第二章・全36話中 13話

第十三話 忘れた昼ごはんを、もう一度

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 五人で鶏の照り焼き定食を囲み、失った昼とは別の思い出を作り直す数時間前。

 午前九時前。朽木ヶ丘大学の正門をくぐった玄兎は、歩きながらスマートフォンの写真を開いていた。

 学食のテーブル。鶏の照り焼き。四人の顔。その中央で、自分まで笑っている。

 指で画面を拡大して、自分の表情を眺める。何を言われて笑ったのか。照り焼きがどんな味だったのか。隣に誰が座っていたのか。

 何一つ戻ってこない。

 玄兎は写真を閉じ、今度は紺色のノートを開こうとして、やめた。そこには四人が教えてくれた「失った昼」の内容が書かれている。読めば出来事の順番は覚え直せる。それでも、それを自分の記憶だったことにはできない。

「……気持ち悪いな」

 無意識に左胸へ手を当てる。昨日、地下封印から逃げる途中で背中から胸を貫かれた場所には、傷痕ひとつない。《還月》は骨も肉も血管も元へ戻したのに、失った昼だけは戻さなかった。

 玄兎はスマートフォンをポケットへしまった。

 次に消えるのが食事ではなく、四人の名前だったら。

 そう考えたところで、自分から続きを想像するのをやめた。まず今日一日を確かめる。大学へ行く。四人に会う。昼になったら、また食べる。

 そう決めて顔を上げた、その時だった。

「何がですか」

「うわっ」

 すぐ横から声が飛んできて、玄兎は思わず肩を揺らした。

 鷺宮透羽が、いつの間にか隣を歩いていた。

 白いブラウスに薄い灰色のカーディガン。長い黒髪もいつも通りまっすぐ整えられている。昨日、玄兎の死体のそばで今にも泣き出しそうな顔をしていた人物と同じとは思えないほど、外見だけなら普段通りだった。

