午前九時前。朽木ヶ丘大学の正門をくぐった玄兎は、歩きながらスマートフォンの写真を開いていた。
学食のテーブル。鶏の照り焼き。四人の顔。その中央で、自分まで笑っている。
写真は、失った時間の中の一場面だった。
紺色の共有ノートには自分の筆跡があり、スマートフォンには送ったメッセージが残っている。《還月》の資料も四人から聞いた話も、記録と食い違わない。失った約四週間に何があったかは辿れる。
けれど、写真で笑っていた理由も、ノートを書いた時の感覚も戻らない。透羽と資料を見たことも、小毬と約束したことも、事実として知っているだけだった。
玄兎は画面を閉じ、顔を上げた。
「何を見ていたんですか」
「うわっ」
すぐ横から声が飛んできて、玄兎は思わず肩を揺らした。
鷺宮透羽が、いつの間にか隣を歩いていた。
白いブラウスに薄い灰色のカーディガン。長い黒髪もいつも通りまっすぐ整えられている。昨日、玄兎の死体のそばで今にも泣き出しそうな顔をしていた人物と同じとは思えないほど、外見だけなら普段通りだった。
「声かけてよ」
「二回かけました」
「全然気づかなかった」
透羽は足を緩め、玄兎の顔を下から覗き込んだ。
「頭痛や吐き気、めまいはありませんか」
「どれもない。少なくとも、身体は昨日と変わってないよ」
「昨夜から、新しく思い出せなくなったことは」
「今のところない」
玄兎は肩をすくめた。
「せめて挨拶が先じゃない?」
透羽は少し考え、玄兎の方へ向き直った。
「おはようございます、玄兎」
玄兎は一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「……おはよう、透羽」
「では、昨日の夕食は何を食べましたか」
「鷺宮家でうどん。依澄がプリンを食べてた」
透羽の張り詰めていた表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……覚えていますね」
「そんな顔しなくてもいいよ」
「無理です」
返事はほとんど間を置かなかった。
「昨日、あなたが『覚えていない』と言った時のことを、私は覚えています」
その言い方には反論できなかった。
二人は並んで歩き出した。透羽は、玄兎のすぐ隣から離れなかった。
◇
一限が始まる前、玄兎が教室の机へ鞄を置くより早く、小毬が駆け寄ってきた。
「先輩、おはようございます!」
「おはよう」
「今日のお昼、学食行きますよね?」
「行くよ」
「じゃあ私も行きます。今日は唐揚げ、取らないでおこうかな」
「それは信用していいの?」
「ひどいです!」
「朝から何の話?」
緋鴉千燈が教室へ入ってきた。いつもの軽い調子だったが、玄兎の胸元を一度だけ見たあと、すぐに視線を戻す。
「今日は、血は読まないよ」
「……うん」
千燈はそれ以上何も言わなかった。
その後ろから依澄が静かに入ってきた。
「おはよう、玄兎」
「おはよう。今日は何が好き?」
「さっきパン屋を見たら、メロンパンが気になった。でも、昼までに変わるかも」
依澄はそのまま自分の席へ向かった。
透羽は玄兎の隣へ鞄を置き、腰を下ろした。横顔を見た玄兎は、少し笑った。
一限開始のチャイムが鳴る。玄兎は教科書を開いた。
◇
二限が終わった直後、透羽のスマートフォンが短く震えた。
画面を確認した彼女の表情が、目に見えて引き締まる。
「家から?」
玄兎が尋ねる。
「はい。本日十五時、玄兎を連れて戻るようにと。昨日の地下封印異常について、当主から直接話があるそうです」
小毬がすぐに身を乗り出した。
「私たちは?」
「記載はありません」
「行きます!」
「だって先輩だけ連れていかれるの、嫌です」
千燈も腕を組んだ。
「私もついていく。鷺宮家が玄兎くんをどう扱うのか、気になるから」
「私も行く」
依澄まで静かに加わる。
透羽は三人を見回した。
「恐らく、内部には入れません」
「門の外で待ちます!」
小毬は即答した。
二十年前の封印事故を知り、自分を「器」とした側の家だ。そこなら、死亡・再構築の前後で起きた連続した記憶欠損についても、以前から把握していた可能性がある。
「俺は行くよ。二十年前、俺に何があったのか、ちゃんと知りたい」
玄兎は透羽を見る。
「透羽も知りたい?」
「知るべきだと思っています」
「使命だから?」
