その翌朝、蝶ヶ森依澄の名前が大学から消えた。
異変を最初に表へ出したのは、地域文化論の出席確認だった。
午前十時二十分。二限目の講義が始まって十五分ほど経った頃、久住教授はいつものように教卓の上へ出席表を広げ、上から順番に学生の名を読み上げていた。
「青木」
「はい」
「石田」
「はい」
「鵺代」
「います」
「返事が軽い」
「ちゃんと出席してます」
教室のあちこちで小さな笑いが起きる。玄兎の隣に座る透羽は、呆れたように玄兎を見た。
「教授への返事としては、もう少し適切な言い方があるでしょう」
「出席してる事実は伝わった」
「そういう問題ではありません」
そんな何でもない会話をしている間にも、出席確認は続いていく。
「鷺宮」
「はい」
「高瀬」
「はい」
久住教授の指が名簿の上を滑る。
玄兎は何気なく、次に呼ばれるはずの名前を待っていた。
蝶ヶ森依澄。
彼女は玄兎を挟んで透羽とは反対側、窓際の席に座っている。朝、大学へ来る途中で「今日は塩パンが気になる」と言っていたので、講義が終われば大学前のパン屋へ寄る予定になっていた。
だが、教授の指はそこで止まらなかった。
「中村」
何事もなかったように、次の学生へ進む。
玄兎は一拍遅れて依澄を見た。
依澄もまた、自分が呼ばれなかったことを確かめるように久住教授を見つめている。
「……今、飛ばされたよな」
「うん」
「寝てると思われた?」
「起きてる」
「見れば分かるけど」
透羽も異変へ気づいたらしい。出席確認が一段落するのを待たず、教卓へ声をかけた。
「教授」
「何だ、鷺宮」
「一人、名前が呼ばれていません。蝶ヶ森依澄さんです」
「……蝶ヶ森?」
久住教授の眉間に浅い皺が寄った。
名簿へ目を落とし、今通り過ぎた箇所を指で戻す。一度だけではなく、ページの上からもう一度確かめ、それでも見つからないというように視線を止めた。
「その名前は、この名簿にはない」
「本人なら、そこにいます」
透羽が玄兎の左隣を示す。
依澄は小さく手を上げた。
「先生。私」
久住教授の視線が、その場所へ向いた。
そして、依澄の顔にも、上げられた手にも、机の上のノートにも留まらず、そのまま後ろの窓まで抜けていった。
「……鷺宮。俺には、そこは空席に見える」
教室の空気が急に重くなった。
玄兎の背中を冷たいものが走る。
「教授。依澄のこと、本当に覚えてないんですか」
「待て」
久住教授は即答しなかった。
もう一度名簿を見て、それから玄兎と透羽の顔を順に確かめる。冗談を疑っている目ではなかった。何か一つでも事実を拾おうとする、研究者の目だった。
「俺には『蝶ヶ森依澄』という学生の記憶がない。姿も見えない。声も聞こえなかった」
玄兎の喉が詰まる。
だが久住は、そこで「そんな学生はいない」とは言わなかった。
「ただし、お前と鷺宮が同時に同じ場所を見て、同じ名前を口にしている。二人とも、こんなことで悪ふざけをする顔じゃない」
教授は声を落とした。
「なら、今この場では俺の認識の方を疑う。俺が忘れている可能性を先に考えた方がいい」
怪異を知らない人間なら、そんな結論にはまず辿り着かない。
玄兎は、六月の資料室で久住が言った言葉を思い出した。説明のつかないことを、最初から存在しないと決めつけない。それは知識というより、長い研究の中で身についた態度なのだろう。
周囲の学生たちまで、ざわつき始める。
「何の話?」
「誰かいるの?」
「鵺代の隣って空席じゃない?」
玄兎はもう一度、依澄を見る。彼女は確かにそこにいた。
いつもの淡い銀紫色の髪も、薄い青紫色の瞳も、白を基調とした服も変わっていない。机の上には細身のペンとノートまで置かれている。
それなのに、前の席の男子学生が振り返った時、その目は依澄を完全に無視して玄兎だけを捉えた。
「鵺代、誰と話してんの?」
「……」
依澄は黙っていた。
表情だけを見れば、いつもの無感情に近い穏やかな顔に見える。
けれど玄兎には分かった。
机の上で重ねられた彼女の指が、いつもより少しだけ強く握り合わされている。
「透羽。依澄、見えてる?」
「見えています」
「俺も見えてる。依澄、俺たちは?」
「見えてる」
「今のところ、俺たちは認識できてるのか」
「まだ範囲は断定できません」
透羽が短く答えると、久住教授が教卓の上で名簿を閉じた。
「鷺宮、鵺代。ここで続きを話すな。周りまで巻き込む可能性がある」
低い声だった。
「一度、教室の外で状況を確認しろ。今日の出席については俺が処理する。お前たちが言っている学生の分も、今は欠席扱いにしない」
「でも教授には――」
「見えない。だからこそだ」
久住は玄兎の言葉を静かに遮った。
「認識がおかしくなっている人間が、自分の認識だけを根拠に判断するのが一番危ない。俺についても、しばらく観測者としては信用するな」
透羽の表情がわずかに変わった。
「分かりました」
玄兎も頷き、依澄へ視線を向ける。
「出よう」
依澄は静かに椅子を引いた。
椅子は確かに音を立てて動いた。机には彼女のノートがあり、鞄も持ち上がった。
それなのに、教室のほとんどの学生はその異常に反応しない。
依澄そのものだけではなく、彼女が起こした現象まで「誰もいないのだから気にする必要がない」と、認識の外へ押し出されているようだった。
三人で教室を出た。
廊下へ出た瞬間、玄兎は反射的に依澄の腕を掴んだ。
「触れる」
「うん」
確かな感触がある。
「透羽も」
透羽が依澄の手首へ指を添えた。
「脈があります。体温も正常です」
「じゃあ、存在自体が薄くなってるわけじゃない?」
「まだ分かりません」
依澄が玄兎を見る。
「玄兎」
「何」
「強く掴みすぎ」
「あ、ごめん」
慌てて力を緩める。
そのやりとりが普通にできることに、玄兎は少しだけ安心した。
「昨日、大きく能力を使った?」
「使ってない」
「《夢蛹》は?」
「寝る前に、自分の夢を少し見たくらい」
「《蝶境》は」
「使ってない」
透羽の表情が険しくなる。
依澄が大きな力を使えば、自身の存在が薄くなり、人から一時的に忘れられることがある。以前も、能力の使い過ぎで小毬たちが一瞬だけ依澄の存在を認識できなくなったことがあった。
だが、今回は原因がない。
「学生証を確認しましょう」
透羽に促され、依澄は鞄から学生証を取り出した。
写真はある。
名前も「蝶ヶ森依澄」と印刷されている。
学籍番号も消えていない。
「物理的なものは残ってる」
玄兎が言うと、透羽は慎重に答えた。
「今のところは、ですが」
次に依澄のスマートフォンから学生ポータルへ接続する。
