翌朝、蝶ヶ森依澄は大学の正門にある学生証ゲートを三回通った。
一回目は、短い電子音とともに問題なく開いた。二回目も同じだった。いったん外へ戻り、三回目に学生証をかざした時も、表示灯は緑に変わって素直に扉を開いた。
少し離れたところでそれを見ていた鵺代玄兎は、三度目の通過を終えた依澄へ声をかけた。
「もう十分じゃないか?」
「三回通れた」
「全部見てた」
「昨日は一回も通れなかった」
「だからって朝から何度も往復してると、今度は別の意味で警備員に覚えられるぞ」
「怪しまれる?」
「たぶん」
「普通の学生みたいに?」
「怪しまれ方だけなら」
依澄は少し考え、それから小さく笑った。
「なら、少し嬉しい」
「そこを喜ぶのか」
今日は白いブラウスに薄紫色のカーディガンを羽織っている。長い銀紫色の髪も、淡い青紫の目も、昨日までと何も変わらない。
昨日、大学の名簿や写真や学生たちの記憶から消えかけた少女には見えなかった。
「学生ポータルは?」
「入れた」
「履修表も?」
「戻ってる」
「久住教授には会った?」
「さっき廊下で会った。『昨日は変だったな』って言われた」
「依澄を忘れたこと自体は覚えてるのか」
「うん。私の名前も呼んだ」
依澄はそこで少し間を置き、鞄の中の学生証へ指先を触れた。
「教授、大学の記録も確認したって」
「何て?」
「今の学籍は戻ってる。学生番号も、履修も、出席の記録もあるって」
「じゃあ、もう大丈夫なのか」
「そこは、まだ分からないって」
玄兎が眉を寄せると、依澄は久住から聞いた言葉を思い出すように、ゆっくり続けた。
「大学の中だけ見ると、私はちゃんと学生。でも、その記録を前へ前へ辿っていくと、少し変なところがあるって。入学した時の書類とか、その前の記録とか。教授も、今朝見ただけだから断定はしないって言ってた」
「昨日の怪異で壊れた?」
「それも分からない。昨日消えたせいなのか、前からそうだったのかも、まだ確認できてない」
玄兎はすぐに答えられなかった。
学生証は目の前にある。ゲートも開く。履修表には講義が並び、教授たちは依澄を学生として知っている。昨日までなら、それだけで「戻った」と安心していたかもしれない。
けれど、久住が怪異を知る研究者として慎重に調べた結果、今ここにある記録と、その記録が本来つながっているはずの過去は、同じ確かさではないらしい。
「久住教授、どうするって?」
「今ある学籍は勝手に触らないって。私が学生としてここにいる記録まで消す理由はないから」
依澄は学生証の入った鞄を軽く押さえた。
「ただ、足りないところは調べる。私にも、分かったことは説明するって」
玄兎はその言葉を聞いて、少しだけ肩の力を抜いた。
「なら、それでいいと思う。今あるものまで疑って全部なくす必要はないし」
「うん」
「それに、入学前の記録がおかしいなら、俺たちが知らなかった依澄のことが分かるかもしれない」
「怖くない?」
「怖いけど、依澄がいることまで変わるわけじゃないだろ」
依澄は玄兎を見た。
「私、学生?」
「少なくとも今は、朝からゲートを三回通ってる学生」
「普通?」
「そこだけは全然普通じゃない」
依澄が小さく笑った。
「よかった」
玄兎も、胸の奥でようやく小さく息を吐いた。
昨日は、彼女の手を握っているのに、その感触が少しずつ薄くなっていった。目の前に確かにいるのに、世界の方から存在を否定されていくような感覚だった。
あれは思った以上に怖かった。
玄兎はこれまで、自分が死ぬことを周囲がどれほど恐れているか、頭では分かっているつもりだった。透羽は何度も怒った。小毬は泣いた。千燈は冗談を言わなくなった。依澄も「明日へ帰ってきて」と言った。
けれど、依澄が消えかけたことで初めて少しだけ実感した。
誰かが自分の手の中から失われていくことは、理屈では処理できないほど怖い。
「玄兎」
「何?」
「また見てる」
「確認してる」
「私、いる?」
「いるよ」
「よかった」
それだけのやりとりで、依澄の表情が少し柔らかくなった。
そこへ、正門の向こうから勢いのある声が飛んでくる。
「先輩ー!」
白狼院小毬が大きな紙袋を抱えて走ってきた。
「おはようございます!」
「おはよう」
「依澄先輩!」
小毬は玄兎を通り過ぎ、真っ先に依澄へ顔を近づけた。
「匂い、確認します!」
「どう?」
「昨日より濃いです! ちゃんといつもの依澄先輩です!」
「いつもの匂いって、どんな匂い?」
「寝起きの部屋みたいな、夢から覚めた後みたいな匂いです!」
「やっぱり分かりにくいな」
「私は分かります!」
小毬の抱えた紙袋から、焼きたてのパンの香りが漂っている。
「それ何個入ってるんだ」
「六個です!」
「一人で?」
「五人分です!」
「一個余るぞ」
「私が二個食べます!」
「だと思った」
依澄が袋の中を覗き込んだ。
「塩パンある?」
「あります!」
「今日は塩パン?」
玄兎が尋ねると、依澄は少し考えた。
「今日は、あんバターも気になる」
「昨日から変わったな」
「うん」
「じゃあ今日は、あんバター?」
「半分ずつ食べたい」
「二つ買えばいいだろ」
「玄兎と半分」
その言葉へ、小毬が即座に反応した。
「依澄先輩、それデートっぽいです!」
「パンを半分にするだけだぞ」
「こういう小さいことから恋は始まるんです!」
「朝から元気だな」
落ち着いた声が背後から聞こえた。
「白狼院さん。正門前で大声を出さないでください」
鷺宮透羽だった。その隣には緋鴉千燈もいる。
「全員揃った」
依澄が言う。
「はい」
透羽は依澄を見ると、ほんの一瞬だけ目を細めた。
「今日は問題なさそうですね」
「透羽も触って確認する?」
「必要ありません」
「昨日は触った」
「昨日は緊急時でした」
「今日は?」
「必要ありません」
そう答えながら、透羽は依澄の腕へ軽く指先を触れた。
依澄がその手を見る。
「触った」
「念のためです」
「必要ないって言った」
「状況は常に変化します」
千燈が笑った。
「透羽ちゃんもかなり心配してるね」
