雨が、下から降っていた。
最初にその異常へ気づいたのは、白狼院小毬だった。
午前八時十二分。朽木ヶ丘大学、南門。
空は一面の曇天で、天気予報では昼過ぎから雨になるらしい。昨夜も短い雨が降っていたため、道路脇の側溝に水が残っていること自体は何もおかしくない。
問題は、その水だった。
鵺代玄兎がコンビニの紙カップを口元へ運びかけたところで、小毬が不意に立ち止まった。
「玄兎先輩、ちょっと待ってください。あそこ……何か変です」
普段よりわずかに低い声だった。
玄兎も足を止め、小毬が指した側溝へ目を向ける。
最初は、細かな水滴が朝の風に巻き上げられているだけに見えた。
しかし違う。
側溝の底に溜まった水から、一粒、また一粒と雫が浮かび上がり、風にも揺らされず真上へ昇っている。
落ちてくるはずの雨を逆再生したような、不自然な動きだった。
「……水滴が、空へ上がってるな」
玄兎が紙カップを下ろすと、小毬は側溝の前へしゃがみ込んだ。
「風で飛んでる感じじゃありません。匂いも、普通の水だけじゃないです」
「それって、怪異の匂いってことか?」
玄兎が尋ねると、小毬は鼻先をわずかに動かした。
水そのもの。濡れた土。苔。古い鉄。その奥に、彼女にしか分からない異質な気配が混じっているらしい。
やがて小毬の表情が曇った。
「それもあります。でも……玄兎先輩の匂いも、昨日より濃いです」
「その匂い、俺自身からしてるのか?」
「はい。前から少し混ざってる怪異っぽい匂いが、今日ははっきりしています。別人みたいってほどではないですけど、いつもより近いというか……強いというか」
玄兎は無意識に左鎖骨の下へ触れた。
服の下には、あの非常階段で身体が戻った時にも強く反応していた黒い痣がある。古い記録には『死亡時は再構築を――』という途切れた記述が残っているが、この痣が何を担っているのか、《還月》とどこまで同じ仕組みなのかは、まだ分かっていない。
封印の鈴に呼び寄せられた怪異たちが自分へ向けた、『帰る場所』『器』という言葉まで思い出し、玄兎は胸元からゆっくり手を離した。
「昨日の青葉寮の件が何か関係してるのかな」
「分かりません。でも、透羽先輩にはもう連絡しました」
「もう連絡したのか。相変わらず行動が早いな」
小毬は得意げにスマートフォンを見せた。
画面には、『透羽先輩! 大学の水が上に落ちてます!』『玄兎先輩の怪異臭も濃いです!』『南門にいます!』と勢いのある文章が並んでいる。
玄兎は二行目を見て眉を寄せた。
「『怪異臭』って表現だけ、どうにかならなかった?」
「一番分かりやすいです。玄兎先輩は玄兎先輩なので、別に怪異扱いしてるわけじゃありません」
「その説明で人として傷つかなくなるわけじゃないんだけどな」
小毬が笑い、玄兎もつられて口元を緩めた。
その直後、二人のスマートフォンがほとんど同時に震えた。
大学からの緊急通知だった。
『北キャンパス一部区域で漏水を確認』
『旧図書館・旧研究棟周辺は安全確認のため立入禁止』
玄兎は通知を読み終え、側溝から昇っていく水滴をもう一度見る。
「大学は漏水ってことにしてるみたいだけど、さすがに普通の設備事故じゃなさそうだな」
「私もそう思います。あっちでも水が逆に流れてるなら、全部つながってるかもしれません」
続けて透羽からメッセージが届いた。
『その場から動かないでください。今向かっています。』
玄兎はすぐに『分かった。待ってる』と返信した。
横で画面を見ていた小毬が、嬉しそうに目を細める。
「玄兎先輩、前だったらもう『俺が先に見てくる』って走り出してましたよね」
「……そうだったかもな」
「ちゃんと待てるようになりました。すごいです」
「犬の躾みたいに褒めるなよ」
「犬じゃなくて狼です。そこは大事なので訂正します!」
「そこを訂正するんだ」
二人で笑いながらも、玄兎は少しだけ自分の変化を意識した。
以前の自分なら、間違いなく一人で旧図書館へ向かっていただろう。どれほど危ない目に遭っても最後には身体が戻る――過去の経験からそう思い込み、自分が先に確かめればいいと考えていた。
けれど、今は透羽たちが来るのを待てる。
仲間が来ると知っているから。
昨日の青葉寮で書いた「群れ日記」を思い出す。
『今日も全員元気』
今日も、同じ言葉を書きたいと思った。
少なくとも、この時の玄兎は――昨日のことを、きちんと覚えていた。
◇
午前八時十九分。
最初に到着したのは透羽だった。
髪を結ぶ余裕もなかったらしく、長い黒髪を背中へ流したまま、南門まで駆けてくる。その少し後ろから、千燈と依澄も足早に現れた。
「思ったより早かったな。三人とも、近くにいたの?」
玄兎が尋ねると、透羽は呼吸を整えながら答えた。
「大学へ向かっている途中でした。状況を確認しますので、側溝から少し離れてください」
透羽はすぐにしゃがみ込み、指先へ普通の水を一滴だけ集めた。
術を通した雫が淡く光り、逆流している水へ近づいていく。
ところが、二つの水が触れ合う寸前で、透羽の水だけが押し返された。
彼女の眉がわずかに寄る。
「……おかしいですね。この水、私の術にほとんど反応しません」
玄兎もしゃがみ込み、少し距離を取って観察した。
「見た目は普通の水だけど?」
「物質としては水です。ただ、霊的な流れだけが完全に逆転しています。通常なら地面へ落ちるものが、別の『下』へ引かれているような……」
透羽の説明を聞いていた依澄が、じっと地面へ目を向けた。
「この水、どこかへ帰ってる感じがする」
玄兎が彼女を見る。
「帰ってるって、この水そのものが?」
「うん。でも、私たちに見えてる方向と、夢の中で感じる方向が違う。上に行ってるのに、下へ戻ってる感じがする」
依澄自身も上手く説明できないらしく、眉間に小さくしわを寄せた。
「自分で言ってても分かりにくい」
「十分不気味なのは伝わったよ」
その横で千燈が空気の匂いを確かめ、笑みを消した。
「地下から、古い血の匂いもする。新しい傷じゃないね。ずっと昔に染みついたものが、水と一緒に浮き上がってきてる感じ」
玄兎の頭に、地域資料室で見つけた封印の記録が浮かんだ。
「二十年前の封印事故と関係してる可能性は?」
「高いと思います」
透羽は立ち上がり、鞄からスマートフォンを取り出した。
「鷺宮家にはすでに連絡しました。大学地下の封印群の一部で、圧力異常が確認されています」
小毬の耳がぴくりと動いた。
「圧力異常って、怪異が中から出ようとしてるってことですか?」
「それならまだ説明しやすいのですが……今回は少し違います」
透羽は言葉を選ぶように間を置いた。
「封印の内部にいる怪異が、外へ逃げようとしているというより、ある一点へ集まろうとしているそうです」
玄兎は嫌な予感を覚えた。
「その一点って、もしかして俺?」
透羽はすぐには答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
左胸の痣が、じわりと熱を持つ。
玄兎が胸元へ手を当てたのを見て、透羽の表情が変わった。
「玄兎、痣が熱を持っているのですか」
「少しだけ。でも、今のところ痛みはない」
透羽は玄兎をまっすぐ見た。
「今日は絶対に、死なないでください」
以前なら、玄兎は「どうせ戻る」と笑ったかもしれない。