透羽はすぐには答えなかった。
「それだけではありません」
今は、それで十分だった。
十五時までには時間がある。
正午前、五人は予定どおり学食へ向かった。
昨夜、群れ日記に書いた『明日、五人で昼飯を食べる』の、その明日が来ている。
いつもの席に着くと、透羽は自然に玄兎の隣へ座った。依澄はメニューを開く前にプリンの棚を確認している。
「私は今日もプリンが好き」
「昼まで変わらなかったな」
「珍しい」
玄兎もメニューを開いた。
今日の日替わり定食。
『鶏の照り焼き』
その文字を見た瞬間、小毬の表情が少しだけ変わった。
「玄兎先輩。一昨日も、それでした。別のものにします?」
玄兎の手が止まる。
写真にはある。けれど、一昨日の味は玄兎の中にない。
少し考えてから、玄兎は首を横に振った。
「いや。もう一回、同じの食べる」
「一昨日の味を取り戻すためじゃないよ。今日は、今日の味として覚えたい」
小毬は目を潤ませながら笑い、自分のメニューでも照り焼きを指した。
「じゃあ、私もこれにします」
「私も」
透羽がメニューを閉じる。千燈と依澄も同じものを選び、五人分の注文が揃った。依澄だけは最後にプリンを一つ加えた。
料理が届く。
小毬はサイドメニューの唐揚げへ一度だけ目をやり、何も取らずに箸を持った。
「今日は我慢します」
玄兎も箸を取り、一口食べる。
甘い醤油。生姜。少し焦げた鶏皮の香り。
噛むたびに、肉汁と濃いタレの味が広がる。
小毬が期待するように覗き込んだ。
「玄兎先輩、今日の照り焼きはどうですか?」
玄兎はゆっくり飲み込む。
「うまい。これなら家でも作れそうだな」
小毬の目が大きくなった。
「一昨日も、まったく同じこと言ってました!」
玄兎は少し驚き、それから笑った。
「そっか」
小毬は箸を置き、少しだけ声を落とした。
「そのあと、今度は五人で作ろうって約束したんです。先輩は、透羽先輩には人参を切らせないって」
「それも、俺は覚えてない」
「はい」
小毬は一度だけ寂しそうに笑ってから、すぐに顔を上げた。
「じゃあ、今日もう一回約束してもいいですか?」
玄兎は少し考え、頷いた。
「いいよ。今度、五人で作ろう」
「はい!」
玄兎はもう一口食べた。
五人は食事を終えると、鷺宮家へ向かった。
◇
鷺宮家は、朽木ヶ丘市北部の古い住宅地と山の境目にあった。
大きな門と長い塀。その内側には古い日本家屋がいくつも連なり、奥には小さな社が見える。
そして何より、水が多かった。
庭を細い水路が走り、池や手水鉢だけでなく、雨水を集めるための設備まで各所へ組み込まれている。
「透羽のために作ったみたいな家だな」
玄兎が言うと、透羽は少しだけ眉を寄せた。
「私のためではありません。術式運用のためです」
門の前で、小毬が鼻を動かした。
「水と札と、人と、怪異避けの香り。いろんなものが重なってます」
千燈は門の上を眺めた。
「結界もかなり古い。吸血種の私は、たぶん嫌われるな」
依澄が興味深そうに一歩前へ出た。
その瞬間、門柱から垂れた白い紙垂が、風もないのに小さく震えた。
透羽の表情が硬くなる。
「結界が依澄さんに反応しています。そこまでにしてください」
依澄は驚かなかった。
「やっぱり、人間じゃない?」
「今それを決める必要はない」
玄兎が言う。
「うん」
依澄は素直に一歩下がった。
ほどなくして門の内側から白装束の女性が現れ、深く頭を下げた。
「透羽様。お待ちしておりました」
「こちらの三名は同行者です」
「外待合まではご案内できます」
「玄兎は」
「当主がお待ちです」
玄兎は小毬たちを振り返った。
「行ってくる」
小毬は何か言いかけて、結局口を閉じた。千燈も手を振るだけにした。
依澄だけが静かに言う。
「待ってる」
「分かった」
透羽が玄兎の隣へ並ぶ。
「行きましょう」
「うん」
二人で門をくぐる。
三人を外に残しても。
玄兎は不思議と、一人になる気はしなかった。
◇
通されたのは客間ではなく、畳敷きの広間だった。
正面には鷺宮家の当主――透羽の祖父にあたる老人が座り、その両脇に年配の男女が数名控えている。
玄兎が座ると、最初に差し出されたのは茶ではなく、一枚の書類だった。
『経過観察措置同意書』
その下に、大学への登校停止、鷺宮家管理施設への移動、七十二時間の外部連絡制限と並んでいる。
透羽が文面を読み終えるより先に、顔を上げた。