学籍番号とパスワードを入力したところで、画面にエラーが出た。
『該当する利用者情報がありません』
三人とも黙った。
「朝は入れた?」
「うん」
「何時くらい?」
「八時十一分。今日の講義室を確認した」
「よくそこまで覚えてるな」
「画面の上に時間が出てたから」
透羽は自分の端末でも大学の履修者情報を確認した。
しばらく操作した後、指が止まる。
「……いません」
「依澄が?」
「はい。現在の履修者名簿から消えています」
「昨日は?」
「確実にいました。玄兎の経過観察に関係して、同じ講義を履修している学生を確認しました。その中に蝶ヶ森依澄の名前がありました」
「俺の監視、そこまで細かいんだ」
「今はそこへ驚かないでください」
「はい」
依澄は二人の間で、静かに画面を見ていた。
「私」
「うん」
「大学生じゃなくなった?」
「システム上は、そう扱われてるみたいだ」
「でも、私はここにいる」
「いる」
「講義も受けてた」
「受けてた」
透羽もはっきり頷く。
「山本教授は、依澄さんが提出した夢の民俗学に関するレポートを実際に読んで評価しています。それだけではありません。久住教授とも資料室の整理、灯籠祭の調査、青葉寮の件で何度も顔を合わせています。あなたがこの大学に在籍し、ここで生活していた事実はあります」
「じゃあ」
依澄は少しだけ目を伏せた。
「私、消えてる途中?」
あまりにも静かな言い方だった。
玄兎は、それを聞いた瞬間、妙に腹が立った。
「途中って言うな」
「でも」
「まだ決まってない」
「玄兎、怒ってる?」
「怒ってる」
「私に?」
「違う」
玄兎は廊下の窓の向こうへ目を向けた。
いつも通りの大学だ。
学生が歩き、遠くの教室から講義の声が漏れ、誰かが笑っている。
その普通の景色の中から、依澄一人だけが勝手に切り取られようとしている。
「お前を勝手に消そうとしてる何かに腹が立ってる」
依澄は玄兎をしばらく見つめた後、わずかに表情を緩めた。
「じゃあ、怒ってて」
「任せろ」
玄兎がそう答えると、依澄の口元がほんの少しだけ緩んだ。
透羽も小さく息を吐いた。
「まず千燈と小毬に連絡します。二人が依澄さんを認識できるか確認しましょう」
「俺が送る」
玄兎は五人のグループチャットを開いた。
『依澄が大学の名簿から消えた。教授にも見えてない。二人は依澄を覚えてる?』
送信して数秒もしないうちに、小毬から返事が来る。
『何それ!? もちろん覚えてます! 今どこですか!?』
続いて千燈。
『覚えてるよ。本人もそこにいる?』
「二人とも覚えてる」
「よかった」
依澄が言った。
その声には、今までよりはっきりと安堵が混じっていた。
「今、よかったって顔した」
「した?」
「した」
依澄は自分の頬へ指を当てた。
「私、怖いのかも」
「何が」
「忘れられるの」
玄兎は返事を急がなかった。
以前の依澄なら、「分からない」と答えたかもしれない。
怖いかどうかすら自分で判断できず、人間の感情を外から観察するように言葉にしていた。けれど今の依澄は、自分の中に生まれた恐怖を自分のものとして認め始めている。
「怖い?」
「うん。みんなが私を見なくなるの、嫌」
隣にいた透羽が、そっと依澄の手を握った。
「私は見えています」
「うん」
「今は――」
「透羽」
「何ですか」
「『今は』って言わないで」
透羽はわずかに目を見開いた。
依澄が、こんなふうに明確な拒絶を口にするのは珍しい。
「……すみません」
「うん」
透羽は言い直した。
「見えています」
余計な条件を付けず、それだけを伝える。
依澄は静かに頷いた。
◇
小毬は連絡から十二分後にやってきた。
廊下の角を曲がった瞬間から全力だった。
「依澄先輩!」
そのまま依澄へ抱きつく。
「いる! ちゃんといます!」
「小毬」
「匂いもあります!」
「よかった」
「よくないです!」
「どっち?」
「いるのはいいです! 消えるのは絶対駄目!」
小毬は依澄の両肩へ手を置き、顔をじっと確認した。
「ちゃんと依澄先輩です」
「昨日と同じ?」
「匂いは……」
小毬が少しだけ鼻を動かす。
すぐに表情が曇った。
「少し薄いです」
玄兎と透羽が同時に反応した。
「薄い?」
「はい。でも、能力を使いすぎた時とは違います」
「どう違う?」
「前は、依澄先輩自身が遠くなっていく感じでした。でも今回は、依澄先輩はここにいるのに、周りの方が離れていく感じがします」
匂いによる説明なので抽象的ではある。
それでも意味は伝わった。
依澄そのものが消えかけているというより、世界の認識が依澄を排除し始めている。
「嫌な感じだな」
「はい」
さらに五分ほど遅れて、千燈も現れた。
「遅くなってごめん。ついでに大学の中を烏で確認してた」
「何か分かった?」
「これを見て」
千燈はスマートフォンを机へ置いた。
表示されたのは、昨日、中庭で撮った写真だった。
ベンチに写っているのは玄兎、透羽、千燈、小毬の四人だけだった。依澄の姿だけが、まるで最初からそこにいなかったかのように消えている。
「昨日はいた?」
玄兎が聞く。
「いた。私の右側に座って、肩へ手を置いてた」
「私も覚えてます」
小毬がすぐに言う。
「依澄先輩、ここに座ってました」
依澄は写真を見つめた。
「私、写真苦手」
「撮るたび少し顔が違うって言ってたな」
「うん。でも今は、顔じゃなくて全部ない」
声が少し小さくなる。
千燈はそんな依澄の横顔を見た。
「依澄ちゃん」
「なに」
「怖い?」
「うん」
「そっか」
千燈はからかわなかった。
ただ、依澄の頭へそっと手を置いた。
「じゃあ、怖いまま一緒に調べよう」
「うん」
玄兎はそのやりとりを見ながら、千燈の表情を少しだけ眺めていた。
彼女は長く生きている。
誰かを失うことも、誰かの記憶から自分が消えていくことも。
依澄が想像しているより、ずっと多く経験しているのかもしれない。
◇
五人は図書館のグループ学習室へ移動した。
外から見れば、大学生が課題の打ち合わせをしているだけに見える。
そこで透羽は、昨夜初めて閲覧できた《百獣繭》の記録について、全員へ説明した。
「朽木ヶ丘市地下にある中央大封印の正式名称は、《百獣繭》です」
「百獣って、獣が百匹?」
小毬が訊く。
「実数を表しているとは限りません。多数の怪異をひとまとめにした呼称だと思われます」
「それで繭」
千燈が指先で机を軽く叩く。
「怪異を眠らせるから?」
「少なくとも、そういう機能はあります。ただし、それだけではないようです」
透羽は依澄を見た。