だが、昨日見せられた資料の文面が脳裏をよぎる。
『長期観察にて、認知記録に一部不一致を確認』
『不一致と再構築回数の関連――』
黒塗りの向こうにある結論は、まだ分からない。
それでも、死ぬことがただ身体を傷つけるだけではない可能性を知ってしまった。
玄兎は誤魔化さずに頷いた。
「分かってる。今日は俺も死にたくない。普通に痛いし、何より……忘れたくないから」
透羽の肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
小毬が玄兎の袖を握る。
「今日も帰ったら群れ日記を書きます。絶対です」
「うん。今日は何を書こうか」
「まず『全員帰った』です。それから昨日の約束どおり、玄兎先輩に鶏の照り焼きを作ってもらいます」
玄兎は昨日の学食を思い返した。
五人で囲んだテーブル。日替わり定食。甘辛い照り焼き。小毬の嬉しそうな顔。
「覚えてるよ。俺が『家でも作れそう』って言ったら、小毬が作ってくれって頼んだんだろ」
「はい! 透羽先輩も『今度は五人で作りましょう』って言ってました」
「それで俺が、『透羽は包丁を持たせると怖いから切る係以外で』って――」
「私は普通に切れます」
透羽が真顔で割り込んだ。
千燈が声を立てて笑う。
張りつめていた空気が、少しだけ緩んだ。
玄兎も笑った。
昨日の昼に食べた鶏の照り焼きの味も、小毬に料理を頼まれたことも、透羽の包丁の扱いをからかった会話も、今は自分の記憶としてはっきり辿れる。
千燈が笑みを残したまま言う。
「その話の続きは、全員で帰ってからにしよう。今日の日記を書く前に一人でも欠けたら、小毬ちゃんが泣くし、透羽ちゃんが怒るし、私も困る」
依澄も小さく頷く。
「私は今日、好きな食べ物をまだ決めてない。帰ってから決める」
「じゃあ、そのためにも帰らないとな」
玄兎が言うと、依澄はごく自然に答えた。
「帰るなら、今度も全員で帰りたい」
その言葉に、四人がそれぞれ頷いた。
◇
午前九時前。
大学は旧図書館周辺の講義を休講にし、立入禁止区域を広げた。
表向きの理由は、『地下配管の大規模漏水』。
実際、地下階段からは大量の水が上がってきていた。ただし、その流れ方が明らかに異常だった。
階段の下から現れた水は、段差を上へ上へと這い、床へ落ちた雫まで天井へ吸い上げられていく。まるで地下そのものが空になり、地上が深い底へ変わったかのようだった。
玄兎たちは人気の消えた旧図書館へ入り、封鎖テープの奥へ進んだ。
「一般学生の退避は完了しています。施設管理にも連絡済みです。久住教授には、地下で起きている異常について私から直接説明しました」
透羽の報告に、玄兎は足を止めかけた。
「教授には怪異のことまで話した?」
「はい。隠す理由はありません」
透羽は封鎖テープの向こうを確かめながら続ける。
「学生や一般の職員へ出している公式の説明は、『地下配管の大規模漏水』です。実際に水も上がっていますし、避難と立入禁止を徹底するにはそれで十分です。ただ、久住教授本人には、地下封印の流れが逆転していること、鷺宮家の管理区画に異常が及んでいること、それから玄兎に反応している可能性があることまで伝えています」
玄兎は少しだけ肩の力を抜いた。
「ならよかった。教授にまで設備事故で押し通したのかと思った」
「この状況で事情を知っている人を一人減らす方が危険です」
千燈が小さく笑う。
「それで、先生は何て?」
「『また大学の下か』と。自分は地上で施設管理と大学側の連絡を引き受けるから、私たちは無理をせず、戻ったら見たものを全部報告するように言われました」
「理解が早いというか、もう慣れてきてるね」
「慣れてほしくない種類のことだけどな」
玄兎が苦笑すると、透羽もほんの少しだけ表情を緩めた。
大学への公式な説明と、怪異を知る者同士の共有は別だ。少なくとも地上には、状況を理解したうえで退路と封鎖を支えてくれる人がいる。その事実は、これから地下へ入る玄兎にとって思っていた以上に心強かった。
異変は、六月に地域資料室を整理した時よりさらに奥から続いていた。
当時は固く閉じていたはずの鉄扉が、今日は半分ほど開いている。
透羽は扉へ近づき、鍵や封印札を確認した。
「破られています。ただ、外側から開けられた形ではありません」
千燈が扉の内側を覗き込む。
金属には深い擦過痕が残っていた。
「何かが外へ出ようとした傷というより、もっと奥へ逃げようとした跡に見えるね」
「地下にいる怪異が、地上じゃなくてさらに下へ?」
玄兎が呟く。
そこで小毬が鼻を押さえた。
顔色がわずかに変わっている。
「匂いが、多すぎます。何百……たぶん、それよりずっと多いです」
声が小さくなった。
透羽はすぐ玄兎を見る。
「ここから先は鷺宮家の管理区画です。本来なら、私は玄兎たちを入れることができません」
「じゃあ透羽だけ行くつもり?」
「増援を待つべきです。ただ、今すぐ内部の状況を確認する必要もあります」
透羽自身も、判断に迷っている。
玄兎は鉄扉の向こうを見た。
暗い地下。大量の怪異。自分へ集まり始めた何か。
それでも一人を行かせる気にはなれなかった。
「前にも言っただろ。透羽だけに背負わせない。入るなら全員で行こう」
小毬もすぐに頷く。
「私も行きます。匂いを追える人がいた方が安全です」
千燈も肩をすくめた。
「ここまで来て帰れって言われても、たぶん誰も帰らないよ」
依澄は当然のように一歩前へ出る。
「私も一緒に行く。ここで待つつもりはない」
透羽は四人を順番に見た。
「鷺宮家の規則を無視することになります。あとでかなり怒られますよ」
玄兎は少し笑った。
「じゃあ五人で怒られよう。それなら公平だろ」
透羽は一瞬、返す言葉に困ったようだった。
やがて小さく息を吐く。
「そういう巻き込み方は、ずるいです」
「嫌ならやめるけど」
透羽は視線を逸らさなかった。
「……嫌ではありません。ただし、全員私の指示に従ってください。危険だと判断したら、すぐに戻ります」
「分かった。危険だと思ったら、俺もすぐ従う」
玄兎が頷くと、小毬も元気よく返事をした。
五人は互いの位置を確認し、鉄扉の向こうへ足を踏み入れた。
◇
大学の地下には、想像していた以上に古い水路が広がっていた。
入口付近こそ近代的なコンクリートで補強されていたが、その奥には時代の違う石造りの壁が何層も残っている。
現代の配管の横に明治期らしい煉瓦があり、そのさらに奥から、もっと古い石積みが覗いていた。
大学が建つずっと前から、この場所には何かを封じるための構造が存在していたらしい。
玄兎は懐中電灯を壁へ向ける。
「大学の下に、こんなのがあるなんて知らなかったな。透羽も初めて?」
「はい。管理区画の詳細を閲覧できるのは当主級の権限を持つ者だけです。私は後継候補ではありますが、まだそこまでの権限はありません」
「そのうち知ることになる場所だったかもしれないのか」
「今はその話をしている場合ではありません」
少しだけ強く言われ、玄兎は素直に黙った。
千燈が壁へ顔を近づけた。
触れずに、古い朱文字を読む。
石壁には、薄れかけた印が何度も刻まれていた。
『留』
『眠』
『帰』
その中でも『帰』の字へ近づいた時だけ、玄兎の胸の痣が強く熱を持つ。
小毬もすぐ異変へ気づいた。
