雨が、下から降っていた。
最初にその異常へ気づいたのは、白狼院小毬だった。
午前八時十二分。朽木ヶ丘大学、南門。
青葉寮の一件から、四週間近くが過ぎていた。その間、玄兎はいつも通り講義へ出て、四人と昼を食べ、調査があれば一緒に動いた。五人の共有ノートにも、その日の出来事が少しずつ積み重なっている。
透羽は《還月》についても追加の記録を探し続けていたが、鷺宮家から新たに開示された情報はまだなかった。
空は一面の曇天で、天気予報では昼過ぎから雨になるらしい。昨夜も短い雨が降っていたため、道路脇の側溝に水が残っていること自体は何もおかしくない。
問題は、その水だった。
鵺代玄兎がコンビニの紙カップを口元へ運びかけたところで、小毬が不意に立ち止まった。
「玄兎先輩、ちょっと待ってください。あそこ……何か変です」
普段よりわずかに低い声だった。
玄兎も足を止め、小毬が指した側溝へ目を向ける。
最初は、細かな水滴が朝の風に巻き上げられているだけに見えた。
しかし違う。
側溝の底に溜まった水から、一粒、また一粒と雫が浮かび上がり、風にも揺らされず真上へ昇っている。
落ちてくるはずの雨を逆再生したような、不自然な動きだった。
玄兎が紙カップを下ろすと、小毬は側溝の前へしゃがみ込んだ。
「匂いも、普通の水だけじゃありません」
小毬は鼻先をわずかに動かした。水そのもの。濡れた土。苔。古い鉄。その奥に、彼女にしか分からない異質な気配が混じっているらしい。
やがて小毬の表情が曇った。
「怪異の匂いもあります。でも……玄兎先輩の匂いも、昨日より濃いです」
「その匂い、俺自身からしてるのか?」
「はい。前から少し混ざってる怪異っぽい匂いが、今日ははっきりしています。別人みたいってほどではないですけど、いつもより近いというか……強いというか」
玄兎は無意識に左鎖骨の下へ触れた。
あの非常階段で身体が戻る時にも、黒い痣は反応していた。その働きは、まだ分からない。玄兎は胸元からゆっくり手を離した。
「青葉寮の時のあれが、何か関係してるのかな」
「分かりません。でも、透羽先輩にはもう連絡しました」
小毬は得意げにスマートフォンを見せた。
画面には、『透羽先輩! 大学の水が上に落ちてます!』『玄兎先輩の怪異臭も濃いです!』『南門にいます!』と勢いのある文章が並んでいる。
玄兎は二行目を見て眉を寄せた。
「『怪異臭』って表現だけ、どうにかならなかった?」
「一番分かりやすいです。玄兎先輩は玄兎先輩なので、別に怪異扱いしてるわけじゃありません」
「その説明で人として傷つかなくなるわけじゃないんだけどな」
小毬が笑い、玄兎もつられて口元を緩めた。
その直後、二人のスマートフォンがほとんど同時に震えた。
大学からの緊急通知だった。
『北キャンパス一部区域で漏水を確認』
『旧図書館・旧研究棟周辺は安全確認のため立入禁止』
玄兎は通知を読み終え、側溝から昇っていく水滴をもう一度見る。
「あっちでも水が逆に流れてるなら、全部つながってるかもしれません」
続けて透羽からメッセージが届いた。
『その場から動かないでください。今向かっています。』
玄兎はすぐに『分かった。待ってる』と返信した。
二人は南門の屋根の下まで下がり、側溝から距離を取った。玄兎は紙カップをベンチ脇へ置き、逆流する水だけを遠くから見守る。
時間が経つにつれ、浮かび上がる雫は少しずつ増えていった。地面へ落ちたばかりの水滴まで細い列を作り、空へ吸い上げられていく。
玄兎は何度か旧図書館のある方角へ目を向けたが、南門を離れなかった。
◇
午前八時十九分。
最初に到着したのは透羽だった。
髪を結ぶ余裕もなかったらしく、長い黒髪を背中へ流したまま、南門まで駆けてくる。その少し後ろから、千燈と依澄も足早に現れた。
透羽は呼吸を整えた。
「大学へ向かっている途中でした。何が起きているか確かめますので、側溝から少し離れてください」
透羽はすぐにしゃがみ込み、指先へ普通の水を一滴だけ集めた。
術を通した雫が淡く光り、逆流している水へ近づいていく。
ところが、二つの水が触れ合う寸前で、透羽の水だけが押し返された。
彼女の眉がわずかに寄る。
「……おかしいですね。この水、私の術にほとんど反応しません」
玄兎もしゃがみ込み、少し距離を取って観察した。
「水ですが、霊的な流れだけが完全に逆転しています。地面へ落ちるはずなのに、別の『下』へ引かれているような……」
透羽の説明を聞いていた依澄が、じっと地面へ目を向けた。
「この水、どこかへ帰ってる感じがする」
玄兎が彼女を見る。
「帰ってるって、この水そのものが?」