「昨夜、玄兎の検分をしたことで、一時的に閲覧権限が上がりました。その資料の中に『蝶ヶ森』という文字列がありました」
依澄の目が僅かに動く。
「私?」
「同一人物とは断定できません。しかし、かなり珍しい名字です」
「他には?」
玄兎が尋ねる。
「『内部夢層への影響』という記述がありました。その先を読む前に権限が切れています」
「夢層」
依澄が小さく繰り返す。
「夢がある場所?」
「可能性は高いです」
「百獣繭の中には、怪異だけじゃなく夢も入ってる?」
「まだ分かりません」
依澄は少し考え込んだ。
「私、そこから来た?」
玄兎の胸が少し痛んだ。
「分からない」
「でも、大学に入った記録がない。家族も、高校もない」
「うん」
「百獣繭には蝶ヶ森の記録がある」
「うん」
「じゃあ私、大学へ入学した人じゃなくて、どこかから出てきたものかもしれない」
言葉は静かだった。
けれど、玄兎にはそれが自分自身を切り離すような言い方に聞こえた。
「俺も似たようなこと言われたよ」
「玄兎も?」
「昨日、鷺宮家で。今の俺が、本当に昔から続いてる鵺代玄兎か証明できないって」
「怖かった?」
「怖かった」
「どうした?」
玄兎は少し考えた。
「分からないまま帰ってきた」
「それでいい?」
「良くはない。でも、答えが出るまで存在するのをやめる必要はないと思った」
依澄は玄兎を見る。
「俺が何でできてるか分からなくても、今こうして大学へ来て、講義を受けて、昼になれば腹が減る。依澄も同じだろ」
「……うん」
「朝、塩パン食いたいって言ってた」
「食べたい」
「じゃあ、まずそれを食えばいい」
「玄兎」
「何」
「それ、すごく玄兎っぽい」
「褒めてる?」
「たぶん」
「なら受け取る」
小毬も勢いよく手を上げた。
「私もそう思います!」
「何が?」
「依澄先輩が何でできてても、依澄先輩です!」
「説明まで小毬っぽいな」
「褒めてます?」
「褒めてる」
「よし!」
千燈が微笑みながらスマートフォンを机へ置く。
「で、次は原因だね。何で今になって依澄ちゃんが大学から消され始めたのか」
「一昨日の玄兎の再構築で、《百獣繭》内部の均衡が変化した可能性はあります」
透羽の言葉に、玄兎の表情が曇る。
「俺が死んだから?」
「玄兎」
「うん」
「原因の一要素である可能性と、あなたに責任があることは別です」
「……はい」
「勝手に全部引き受けない」
「分かった」
小毬が嬉しそうに頷いた。
「成長です!」
「犬の躾みたいに褒めるな」
「狼です!」
「そこは絶対なんだな」
依澄が目を閉じた。
「大学の下」
「何か感じる?」
玄兎が尋ねると、依澄は目を閉じたまま答えた。
「うん。私の夢に近いものがある」
「また地下か」
「嫌?」
「最近、地下に行くと大体ろくなことがない」
「それは同意します」
透羽も真顔で頷いた。
「ですが、いきなり地下へ入るのは禁止です。まず大学の記録を調べます」
「正規手順」
「当然です」
玄兎は笑った。
「昨日の透羽からは想像できない」
「昨日は緊急事態です」
「結界破ってたもんな」
「必要な措置でした」
「便利」
透羽が冷たい目を向ける。
「玄兎」
「はい」
◇
調査は思ったより早く進んだ。
理由は、久住教授が古い大学施設の資料をかなり把握していたからだ。
午後一時。五人は久住教授の研究室を訪れた。
もちろん、教授自身に見えているのは四人だけだ。
ノックに応じて扉を開けた久住は、玄兎たちの顔を見るなり、いつもの軽口を言わなかった。
「朝の件だな」
「はい」
透羽が答える。
久住は四人を研究室へ入れ、扉を閉めてから確認した。
「先に前提を揃える。お前たちは今、俺には見えない五人目と一緒にいる。名前は蝶ヶ森依澄。そういう理解でいいんだな」
「はい。今もここにいます」
透羽の言葉に、久住は空いて見える場所へ無理に視線を向けなかった。
「分かった。俺には確認できない。だから、その点についてはお前たち四人の観測を優先する」
玄兎は少しだけ驚いた。
「教授、怖くないんですか」
「怖いに決まってるだろ。自分の頭の中だけを書き換えられてるかもしれないんだぞ」
久住は眼鏡を外し、眉間を指で押さえた。
「ただ、怖いから『そんな学生はいない』で済ませたら、研究者を名乗る意味がない」
その言葉を聞いた依澄が、ほんのわずかに目を伏せた。
久住には、その反応さえ見えていない。
「それで、何を調べたい」
「昔、大学で夢や記憶、それから人の認識を扱っていた研究施設がなかったか確認したいです」
透羽が答えると、久住はすぐに本棚へ向かった。
「時期は?」
「二十年ほど前を中心に」
古い大学案内を何冊か抜き出し、机へ並べる。ページをめくる手つきは速かったが、雑ではない。
「……旧認知環境研究室ならあった」
「今は?」
「閉鎖されてる。北側講義棟の地下だ」
玄兎と透羽が顔を見合わせる。
「また地下」
「玄兎、まだ何も起きていません」
「経験則」
「否定しづらいのが嫌ですね」
久住は別の冊子を開いた。
「九〇年代から二〇〇〇年代初頭まで、睡眠、記憶定着、夢の記録なんかを研究していた。心理学と情報系の合同施設だったらしい」
「閉鎖理由は?」
「公式には研究費の打ち切りと老朽化。ただ――」
久住の指が、古い構内図の端で止まった。
「今朝の話を聞いたあとだと、無視しにくい記録がある」
笑い話を紹介するような調子ではなかった。
「名簿から一人分だけ名前が消える。集合写真の端が一人分空く。研究室の席を数えると、どうしても一つ余る。学生の間では『空席』と呼ばれていたらしい」
「忘れられる怪異……」
玄兎が呟く。
「怪異だったと断定できる資料はない。だが、今日起きていることと似すぎている」
久住はそこで言葉を切った。
「昔の学生怪談には、誰も座っていない席を三日続けて気にすると、四日目には自分がそこへ座り、周囲から忘れられるという型もある。後付けの噂かもしれんが、今は切り捨てない方がいい」
「嫌です!」
小毬が反射的に言った。
久住が肩を揺らす。
「白狼院、声がでかい」
「すみません。でも嫌です!」
「それは俺も同感だ」
玄兎は依澄を見る。
依澄は久住教授の机のすぐ前まで歩いていった。
「久住先生」
反応はない。
「先生。私、ここにいる」
依澄は机の端へ指を置き、こつ、と一度だけ叩いた。
久住が顔を上げた。
「……今、音がしたな」
玄兎たちが息を止める。
久住は窓へ視線を向けかけ、途中で止めた。
「危ないな」
「何がですか」
「今の音を、俺は一瞬『窓が鳴った』と勝手に納得しかけた。だが窓は閉まってる」
