久住教授に名前を呼ばれた、あの朝。二限の教室へ入るより少し前、蝶ヶ森依澄は正門の学生証ゲートを三回通っていた。
三回とも短い電子音が鳴り、表示灯は緑になって扉が開いた。
少し離れたところでそれを見ていた鵺代玄兎は、三度目の通過を終えた依澄へ声をかけた。
「もう十分じゃないか?」
「昨日は一回も通れなかった」
「だからって朝から何度も往復してると、今度は別の意味で警備員に覚えられるぞ」
「怪しまれる?」
「たぶん」
「普通の学生みたいに?」
「怪しまれ方だけなら」
依澄は少し考え、それから小さく笑った。
「なら、少し嬉しい」
「そこを喜ぶのか」
今日は白いブラウスに薄紫色のカーディガンを羽織っている。長い銀紫色の髪も、淡い青紫の目も、昨日までと何も変わらない。
昨日、大学の名簿や写真や学生たちの記憶から消えかけた少女には見えなかった。
「久住教授が、今朝もう一度記録を見たって」
「どうだった?」
「今の学籍は戻ってる。ただ、入学した時の書類や、その前を辿ると抜けてるところがあるって」
「昨日の怪異のせい?」
「それも、まだ分からない」
依澄は鞄の中の学生証へ指先を触れた。
「でも、今はちゃんと残ってる」
依澄が玄兎の視線に気づいた。
「いるか、確かめてる?」
「いるよ」
依澄は小さく笑った。
そこへ、正門の向こうから勢いのある声が飛んでくる。
「先輩ー!」
白狼院小毬が大きな紙袋を抱えて走ってきた。
「おはようございます!」
「おはよう」
「依澄先輩!」
小毬は依澄の隣へ並び、抱えた紙袋を持ち上げた。焼きたてのパンの香りが漂う。
「五人分、ちゃんとあります!」
「朝から元気だねえ」
背後から緋鴉千燈の声がした。その隣には鷺宮透羽もいる。
「全員揃った」
依澄が言う。
「はい」
玄兎は五人を見ながら笑った。
それでも、昨日見つかったD-02の記録は残っている。依澄との関係は、まだ仮説のままだ。
今日からは、その意味を調べなければならない。
◇
一限が始まる前、五人は学食の端にある休憩スペースへ集まった。
小毬が買ってきたパンを机へ並べる。玄兎はブラックコーヒー、透羽は温かい紅茶、千燈は朝からアイスコーヒーを選んでいた。
依澄は、塩パンとあんバターパンの両方を見比べている。
「両方食べたい」
「二つ食べれば?」
「半分ずつ。玄兎も食べる」
「はいはい」
玄兎は紙ナイフで二つのパンを半分にした。あんバターだけ、片方が少し大きくなる。
依澄は迷わず小さい方を取った。
「大きい方を取ると思ってた」
「今日は、こっち」
依澄は一口かじった。
「どう?」
「好き。今は塩パンよりこっち」
透羽が紅茶のカップを置いた。
「昨日のD-02記録について、今朝もう一度鷺宮家へ照会しました」
少しだけ空気が変わる。
「何か分かった?」
「書式は二十年前の《百獣繭》観測記録と同じでした。ただ、D-02が依澄さんのことかどうかは、まだ確定していません」
依澄はパンを持ったまま訊いた。
「私、夢層から出てきた?」
「可能性はあります」
「玄兎の夢?」
「そこもまだ分かりません。ただ、昨日の記録では、玄兎が『外部器』と書かれていました。D-02が依澄さんなら、玄兎との接触が、人の形になることや定着することに関わった可能性はあります」
依澄は玄兎を見る。
「じゃあ、私が玄兎を好きなのも、最初からそうなるようにできてた?」
誰もすぐには答えなかった。
千燈が静かに訊く。
「それが怖い?」
「うん。私の気持ちじゃなかったら嫌」
玄兎は軽く否定できなかった。まだ分かっていないことを、安心させるためだけに決めたくなかった。
「分からない」
依澄の目が少し伏せられる。
「でも、さっき俺は大きい方を取ると思ってた。依澄は小さい方を取った」