「うん。でも、私たちに見えてる方向と、夢の中で感じる方向が違う。上に行ってるのに、下へ戻ってる感じがする」
依澄自身も上手く説明できないらしく、眉間に小さくしわを寄せた。
その横で千燈が空気の匂いを確かめ、笑みを消した。
「地下から、古い血の匂いもする。新しい傷じゃないね。ずっと昔に染みついたものが、水と一緒に浮き上がってきてる感じ」
玄兎の頭に、地域資料室で見つけた封印の記録が浮かんだ。
「二十年前の封印事故と関係してる可能性は?」
「高いと思います」
透羽は立ち上がり、鞄からスマートフォンを取り出した。
「鷺宮家にはすでに連絡しました。大学地下の封印群の一部で、圧力異常が確認されています」
小毬の耳がぴくりと動いた。
「圧力異常って、怪異が中から出ようとしてるってことですか?」
「それならまだ説明しやすいのですが……今回は少し違います」
透羽は画面へ届いた報告を確認してから続けた。
「封印の内部にいる怪異が、外へ逃げようとしているというより、ある一点へ集まろうとしているそうです」
玄兎は嫌な予感を覚えた。
「その一点って、もしかして俺?」
透羽はすぐには答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
左胸の痣が、じわりと熱を持つ。
玄兎が胸元へ手を当てたのを見て、透羽の表情が変わった。
「玄兎、痣が熱を持っているのですか」
「少しだけ。でも、今のところ痛みはない」
透羽は数秒考え、はっきり言った。
「玄兎は、しばらく私のそばにいてください。封印側の集中点が玄兎に合わせて動いている可能性があります」
「分かった。痣に変化があったらすぐ言う」
青葉寮の翌朝に見た、再構築と記憶の不一致をめぐる資料が脳裏をよぎる。結論は黒塗りの向こうで、まだ分からない。玄兎は胸元から手を離し、頷いた。
「分かってる。何より、忘れたくないから」
小毬が玄兎の袖を握る。
「今日も帰ったら群れ日記を書きます。絶対です」
「うん。今日は何を書こうか」
「まず『全員帰った』です。それから昨日の約束どおり、玄兎先輩に鶏の照り焼きを作ってもらいます」
「じゃあ材料買わないとな」
小毬の顔が明るくなる。
「透羽先輩も一緒に作りますよね?」
「もちろんです」
「じゃあ人参は俺が切る」
透羽が真顔で玄兎を見る。
「なぜですか」
「昨日の見たから」
「あれは食べられる形でした」
千燈が声を立てて笑う。
張りつめていた空気が、少しだけ緩んだ。
玄兎も笑った。
千燈が笑みを残したまま言う。
「その話の続きは、帰ってからにしよう」
依澄も小さく頷く。
「私は今日、好きな食べ物をまだ決めてない。帰ってから決める」
◇
午前八時五十六分。
大学は旧図書館周辺の講義を休講にし、立入禁止区域を広げていた。
表向きの理由は、『地下配管の大規模漏水』。
実際、地下へ続く階段からは大量の水が上がってきている。ただし、その流れ方は設備事故では説明できなかった。階段の下から現れた水が段差を一段ずつ這い上がり、床へ落ちた雫まで天井へ吸い上げられていく。
一般学生の退避は完了し、施設管理の職員も旧図書館の外へ下がっている。久住教授は地上に残り、大学側と施設管理の連絡役を引き受けていた。
透羽は、地下封印の流れが逆転し、鷺宮家の管理区画にも異常が及んでいることを久住へ伝えていた。玄兎に反応している可能性も。
玄兎は階段へ視線を戻した。
鷺宮家の増援が到着するのは、早くても九時半前後。ところが、その間にも逆流は強くなっていた。第一管理区画の監視系はすでに応答を失い、遠隔で出した非常遮断の指令も通っていない。
透羽は端末の表示と階段を見比べる。
「入口の管理区画までです。流れを逃がす閉鎖機構が使えれば、手動で逆流を止めます。使えない、あるいは原因が奥にあると分かったら、そこで戻ります」
小毬が階段から昇る水を見る。
「増援まで待ってたら駄目なんですか?」
「待てるなら待ちます。ただ、逆流はすでに地上の排水系へ広がっています。このまま三十分以上放置して第一管理区画を越えれば、旧図書館だけでなく周辺施設まで影響が出る可能性があります」
説明している間にも、階段の手すりについた水滴が上へ滑り、天井へ消えた。
五人は旧図書館の奥へ進んだ。
六月に地域資料室を整理した時には固く閉じていた鉄扉が、今日は半分ほど開いている。扉の内側には深い擦過痕が残り、封印札も途中から裂けていた。
透羽はその場で立ち止まり、奥へ光を向けた。
「ここから鷺宮家の管理区画です。本来なら関係者以外を入れる場所ではありませんが、今回は緊急時の同伴として私が記録を残します」