「……いつからいた?」

「正門の少し前からです」

「声かけてよ」

「二回かけました」

「本当に?」

「一回目は『玄兎』。二回目は、聞こえていないようだったので『鵺代玄兎』と」

「全然気づかなかった」

「考え事ですか」

「まあ、ちょっと」

 透羽は足を緩め、玄兎の顔を下から覗き込んだ。

「頭痛や吐き気、めまいはありませんか」

「どれもない。少なくとも、身体は昨日と変わってないよ」

「昨夜から、新しく思い出せなくなったことは」

「今のところない」

「本当に、思い当たることはありませんか」

「透羽」

「何ですか」

「朝から尋問が重い」

「尋問ではなく経過確認です」

「昨日の夜もしただろ」

「その後に睡眠を挟んでいます。状態が変化している可能性はあります」

「毎朝やる気?」

「当面は」

「俺、朝の挨拶より先に記憶検査されるの?」

 透羽は少し考え込んだ。

「それは確かに順序が適切ではありませんね」

「そういう問題かな」

 透羽は玄兎の方へ向き直ると、妙に真面目な表情で言った。

「おはようございます、玄兎」

 玄兎は一瞬きょとんとして、それから吹き出した。

「……おはよう、透羽」

「では、昨日の夕食は何を食べましたか」

「やっぱり続くんだ」

「確認です」

「鷺宮家でうどん。依澄がプリンを食べてた」

「千燈は」

「人の唐揚げを勝手に取ってた」

「小毬は」

「自分の定食を食べたあと、俺のうどんまで欲しがった」

「私は」

「苺の水羊羹」

 透羽の張り詰めていた表情が、ほんの少しだけ緩んだ。

「……覚えていますね」

 その安堵を見た瞬間、玄兎の胸の奥が妙に痛んだ。

「透羽」

「はい」

「そんなに毎回、安心しなくてもいいよ」

「無理です」

 返事はほとんど間を置かなかった。

「即答だな」

「昨日、あなたが『覚えていない』と言った時のことを、私は覚えています」

「うん」

「ですから、無理です」

 その言い方には反論できなかった。

 二人は並んで歩き出した。

 これまでの透羽は、玄兎を監視しやすい半歩前か斜め後ろを歩くことが多かった。ところが今日は、完全に肩を並べている。

「近いな」

「何がですか」

「距離」

「問題がありますか」

「ないけど」

「では結構です」

「前みたいに、離れたら痛くなる怪異はもういないぞ」

 透羽の足が一瞬止まった。

「……あの事件を覚えていますか」

「覚えてるよ。結留神社。三メートル以上離れると痛くなったやつ」

「プリンシェイクは」

「透羽が『普通です』って言い張ってた」

「その部分だけ忘れてください」

「無理だな」

 透羽は呆れたように息を吐いたが、表情には先ほどよりはっきりと安堵が浮かんでいた。

 玄兎は、それに気づかないふりをした。

     ◇

 一限が始まる前、玄兎が教室の机へ鞄を置くより早く、小毬が駆け寄ってきた。

「先輩、おはようございます!」

「おはよう。今日は質問何個?」

 小毬の足が止まった。

「……ばれてました?」

「透羽に正門からここまでで五個聞かれた」

「私は三個にします」

「減ってない気がするな」

 小毬は指を一本立てた。

「昨日の夜、何を食べました?」

「うどん。依澄はプリン、千燈先輩は俺の唐揚げを取った。小毬は自分の定食のあとで俺のうどんまで狙った」

「最後は狙っただけです!」

「覚えてるな」

 玄兎が笑うと、小毬も笑った。しかし二本目の指を立てたところで、その表情が少し曇る。

「じゃあ、一昨日のお昼は」

「そこはない」

 先回りして答えると、小毬の口が閉じた。

 玄兎は自分のスマートフォンを机へ置いた。画面には、記憶にない昼休みの写真が表示されている。五人で同じ卓を囲み、自分まで普通に笑っていた。

「でも、今日は昼になったら学食へ行く」

「……同じものを食べるんですか?」

「日替わりが同じなら。昨日を思い出すためじゃなくて、今日の昼を作るために」

 小毬は写真と玄兎を交互に見て、それから勢いよく頷いた。

「じゃあ私も行きます。唐揚げは取りません」

「そこは信用してない」

「ひどいです!」

「朝から何の契約してるの?」

 緋鴉千燈が教室へ入ってきた。いつもの軽い調子だったが、玄兎の胸元を一度だけ見たあと、すぐに視線を戻す。

 玄兎はその動きを見て、自分から左手を机の上へ出した。

「読む?」

 千燈は一瞬だけ黙った。

 以前なら、答えるより先に指先へ興味を示したかもしれない。今は違った。

「読まない」

「いいの?」

「読みたいよ。昨日の君の血がどう変わったか、ものすごく気になる。でも、今は君が自分で覚えてることを先に信じる」

 千燈は差し出された手を押し戻した。

「必要になって、玄兎くんが頼んだら読む。その時まで取っておく」

「……ありがとう」

「本気の先輩、冗談減りますね」

 小毬が言うと、千燈は眉を上げた。

「小毬ちゃん、それ本人の前で言う?」

「最近みんな気づいてます」

「困ったなあ」

 その後ろから依澄が静かに入ってきた。

「おはよう、玄兎」

「おはよう。今日は何が好き?」

「まだ決めてない」

「昨日はプリンだった」

「覚えてる?」

「覚えてる」

 依澄は少しだけ目を細めた。その反応が、確認の答えだった。

「さっきパン屋を見たら、メロンパンが気になった」

「じゃあ今日はメロンパンか」

「昼までに変わるかも」

「それも依澄らしいな」

 依澄は自分の席へ座ろうとして、ふと思い出したように玄兎を見る。

「玄兎。もし明日、今日の私がメロンパンを好きだったことを忘れても」

「うん」

「明日また聞いて」

 玄兎は少し驚いて、それから頷いた。

「分かった」

 忘れたものを必死に再現するのではなく、その日にまた聞く。

 その方が、今の玄兎にはずっと息がしやすかった。

 透羽は何も言わず、玄兎の隣の席へ鞄を置いた。

「透羽」

「何ですか」

「今日はそこ?」

「以前から、ここです」

「そうだけど」

「問題がありますか」

「ない」

「では、座ります」

 透羽は本当にそれ以上説明せず、いつもの席へ腰を下ろした。

 玄兎はその横顔を見て、少し笑った。

 名前を忘れたらどうするか。関係を失ったらどうするか。

 朝から答えを決めなくてもいいのかもしれない。

 少なくとも今は、四人ともここにいる。自分もいる。

 そして昼になれば、五人でまた食べる。

     ◇

 二限が終わった直後、透羽のスマートフォンが短く震えた。

 画面を確認した彼女の表情が、目に見えて引き締まる。

「家から?」

 玄兎が尋ねる。

「はい。本日十五時、玄兎を連れて戻るようにと」

「俺も?」

「昨日の地下封印異常について、当主から直接話があるそうです」

 小毬がすぐに身を乗り出した。

「私たちは?」

「記載はありません」

「行きます!」

「白狼院さん」

「だって先輩だけ連れていかれるの、嫌です」

 千燈も腕を組んだ。

「私もついていく」

「千燈まで」

「鷺宮家が玄兎くんをどう扱うのか、私も気になる」

「私も行く」

 依澄まで静かに加わる。

 透羽は三人を見回した。

「恐らく、内部には入れません」

「門の外で待ちます!」

 小毬は即答した。

「何時間でも?」

「肉があれば!」

「条件あるんだ」

 玄兎は思わず笑った。

 だが、鷺宮家へ呼ばれる理由を考えれば、本当は笑っている場合ではない。

 二十年前の封印事故を知り、自分を「器」とした側の家だ。そこなら、《還月》による記憶欠損についても、以前から把握していた可能性がある。

「俺は行くよ」

 玄兎は透羽を見る。

「はい」

「ちゃんと知りたい。二十年前、俺に何があったのか」

「……はい」

「透羽も知りたい?」

「知るべきだと思っています」

「使命だから?」

 透羽はすぐには答えなかった。

「それだけではありません」

 今は、それで十分だった。

 十五時までには時間がある。五人は予定を変えず学食へ向かい、日替わりの鶏の照り焼きを囲んだ。玄兎は失った昼を再現するためではなく、今日の味として覚えるために同じ献立を選んだ。