「当主。私はこの措置に反対です」
「署名を」
老人は透羽の言葉を受けても表情を変えず、玄兎へ告げた。
玄兎はペンを取らなかった。
「理由を先に聞きます」
「《還月》単独が原因とはまだ断定できん。だが、連続した時間が欠けている以上、七十二時間、人格照合と封印反応を継続して確認する必要がある」
「理解するための情報を、まだ見せてもらってません」
広間の空気が変わった。
透羽が玄兎を見る。止めるためではない。続きを待っている目だった。
「二十年前の記録があるんですよね」
「ある」
「六歳の時の記録も」
「ある」
「それを見ないまま、閉じ込められる書類に署名はしません」
当主はしばらく玄兎を見つめたあと、脇の術者へ視線を送った。
術者が持ってきたのは、紐で綴じられた薄い資料束だった。表紙の大半は黒く伏せられている。それでも、下の方に自分の名前だけが見えた。
『外部器――鵺代玄兎』
玄兎の指が止まる。
「外部器」
「玄兎」
透羽が低く呼んだ。
「大丈夫。読む」
大丈夫ではなかった。それでも玄兎は表紙をめくった。
最初の頁には、二十年前の日付と、朽木ヶ丘市地下の封印群で破断が起きたことが記されていた。続く頁には複数の管理家系の印が並んでいる。
その一つに、鷺宮の家紋があった。
透羽の呼吸が止まる。
「……鷺宮家が承認している」
「当時、お前は生まれていない」
当主が言う。
「そういう問題ではありません」
透羽は資料から目を離さなかった。
玄兎は次の頁をめくった。
生後間もない乳児を、漏出した怪異を一時的に収める外部器として使用すること。器の維持のため、損傷時には再構築機構を作動させること。
文章の端に、《還月》と後に呼ばれる術式系統の古い符号が残っている。
「……待って。《還月》って、俺が勝手につけた名前じゃなかったのか?」
当主が資料へ目を落とす。
「少なくとも、この系統の呼称は、お前が生まれる前から存在している」
玄兎は符号を見つめた。
「じゃあ、俺はなんでその名前を知ってた?」
誰も答えなかった。
「これが、俺の能力じゃないって意味か」
「そうだ」
「俺を生かすためじゃなく、入れたものを逃がさないために作った」
当主は否定しなかった。
「昔から怪異が見えてたのも、このせいか」
「そうかもしれません。怪異を収めた時に、玄兎に見えるものまで変わったのなら」
透羽の視線も、そこで紙から動かなくなった。
玄兎は資料を閉じそうになった。
そこで、別の紙が束の間から覗いていることに気づく。
六歳。
自分の誕生日から数えれば、事故の年齢と一致する。
「これも見ます」
「玄兎」
今度は透羽の声に迷いがあった。
「見たくないなら、ここで止めてもいいです」
玄兎は紙の端をつまんだまま、一度だけ目を閉じた。
知らないまま帰れば、今日だけは楽かもしれない。けれど、また同じように時間が欠けた時、結局ここへ戻ってくる。
「いや。見る」
頁を抜き出した。
そこには二種類の記録が重ねて綴じられていた。
一枚は一般の救急受診記録の写し。事故後に一時的な意識消失はあったものの、病院到着時には会話ができ、重大な外傷なし。
もう一枚は、鷺宮家を含む封印管理側の内部記録だった。
事故直後、短時間だけ心拍と呼吸の停止に相当する反応。
直後に再構築反応。
生命活動は回復。
その下にだけ、赤い印が三日分続いていた。
『認知照合――不安定』
『人格照合――不安定』
玄兎は二枚を畳の上へ並べた。
「病院では、その日のうちに喋ってる。なのに、こっちは三日間、俺が俺かどうかを測ってた」
「測定値が安定しなかった」
「俺の家族は?」
「知らない」
「俺も?」
「当時の本人へ、この記録を開示した形跡はない」
玄兎は赤い三本の印を見つめた。
死んでいた三日間ではない。普通に話す六歳の自分を、家族の知らないところで『同じ人間か』と測っていた。
「その三日の前後で、俺が同じ人間だったかは?」
当主は答えを急がなかった。
「証明できない」
「別人になった証拠は」
「ない」
玄兎は少し笑った。笑うしかなかった。
「一番嫌な答えですね」
「分からないことを、都合よく決めるわけにはいかん」
「そこだけは同意します」
玄兎は同意書へ視線を戻した。
七十二時間の隔離。外部連絡制限。
今度は、その文字がさっきよりはっきり意味を持って見えた。