依澄は自分の手のパンを見る。
「明日は大きい方にするかも」
「明日は明日の気分だな」
「うん」
◇
異変が起きたのは、その日の三限だった。
玄兎と透羽が受けていた一般教養の講義は、偶然にも「社会心理学における役割期待」がテーマだった。
教授がスクリーンへ資料を映しながら説明する。
「人間は、自分がどうありたいかだけでなく、他者からどう見られているかによって行動を変えます。家庭では『良い子』、学校では『優秀な学生』、友人関係では『面白い人』といった具合ですね」
玄兎は何となく依澄のことを思い出した。
「こうした期待は、人間関係を円滑にすることもあります。しかし、周囲が望む人物像と本人の感情が大きくずれると、それは強い負担になります」
「依澄さんのことを、考えてしまいますね」
透羽が小声で言った。
その時だった。
前の席にいた女子学生が、突然立ち上がった。
「先生」
「どうしました?」
「私、こんなに真面目じゃないです」
教室が静まる。
「どういう意味ですか?」
「みんな私のこと、真面目で、何でもちゃんとやるって思ってるけど。本当は今日のレポートもやりたくないし、ゼミも休みたいし、『あなたなら大丈夫』って言われるのも、もう嫌で……」
「落ち着いて。一度外へ――」
教授が近づこうとした、その時。
女子学生の隣の空席に。
もう一人、同じ女子学生が座っていた。
新たに現れた姿は、顔も髪も服装も本人とまったく同じだった。ただし、背筋を完璧に伸ばし、穏やかな笑顔を浮かべてノートを取っている。
「大丈夫です」
偽物の女子学生が言った。
「私はちゃんとできます」
本物の女子学生の顔から血の気が引いた。
「誰……?」
「あなたが求められているあなたです」
その言葉を合図にしたように、教室のあちこちで同じ現象が起こった。
眠そうにしていた男子学生の隣には、爽やかな笑顔で発表資料を整える自分が現れた。
普段から明るい女子学生の横には、誰に話しかけられても笑顔を崩さない自分が立っている。
サークルの代表をしている男子学生の後ろには、疲れを一切見せず、何でも引き受ける自分が現れた。
「透羽」
「見えています。強い怪異反応です」
透羽はすぐに立ち上がった。
偽物の女子学生は、周囲の視線を受けてさらに完璧な笑顔を作った。
「レポートは期限までに提出します。ゼミも休みません。友達の相談にも乗ります。先生にも迷惑をかけません」
「やめて」
本物の女子学生が震える。
「それ、私じゃない」
「でも、みんなはこの方が好きです」
玄兎の背筋が冷えた。
「全員、一度教室から出て!」
透羽が教授より先に声を張った。
「先生も、学生を廊下へ誘導してください!」
「鷺宮、何が起きてるんだ!」
「説明は後でします!」
玄兎も学生たちへ向き直る。
「自分に似てる方は連れてこなくていいから、本物だけ外へ!」
混乱しながらも、学生たちは廊下へ逃げ始めた。
奇妙なことに、偽物たちは追ってこなかった。
本物がいなくなった教室で、コピーたちは誰も見ていないのに「期待された行動」を続けていた。真面目な学生のコピーは黙々と勉強し、明るい学生のコピーは笑顔を絶やさず、頼れる学生のコピーは一人で全員分の仕事を引き受けようとしている。
ただし、その動きには休息というものがなかった。
真面目な学生のコピーは鉛筆の芯が折れても書き続け、やがて尖った木軸を指へ食い込ませた。机に血が滲んでも、「提出物を汚してはいけない」と笑顔で紙だけを避ける。
明るい学生のコピーは、誰もいない席へ同じ冗談を何度も繰り返していた。笑うたび口角が少しずつ裂け、頬へ赤い筋が伸びても、教室が求める明るさを崩さない。