「あなたに言われたくありません」
「私、昨日の夜だけで写真を三回確認したよ」
「……」
「透羽ちゃんは?」
「二回です」
「勝った」
「競っていません」
玄兎は五人を見ながら笑った。
依澄はここにいる。
依澄の名は大学の記録へ戻り、写真にも姿が写っている。小毬も、彼女の匂いをはっきり識別できていた。
それでも、昨日見つかった古い記録のことは、誰の頭からも離れていなかった。
『D-02』
『夢層外部観測個体』
『蝶型反応』
『定着状態:不安定』
『外部器との接触後、現実側への定着率上昇』
記録にある外部器は玄兎、夢層は《百獣繭》の内部、そしてD-02は依澄を指している可能性が高い。
昨日は、依澄が消えずに戻れたことだけで精一杯だった。
今日からは、その意味を調べなければならない。
◇
一限が始まる前、五人は学食の端にある休憩スペースへ集まった。
小毬が買ってきたパンを机へ並べる。玄兎はブラックコーヒー、透羽は温かい紅茶、千燈は朝からアイスコーヒーを選んでいた。
依澄は、塩パンとあんバターパンの両方を見比べている。
「玄兎」
「何?」
「半分」
「自分で切ればいいだろ」
「恋人っぽくない」
「まだそこ引っ張るの?」
「学習中」
「誰から学んだ」
依澄が千燈を見る。
玄兎も同じ方向を見た。
「先輩」
「私は何も教えてないよ」
「顔が怪しい」
「冤罪だねえ」
小毬が紙ナイフを差し出した。
「これ使ってください!」
「何で持ってるんだ」
「パン屋でもらいました!」
玄兎は仕方なく、あんバターパンを半分に切った。なるべく均等にしたつもりだったが、片方の方が少しだけ大きい。
依澄は二つを見比べた。
「玄兎」
「何」
「大きい方、私が取る?」
「好きな方を取れば」
「恋人なら大きい方を渡す?」
「依澄」
「なに」
「恋人を何でも判定するための基準にするの、そろそろやめよう」
「傷つく?」
「場合による」
「分かった」
依澄は素直に小さい方を取った。
「そっちでいいの?」
「うん」
「どうして?」
「私がこっちにしたいから」
玄兎は一瞬、言葉を止めた。
依澄は気づかずにパンを一口食べる。
「どう?」
「好き」
「塩パンより?」
「今は、こっち」
「そっか」
昨日の事件を思えば、その何でもない答えが妙に大事に聞こえた。
誰かが決めた「依澄」に自分を合わせるのではなく、今の彼女が好きなものを自分で選ぶ。その行為には、昨日までとは違う重みがあった。
透羽が紅茶のカップを置いた。
「昨日の記録について、今朝もう一度鷺宮家へ照会しました」
少しだけ空気が変わる。
「何か分かった?」
玄兎が尋ねる。
「新しい資料の閲覧許可はまだ出ていません。ただし、昨日のカードに使われていた書式が、二十年前の《百獣繭》観測記録と一致していることは確認できました」
「じゃあD-02は、本当に《百獣繭》にいた何かなんですね」
小毬が言う。
「その可能性は非常に高いです。そしてD-02が依澄さんを指している可能性も高い」
「高いけど、まだ確定ではない」
玄兎が念を押す。
「はい」
依澄はパンを持ったまま、少し考えていた。
「私、夢層から出てきた?」
「可能性があります」
「誰の夢?」
「まだ分かりません」
依澄は玄兎を見る。
「玄兎の?」
そこは玄兎も一番気になっていた。
「カードには『外部器との接触後、現実側への定着率上昇』って書いてあった。俺が外部器なら、俺と接触したことで依澄が今の形になった可能性はある」
「私、玄兎に触って人になった?」
「そこまで単純かは分からない」
「じゃあ」
依澄は少し間を置いた。
「私は、玄兎の夢からできた?」
誰もすぐには答えなかった。
千燈が最初に口を開く。
「依澄ちゃん。それが本当だったら怖い?」
「少し」
「何が一番怖い?」
依澄は自分の手を見た。
「私が、玄兎の欲しかった誰かだったら」
「うん」
「私が玄兎を好きなのも、最初からそうなるように作られてた?」
玄兎の胸が僅かに鳴った。
「それなら、私が玄兎を好きなのは、私の気持ちじゃない?」
軽く「違う」と言うことはできなかった。
まだ何も分かっていないのに、安心させるためだけの言葉を使いたくなかった。
「分からない」
依澄の目が少し伏せられる。
「でも」
玄兎は続けた。
「もし最初の形に俺の夢が影響してたとしても、今の依澄が全部俺の思い通りなら、変なところが多すぎる」
「例えば?」
「まず、好きな食べ物が毎日変わる」
「うん」
「俺はそこを望んでない。毎朝確認するの、地味に大変だから」
「嫌?」
「嫌じゃないけど」
依澄の表情が少しだけ柔らかくなった。
「それから、いきなり恋人の定義を聞く」
「知りたいから」
「人の夢へ勝手に入ったこともある」
「今は許可を取る」
「そういうところ」
「玄兎は望んでない?」
「少なくとも、俺が自分の理想の女の子を作るなら、もう少し俺に都合よくすると思う」
「先輩の理想の女の子!」
小毬がすぐに食いついた。
「そこを拾うな」
「聞きたいです!」
「今の話の主題じゃない」
千燈が楽しそうに笑う。
「玄兎くん、自分で地雷を置いたね」
「違う」
透羽も視線を逸らしながら言った。
「……理想像については、調査上、後で確認する必要があるかもしれません」
「透羽まで」
「調査上です」
「便利な言葉だな」
依澄は真剣な顔で玄兎へ訊いた。
「私、玄兎の理想と違う?」
「今は理想を決めてない」
「私じゃない?」
「依澄」
「なに」
「お前が俺の理想どおりかどうかより、お前が自分で何を選ぶかの方が大事だと思う」
依澄は黙った。
「仮に、昔の俺の夢が依澄の最初の形に影響してたとしても」
「うん」
「今日、あんバターの小さい方を取ったのは依澄だろ」
依澄は手元のパンを見る。
「私が決めた」
「そう」
「それなら、今日の私は私?」
「俺はそう思う」
しばらく考えた後、依澄は小さく笑った。
「じゃあ今日は、それでいい」
「うん」
透羽も少し安心したように紅茶を口へ運ぶ。
小毬は大きく頷いた。
「私もそう思います!」