久住は机上のメモ帳を引き寄せ、短く書きつけた。
『十三時十一分。机上で打音。原因を窓と誤認しかける。同行者は蝶ヶ森依澄による接触と証言。』
「教授……」
「記憶だけじゃない。知覚した結果の意味づけまで、辻褄が合うように補正されている可能性がある」
久住は自分で書いた一文を見下ろした。
「だから改めて言う。今日の俺を確認役には使うな。俺が『何もない』と言っても、それを安全の根拠にするな」
依澄は何も言わず、玄兎の隣へ戻った。
「声は届かなかった?」
「うん。でも、音は少し届いた」
「完全に消えてるわけじゃない」
「たぶん」
久住はさらに古い構内図を出した。
旧認知環境研究室は北側講義棟の地下にあり、その最奥にある一室だけ、小さな文字で別の名称が記されている。
『夢・記憶保存庫』
「嫌な名前だな」
玄兎が呟く。
「行きます?」
小毬は少し身を乗り出した。
「許可を取ってからです」
透羽が即座に釘を刺す。
「はい!」
久住も頷いた。
「それと、今回は俺から施設管理課へ話を通す。朝の異常まで知っていて、お前らだけを無断で地下へ行かせるわけにはいかん」
「教授も来ますか?」
玄兎が尋ねると、久住は首を横に振った。
「行かない。俺はもう影響を受けている。中で『何も見えないから安全だ』なんて判断をしたら邪魔になるだけだ。入口側で立入管理と連絡役をやる」
透羽が静かに頷く。
「その方が助かります。鷺宮家にも私から連絡します」
「頼む。あと、危険だと判断したら調査より退避を優先しろ。記録は後で拾える。人間はそうはいかん」
玄兎は、六月の資料室でも聞いた言葉を思い出し、少しだけ口元を緩めた。
「教授、それ毎回言いますね」
「毎回言わないと、お前らが毎回危ない所へ行くからだ」
◇
午後二時半。
久住教授が大学の施設管理課へ事情をぼかしすぎない範囲で連絡し、透羽も鷺宮家へ報告した上で、旧認知環境研究室への立ち入り許可を確保した。
時間は十五時から十七時まで。
申請画面には、鷺宮透羽、鵺代玄兎、緋鴉千燈、白狼院小毬の四名が問題なく登録された。しかし依澄の欄だけは、何度入力しても受け付けられなかった。
「依澄さんの名前が入力できません」
「やっぱり」
依澄は透羽のスマートフォンを覗き込む。
透羽が「蝶ヶ森依澄」と入力して確定すると、画面には無機質なエラーが表示された。
『使用できない利用者情報です』
「名字が禁止ワードみたいになってる」
「笑えません」
「ごめん」
「私は行けない?」
依澄が訊く。
「行きます」
透羽は迷わなかった。
「でも、申請」
「久住教授にも確認を取った上で、備考欄に同行者として残します」
透羽は久住教授へ短く確認を入れ、備考欄へ『同行者一名(システム登録不可のため、担当教員確認済み)』と記載して申請を送った。
依澄は画面を見つめた。
「名前がない」
「今だけです」
透羽が言ってから、はっとする。
依澄も少しだけ眉を下げた。
「透羽」
「……すみません。また『今だけ』と言いました」
「うん」
透羽は依澄をまっすぐ見た。
「大学の記録へ戻します」
「戻れる?」
「戻します」
今度は言い切った。
依澄も小さく笑う。
「じゃあ、お願いします」
「はい」
◇
旧認知環境研究室は、大学北側の講義棟地下にひっそりと残っていた。
現在は倉庫扱いらしく、入口の電子錠だけは比較的新しい。扉には『老朽設備あり』『許可者以外立入禁止』と書かれた警告が貼られている。
「『忘れられる可能性あり』とは書いてないな」
玄兎が言う。
「そんな注意書きを出したら大学が問題になります」
「確かに」
透羽が許可コードを入力し、重い扉を開けた。
中から流れ出した空気には、古い紙、埃、機械油の匂いが混じっていた。
小毬が鼻を動かす。
「人の匂いがいっぱい残ってます」
「昔の?」
「はい。長く使われてた場所です」
玄兎は依澄を見る。
「大丈夫?」
「うん」
「薄くなってない?」
小毬がすぐに確認する。
「まだ大丈夫です」
依澄は玄兎の手を見た。
「玄兎」
「何」
「手」
「掴む?」
「うん」
玄兎は一瞬だけ透羽を見る。
透羽は何も言わなかった。
ただ、視線だけが少し鋭い。
「調査だから」
依澄が言う。
「誰に説明してるんだ」
玄兎は苦笑しながら依澄の手を握った。
「離れるなよ」
「うん」
依澄の手は少し冷たい。
けれど、確かな感触がある。
廊下の左右には、かつて使われていた観測室や睡眠実験室が並んでいた。ガラス越しに古いベッド、録音装置、脳波計らしき機器が見える。
「夢デートの事件で使われてた技術も、こういう研究が元なのかな」
玄兎が言う。
「一部は系統が近いかもしれません」
透羽が壁の資料を読む。
「睡眠誘導。記憶定着。夢日誌……かなり幅広く研究していたようです」
「人間って、昔から夢を便利に使いたがるね」
千燈が言う。
「便利だから」
依澄が淡々と答えるので、玄兎は少し笑った。
「依澄は夢好き?」
「好き」
「即答」
「でも、勝手に人の夢へ入るのは駄目」
「覚えたな」
「うん」
廊下の一番奥に、厚い扉があった。
『記憶保存庫』
透羽が許可コードを入力する。
電子音の後、鍵が外れた。
中には無数の棚が並んでいた。
カセットテープ、フロッピーディスク、MOディスク、古いハードディスク、紙の記録、写真、フィルム。
年代の違う媒体が、まるで誰かの記憶そのものを物質へ詰め込んだように並んでいる。
誰も触れていないのに、棚の奥でカセットテープのリールがかすかに回った。磁気テープが擦れる乾いた音に続き、別の棚では古いハードディスクが起動する。低い唸りが保存庫のあちこちへ伝わり、暗い棚の隙間から、録音された呼吸だけが幾つも重なって聞こえた。
内容のある言葉は一つもない。ただ、息を吸い、吐く音だけが残っている。とうに卒業した人間か、もう亡くなった人間か、それさえ分からない誰かの呼吸が、今もここで続きを待っていた。
「この大学、記憶を溜め込みすぎじゃない?」
千燈が少し嫌そうに言った。
「私もそう思います」
透羽も珍しく同意した。
その時、小毬が足を止めた。
「ここ、嫌です」
「何が?」
「匂いがない場所があります」
全員が小毬の視線を追う。
保存庫の最奥には小さな机と一脚の椅子があり、その椅子には誰も座っていなかった。
椅子の周囲だけ、埃の積もり方までおかしかった。床にも机にも薄く灰色の埃が積もっているのに、座面と机の前だけが人の形にきれいに抜け落ちている。つい先ほどまで誰かが座っていた跡にも見える。だが、そこには体温も匂いもなく、椅子を引いた音の余韻だけが、耳の奥へ遅れて届いた。