「先輩の匂い、また濃くなってます。奥へ進むほど強いです」
「俺自身の匂いが濃くなるって、やっぱり変な感じだな」
冗談めかしたが、小毬は笑わなかった。
透羽は床を流れる水へ意識を向けている。
「この地下水路は、本来、地上から地下の封印へ向かって霊的な流れを集める構造になっています。怪異を鎮め、眠らせるためのものです」
玄兎は、天井へ昇っていく雫を見た。
「それが今は逆転してる。封印が怪異を吐き出してるってこと?」
千燈が横から低い声で言う。
「それか、玄兎くんの方が引っ張ってる」
「言い方が怖いな」
「ごめん。でも、今の気配だと完全には否定できない」
その時、小毬の耳がぴくりと動いた。
全員が黙る。
暗い水路の奥から、ざ、ざ、ざ、と乾いた擦過音が響いてくる。
「足音じゃありません。もっと低い位置……何かが這ってきます。それも一つや二つじゃないです」
懐中電灯の光が届く範囲の外。
壁。天井。床。
そこへ、墨汁を流したような黒い影が滲み始めた。
一つ一つは小さい。
けれど数が多すぎる。
何十。何百。
やがて水路そのものを埋め尽くすほどの黒い群れが、音もなく迫ってきた。
透羽は即座に前へ出る。
「全員、私の後ろへ。《水鏡》!」
地下水が一気に持ち上がり、巨大な透明の膜となって五人の前へ広がった。
怪異の群れが水膜へぶつかる。
衝突音はない。
代わりに、澄んでいた水が触れた場所から黒く濁っていく。
小毬が息を呑んだ。
「数が多すぎます。でも、襲ってる感じじゃない……全部、玄兎先輩を見てます」
千燈も目を細める。
「攻撃しようとしてない。何かを求めてる」
次の瞬間。
水路のあちこちから、同じ言葉が聞こえた。
『帰る』
一つだった声が二つになる。
十になる。
百になる。
『帰る』
『帰る』
『帰る』
玄兎の背筋に寒気が走った。
「俺のところへ帰ってくるなよ。俺、家じゃないぞ」
冗談のつもりだったが、声は思ったより震えていた。
透羽は水膜を押し返しながら叫ぶ。
「消滅させるのではなく、一度流路へ戻します。玄兎、右側の古い水門が見えますか?」
玄兎が振り返る。
通路脇に、大きな石造りのバルブがあった。
「これを閉めればいい?」
「完全に閉じるのではなく、別の水路へ流れを切り替えます。かなり固いはずです」
玄兎はすぐ小毬を見る。
「小毬、一緒に頼む」
「任せてください!」
小毬の両腕が部分獣化し、筋肉が強く盛り上がる。
二人でバルブへ手をかけた。
しかし、長年動かされていなかった軸はびくともしない。
「せーのでいくぞ。せーの!」
金属が軋む。
それでも足りない。
千燈が水膜の後ろから駆け寄った。
「私も入る。三人ならいけるでしょ」
「吸血種ってこういう時便利だな」
「今だけ褒め言葉として受け取っとく」
三人で力を込める。
ごり、と重い音。
錆びついた軸がようやく回った。
水の流れが脇の水路へ切り替わる。
透羽がすぐに術を重ねた。
「今です。《禊牢》!」
新しい流れが怪異の群れを横へ押し流し、水の檻がその一部を封じ込める。
依澄は奥を見つめたまま、何か別の気配へ意識を向けていた。
「まだ終わってない。もっと奥に、大きいものがいる」
玄兎の胸が強く脈打った。
今までより、はっきり分かる。
呼ばれている。
「俺も感じる。あの奥に何かいる」
透羽は即座に首を振った。
「戻りましょう。ここから先は危険すぎます」
玄兎も最初は頷きかけた。
しかし、その時。
千燈が地上へ飛ばしていた烏と感覚を重ね、顔色を変えた。
「待って。地上でも怪異が増えてる。大学の外にも出始めてるよ。このまま逆流が続いたら、街まで広がる」
依澄も胸元へ手を当てた。
「下にいる大きいもの、まだ眠ってる。でも周りが開こうとしてる。今のままだと……起きる」
その言葉を聞いた瞬間。
透羽の表情が鋭く変わった。
玄兎は見逃さなかった。
「透羽、何か知ってる?」
「存在だけです。詳細は、まだ私にも開示されていません」
「今の段階では、俺たちにもまだ言えないことなのか?」
透羽は苦しそうに頷いた。
「はい。憶測で伝えるには危険すぎます」
玄兎は一度だけ目を閉じた。
昨日までなら、そこで食い下がっていたかもしれない。
でも今は、透羽が言えないなら理由があると分かる。
「分かった。じゃあ止めてから聞く。全員で帰ってから」
小毬が頷く。
「はい。誰も置いていきません」
千燈も短く息を吐いた。
「死なない。今度こそね」
依澄が玄兎を見る。
「現実へ帰る。五人で」
最後に透羽が、四人の顔を順に確かめた。
「分かりました。ただし、無理だと判断した瞬間に撤退します。それだけは絶対です」
全員が頷き、水路のさらに奥へ進んだ。
◇
地下最深部。
巨大な石の扉が、通路の先を塞いでいた。
扉は中央から半分ほど崩れ、その向こうに井戸のような円形の空洞が口を開けている。
底は見えない。
黒い水だけが、重力を無視して下から上へ噴き上がっていた。
天井一面には巨大な封印紋が描かれ、そこから四方向へ水路が伸びている。
透羽は息を呑み、慎重に周囲を確認した。
「地下封印群の中枢に近い場所です。ここで流れが逆転しているから、上の水路まで影響が出ています」
玄兎は井戸の縁へ近づきすぎない位置から、暗い底を覗いた。
「何体くらい封じてる?」
「正確には分かりません」
千燈が少し顔をしかめる。
「少なくとも、私は数えたくないくらいいる」
小毬は鼻を押さえたまま井戸を見つめた。
「それより……変です。玄兎先輩の匂いが、この下にもあります」
玄兎が振り返る。
「俺と同じ匂い?」
「完全に同じではないかもしれません。でも、すごく近いです。昔の先輩なのか、先輩に入ってる何かなのか……私にはそこまで分かりません」
依澄も井戸の闇へ視線を落とした。
「夢の気配もある。玄兎の奥にあるものと、似てる」
その瞬間。
玄兎の痣が焼けるように熱くなった。
『器』
声が聞こえた。
耳からではない。
胸の奥へ直接響く。
『帰れ』
続けて、
『帰る』
二つの言葉が重なる。
自分が帰るのか。
何かが自分へ帰るのか。
区別がつかない。
玄兎は無意識に一歩下がった。
「透羽、どうすれば止められる?」
透羽は封印紋と四本の水路を順に確認した。
「四方の流れを同時に正方向へ戻します。私が中央で全体を制御しますが、四つの水門は物理的に開閉する必要があります」
「俺、小毬、千燈で三つ。残り一つは?」
依澄が南側の水門を見る。
「昔の姿を夢で重ねる。今の錆びた形より、動いていた頃の構造が見えれば回せるかもしれない」
透羽は少し考え、頷いた。
「可能性はあります。依澄さんは直接力をかけず、弁の構造を再現してください。私が水圧で動きを補助します」
役割が決まる。
小毬は東。
千燈は西。
玄兎は北。
依澄は南。
透羽は中央。
十数メートルずつ離れるが、互いの姿はまだ確認できる。
玄兎は自分の位置から透羽を見る。
「何かあったら絶対呼べよ。一人で何とかしようとしないで」
透羽も同じ強さで返した。
「それは玄兎もです。自分だけが残る選択は禁止します」
「分かった。今は自分の役割に集中する」
今度は迷わず言えた。
透羽が両腕を広げる。
「始めます。《白鷺浄界》!」
四方の水路へ、白く光る水が一斉に走った。
井戸から噴き上がる黒い水と正面からぶつかり、地下空間全体が低く震える。
小毬が東のバルブへ力を込める。
