旧図書館の音声資料室で怪異を鎮めてから二日後、鵺代玄兎のスマートフォンには、五人だけの共有アルバムができていた。
自分の記憶だけを唯一の証拠にしない方がいい――そう話した翌日の昼だった。
学食で、小毬が玄兎のスマートフォンを覗き込みながら不満そうに言った。
「やっぱりアルバム名は『群れの記録』が一番分かりやすいです」
「大学生五人の共有アルバムに『群れ』は嫌だ。誰かに見られた時の説明が難しすぎる」
向かいでは千燈が笑いながら、昨日撮った写真を一枚表示していた。小毬は山盛りの肉、依澄は割ったクリームパン、玄兎は缶コーヒー。そして透羽だけが、撮られていることにも気づかず、小さなプリンを真剣な顔で食べている。
背後から声が落ちた。
「千燈、その写真は消してください」
振り返ると、冷やしうどんのトレーを持った透羽が立っていた。
「記録を残すのはいいです。でも、撮る前に一言聞いてください」
「でも、かわいく撮れてるよ?」
「かわいいかどうかではなく、私に聞いたかどうかです」
千燈が渋々写真を消す。透羽は玄兎の隣へ座ると、鞄から紺色の小さなノートを取り出した。
「写真だけでは残らないこともあります。誰と何をしたか、何を食べたか。印象に残ったことを一行でも書けば、後から確かめられます」
小毬がすぐ手を挙げた。
「では『群れ日記』で!」
「却下」
玄兎と透羽の声が重なり、千燈が吹き出した。
その横で、依澄だけはノートの白い一頁目を見つめていた。
「これは玄兎だけが書くの?」
「基本的にはそのつもりでした」
「一冊を五人で書くのは駄目?」
透羽が問い返すより先に、依澄は続けた。
「玄兎が忘れた日は、誰かが書ける。私が忘れられそうな時にも、誰かが書いてくれる」
四人の視線が集まる。
玄兎はノートを依澄の方へ押した。
「じゃあ五人で使おう。書きたい人が書けばいい」
「決まり」
依澄は迷わず頷いた。
その日の記録だけでなく、それまでに起きた事件についても、覚えている範囲で要点だけ遡って書き足すことになった。
最初にペンを取ったのは小毬だった。五人の昼食を細かく書き、自分の欄だけ唐揚げの個数まで記録したあと、頁の一番下へ大きな字を足す。
『全員元気。』
玄兎は、たった五文字からしばらく目を離せなかった。
こうして五人が昼を食べているだけのことが、以前よりずっと貴重に見えた。
透羽がノートの端を指で押さえる。
「夜に玄兎も何か書いてください」
「分かった。忘れなければ」
言ってから、自分の声が少しだけ止まった。
小毬も千燈も冗談を挟まない。透羽の指も動かなかった。
依澄が、いつもの調子で言った。
「忘れたら教える。抜けたところは、誰かが書けばいい」
玄兎は一度だけ息を吐き、頷いた。
「……そうだな」
全部を自分一人で覚えていなければならないわけではない。その考えは、不安を消しはしなかったが、抱え方を少しだけ変えてくれた。
◇
同じ日の午後三時。五人は久住教授の研究室へ呼ばれた。
机には、北キャンパス外れにある青葉第一学生寮の配置図と、施設管理課の報告書が三枚並んでいる。明日から予定されていた解体前調査は、久住の要請でいったん延期されたらしい。
玄兎は一枚目を手に取った。
『二十二時十四分。三階廊下にて、前日に聞いた作業員二名の会話を確認。現場に人影なし。』
二枚目。
『清掃済みの四〇八号室にて、翌夜、同位置から同量と思われる埃が落下。』
三枚目には、警備員の手書きが残っていた。
『壁時計が逆に動いた。最初は一分。翌日は約五分。午前零時前後に強くなる。』
「声だけなら録音や反響も疑えますけど、埃と時計まで揃うと嫌ですね」
玄兎が紙を置くと、透羽が配置図へ目を落とした。
「時計の異常と、古い生活の痕跡が同じ原因かどうかは、現地を見ないと判断できません。時間そのものが戻っているとは、まだ考えない方がいいでしょう」
久住は頷いた。