頼れる学生のコピーは、左右の手だけでは足りなくなると肩や背中から新しい腕を生やした。レポート、出席票、相談への返信、サークルの会計。増えた腕は全て別の仕事をこなし、本人の胴体だけが重みに潰されていく。
「完璧になることが目的じゃない」
玄兎は窓越しの光景を見て、ようやく怪異の性質を理解した。
「期待には終わりがない。応えられる姿を作ったら、もっと多くを背負わせる」
「小毬たちに連絡を」
玄兎はすぐ五人のグループチャットを開いた。
『三限の教室で学生のコピーが大量に出た。本人じゃなく、周りが期待してる姿っぽい。』
小毬からすぐ返信が来る。
『今行きます!』
続いて千燈からも返事が入る。
『昨日の空席と同系統かも。そっちで待ってて。』
さらに依澄から短いメッセージが届いた。
『私も行く。』
玄兎はその文を見て一瞬迷った。
周囲の期待どおりの姿。
今の依澄にとって、一番見たくない怪異かもしれない。
けれど、勝手に「来るな」と決めるのは違う。
『来て。ただし無理するな。』
玄兎が送信すると、依澄からすぐに短い返事が返ってきた。
『うん。』
◇
大学側は、体調不良者の集団発生という名目で三限の一部講義を中止した。
怪異が残る教室は、透羽が薄い水の膜で出入口を覆い、《禊牢》の応用で一時的に封鎖している。
十五分ほどして、千燈、小毬、依澄が揃った。
小毬は玄兎のすぐ近くまで来ると、鼻を動かした。
「本物です!」
千燈は教室の窓から中を覗き込み、顔をしかめた。
「誰も見てないのに、ずっと『いい自分』を演じてる。これは嫌だね」
「何が目的なんだろう」
玄兎が言う。
「本人を置き換えるつもりでしょうか」
透羽は慎重に観察している。
依澄は窓越しに偽物たちを見ていた。
「昨日は記録を整えてた。今日は人を……周りが『こういう人』って決めた形に、たぶん」
依澄が答えた直後、教室にいた偽物たちが一斉に顔を上げた。
全員の視線が、廊下にいる依澄へ向く。
玄兎は反射的に依澄の前へ半歩出た。
「依澄」
「うん」
偽物たちは同じ笑顔を作り、同じ声で言った。
『未完成』
『参照情報不足』
『補完します』
「何で依澄先輩に!」
小毬が声を上げる。
『主要参照元を確認』
全員の視線が今度は玄兎へ移る。
「俺?」
『外部器』
依澄の指がわずかに震えた。
「玄兎」
「いるよ」
玄兎はすぐに答えた。
教室の照明が一度消える。
ほんの一秒後、再び明るくなった時。
依澄の隣に、もう一人の蝶ヶ森依澄が立っていた。
◇
顔も、髪も、身長も同じだった。
違うのは服装だった。
偽物の依澄は、淡い白のワンピースを着ている。大学生というより、誰かの夢の中で待ち続けていた少女のように見えた。
「……私」
本物の依澄が呟く。
偽物はまず玄兎を見た。
そして、今の依澄よりも少しだけ親密な響きで名前を呼んだ。
「玄兎」
胸の痣が熱を持つ。
「帰ってきてくれた」
玄兎は眉を寄せた。
「誰だ」
「依澄」
本物の依澄がすぐに言う。
「私じゃない」
「うん」
偽物は穏やかに頷いた。
「でも、あなたより前の依澄」
「前?」
「玄兎が覚えていた私」
依澄の顔が硬くなる。
「玄兎が?」
「うん」
偽物は玄兎へ手を伸ばした。
「黒い水の中で、一人で大きな月を見ていた玄兎」
玄兎の痣がさらに熱くなる。
それは、以前千燈が玄兎の血から読み取った断片と一致していた。巨大な月、黒い水、そしてその中にいる幼い玄兎。
「それ以上近づかないでください」
透羽の声が低くなる。
周囲に浮かせた水滴が細い刃へ変わった。
偽物の依澄は透羽を見る。
「透羽」
「玄兎が知っているから。玄兎の記憶を参照している」
次に小毬を見る。
「小毬は肉が好き」
「雑です!」
小毬が即座に反論した。