「でも、これにはまだ署名しません」
「君が死んで戻る時、封印まで影響を受ける可能性がある」
「可能性ですよね」
「過去の記録では、再構築の前後で、君の中にいる怪異の位置や封印の状態、それに君自身の認知を示す数値まで変化している」
「なら、俺を閉じ込める前に今の俺を調べてください」
当主の眉が僅かに動いた。
玄兎は透羽を見る。
「人と怪異の境界を見る術があるって、前に言ってたよな」
透羽は一瞬だけ息を止めた。
「《水鏡検分》なら。玄兎と怪異の境目を、水に映して見ます。ただ……安全とは言い切れません」
透羽は当主を見た。
「許可が必要です」
「申請は却下する」
即答だった。
「なぜですか」
「分けようとすれば、中の封印が攻撃とみなす。自動で閉じるかもしれん」
「だからといって、今の玄兎を見ないまま隔離するんですか」
「透羽。お前は管理者だ」
「だから必要だと言っています」
「私情で判断していないと言えるか」
広間が静まった。
透羽の指が膝の上で強く組まれる。
玄兎は止めようとした。だが透羽は先に口を開いた。
「言えません」
「透羽」
「私情はあります。昨日、死んだ玄兎が戻るのを待っていました」
透羽は当主を見た。
「でも、今ここで話している人を、古い紙の『器』だけで決めないでください」
「玄兎一人と、この街の四十万人を比べてもか」
透羽はすぐには答えなかった。
玄兎も答えられない。
簡単に片方を選べる問いではない。
だから玄兎は、畳の上の同意書を自分の方へ引いた。
署名欄の上へ、ペンで一本の線を引く。
「比べる前に、調べます」
「玄兎」
「俺が本当に今すぐ閉じ込めないと危ないなら、その結果を見てから考える。何も確かめずに、自分で自分を危険物扱いするのは嫌です」
当主と玄兎の視線がぶつかる。
「もし検分の途中で自動封鎖が動けば、術式は中の怪異だけでなく、君自身まで封印対象として扱うかもしれない。最悪の場合、君と怪異を分けられないまま、一緒に封じられる。それでもやるか」
怖かった。
水の中から、怪異だけを剥がしたあと。
何も残らない可能性を想像するだけで、喉が乾く。
玄兎は、昼に食べた照り焼きの甘い醤油と生姜の味を思い出した。
それを覚えている自分が、今ここにいる。
「やります」
玄兎は答えた。
「今日の俺がいるか、自分で確かめたい」
長い沈黙のあと、当主は同意書を裏返した。
「《水鏡検分》を許可する」
◇
検分場は、鷺宮家のさらに奥にある小さな水殿だった。
石造りの床の中央に、円形の浅い水盤が設けられている。水深は足首ほどで、四方には白い札が貼られていた。高い天井から細い光が差し込み、水面へ静かな筋を落としている。
「見るだけ?」
「本来は。異常が出たらすぐ止めます」
透羽は水盤を示した。
「靴と靴下だけを脱いで、中央へ」
玄兎は裸足で水へ入った。足首を包む水はひやりと冷たく、そのありふれた感触だけで、これから自分の正体を覗かれるのだという緊張が急に現実味を帯びた。
「透羽。少し不安だ」
玄兎が正直に言うと、透羽はごく自然に答えた。
「私がいます」
玄兎は彼女を見る。
「うん」
その一言で、本当に少し安心した。
四方に術者が配置され、当主も少し離れた場所から見守っている。
透羽は水盤の縁へ膝をつき、指先を水面へ触れた。
「《水鏡》」
透明な水が、ほとんど音もなく波打った。
玄兎の足元から幾重もの波紋が広がり、水面全体が鏡のように変わっていく。
そこへ映った玄兎は、一人ではなかった。
正確には、一つの身体の中に無数の影が重なっていた。
兎の耳に似た輪郭や鳥の翼、獣の顎、細長い蛇のようなものが、名前も分からない一つの異形を形作っている。
それらが玄兎の輪郭の内側で、ひしめき合うように蠢いている。
「……気持ち悪いな」
「動かないでください」
透羽の声も硬い。
水面の輝きが増していく。
「今から、玄兎と怪異の境目をはっきりさせます」
玄兎は目を逸らさなかった。
やがて、無数の影の中心に黒い人型の輪郭が浮かび上がった。今にも周囲の異形へ溶けてしまいそうなほど淡く、不鮮明ではある。それでも、その輪郭は他のどれとも混ざらず、確かに一人の人間の形を保っていた。
「これが、俺?」
「中心に、他の怪異反応とは別のまとまりがあります。その可能性は高いです」
玄兎はゆっくり息を吐いた。