玄兎は鉄扉の向こうを見てから、透羽へ訊いた。
「俺は地上で増援を待った方が安全じゃないの?」
「集中点が玄兎に合わせて動いています。避難区域に残すと、怪異まで地上へ引くかもしれません。今は私の術が届くそばに」
「分かった。すぐ後ろにいる」
透羽は三人にも、入口と退路の確認を頼んだ。五人とも術の届く範囲からは外れない。
三人がそれぞれ頷く。
透羽はもう一度、鉄扉の向こうを確認した。
透羽を先頭に、玄兎、その後ろへ三人が続く。五人は隊列を崩さず、鉄扉の向こうへ足を踏み入れた。
◇
大学の地下には、想像していた以上に古い水路が広がっていた。
入口付近こそ近代的なコンクリートで補強されていたが、その奥には時代の違う石造りの壁が何層も残っている。
現代の配管の横に明治期らしい煉瓦があり、そのさらに奥から、もっと古い石積みが覗いていた。
大学が建つずっと前から、この場所には何かを封じるための構造が存在していたらしい。
玄兎は懐中電灯を壁へ向ける。
「大学の下に、こんなのがあるなんて知らなかったな。透羽も初めて?」
「はい。管理区画の詳細を閲覧できるのは当主級の権限を持つ者だけです。私は後継候補ではありますが、まだそこまでの権限はありません」
千燈が壁へ顔を近づけた。
触れずに、古い朱文字を読む。
石壁には、薄れかけた印が何度も刻まれていた。
『留』
『眠』
『帰』
その中でも『帰』の字へ近づいた時だけ、玄兎の胸の痣が強く熱を持つ。
小毬もすぐ異変へ気づいた。
「先輩の匂い、また濃くなってます。奥へ進むほど強いです」
透羽は床を流れる水へ意識を向けている。
「この地下水路は、本来、地上から地下の封印へ向かって霊的な流れを集める構造になっています。怪異を鎮め、眠らせるためのものです」
玄兎は、天井へ昇っていく雫を見た。
「それが今は逆転してる。封印が怪異を吐き出してるってこと?」
千燈が横から低い声で言う。
「それか、玄兎くんの方が引っ張ってる」
「今の気配だと、完全には否定できない」
その時、小毬の耳がぴくりと動いた。
全員が黙る。
暗い水路の奥から、ざ、ざ、ざ、と乾いた擦過音が響いてくる。
「足音じゃありません。もっと低い位置です。何かが、床を擦ってます」
懐中電灯の光が届く範囲の外で、壁と天井と床の黒さが、ゆっくり剥がれ始めた。
墨汁を流したような影が幾つも滲み、そのうち三つだけが光の縁まで這い出してくる。
一体は人間ほどの大きさだった。けれど両腕だけが異様に長く、指先を床へ引きずっている。もう一体は四肢を折り畳むように低く這い、顔のあるはずの場所が真っ黒に潰れていた。最後の一体は壁へ張りつき、上半身だけをこちらへ垂らしているように見えた。
どれも輪郭は数秒ともたない。黒い水煙のように崩れ、また別の影と混ざる。その後ろには、数え切れないほどの黒い塊が続いていた。
透羽が即座に前へ出る。
「全員、私の後ろへ。《水鏡》!」
地下水が一気に持ち上がり、巨大な透明の膜となって五人の前へ広がった。
先頭の影が水膜へぶつかった。
衝突音はない。澄んでいた水が、触れられた場所から墨を落としたように黒く濁っていく。
長い腕の影が膜の表面を横へ滑った。
玄兎が反射的に身をずらす。
その手も、同じだけ横へ動いた。
顔でも喉でもない。開いた五本の指が、水膜越しに玄兎の左胸を追っている。
二体目も、三体目も同じだった。
小毬が息を呑む。
「先輩……胸です」
左鎖骨の下。服の内側で、黒い痣が急に熱を持った。玄兎がそこを押さえると、水膜の向こうで何本もの腕が一斉に伸びる。
千燈の声が低くなった。
「玄兎くんを倒したいんじゃない。あそこへ触ろうとしてる」
直後、水路の奥から同じ言葉が重なった。
『帰る』
一つだった声が二つになる。
十になる。
百になる。
『帰る』
『帰る』
『帰る』
玄兎の背筋に寒気が走った。
水膜の左右には回り込める隙間がある。それでも影はそちらへ向かわない。五人のうち玄兎の正面だけに腕が折り重なり、黒い指先が左胸の一点へ集まり続ける。
「……帰るって、俺の中にかよ」
口にした途端、自分の声がひどく近く聞こえた。
透羽は水膜を押し返しながら叫ぶ。
「消滅させるのではなく、一度流路へ戻します。玄兎、右側の古い水門が見えますか?」
玄兎が振り返る。
通路脇に、大きな石造りのバルブがあった。
「これを閉めればいい?」
「完全に閉じるのではなく、別の水路へ流れを切り替えます。かなり固いはずです」
玄兎はすぐ小毬を見る。
「小毬、一緒に頼む」
「任せてください!」