玄兎が目を逸らしてから見直すと、椅子の向きがわずかに変わっていた。最初は机へ向いていたはずなのに、今は五人を正面から迎える角度になっている。誰も動かしたところを見ていないことが、かえってはっきり分かった。
「空席」
玄兎が呟いた。
依澄の手に力が入る。
「依澄?」
「見える」
「何が」
「あの椅子に、私が座ってる」
玄兎が空席を見る。
何もいない。
「でも、依澄はここにいる」
「うん」
「二人いる?」
「違うと思う」
依澄は顔を青くした。
「向こうにいるのは、大学にいた私」
「記録の中の依澄?」
透羽が訊く。
「たぶん」
答えが終わるのとほぼ同時に、机の上に置かれていた古い学生名簿が、誰も触れていないのにひとりでに開いた。
乾いた紙の音が保存庫へ響く。
ページが一枚ずつ捲れていく。
そこに印刷されていた学生の名前が、端から徐々に薄くなり、白紙へ溶けていく。
「来ます!」
小毬が声を上げた。
「何が?」
「依澄先輩の匂いが、急に薄くなってる!」
「依澄!」
玄兎は握っている手へ力を込めた。
「いる」
「声は聞こえる」
「うん」
しかし、依澄の手の感触はさっきより明らかに弱い。
まるで半透明の物体へ触れているような、不安定な感覚だった。
部屋の監視カメラの赤いランプが消え、壁の入室者表示が一度乱れた。
『入室者:4名』
「五人いるのに」
玄兎が表示を見る。
「依澄さんが記録から除外されています」
透羽はすぐに小瓶の水を空中へ放った。
「《水鏡》!」
透明な水が床へ薄く広がり、鏡のような水面を作る。
そこに映ったのは玄兎、透羽、千燈、小毬の四人だけだった。依澄が立っているはずの場所には、水面の反射しかない。
「依澄が映ってない」
玄兎の声が低くなる。
透羽の顔にも動揺が浮かぶ。
「そんな……」
依澄は水面を見下ろした。
「私、いない」
「いる」
玄兎はすぐに言った。
「でも、水には」
「水面よりこっちを信じろ」
玄兎は依澄の手を握ったまま持ち上げる。
「俺が触ってる。小毬には匂いが分かる。千燈も透羽もお前を見てる」
「うん」
「なら、いる」
依澄は玄兎を見た。
「うん」
その時、空席の方から声がした。
人の声というより、古い機械音声へ無数の男女の声が重なったような、不自然な響きだった。
『存在しない記録を修正します』
透羽が空席へ向き直る。
「記録を修正している?」
『入学記録なし』
『出身校情報なし』
『保護者情報なし』
『入学試験受験記録なし』
『登録根拠なし』
依澄の顔から血の気が引いていく。
『不正登録』
『削除します』
最後の音声と同時に、依澄の輪郭が一瞬だけ透けた。背後の棚が、彼女の胸と頬を通して見える。玄兎が握っている手からも急に重さが失われ、指の間には冷たい空気だけが入り込んだ。
依澄は悲鳴を上げなかった。自分の腕を見下ろし、声を出す方法まで忘れかけたように唇を動かしている。その静かな反応が、玄兎には叫ばれるより怖かった。消えるという出来事が、痛みすら残さずに進んでいる。
周囲の棚から、ぱち、ぱち、と小さな破裂音が続いた。依澄の写っていた写真から銀紫の髪が消え、講義記録から筆跡が薄れ、誰かと交わしたメッセージの片側だけが空白へ変わっていく音だった。
「待て」
玄兎が一歩前へ出る。
『不整合を修正します』
「依澄が何か悪いことをしたわけじゃない」
『登録根拠なし』
「だからって消すのか」
『不整合』
「大学の事務システムみたいな怪異だな」
千燈が苦笑する。
「笑えないけど、かなり近いかも。こいつ、悪意がない」
「悪意なく人を消す方が怖い」
「うん」
千燈は空席をじっと観察する。
「ただ矛盾してるものを整理したい。それだけなんだと思う」
依澄が小さく言った。
「私、間違い?」
「違う」
玄兎は間を置かず答えた。
「でも、記録が」
「記録が間違ってるかもしれない」
「私の前が何もないのは本当」
「分からないだけだ」
「じゃあ、私を消した方が正しい?」
「正しくない!」
今度は小毬が強く言った。
「依澄先輩」
「うん」
「私は人を匂いで探します」
「うん」
「紙の記録で追いません。大学に名前がなくても、依澄先輩の匂いは私が覚えてます!」
『非論理的』
「うるさいです!」
小毬が空席へ怒鳴る。
「匂いは論理です!」
「そこはちょっと分からない」
玄兎が言う。
「重要です!」
そのやりとりに、依澄の顔がほんの少しだけ緩んだ。
しかし、名簿のページは止まらない。やがて一枚のページで動きが止まり、そこへ見慣れた名前が浮かび上がった。
『蝶ヶ森依澄』
その名前が一度だけ紙面へ浮かび上がった。
「あった」
玄兎が思わず声を上げる。だが、喜ぶ暇はなかった。
印字された「蝶ヶ森依澄」の五文字は、左端から順に白く薄れ、最後には名前そのものが紙面から抜け落ちようとしていた。
「依澄!」
玄兎が呼ぶ。
「玄兎」
返事はある。
けれど、手の感触はさらに薄い。
「嫌」
依澄が言った。
今まで聞いたことがないくらい、はっきりした声だった。
「嫌だ」
「うん」
「消えたくない」
「うん」
「私、大学にいたい」
「うん」
「玄兎と、透羽と、千燈と、小毬と」
依澄の声が震える。
「また、ご飯食べたい」
「食べよう」
「明日も」
「明日も食べよう」
「うん」
「だから残れ」
「うん」
透羽が依澄の横へ立った。
「既存の記録があなたを認めないなら、新しい記録を作ります」
「今?」
「はい」
透羽はスマートフォンを取り出し、動画撮影を開始した。
「日時、場所、参加者を記録します。鷺宮透羽、鵺代玄兎、緋鴉千燈、白狼院小毬――」
そこで一度、依澄を見る。
「蝶ヶ森依澄。以上五名で、旧認知環境研究室・記憶保存庫へ入室しています」
スマートフォンの画面には依澄が映らない。
それでも透羽は迷わず名前を読み上げた。
『不整合』
「不整合ではありません」
『記録なし』
「今、記録しています」
『過去情報なし』
「過去が確認できないことと、今ここにいないことは別です」
玄兎は思わず透羽を見る。
「透羽、強いな」
「今は集中してください」
「はい」
千燈も自分のスマートフォンを取り出した。
「私も撮る」
「映らないよ」
「それでもいい。戻った時に、今の写真と比較できる」
小毬は鞄から紺色の共有ノートを引っ張り出した。
「私も書きます!」
勢いよくページへ文字を走らせる。
『今日、依澄先輩が大学から消えかけた。』
『でも、ここにいます。』
『朝、塩パンを食べたいと言っていました。』
「最後、食べ物なんだ」
「重要です!」
依澄が少し笑った。