 その新しい記憶を一つ増やしてから、五人は鷺宮家へ向かった。

     ◇

 鷺宮家は、朽木ヶ丘市北部の古い住宅地と山の境目にあった。

 大きな門と長い塀。その内側には古い日本家屋がいくつも連なり、奥には小さな社が見える。

 そして何より、水が多かった。

 庭を細い水路が走り、池や手水鉢だけでなく、雨水を集めるための設備まで各所へ組み込まれている。

「透羽のために作ったみたいな家だな」

 玄兎が言うと、透羽は少しだけ眉を寄せた。

「私のためではありません。術式運用のためです」

「やっぱり水を使うんだ」

「はい」

 門の前で、小毬が鼻を動かした。

「すごい匂い」

「何が?」

「水と札と、人と、怪異避けの香り。いろんなものが重なってます」

「怪異避けにも匂いがあるんだな」

「私には分かります」

 千燈は門の上を眺めた。

「結界もかなり古い。私はたぶん嫌われるな」

「吸血種だから?」

「うん」

 依澄が興味深そうに一歩前へ出た。

 その瞬間、門柱から垂れた白い紙垂が、風もないのに小さく震えた。

 透羽の表情が硬くなる。

「依澄さん。そこまでにしてください」

「怒ってる?」

「あなたにではありません。結界が反応しています」

「私に?」

「はい」

 依澄は驚かなかった。

「やっぱり、人間じゃない?」

「今それを決める必要はない」

 玄兎が言う。

「うん」

 依澄は素直に一歩下がった。

 ほどなくして門の内側から白装束の女性が現れ、深く頭を下げた。

「透羽様。お待ちしておりました」

「こちらの三名は同行者です」

「外待合まではご案内できます」

「玄兎は」

「当主がお待ちです」

 玄兎は小毬たちを振り返った。

「行ってくる」

「先輩」

「うん」

「帰ってきてください」

 今日、その言葉はいつも以上に重かった。

「帰るよ」

「絶対です」

「うん」

 千燈も玄兎へ視線を向ける。

「何かされたら連絡して」

「圏外だったら?」

「烏を飛ばす」

「結界に焼かれない?」

「そこは私が何とかする」

「烏じゃなく?」

「私が」

 依澄は静かに言った。

「玄兎」

「何」

「帰ってきたら、今日好きな食べ物を決める」

「まだ決まってなかったな」

「待ってる」

「分かった」

 透羽が玄兎の隣へ並ぶ。

「行きましょう」

「うん」

 二人で門をくぐる。

 三人を外に残しても。

 玄兎は不思議と、一人になる気はしなかった。

     ◇

 通されたのは客間ではなく、畳敷きの広間だった。

 正面には鷺宮家の当主――透羽の祖父にあたる老人が座り、その両脇に年配の男女が数名控えている。

 玄兎が座ると、最初に差し出されたのは茶ではなく、一枚の書類だった。

『経過観察措置同意書』

 その下に、大学への登校停止、鷺宮家管理施設への移動、七十二時間の外部連絡制限と並んでいる。

 透羽が文面を読み終えるより先に、顔を上げた。

「当主。私はこの措置に反対です」

「署名を」

 老人は透羽の言葉を受けても表情を変えず、玄兎へ告げた。

 玄兎はペンを取らなかった。

「理由を先に聞きます」

「昨日、君は死亡し、《還月》で再構築された。その後、記憶欠損が確認された」

「それは俺も知ってます」

「なら、危険性も理解できるはずだ」

「理解するための情報を、まだ見せてもらってません」

 広間の空気が変わった。

 透羽が玄兎を見る。止めるためではない。続きを待っている目だった。

「二十年前の記録があるんですよね」

「ある」

「六歳の時の記録も」

「ある」

「それを見ないまま、閉じ込められる書類に署名はしません」

 当主はしばらく玄兎を見つめたあと、脇の術者へ視線を送った。

 術者が持ってきたのは、紐で綴じられた薄い資料束だった。表紙の大半は黒く伏せられている。それでも、下の方に自分の名前だけが見えた。

『外部器――鵺代玄兎』

 玄兎の指が止まる。

「外部器」

「玄兎」

 透羽が低く呼んだ。

「大丈夫。読む」

 大丈夫ではなかった。それでも玄兎は表紙をめくった。

 最初の頁には、二十年前の日付と、朽木ヶ丘市地下の封印群で破断が起きたことが記されていた。続く頁には複数の管理家系の印が並んでいる。

 その一つに、鷺宮の家紋があった。

 透羽の呼吸が止まる。

「……鷺宮家が承認している」

「当時、お前は生まれていない」

 当主が言う。

「そういう問題ではありません」

 透羽は資料から目を離さなかった。

 玄兎は次の頁をめくった。

 生後間もない乳児を、漏出した怪異を一時的に収める外部器として使用すること。器の維持のため、損傷時には再構築機構を作動させること。

 文章の端に、《還月》と後に呼ばれる術式系統の古い符号が残っている。

「これが、俺の能力じゃないって意味か」

「そうだ」

「俺を生かすためじゃなく、入れたものを逃がさないために作った」

 当主は否定しなかった。

 玄兎は資料を閉じそうになった。

 そこで、別の紙が束の間から覗いていることに気づく。

 六歳。

 自分の誕生日から数えれば、事故の年齢と一致する。

「これも見ます」

「玄兎」

 今度は透羽の声に迷いがあった。

「見たくないなら、ここで止めてもいいです」

 玄兎は紙の端をつまんだまま、一度だけ目を閉じた。

 知らないまま帰れば、今日だけは楽かもしれない。けれど次に何かを忘れた時、また同じ場所へ戻ってくる。

「いや。見る」

 頁を抜き出した。

 そこには二種類の記録が重ねて綴じられていた。

 一枚は一般の救急受診記録の写し。事故後に一時的な意識消失はあったものの、病院到着時には会話ができ、重大な外傷なし。

 もう一枚は、鷺宮家を含む封印管理側の内部記録だった。

 事故直後、短時間だけ心拍と呼吸の停止に相当する反応。

 直後に再構築反応。

 生命活動は回復。

 その下にだけ、赤い印が三日分続いていた。

『認知照合――不安定』

『人格照合――不安定』

 玄兎は二枚を畳の上へ並べた。

「病院では、その日のうちに喋ってる」

「そう記録されている」

「なのに、こっちは三日間、俺が俺かどうかを測ってた」

「測定値が安定しなかった」

「俺の家族は?」

「知らない」

「俺も?」

「当時の本人へ、この記録を開示した形跡はない」

 玄兎は赤い三本の印を見つめた。

 死んでいた三日間ではない。

 普通に話し、家族から見れば事故を免れた六歳の自分を、どこか別の場所では三日間ずっと「同じ人間か」と測っていた。

 気味の悪さは、説明を聞くより紙の上の赤い印の方がはるかに強かった。

「その三日の前後で、俺が同じ人間だったかは?」

 当主は答えを急がなかった。

「証明できない」

「別人になった証拠は」

「ない」

 玄兎は少し笑った。笑うしかなかった。

「一番嫌な答えですね」

「分からないことを、都合よく決めるわけにはいかん」

「そこだけは同意します」

 玄兎は同意書へ視線を戻した。

 七十二時間の隔離。外部連絡制限。