「だから相談した。ただし、これは授業でも課題でもない。断っても何も不利益はないし、危険だと思ったら零時を待たず帰れ。解体前調査は止めてある」
透羽は少し考えたあと、全員を見た。
「現地を確かめるところまでは行きます。続けられないと私が判断したら、その場で戻ります。それでいいですか」
四人が頷く。
「教授は中へ入らないでください」
玄兎が言うと、久住は苦笑した。
「今回は最初からそのつもりだ。管理人室側で待機する」
「安心しました。教授まで巻き込まれたら、助ける人数が増えるので」
「そこは普通に心配しろ」
張っていた空気が少しだけ緩んだ。
久住は寮の鍵を透羽へ渡す。
「電気と水道は最低限生きている。必要なら安全な部屋で待機していいが、無理はするな」
◇
午後六時二十分。青葉第一学生寮は、夕暮れの薄い光の中に静かに建っていた。
廃墟というほど荒れてはいない。窓ガラスも残り、玄関には数年前の大学祭ポスターが剥がれかけたまま貼られている。それでも、人が暮らさなくなった建物には、生活だけを抜き取ったような空洞があった。
小毬は玄関前で何度か鼻を動かした。
「昔ここにいた人の匂いが、何年分も重なってます。洗剤、料理、汗、布団……多すぎて一人ずつ追えません」
柱へ指を触れた千燈によると、血は残っているが、事件というほど濃くはない。鼻血や切り傷など、長く暮らせば積もる程度らしい。
依澄は建物全体を見上げていた。その視線は、一つ一つの部屋へ移っていく。
「夢も多い。眠ってた人の気配が、部屋ごとに残ってる」
透羽は脇の外水栓を開き、指先で流れを確かめてから閉じた。
「水道は使えます。これなら術を通す道も作れます」
管理人室前で待っていた久住と警備員から鍵を受け取り、五人は玄関へ入った。
時刻は午後六時四十二分。
玄兎が腕時計を見たのとほぼ同時に、玄関ホールの古い壁時計が、かちり、と妙に大きな音を立てた。
六時四十二分を指していた長針が、一目盛だけ逆へ動く。
六時四十一分。
誰も声を出さなかった。
さらに一度、秒針が逆へ跳ねたあと、時計は何事もなかったように正しい方向へ進み始める。
「今、何か変わりましたか?」
透羽の問いに、四人はそれぞれ自分の身体と周囲を確かめた。
何もない。
少なくとも、そう思えた。
五人は一階から順に確認していった。共同キッチン、食堂、談話室。二階から上には個室が並び、廊下の柱には剥がされた名前札の跡や、古い寄せ書きが残っている。
『卒業しても忘れんなよ』
油性ペンで書かれた文字を見て、玄兎は足を緩めた。取り壊されれば、こういうものも壁ごとなくなる。
「学生寮って、ちょっと楽しそうですね」
小毬が並ぶ部屋を見ながら言った。
「家族じゃない人と近くで暮らして、ご飯食べたり、夜まで話したりするんでしょう?」
「小毬なら一日で全員の匂い覚えそうだな」
「便利な寮生です。迷子もすぐ探せます!」
話はいつの間にか、もし五人で同じ寮に住んだら誰が料理をするか、というどうでもいい想像へ転がった。
「玄兎が一番まともじゃない?」
千燈に言われ、玄兎は透羽をちらりと見る。
「俺が作るのはいいけど、当番制にしよう。依澄、まずは一緒に野菜を洗ってみる?」
「やってみたい」
「私も手伝います。肉なら綺麗に切れます!」
「野菜も頼む」
最後に全員の視線を受けた透羽は、真顔で答えた。
「私は全体の安全管理を担当します」
「料理当番から逃げてない?」
「適材適所です」
無人の廊下に笑い声が広がる。
その直後、三階の奥から男の声が聞こえた。
『明日、出ていくんだな』
『卒業しても会うって』
『社会人になったら忙しいぞ』
『じゃあ今日くらい寝ないで話そうぜ』
声を追って開けた部屋には誰もいなかった。床には家具を置いていた跡だけが残り、壁に貼られた古い写真では、四人の男子学生が肩を組んで笑っている。
写真の裏には、二〇〇六年三月の日付があった。
「昨日の声って、一日前って意味じゃなさそうだな」
玄兎が言うと、依澄は部屋の奥を見たまま頷いた。