「こっちは動きます! 少し固いですけど、回せます!」
千燈も西側から声を返した。
「こっちも動いたよ。玄兎くんは?」
「固い! 全然動かない!」
北側の弁は赤錆に覆われ、玄兎一人ではびくともしない。
無理に力をかければ腕を痛めそうだった。
以前なら、そのまま自分だけで押し切ろうとしていたかもしれない。
玄兎は迷わず叫んだ。
「小毬、東が終わったら手伝って! 俺一人じゃ無理だ!」
「すぐ行きます!」
自分から助けを求める。
それだけのことが、玄兎には少し新しかった。
東の弁を固定した小毬が駆けてくる。
二人で北側のバルブへ手をかけた。
「せーので回します。玄兎先輩、無理に腰使わないでくださいね」
「了解。せーの!」
金属が軋み、ようやく回り始める。
南側では、依澄の《蝶境》が古びた弁へ重なっていた。
薄紫色の蝶が舞うたび、錆びつく前の石と金属の形が浮かび上がる。
透羽がその像へ水を通す。
「依澄さん、そのまま維持してください。回転軸の位置が分かれば動かせます」
「うん。昔は、ここから回ってた」
四方向から少しずつ水が正しい向きへ戻る。
下へ。
本来あるべき地下の封印へ。
玄兎が声を上げる。
「流れ、戻ってきた!」
だが、透羽はまだ緊張を解かなかった。
「まだです。井戸の底から反発が――」
言い終わる前だった。
黒い水が爆発するように噴き上がった。
一本の巨大な柱となり、天井の封印紋へ叩きつけられる。
轟音。
石壁が割れ、地下全体が激しく揺れた。
「全員、撤退してください! 今は封印を完成させるより、生きて戻ることを優先します!」
透羽の判断に、誰も反対しなかった。
五人は一斉に出口へ走る。
背後では、井戸から無数の黒い腕が伸びてきた。
そのすべてが玄兎だけを狙っている。
「玄兎先輩、右です!」
小毬が玄兎の腕を引き、一本目を避ける。
二本目を千燈の爪が切り裂く。
三本目を透羽の水が弾いた。
「玄兎を真ん中に置いてください! 絶対に一人にしないで!」
透羽の指示どおり、小毬が前。
玄兎を中央。
千燈と依澄が左右。
透羽が最後尾。
崩れた通路へ、依澄の夢がいくつもの偽の出口を重ねてしまう。
本人の意思ではない。
地下に満ちた怪異の思念に、《蝶境》が引っ張られている。
依澄の足が止まりかけた。
「出口が増えてる。どれが現実か分からない」
玄兎が彼女へ声をかける。
「依澄、無理に見分けなくていい。小毬に任せよう」
小毬は走りながら鼻を利かせた。
「左です! 地上の空気と人の匂いがします!」
「分かった、小毬が示した方へ行こう!」
全員が小毬を追う。
目的は一つ。
戻ること。
生きること。
五人で帰ること。
以前の玄兎なら、最後尾に残ったかもしれない。
今は違う。
自分も帰る側にいた。
◇
出口まで残り三十メートル。
その時、天井に巨大な亀裂が走った。
透羽がすぐに叫ぶ。
「止まってください! 正面が崩れます!」
五人が横へ退いた直後。
大量の石が落下し、まっすぐ進む通路を完全に塞いだ。
小毬が右手の細い水路を見つける。
「右に抜け道があります! 人一人ずつなら通れます!」
「右の水路へ移動してください。急いで!」
五人は一列になって狭い通路へ入った。
先頭は小毬。
その後ろに玄兎、依澄、千燈。
透羽が最後尾から全員を守る。
足元は水に濡れ、割れた石が不安定に積み重なっている。
数メートル進んだところで、透羽が踏んだ床石が崩れた。
「っ……!」
短い声。
玄兎が振り返る。
透羽の右足が割れ目へ落ち、足首のあたりで石に挟まれていた。
「透羽、大丈夫か! 今そっちへ行く!」
玄兎はすぐに戻ろうとした。
透羽が制止する。
「玄兎は戻らないでください。千燈、手を貸してもらえますか」
「もちろん。玄兎くんは前の崩落を見てて」
千燈が透羽のそばへしゃがみ込む。
玄兎は数秒迷ったが、今は役割を守る方がいい。
小毬と一緒に前方の落ちかけた梁を支えた。
「玄兎先輩、こっちも長く持ちません。二人が抜けたらすぐ走ります」
「分かった。透羽、いけるか?」
「石を持ち上げます。千燈、足を引いてください」
「せーのでいくよ。いち、に――」
重い石が浮く。
透羽の足が抜けた。
千燈が肩を貸す。
「足の骨は大丈夫そう? 折れてない?」
「折れてはいません。ただ、捻った可能性があります」
「その足で走れそう? 無理なら肩を貸すよ」
透羽は一歩踏み出し、顔をしかめた。
「速度は落ちます。でも進めます」
玄兎は前方を見た。
依澄が少しふらついている。
怪異の思念と夢が重なり、意識を持っていかれかけているらしい。
玄兎は彼女の肩へ手を添えた。
「依澄も掴まれ。俺が支える」
「玄兎は大丈夫?」
「今はちゃんと助けを求めるから、大丈夫。無理になったら言う」
依澄は少しだけ安心したように頷き、玄兎の肩へ手を回した。
後ろでは、透羽を千燈が支えている。
小毬が前方の梁を持ち上げたまま叫ぶ。
「早く! もう落ちます!」
全員が梁の下を抜ける。
最後に小毬が飛び込んだ直後、背後で轟音が響いた。
通路が完全に塞がれる。
千燈が息を切らしながら人数を確認する。
「全員いるよね。玄兎くん、小毬ちゃん、依澄ちゃん、透羽ちゃん……全員いる」
「俺もいる。全員ちゃんと揃ってる」
玄兎が答える。
小毬も依澄も、透羽もそれぞれ頷いた。
一人も欠けていない。
◇
前方に、出口の鉄扉が見えた。
あと十メートル。
そこまで来た時だった。
玄兎の左胸が、突然焼けるように熱くなった。
足が一瞬止まる。
「っ……!」
小毬がすぐ振り返った。
「先輩、痣ですか?」
「熱い。でも動ける。行こう」
背後から届く怪異の声が、さっきより近い。
『器』
黒い波のような影が、崩壊した通路を越えて迫ってくる。
千燈が出口の幅を見る。
五人が並んでは通れない。
一人ずつ抜ける必要がある。
小毬が最初に扉へ辿り着き、全開まで押し広げた。
「依澄先輩、先に!」
依澄が抜ける。
続いて千燈。
透羽は捻った足のせいで速度が落ちている。
玄兎は迷わず彼女の側へ並んだ。
「肩貸す。今度は一緒に出るぞ」
「玄兎、先に行ってください」
「それは禁止しただろ。俺だけ残るのも、透羽だけ残るのもなし」
透羽は言い返せなかった。
二人で出口へ走る。
残り三メートル。
背後の黒い波は、もう一メートルほどまで迫っている。
扉の向こうから千燈が手を伸ばした。
「玄兎くん、掴んで!」
玄兎は片手で透羽の背を押し、先に扉の外へ出した。
「一歩だけ先。俺もすぐ行く!」
透羽が外へ抜ける。
玄兎も千燈の手を掴んだ。
その瞬間。
背後から伸びた黒い爪が、玄兎の背中を貫いた。
最初は、何が起きたのか分からなかった。
衝撃だけが身体を前へ押す。
一拍遅れて、胸の前から黒い先端が突き出した。
焼けるような激痛。
肺の中の空気が、一度に失われる。
「玄兎、しっかりしてください! 目を閉じないで!」
透羽の叫びだけが、異様にはっきり聞こえた。
それでも玄兎は、千燈の手を離さなかった。
「引いて……! 俺ごと、引いて!」
小毬、千燈、透羽の三人が一斉に玄兎の身体を引く。
黒い爪が胸から抜けた。
床へ大量の血が落ちる。
玄兎はその場へ崩れた。
透羽がすぐに傷口へ水を集める。
「玄兎、私の声が聞こえますか。返事をしてください!」
「……聞こえてる」