「私、それだけじゃありません!」
「群れを大事にする」
「それは合ってます!」
千燈が自分を指した。
「じゃあ私は?」
「血を読む。長く生きている。玄兎が大事になってきているけれど、また失うのが怖い」
千燈の笑みが消えた。
「……嫌なところまで知ってるね」
「玄兎が気づいていること」
「全部?」
「全部ではない」
偽物は本物の依澄へ向き直る。
「私の材料は、玄兎の記憶と期待」
他のコピーが周囲の期待を参照していたのに対し、依澄のコピーだけは、D-02と外部器の接続を通じて玄兎の記憶まで参照先に混ざっているらしい。
「じゃあ」
依澄の声が小さくなる。
「あなたが、玄兎の夢からできた私?」
「一番近い」
「待て」
玄兎が割って入る。
「お前の説明が本当だって証拠はない」
「玄兎は私を知ってる」
「覚えてない」
「だから私が残っている」
偽物はあまりにも自然な顔で言った。
「忘れた玄兎のために、私は待っていた」
玄兎の背中が冷える。
六歳の事故のあと、生命活動が戻っても、認知と人格の照合値は三日間安定しなかった。その間、自分の内側で何が揺らいでいたのか、玄兎は覚えていない。
もし、その不安定な時期に《百獣繭》の夢層で何かが起き、それが今も形を変えて残っているのだとしたら。
「玄兎」
本物の依澄が呼んだ。
玄兎が振り向く。
依澄の表情には、昨日とは違う種類の不安がはっきり浮かんでいた。
「どっちが、玄兎の知ってる依澄?」
玄兎は二人を見比べた。
「今、一緒に大学へ来た方」
それだけ答える。
依澄は一度だけ偽物を見て、それから玄兎の横へ視線を戻した。
『不整合』
教室内のコピーたちが一斉に呟く。
『期待対象と現在個体が不一致』
偽物の依澄が、ゆっくり手を差し出した。
「玄兎が望む形でいれば、消えない」
依澄はその手を見つめる。
「玄兎、私にどうしてほしい?」
玄兎が口を開きかけた。
けれど依澄は、先に小さく手を上げた。
「……やっぱり、言わなくていい」
偽物の手から一歩離れる。玄兎の側へ逃げ込むのでもなく、その場に立った。
『期待に合わなければ、忘れられる』
「それは嫌」
『拒絶される可能性』
「それも嫌」
依澄は少しだけ眉を寄せた。
「でも、そっちになる方がもっと嫌」
偽物の依澄の笑顔が止まる。
「玄兎に好かれたい」
『なら、私になればいい』
依澄は首を横に振った。
「それはしない」
一拍置いて、今度は自分から玄兎の手を取った。
玄兎は何も言わず、握り返す。
『理解不能』
「うん」
依澄は偽物を見たまま答えた。
「私も、まだよく分からない」
偽物の依澄が、淡い光の粒をこぼし始めた。
だが、教室に残る他のコピーは消えない。
透羽がすぐに気づく。
「依澄さんの問題だけでは終わりません。元になっている怪異を解かなければ」
「核は昨日の研究室だと思う」
千燈が言う。
「この気配、空席の怪異と近い」
「行く」
依澄がはっきり言う。
「無理はしないで、一緒に行こう」
「うん」
透羽は教室のコピーを《禊牢》で一時的に封じる準備をしながら、大学と鷺宮家へ連絡を入れた。
◇
旧認知環境研究室へ到着したのは、午後四時を過ぎた頃だった。
今回は鷺宮家から緊急対応の連絡が大学へ入っているため、昨日のような細かい申請は必要なかった。
地下へ降りるにつれて、空気が重くなる。
昨日より明らかに怪異の気配が濃い。
それでも、五人の距離は近かった。
「もし俺のコピーが出たら、本物分かる?」
「分かります。先輩の匂いは覚えてますから!」
千燈が笑う。
「私のコピーは?」
「血で?」
「それは最後にしようかな。コピーにも血があるかもしれないし」
「なるほど」
依澄は少し黙って歩いていた。
「依澄は、自分のコピー見分けられる?」