「この建物にとって、終わってない日がたくさんある」
千燈が写真の四人を眺める。
「楽しかった日ほど、残りやすいのかもね」
透羽は時刻を記録し、玄兎もスマートフォンで写真と室内を撮った。
この時点では、五人ともまだ、自分たちが記録する側だと思っていた。
◇
午後七時四十八分。調査を一通り終え、異常が強まる零時まで一階で待機することになった。
夕飯はカレーになった。
共同キッチンへ向かいかけた時、廊下の壁時計が一度だけ逆へ跳ねた。
直後、まだ誰も入っていないキッチンから、小毬の声がした。
『先輩、肉、全部入れちゃいますね!』
五人の足が止まる。
当の小毬は玄兎の隣にいた。
「……私、まだ何も言ってません」
「だよな」
玄兎は無人のキッチンを見たが、それ以上の声は続かなかった。
調理を始めると、玄兎が鍋、依澄が玉ねぎ、小毬が肉、透羽が人参を担当し、千燈は「監督」と称して味見の機会を狙った。
やがて小毬が肉の袋を持ち上げる。
「先輩、これ全部入れていいですか?」
「五人分にしては多すぎる。半分な」
「明日の私の分まで今日食べるという考え方は?」
「明日の小毬に怒られるぞ」
小毬はしぶしぶ半分を冷蔵庫へ戻した。
さっき聞いた声の通りにはならなかった。
その後は、依澄が玉ねぎで目を潤ませ、透羽の人参は厚さも形もばらばらになり、千燈は味見を二回した。
午後八時十分には、五人で談話室の机を囲んでいた。白い蛍光灯の下、湯気の立つカレーだけが無人の寮に生活の匂いを戻している。
小毬は一口目から目を輝かせた。
「おいしいです!」
依澄は自分の皿をしばらく見つめてから、静かに言った。
「今日の私は、カレーが好き」
「明日は変わるかもしれない。でも、今日好きだったことは残したい」
玄兎はテーブルの端に置いた紺色のノートへ目をやった。
「じゃあ書こう。『依澄は今日、カレーが好き』」
「うん。明日違ってたら、それも書く」
こういう時間こそ、残しておきたい。
◇
午後十時三十二分。
食器を洗い終え、五人が談話室へ戻った頃には、窓の外は完全な闇になっていた。
廊下の照明は一つおきに落としてある。蛍光灯の白い光が途切れるたび、その先だけが妙に深く見えた。
玄兎は共有ノートを開き、夕食の欄へ書き足す。
『青葉寮調査。五人でカレー。依澄は今日カレーが好き。小毬は肉を半分残した。透羽の人参は形が自由。』
向かいの透羽が最後の一文へ目を落とした。
「人参の形まで書くんですか」
「今日の記憶としてはかなり強い」
依澄はノートの余白に、小さく『明日も五人でご飯』と書いた。
玄兎がそれを見た直後だった。
廊下の奥で、かち、と時計の音がした。
談話室にも壁時計はある。だが音は、もっと遠い。
かち。
かち。
一定の間隔で鳴るたび、音がこちらへ近づいてくる。
透羽が立ち上がった。
「全員で確認します」
五人は談話室を出た。
三階へ上がったところで、最初の時計を見つける。
廊下の突き当たりに掛かった丸い壁時計。その長針が、十時三十二分から三十一分へ戻った。
玄兎はすぐスマートフォンを見る。
表示は十時三十二分のまま、一秒ずつ進んでいる。
透羽の腕時計も同じだった。
「時計だけですね」
四〇八号室の扉が、内側から押されたように小さく鳴った。
ごと。
全員がそちらを見る。
鍵は開いている。透羽が先に取っ手へ手を掛け、ゆっくり扉を押した。
室内には誰もいない。
ベッドも机も撤去済みで、灰色の床だけが残っている。
それでも、部屋の奥には生活の気配があった。
窓際の床へ、四角く夕日の跡が残っている。その中央だけ、誰かが座っていたように埃が丸く沈んでいた。
小毬が鼻を動かす。
「洗剤の匂いがします。新しい……ような気がする。でも、誰もいません」
「いつ頃の匂い?」
「分かりません。古いのに、今みたいです」
千燈が部屋の入口から中を見たまま言った。
「感情もある。寂しいとか怖いより、懐かしい方が強い」