「小毬は、俺の理想像を今すぐ聞こうとしなくてえらい」
「あとで聞きます!」
「我慢しただけか」
◇
異変が起きたのは、その日の三限だった。
玄兎と透羽が受けていた一般教養の講義は、偶然にも「社会心理学における役割期待」がテーマだった。
教授がスクリーンへ資料を映しながら説明する。
「人間は、自分がどうありたいかだけでなく、他者からどう見られているかによって行動を変えます。家庭では『良い子』、学校では『優秀な学生』、友人関係では『面白い人』といった具合ですね」
玄兎は何となく依澄のことを思い出した。
「こうした期待は、人間関係を円滑にすることもあります。しかし、周囲が望む人物像と本人の感情が大きくずれると、それは強い負担になります」
「玄兎」
透羽が小声で呼ぶ。
「何」
「依澄さんのことを考えていますか」
「分かる?」
「顔で」
「今日みんな顔読むな」
「私も考えていました」
「今日の題材、出来すぎだよな」
「はい」
教授はさらに続ける。
「重要なのは、役割期待そのものを消すことではありません。自分がその期待を受け入れるか、拒むか、あるいは別の形へ選び直せるかです」
玄兎はスクリーンを見つめながら、「選び直す」という言葉を頭の中で反芻した。今朝、依澄は自分で小さい方のパンを選んだ。
そんな些細な選択さえ、今は意味を持っているように思えた。
その時だった。
前の席にいた女子学生が、突然立ち上がった。
「先生」
「どうしました?」
「私、こんなに真面目じゃないです」
教室が静まる。
「どういう意味ですか?」
「みんな私のこと、真面目で、何でもちゃんとやるって思ってるけど。本当は今日のレポートもやりたくないし、ゼミも休みたいし、『あなたなら大丈夫』って言われるのも、もう嫌で……」
「落ち着いて。一度外へ――」
教授が近づこうとした、その時。
女子学生の隣の空席に。
もう一人、同じ女子学生が座っていた。
新たに現れた姿は、顔も髪も服装も本人とまったく同じだった。ただし、背筋を完璧に伸ばし、穏やかな笑顔を浮かべてノートを取っている。
「大丈夫です」
偽物の女子学生が言った。
「私はちゃんとできます」
本物の女子学生の顔から血の気が引いた。
「誰……?」
「あなたが求められているあなたです」
その言葉を合図にしたように、教室のあちこちで同じ現象が起こった。
眠そうにしていた男子学生の隣には、爽やかな笑顔で発表資料を整える自分が現れた。
普段から明るい女子学生の横には、誰に話しかけられても笑顔を崩さない自分が立っている。
サークルの代表をしている男子学生の後ろには、疲れを一切見せず、何でも引き受ける自分が現れた。
「透羽」
「見えています。強い怪異反応です」
透羽はすぐに立ち上がった。
偽物の女子学生は、周囲の視線を受けてさらに完璧な笑顔を作った。
「レポートは期限までに提出します。ゼミも休みません。友達の相談にも乗ります。先生にも迷惑をかけません」
「やめて」
本物の女子学生が震える。
「それ、私じゃない」
「でも、みんなはこの方が好きです」
玄兎の背筋が冷えた。
「全員、一度教室から出て!」
透羽が教授より先に声を張った。
「先生も、学生を廊下へ誘導してください!」
「鷺宮、何が起きてるんだ!」
「説明は後でします!」
玄兎も学生たちへ向き直る。
「自分に似てる方は連れてこなくていいから、本物だけ外へ!」
「鵺代、それ説明になってる!?」
「俺もそう思うけど、とにかく外!」
混乱しながらも、学生たちは廊下へ逃げ始めた。
奇妙なことに、偽物たちは追ってこなかった。
本物がいなくなった教室で、コピーたちは誰も見ていないのに「期待された行動」を続けていた。真面目な学生のコピーは黙々と勉強し、明るい学生のコピーは笑顔を絶やさず、頼れる学生のコピーは一人で全員分の仕事を引き受けようとしている。
ただし、その動きには休息というものがなかった。
真面目な学生のコピーは鉛筆の芯が折れても書き続け、やがて尖った木軸を指へ食い込ませた。机に血が滲んでも、「提出物を汚してはいけない」と笑顔で紙だけを避ける。
明るい学生のコピーは、誰もいない席へ同じ冗談を何度も繰り返していた。笑うたび口角が少しずつ裂け、頬へ赤い筋が伸びても、教室が求める明るさを崩さない。
頼れる学生のコピーは、左右の手だけでは足りなくなると肩や背中から新しい腕を生やした。レポート、出席票、相談への返信、サークルの会計。増えた腕は全て別の仕事をこなし、本人の胴体だけが重みに潰されていく。
「完璧になることが目的じゃない」
玄兎は窓越しの光景を見て、ようやく怪異の性質を理解した。
「期待には終わりがない。応えられる姿を作ったら、もっと多くを背負わせる」
コピーは本人を殺しに来ない。ただ本人がもう二度と戻れないほど、自分の役割を完璧に演じ続ける。周囲がコピーの方を便利だと思い始めれば、本物は誰にも追われず、静かに居場所を失う。
「小毬たちに連絡を」
透羽に促され、玄兎はすぐにスマートフォンを取り出した。
「今送る」
玄兎はグループチャットを開いた。
『三限の教室で学生のコピーが大量に出た。本人じゃなく、周りが期待してる姿っぽい。』
小毬からすぐ返信が来る。
『今行きます!』
続いて千燈からも返事が入る。
『昨日の空席と同系統かも。そっちで待ってて。』
さらに依澄から短いメッセージが届いた。
『私も行く。』
玄兎はその文を見て一瞬迷った。
周囲の期待どおりの姿。
今の依澄にとって、一番見たくない怪異かもしれない。
けれど、勝手に「来るな」と決めるのは違う。
『来て。ただし無理するな。』
玄兎が送信すると、依澄からすぐに短い返事が返ってきた。
『うん。』
◇
大学側は、体調不良者の集団発生という名目で三限の一部講義を中止した。
怪異が残る教室は、透羽が薄い水の膜で出入口を覆い、《禊牢》の応用で一時的に封鎖している。
十五分ほどして、千燈、小毬、依澄が揃った。
「先輩!」
「小毬」
小毬は玄兎のすぐ近くまで来ると、鼻を動かした。
「本物です!」