「今なら分かる」
「どうやって」
「あっちの方が玄兎を知ってる顔をする。嫌」
「それ、嫉妬じゃない?」
依澄の足が止まった。
玄兎を見る。何か言いかけて、結局やめる。
「知らない」
そう言って、さっきより半歩だけ玄兎の近くを歩いた。
前を歩いていた透羽が振り返らずに言う。
「後ろで恋愛感情の確認をしないでください」
小毬も手を上げた。
「私は嫉妬します!」
「知ってる」
「先輩、私の方もちゃんと見てください!」
「小毬、今は前を見よう」
「じゃあ、あとで!」
◇
記憶保存庫の扉を開けると、昨日とは景色がまるで違っていた。
棚や記録媒体は同じ場所にある。
だが中央の空間には、昨日一脚しかなかった「空席」が、何十、何百と並んでいた。
しかも、その椅子は空ではない。
椅子には学生や教員、職員のコピーが並び、その中には玄兎たち五人の姿まであった。全員が静かに座り、こちらを待っているように見える。
保存庫の広さでは収まらない数だった。奥へ行くほど椅子は暗闇の中へ小さくなり、最後列は壁の向こうまで続いているように見える。座っている者たちは全員、膝へ両手を揃え、同じ角度で首を伏せていた。
五人が一歩入ると、最前列のコピーが顔を上げる。少し遅れて二列目が、その次に三列目が顔を上げた。動きは波のように奥へ伝わり、やがて見えない暗闇の先からまで、衣服の擦れる音と骨の鳴る音が幾重にも返ってきた。
誰も瞬きをしていない。瞳には照明が映らず、黒い穴のような目だけが本物の五人を見つめていた。口元はそれぞれ穏やかに笑っているのに、笑顔を作る理由だけが抜け落ちている。
「……これは嫌だな」
玄兎が呟く。
「本物の先輩はこっちです!」
小毬が即座に言った。
「コピーは匂いが薄いです!」
千燈のコピーは、余裕のある笑顔を浮かべた。
「大丈夫だよ。私は平気だから」
千燈の笑みが消える。
「……これ、嫌い」
透羽のコピーが立ち上がる。
「問題ありません。私が全て処理します」
透羽は短く息を吐いた。
「……それも私です。でも、全部ではありません」
小毬のコピーは笑顔で両手を握った。
「大丈夫です! 群れなので!」
「私、怖い時は怖いです!」
小毬は即座に言い返した。
最後に依澄のコピーが立ち上がった。白いワンピース姿は、先ほど教室で見た時よりさらに輪郭が鮮明になっている。
「おかえり」
胸の痣が熱くなる。
玄兎は目を逸らさなかった。
「『ただいま』は、今の依澄に言う」
本物の依澄が横を向くと、玄兎は少し笑った。
「帰った時に言うよ」
「分かった」
コピーの顔が僅かに歪む。
『期待情報と不一致』
部屋中のコピーが一斉に反応した。
『修正を開始します』
「またそれか」
玄兎が身構える。
「透羽!」
「水を広げます!」
透羽が床へ水を薄く走らせる。
「《水鏡》!」
鏡のような水面へ、本物とコピーが二重に映る。
「小毬は本物の位置を見失わないでください」
「はい!」
「千燈は感情の核を」
「探す」
「依澄さん」
「夢に入る」
「一人では行かせない」
玄兎が言う。
依澄は手を差し出した。
「玄兎と一緒」
玄兎は透羽を見る。
透羽は一瞬だけ依澄の手へ視線を落としたが、すぐに頷いた。
「一緒に行ってあげてください」
玄兎は依澄の手を握った。
「離れるなよ」
「うん」
依澄が目を閉じる。
「《夢蛹》」
今回は誰かを眠らせるためではない。
怪異そのものが抱えている夢と願いへ、二人で触れる。
周囲の保存庫が溶けるように消えていった。
◇
夢の中にあったのは、朽木ヶ丘大学だった。
ただし、壁にも床にも空にも、無数の言葉が書かれている。