その時、空っぽの部屋の奥で、若い男の声がした。
『来年もここで飲もうぜ』
別の声が笑う。
『来年はもう卒業してるって』
『じゃあ帰ってこいよ』
『お前んちじゃないだろ』
笑い声が重なった。
すぐ隣で四、五人が話しているような近さなのに、部屋には何もない。
玄兎は喉の奥が冷えるのを感じた。
「さっきの三階の部屋とは別の人たちか」
「たぶん」
千燈は壁へ耳を寄せるでもなく、ただ静かに聞いていた。
『卒業したら忘れるぞ』
『忘れねえって』
『絶対?』
『絶対』
声がそこで途切れると、代わりに四階のさらに奥から水の流れる音がした。五人が共同洗面所へ向かうと、蛇口はすべて閉まっているのに、鏡だけが白く曇っていた。
誰かが熱いシャワーを浴びた直後のように、細かな水滴が全面へ浮いている。
小毬が自分の袖で鏡の端を少し拭いた。
そのすぐ横で、新しい水滴が一筋、上から下へ流れた。
「……ここ、さっき見た時は乾いてましたよね」
「乾いていました」
透羽が答える。
玄兎は洗面台へ手を伸ばしかけて、触れずに止めた。
排水口の奥から、鼻歌が聞こえたからだ。
男とも女とも分からない声だった。
聞き覚えのない古い歌。数秒だけ続き、ぷつりと止まる。
誰もすぐには動かなかった。
人のいない場所で、生活の音だけが残っている。玄兎はそれが、姿のある怪異より嫌だった。
◇
午後十一時七分。
異常は、階を追うごとに増えていった。
二階では、閉めたはずの個室から目覚まし時計が鳴った。
三階では、誰もいない共同キッチンから包丁でまな板を叩く音が続いた。
四階の浴室では、床に濡れた足跡が一つずつ増え、脱衣所の前まで来たところで消えた。
五階では、布団のない部屋の床がゆっくり沈み、誰かが横になったような形に埃が避けていった。
どれも襲いかかってはこない。その静かな繰り返しが、玄兎にはかえって落ち着かなかった。
小毬が玄兎の袖を軽くつまんだ。
「さっきから、声の中に『卒業』って言葉が多いです」
『荷物いつ運ぶ?』
『最後に写真撮ろう』
『新寮、狭いらしいぞ』
『ここなくなるの、ちょっと寂しいな』
年代も声も違う。それでも、聞こえてくるのは別れ際の言葉ばかりだった。
依澄が廊下の壁へ触れた。
「夢も似てる。ここで寝た人が、出ていく前の夜を何回も見てる」
千燈は少し考え込んでから言った。
「一人の怪異じゃないね。何十年分も薄い感情が重なってる」
「卒業したくない、ってこと?」
小毬が訊く。
「それもある。でも、『忘れたくない』『忘れられたくない』の方が近いと思う」
玄兎は廊下を見回した。
剥がされた名札。柱の落書き。壁に残った画鋲の穴。誰かが貼ったままにしたゴミ分別表。洗面台の端に薄く残ったシール。
建物がなくなれば、ここで誰が笑ったか、どの部屋で喧嘩したか、夜中に何を食べたかという細かな痕跡の大半も一緒に消える。卒業してから何年も経てば、本人たちだって全部は覚えていない。
「……記録か」
玄兎はスマートフォンを取り出した。
「この寮そのものを残すのは無理でも、ここにいた人のことは残せる。写真とか、寮誌とか、卒業生の話とか」
小毬がすぐ頷いた。
「この柱も撮りましょう。『卒業しても忘れんなよ』って書いてあったところ」
「落書きを大学史料に入れられるかは分からないけどな」
「でも写真なら残せます」
千燈も続ける。
「同窓会名簿や昔のSNSまで辿れば、話を聞ける人はいるかも。全部じゃなくても、誰かが覚えてる」
透羽は頷いた。玄兎は久住へ、卒寮生の『忘れられたくない』という思いが怪異の中心かもしれないと伝え、解体前に寮の写真や寄せ書き、卒寮生の証言を残せないか相談した。
返信は一分もしないうちに来た。
『できる。というか、やる。施設管理と史料室に話す。卒寮生にも当たる。今夜はお前らの安全優先。』
玄兎は画面を四人へ見せた。
玄兎は共有ノートを開いた。
『青葉寮の記録を残す。写真、寮誌、寄せ書き、卒寮生の話。久住教授へ依頼。』