胸の奥で固まっていた何かが、ほんの少しだけ緩む。
その瞬間だった。
水殿の四方へ貼られていた札が、一斉に白い炎を上げた。
「っ!」
「玄兎、動かないで!」
鏡になっていた水面へ、白い格子が走った。
玄兎の像が縦と横へ細かく区切られ、透明な標本板のような薄い層へ分かれていく。一枚目には現在の身体、次の一枚には血管と骨、その奥には兎の耳や獣の顎を持つ影。さらに中心には、先ほど見えた人間の輪郭が挟まれていた。
水鏡が境界を「見る」だけでなく、境界ごとに玄兎を解体し始めている。
一枚が身体から横へ引き出されると、玄兎の右手から温度の感覚が消えた。次の一枚がずれると、自分の左脚がどこにあるのか分からなくなる。目では立っていると確認できるのに、身体の内側から返ってくるはずの位置感覚だけが抜き取られていた。
標本板の縁へ、鷺宮家の古い術式文字が浮かぶ。
『収容物』
『器壁』
『由来不明』
ところが中心の人型にも、《本人》ではなく《由来不明》の文字が刻まれた。
玄兎は息を呑んだ。怪異と自分を分けるための術が、自分まで異物として取り除こうとしている。
「何だこれ!」
「玄兎の中の封印が、検分を拒んでいます!」
透羽が立ち上がる。
天井近くの結界から、白い人型の式が四体、音もなく降りてきた。顔のない身体の各所には、鷺宮家の札が貼られている。
当主の声が飛ぶ。
「玄兎を水盤中央へ固定しろ!」
「待ってください!」
透羽が振り返る。
「これは検分のはずです!」
「中の怪異が封印に反応している。このままでは外へ溢れる危険がある!」
白い式の一体が玄兎の肩を掴んだ。
水面から立ち上がった透明な標本板が、玄兎の胸を前後から挟んだ。
「っ……!」
圧迫されているのは肉体ではない。誕生日、大学名、好きな飲み物、四人の顔。玄兎を一人の人間として形作る情報が、順番に薄い板へ転写されていく。転写されたものは自分の記憶として感じられなくなり、資料で読んだ他人の経歴のように遠ざかった。
「玄兎と怪異を分けられないなら、そのまままとめて封じる!」
「そんなことはさせません!」
透羽が指を振るう。
「《白羽》!」
水滴が鋭い刃へ変わり、玄兎を掴んだ式の腕を切断した。
「透羽様!」
「邪魔をしないで!」
透羽は水盤へ飛び込み、玄兎へ手を伸ばした。
「玄兎、手を!」
「うん!」
玄兎も必死に腕を伸ばす。
指と指が触れ、透羽の手が玄兎の手首を強く掴んだ。
冷たい水の中なのに、その手だけが妙にはっきりと感じられる。
しかし分離は止まらなかった。
玄兎と透羽が繋いだ手まで、水鏡の中では二枚の別々な標本へ振り分けられる。触れているという事実は見えるのに、透羽の手の温度も、助けられているという安心も感じられない。
標本板が水殿の壁へ並んでいく。笑う、怒る、死ぬのが怖い――どれも数値を添えた一枚の板になった。
それらに囲まれた人型だけが、空洞に見えた。玄兎は、並べられた板のどれにも手を伸ばせなかった。
それでも術式は無感情に判定を出した。
『固有人格――検出不能』
その文字を信じた瞬間、本当に自分がいなくなってしまう。玄兎は透羽の手を握っている事実だけを頼りに、声を絞り出した。
「うるさい!」
玄兎は水を蹴り、身体を引き上げようとする。
さらに二体の式が背後から迫った。
「透羽!」
「分かっています!」
透羽が片手を離し、水を大きく旋回させた。
「《禊牢》!」
二体の式が水の球へ閉じ込められる。
残る二体が玄兎の肩と腕へ食らいついた。
その瞬間。
玄兎の頭に、ほんの一瞬だけ「死ねば」という考えが浮かんだ。
死んで、再構築されれば。
この場を脱せるかもしれない。
写真の照り焼きが脳裏に浮かんだ。今日の味は分かる。一昨日の味は、もう誰に聞いても自分のものには戻らない。
次まで手放すのは嫌だった。
「今、死ぬ方を考えた。でも、やめた」
透羽の目が大きく開く。
「なら」
透羽は玄兎の手を握り直した。
「助けを呼んでください!」
「一人じゃ無理だ。外の三人を呼んで!」
「結界を内側から開けます!」
透羽は空いた手を振り、水の流れを水殿の壁へ叩きつけた。
「小毬! 千燈! 依澄!」
玄兎も叫ぶ。
厚い結界が震えた。
◇
外待合で最初に反応したのは小毬だった。
「今、先輩の声しました!」
椅子を蹴るように立ち上がる。
