘をつきません。だから、何度でも見つけます!
蝶ヶ森依澄

CHARACTER 05

蝶ヶ森依澄

ちょうがもり いすみ

静かで穏やか、言葉数は少なめ。初対面からどこか不思議な印象を残し、感情表現は控えめだが答え方は率直。

  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 淡い青紫の瞳
  • 物静かでマイペース
今日が初めてなら、明日また会えばいい。

音声・文字設定つきの公式リーダーで読む