声を出すだけで、胸の奥が崩れるように痛い。
呼吸ができない。
透羽の水が傷口を圧迫し、失血を止めようとしている。
しかし、普通の人間なら間違いなく即死する傷だった。
千燈が唇を噛む。
「救急処置だけじゃ無理だ。心臓と肺までやられてる」
小毬の目から涙が溢れる。
「先輩、死なないって約束したじゃないですか……!」
玄兎は笑おうとした。
うまく顔が動かない。
「ごめん。でも……今回は、死ぬつもりなかったんだ」
自分からそう言えたことが、少しだけ救いだった。
最後まで逃げた。
助けを求めた。
一人で残らなかった。
それでも、届いてしまった。
透羽の水が震えている。
「話さなくていいです。今は呼吸に集中してください」
玄兎は透羽の足元を見る。
「足……大丈夫?」
「今、私の心配をするのですか。捻挫です。こんなもの、どうでもいいです」
「それならよかった。足までひどく傷めてなくて安心した」
透羽の目が赤くなる。
いつも冷静な声が、完全に崩れた。
「玄兎。戻って、ではありません。死んでから戻るのではなく、今ここで生きてください」
胸の奥が痛い。
それが傷のせいなのか、透羽の声のせいなのか分からない。
玄兎は息を吸おうとした。
代わりに血が口元から溢れる。
「俺も……そのつもりだった」
言葉がかすれる。
「今回は、ちゃんと……生きて帰りたかった」
小毬が玄兎の手を握る。
「じゃあ帰りましょう。明日、五人でお昼食べるんですよ。昨日の照り焼き、先輩が作れるって言ったじゃないですか」
千燈も反対側の手を取る。
「うん。だから勝手に今日を終わらせないで。まだ私たち、話し足りてないよ」
依澄は玄兎の額へ手を触れた。
「明日、昼。一緒に行く」
透羽も空いている手で玄兎の指を強く握った。
「行きましょう。約束ではなく、予定にしてください。明日、五人で学食へ行きます」
玄兎は目を閉じたくなかった。
怖い。
それを、もう隠したくなかった。
「……死ぬの、怖い」
小毬が泣きながら何度も頷く。
「怖くていいです。だから生きてください」
「明日……行きたい」
玄兎は、自分でも驚くほど素直に言った。
昼の学食。群れ日記。ブラックコーヒー。うどん。唐揚げ。透羽が好きな甘いもの。依澄がその日ごとに決める好きな食べ物。小毬の騒がしい声。千燈のからかう笑い。
どうでもいいほど普通の光景を、一つでも多く思い出そうとした。
「明日も……行きたい」
透羽は玄兎の手を握ったまま答えた。
「はい。行きましょう。だから――」
その声の途中で。
玄兎の心臓が止まった。
最後に聞こえたのは、自分の名前を叫ぶ四人の声だった。
◇
鵺代玄兎は、死んだ。
◇
地下から救出された時点で、玄兎には心拍も呼吸もなかった。
瞳孔反応もない。
鷺宮家の医師が確認しても、医学的には疑いようのない死だった。
それでも四人は、誰一人として玄兎のそばを離れなかった。
地上では、久住教授が施設管理と大学側の窓口になり、旧図書館周辺の封鎖をさらに広げていた。一般の学生や職員には漏水事故として近づかないよう周知し、地下の実情を知る担当者の間では、鷺宮家の増援が到着するまで不用意に立ち入らないことが共有された。
午前中には鷺宮家から増援が到着し、地下の逆流は午後一時過ぎにようやく鎮静化した。
その間も玄兎は動かない。
時間だけが過ぎていく。
小毬は声が枯れるまで何度も玄兎の名を呼び、今はベッド脇へ座り込んでいた。
「透羽先輩……前は、どのくらいで戻りました?」
透羽は乾いた血のついた手を見つめたまま答える。
「最初に講義棟の非常階段で亡くなった時は、数分でした。ただ、毎回同じではありません。今回の傷は、これまでより大きい」
小毬は唇を噛んだ。
千燈は壁へ背を預け、床へ視線を落としている。
普段なら、玄兎の血へ触れれば何らかの記憶や感情を読み取れる。
けれど今は、触れようとしなかった。
「玄兎くんの血、今は何も返してこない。死んだ血みたいに静かすぎる」
その言い方に、小毬の肩が震えた。
依澄は玄兎の冷たい手を握り続けている。
「今は、玄兎の夢がまったく見えない」
「死んでるから?」
小毬が尋ねる。
依澄はしばらく答えなかった。
目を閉じ、玄兎の意識があった場所を探る。
やがて小さく首を振った。
「何もない。でも……もっと奥に、蛹みたいなものがある。閉じてる」
透羽が玄兎の左鎖骨へ目を向ける。
黒い痣。
それが、淡く一度だけ光った。
続けて、もう一度。
透羽は息を呑んだ。非常階段で玄兎の身体が戻った時と同じ反応だった。
「痣が反応しています。身体の復元が始まります」
声は震えていたが、透羽は目を逸らさなかった。
胸の穴の縁から、黒い光が糸のように伸び始めた。
砕けた骨。
裂けた筋肉。
失われた血管。
それらを内側から無理に縫い直すように、玄兎の身体が再構築されていく。
それは奇跡と呼ぶには、あまりにも異様だった。
透羽は目を逸らさない。
自分が読んだ古い記録に残っていた『再構築』という言葉が頭をよぎる。目の前では、失われた組織が新しく増殖していくというより、壊れる前の形をなぞるように身体が組み直されていた。
記録の『再構築』がこの現象を指している可能性は高い。
だが、『器』という記述まで玄兎本人を指すのか、その器が何のためのものなのかは、まだ確定していない。
透羽はそこから先を推測せず、今は玄兎の身体に起きている変化だけを見続けた。
十分。
二十分。
四十分。
待つ時間はひどく長かった。
午後二時七分。
玄兎の指が、かすかに動いた。
小毬が立ち上がりかける。
「玄兎先輩、今、指が動きました!」
透羽がすぐに手で制した。
「まだです。呼吸が戻るまで待ってください」
再構築された胸が、一度だけ上下した。
止まる。
もう一度。
今度は空気が肺へ入る。
玄兎は激しく咳き込んだ。
「……っ、げほ……」
瞼がゆっくり開く。
白い天井。
知らない部屋。
そして、すぐ近くに透羽の顔。
「玄兎。私が分かりますか」
玄兎は重い頭を動かし、焦点を合わせる。
「……透羽。ちゃんと分かる。そこにいる」
その一言だけで、小毬の目から堪えていた涙が一気に溢れた。
「玄兎先輩……! 本当に戻ってきたんですね……!」
玄兎は順番に視線を動かす。
「小毬もいる。千燈……依澄も」
千燈は目を閉じ、張りつめていた息をようやく吐いた。
「いるよ。四人ともいる」
依澄は玄兎の手を握ったまま、かすかに笑った。
「玄兎、おかえり。ちゃんと戻ってきたね」
玄兎も弱々しく笑う。
「……ただいま。四人とも、待っててくれたんだな」
透羽は一度だけ深く息を吐き、すぐに状態確認へ移った。
「胸の痛みはありますか。頭痛、吐き気、視界の異常は?」
玄兎は身体を確かめる。
大きな穴が開いていたはずの胸には、傷一つない。
「胸は痛くない。頭が少し重いけど、吐き気はない」
「名前を言えますか」
「鵺代玄兎。二十歳。朽木ヶ丘大学二年」
透羽は頷く。
「今日、何があったか覚えていますか」
玄兎は目を閉じ、朝から順番に記憶をたどった。
南門。逆さに昇る雨。地下。封印。水路。井戸。逃走。透羽が足を挟まれたこと。依澄を支えたこと。出口。黒い爪。胸を貫かれた感覚。
「覚えてる。地下から逃げて、出口の前で刺された。それで……死んだ」
最後の二文字を口にすると、身体が無意識に強張った。