 今度は、その文字がさっきよりはっきり意味を持って見えた。

「でも、これにはまだ署名しません」

「君の再構築は、封印全体へ影響する可能性がある」

「可能性ですよね」

「過去に、再構築反応の前後で器内部の配置、封印容量、認知照合値が動いた例がある」

「なら、俺を閉じ込める前に今の俺を調べてください」

 当主の眉が僅かに動いた。

 玄兎は透羽を見る。

「人と怪異の境界を見る術があるって、前に言ってたよな」

 透羽は一瞬だけ息を止めた。

「《水鏡検分》」

「それ、俺に使える?」

「使えます。ただし――」

 透羽は当主を見た。

「許可が必要です」

「申請は却下する」

 即答だった。

「なぜですか」

「玄兎は通常の憑依例ではない。内部の封印が検分術を敵性拘束と認識すれば、自動封鎖が作動する可能性がある」

「それでも、閉じ込める根拠を増やすためではなく、本人を確認するための検分は必要です」

「透羽。お前は管理者だ」

「だから必要だと言っています」

「私情で判断していないと言えるか」

 広間が静まった。

 透羽の指が膝の上で強く組まれる。

 玄兎は止めようとした。だが透羽は先に口を開いた。

「言えません」

「透羽」

「私情はあります。玄兎が傷つけば嫌です。死ねば怖い。記憶を失えば、悲しい」

 一度言葉にしたあと、透羽の声はむしろ落ち着いた。

「ですが、だからこそ、本人を見ないまま『器』という分類だけで処理する判断には同意できません」

「玄兎一人と、この街の四十万人を比べてもか」

 透羽はすぐには答えなかった。

 玄兎も答えられない。

 簡単に片方を選べる問いではない。

 だから玄兎は、畳の上の同意書を自分の方へ引いた。

 署名欄の上へ、ペンで一本の線を引く。

「比べる前に、調べます」

「玄兎」

「俺が本当に今すぐ閉じ込めないと危ないなら、その結果を見てから考える。何も確かめずに、自分で自分を危険物扱いするのは嫌です」

 当主と玄兎の視線がぶつかる。

「検分の最中に自動封鎖が作動すれば、術式は君を器として固定しようとする。それでもやるか」

 怖かった。

 水の中から、怪異だけを剥がしたあと。

 何も残らない可能性を想像するだけで、喉が乾く。

 玄兎は今日の昼に食べた鶏の照り焼きの味を思い出した。

 失った昼の味はない。

 でも今日の甘い醤油と、生姜と、少し焦げた鶏皮の香りは覚えている。

 それを覚えた自分が、今ここにいる。

「やります」

 玄兎は答えた。

「今日の俺がいるか、自分で確かめたい」

 長い沈黙のあと、当主は同意書を裏返した。

「《水鏡検分》を許可する」

     ◇

 検分場は、鷺宮家のさらに奥にある小さな水殿だった。

 石造りの床の中央に、円形の浅い水盤が設けられている。水深は足首ほどで、四方には白い札が貼られていた。高い天井から細い光が差し込み、水面へ静かな筋を落としている。

「靴と靴下を脱いで、水盤の中央へ」

 透羽に言われ、玄兎は裸足で水へ入った。足首を包む水はひやりと冷たく、そのありふれた感触だけで、これから自分の正体を覗かれるのだという緊張が急に現実味を帯びた。

「上は脱がなくていいんだな」

「必要ありません」

「儀式だから、ちょっと身構えた」

「何を想像しているのですか」

「分からないから訊いただけ」

 透羽が呆れたように息を吐く。

 そのやりとりのおかげで、玄兎の肩から少しだけ力が抜けた。

「透羽」

「はい」

「外の三人は」

「待合室にいます」

「そっか」

「不安ですか」

「少し」

 玄兎が正直に答えると、透羽はごく自然に言った。

「私がいます」

 玄兎は彼女を見る。

「うん」

 その一言で、本当に少し安心した。

 四方に術者が配置され、当主も少し離れた場所から見守っている。

 透羽は水盤の縁へ膝をつき、指先を水面へ触れた。

「《水鏡》」

 透明な水が、ほとんど音もなく波打った。

 玄兎の足元から幾重もの波紋が広がり、水面全体が鏡のように変わっていく。

 そこへ映った玄兎は、一人ではなかった。

 正確には、一つの身体の中に無数の影が重なっていた。

 兎の耳に似た輪郭や鳥の翼、獣の顎、細長い蛇のようなものが、名前も分からない一つの異形を形作っている。

 それらが玄兎の輪郭の内側で、ひしめき合うように蠢いている。

「……気持ち悪いな」

「動かないでください」

 透羽の声も硬い。

 水面の輝きが増していく。

「境界を出します」

 玄兎は目を逸らさなかった。

 無数の影が絡まり合う、その中心。

 やがて、無数の影の中心に黒い人型の輪郭が浮かび上がった。今にも周囲の異形へ溶けてしまいそうなほど淡く、不鮮明ではある。それでも、その輪郭は他のどれとも混ざらず、確かに一人の人間の形を保っていた。

「透羽」

「見えています」

「これが」

「中心に、他の怪異反応とは別のまとまりがあります」

「俺?」

「可能性は高いです」

 玄兎はゆっくり息を吐いた。

 胸の奥で固まっていた何かが、ほんの少しだけ緩む。

 その瞬間だった。

 水殿の四方へ貼られていた札が、一斉に白い炎を上げた。

「っ!」

「玄兎、動かないで!」

 鏡になっていた水面へ、白い格子が走った。

 玄兎の像が縦と横へ細かく区切られ、透明な標本板のような薄い層へ分かれていく。一枚目には現在の身体、次の一枚には血管と骨、その奥には兎の耳や獣の顎を持つ影。さらに中心には、先ほど見えた人間の輪郭が挟まれていた。

 水鏡が境界を「見る」だけでなく、境界ごとに玄兎を解体し始めている。

 一枚が身体から横へ引き出されると、玄兎の右手から温度の感覚が消えた。次の一枚がずれると、自分の左脚がどこにあるのか分からなくなる。目では立っていると確認できるのに、身体の内側から返ってくるはずの位置感覚だけが抜き取られていた。

 標本板の縁へ、鷺宮家の古い術式文字が浮かぶ。

『収容物』

『器壁』

『由来不明』

 ところが中心の人型にも、《本人》ではなく《由来不明》の文字が刻まれた。

 玄兎は息を呑んだ。怪異と自分を分けるための術が、自分まで異物として取り除こうとしている。

「何だこれ!」

「封印側が反応しています!」

 透羽が立ち上がる。

 天井近くの結界から、白い人型の式が四体、音もなく降りてきた。顔のない身体の各所には、鷺宮家の札が貼られている。

 当主の声が飛ぶ。

「玄兎を水盤中央へ固定しろ!」

「待ってください!」

 透羽が振り返る。

「これは検分のはずです!」

「器内部の怪異が封印術へ反応した。このまま外へ溢れる危険がある!」

 白い式の一体が玄兎の肩を掴んだ。

 水面から立ち上がった透明な標本板が、玄兎の胸を前後から挟んだ。

「っ……!」

 圧迫されているのは肉体ではない。誕生日、大学名、好きな飲み物、四人の顔。玄兎を一人の人間として形作る情報が、順番に薄い板へ転写されていく。転写されたものは自分の記憶として感じられなくなり、資料で読んだ他人の経歴のように遠ざかった。