千燈も同時に顔を上げた。
「どっち?」
「奥!」
三人は走り出した。
「お待ちください!」
廊下にいた術者が前へ出る。
「ここから先は立入禁止です!」
「中から呼ばれました!」
「検分中です。外部者は――」
言葉の途中で、廊下の床を細い水の筋が走った。
水は三人の足元を通り、水殿へ続く扉の封印札まで伸びる。次の瞬間、札の中央に一本だけ切れ目が入り、閉じていた扉がわずかに開いた。
術者の顔色が変わる。
「入れば封鎖術に巻き込まれる可能性があります!」
小毬は一度だけ足を止めた。
それでも、扉の向こうからもう一度、玄兎の声がした。
「小毬! 千燈先輩! 依澄!」
「行きます」
「私も」
依澄が続く。
千燈は苦笑しながら肩をすくめた。
三人は、開いた隙間へ身体を滑り込ませた。
水殿へ入った小毬が見たのは、胸近くまで黒い水へ沈んだ玄兎だった。
「先輩!」
「小毬!」
小毬は迷わず水盤へ駆け寄り、玄兎の腕を掴んだ。
「手、離さないでください!」
「頼む!」
引こうとして、小毬の表情が歪む。
水の底から伸びる影が、玄兎の脚へ何本も絡みついていた。
「匂いが……多すぎる」
怪異の匂いが幾重にも重なり、いつもなら真っ先に分かる玄兎の匂いが埋もれている。
「小毬?」
「待ってください。今、探します」
小毬は目を閉じた。
一度、二度と息を吸う。
顔から焦りが消えない。
「……分からない」
その一言に、玄兎の胸が冷えた。
水中の影がざわめく。
『器』
小毬の耳に届いたわけではないはずの声へ、彼女が歯を食いしばった。
「違う。まだ終わってません」
玄兎の腕を握ったまま、さらに顔を近づける。
「今日、学食で照り焼き食べました?」
「食べた」
「私、唐揚げ取りました?」
「今日は取ってない」
「そうです。私、我慢しました」
「そこ自慢する?」
玄兎が息を切らしながら返した、その瞬間。
小毬の顔が上がった。
「いた」
小毬は玄兎の腕を握り直した。さっきまで迷っていた鼻先が、もう揺れない。
「こっちです。引きます!」
その横では、千燈が白い式の一体を受け止めていた。
鋭く伸ばした爪が、式の胸元に貼られた制御札を切り裂く。札を失った式は力を失い、水面へ崩れた。
「千燈!」
「血は読んでない!」
もう一体の式が迫る。
千燈は玄兎の方へ伸びかけた指を引き、代わりに式の腕を受け流した。
水鏡の標本板が激しく震えた。
『固有人格――検出不能』
依澄はその文字を見上げていた。
彼女の周囲に蝶は浮かばない。夢を重ねる代わりに、水盤の縁へしゃがみ込み、ただ玄兎へ手を差し出した。
「玄兎。明日、何食べる?」
「……今?」
「今」
玄兎は一瞬だけ考えた。
「知らない。明日になったら決める」
依澄の差し出した手が、ほんの少し近づいた。
「じゃあ、戻って」
「……学食には行く」
「うん」
その答えに反応するように、玄兎を切り分けていた標本板の一枚へ色が戻った。
照り焼きの皮を噛んだ時の、生姜と焦げた醤油の味。写真には残らないものが、まだ自分の中にあった。
「透羽!」
「今です!」
透羽が玄兎の腕を両手で掴み直す。
「上がって!」
「うん!」
小毬が引く。千燈が残った式を押さえる。依澄は差し出した手を引かず、玄兎が自分で掴むのを待つ。
玄兎はその手を掴んだ。
ずるり、と右脚が黒い影から抜ける。
続いて左脚。
透羽と小毬の力で、身体が一気に水盤の外へ引き上げられた。
玄兎は濡れた石床へ倒れ込み、激しく咳き込んだ。
「玄兎!」
透羽がすぐ隣へ膝をつく。
「大丈夫ですか」
「……生きてる」
「それは見れば分かります」
「今は、そこ大事だろ」
小毬が玄兎へ抱きつく。
「先輩!」
「小毬、濡れる」
「もう濡れてます!」
千燈は水のついた髪を後ろへ払い、玄兎を見た。
「血、読む?」
玄兎は少し考えた。
「今はいい」
「了解」
千燈はあっさり手を引いた。
依澄も水盤の縁から離れる。輪郭は薄くなっていない。
玄兎は依澄へ顔を向けた。
「今日はメロンパン、だったな」
「うん」
そのやり取りを見ていた当主へ、透羽が向き直った。
「検分結果を確認してください」
水面にはまだ、無数の怪異片が残っている。
その中心に、先ほどより輪郭の濃くなった人型があった。
当主は長くそれを見つめた。
「人格境界は確認された」
「なら、最初の措置は撤回してください」