文字は塗料で書かれているのではなかった。壁の内側から黒い染みとなって浮かび、読まれるたびに細い脚を生やして位置を変える。見ないように目を伏せれば床へ集まり、目を閉じれば瞼の裏へ同じ文章が現れた。
『期待してるよ』
『あなたならできる』
『いつも明るいね』
『頼りになる』
『優しい人だよね』
『泣かないよね』
『怒らないよね』
『ちゃんとしてる』
『君なら大丈夫』
どれも、単独で見れば悪い言葉ではない。
だからこそ重かった。
「期待してる」という文字が依澄の肩へ貼りつき、その上へ「優しい人」「怒らない」「大丈夫」が重なる。紙一枚ほどの薄さしかないはずなのに、依澄の背は少しずつ曲がっていった。剥がそうと玄兎が手を伸ばすと、文字は黒い指へ変わり、今度は玄兎の手首を掴んだ。
耳元では、顔の見えない大勢が優しく囁いている。責める声ではない。だから拒めない。応えられない自分の方が悪いと思わせ、笑顔のまま逃げ道を塞いでくる声だった。
「優しい言葉なのに、苦しい」
依澄が肩の文字を見る。
大学の奥へ進む。
やがて、古い実験室のような空間へ出た。
一人の女子学生が椅子へ座っている。
服装も機材も二十年以上前のものだった。
マイク越しに研究者の声が聞こえる。
『期待される自分と、本当の自分に差があると感じますか』
女子学生は笑った。
『いいえ。私は大丈夫です』
場面が変わる。
『疲れていませんか』
『大丈夫です』
また変わる。
『休みたいと思いますか』
『いいえ』
さらに変わる。
『周囲から期待されるのは嬉しいですか』
女子学生は少し長く黙った。
それでも最後には笑う。
『嬉しいです』
けれど、口から出た言葉とはまるで反対の心の声が、玄兎たちにははっきりと聞こえた。
『苦しい』
玄兎は息を呑む。
依澄も女子学生を見ていた。
最後の記録は、夜の研究室で女子学生が一人、録音機の前へ座っている場面だった。
『みんなが好きな私でいれば、捨てられない』
笑っていない。
『期待どおりなら、忘れられない』
その言葉が、夢全体へ染み込んでいる。
依澄が女子学生の前へ歩いていった。
壁から剥がれた文字が、二人の間へ落ちる。
『笑っていれば、残れる』
その下に、もう一行が滲んだ。
『嫌だと言えば、離れていく』
女子学生が依澄を見る。
『どっちを選ぶの』
依澄は答えず、肩に貼りついていた『大丈夫』の文字を一枚つまんだ。
指先が震える。文字は皮膚に張りついて、簡単には剥がれない。
それでも依澄は引いた。布地が大きく引きつれ、ようやく文字が剥がれて床へ落ちる。
「今日は、こっち」
女子学生の目から涙が落ちた。
『私も、大丈夫じゃないって言っていい?』
依澄は、今剥がした文字を足元で踏んだ。
「うん」
『嫌だって言っても?』
「うん」
『疲れたって言っても?』
今度は玄兎が頷く。
「言っていい」
『それでも、残る人はいる?』
依澄は玄兎を見た。
玄兎は何も言わず、隣まで歩いてくる。
それを見て、依澄は女子学生へ向き直った。
「いる」
空を覆っていた言葉が、少しずつ剥がれ始めた。
消えるのではない。
『期待してる』
『優秀』
『明るい』
『頼れる』
文字は残ったまま、本人を縛る力だけが薄くなっていく。
女子学生は泣きながら、初めて笑わずに言った。
『私、休みたい』
依澄は隣の空いた椅子を引いた。
「座ろう」
女子学生はゆっくり腰を下ろし、目を閉じた。
夢全体が、静かにほどけていった。
◇
玄兎が目を開けると、記憶保存庫の床へ座っていた。
依澄も隣にいる。
手はまだ握ったままだ。
「戻った」
依澄が小さく言った。
小毬がすぐに駆け寄る。
「匂いあります!」
「《水鏡》にも映っています」
透羽も確認する。
千燈が周囲を見回した。
「コピーはほとんど消えた」