小毬の両腕が部分獣化し、筋肉が強く盛り上がる。
二人でバルブへ手をかけた。
しかし、長年動かされていなかった軸はびくともしない。
「せーのでいくぞ。せーの!」
金属が軋む。
それでも足りない。
千燈が水膜の後ろから駆け寄った。
「私も入る。三人ならいけるでしょ」
三人で力を込める。
ごり、と重い音。
錆びついた軸がようやく回った。
水の流れが脇の水路へ切り替わる。
透羽がすぐに術を重ねた。
「今です。《禊牢》!」
新しい流れが怪異の群れを横へ押し流し、水の檻がその一部を封じ込める。
依澄は奥を見つめたまま、何か別の気配へ意識を向けていた。
「まだ終わってない。もっと奥に、大きいものがいる」
玄兎の胸が強く脈打った。
今までより、はっきり分かる。
呼ばれている。
「俺も感じる。あの奥に何かいる」
透羽は即座に首を振った。
「戻りましょう。ここから先は危険すぎます」
玄兎も最初は頷きかけた。
しかし、その時。
千燈が地上へ飛ばしていた烏と感覚を重ね、顔色を変えた。
「待って。地上でも怪異が増えてる。大学の外にも出始めてるよ。このまま逆流が続いたら、街まで広がる」
依澄も胸元へ手を当てた。
「下にいる大きいもの、まだ眠ってる。でも周りが開こうとしてる。今のままだと……起きる」
その言葉を聞いた瞬間。
透羽の表情が鋭く変わった。
玄兎は見逃さなかった。
「透羽、何か知ってる?」
「存在だけです。詳しいことは、私にもまだ開示されていません」
玄兎は一度だけ目を閉じた。
「分かった。じゃあ止めてから聞く」
透羽は四人の顔を順に確かめた。
「無理だと判断した瞬間に撤退します」
全員が頷き、水路のさらに奥へ進んだ。
◇
地下最深部。
巨大な石の扉が、通路の先を塞いでいた。
扉は中央から半分ほど崩れ、その向こうに井戸のような円形の空洞が口を開けている。
底は見えない。
黒い水だけが、重力を無視して下から上へ噴き上がっていた。
天井一面には巨大な封印紋が描かれ、そこから四方向へ水路が伸びている。
透羽は息を呑み、慎重に周囲を確認した。
「地下封印群の中枢に近い場所です。ここで流れが逆転しているから、上の水路まで影響が出ています」
玄兎は井戸の縁へ近づきすぎない位置から、暗い底を覗いた。
「何体くらい封じてる?」
「正確には分かりません」
千燈が少し顔をしかめる。
「少なくとも、私は数えたくないくらいいる」
小毬は鼻を押さえたまま井戸を見つめた。
「この下にもあります。玄兎先輩に混ざってるのと、すごく近い匂いです」
玄兎が返事をする前に、井戸から噴き上がっていた黒い水の一筋が不自然に折れた。
本来なら天井へ向かうはずの流れが、空中で弧を描いて玄兎へ向く。
透羽が水を打ち込み、触れる寸前で弾いた。黒い飛沫が床へ落ちる。その雫さえ、石の上を這って玄兎の靴へ寄ろうとした。
玄兎は一歩下がる。
左胸の痣が焼けるように熱くなった。
『器』
声が聞こえた。
耳からではない。
胸の奥へ直接響く。
『帰れ』
井戸の周囲で黒い水がざわめく。
『帰る』
玄兎は無意識に胸元を押さえた。
「透羽、どうすれば止められる?」
透羽は封印紋と四本の水路を順に確認した。
「四方の流れを同時に正方向へ戻します。私が中央で全体を制御しますが、四つの水門は物理的に開閉する必要があります」
「俺、小毬、千燈で三つ。残り一つは?」
依澄が南側の水門を見る。
「昔の姿を夢で重ねる。今の錆びた形より、動いていた頃の構造が見えれば回せるかもしれない」
透羽は少し考え、頷いた。
「可能性はあります。依澄さんは直接力をかけず、弁の構造を再現してください。私が水圧で動きを補助します」
小毬は東、千燈は西、玄兎は北、依澄は南の水門へ。透羽が中央に残った。
十数メートルずつ離れるが、互いの姿はまだ確認できる。
玄兎は自分の位置から四人を確認し、北側の弁へ手をかけた。
透羽が両腕を広げる。
「始めます。《白鷺浄界》!」
四方の水路へ、白く光る水が一斉に走った。
井戸から噴き上がる黒い水と正面からぶつかり、地下空間全体が低く震える。
小毬が東のバルブへ力を込める。
「こっちは動きます! 少し固いですけど、回せます!」
千燈も西側から声を返した。
「こっちも動いたよ。玄兎くんは?」
「固い! 全然動かない!」
北側の弁は赤錆に覆われ、玄兎一人ではびくともしない。
玄兎はすぐに叫んだ。
「小毬、東が終わったら手伝って! 俺一人じゃ無理だ!」
「すぐ行きます!」
東の弁を固定した小毬が駆けてくる。
二人で北側のバルブへ手をかけた。
「せーので回します。玄兎先輩、無理に腰使わないでくださいね」