「今のところコピー出てない」
「出るかもしれないので確認しました!」
「頼りにしてる」
「はい!」
千燈は教室の窓から中を覗き込み、顔をしかめた。
「うわ。これは嫌だね」
「何が?」
「誰も見てないのに、ずっと『いい自分』を演じてる」
教室内では、偽物たちが黙々と期待された役割を続けている。
「何が目的なんだろう」
玄兎が言う。
「本人を置き換えるつもりでしょうか」
透羽は慎重に観察している。
依澄は窓越しに偽物たちを見ていた。
「似てる」
「昨日の空席に?」
「うん。でも昨日は記録を整えてた。今日は、人を整えてる」
「『この人はこういう人』って周りが決めた形に?」
「たぶん」
依澄が答えた直後、教室にいた偽物たちが一斉に顔を上げた。
全員の視線が、廊下にいる依澄へ向く。
玄兎は反射的に依澄の前へ半歩出た。
「依澄」
「うん」
偽物たちは同じ笑顔を作り、同じ声で言った。
『未完成』
『参照情報不足』
『補完します』
「何で依澄先輩に!」
小毬が声を上げる。
『主要参照元を確認』
全員の視線が今度は玄兎へ移る。
「俺?」
『外部器』
依澄の指がわずかに震えた。
「玄兎」
「いるよ」
玄兎はすぐに答えた。
教室の照明が一度消える。
ほんの一秒後、再び明るくなった時。
依澄の隣に、もう一人の蝶ヶ森依澄が立っていた。
◇
顔も、髪も、身長も同じだった。
違うのは服装だった。
偽物の依澄は、淡い白のワンピースを着ている。大学生というより、誰かの夢の中で待ち続けていた少女のように見えた。
「……私」
本物の依澄が呟く。
偽物はまず玄兎を見た。
そして、今の依澄よりも少しだけ親密な響きで名前を呼んだ。
「玄兎」
胸の痣が熱を持つ。
「帰ってきてくれた」
玄兎は眉を寄せた。
「誰だ」
「依澄」
本物の依澄がすぐに言う。
「私じゃない」
「うん」
偽物は穏やかに頷いた。
「でも、あなたより前の依澄」
「前?」
「玄兎が覚えていた私」
依澄の顔が硬くなる。
「玄兎が?」
「うん」
偽物は玄兎へ手を伸ばした。
「黒い水の中で、一人で大きな月を見ていた玄兎」
玄兎の痣がさらに熱くなる。
それは、以前千燈が玄兎の血から読み取った断片と一致していた。巨大な月、黒い水、そしてその中にいる幼い玄兎。
「それ以上近づかないでください」
透羽の声が低くなる。
周囲に浮かせた水滴が細い刃へ変わった。
偽物の依澄は透羽を見る。
「透羽」
「私も知っているのですか」
「玄兎が知っているから」
「玄兎の記憶を参照している」
「そう」
次に小毬を見る。
「小毬は肉が好き」
「雑です!」
小毬が即座に反論した。
「私、それだけじゃありません!」
「群れを大事にする」
「それは合ってます!」
千燈が自分を指した。
「じゃあ私は?」
「血を読む。長く生きている。玄兎が大事になってきているけれど、また失うのが怖い」
千燈の笑みが消えた。
「……嫌なところまで知ってるね」
「玄兎が気づいていること」
「全部?」
「全部ではない」
偽物は本物の依澄へ向き直る。
「私の材料は、玄兎の記憶と期待」
「じゃあ」
依澄の声が小さくなる。
「あなたが、玄兎の夢からできた私?」
「一番近い」
「待て」
玄兎が割って入る。
「お前の説明が本当だって証拠はない」
「玄兎は私を知ってる」
「覚えてない」
「だから私が残っている」
偽物はあまりにも自然な顔で言った。
「忘れた玄兎のために、私は待っていた」
玄兎の背中が冷える。
六歳の事故。中央側の記録では、事故直後に心拍と呼吸が止まったのに近い反応があり、その直後に再構築反応が始まっている。身体は短時間で安定し、病院へ着いた時には意識も戻っていた。それでも、認知と人格の内部照合値だけは三日間、安定しなかった。
三日間ずっと死んでいたわけではない。けれど、その三日間、自分の内側で何が揺らいでいたのかを玄兎自身は覚えていない。
もし、その不安定な時期に《百獣繭》の夢層で何かが起き、それが今も形を変えて残っているのだとしたら。
「玄兎」
本物の依澄が呼んだ。
玄兎が振り向く。
依澄の表情には、昨日とは違う種類の不安がはっきり浮かんでいた。
「どっちが」
「何?」
「どっちが、玄兎の知ってる依澄?」
玄兎は少し考えた。
答えを急げば、また誰かが望む正解を押しつけることになる。
「今、俺が知ってるのはこっちだよ」
玄兎は本物の依澄を見る。
「でも、向こうは昔の玄兎を知ってるかもしれない」
「そうかもしれない」
「それでも?」
「それでも。今、一緒に大学へ来てるのは依澄だろ」
依澄の目が揺れる。
「今日、あんバターの小さい方を選んだのも依澄。恋人って何か、しつこいくらい聞いてくるのも依澄」
「毎日ではない」
「結構聞く」
「……」
「そういう今の依澄を、俺は知ってる」
偽物の笑顔が少しだけ崩れた。
『不整合』
教室内のコピーたちが一斉に呟く。
『期待対象と現在個体が不一致』
「それでいい」
本物の依澄が言った。
声は少し震えている。
それでも、逃げずに偽物を見ている。
「私、玄兎が思ってた私と違っていい」
「それでは定着できない」
偽物が答える。
「期待に合わなければ、人は忘れられる」
「……」
「人は知っている形を覚える。望まれた形なら受け入れられる」
教室にいる偽物たちは、真面目な学生、明るい学生、頼れる学生という、誰かが本人へ望んだ姿を忠実に演じ続けていた。
「あなたも玄兎が望む形でいれば、消えない」
依澄はしばらく黙っていた。
「それ、嫌」
「なぜ」
「私」
依澄は玄兎を見る。
「玄兎に好かれたい」
小毬が目を見開く。
透羽も、千燈も黙る。
依澄は続けた。
「たぶん」
「そこはまだ『たぶん』なんだ」
玄兎が言う。
「うん。でも、玄兎が好きな形になるだけなら」
「うん」
「それは、私を好きになってもらったことにならない」
玄兎の胸が静かに鳴る。
「そうだな」
「私が選んだ私を」
依澄は言葉を探しながら、自分の胸へ手を置いた。
「好きになってほしい」
玄兎は返事に詰まった。