書き終えた途端、廊下の奥で鳴っていた目覚まし時計が止まった。誰も口を開かないまま耳を澄ませると、共同キッチンの包丁の音も、浴室から落ちていた水滴も途切れている。
数秒後、玄関ホールの壁時計が、かち、と一度だけ大きく鳴った。さっきまで逆へ戻っていた長針が十一時十八分から十九分へ正しく進み、建物全体が長く息を吐いたように静かになった。
小毬が耳を澄ませる。
「……声、ほとんど消えました」
千燈も頷く。
「感情も薄くなってる。少なくとも、さっきまでの大勢は納得したみたい」
事件が終わった。
その時は、本当にそう思った。
◇
午後十一時四十六分。
久住から、管理人室で待機していると連絡が来た。
一階の部屋は安全を確認したが、零時前後はもう一度観測する。透羽はそう決めてから、大学側が用意した寝具を使うよう三人と玄兎に告げた。彼女自身は零時を過ぎて反応を確かめるまで、起きているという。
玄兎が一室、四人は廊下を挟んだ隣室。
「本当に静かになりましたね」
小毬が廊下を見回す。
千燈が欠伸を噛み殺す。
「寝られる人から寝よ。明日、教授へ報告もあるし」
依澄は共有ノートを抱えていた。
「今日の最後、書く?」
玄兎がペンを受け取る。
『青葉寮。記録を残すことで、声は静かになった。五人とも無事。』
その下へ小毬が書き足す。
『明日も五人で昼飯。』
透羽が照明を落とす前に廊下の壁時計を確認すると、十一時五十分。秒針は普通に前へ進んでいた。五人はそれぞれの部屋へ入り、玄兎もスマートフォンを充電器へ繋いで布団へ横になる。古い建物の夜は、昼間に感じた以上に冷えた。
壁の向こうから、小毬が何か言い、透羽が小さな声で返している。内容までは聞き取れない。
四人が近くにいる。玄兎は目を閉じ、眠りへ落ちかけたところで、遠くから一度だけ『かち』と時計の鳴る音を聞いた。
それだけだった。
◇
午前二時十七分。
玄兎は、音で目を覚ました。
最初は夢の続きだと思った。
こん。
少し間が空く。
こん。
こん。
誰かが、壁の内側を指の関節で叩いているような音だった。
玄兎は暗闇の中で目を開け、スマートフォンで時刻を確かめた。
隣室を起こすか迷う前に、廊下で扉の開く音がした。
透羽だった。
その後ろから、小毬、千燈、依澄も出てくる。
小毬が声を落とした。
「先輩も聞こえました?」
「壁を叩く音?」
四人が頷く。
こん。
また鳴った。
今度は一階ではない。
上からだった。
玄兎たちは廊下へ出る。
談話室の壁時計は二時十七分を指している。
秒針が、一つ進んだ。
次の瞬間、反対へ三つ戻った。
二時十六分五十八秒。
そこから前へ進み、同じ位置へ戻る。
また三秒戻る。
それを繰り返している。
玄兎の眠気が完全に消えた。
「さっきまでの時計と同じか?」
千燈が首を振る。
「違う。さっきの人たちは、もうほとんどいない。これは混ざってない。一人なのかは分からないけど、一つだけ残ってる」
千燈は暗い階段を見上げた。
こん。
上から、もう一度。
玄兎たちは五人で階段を上がった。
照明は落としていたため、透羽がスマートフォンのライトを点ける。
二階は静かだった。三階にも何もない。だが四階へ上がった瞬間、小毬が足を止めた。
「こっちです」
小毬が向いたのは西側の廊下だった。さっきまで卒寮生たちの声が聞こえていた側とは反対になる。
玄兎たちは足音を殺すように、ゆっくり進む。
非常灯の緑だけが、床を薄く照らしている。
こん。
音がする。
廊下の突き当たりには、使われなくなったリネン庫があった。
扉を開ける。
中には古い棚が三本と、畳まれたカーテン、未使用の清掃用品が残っている。
誰もいない。
小毬が眉を寄せた。
「音はもっと奥です」
玄兎が棚の向こうを見る。
壁しかない。
こん。
今度は、はっきり壁の内側から鳴った。
五人とも動かなかった。
数秒後。
こん。
こん。