「分離不能なら、そのまま固定して封じる!」

「そんなことはさせません!」

 透羽が指を振るう。

「《白羽》!」

 水滴が鋭い刃へ変わり、玄兎を掴んだ式の腕を切断した。

「透羽様!」

「邪魔をしないで!」

 透羽は水盤へ飛び込み、玄兎へ手を伸ばした。

「玄兎、手を!」

「うん!」

 玄兎も必死に腕を伸ばす。

 指と指が触れ、透羽の手が玄兎の手首を強く掴んだ。

 冷たい水の中なのに、その手だけが妙にはっきりと感じられる。

 しかし分離は止まらなかった。

 玄兎と透羽が繋いだ手まで、水鏡の中では二枚の別々な標本へ振り分けられる。触れているという事実は見えるのに、透羽の手の温度も、助けられているという安心も感じられない。

 標本板が一枚ずつ水殿の壁へ並べられていく。そこには玄兎の笑い方、怒り方、死ぬことを怖いと思う心まで、術式上の反応値として記録されていた。

 最後に残った人型の中は空洞だった。

 怪異を全て取り除いた結果ではない。人を部品へ分け、どの部品が本人かを決められないまま並べ直したため、中心が空に見えているのだ。

 それでも術式は無感情に判定を出した。

『固有人格――検出不能』

 その文字を信じた瞬間、本当に自分がいなくなってしまう。玄兎は透羽の手を握っている事実だけを頼りに、声を絞り出した。

「うるさい!」

 玄兎は水を蹴り、身体を引き上げようとする。

 さらに二体の式が背後から迫った。

「透羽!」

「分かっています!」

 透羽が片手を離し、水を大きく旋回させた。

「《禊牢》!」

 二体の式が水の球へ閉じ込められる。

 残る二体が玄兎の肩と腕へ食らいついた。

 その瞬間。

 玄兎の頭に、ほんの一瞬だけ「死ねば」という考えが浮かんだ。

 死んで、再構築されれば。

 死んで再構築されれば、この場を脱せるかもしれない。だが、その考えと同時に思い浮かんだのは、失った昼休みにぽっかりと空いた記憶だった。そこには写真も証言もあるのに、自分自身の実感だけが何ひとつ残っていない。