空席の声が揺らぐ。
『記録は主観』
「そうだよ」
千燈が静かに答える。
「記憶だって主観だし、人間が残す記録なんて全部完璧じゃない」
『誤りを含む』
「含むよ。でも、それでも人はそれを頼りに生きる」
透羽も続けた。
「記録は人を規定するためのものではありません。人が存在した事実を後から確認するためのものです」
『登録根拠なし』
「だったら、これから作る」
玄兎が言う。
「依澄が今日ここにいる記録を、俺たちが残す」
空席が僅かに軋んだ。
その奥から、別の声が聞こえ始める。
『退学』
『中退』
『転校』
『卒業』
『忘れないで』
『ここにいた』
『名前を残して』
『なかったことにしたい』
『でも、消えたくない』
千燈の表情が変わった。
「やっぱり」
「何が?」
「こいつ、一人じゃない」
彼女は目を閉じ、血を使わずに残留感情を聞き分ける。
「大学を離れた人たちの気持ちが重なってる。消したい記憶と、忘れられたくない気持ちが一緒になってる」
「矛盾」
依澄が呟く。
「人間っぽいでしょ」
千燈が少し笑う。
「忘れたいのに、存在ごと忘れられるのは嫌なんだよ」
依澄は空席を見つめた。
「私も、前は分からなかった」
「何が?」
玄兎が訊き返すと、依澄は空席から目を離さずに答えた。
「消えてもいいかどうか」
「今は?」
「消えたくない」
『理由』
空席が問う。
依澄は少し考えた。
「玄兎たちと、明日も会いたい」
『不合理』
「うん」
「でも」
依澄は玄兎を見た。
「好きだから」
玄兎の心臓が一度だけ大きく鳴る。
小毬が目を見開いた。
「依澄先輩!」
千燈の口元が上がる。
透羽だけは黙っているが、視線が僅かに鋭い。
「誰が?」
玄兎は訊いた。
「みんな」
依澄は少し考える。
「玄兎も」
「……」
「たぶん、好き」
「たぶんなんだ」
「まだ恋かは分からない」
「そっか」
「でも、消えたくない理由にはなる」
「なるよ」
玄兎は笑った。
「十分だ」
空席から響く声はしばらく沈黙した。やがて機械音のような声が、先ほどよりわずかに静かな調子で再開する。
『現在情報を記録します』
『過去情報不足』
『現在情報あり』
『削除処理――保留』
「保留」
小毬が顔を上げる。
「消さない?」
『保留』
「勝った!」
「白狼院さん」
透羽が呆れる。
「怪異相手に事務処理で勝ったみたいに言わないでください」
「でも勝ちです!」
小毬が胸を張った直後、空席の机の引き出しが、ひとりでにゆっくりと開いた。
中から古い白いカードが一枚滑り出す。
透羽が慎重に近づいた。
印字されている文字を読む。
『D-02』
『夢層外部観測個体』
『蝶型反応』
『定着状態:不安定』
「蝶型」
玄兎が依澄を見る。
「私?」
「可能性は高い」
カードの裏面には、手書きの追記があった。
『外部器との接触後、現実側への定着率上昇』
今度は全員の視線が玄兎へ集まった。
「外部器」
玄兎が自分を指す。
「俺?」
「これまでの記録と照合すると、その可能性は非常に高いです」
透羽が言う。
「D-02って二人目?」
小毬がカードを覗き込むと、透羽は首を横に振った。
「番号が個体数なのか実験番号なのかは分かりません」
「依澄ちゃんが《百獣繭》の夢層から出てきた存在で」
千燈が整理する。
「玄兎くんと接触して、現実側に定着した」
「かもしれない」
透羽が慎重に言葉を選ぶ横で、依澄はカードから目を離さなかった。
「私、玄兎に会ってから人になった?」
「まだそこまで断定しない」
玄兎はすぐに言った。
「でも」
「分からないことを、分かったみたいに決めない」
「うん」
「一緒に調べる」
「うん」
透羽はカードを撮影した。
「持ち出しは避けます。これは大学側の保管資料です」
空席から声がした。
『記録物。保存』
「了解しました」
透羽が答える。
その瞬間、椅子がほんの少し後ろへ引かれ、誰かが立ち上がったような音がした。それを最後に、保存庫は静かになった。
◇
「依澄」
「うん」
「手、離してみる?」
玄兎が訊いた。
依澄は少し迷った。
「……やる」
「嫌ならまだいいぞ」
「大丈夫」
二人はゆっくり指を離した。
依澄は消えない。
「小毬」
「はい!」
小毬がすぐに匂いを確認する。
「戻ってます。さっきよりずっと濃いです!」
「透羽」
「《水鏡》で確認します」
床へ薄く広げた水面が再び鏡のように変わる。そこには今度こそ、玄兎、透羽、千燈、小毬、そして依澄の五人全員が並んで映っていた。
「映った」
透羽の声にも明らかな安堵が混じった。
「千燈、写真」
「戻ってる」
さっき撮った写真にも、玄兎の隣で手を握られている依澄が写っている。
「大学のシステムは?」
依澄が学生ポータルへログインする。
今度は通常通り画面が開いた。
「入れた」
「履修情報」
「ある」
「名前」
「ある」
玄兎は大きく息を吐いた。
「よかった」
依澄も、同じ言葉を返した。
「うん。よかった」
自分から、はっきりと。
◇
地下を出た五人は、その足で久住教授の研究室へ戻った。
扉を開けた久住は、最初に透羽を見て、それから玄兎、小毬、千燈へ視線を移した。
そして最後に、依澄のところで目が止まった。
ほんの一秒ほど、誰も声を出さなかった。
「……蝶ヶ森」
久住教授が、確かに名前を呼んだ。
依澄の肩が小さく揺れる。
「先生。私、見える?」
「ああ。見える。声も聞こえる」
久住はそこで眼鏡を外し、深く息を吐いた。
「それに、思い出した。六月の資料室にもいた。灯籠祭の調査にも、青葉寮にも。朝まで、その記憶の中からお前だけがきれいに抜け落ちてた」
玄兎は思わず腕をさすった。
「それ、聞くと改めて怖いな」
「俺もそう思う」
久住は昼に書いたメモを開いた。そこには『蝶ヶ森依澄』の名前が残っていた。文字そのものが消えなかったのか、それとも今になって戻ったのかは分からない。
「この記録は残す。ただし、勝手に研究資料にはしない」
久住は依澄へ向き直った。
「蝶ヶ森。今日の件を、同じ現象が起きた時の安全記録として保管してもいいか。閲覧範囲は俺と、お前たちが必要と認めた人間に限る」
依澄は少し考えてから頷いた。
「うん。もしまた忘れられた時、私がいたって分かるようにしたい」
「分かった。紙と、大学の外の保存先にも分ける。片方だけ消える前提で考える」
透羽が静かに言った。
「鷺宮家側にも同じ記録を残します」
「頼む。こういうものは、一か所に置かない方がいい」
久住はメモの最後に、時刻と一文を書き加えた。
『認識回復。蝶ヶ森依澄を本人として確認。』