玄兎は自分の呼吸が妙に大きく聞こえるのを感じた。
透羽が壁へ近づき、触れない距離で確認する。
「配管の音でしょうか」
「それならいいんだけど」
玄兎が答える。
その時、背後で何かが擦れた。
振り返る。
誰もいない。
開けたままのリネン庫の扉が、ゆっくり閉じていた。
透羽がすぐ押さえる。
「風はありません」
小毬が壁を見つめたまま、そっと拳を上げた。
「ちょっと叩いてみてもいいですか」
「壊さない程度にな」
玄兎が答えると、小毬は棚の横へ回り込み、指の関節で壁を軽く叩いた。
こん、こん。
乾いた音が返る。
小毬は半歩ずれて、もう一度叩いた。
こん、こん。
今度は音が少し軽い。壁一枚の向こうに、空洞がある時のような響きだった。
「……ここ、中が空いてません?」
透羽がライトを寄せる。塗装された壁には、扉も継ぎ目も見当たらない。
玄兎も壁へ顔を近づけた。
さっきまで聞こえていた微かな音は止まっている。
静かだった。
静かすぎて、五人の呼吸だけが狭いリネン庫に残る。
小毬が、確かめるようにもう一度だけ壁を叩いた。
こん。
こん。
こん。
その手を下ろす。
何も返ってこない。
「やっぱり配管か何か――」
玄兎が言いかけた、その時だった。
ドンッ。
壁全体が震えた。
小毬が悲鳴を呑み込み、玄兎の側へ飛び退く。棚の上に積もっていた埃がぱらぱらと落ちた。
誰も動けない。
ドンッ。
ドンッ、ドンッ。
さっきまでの弱い『こん』ではなかった。拳で何度も殴りつけているような、重く切迫した音だった。
ドン、ドン、ドンッ。
止まる。
数秒の沈黙。
そして、さらに強く。
ドンッ!
ドンッ!
ドンッ!
壁際の古い棚が細かく震えた。
依澄が玄兎の袖を掴んだ。何も言わない。その指だけが強く食い込んでいる。
千燈も、いつもの軽い表情を完全に失っていた。
玄兎は壁から目を離せなかった。
言葉は聞こえない。それでも、同じ場所を何度も殴りつける音は、「ここだ」「開けてくれ」と訴えているようにしか聞こえなかった。
ドンッ。
もう一度。
玄兎の背中を、冷たい汗が流れた。
「……ここ、開けられる場所がないか調べよう」
誰も異論を言わなかった。
◇
午前二時三十二分。
玄兎たちは壁へ手を出さず、久住へ連絡した。
十分ほどで久住と警備員が四階へ上がってくる。
「音は?」
久住が小声で訊く。
返事をするように、壁の奥から鳴った。
こん。
久住の表情が変わる。
「配管図、持ってきたか?」
警備員がタブレットを開く。
警備員が現在の設備図と建物の外形寸法を照らし合わせると、リネン庫の棚の向こうに、幅一・八メートルほどの使われていない空間が残っている計算になった。
警備員は壁の端をライトで照らす。
棚の陰、床から三十センチほど上に、塗装でほとんど埋もれた細い金属枠があった。
近づいて見なければ、壁の継ぎ目にしか見えない。
枠の隅には、錆びたプレートが残っている。
文字は半分消えていた。
『……検口』
久住が息を呑んだ。
「点検口か」
警備員が首を振る。
「今の図面にはありません。少なくとも俺は見たことがないです」
玄兎は壁を見る。
こん。
今度は、金属枠のすぐ向こうからだった。
小毬が一歩下がる。
「……中からです」
玄兎も背中に汗が浮くのを感じた。
何十年も使われていないかもしれない、図面にも載っていない点検口。
その向こうから、今、誰かが叩いている。
久住はすぐに判断した。
「開けるなら施設管理の担当を呼ぶ。お前らは触るな」
玄兎は頷いた。
待つ間、五人はいったん廊下へ出たが、誰も雑談をしなかった。数分おきに「こん」と音が鳴り、そのたびに壁時計の針だけが同じ時刻へ引かれるように戻る。一方で、玄兎たちのスマートフォンは正常に時刻を進めていた。
やがて施設管理の職員が工具を持って到着した。
壁面を確認し、錆びた固定金具を一つずつ外していく。
最後の一本が外れたところで、点検口はすぐには開かなかった。
内側から何かに引っ掛かっている。