何百と並んでいた椅子は消え、保存庫はほぼ元の姿へ戻っている。ただ、白いワンピース姿の依澄のコピーだけは、まだその場に残っていた。
「私は、いらない?」
玄兎は少し考えた。
「いらないとは言わない。本当に昔の俺が知っていた何かなら、知りたい。でも、今の依澄の代わりにはしない」
コピーは本物の依澄を見る。
「私は、昔のあなたかもしれない。玄兎が待っていたあなた。消す?」
依澄はしばらく考えた。
「消さない」
「なぜ」
依澄は答えず、コピーへ手を差し出した。
「見せて。私が何だったのか」
コピーの依澄は、その手を見てから穏やかに笑った。
「じゃあ、覚えてて」
「うん」
白い姿が無数の蝶の光へ変わる。
光は依澄の胸元へ静かに吸い込まれていった。
玄兎はすぐに依澄を見る。
「大丈夫?」
「うん。少し見えた。黒い水の中に、小さい玄兎がいて、泣いてた」
玄兎の身体が僅かに強張る。
「何歳くらい?」
「分からない。でも、今よりずっと小さい」
依澄は指先で宙へ小さな円を描いた。
「私は、まだ人じゃなくて……蝶みたいな光。たぶん。玄兎の近くにいた」
「待ってた。玄兎が起きるのを」
玄兎の胸の痣が熱を持つ。
玄兎は六歳時の三日間の不安定な照合値を思い出した。ただ、今見た断片がその事故と同じ時のものだとは、まだ確認できない。
「その時、俺は依澄を知ってた?」
「分からない」
「名前は?」
「なかった」
「じゃあ、少なくとも今の『蝶ヶ森依澄』って名前を、昔の俺がそのまま知ってたわけじゃなさそうだな」
「たぶん」
依澄は少し安心したように笑った。
「よかった。私の全部が、玄兎の夢じゃない」
「俺も少し安心した」
千燈が小さく笑った。
透羽は昨日のカードを思い出すように言う。
「昨日のD-02記録とも食い違ってはいません。ただ、接触したのが今見えた断片と同じ時期かどうかは、まだ分かりません」
「うん」
依澄は玄兎を見る。
「玄兎が、私がここに来るきっかけだった?」
玄兎は少し考えてから答えた。
「その可能性はある。でも、まだそこまでだな」
「もしそうだったら、ありがとう」
「それなら受け取る」
依澄は少しだけ笑った。
「私は今ここにいる。それは好き」
玄兎もつられて笑う。
◇
怪異が鎮まると、三限の教室に残っていた学生たちのコピーも順番に消えた。
本物の学生たちには、コピーが演じていた「期待される自分」の記憶が少しだけ残ったらしい。
真面目だと思われていた女子学生は、翌日のゼミを一度休んだ。
いつも明るいと言われていた学生は、友人へ「今日は機嫌が悪い」と自分から言った。
サークルの代表をしている男子学生は、グループチャットへ「今週だけ進行を誰か代わって」と送ったそうだ。
大学を出たところで、玄兎は依澄へ声をかけた。
「今日の晩飯、何がいい?」
依澄は少し考えた。
「カレー」
「今日は辛い方」
「俺、辛すぎるの苦手」
依澄が一瞬止まる。
「私は辛いの食べる」
玄兎は笑った。
「うん」
「玄兎は?」
「中辛。別々で頼もう」
依澄はすぐにメニューへ視線を戻した。
後ろから小毬が手を上げた。
「私も辛いの!」
千燈は肩をすくめる。
「私は普通で」
透羽が静かに言った。
「私は甘口にします」
五人でカレー店へ向かい、依澄は辛口を、玄兎は中辛を、透羽は甘口を頼んだ。
料理が届くと、依澄は玄兎の皿を一度だけ覗き込み、それから自分の辛口へスプーンを入れた。
◇
カレー店を出たあと、五人は大学へ戻り、久住研究室へ寄った。
いつもの保管場所から紺色の共有ノートを出すと、まず小毬が書き、そこから透羽、千燈、依澄へ順に回っていった。
『依澄先輩、大学にちゃんといます! 匂いもあります!』
『透羽先輩は甘口カレー。』
『千燈先輩は普通。』