「……やめる」

「何をですか!」

「今、死ぬ方を考えた」

 透羽の目が大きく開く。

「でも、やめた」

「なら」

 透羽は玄兎の手を握り直した。

「助けを呼んでください!」

「透羽!」

「はい!」

「一人じゃ無理だ!」

「分かっています!」

「外の三人を!」

「結界を内側から開けます!」

 透羽は空いた手を振り、水の流れを水殿の壁へ叩きつけた。

「小毬! 千燈! 依澄!」

 玄兎も叫ぶ。

 厚い結界が震えた。

     ◇

 外待合で最初に反応したのは小毬だった。

「今、先輩の声しました!」

 椅子を蹴るように立ち上がる。

 千燈も同時に顔を上げた。

「どっち?」

「奥!」

 三人は走り出した。

「お待ちください!」

 廊下にいた術者が前へ出る。

「ここから先は立入禁止です!」

「中から呼ばれました!」

「検分中です。外部者は――」

 言葉の途中で、廊下の床を細い水の筋が走った。

 水は三人の足元を通り、水殿へ続く扉の封印札まで伸びる。次の瞬間、札の中央に一本だけ切れ目が入り、閉じていた扉がわずかに開いた。

 透羽が内側から通路を作ったのだ。

 術者の顔色が変わる。

「入れば封鎖術に巻き込まれる可能性があります!」

 小毬は一度だけ足を止めた。

 怖くないわけではない。

 それでも、扉の向こうからもう一度、玄兎の声がした。

「小毬! 千燈先輩! 依澄!」

「行きます」

 今度は迷わなかった。

「私も」

 依澄が続く。

 千燈は苦笑しながら肩をすくめた。

「ここで待ってたら、あとで本人に怒られそうだしね」

 三人は、開いた隙間へ身体を滑り込ませた。

 水殿へ入った小毬が見たのは、胸近くまで黒い水へ沈んだ玄兎だった。

「先輩!」

「小毬!」

 小毬は迷わず水盤へ駆け寄り、玄兎の腕を掴んだ。

「手、離さないでください!」

「頼む!」

 引こうとして、小毬の表情が歪む。

 水の底から伸びる影が、玄兎の脚へ何本も絡みついていた。

「匂いが……多すぎる」

 怪異の匂いが幾重にも重なり、いつもなら真っ先に分かる玄兎の匂いが埋もれている。

「小毬?」

「待ってください。今、探します」

 小毬は目を閉じた。

 一度、二度と息を吸う。

 顔から焦りが消えない。

「……分からない」

 その一言に、玄兎の胸が冷えた。

 水中の影がざわめく。

『器』

 小毬の耳に届いたわけではないはずの声へ、彼女が歯を食いしばった。

「違う。まだ終わってません」

 玄兎の腕を握ったまま、さらに顔を近づける。

「今日、学食で照り焼き食べました?」

「食べた」

「私、唐揚げ取りました?」

「今日は取ってない」

「そうです。私、我慢しました」

「そこ自慢する?」

 玄兎が息を切らしながら返した、その瞬間。

 小毬の顔が上がった。

「いた」

「え?」

「今の匂いです。先輩が呆れた時の匂い」

「そんな分類あるの?」

「あります!」

 小毬は泣きそうな顔で笑った。

「見つけました。ちゃんと玄兎先輩です」

 その横では、千燈が白い式の一体を受け止めていた。

 鋭く伸ばした爪が、式の胸元に貼られた制御札を切り裂く。札を失った式は力を失い、水面へ崩れた。

「千燈!」

「血は読んでない!」

「今それ言う?」

「今だから言うの。君が頼むまで、勝手に中身を覗かないって決めたから」

 もう一体の式が迫る。

 千燈は玄兎の方を見ないまま、その腕を受け流した。

「玄兎くん。昨日の君を私は覚えてる。でも、今そこにいる君の答えを、昔の記録で決める気はないよ」

 水鏡の標本板が激しく震えた。

『固有人格――検出不能』

 依澄はその文字を見上げていた。

 彼女の周囲に蝶は浮かばない。夢を重ねる代わりに、水盤の縁へしゃがみ込み、ただ玄兎へ手を差し出した。

「玄兎。明日、何食べる?」

「……今?」

「今」

「分からない」

「私も、明日何が好きか分からない」

 依澄は静かに手を差し出した。

「だから明日また決める。玄兎も、明日の玄兎が決めればいい」

 玄兎は水の中で息を呑んだ。

 昨日を取り戻せなくても、今日を作った。

 明日の自分が同じかどうか分からなくても、明日になってから選べる。

「……学食」

「うん」

「明日も行く」

「じゃあ、戻って」

 その答えに反応するように、玄兎を切り分けていた標本板の一枚へ色が戻った。

 今日の昼。五人分の照り焼き定食。小毬が唐揚げを取らなかったこと。千燈が血を読まなかったこと。依澄がメロンパンを気にしていたこと。透羽が隣に座っていたこと。

 誰かから教えられた昨日ではない。

 自分で選んで過ごした、今日の記憶だった。

「透羽!」

「今です!」

 透羽が玄兎の腕を両手で掴み直す。

「上がって!」

「うん!」

 小毬が引く。千燈が残った式を押さえる。依澄は差し出した手を引かず、玄兎が自分で掴むのを待つ。

 玄兎はその手を掴んだ。

 ずるり、と右脚が黒い影から抜ける。

 続いて左脚。

 透羽と小毬の力で、身体が一気に水盤の外へ引き上げられた。

 玄兎は濡れた石床へ倒れ込み、激しく咳き込んだ。

「玄兎!」

 透羽がすぐ隣へ膝をつく。

「大丈夫ですか」

「……生きてる」

「それは見れば分かります」

「今は、そこ大事だろ」

 小毬が玄兎へ抱きつく。

「先輩!」

「小毬、濡れる」

「もう濡れてます!」

 千燈は水のついた髪を後ろへ払い、玄兎を見た。

「血、読む?」

 さっきとは逆に、今度は千燈の方から尋ねた。

 玄兎は少し考えた。

「今はいい」

「了解」

 千燈はあっさり手を引いた。

 依澄も水盤の縁から離れる。輪郭は薄くなっていない。

「依澄」

「なに」

「今日はメロンパン」

「うん」

「明日はまた聞く」

「うん」

 そのやり取りを見ていた当主へ、透羽が向き直った。

「検分結果を確認してください」

 水面にはまだ、無数の怪異片が残っている。

 その中心に、先ほどより輪郭の濃くなった人型があった。

 当主は長くそれを見つめた。

「人格境界は確認された」

「なら、最初の措置は撤回してください」

 当主はすぐには答えない。

 玄兎は床に座ったまま、濡れた袖から水を絞った。

「全部分かったわけじゃないです」

「そうだ」

「次に再構築した時も同じかは分からない」

「保証はない」

「でも、今ここに俺はいる」

「現時点では、そう判断できる」

「それで十分です」

 玄兎は自分の足で立ち上がった。

 少しふらつく。

 透羽が支えようとしたが、その前に玄兎は自分で踏ん張った。それから、必要だと思い直したように透羽の肩を借りる。

「無理しないでください」

「今、やめた」

「何をですか」

「一人で立てるふり」

 透羽の目が僅かに揺れた。

 当主は畳の広間から持ってこさせた同意書をもう一度受け取った。

 玄兎の署名欄には、さっき引いた一本の線が残っている。

 老人はその紙を二つに折った。

「即時収容は保留する」

 小毬が大きく息を吐く。

「ただし七十二時間、毎日状態を報告。単独行動は禁止。大学への登校は、異常がなければ認める」

「単独行動禁止なら、今とあまり変わらないね」

 千燈が言う。

「確かに」

 玄兎も苦笑した。

「次に死亡を伴う再構築、あるいは封印へ大きく影響する反応が起きた場合は、再度判断する」

 玄兎は頷いた。

「次は、死なない方を選びます」

「意思だけでは避けられない」

「分かってます。だから今日みたいに、一人で無理なら助けを呼ぶ」

 言ってから、玄兎は四人を見る。

 小毬はまだ腕を離していない。千燈は破った式の札を元の位置へ置こうとしている。依澄は明日の食べ物をもう考えているような顔をしていて、透羽は玄兎の肩を支えたままだった。

「戻れることを前提に無茶するのは、やめます」

 当主が僅かに目を細める。

「なぜだ」

 玄兎は答えを探す代わりに、四人の方へ一歩寄った。

「帰ったあとにやることが増えたので」

 それだけ言えば十分だった。

     ◇

 鷺宮家を出た時には、午後六時を過ぎていた。

 門を抜けた途端、小毬が大きな声を上げる。

「肉!」

「第一声それ?」

「お腹空きました!」

「三時間以上待ってたもんな」

「後半は突入しましたけど!」

「それは待ってたと言わない」

 千燈は肩を回した。

「私も何か飲みたい」

「私はメロンパン」

 依澄が静かに言う。

「まだそれ好き?」

「今日のうちは」

「じゃあコンビニ寄るか」

 五人で歩き出す。

 夕方の山側は、昼より少しだけ涼しかった。蝉の声も遠くなっている。

 透羽だけが、少し後ろを歩いていた。

 玄兎はすぐに気づき、歩幅を緩める。

「透羽」

「何ですか」

「足」

「問題ありません」

「昨日の捻挫」

「もうほとんど治っています」

「本当?」

「はい」

 玄兎はそれ以上言わず、歩調をそのままにした。

「合わせなくていいです」

「俺も疲れた」

「……そうですか」

 二人の歩みが少し遅くなる。

 前を歩く三人との距離が開いた。

「玄兎」

「何?」

「今日、怖かったですか」

「検分?」

「はい」

「怖かった」

 玄兎は正直に答えた。

「俺の中に、俺がいなかったらどうしようって思った」

 口にした途端、胸の奥に押し込めていたものが少しだけ形を持った。

 水鏡に映った、無数の怪異片。その中心にあった、薄い自分の輪郭。もしあれが見つからなかったら。もし次にまた身体を作り直すようなことが起き、その前後で今の自分へ繋がるものが揺らいだら。