その文字を見た依澄は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく言った。
「ありがとう」
「礼は、次に同じことが起きなかった時に聞く」
久住はそう言ったあと、少しだけ表情を緩めた。
「今日はもう帰れ。十分働いた」
◇
研究室を出たのは午後四時を少し回った頃だった。
地上へ戻ると、大学は何事もなかったようにいつもの時間を流していた。
学生が笑いながら歩き、自転車が通り、講義終了の鐘が鳴る。
その中で、向こうから歩いてきた女子学生が依澄へ声をかけた。
「蝶ヶ森さん」
依澄が止まる。
「今日二限いたよね? 久住先生、なんか変だったよね。急に名前飛ばしてたし」
「私」
「ん?」
「いた」
「いたでしょ。何言ってるの」
「うん」
女子学生が去っていく。
依澄はしばらく、その背中を見送っていた。
「玄兎」
「何」
「嬉しい」
「名前呼ばれたから?」
「うん」
「普通なのに」
「今日、その普通がすごく嬉しい」
玄兎は笑った。
「分かるよ」
昨日、自分も失った普通の昼食を、もう一度食べ直した。普通は、失って初めてその重さが分かる。
◇
五人はそのまま、大学前のパン屋へ向かった。
朝、依澄が「塩パンを食べたい」と言った店だ。
「残ってます!」
店へ入る前から小毬が言った。
「何で分かる」
「焼きたての匂い!」
「パン屋で一番能力が役立ってるな」
「失礼です!」
店内へ入ると、確かに塩パンが並んでいた。
依澄は二つ取った。
「二個?」
玄兎が少し驚いて尋ねると、依澄は素直に頷いた。
「うん」
「珍しいな」
「今日」
依澄はパンを見つめた。
「消えずに残れたから」
玄兎は一瞬黙った。
「その言い方は重いけど」
「嫌?」
「今日は許す」
「うん」
小毬はカレーパンとメンチカツサンド、千燈はクロワッサン、透羽は苺デニッシュを選んだ。
玄兎はコーヒーだけを買おうとして、透羽に止められた。
「玄兎も何か食べてください」
「昼食べた」
「少なかったでしょう」
「見てた?」
「隣なので」
その言葉に、玄兎は前日の会話を思い出した。
――大学で、あなたの隣に座っている人です。
その言葉を思い出し、玄兎は少し笑った。
「じゃあ塩パン」
依澄が見た。
「私と同じ」
「うん」
「恋人?」
「パンが同じだけで恋人にはならない」
「違う?」
「違う」
「分かった」
小毬がすぐ横からカレーパンを差し出す。
「じゃあ私と半分!」
「自分が両方食べたいだけだろ」
「愛です!」
「食欲だろ」
千燈が笑う。
「玄兎くん、人気だねえ」
「パンを押しつけられてるだけ」
「それも愛かも」
「重い」
透羽が苺デニッシュを持ったまま、小さくため息をつく。
「食べ物で何でも恋愛へ繋げないでください」
「透羽先輩も半分あげたら?」
「なぜ私が」
「愛!」
「違います」
五人は店の外の小さなテラス席へ座った。
依澄が塩パンへかじりつく。
「どう?」
玄兎が訊く。
「好き」
「今日の好き?」
「うん」
「明日は?」
「分からない」
「じゃあ明日また聞く」
「うん」
依澄は少し考えた後、玄兎を見た。
「玄兎」
「何」
「さっき、私、好きって言った」
「言ったな」
「みんなが好き」
「うん」
「玄兎も」
「うん」
「恋?」
小毬の動きが止まった。
千燈はクロワッサンを口へ運ぶ手を止めた。
透羽の苺デニッシュも静止する。
玄兎は少し考えてから答えた。
「分からない」
「依澄は?」
「分からない」
「じゃあ今は、それでいい」
「でも」
依澄は玄兎を見る。
「消えるのが嫌な理由に、玄兎がいた」
「うん」
「それは大事?」
「大事だよ」
「恋じゃなくても?」
「恋じゃなくても」
「そっか」
依澄はほっとしたように笑う。
「じゃあ覚える」
「何を?」
「玄兎は、私がここに残りたい理由の一つ」
玄兎は返事に少し詰まった。
「……それはちょっと重いな」
「嫌?」
「嫌じゃない」
隣で、透羽が苺デニッシュを少し強めに噛んだ。
「透羽」
「何ですか」
「生地に罪はないぞ」
「何の話ですか」
「何でもない」
千燈が楽しそうに笑う。
「玄兎くん」
「何」
「分かってるなら、ほどほどにした方がいいよ」
「何を」
「人の心拍を上げるの」
「それ、小毬じゃないと分からないだろ」
「上がってます!」
小毬が即答した。
「誰の?」
「言いません!」
「何で」
「今日は乙女の秘密です!」
「小毬が秘密を守ってる」
「私だってできます!」
「成長」
「はい!」
笑い声がテラスへ広がる。
依澄も笑っている。
ちゃんと、そこにいる。
◇
夕方、透羽は玄兎だけを図書館の個室へ呼んだ。
「依澄は?」
「小毬と千燈が一緒です」
「一人にしないんだな」
「はい。玄兎も一人ではありません」
「透羽がいる」
「そうです」
机の上に、今日撮影した古いカードの画像が表示されている。
『D-02』
『夢層外部観測個体』
『蝶型反応』
『定着状態:不安定』
『外部器との接触後、現実側への定着率上昇』
「外部器って、やっぱり俺だよな」
「可能性は非常に高いです」
「依澄は《百獣繭》の夢層に関係する存在」
「はい」
「それで俺と接触して、現実側へ定着した」
「記録上はそう読めます」
「いつ」
「そこは、まだ分かりません」
玄兎は、鷺宮家で見せられた六歳時の記録を思い返した。
「六歳の事故の時、中央側には短い心肺停止みたいな反応と、その直後の再構築反応が残ってたんだよな」
「はい。ただし病院へ着いた時には意識があり、生命活動も安定していた。三日という数字は死亡時間ではなく、認知と人格の内部照合値が安定するまでにかかった期間です」
「その三日の間に、夢層と何か起きてた可能性はある?」
透羽はすぐには答えなかった。机上のカードと、保存してある六歳時の記録を見比べる。
「可能性としては考えられます。ただ、今ある記録だけでは、六歳時の不安定な状態とD-02との接触が同じ時期だったとは確認できません」
「じゃあ、依澄と会ってたかもしれないっていうのも」
「仮説です」
「そっか」
玄兎は椅子へ背を預けた。
答えが一つ減ったというより、まだ答えにしてはいけないものが分かった気がした。
怖くないわけではない。
もし依澄が、自分の夢や記憶へ触れ、それを足場にして現実側へ形を持った存在だったら。
自分が彼女を作ったのか。それとも、自分と依澄は《百獣繭》の中で別々に存在し、どこかの時点で接触しただけなのか。今ある資料だけでは、まだどちらとも決められない。
「本人に話しますか」
透羽が訊く。
「話す。分かってることと、まだ仮説のところを分けて」