怖かった感覚も残っている。
透羽は少し赤い目のまま、静かに頷いた。
玄兎は逆に彼女の足を見る。
「そうだ、透羽の足はどうなった? 歩ける?」
「捻挫です。数日で治ります」
「それならよかった。足までひどく傷めてなくて安心した」
「玄兎、今は私の話を聞いてください」
透羽の声が詰まる。
「あなたは、死にました」
「うん。分かってる」
「死なないと約束したのに」
玄兎は視線を落とした。
「……約束を守れなくて、ごめん」
しかし透羽は首を横に振った。
「謝らないでください。今回は、あなたは最後まで生きようとしました。逃げることを選び、助けを求め、一人で残らなかった」
透羽は玄兎の手を握った。
「それでも届いてしまったのなら、玄兎のせいではありません。だから謝らないでください」
その手の強さに、玄兎はしばらく何も言えなかった。
小毬が涙を拭いながら、玄兎の腕へそっとしがみつく。
「でも、明日の約束は守ってください。五人でお昼を食べるって言いました」
玄兎は小さく笑った。
「覚えてる。行くよ。今度こそ絶対」
千燈が横から口を挟む。
「その前に今日は休むこと。これは命令」
「分かりました、先輩。今日は大人しく休みます」
依澄も玄兎の手を離さず言う。
「今日の好きな食べ物、決めた」
玄兎は少し笑った。
「帰ってから決めるって言ってたやつ?」
「うん。プリンにする」
玄兎は透羽を見る。
「プリンって、もしかして透羽の影響だったりする?」
「私の影響ではありません」
「でも透羽、プリン好きだろ」
「それと依澄さんの選択は無関係です」
依澄が真顔で補足する。
「透羽はプリン好き。玄兎も今日から好き」
「俺まで決められた」
小毬が笑う。
千燈もつられて笑った。
透羽は困ったように眉を寄せたが、その口元もわずかに緩んでいた。
処置室へ、ようやくいつもの空気が戻ってきた。
◇
午後四時三十二分。
蘇生から二時間余り経っても、玄兎は経過観察のため処置室から出られずにいた。
四人は交代で飲み物や食べ物を取りに行き、大学や鷺宮家への連絡を済ませながら、誰一人として遠くへ離れようとしない。
外から戻ってきた小毬の手には、表紙の角が少し曲がった「群れ日記」があった。
「玄兎先輩。今日も書きます」
「今日はさすがに寝かせてもらえるかと思った」
「こういう日だから書くんです。あとで先輩が忘れないように」
その言葉に、玄兎の胸がほんの少しだけざわついた。
小毬は枕元でノートを開く。
昨日のページには、五人の筆跡で昼食の記録が並んでいた。
『五人で昼飯』
『玄兎――日替わり定食』
『透羽――冷やしうどん』
『千燈――サンドイッチ』
『依澄――オムレツ』
『小毬――唐揚げ定食』
さらにその下。
『青葉寮の記録を久住教授へ報告』
『今日も全員元気』
小毬は次のページを開き、今日の日付を書く。
『地下封印の異常』
『玄兎先輩が死んだ』
そこでペン先が止まった。
一滴の涙が紙へ落ち、文字の端が滲む。
玄兎は静かに言った。
「無理に書かなくていいよ」
小毬は首を横に振る。
「書きます。嫌だったことも、怖かったことも、戻ってきたことも全部残します」
袖で目元を拭い、その下へ大きな字で二行を書き足す。
『でも戻った』
『今日も全員いる』
小毬はノートを玄兎へ向けた。
「ほら。今日も全員います」
「うん。ちゃんと五人とも、今日もここにいるな」
玄兎が答えると、小毬は泣き顔のまま笑った。
そして、昨日のページへ戻る。
「そういえば、玄兎先輩。昨日のお昼、何を食べたか覚えてます?」
会話を少し明るい方へ戻すための、何気ない問いだった。
玄兎も、何気なく答えようとした。
昨日の昼。
大学の学食。
五人でテーブルを囲んだ。
そこまでは知っている。
けれど。
肝心の光景が、浮かばなかった。
玄兎の表情から笑みが消える。
「……ちょっと待って」
目を閉じる。
昨日の朝。
青葉寮を出たことは覚えている。
図書館の個室で、透羽から古い記録を見せられたことも覚えている。
その時に何を話したかも思い出せる。
しかし、その先へ意識を進めると。
昼食の時間だけが、切り取られたように消えていた。
眠っていたわけではない。
ぼんやりしていたわけでもない。
そこに一時間ほどの出来事があったという知識だけはある。
なのに、匂いも、味も、声も、自分がそこへいた感覚も残っていない。
「玄兎先輩……?」
小毬の笑顔がゆっくり消える。
玄兎は目を開けた。
「昨日、俺たち……五人で学食に行ったんだよな」
「はい。その通りです」
「俺は日替わり定食を食べた?」
「はい。ここに先輩自身の字で書いてあります」
小毬がノートを差し出す。
ページの隅には、小さな写真も貼られている。
五人分のトレー。
中央には鶏の照り焼き。
箸を持って笑っている玄兎自身。
写真を見れば、状況は理解できる。
でも、自分がその椅子へ座っていた感覚がない。
「……覚えてない」
その一言で、部屋の空気が止まった。
ちょうど戻ってきた透羽の手から、未開封のペットボトルが落ちた。
硬い音を立て、床を転がる。
「玄兎。今、何と言いましたか」
「昨日の昼飯を、覚えてない」
透羽の顔から血の気が引いた。
すぐベッドのそばへ来る。
「では、昨日の朝に何をしていたかは覚えていますか?」
「覚えてる。青葉寮も、図書館で透羽と話したことも」
「今日、地下へ入る前のことは?」
「覚えてる……と思う」
透羽は一度唇を結んだ。
それでも確認しなければならない。
「今朝、地下へ向かう前に、小毬が昨日の日替わりを家でも作ってほしいと言いました。玄兎はその時、献立も昨日の会話も自分から答えています」
玄兎は透羽を見る。
今朝、南門で四人と話したことは覚えている。
けれど。
その会話の中の「昨日の昼食」に関する部分だけが、霧の中へ落ちている。
小毬が震える声で補足する。
「鶏の照り焼きです。先輩が昨日、『家でも作れそう』って言ったから、私が作ってくださいって頼みました。透羽先輩が『今度は五人で作りましょう』って言って……」
「それで玄兎が、『透羽は切る係以外で』と言いました。私が怒ったところまで、今朝は覚えていました」
透羽の声も震えている。
玄兎は、自分が今朝何を言ったかを皆の証言から組み立てられる。
しかし、それは記憶ではない。
誰かから教えられた出来事を、頭で理解しているだけだ。
「ごめん。今は、その会話も思い出せない」
小毬はすぐ玄兎の手を両手で握った。
「謝らないでください。私が覚えてます。ノートも写真もあります。先輩が思い出せないなら、私たちが何回でも話します」
その言葉を聞き、玄兎は胸の奥が締めつけられるのを感じた。
小毬と出会った日の帰りにも、彼女は似たことを言った。
あの時は、いつか自然に薄れていくかもしれない思い出を惜しむための、優しい約束だった。
今は違う。
本当に失われた時間を支える言葉になっている。
千燈と依澄も、空気の変化に気づいて部屋へ戻ってきた。
事情を聞いた千燈は無言で写真を確認する。
依澄は玄兎の空いている方の手を握った。
玄兎はもう一度写真を見る。
笑っている五人。
ありふれた昼食。
怪異も出ていない。
命の危険もない。
特別ではない、一時間ほどの日常。
だからこそ怖かった。
大きな事件から順番に消えるわけではない。