今度は小毬が何か言いかけるが、透羽が小さく首を振って止める。
千燈は冗談を挟まなかった。
「いいね」
千燈が穏やかに言った。
「それ、自分の願いだよ」
「私の?」
「うん。誰かの夢から借りた言葉じゃなくて、今の依澄ちゃんが自分で決めた」
依澄は少しだけ笑った。
「じゃあ、覚える」
「俺も覚える」
玄兎が言う。
「何を?」
「依澄は、俺の理想になりたいんじゃなくて、依澄として好かれたい」
依澄の頬が少し赤くなる。
「うん」
「かなり重いな」
「嫌?」
「嫌じゃない」
小毬が今度こそ身を乗り出しかけた。
「小毬、今は待って」
玄兎が先に止める。
「はい!」
偽物の依澄が、玄兎と本物の依澄を交互に見た。
その表情から笑顔が消える。
『理解不能』
「だろうな」
玄兎は苦笑した。
「期待と違っても、関係が続くことはある」
『不安定』
「人間関係なんて、だいたい不安定だよ」
千燈が言う。
「百年生きてもね」
『拒絶の可能性』
「ある」
依澄は自分で答えた。
「玄兎が私を好きにならないこともある」
玄兎の胸が少し痛んだ。
「でも、それでも私が選ぶ」
「うん」
「玄兎に好かれるためだけに、玄兎の望む私にはならない」
偽物の依澄の輪郭が僅かに揺らぐ。
玄兎は依澄を見る。
「それでいい」
「もし、それで消えたら?」
「消させない」
「玄兎」
「世界が忘れても、また記録する」
「私が匂いを覚えてます!」
小毬が力強く続ける。
「私は写真も残す」
千燈も穏やかに言った。
「大学の記録も、必要なら何度でも取り戻します」
透羽も迷わず言い切った。
依澄は四人を順番に見た。
「じゃあ、期待どおりじゃなくていい?」
「いい」
玄兎は即答した。
「むしろ、俺の思った通りに全部動かれたら怖い」
「何で?」
「自分が二人いるみたいだから」
「私は玄兎じゃない」
「そういうこと」
偽物の依澄が、淡い光の粒をこぼし始めた。
だが、教室に残る他のコピーは消えない。
透羽がすぐに気づく。
「依澄さんの問題だけでは終わりません。元になっている怪異を解かなければ」
「核は昨日の研究室だと思う」
千燈が言う。
「この気配、空席の怪異と近い」
「また地下か」
玄兎がため息をつく。
「行く」
依澄がはっきり言う。
「無理するなよ」
「でも行く」
「行くなとは言ってない」
「うん」
「一緒に行こう」
「うん」
透羽は教室のコピーを《禊牢》で一時的に封じる準備をしながら、大学と鷺宮家へ連絡を入れた。
◇
旧認知環境研究室へ到着したのは、午後四時を過ぎた頃だった。
今回は鷺宮家から緊急対応の連絡が大学へ入っているため、昨日のような細かい申請は必要なかった。
「透羽の家、こういう時は便利だな」
玄兎が言う。
「便利ではありません」
「今だけ」
「……否定はしません」
地下へ降りるにつれて、空気が重くなる。
昨日より明らかに怪異の気配が濃い。
それでも、五人の距離は近かった。
「小毬」
「はい」
「もし俺のコピーが出たら、本物分かる?」
「分かります!」
「即答だな」
「先輩の匂いは覚えてますから!」
「頼む」
「任せてください!」
千燈が笑う。
「私のコピーは?」
「血で?」
「それは最後にしようかな。コピーにも血があるかもしれないし」
「なるほど」
依澄は少し黙って歩いていた。
「依澄は、自分のコピー見分けられる?」
「今なら分かる」
「どうやって」
「あっちの方が玄兎を知ってる顔をする」
「そこ?」
「嫌」
「それ、嫉妬じゃない?」
依澄の足が止まる。
「これが?」
「たぶん」
依澄は少し考えた。
「嫌だけど、少し嬉しい」
「何で?」
「感情が増えた」
「そこ喜ぶんだ」
「人間っぽい?」
「依澄っぽい」
依澄の顔が少し明るくなる。
「それ、好き」
「その返しも覚えてる」
前を歩いていた透羽が振り返らずに言う。
「後ろで恋愛感情の確認をしないでください」
「聞いてた?」
「普通に聞こえる距離です」
千燈が楽しそうに笑う。
「嫉妬?」
「違います」
「早い」
「千燈」
「はいはい」
小毬も手を上げた。
「私は嫉妬します!」
「知ってる」
「先輩、私の方もちゃんと見てください!」
「今は前を見よう」
「戦闘中じゃないです!」
「怪異調査中」
「じゃあ、あとで!」
「はいはい」
そんな会話をしながら歩いていると、地下にいても現実との繋がりが切れない。
玄兎は、それを少し大事に思った。
◇
記憶保存庫の扉を開けると、昨日とは景色がまるで違っていた。
棚や記録媒体は同じ場所にある。
だが中央の空間には、昨日一脚しかなかった「空席」が、何十、何百と並んでいた。
しかも、その椅子は空ではない。
椅子には学生や教員、職員のコピーが並び、その中には玄兎たち五人の姿まであった。全員が静かに座り、こちらを待っているように見える。
保存庫の広さでは収まらない数だった。奥へ行くほど椅子は暗闇の中へ小さくなり、最後列は壁の向こうまで続いているように見える。座っている者たちは全員、膝へ両手を揃え、同じ角度で首を伏せていた。
五人が一歩入ると、最前列のコピーが顔を上げる。少し遅れて二列目が、その次に三列目が顔を上げた。動きは波のように奥へ伝わり、やがて見えない暗闇の先からまで、衣服の擦れる音と骨の鳴る音が幾重にも返ってきた。
誰も瞬きをしていない。瞳には照明が映らず、黒い穴のような目だけが本物の五人を見つめていた。口元はそれぞれ穏やかに笑っているのに、笑顔を作る理由だけが抜け落ちている。
「……これは嫌だな」
玄兎が呟く。
「本物の先輩はこっちです!」
小毬が即座に言った。
「早い」
「コピーは匂いが薄いです!」
「やっぱり小毬が一番強いな」
千燈は自分のコピーを見る。
コピーの千燈は、余裕のある笑顔を浮かべていた。
「大丈夫だよ」
コピーが言う。
「私は平気だから」
本物の千燈の表情から笑みが消えた。
「……これ、嫌い」
「うん」
玄兎が短く頷くと、千燈は自分のコピーから目を離さずに訊いた。
「私、いつも平気な顔してる?」
「普段はそう見える時もある」
「そっか」