「了解。せーの!」
金属が軋み、ようやく回り始める。
南側では、依澄の《蝶境》が古びた弁へ重なっていた。
薄紫色の蝶が舞うたび、錆びつく前の石と金属の形が浮かび上がる。
透羽がその像へ水を通す。
「依澄さん、そのまま維持してください。回転軸の位置が分かれば動かせます」
「うん。昔は、ここから回ってた」
四方向から少しずつ水が正しい向きへ戻る。
下へ。
本来あるべき地下の封印へ。
玄兎が声を上げる。
「流れ、戻ってきた!」
だが、透羽はまだ緊張を解かなかった。
「まだです。井戸の底から反発が――」
言い終わる前だった。
黒い水が爆発するように噴き上がった。
一本の巨大な柱となり、天井の封印紋へ叩きつけられる。
轟音。
石壁が割れ、地下全体が激しく揺れた。
「封印は中止です! 全員、撤退してください!」
透羽の判断に、誰も反対しなかった。
五人は一斉に出口へ走る。
背後では、井戸から無数の黒い腕が伸びてきた。
黒い腕は、逃げる玄兎の左胸だけを追ってきた。どちらへ避けても、痣の位置から外れない。
「玄兎先輩、右です!」
小毬が玄兎の腕を引き、一本目を避ける。
二本目を千燈の爪が切り裂く。
三本目を透羽の水が弾いた。
切れた腕は床へ落ちる前に黒い水へほどけ、それでも細い筋となって玄兎の足元へ這った。
「玄兎を真ん中に!」
小毬が前、玄兎を中央に、千燈と依澄が左右を固め、透羽が最後尾へ回る。
崩れた通路へ、依澄の夢がいくつもの偽の出口を重ねてしまう。
本人の意思ではない。
地下に満ちた怪異の思念に、《蝶境》が引っ張られている。
依澄の足が止まりかけた。
「出口が増えてる。どれが現実か分からない」
玄兎が彼女へ声をかける。
「依澄、無理に見分けなくていい。小毬に任せよう」
小毬は走りながら鼻を利かせた。
「左です! 地上の空気と人の匂いがします!」
全員が小毬を追う。
◇
出口まで残り三十メートル。
その時、天井に巨大な亀裂が走った。
透羽がすぐに叫ぶ。
「止まってください! 正面が崩れます!」
五人が横へ退いた直後。
大量の石が落下し、まっすぐ進む通路を完全に塞いだ。
小毬が右手の細い水路を見つける。
「右に抜け道があります! 人一人ずつなら通れます!」
「右の水路へ移動してください。急いで!」
五人は一列になって狭い通路へ入った。
先頭は小毬。
その後ろに玄兎、依澄、千燈。
透羽が最後尾から全員を守る。
足元は水に濡れ、割れた石が不安定に積み重なっている。
数メートル進んだところで、透羽が踏んだ床石が崩れた。
「っ……!」
短い声。
玄兎が振り返る。
透羽の右足が割れ目へ落ち、足首のあたりで石に挟まれていた。
「透羽、大丈夫か! 今そっちへ行く!」
玄兎はすぐに戻ろうとした。
透羽が制止する。
「玄兎は戻らないでください。千燈、手を貸してもらえますか」
「もちろん。玄兎くんは前の崩落を見てて」
千燈が透羽のそばへしゃがみ込む。
玄兎は数秒迷ったが、今は役割を守る方がいい。
小毬と一緒に前方の落ちかけた梁を支えた。
「玄兎先輩、こっちも長く持ちません。二人が抜けたらすぐ走ります」
「分かった。透羽、いけるか?」
「石を持ち上げます。千燈、足を引いてください」
「せーのでいくよ。いち、に――」
重い石が浮く。
透羽の足が抜けた。
千燈が肩を貸す。
「足の骨は大丈夫?」
「折れてはいません。捻った可能性はあります」
透羽は一歩踏み出し、顔をしかめた。
「速度は落ちます。でも進めます」
玄兎は前方を見た。
依澄が少しふらついている。
玄兎は彼女の肩へ手を添えた。
「依澄も掴まれ。俺が支える」
「玄兎は大丈夫?」
「大丈夫。無理になったら言う」
依澄は少しだけ安心したように頷き、玄兎の肩へ手を回した。
後ろでは、透羽を千燈が支えている。
小毬が前方の梁を持ち上げたまま叫ぶ。
「早く! もう落ちます!」
全員が梁の下を抜ける。
最後に小毬が飛び込んだ直後、背後で轟音が響いた。
通路が完全に塞がれる。
千燈が息を切らしながら四人を見渡す。
「……全員いるね」
玄兎たちは短く頷いた。
◇
前方に、出口の鉄扉が見えた。
あと十メートル。
そこまで来た時だった。
玄兎の左胸が、突然焼けるように熱くなった。
足が一瞬止まる。
「っ……!」
小毬がすぐ振り返った。
「先輩、痣ですか?」
「熱い。でも動ける。行こう」
背後から届く怪異の声が、さっきより近い。
『器』
黒い波のような影が、崩壊した通路を越えて迫ってくる。
千燈が出口の幅を見る。
五人が並んでは通れない。
一人ずつ抜ける必要がある。
小毬が最初に扉へ辿り着き、全開まで押し広げた。