『玄兎先輩は中辛。』
『依澄先輩は辛口!』
最後にノートを受け取った玄兎は笑いながら、その下へ今日分かったことを書き足した。
『依澄が俺の夢や記憶に触れて、今の形へ近づいた可能性がある。』
『六歳頃と思われる俺の記憶の断片に、依澄を思わせる蝶の光がいた。』
『六歳の事故と同じ時の記憶なのか、その蝶がD-02なのかはまだ未確定。』
『その時の蝶には、少なくとも今の名前も人の姿もなかった。』
最後に一行だけ、事件とは関係のない記録を足した。
『依澄:辛口。俺:中辛。透羽:甘口。』
玄兎はノートを閉じ、久住研究室のいつもの保管場所へ戻した。
五人で研究室を出て、それぞれ帰宅したあと、玄兎のスマートフォンが震えた。画面を見ると、依澄からのメッセージだった。
『日記、最後まで書いた?』
『書いた。』
依澄は共有写真を開いてノートを読むと送ってきた。玄兎は『分かった』と返した。
少し間が空く。
『明日、塩パンに戻るかも。』
玄兎は朝の紙袋を思い出した。
『明日、選べばいいよ。』
すぐに返事が来る。
『うん。そうする。』
◇
同じ夜、鷺宮家では透羽の端末へ新しい閲覧許可が下りていた。
対象は、昨日見つかったD-02の観測記録。
今回は、これまで黒塗りだった数行が追加で開示されている。
『夢層外部観測個体 D-02』
『単一個人の夢から発生したものではない。』
『中央夢層に蓄積した未成就願望、未完了夢、記憶残滓の集合が、自発的に輪郭を形成した可能性。』
透羽は息を止めた。
透羽は緊張したまま続きを読み進めた。
『外部器:鵺代玄兎との接触時、D-02側に著しい自己組織化を確認。』
『外部器の夢・記憶を参照し、人型人格の形成を開始。』
『ただし人格内容は外部器記憶の複製とは一致せず。』
『独自選択反応を複数確認。』
透羽は、その一文で指を止めた。
夕食の席で、依澄は迷わず辛口を頼んでいた。玄兎は中辛、透羽は甘口だった。
透羽はそれ以上考え込まず、続きを読んだ。
『D-02は外部器を待機対象として認識。』
『観測時、反復語――「待っている」』
『外部器六歳時、再構築反応後の認知・人格照合値不安定期間にD-02反応最大化。』
『外部器の認知・人格照合値安定後、D-02は夢層深部へ後退。』
そこで透羽の指が止まった。
今度の記録は、六歳時の三日間の不安定期と、D-02の反応が最大になった時期の重なりを示していた。
昼間、依澄が見た「小さな玄兎の近くで待つ蝶」の断片が、六歳時の事故と結びつく可能性は高くなった。だが、断片の蝶が本当にD-02だったのか、外部器との接触がその三日間のどの時点で起きたのかまでは、この記録からは分からない。
透羽は続きへ目を移した。
『再接触条件:外部器の――』
しかし、その先は再び黒く伏せられていて読めない。
透羽は五人のグループチャットを開き、すぐにメッセージを送った。
『明日、共有したい記録があります。依澄さんの成立に関する重要情報です。まだ不明な部分もありますが、六歳時の記録とD-02の反応に重なる時期が見つかりました。』
数秒後、玄兎から返事が届いた。
『悪い情報?』
透羽は少し考えてから答える。
『少なくとも、「依澄さんが玄兎一人の夢の複製である」という内容ではありません。』
今度は依澄から返信が来た。
『私、玄兎だけじゃない?』
『はい。』
続いて小毬が勢いよく反応する。
『よかったです!』
千燈からは落ち着いた返事が届いた。
『詳しくは明日聞こう。』
玄兎も短く応じる。
『了解。』
最後に、依澄から一文だけ届いた。
『明日もある。』
透羽はその短い文章をしばらく見つめ、小さく笑った。
『はい。明日、話しましょう。』
そう送信して端末を置く。
――第十五話・了