「でも、平気じゃない日もあるのは知ってる」
千燈は少しだけ目を細めた。
「それならいい」
透羽のコピーは、背筋を伸ばして静かに立ち上がった。
「問題ありません。私が全て処理します」
本物の透羽が嫌そうな顔をする。
「……」
「似てる」
玄兎が言う。
「言わないでください」
「でも、よく言う」
「私は」
透羽はコピーから目を離さず、小さく息を吐いた。
「問題がある時もあります」
「知ってる」
「……」
「無理な時は言って」
透羽が玄兎を見る。
「今それを言うのは、ずるいです」
「何で」
「いいから、集中してください」
小毬のコピーは笑顔で両手を握っている。
「大丈夫です! 群れなので!」
本物の小毬がすぐに反論した。
「違います!」
「何が?」
玄兎が訊き返すと、小毬は自分の胸へ手を当てた。
「私、いつも元気じゃないです。怖い時もあるし、群れが傷ついたら泣きます!」
「知ってる」
「肉のことしか考えてないわけでもないです!」
「それも知ってる」
「よし!」
最後に依澄のコピーが立ち上がった。白いワンピース姿は、先ほど教室で見た時よりさらに輪郭が鮮明になっている。
「玄兎」
「何」
「おかえり」
胸の痣が熱くなる。
玄兎は目を逸らさなかった。
「『ただいま』は、今の依澄に言う」
本物の依澄が横を見る。
「私?」
「うん」
「まだどこにも行ってない」
「じゃあ、帰った時に」
「分かった」
コピーの顔が僅かに歪む。
『期待情報と不一致』
部屋中のコピーが一斉に反応した。
『修正を開始します』
「またそれか」
玄兎が身構える。
「透羽!」
「水を広げます!」
透羽が床へ水を薄く走らせる。
「《水鏡》!」
鏡のような水面へ、本物とコピーが二重に映る。
「小毬は本物の位置を見失わないでください」
「はい!」
「千燈は感情の核を」
「探す」
「依澄さん」
「夢に入る」
「一人では行かせない」
玄兎が言う。
依澄は手を差し出した。
「玄兎と一緒」
「俺?」
「うん」
玄兎は透羽を見る。
透羽は一瞬だけ依澄の手へ視線を落としたが、すぐに頷いた。
「必要です。行ってください」
「いい?」
「今は調査を優先します」
千燈が口元を上げる。
「今は?」
「千燈」
「はいはい」
玄兎は依澄の手を握った。
「離れるなよ」
「うん」
依澄が目を閉じる。
「《夢蛹》」
今回は誰かを眠らせるためではない。
怪異そのものが抱えている夢と願いへ、二人で触れる。
周囲の保存庫が溶けるように消えていった。
◇
夢の中にあったのは、朽木ヶ丘大学だった。
ただし、壁にも床にも空にも、無数の言葉が書かれている。
文字は塗料で書かれているのではなかった。壁の内側から黒い染みとなって浮かび、読まれるたびに細い脚を生やして位置を変える。見ないように目を伏せれば床へ集まり、目を閉じれば瞼の裏へ同じ文章が現れた。
『期待してるよ』
『あなたならできる』
『いつも明るいね』
『頼りになる』
『優しい人だよね』
『泣かないよね』
『怒らないよね』
『ちゃんとしてる』
『君なら大丈夫』
どれも、単独で見れば悪い言葉ではない。
だからこそ重かった。
「期待してる」という文字が依澄の肩へ貼りつき、その上へ「優しい人」「怒らない」「大丈夫」が重なる。紙一枚ほどの薄さしかないはずなのに、依澄の背は少しずつ曲がっていった。剥がそうと玄兎が手を伸ばすと、文字は黒い指へ変わり、今度は玄兎の手首を掴んだ。
耳元では、顔の見えない大勢が優しく囁いている。責める声ではない。だから拒めない。応えられない自分の方が悪いと思わせ、笑顔のまま逃げ道を塞いでくる声だった。
「苦しい」
依澄が言う。
「文字が?」
「うん。優しい言葉なのに」
「言われ続けたら逃げ場なくなるのかもな」
大学の奥へ進む。
やがて、古い実験室のような空間へ出た。
一人の女子学生が椅子へ座っている。
服装も機材も二十年以上前のものだった。
マイク越しに研究者の声が聞こえる。
『期待される自分と、本当の自分に差があると感じますか』
女子学生は笑った。
『いいえ。私は大丈夫です』
場面が変わる。
『疲れていませんか』
『大丈夫です』
また変わる。
『休みたいと思いますか』
『いいえ』
さらに変わる。
『周囲から期待されるのは嬉しいですか』
女子学生は少し長く黙った。
それでも最後には笑う。
『嬉しいです』
けれど、口から出た言葉とはまるで反対の心の声が、玄兎たちにははっきりと聞こえた。
『苦しい』
玄兎は息を呑む。
「表で答えた言葉と、本音が別」
「うん」
依澄も女子学生を見ている。
最後の記録は、夜の研究室で女子学生が一人、録音機の前へ座っている場面だった。
『みんなが好きな私でいれば、捨てられない』
笑っていない。
『期待どおりなら、忘れられない』
その言葉が、夢全体へ染み込んでいる。
依澄が女子学生の前へ歩いていった。
「違う」
女子学生が顔を上げる。
「何が?」
「期待どおりでも、忘れられる」
「……」
「でも、期待と違っても、覚えてくれる人はいる」
『どうして分かるの』
依澄は玄兎を見る。
「私が昨日、消えかけた」
「うん」
「でも、玄兎たちは残った」
女子学生の表情が歪む。
『もし、本当の私を嫌われたら』
玄兎が答える。
「嫌われることはあると思う」
依澄が玄兎を見る。
「正直」
「嘘をついても仕方ない」
『期待に応えなかったら、離れる人もいる』
「いる」
玄兎は正直に認めた。
「でも」
その言葉を引き取るように、依澄が続ける。
「全員じゃない」
『どうして』
「私は、玄兎が思ってた私と違うかもしれない」
「うん」
「昨日の私とも、明日の私とも違う」
「好きな食べ物も変わる」
「うん」
「でも」
依澄は女子学生を見る。
「それでも、私を見てくれる人がいる」
女子学生の目から涙が落ちた。
『私も、大丈夫じゃないって言っていい?』
「いい」
玄兎が答える。
『嫌だって言っても?』
「いい」
今度は依澄が頷いた。
『疲れたって言っても?』
「言っていい」
玄兎はもう一度、はっきり答えた。