「依澄先輩、先に!」
依澄が抜ける。
続いて千燈。
透羽は捻った足のせいで速度が落ちている。
玄兎は迷わず彼女の側へ並んだ。
「肩貸す」
「玄兎、先に行ってください」
玄兎は返事の代わりに透羽の腕を自分の肩へ回し、歩幅を合わせた。
二人で出口へ走る。
残り三メートル。
背後の黒い波は、もう一メートルほどまで迫っている。
その先端から一本だけ、細長い黒い腕が伸びた。
扉の向こうから千燈が手を伸ばした。
「玄兎くん、掴んで!」
玄兎は片手で透羽の背を押し、先に扉の外へ出した。
「一歩だけ先。俺もすぐ行く!」
透羽が外へ抜ける。
玄兎も千燈の手を掴んだ。
その瞬間。
黒い腕の先が爪のように細く尖り、背後から玄兎の身体へ突き立った。
狙われたのは、左胸だった。
背中から入った黒い先端が肋骨の内側を貫き、痣のすぐ下から胸の前へ突き出す。
最初は、何が起きたのか分からなかった。
衝撃だけが身体を前へ押す。
焼けるような激痛。
肺の中の空気が、一度に失われる。
黒い爪はそこで止まらなかった。表面が液体のように崩れ、黒い筋が傷口の縁へ這い始める。左胸の痣が、内側から焼かれるように脈打った。
「玄兎、しっかりしてください! 目を閉じないで!」
透羽の叫びだけが、異様にはっきり聞こえた。
玄兎は答えられなかった。肺から空気が抜け、喉の奥で血の味が広がる。それでも千燈の手だけは離さなかった。
身体が後ろへ引かれる。黒い筋が傷口からさらに内側へ潜ろうと蠢いた。
「小毬ちゃん、肩! 透羽ちゃん、反対側!」
千燈が叫ぶ。小毬が玄兎の脇へ腕を差し込み、透羽も傷口を避けて背中を支えた。三人が同時に体重をかける。
黒い爪が玄兎の身体から抜けた。
途端に爪は形を失い、黒い水となって地下側へ引き戻される。
床へ大量の血が落ちた。
玄兎の膝が折れるより早く、透羽が抱えるように受け止めた。
「横にします。千燈、脈を。小毬、救護へ連絡してください。依澄、頭を支えて」
指示だけは早かった。けれど、玄兎の胸元へ水を集めた透羽の手は震えていた。水圧で傷口を塞ぎ、流れ続ける血を押し戻そうとする。
「玄兎、返事はしなくていいです。目だけ開けていてください。私を見て」
玄兎は重くなった瞼をどうにか持ち上げた。
それを見て、透羽は一度だけ強く息を吸った。
千燈の指が玄兎の首筋に触れる。いつもの軽さはどこにもなかった。
「透羽ちゃん、これ……心臓と肺まで――」
「言わなくていいです」
透羽は遮った。
「止血を続けます。救護が来ます。玄兎はここから出ます」
誰に言い聞かせているのか分からない声だった。
小毬は震える手で連絡を入れながら、何度も玄兎の方を見ている。依澄は床へ膝をつき、玄兎の頭が硬い床へ触れないよう両手で支えた。
透羽だけが、玄兎から目を逸らさなかった。
「明日の昼は学食です」
傷口へ水を押し当てたまま、透羽が言った。
「五人で食べます。昨日の日替わりの話も、まだ終わっていません。白狼院さんは、あなたに照り焼きを作ってほしいと言っていましたね」
玄兎の視界が暗く滲む。
「今度は五人で料理をすると言いました。私を切る係から外さないでください。人参の形くらい、次は直します」
いつもの透羽なら、そこで玄兎の返事を待ったはずだった。
今は待たない。
「ですから、明日その話をします。明日、十二時に学食です。その次の予定も決めます。聞こえていますね。返事はしなくていいですから、聞いていてください」
透羽の指が玄兎の手を強く握る。
玄兎は握り返そうとした。指先が、ほんの少しだけ動いた。
透羽の目から涙が落ちた。それでも水を止めない。声も止めなかった。
「玄兎も来ます。だから――」
玄兎は唇を動かした。
息はほとんど残っていなかった。
「……明日、行きたい」
透羽はすぐに頷いた。
「はい。行きましょう。十二時に、いつもの学食です。席は――」
玄兎の指から力が抜けた。
透羽の声は、それでも止まらなかった。
「玄兎。まだ話は終わっていません。明日は――」
その途中で、玄兎の心臓が止まった。
◇
鵺代玄兎は、死んだ。
◇
地下から救出された時点で、玄兎には心拍も呼吸もなかった。
瞳孔反応もない。
鷺宮家の医師が確認しても、医学的には疑いようのない死だった。
それでも四人は、誰一人として玄兎のそばを離れなかった。
久住は地上で大学側と施設管理の調整を続け、旧図書館周辺の封鎖をさらに広げていた。
午前中には鷺宮家から増援が到着し、地下の逆流は午後一時過ぎにようやく鎮静化した。
その間も玄兎は動かない。
時間だけが過ぎていく。