職員が少し力を入れた。
ぎ、と金属が鳴る。
十センチほど隙間ができた。
中から冷たい空気が流れ出した。
小毬が急に玄兎の腕を掴む。
「待って」
職員も止まる。
小毬は開いた隙間を見たまま、青ざめていた。
「……あそこ」
警備員がライトを隙間へ向ける。
光の輪が、狭い空間の床をゆっくり滑った。厚い埃。錆びた配管。その間に、片方だけの古いスニーカーが落ちている。
ライトが少し奥へ動く。
色の抜けた布地が見えた。
職員の動きが止まった。ライトが少し上がり、白いものを照らす。骨だった。人の腕の形が、そのまま残っている。
玄兎は最初、何を見ているのか理解できなかった。
理解した瞬間、胃の奥が縮んだ。
「……開けるの、止めてください」
透羽の声は低く、はっきりしていた。
職員がすぐ手を離す。
久住も頷く。
「ここから先は警察だ。誰も近づくな」
点検口は十センチだけ開いたまま、それ以上動かされなかった。
その時。
廊下の壁時計が鳴った。
かち。
秒針が一つだけ前へ進む。
もう戻らない。
こん。
壁の奥から鳴っていた音も、それを最後に止まった。
静かだった。
卒業生たちの声が消えた時とは違う。
今度は、誰かがそこにいる気配そのものが、ふっと途切れた。
千燈が点検口を見つめている。
「……見つけてほしかったんだ」
誰なのかも、なぜそこにいたのかも分からない。それでも、壁の向こうには本当に誰かがいた。
◇
午前四時五十八分。
警察が到着し、四階の西側は完全に立入禁止になった。五人は点検口を見つけるまでの経緯だけを説明した。遺骨らしきものには誰も触れておらず、身元も死因もまだ分からない。
夜が明ける頃、久住が古い寮生台帳と、点検口が使われていた頃の図面を史料室で確認すると告げた。
「もし寮生だったなら、名前くらいは見つけたいな」
玄兎は頷いた。
午前六時四十九分。
警察から、現場はしばらく立入禁止になると説明を受け、五人は青葉寮を出た。
玄兎は門の外で一度だけ振り返った。玄関ホールの壁時計はガラス越しにも見える。針はもう戻らず、朝の時刻を普通に刻んでいた。
◇
午前七時三十六分。
五人は久住とともに大学の地域資料室へ入った。
古い寮生台帳は紙のまま残っていた。
年度ごとに部屋番号、氏名、入寮日、退寮日が並んでいる。
久住が現在の建物図と古い図面を照らし合わせる。四階西側の点検口は二十年以上前には存在し、その後の改修で使用停止になっていた。空間自体は残ったまま、入口だけが壁と同じ色で塗られ、棚の後ろへ隠れていた。
玄兎は寮生台帳を見る。
その改修より前の年度。
四階の欄を追っていた久住の指が止まった。
入寮日のある学生が一人。
退寮日の欄が空白だった。
備考には、後から違う筆跡で短く書き足されている。
『連絡不通。長期不在につき退寮扱い。』
玄兎はその一行を見つめた。
「退寮した、じゃなくて……退寮扱い」
「そうだな」
久住の声が低くなる。
だが、寮の鍵を返した記録はない。
本人が青葉寮を出たことを確認した書類もなかった。
「この人が、あの遺骨だと決まったわけではありません」
透羽が慎重に言う。
久住も頷く。
「警察の身元確認を待とう」
玄兎は「分かってます」と答えた。
それでも、昨夜聞いた声が頭に戻ってくる。
『卒業したら忘れるぞ』
『忘れねえって』
あれは大勢の寮生の声だった。
しかし壁の向こうから鳴っていた音には、そんな懐かしさがなかった。
千燈も同じことを考えていたらしい。
「だから違ったんだ」
玄兎が見る。
千燈は台帳の空白になった退寮欄を指した。
「他の人は、ここを出たあとで戻りたがってた。思い出してほしかった」
そこで一度言葉を切る。
「でも、この人は……出てない」
誰も何も言わなかった。
「戻りたいんじゃない。ずっと、ここにいた」
久住は台帳を閉じず、該当頁に付箋を貼った。
「警察へ渡す。大学側でも、当時どう処理されたのか確認する」