『それでも、残る人はいる?』
玄兎は少しだけ笑った。
「いるよ」
空を覆っていた言葉が、少しずつ剥がれ始めた。
消えるのではない。
『期待してる』
『優秀』
『明るい』
『頼れる』
そういう評価は残ったまま、本人を縛る力だけが薄くなっていく。
女子学生は泣きながら、初めて笑わずに言った。
『私、休みたい』
依澄は頷いた。
「うん。休んでいい」
女子学生は目を閉じた。
夢全体が、静かにほどけていった。
◇
玄兎が目を開けると、記憶保存庫の床へ座っていた。
依澄も隣にいる。
手はまだ握ったままだ。
「戻った?」
「うん」
「依澄」
「いる」
小毬がすぐに駆け寄る。
「匂いあります!」
「《水鏡》にも映っています」
透羽も確認する。
千燈が周囲を見回した。
「コピーはほとんど消えた」
何百と並んでいた椅子は消え、保存庫はほぼ元の姿へ戻っている。ただ、白いワンピース姿の依澄のコピーだけは、まだその場に残っていた。
「玄兎」
「何」
「私は、いらない?」
玄兎は少し考えた。
「いらない、とは言わない」
「じゃあ?」
「お前が本当に昔の俺が知っていた何かなら、俺は知りたい」
「……」
「でも、今の依澄の代わりにはしない」
コピーは本物の依澄を見る。
「私は、昔のあなたかもしれない」
「うん」
「玄兎が待っていたあなた」
「うん」
「消す?」
依澄はしばらく考えた。
「消さない」
「なぜ」
「知りたい。私が何だったのか」
「うん」
「でも」
依澄は自分の胸へ手を置いた。
「今の私が、これから何になるかは私が決める」
コピーの依澄は、初めて本物と同じような穏やかな笑顔を浮かべた。
「じゃあ、覚えてて」
「うん」
白い姿が無数の蝶の光へ変わる。
光は依澄の胸元へ静かに吸い込まれていった。
玄兎はすぐに依澄を見る。
「大丈夫?」
「うん」
「何か見えた?」
「少し」
「何が?」
依澄は目を閉じた。
「黒い水」
「うん」
「小さい玄兎がいる」
玄兎の身体が僅かに強張る。
「何歳くらい?」
「分からない。でも、今よりずっと小さい」
「俺、何してる?」
「泣いてる」
「俺が?」
「うん」
「依澄は?」
「まだ人じゃない」
依澄は指先で宙へ小さな円を描いた。
「蝶みたいな光」
「それが依澄?」
「たぶん」
「何してた」
「玄兎の近くにいた」
「どうして」
「待ってた」
玄兎の胸の痣が熱を持つ。
「何を?」
「玄兎が起きるのを」
玄兎は、鷺宮家で見せられた六歳時の記録を思い出した。事故直後には短い心肺停止に相当する反応があり、その後の再構築で生命活動は比較的早く安定した。しかし、認知と人格の内部照合値だけは三日間、不安定なままだった。
ただ、依澄が今見た断片が、その事故と同じ時のものだとはまだ確認できない。
「その時、俺は依澄を知ってた?」
「分からない」
「名前は?」
「なかった」
「じゃあ、少なくとも今の『蝶ヶ森依澄』って名前を、昔の俺がそのまま知ってたわけじゃなさそうだな」
「たぶん」
依澄は少し安心したように笑った。
「よかった」
「何で?」
「全部玄兎じゃない」
「……」
「私の全部が、玄兎の夢じゃない」
「俺も少し安心した」
「何で?」
「責任が重すぎるから」
「そこ?」
「かなり」
千燈が小さく笑った。
透羽は昨日のカードを思い出すように言う。
「D-02が外部器との接触後に現実側への定着率を上げた、という記録は残っています。ただし、その接触が今見えた断片と同じ時期だったかはまだ分かりません」
「うん」
依澄は玄兎を見る。
「玄兎が、私がここに来るきっかけだった?」
玄兎は少し考えてから答えた。
「その可能性はある。でも、まだそこまでだな」
「じゃあ」
「うん」
「もしそうだったら、ありがとう」
「それなら受け取る」
「うん」
依澄は少しだけ笑った。
「私は今ここにいる。それは好き」
玄兎もつられて笑う。
「依澄の『好き』、便利だな」
「本当」
◇
怪異が鎮まると、三限の教室に残っていた学生たちのコピーも順番に消えた。
本物の学生たちには、コピーが演じていた「期待される自分」の記憶が少しだけ残ったらしい。
真面目だと思われていた女子学生は、翌日のゼミを一度休んだ。
いつも明るいと言われていた学生は、友人へ「今日は機嫌が悪い」と自分から言った。
サークルの代表をしている男子学生は、グループチャットへ「今週だけ進行を誰か代わって」と送ったそうだ。
怪異は消えた。
けれど、事件の中で本人たちが気づいたことまで消す必要はない。
大学を出たところで、玄兎は依澄へ声をかけた。
「今日の晩飯、何がいい?」
「急」
「今日好きなもの」
依澄は少し考えた。
「カレー」
「この前も好きだったな」
「今日は辛い方」
「俺、辛すぎるの苦手」
依澄が一瞬止まる。
少し前なら、「じゃあ私も同じにする」と言ったかもしれない。
「私は辛いの食べる」
玄兎は笑った。
「うん」
「玄兎は?」
「中辛」
「別」
「別でいいだろ。同じ店で別のものを食えばいい」
依澄の表情が少し嬉しそうになる。
「それ、今日の答えみたい」
「期待と違っても一緒にいる?」
「うん」
「そうかもな」
後ろから小毬が手を上げた。
「私も辛いの!」
「小毬は辛いの好きだっけ」
「肉が入ってれば!」
「辛さ関係ない」
千燈は肩をすくめる。
「私は普通で」
「吸血種は辛いの平気?」
「種族関係ないよ」
透羽が静かに言った。
「私は甘口にします」
全員の視線が透羽へ集まる。
「何ですか」
「意外」
玄兎が言う。
「普通です」
「カレーの甘口は」
「普通です」
「便利だな」
「玄兎」
五人でカレー店へ向かい、依澄は自分で辛口を、玄兎は中辛を、透羽は甘口を選んだ。同じものを選ばなくても、同じテーブルへ座ることはできる。
今日は、それが少し特別だった。
◇
その日の夜、五人で使っている紺色のノートには、すでに小毬たちの書き込みが並んでいた。
『依澄先輩、大学にちゃんといます! 匂いもあります!』
『期待される自分と、本当の自分は違っていい。』