小毬は声が枯れるまで何度も玄兎の名を呼び、今はベッド脇へ座り込んでいた。
「透羽先輩……前は、どのくらいで戻りました?」
透羽は乾いた血のついた手を見つめたまま答える。
「最初に講義棟の非常階段で亡くなった時は、数分でした。ただ、毎回同じではありません。今回の傷は、これまでより大きい」
小毬は唇を噛んだ。
千燈は壁へ背を預け、床へ視線を落としている。
千燈は、玄兎の血へ触れようとはしなかった。
「玄兎くんの血、今は何も返してこない。死んだ血みたいに静かすぎる」
その言い方に、小毬の肩が震えた。
依澄は玄兎の冷たい手を握り続けている。
「今は、玄兎の夢がまったく見えない」
依澄は目を閉じ、玄兎の意識があった場所を探る。
「何もない。でも……もっと奥に、蛹みたいなものがある。閉じてる」
透羽が玄兎の左鎖骨へ目を向ける。
黒い痣。
それが、淡く一度だけ光った。
続けて、もう一度。
透羽は息を呑んだ。
「痣が反応しています。身体の復元が始まります」
声は震えていたが、透羽は目を逸らさなかった。
胸の穴の縁から、黒い光が糸のように伸び始めた。
砕けた骨。
裂けた筋肉。
失われた血管。
それらを内側から無理に縫い直すように、玄兎の身体が再構築されていく。
それは奇跡と呼ぶには、あまりにも異様だった。
透羽は目を逸らさなかった。組織が新しく増えていくというより、壊れる前の形をなぞるように身体が組み直されていく。記録の『再構築』がこれを指す可能性は高い。だが、古い記録の『器』が玄兎なのか、何のためのものなのかは、まだ確かめられていない。
十分。
二十分。
四十分。
待つ時間はひどく長かった。
午後二時七分。
玄兎の指が、かすかに動いた。
小毬が立ち上がりかける。
「玄兎先輩、今、指が動きました!」
透羽がすぐに手で制した。
「まだです。呼吸が戻るまで待ってください」
再構築された胸が、一度だけ上下した。
止まる。
もう一度。
今度は空気が肺へ入る。
玄兎は激しく咳き込んだ。
「……っ、げほ……」
瞼がゆっくり開く。
白い天井。
知らない部屋。
そして、すぐ近くに透羽の顔。
「玄兎。私が分かりますか」
玄兎は重い頭を動かし、焦点を合わせる。
「……透羽。ちゃんと分かる。そこにいる」
その一言だけで、小毬の目から堪えていた涙が一気に溢れた。
玄兎は順番に視線を動かす。
「小毬もいる。千燈……依澄も」
千燈は目を閉じ、張りつめていた息をようやく吐いた。
「いるよ。四人ともいる」
依澄は玄兎の手を握ったまま、かすかに笑った。
「玄兎、おかえり」
玄兎も弱々しく笑う。
「……ただいま」
透羽は一度だけ深く息を吐いた。
「胸の痛みや吐き気は?」
玄兎は身体を確かめる。大きな穴が開いていたはずの胸には、傷一つない。
「胸は平気。頭が少し重いくらい」
「今日のことは覚えていますか」
玄兎は目を閉じた。
旧図書館の地下。古い水路。黒い群れ。撤退を選んだこと。透羽の足が挟まり、出口へ走ったこと。左胸を貫かれた痛み。そして最後に、自分が言った言葉。
「……『明日、行きたい』って言った。それから死んだ」
透羽の目が揺れた。
玄兎は彼女の足を見る。
「足は?」
「捻挫です。数日で治ります」
「よかった」
そう答えたところで、玄兎の眉が寄った。
地下の鉄扉より前へ記憶を戻そうとしても、何も出てこない。
「……待って。俺、鉄扉の前までどうやって来た?」
四人の表情が変わった。
「朝のことが、ない」
透羽は玄兎の手を握った。
「今は無理に探さないでください」
千燈が静かに言う。
「今は休もう。続きは、頭が落ち着いてからでいい」
依澄は玄兎の手を握ったまま言った。
「今日の好きな食べ物、決めた。プリンにする」
玄兎は少し笑った。
「じゃあ帰ったら食べよう」
処置室へ、ほんの少しだけ空気が戻った。
◇
午後四時三十二分。
大学の久住研究室から戻ってきた小毬は、五人の共有ノートを抱えていた。
「玄兎先輩。今日も書きます」
今日の日付の下へ、
『地下封印の異常』
『玄兎先輩が死んだ』
と書き、少し手を止める。
それから涙を拭いて、
『でも戻った』
『今日も全員いる』
と書き足した。
玄兎は黙ってその文字を見ていた。
小毬がページを戻す。
昨日。その前の日。さらに一週間前。
講義のこと、昼食のこと、短い調査の記録。ページをめくるたび、玄兎自身の筆跡が何度も出てくる。
さらに戻ると、青葉寮の翌朝に書いた記録があった。
そこまでは覚えている。
小毬はもう一度ページを進め、昨日の写真で手を止めた。
五人分のトレーと鶏の照り焼き。その中央で、玄兎自身が四人と一緒に笑っている。