大切なものだけを残してくれるわけでもない。
昨日まで確かに持っていた時間が、何の手触りも残さず抜け落ちている。
「透羽。昨日見せてくれた記録、もう一度見せて」
透羽は一瞬ためらったあと、昨夜書き写した紙を取り出した。
『長期観察にて、認知記録に一部不一致を確認』
『不一致と再構築回数の関連――』
結論に当たる箇所は、黒塗りの向こうにある。
欠損が再構築の回数に比例するのか。
死ぬたび必ず起こるのか。
何を失うのか。
そして、一度思い出せなくなった記憶が後から戻ることはあるのか。
今ある資料だけでは、どれも分からない。
ただ、今回について確認できた前後関係はある。
地下へ入る前、玄兎は昨日の昼食について自分から内容を思い出し、会話まで再現できていた。それが死亡し、身体が元へ戻ったあとには、同じ時間へ自力で辿り着けなくなっている。小毬たちから出来事を教えられても、写真を見ても、その一時間ほどを自分の記憶として思い出すことができない。
「死亡と身体の復元を挟んで、思い出せる記憶が一つ減った」。そこまでは、もう推測ではなかった。
ただし、それだけで《還月》が記憶を消したと断定することはできない。地下の封印異常や、玄兎へ集中していた怪異の影響など、ほかの要因もまだ切り分けられていない。
玄兎は写真の中の鶏の照り焼きを見つめた。
「昨日までは、『関係あるかもしれない』だった。でも今回は、少なくとも戻ったあとに思い出せなくなってる」
透羽は慰めるような嘘をつかなかった。
「……はい。それは確認できます。ただし、原因も、記憶が永久に失われたのかどうかも、まだ断定できません。どこかに残っていて取り出せないだけなのか、時間が経てば戻る場合があるのか、それも今の資料からは判断できません」
「じゃあ、消えたのか、どこかに残ってるのに取り出せないだけなのかも分からない?」
「分かりません。ですが、今の玄兎がその記憶へ触れられないという事実は同じです。それに、次の再構築でも起こるのか、欠ける記憶を選ぶ条件があるのか、失われる範囲が広がるのかも未解明です」
透羽は黒塗りの資料へ目を落とした。
「この二行だけで原因まで決めるのは危険です。鷺宮家に残る上位の再構築記録と、二十年前の外部器関連記録まで確認します。《還月》と今回の認知変化がどう関係しているのか、地下の異常も含めて切り分ける必要があります」
玄兎は苦く笑った。
「それだけ分かれば、今の俺には十分すぎるくらい怖いよ」
「はい。大丈夫ではありません」
透羽の目から、堪えていた涙が一滴だけ落ちた。
「次に玄兎が戻った時、また私たちと過ごした時間が消えるかもしれない。そんな状態を、私は不死身だとは呼べません」
玄兎は左胸の痣へ触れる。
《還月》は壊れた身体を戻す。
けれど、昨日の昼食は戻してくれなかった。
今までの玄兎は、自分の命を必要以上に軽く扱ってきた。
死ぬのは痛い。怖い。それでも戻るなら、自分が引き受ければいい。そう思っていた。
もう同じようには考えられない。
死ねば、今日までの何かを失うかもしれない。
四人と笑った時間も。顔も。名前も。自分が大切にしたいと思った気持ちさえも。
次に目を開けた時には、なくなっているかもしれない。
「俺、もう死ねないな」
自分の口から出た言葉に、小毬が息を詰めた。
玄兎は少しだけ震える手を握る。
今度は、もっとはっきり言った。
「本当に、死にたくない」
言葉にしてから、自分自身が一番驚いた。
痛みを避けたいだけではない。
明日も五人で昼を食べたい。
そして、その明日を次の日にも自分の記憶として持っていたい。
「……死にたくない」
二度目は、迷わなかった。
透羽が顔を上げる。
小毬は泣きながら笑った。
千燈は長く息を吐く。
依澄が玄兎の手を握る指へ力を込めた。
「それ、生きたいに近い」
玄兎は依澄を見る。
「同じじゃない?」
「少し違う。でも、前より近い」
小毬の友人を助けた夜。
玄兎は初めて、「今日を忘れたくない」と思った。
あの時は、まだ「死にたくない」とまでは言えなかった。
今、その二つがようやくつながった。
その先にある「生きたい」という言葉も、以前よりずっと近くに見えていた。
◇
その日の夜。
玄兎は念のため、鷺宮家の客間で経過観察を受けることになった。
小毬は当然のように「泊まります」と宣言し、千燈と依澄も帰ろうとしなかった。
透羽は三人分の客室を手配し、自分は玄兎の部屋に残って医療記録を確認している。
小毬は隣室を指さしながら言った。
「玄兎先輩、一人じゃありませんからね。壁一枚向こうに全員います。何かあったらすぐ呼んでください」
「群れは近い、だったな」
「そこはちゃんと覚えてますね。少し安心しました」
確かめるような声音だった。
玄兎は小毬へ向き直る。
「覚えてるよ。透羽と三メートル以上離れたら痛みが走った日のことも、夢の中で依澄と会ったことも、千燈に血を読まれた夜のことも」
名前を挙げられた三人の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
玄兎は自分へ言い聞かせるように続ける。
「今残ってる記憶まで、なくなったものみたいに扱うのはやめる。忘れた昼飯のことは皆に教えてもらう。でも残ってることは、自分でちゃんと大事にする」
小毬は群れ日記を机の上へ開いた。
昼間に書いた記録へ、今確認できている事実を五人で書き足していく。
『地下封印の異常』
『玄兎が死亡し、その後に身体が復元して呼吸・心拍が戻った』
『死亡前、玄兎は昨日の昼食と、その時の会話を自分で思い出せていた』
『身体の復元後、昨日の昼食と、その時の会話を自分の記憶として思い出せなくなった』
『死亡・身体復元と記憶欠損の前後関係は確認。ただし因果関係は未確定』
『記憶が永久に失われたのか、後から回復する可能性があるのかは不明』
『同じことが次回も起こるか、欠ける記憶に条件があるか、失われる範囲が広がるかも不明』
『鷺宮家の上位再構築記録、二十年前の外部器関連記録、地下封印の影響を確認する』
推測と、確認できた事実。
それらが混ざらないよう、透羽が一文ずつ慎重に確認した。
最後に玄兎がペンを取る。
少し考えて、三行を書いた。
『死にたくないと思った。』
『忘れたくない。』
『明日、五人で昼飯を食べる。』
依澄が覗き込む。
「明日、何食べる?」
「それは明日決める」
「私は明日もプリンが食べたい。それはもう決めてる」
「それ、食事じゃなくてデザートだろ」
「食事じゃなくてもいい。今はプリンが好きだから」
「じゃあ食後に食べればいい」
「うん。分かってる」
千燈も少し笑う。
「私は唐揚げにしようかな」
小毬がすぐ反応した。
「千燈先輩、私と同じです!」
「群れ感染したかも」
「感染って言わないでください!」
透羽はノートへ書かれた最後の一行を、しばらく黙って見つめていた。
やがて玄兎へ顔を向ける。
「明日、待っています」
玄兎は少し笑う。
「それは、また監視対象として待ってるって意味?」
透羽は、いつもならすぐ「はい」と答えただろう。
しかし今日は違った。
ほんの一瞬だけ迷ったあと、首を横に振る。
「いいえ。今回は監視だからではありません」
玄兎は少し驚いた。
「じゃあ、どうして待ってくれるんだ?」