「六歳時のことまで?」
「うん。ただし、『その時に会った』とは言わない。接触した時期はまだ分からないって、そのまま話す」
透羽は少しだけ玄兎を見つめ、それから頷いた。
「依澄さんは、自分が何なのか知りたがっています」
「だったら、俺たちだけで答えを決めない。一緒に考える」
透羽の目が少し柔らかくなった。
「以前の玄兎なら、一人で調べていたでしょうね」
「そう?」
「はい。そして、自分が危険だと思った時点で依澄さんから距離を取っていたと思います」
「……たぶん」
「今は?」
「怒られるからやめる」
「それだけ?」
「違う」
玄兎は少し笑った。
「一緒にいたいから」
透羽が止まる。
「五人で」
「……」
「全員で」
「分かっています」
「何で毎回そこ確認するんだよ」
「確認ではありません」
「じゃあ何」
「……何でもありません」
玄兎は少しだけ笑った。
そして、ふと真面目になる。
「透羽」
「はい」
「今日、依澄が消えかけた時、本当に怖かった」
「……はい」
「手の感触が薄くなって」
「はい」
「このまま本当にいなくなったらって」
玄兎は少し言葉を探した。
「一昨日、俺が死んだ時の透羽も、あんな感じだった?」
透羽の表情が変わった。
「比べられるものではありません」
「でも」
「……似ています」
「そっか」
玄兎は少し目を伏せた。
「ごめん」
「謝らないでください。昨日も言いました」
「でも」
「代わりに」
透羽は机の上へ手を置いた。
玄兎の手から、ほんの少し離れた場所。
「覚えておいてください」
「何を」
「誰かが消えるかもしれないことは、とても怖いです」
「うん」
「だから、自分だけは消えてもいいと思わないでください」
玄兎は今日の依澄の手を思い出した。
確かにそこにあったはずの依澄の手が、少しずつ感触を失っていった。あの時――一昨日、自分が死んだ時に透羽たちが感じたのも、きっとこんな恐怖だったのかもしれない。
「分かった」
「本当に?」
「今日、分かった」
透羽は今度、念を押さなかった。
「はい」
◇
その夜、五人のグループチャットへ依澄からメッセージが届いた。
『学生ポータル、まだ入れる。』
すぐに小毬が反応する。
『匂いも大丈夫です!』
続いて千燈。
『写真にもちゃんといるよ。』
透羽も大学側の記録を確認したらしい。
『履修情報も復旧しています。』
玄兎は画面を見ながら尋ねた。
『明日、二限出る?』
依澄から返事が来る。
『出る。久住先生に名前を呼ばれるか確認する。』
『呼ばれなかったら俺が言う。』
すぐに小毬。
『私も言います!』
さらに千燈が続く。
『私も見に行こうかな。』
その提案には、すぐ透羽から釘が刺さった。
『千燈は自分の講義へ行ってください。』
『透羽ちゃん厳しい。』
少し間を置いて、依澄からもう一つ届いた。
『明日も塩パン好きかな。』
玄兎は笑った。
『それは明日聞く。』
さらに少し。
『明日があるの、嬉しい。』
その一文を、玄兎はしばらく見つめた。昨日、自分も同じように「明日が来てほしい」と思ったばかりだった。
明日もまた一緒に昼を食べ、その先の出来事を覚えていたい。依澄も今、自分と同じように明日を欲しがっている。
『俺も。』
玄兎が送ると、すぐに小毬から返事が来た。
『私もです!』
千燈も続く。
『同じく。』
そして少し遅れて、透羽から短い返事が届いた。
『はい。』
たった五人の小さな会話。
それでも、依澄が今ここにいる記録になる。
◇
翌朝、二限前の地域文化論の教室には、いつもより少し早く五人のうち四人が集まっていた。
玄兎はいつもの席へ座り、右には透羽、左には依澄がいる。さらにその後ろには、なぜか履修者ではない小毬まで陣取っていた。
「小毬、一年だろ」
「空きコマです!」
「この講義取ってないよな」
「見学です!」
「単位出ないぞ」
「依澄先輩確認です!」
千燈は来ていない。
透羽に本気で自分の講義へ行かされたらしい。
「先輩、ちゃんと行ったんだな」
「当然です」
「透羽の圧」
「何ですか」
「何でも」
久住教授が教室へ入ってきた。
「今日は妙に人が多いな」
名簿を開く。
玄兎は自分でも意外なほど緊張していた。
「青木」
「はい」
「石田」
「はい」
「鵺代」
「はい」
今日は普通に答える。
「鷺宮」
「はい」
「高瀬」
「はい」
教授の指が次の名前へ移る。
「蝶ヶ森」
「はい」
依澄の返事は小さい。
けれど、はっきり教室へ届いた。
久住教授が名簿から顔を上げる。
昨日は通り過ぎた視線が、今日はまっすぐ依澄のところで止まった。
「……よし。今日は見えてる」
周囲の学生には意味の分からない言葉だったのか、何人かが首を傾げた。
依澄は教授を見た。
「先生」
「何だ」
「私、います」
久住は一拍だけ黙った。
「いる。昨日は、その当たり前を俺の方が認識できなかった」
それから、いつもの少しだけぶっきらぼうな調子へ戻す。
「だから今日は言っておく。見れば分かる」
「うん」
依澄が笑う。
久住は名簿へ視線を戻しかけ、思い出したように付け加えた。
「蝶ヶ森。講義が終わったら五分だけ残れ。昨日の記録をもう一度、本人と突き合わせる。次に俺が忘れても、忘れたことに気づけるようにしておきたい」
「分かった」
玄兎は隣で小さく言った。
「よかったな」
「うん」
「今日、好きなパンは?」
依澄は少し考えた。
「塩パン」
「二日連続」
「珍しい」
「じゃあ昼、買いに行く?」
「五人で」
「千燈、三限あるぞ」
「終わってから」
「昼遅くなる」
「待つ」
後ろから小毬が身を乗り出す。
「私も待てます!」
「肉なしでも?」
「パンがあります!」
「成長」
「はい!」
久住教授が後ろを見た。
「白狼院、お前この講義取ってないだろ」
「見学です!」
「自由だな、お前ら」
教室に小さな笑いが広がった。その輪の中で依澄も自然に笑っている。誰かに特別に証明してもらう必要もなく、ただ普通の学生として、そこにいた。
◇
その頃、鷺宮家の記録端末には、昨夜まで閲覧できなかった古い観測資料が一件だけ追加されていた。
透羽はまだ、その存在を知らない。
『夢層外部観測個体 D-02』
『蝶型反応。自我形成未確定。』
『外部器との接触により、現実側で人型を形成。』
『外部器側の夢・記憶を参照し、人格安定化を開始。』
その下には、一部が黒く塗り潰された記録が続いている。
『外部器:鵺代玄兎』
そして最後に、破損してほとんど読めなくなった一文の末尾に、たった一語だけ残っていた。
『待っている』
――第十四話・了