『透羽先輩は甘口カレー。』
『千燈先輩は普通。』
『玄兎先輩は中辛。』
『依澄先輩は辛口!』
「食事記録が一番多いな」
玄兎は笑いながら、その下へ自分の文字を足した。
『依澄は、俺の期待どおりでなくていい。』
『俺も、誰かの期待どおりでなくていい。』
『違っても、また会えばいい。』
さらに、今日分かったことを記録する。
『依澄が俺の夢や記憶に触れて、今の形へ近づいた可能性がある。』
『六歳頃と思われる俺の記憶の断片に、依澄を思わせる蝶の光がいた。』
『六歳の事故と同じ時の記憶なのか、その蝶がD-02なのかはまだ未確定。』
『その時の蝶には、少なくとも今の名前も人の姿もなかった。』
『今の依澄は、自分で選んでいる。』
最後に、今日一番忘れたくない言葉を書いた。
『依澄が「私が選んだ私を好きになってほしい」と言った。』
そこまで書いたところで、玄兎はふと手を止めた。
「これ、本人も見るんだよな」
共有ノートなのだから、本人が読むのは当然だ。玄兎は消すべきか迷ったが、結局そのまま残した。
依澄自身が、自分の意思で言った言葉だ。
なら、玄兎も覚えておきたい。
スマートフォンが震えた。画面を見ると、依澄からのメッセージだった。
『日記、玄兎の番?』
『書いた。』
『何書いた?』
『見れば分かる。』
『今から行く?』
『家に?』
『違う。共有写真で見る。』
『びっくりした。』
『恋人なら家に行く?』
『また今度説明する。』
『分かった。』
少し間が空く。
『玄兎。』
『何。』
『今日、私が言ったこと、忘れないで。』
玄兎はノートを見る。
――私が選んだ私を好きになってほしい。
胸が少しだけ熱くなる。
『忘れない。』
すぐに返事が来た。
『うん。』
少しして、依澄からもう一つメッセージが届いた。
『でも、玄兎も玄兎が選んだ玄兎でいて。』
玄兎はその文章を長く見つめた。器である自分、怪異を内包する自分、六歳以前の自分、そして今の自分。鷺宮家や街が自分へ求める役割もある。自分が何であるべきなのか、まだ答えは出ていない。
『努力する。』
玄兎が送信すると、依澄からすぐに返事が来た。
『善処?』
玄兎は笑った。
『本気で。』
『なら、いい。』
◇
同じ夜、鷺宮家では透羽の端末へ新しい閲覧許可が下りていた。
対象は、昨日見つかったD-02の観測記録。
今回は、これまで黒塗りだった数行が追加で開示されている。
『夢層外部観測個体 D-02』
『単一個人の夢から発生したものではない。』
『中央夢層に蓄積した未成就願望、未完了夢、記憶残滓の集合が、自発的に輪郭を形成した可能性。』
透羽は息を止めた。
依澄は、玄兎一人の夢から作られた存在ではない。透羽は緊張したまま続きを読み進めた。
『外部器:鵺代玄兎との接触時、D-02側に著しい自己組織化を確認。』
『外部器の夢・記憶を参照し、人型人格の形成を開始。』
『ただし人格内容は外部器記憶の複製とは一致せず。』
『独自選択反応を複数確認。』
透羽は、その文章をしばらく見つめた。
今日の夕食で、玄兎は中辛を、依澄は辛口を、自分は甘口を選んだ。同じ店へ入り、同じテーブルを囲みながら、それぞれが違う味を選んだ。
そんな何でもない出来事が、今は妙に大事に思える。
依澄が玄兎の夢や記憶を参照して形を得たとしても、その後の彼女がすべて玄兎の複製や願望どおりに動いているわけではない。少なくとも、記録はそう示している。
透羽はさらに続きを読んだ。
『D-02は外部器を待機対象として認識。』
『観測時、反復語――「待っている」』
『外部器六歳時、再構築反応後の認知・人格照合値不安定期間にD-02反応最大化。』
『外部器の認知・人格照合値安定後、D-02は夢層深部へ後退。』
そこで透羽の指が止まった。
鷺宮家に残る六歳時の内部記録では、事故直後の短い心肺停止相当反応から生命活動が戻ったあとも、認知と人格の照合値だけは三日間安定しなかった。
今回開示された記録は、その三日間とD-02の反応が最大になった時期が重なっていたことを示している。
昼間、依澄が見た「小さな玄兎の近くで待つ蝶」の断片が、六歳時の事故と結びつく可能性は高くなった。だが、断片の蝶が本当にD-02だったのか、外部器との接触がその三日間のどの時点で起きたのかまでは、この記録からは分からない。
透羽は続きへ目を移した。
『再接触条件:外部器の――』
しかし、その先は再び黒く伏せられていて読めない。
肝心の条件が欠けている以上、なぜD-02が玄兎を「待機対象」としたのか、六歳時に何が二者を近づけたのかまでは、まだ推測で埋めるべきではなかった。
以前の透羽なら、確証が足りない部分が残っていることを理由に、もう少し情報が揃うまで一人で抱え込んでいたかもしれない。
けれど、確定した事実と分からない部分を分けて伝えればいい。昼間に玄兎たちがそうしたように、本人を置き去りにして答えを決める必要はない。
透羽は五人のグループチャットを開き、すぐにメッセージを送った。
『明日、共有したい記録があります。依澄さんの成立に関する重要情報です。まだ不明な部分もありますが、六歳時の記録とD-02の反応に重なる時期が見つかりました。』
数秒後、玄兎から返事が届いた。
『悪い情報?』
透羽は少し考えてから答える。
『少なくとも、「依澄さんが玄兎一人の夢の複製である」という内容ではありません。』
今度は依澄から返信が来た。
『私、玄兎だけじゃない?』
『はい。』
続いて小毬が勢いよく反応する。
『よかったです!』
千燈からは落ち着いた返事が届いた。
『詳しくは明日聞こう。』
玄兎も短く応じる。
『了解。』
最後に、依澄から一文だけ届いた。
『明日もある。』
透羽はその短い文章をしばらく見つめた。
昨日、存在そのものが消えかけた少女が、今日は自分の明日を当然のように口にしている。
その変化が嬉しくて、透羽は小さく笑った。
『はい。明日、話しましょう。』
そう送信して端末を置く。
今度は、秘密を一人で抱え込まない。
――第十五話・了