透羽は頬が赤くなるのを隠さず、それでも目を逸らさなかった。
「私が、玄兎に会いたいからです」
小毬が思わず身を乗り出す。
「透羽先輩、それかなり強いです!」
「白狼院さん、声が大きいです」
千燈は楽しそうに笑った。
「やっと監視以外の理由を自分から言ったね」
依澄は首を傾げる。
「それって、恋人だから会いたいってこと?」
「依澄さん、その分類はまだ不要です」
「今、『まだ』って言った? 将来は違うの?」
透羽の動きが止まる。
玄兎は堪えきれずに笑った。
「もうその辺でやめてやれって」
透羽はますます赤くなったが、怒らなかった。
玄兎は少しだけ間を置く。
「俺も明日、会いたいよ。五人とも」
透羽は何も言い返さなかった。
ただ、ほんの少しだけ笑った。
◇
深夜。
客間には玄兎一人だけが残っていた。
眠ることができず、布団の中から暗い天井を見つめる。
昨日の昼の記憶はない。
今日は確かに一度死んだ。
今日のことは、今は覚えている。
でも、それが明日も残っている保証はない。
玄兎は枕元のスマートフォンへ手を伸ばした。
画面には、昨日の学食で撮った写真が表示されている。
記憶にない自分が、四人と一緒に笑っている。
その食事の味も。会話も。笑った理由も。
自分の中には残っていない。
「俺の記憶なのにな」
自分だけが持てない思い出。
それが少し悔しい。
けれど、しばらく写真を見ているうちに、別の考えが浮かんだ。
「……俺だけのものじゃなかったのか」
昨日一緒にいたなら、昨日は五人の時間でもある。
小毬が覚えている。
透羽が覚えている。
千燈も依澄も覚えている。
だから少なくとも、その時間に起きたことまで世界から消えたわけではない。
もちろん、それで玄兎自身の記憶が戻るわけではないし、すべてが解決するわけでもない。
もし次にまた同じことが起きたら、何を思い出せなくなるのか。名前なのか、顔なのか、大切な人と過ごした時間なのか。それとも、今回だけで二度とは起こらないのか。
何も分からないこと自体が怖かった。
玄兎はその恐怖を、今度こそ曖昧にせず言葉へした。
「……やっぱり嫌だな。また何かを忘れるかもしれないって思うのは」
声が暗い部屋へ落ちる。
「それは、本当に嫌だ」
左胸の痣へ手を当てる。
《還月》の存在を、以前のように都合のいい保険だとは思えなかった。
「だから、死なない」
誰かに言われたからではない。
約束させられたからでもない。
玄兎自身が選んだ言葉だった。
◇
同じ頃。
大学地下の異常は、いったん鎮静したように見えていた。
しかし、玄兎たちが最深部で見た井戸には、そのさらに下がある。
誰にも開示されていない巨大な空洞。
封印の中心には、黒い繭のような影が静かに脈打っていた。
その周囲では、何百、何千もの怪異が眠っている。
闇の中から、低い囁きが重なった。
『器が死んだ』
『戻った』
『削れた』
『空いた』
『帰れる』
幾つもの声が、一つの結論へ集まろうとする。
その時。
中心の黒い繭から、性別も年齢も分からない静かな声が響いた。
『まだ』
たった一言。
それだけで、周囲の怪異が一斉に黙る。
『まだ、眠れ』
黒い繭は再び動きを止めた。
地下には、何事もなかったかのような静寂だけが戻った。
◇
翌日。
午前十一時五十六分。
玄兎は朽木ヶ丘大学の学食へ向かった。
入口をくぐると、いつもの席にはすでに四人が揃っている。
最初に気づいた小毬が、大きく手を振った。
「玄兎先輩、こっちです! 今日はちゃんと来ましたね!」
玄兎は時計を見る。
「まだ十二時前だぞ。むしろ四分早い」
千燈が笑う。
「昨日死んだ人が時間どおり来ただけで、今日は十分えらいよ」
「評価基準が低すぎるだろ」
依澄はメニューより先にプリンの棚を見ていた。
「私は今日もプリンが好き」
玄兎は少し笑う。
「昨日から変わってないの、珍しいな」
「珍しい。でも今日はこれ」
透羽は、自分の隣の席を一つ空けて待っていた。
玄兎が座ると、彼女はいつもの調子で言う。
「こんにちは。体調に変化はありませんか」
「おはようじゃないんだ」
「もう昼です。今日は『こんにちは』の時間です」
「じゃあ、こんにちは。体調は問題なし」
小毬が待ちきれないように身を乗り出した。
「玄兎先輩、昨日の夜に群れ日記へ何を書いたか覚えてます?」
試すような言い方ではない。
心配しながら、確かめたいのだと分かる。
玄兎は少しだけ目を閉じ、記憶をたどった。
「『死にたくないと思った』『忘れたくない』『明日、五人で昼飯を食べる』。この三つ」
小毬の顔がぱっと明るくなる。
「全部正解です!」
依澄が玄兎を見る。
「昨日言っていた『明日』って、つまり今のことだよね」
「そうだな。今がその約束の時間」
千燈がメニューを開く。
「じゃあ実行しよう。何食べる?」
玄兎もメニューを見る。
今日の日替わり定食。
『鶏の照り焼き』
その文字を見た瞬間。
小毬の表情が変わった。
玄兎にも意味は分かる。
昨日。
自分が忘れてしまった昼食と同じ献立だ。
小毬は遠慮がちに尋ねる。
「先輩……昨日も、それでした。別のものにします?」
玄兎の手が一瞬だけ止まった。
昨日の味は分からない。
写真の中に料理はある。
自分が食べたという事実もある。
けれど、味の記憶だけはない。
玄兎は少し考えてから、首を横に振った。
「いや。もう一回、同じの食べる」
「いいんですか?」
「昨日を無理に取り戻すためじゃないよ。昨日の味はもう分からない。だから今日は、今日の照り焼きを食べて、今日の味として覚えたい」
小毬の目が潤む。
それでも笑った。
「じゃあ、私も同じのにします」
透羽もメニューを閉じた。
「私も同じものにします」
玄兎が横を見る。
「どうして透羽まで同じ定食にするんだ?」
透羽は少しだけ考えてから答えた。
「監視ではありません。今日は、同じ味を共有したいからです」
千燈が楽しそうに笑う。
「じゃあ私も乗ろうかな」
依澄も手を上げる。
「私も。同じのを食べる。プリンはあと」
小毬も元気よく頷く。
結局、五人全員が同じ鶏の照り焼き定食を注文した。
料理が届く。
玄兎は箸を取り、一口食べる。
甘い醤油。
生姜。
少し焦げた鶏皮の香り。
噛むたびに、肉汁と濃いタレの味が広がる。
小毬が期待するように覗き込む。
「玄兎先輩、今日の照り焼きはどうですか? ちゃんと味、分かります?」
玄兎はゆっくり飲み込んだ。
「うまい。これなら確かに家でも作れそうだな」
小毬の目が大きくなる。
「昨日も、まったく同じこと言ってました!」
玄兎は少し驚き、それから笑った。
「そっか。じゃあ昨日の俺も同じ味覚だったんだな」
千燈が笑い、依澄も穏やかに口元を緩める。
玄兎はもう一口食べた。
急がず。
味を覚えるように。
昨日の穴を埋めるのではない。
昨日をやり直すわけでもない。
今日、新しく覚える。
透羽が隣で静かに言った。
「今日のことは、今日の記憶として残せばいいのですね」
玄兎は頷いた。
「うん。昨日とは別でいい」
五人がここにいる。
今日は確かにある。
明日のことは、まだ分からない。
それでも玄兎は初めて、明日もこの続きを覚えていたいと思った。
またここへ来たい。
また同じように笑いたい。
その願いはきっと――
「生きたい」という言葉の、すぐ近くにあった。
――第十二話・了
――第一章・了