 考えないようにしていた続きを、頭が勝手に並べ始める。

「私も怖かったです」

「透羽も?」

「当然です」

 透羽はそう答えると、ふいに足を止めた。

 数歩先へ進んでから気づいた玄兎も立ち止まり、振り返る。

「どうした?」

 透羽はすぐには答えなかった。

 いつものように言葉を選んでいるのかと思った次の瞬間、彼女は一歩だけ距離を詰めた。

 そして、玄兎の背へ両腕を回した。

「……透羽?」

 あまりに予想していなかったことで、玄兎の身体が固まった。

 強く締めつける抱き方ではない。逃がさないためでも、怪異から庇うためでもない。ただ、そこにいることを確かめるように、透羽の腕が静かに背中へ回っている。

 黒髪が頬の近くへ触れ、微かな石鹸の匂いがした。肩越しに伝わる体温は、昨日、死にかけた自分へ必死に水を巡らせていた時と同じはずなのに、今はまるで違って感じられた。

「今だけは、『大丈夫』と言わなくていいです」

 耳の近くで、透羽の声がした。

「……言おうとしてたの、分かった?」

「分かります。玄兎は、怖い時ほど先にそう言いますから」

 図星だった。玄兎は返す言葉を失い、宙に浮かせていた両手をゆっくり下ろした。

「今日、あなたが水の中で『死ぬ方を考えた』と言った時、本当に怖かったです」

「でも、やめた」

「はい。やめて、助けを呼びました」

 透羽の腕に、ほんの少しだけ力がこもる。

「だから、その後まで一人で耐えなくていいんです。怖かったなら、怖かったままでいてください。落ち着くまで、私たちのそばにいてください」

 玄兎は目を閉じた。

 水殿の冷たさがまだ皮膚の奥に残っている気がしていた。黒い水に引かれる感覚も、身体の内側を覗かれる不快感も、消えたわけではない。

 けれど今は、それより近いところに透羽の体温がある。

「……俺、ちゃんとここにいる?」

 自分でも、子どもみたいな確認だと思った。それでも透羽は笑わなかった。

「います」

 短く、迷いなく答える。

「鵺代玄兎です。昨日のことを怖がって、今日も怖くなって、それでも死ぬ方をやめて助けを呼んだ人です。今、ここにいます」

 その言葉を聞いて、玄兎の肩からようやく力が抜けた。

 少し迷ってから、玄兎も透羽の背中へ片腕を回した。抱き返すというより、そこにいることを確かめるために触れた程度だった。

 それでも透羽は離れなかった。

「……こういうこと、透羽もするんだな」

「必要だと思ったので」

「合理的判断?」

「今は、それでいいことにしてください」

 玄兎は透羽の肩越しに小さく笑った。

 さっきまで胸の中で形を持ち始めていた恐怖が、なくなったわけではない。ただ、自分一人の中だけに閉じ込めなくてもいいと思えた。

 しばらくして、透羽の方からゆっくり腕を解いた。

 距離が戻ると、少しだけ夕方の風が冷たく感じられる。

「でも、いた」

 玄兎が確かめるように言う。

「はい」

「薄かったけど」

「それでも、ありました」

 玄兎は今度こそ、少し肩の力を抜いて笑った。

「じゃあ今は、それでいい」

 透羽が先に歩き出し、玄兎もその隣へ並んだ。

 少し先では、小毬たち三人が立ち止まって待っている。玄兎は何も言わず、透羽と一緒にその三人へ追いついた。

     ◇

 五人は、駅へ向かう途中のコンビニへ寄った。

 小毬は迷わず焼肉弁当を選び、千燈はアイスコーヒー。依澄は昼から気にしていたメロンパンを手に取り、透羽は苺ミルクを買った。玄兎は棚の前で少し迷ってから、肉まんを一つ取る。