当主はすぐには答えない。
玄兎は床に座ったまま、濡れた袖から水を絞った。
「全部分かったわけじゃないです。次に再構築した時も同じかは分からない」
「保証はない」
玄兎は濡れた手を一度握り、開いた。
「今の検分結果で、七十二時間の隔離は必要ですか」
当主はすぐには答えなかった。
玄兎は自分の足で立ち上がった。
少しふらつく。
透羽が支えようとしたが、その前に玄兎は自分で踏ん張った。それから、必要だと思い直したように透羽の肩を借りる。
「無理しないでください」
「今、やめた。一人で立てるふり」
透羽の目が僅かに揺れた。
当主は畳の広間から持ってこさせた同意書をもう一度受け取った。
玄兎の署名欄には、さっき引いた一本の線が残っている。
老人はその紙を二つに折った。
「即時収容は保留する」
小毬が大きく息を吐く。
「ただし七十二時間、毎日状態を報告。単独行動は禁止。大学への登校は、異常がなければ認める。次に死亡を伴う再構築、あるいは封印へ大きく影響する反応が起きた場合は、改めて判断する」
玄兎は頷いた。
「分かりました」
玄兎は四人の方へ寄った。小毬はまだ腕を離さず、透羽の肩も、必要なだけ借りている。千燈が壊れた式の札を拾う横で、依澄は玄兎の空いた側へ並んだ。
◇
鷺宮家を出た時には、午後六時を過ぎていた。
門を抜けた途端、小毬が大きな声を上げる。
「肉!」
「お腹空きました!」
「三時間以上待ってたもんな」
千燈は肩を回した。
「私も何か飲みたい」
「私はメロンパン」
依澄が静かに言う。
「じゃあコンビニ寄るか」
五人で歩き出す。
夕方の山側は、昼より少しだけ涼しかった。蝉の声も遠くなっている。
透羽だけが、少し後ろを歩いていた。
玄兎はすぐに気づき、歩幅を緩める。
「昨日の捻挫は?」
「もうほとんど治っています」
玄兎はそれ以上言わず、歩調をそのままにした。
「合わせなくていいです」
「俺も疲れた」
「……そうですか」
二人の歩みが少し遅くなる。
前を歩く三人との距離が開いた。
「今日の検分、怖かったですか」
「怖かった。俺の中に俺がいなかったら、どうしようって思った」
口にした途端、胸の奥に押し込めていたものが少しだけ形を持った。
水鏡の空洞は、目を逸らした今も見える気がした。
「私も怖かったです」
透羽はふいに足を止めた。
数歩先へ進んでから気づいた玄兎も立ち止まり、振り返る。
「どうした?」
透羽はすぐには答えなかった。
いつものように言葉を選んでいるのかと思った次の瞬間、彼女は一歩だけ距離を詰めた。
そして、玄兎の背へ両腕を回した。
「……透羽?」
あまりに予想していなかったことで、玄兎の身体が固まった。
強く締めつける抱き方ではない。逃がさないためでも、怪異から庇うためでもない。ただ、そこにいることを確かめるように、透羽の腕が静かに背中へ回っている。
黒髪が頬の近くへ触れ、微かな石鹸の匂いがした。肩越しに伝わる体温は、昨日、死にかけた自分へ必死に水を巡らせていた時と同じはずなのに、今はまるで違って感じられた。
「今だけは、『大丈夫』と言わなくていいです」
耳の近くで、透羽の声がした。
図星だった。玄兎は返す言葉を失い、宙に浮かせていた両手をゆっくり下ろした。
「助けを呼んでくれて、よかった」
透羽の腕に、ほんの少し力がこもる。玄兎は『大丈夫』を飲み込み、しばらくそこにいた。
玄兎は目を閉じた。
水殿の冷たさがまだ皮膚の奥に残っている気がしていた。黒い水に引かれる感覚も、身体の内側を覗かれる不快感も、消えたわけではない。
けれど今は、それより近いところに透羽の体温がある。
「……まだ、怖い」
「はい」
透羽は笑わなかった。それ以上の返事も要らなかった。
少し迷ってから、玄兎も透羽の背中へ片腕を回した。抱き返すというより、そこにいることを確かめるために触れた程度だった。
それでも透羽は離れなかった。
「……こういうこと、透羽もするんだな」
「必要だと思ったので」
「合理的判断?」
「今は、それでいいことにしてください」
玄兎は透羽の肩越しに小さく笑った。
しばらくして、透羽の方から腕を解いた。距離が戻ると、夕方の風が冷たかった。玄兎は濡れた袖を直した。
透羽が先に歩き出し、玄兎もその隣へ並んだ。
少し先では、小毬たち三人が立ち止まって待っている。玄兎は何も言わず、透羽と一緒にその三人へ追いついた。