「俺、ここにいるな」
「はい」
玄兎は写真を見つめた。
「でも、自分がそこにいた感覚がない」
味も、匂いも、なぜ笑っていたのかも出てこなかった。
透羽が静かに言った。
「青葉寮の翌朝、寮の記録を書いたところまでは残っています。そのあとから、今日、鉄扉をくぐる直前まで。約四週間です」
玄兎はページの厚みを見た。
「死ぬ前は?」
「覚えていました」
昨日の照り焼きも、その前の日も、先週も。
少なくとも鉄扉をくぐるまでは、自分の時間だった。
「原因は?」
「まだ分かりません。《還月》だけが原因とは断定できません。地下封印の異常や、あの『帰る』反応が重なった可能性もあります」
玄兎はもう一度、写真を見た。
そこに自分がいたことは分かる。
それだけだった。
玄兎は少しだけ震える手を握った。
「本当に、死にたくない」
依澄がその手を握る指へ力を込めた。
「それ、生きたいに近い」
玄兎は依澄を見る。
「同じじゃない?」
「少し違う」
◇
その日の夜。
玄兎は念のため、鷺宮家の客間で経過観察を受けることになった。
小毬は当然のように「泊まります」と宣言し、千燈と依澄も帰ろうとしなかった。
透羽は三人分の客室を手配し、自分は玄兎の部屋に残って医療記録を確認している。
小毬は隣室を指さしながら言った。
「玄兎先輩、一人じゃありませんからね。壁一枚向こうに全員います。何かあったらすぐ呼んでください」
「群れは近い、だったな」
「そこはちゃんと覚えてますね」
玄兎は頷いた。
「もっと前のことは覚えてるし、鉄扉をくぐってからのことも残ってる。今のところ、ほかに抜けてるところは見つからない」
それでも、抜け落ちた時間はあまりにも長い。
小毬は群れ日記を机の上へ開いた。
昼間の記録へ、確認できたことを一行だけ書き足す。
『死亡・再構築後、青葉寮報告後から約四週間後の旧図書館地下・鉄扉直前まで想起不能。因果未確定。調査継続』
最後に玄兎がペンを取る。
少し考えて、三行を書いた。
『死にたくないと思った。』
『忘れたくない。』
『明日、五人で昼飯を食べる。』
依澄が覗き込む。
「明日、何食べる?」
「それは明日決める」
「私は明日もプリンが食べたい。それはもう決めてる」
千燈も少し笑う。
透羽はノートへ書かれた最後の一行を、しばらく黙って見つめていた。
やがて玄兎へ顔を向ける。
「明日、待っています」
玄兎は少し笑う。
「それは、また監視対象として待ってるって意味?」
透羽は一瞬迷ってから、首を横に振った。
透羽は頬が赤くなるのを隠さず、目を逸らさなかった。
「いいえ。私が、玄兎に会いたいからです」
依澄は首を傾げる。
「それって、恋人だから会いたいってこと?」
「依澄さん、まだ恋人というわけでは……」
「今、『まだ』って言った? 将来は違うの?」
透羽の動きが止まる。
玄兎も何か言おうとして、結局一度だけ目を逸らした。自分の頬まで熱くなっているのが分かる。
少しだけ間を置いてから、透羽を見る。
「俺も……明日、会いたいよ。五人とも」
玄兎は視線を逸らした。透羽は何も言わず、ほんの少しだけ笑った。
◇
深夜。
客間には玄兎一人だけが残っていた。
眠ることができず、布団の中から暗い天井を見つめる。
共有ノートと写真には、空白の約四週間に自分がいた証拠が残っている。だが、記録を辿っても自分の記憶にはできない。
「その時の俺なのにな」
鉄扉の向こうで撤退を選び、助けを求め、死ぬ直前に『明日、行きたい』と願ったことは覚えている。
透羽に教えられるまで、青葉寮の翌朝に何を決めたのかは知らなかった。それでも、『明日、行きたい』と思ったのは、間違いなく自分だった。
玄兎は左胸の痣へ手を当てた。
「だから、死なない」
明日へ行きたい。戻れたとしても、これ以上、自分の時間を失いたくなかった。
◇
同じ頃。
大学地下の異常は、いったん鎮静したように見えていた。
しかし、玄兎たちが最深部で見た井戸には、そのさらに下がある。
誰にも開示されていない巨大な空洞。
封印の中心には、黒い繭のような影が静かに脈打っていた。
その周囲では、何百、何千もの怪異が眠っている。
闇の中から、低い囁きが重なった。
『器が死んだ』
『戻った』
『削れた』
『空いた』
『帰れる』
幾つもの声が、一つの結論へ集まろうとする。
その時。
中心の黒い繭から、性別も年齢も分からない静かな声が響いた。
『まだ』
たった一言。
それだけで、周囲の怪異が一斉に黙る。
『まだ、眠れ』
黒い繭は再び動きを止めた。
地下には、何事もなかったかのような静寂だけが戻った。
――第十二話・了
――第一章・了