「寮の記録保存は別に進める。解体前にやる価値はある」
久住は五人を見る。
「この学生のことも、身元が確認できたら、大学として残すべき記録は残す。勝手に美談にはしない。何が分からないかも含めてな」
玄兎は頷いた。
資料室を出る前、玄兎は共有ノートへ短く書いた。
『青葉寮。壁の奥で人が見つかった。身元は確認中。』
少し迷って、その下へもう一行だけ足した。
『見つかった。』
それ以上は書かなかった。
◇
午前九時三十分。
地域資料室を出たあと、玄兎と透羽は大学図書館の個室で向かい合った。
透羽が机へ置いた紙には、鷺宮家の記録から規則に触れない範囲だけを書き写した四行がある。
『再構築後、身体機能に異常なし』
『認知機能、直後は正常』
『長期観察にて、認知記録に一部不一致を確認』
『不一致と再構築回数の関連――』
その先は読めない。
玄兎は紙から目を上げた。
「再構築が《還月》なのか、この対象が俺なのかも、まだ分からないんだよな」
「はい。『関連』の先も読めない以上、記憶の不一致が再構築のせいだと決めることもできません」
玄兎は紙の端を指で押さえた。
「身体が戻っても、全部元通りとは限らないかもしれない」
玄兎はもう一度、四行を見た。
「分かった。じゃあ、もう『どうせ戻るから』を理由にしない。死ぬのを最初の手段にしないで、生きて戻る方法を先に探す」
透羽はしばらく黙り、やがて小さく頷いた。
玄兎は紙を畳んで鞄へ入れた。
図書館の窓から、午前の大学が見える。
昨夜の青葉寮とは違い、学生たちは何も知らずに講義棟を行き来していた。
玄兎は、その普通の景色を以前より少し大事に見た。
◇
午前十一時五十二分。
五人は、共有ノートに書いた通り学食のいつもの席へ揃っていた。
小毬がメニューを開く。
「先輩。今日は何食べます?」
「日替わり定食」
小毬は唐揚げ、依澄はオムレツを選んだ。
その日の日替わりは豚の生姜焼きだった。玄兎が一口食べると、小毬がすぐ皿を覗き込む。
玄兎は共有ノートを机の中央へ置いた。
昨夜の頁の続きへ、今度は五人が順番にペンを入れる。
『五人で昼飯』
『玄兎――日替わり定食』
『透羽――冷やしうどん』
『千燈――サンドイッチ』
『依澄――オムレツ』
『小毬――唐揚げ定食』
その下へ玄兎が、『青葉寮の記録を久住教授へ報告』と書いた。
小毬は最後に『今日も全員元気』と加え、満足そうにペンを置いた。
「写真も撮ります!」
小毬がスマートフォンを持ち上げる。
依澄がスマートフォンを受け取り、タイマーを設定する。
五人分のトレー。
中央には玄兎の日替わり定食、豚の生姜焼き。
写真が撮られる直前、小毬が唐揚げを一つ持ち上げ、千燈が横から取ろうとし、透羽が「食事中に遊ばないでください」と止める。
その瞬間にシャッターが切れた。画面を確認すると、唐揚げを巡る騒ぎの真ん中で玄兎も笑っている。
小毬は満足そうに頷いた。
「あとで小さく印刷して、この頁に貼ります」
表紙には、まだ正式な題名がない。小毬が嬉しそうに指をさす。
「群れ日記!」
「その名前は正式採用してないからな」
依澄が頷く。
「私は嫌いじゃない」
透羽がため息をついた。
「名称は保留です」
「保留まで進みました!」
五人の笑い声が、昼の学食へ広がった。
その後、このノートは普段は久住研究室に置き、調査や必要な時だけ五人の誰かが持ち出すことにした。
◇
それから約四週間後。
朽木ヶ丘大学の古い敷地、そのさらに深い地下。
何重もの封印の奥で、黒い石に髪の毛ほど細いひびが残っていた。
青葉寮に長い間滞留していた怪異がほどけた時、その揺らぎは地中を伝い、封印の奥へわずかな傷を残していた。
そのひびが、音もなくわずかに広がる。
暗い水が揺れた。
『器』
低い声が、水底から響いた。
『還る』
地上では雨など降っていない。
それでも大学脇の側溝では、一筋の水だけが重力に逆らい、ゆっくり空へ這い上がっていた。
――第十一話・了