◇
帰宅前、五人は一度大学へ戻り、久住研究室へ寄った。
玄兎は研究室の机に向かい、いつもの保管場所から紺色のノートを取り出して開いた。
玄兎は『水殿で、三人を呼んでもらった』と書いた。続けて、『千燈先輩には、血を読んでもらわなかった』。
今日だけで、二十年前のことまで分かったわけではない。資料は資料で確かめればいい。
最後に『明日も五人で昼飯。何を食べるかは明日決める』と足した。
「よし」
玄兎はノートを閉じ、久住研究室のいつもの保管場所へ戻した。
◇
五人は、駅へ向かう途中のコンビニへ寄った。
小毬は迷わず焼肉弁当を選び、千燈はアイスコーヒー。依澄は昼から気にしていたメロンパンを手に取り、透羽は苺ミルクを買った。玄兎は棚の前で少し迷ってから、肉まんを一つ取る。
依澄はメロンパンの袋を開けた。
店を出たあと、駅へ向かう道は途中で二つに分かれた。右へ行けば玄兎の家への近道、左へ行けば四人と同じ駅を経由する遠回りだ。
玄兎の足が、わずかに右へ向く。
数歩先で、小毬たちは左の道へ入りかけていた。千燈が振り返り、依澄がメロンパンの袋を持ったまま足を止める。透羽も何も言わず待っていた。
玄兎は右の近道を見た。
それから身体の向きを変え、左へ歩いた。
「そっち行く」
「家、遠回りになりますよ?」
「知ってる」
小毬が笑い、千燈は何も言わず歩幅を緩めた。依澄もメロンパンを持ったまま玄兎の分だけ場所を空ける。
透羽だけが、少し遅れて玄兎の隣へ並んだ。
数歩進んだところで、透羽が前を向いたまま小さく付け足した。
「ただ、少しくらい……私の方へ戻ったと思ってもよかったのに、と考えただけです」
玄兎の足が止まる。
透羽も一歩遅れて止まり、自分の言葉を理解したらしい。
「……今のは忘れてください」
「今日それ言う?」
「言います」
「じゃあ無理」
前を歩いていた三人が一斉に振り返った。
「聞こえました!」
小毬が即答し、千燈は楽しそうに笑う。
「私も」
依澄まで素直に頷いた。
「聞かないでください!」
透羽の声が夕方の道へ響いた。
◇
帰宅後、共有チャットで小毬から『日記は!?』と届き、『書いた』と返した。千燈からは『お疲れ』、依澄からは明日の好きなものはまだ分からないと届いた。
最後に透羽。
『帰宅しましたか。』
『帰った。体調も記憶も今のところ問題なし。』
少し迷ってから、玄兎はもう一文送る。
『帰り道の話も覚えてる。』
既読になった。
返事まで妙に時間がかかった。
『その話まで、わざわざ言わなくていいです。』
『でも覚えてる。』
さらに少し待って。
『……それなら、いいです。』
玄兎は笑って、スマートフォンを机へ置いた。
照り焼きの写真を閉じた朝より、机に伏せたスマートフォンが少し近く感じられた。
◇
同じ夜、鷺宮家の自室では、透羽が《水鏡検分》の記録を端末へ入力していた。
『対象:鵺代玄兎』
『内部に複数の怪異反応を確認』
『中心部に、他の怪異反応から独立した人格境界を確認』
『外部拘束術に対し、対象本人は怪異側への同化を拒否』
『対象本人が外部支援を要請し、自力で現実側への帰還行動を選択』
『人間性を確認』
入力しかけたまま、透羽の指が止まる。数秒後、その一行を消した。
代わりに書き直す。
『対象を「器」のみとして扱うことは不適切と判断する。』
透羽はその文章を送信した。ほどなくして端末の画面が更新される。
今日の検分によって、関連資料の閲覧権限が一段階だけ仮開放されている。
「……」
透羽は新しい資料名を見つめた。
『中央大封印・外部器運用記録』
透羽は資料を開いた。冒頭には、これまで黒塗りで伏せられていた正式名称が初めて表示されていた。
『中央大封印』
『正式呼称――《百獣繭》』
「ひゃくじゅう……まゆ」
透羽は小さく読み上げた。
さらに画面を追う。
『二十年前の破断事故に際し、外部器として鵺代玄兎を使用』
『内部夢層への影響――』
その下に。
別の名字があった。
『蝶ヶ森――』
「……」
透羽の指が止まる。
続きを開こうとした瞬間、画面が暗転した。
『一時閲覧権限の有効時間を終了しました』
「依澄さん……?」
玄兎だけではない。
《百獣繭》は、依澄とも繋がっている。
透羽はすぐには誰にも連絡しなかった。
まだ確証がない。
――第十三話・了