「依澄、本当にメロンパンだったな」

「今日はね」

「明日は?」

「明日決める」

 依澄は当たり前のように答えて袋を開けた。

 店を出たあと、駅へ向かう道は途中で二つに分かれた。右へ行けば玄兎の家への近道、左へ行けば四人と同じ駅を経由する遠回りだ。

 玄兎の足が、わずかに右へ向く。

 自分と一緒にいれば、また四人を巻き込むかもしれない。今日くらい、一人で帰った方が安全ではないか。

 朝までなら、そのまま右へ曲がっていた気がした。

「先輩?」

 小毬に呼ばれ、玄兎は顔を上げた。四人は左の道で待っている。

 玄兎は右の近道を一度見てから、左へ踏み出した。

「そっち行く」

「家、遠回りになりますよ?」

「知ってる。でも、一人で安全そうな方を勝手に選ぶのは今日はやめる」

 小毬が笑い、千燈は何も言わず歩幅を緩めた。依澄もメロンパンを持ったまま玄兎の分だけ場所を空ける。

 透羽だけが、少し遅れて玄兎の隣へ並んだ。

「賢明です」

「そこは褒めてくれるんだ」

「学習したのであれば」

「上からだな」

 数歩進んだところで、透羽が前を向いたまま小さく付け足した。

「ただ、少しくらい……私の方へ戻ったと思ってもよかったのに、と考えただけです」

 玄兎の足が止まる。

 透羽も一歩遅れて止まり、自分の言葉を理解したらしい。

「……今のは忘れてください」

「今日それ言う?」

「言います」

「じゃあ無理」

 前を歩いていた三人が一斉に振り返った。

「聞こえました!」

 小毬が即答し、千燈は楽しそうに笑う。

「私も」

 依澄まで素直に頷いた。

「聞かないでください!」

 透羽の声が夕方の道へ響いた。

     ◇

 その日の夜、玄兎は自宅の机に向かい、紺色のノートを開いた。

 最初は透羽が「記憶記録用」と呼んでいたもの。

 小毬が勝手に「群れ日記」と名付け、今では五人全員が好き勝手に書き込んでいる。

 玄兎はペンを持ち、今日知ったことを順番に書こうとした。

『二十年前――』

 そこで手が止まる。

 封印事故。外部器。六歳の再構築反応。三日間の人格照合値。

 忘れたら困る情報ではある。

 けれど、それだけを書き残したら、今日という一日まで鷺宮家の報告書みたいになる気がした。

 玄兎は最初の一行に線を引いた。

 そして、別の三行を書く。

『今日は死ぬ方を選ばなかった。』

『一人では無理だと認めて、四人を呼んだ。』

『帰り道で、一人になる近道を選ばなかった。』

 最後に少し考え、もう一行だけ足した。

『明日も五人で昼飯を食べる。何を食べるかは明日決める。』

「よし」

 ペンを置いたところでスマートフォンが震えた。

 小毬からだった。

『先輩! 群れ日記書きました!?』

『書いた。』

『今日のこと覚えてます?』

 玄兎は少し考え、写真を一枚撮った。

 ノートではなく、帰り道に買った肉まんの包み紙だった。

『これ食べた。小毬は焼肉弁当。千燈先輩はアイスコーヒー。依澄はメロンパン。透羽は苺ミルク。』

 すぐに返事が届く。

『全部正解です!』

 続いて千燈。

『血、読みたくなったらいつでも言って。今日は読まなかったことも覚えててね』

『覚えてる。ありがとう。』

 依澄からは短かった。

『明日は何が好きか、まだ分かりません。』

『明日聞く。』

『うん。』

 最後に透羽。

『帰宅しましたか。』

『帰った。体調も記憶も今のところ問題なし。』

 少し迷ってから、玄兎はもう一文送る。

『帰り道の話も覚えてる。』

 既読になった。

 返事まで妙に時間がかかった。

『確認項目ではありません。』

『でも覚えてる。』

 さらに少し待って。

『……なら結構です。』

 玄兎は笑って、スマートフォンを机へ置いた。

 今日、自分が何者なのかという答えは出なかった。

 けれど、分からないからといって、自分を先回りして捨てる必要もない。

 明日になれば、また選べる。

     ◇

 同じ夜、鷺宮家の自室では、透羽が《水鏡検分》の記録を端末へ入力していた。

『対象:鵺代玄兎』
『内部に複数の怪異反応を確認』
『中心部に、他の怪異反応から独立した人格境界を確認』
『外部拘束術に対し、対象本人は怪異側への同化を拒否』
『現実側への帰還意思、対人関係による自己認識の固定を確認』

 最後の欄で、透羽の指が止まった。

『人間性を確認』

 そこまで入力し、透羽は水殿での玄兎を思い出した。危険だからと死んでやり直すのではなく、「一人じゃ無理だ」と自分から助けを呼んだ。その選択を、人間か怪異かという分類へ押し込める必要はない。

 透羽は入力した一行を消し、代わりに書き直した。

『対象を「器」のみとして扱うことは不適切と判断する。』

 透羽はその文章を送信した。ほどなくして端末の画面が更新される。

 今日の検分によって、関連資料の閲覧権限が一段階だけ仮開放されている。

「……」

 透羽は新しい資料名を見つめた。

『中央大封印・外部器運用記録』

 透羽は資料を開いた。冒頭には、これまで黒塗りで伏せられていた正式名称が初めて表示されていた。

『中央大封印』
『正式呼称――《百獣繭》』

「ひゃくじゅう……まゆ」

 透羽は小さく読み上げた。

 さらに画面を追う。

『二十年前の破断事故に際し、外部器として鵺代玄兎を使用』
『内部夢層への影響――』

 その下に。

 別の名字があった。

『蝶ヶ森――』

「……」

 透羽の指が止まる。

 続きを開こうとした瞬間、画面が暗転した。

『一時閲覧権限の有効時間を終了しました』

「依澄さん……?」

 玄兎だけではない。

 《百獣繭》は、依澄とも繋がっている。

 透羽はすぐには誰にも連絡しなかった。

 まだ確証がない。

 分からないことを、分かったように伝えてはいけない。

 自分で確かめ、自分の言葉で話す。その姿勢だけは崩したくなかった。

 ただ、今度見つけた秘密は玄兎だけのものではない。そこには依澄の名もあり、二人を同時に《百獣繭》へ繋いでいた。

――第十三話・了

👥 登場人物紹介ネタバレを抑えた基本プロフィール
鵺代玄兎

CHARACTER 01

鵺代玄兎

ぬえしろ げんと

現実的で、妙な状況でもまず話を整理しようとする常識人寄りの青年。突然の怪異や騒動には戸惑いながらも、困っている相手を放っておけない。深刻な場面でも自然にツッコミが出るタイプ。

  • 物語の主人公
  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 常識人寄りのツッコミ役
俺が何者でも、困ってる人を置いていく理由にはならない。
鷺宮透羽

CHARACTER 02

鷺宮透羽

さぎみや とわ

冷静で生真面目。怪異への警戒心が強く、必要なことははっきり言う。危険な場面では自分が前に出ようとする、責任感の強い少女。

  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 鷺宮家の退魔師
  • 礼儀正しいがやや堅い
私が間に合う時は、あなたを死なせません。
緋鴉千燈

CHARACTER 03

緋鴉千燈

ひがらす ちとせ

余裕のある笑みを浮かべ、人をからかうのが上手な先輩。自然に距離を詰めてくる、つかみどころのない雰囲気を持つ。

  • 玄兎たちの先輩
  • 赤褐色の瞳
  • 人をからかうのが得意
秘密って、暴くより自分から話してもらう方が面白いよ。
白狼院小毬

CHARACTER 04

白狼院小毬

はくろういん こまり

明るく人懐っこい一年生。気になったことはすぐ口にし、匂いを確かめることに夢中になると相手との距離感まで忘れがち。

  • 朽木ヶ丘大学の一年生
  • 非常に鋭い嗅覚
  • 人懐っこく表情豊か
匂いは嘘をつきません。だから、何度でも見つけます!
蝶ヶ森依澄

CHARACTER 05

蝶ヶ森依澄

ちょうがもり いすみ

静かで穏やか、言葉数は少なめ。初対面からどこか不思議な印象を残し、感情表現は控えめだが答え方は率直。

  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 淡い青紫の瞳
  • 物静かでマイペース
今日が初めてなら、明日また会えばいい。

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