旧図書館の音声資料室で「忘れたい記憶」の怪異を鎮めてから二日後、鵺代玄兎のスマートフォンには、五人だけの共有アルバムができていた。
昨年の灯籠祭を思い出せない。写真の中の木崎を、すぐ今の友人だと分からなかった。どちらも、それだけなら記憶の異常と決めつけるほどではない。それでも、自分の記憶だけを唯一の証拠にしない方がいい――そう話した翌日の昼だった。
学食で、小毬が玄兎のスマートフォンを覗き込みながら不満そうに言った。
「やっぱりアルバム名は『群れの記録』が一番分かりやすいです」
「大学生五人の共有アルバムに『群れ』は嫌だ。誰かに見られた時の説明が難しすぎる」
「誰にも見せないんでしょう?」
「そういう問題じゃないんだよ」
向かいでは千燈が笑いながら、昨日撮った写真を一枚表示していた。小毬は山盛りの肉、依澄は割ったクリームパン、玄兎は缶コーヒー。そして透羽だけが、撮られていることにも気づかず、小さなプリンを真剣な顔で食べている。
背後から声が落ちた。
「千燈。削除してください」
振り返ると、冷やしうどんのトレーを持った透羽が立っていた。
「自然な日常を残すことと、無断で撮影することは別です」
「でも、かわいく撮れてるよ?」
「評価の問題でもありません」
千燈が渋々写真を消す。透羽は玄兎の隣へ座ると、鞄から紺色の小さなノートを取り出した。
「写真だけでは残らないこともあります。その日、誰と何をしたか、何を食べたか。印象に残ったことを一行でも書いておけば、後から照合できます」
「つまり日記?」
「毎日書けば、そうなります」
小毬がすぐ手を挙げた。
「では『群れ日記』で!」
「却下」
玄兎と透羽の声が重なり、千燈が吹き出した。
その横で、依澄だけはノートの白い一頁目を見つめていた。
「これは玄兎だけが書くの?」
「基本的にはそのつもりでした」
「一冊を五人で書くのは駄目?」
透羽が問い返すより先に、依澄は続けた。
「玄兎が忘れた日は、誰かが書ける。私が忘れられそうな時にも、誰かが書いてくれる」
四人の視線が集まる。
依澄が力を使うほど、人の記憶から彼女の輪郭が薄くなる。だからこそ、その提案には単なる交換日記以上の意味があった。
玄兎はノートを依澄の方へ押した。
「じゃあ五人で使おう。書きたい人が書けばいい」
「決まり」
依澄は迷わず頷いた。
最初にペンを取ったのは小毬だった。五人の昼食を細かく書き、自分の欄だけ唐揚げの個数まで記録したあと、頁の一番下へ大きな字を足す。
『全員元気。』
玄兎は、たった五文字からしばらく目を離せなかった。
誰も怪我をしていない。誰も怪異に呑まれていない。五人が同じテーブルで、くだらないことで揉めながら昼を食べている。それだけのことが、今は以前よりずっと貴重に見えた。
透羽がノートの端を指で押さえる。
「夜に玄兎も何か書いてください」
「分かった。忘れなければ」
言ってから、自分の声が少しだけ止まった。
小毬も千燈も冗談を挟まない。透羽の指も動かなかった。
依澄が、いつもの調子で言った。
「忘れたら教える。抜けたところは、誰かが書けばいい」
玄兎は一度だけ息を吐き、頷いた。
「……そうだな」
全部を自分一人で覚えていなければならないわけではない。その考えは、不安を消しはしなかったが、抱え方を少しだけ変えてくれた。
◇
同じ日の午後三時。五人は久住教授の研究室へ呼ばれた。
机には、北キャンパス外れにある青葉第一学生寮の配置図と、施設管理課の報告書が三枚並んでいる。明日から予定されていた解体前調査は、久住の要請でいったん延期されたらしい。
玄兎は一枚目を手に取った。
『二十二時十四分。三階廊下にて、前日に聞いた作業員二名の会話を確認。現場に人影なし。』
二枚目。
『清掃済みの四〇八号室にて、翌夜、同位置から同量と思われる埃が落下。』
三枚目には、警備員の手書きが残っていた。
『壁時計が逆に動いた。最初は一分。翌日は約五分。午前零時前後に強くなる。』
「声だけなら録音や反響も疑えますけど、埃と時計まで揃うと嫌ですね」
玄兎が紙を置くと、透羽が配置図へ目を落とした。
「時間そのものが戻っているのか、過去の状態を再現しているだけなのかは、現地を見ないと判断できません」
久住は頷いた。
「だから相談した。ただし、これは授業でも課題でもない。断っても何も不利益はないし、危険だと思ったら零時を待たず帰れ。解体前調査は止めてある」
透羽は少し考えたあと、全員を見た。
「現地確認までは行います。継続できないと私が判断した場合は撤退。それでいいですか」
四人が頷く。
「教授は中へ入らないでください」
玄兎が言うと、久住は苦笑した。
「今回は最初からそのつもりだ。管理人室側で待機する」
「安心しました。教授まで巻き込まれたら、助ける人数が増えるので」
「そこは普通に心配しろ」
張っていた空気が少しだけ緩んだ。
久住は寮の鍵を透羽へ渡す。
「電気と水道は最低限生きている。異常が最も強いのは零時前後。必要なら安全な部屋で待機していいが、単独行動はするな」
「男女も別室ですね」
透羽が当然のように確認すると、依澄が首を傾げた。
「夢では玄兎と同じ部屋で寝たことがあるのに?」
「今は現実の大学施設の話です」
「分かった」
千燈が口元を隠して笑った。
玄兎は机の上の三枚の報告書をもう一度見た。
一分。五分。
怪異が毎夜、少しずつ遠い過去へ手を伸ばしているように見えた。
◇
午後六時二十分。青葉第一学生寮は、夕暮れの薄い光の中に静かに建っていた。
廃墟というほど荒れてはいない。窓ガラスも残り、玄関には数年前の大学祭ポスターが剥がれかけたまま貼られている。それでも、人が暮らさなくなった建物には、生活だけを抜き取ったような空洞があった。
小毬は玄関前で何度か鼻を動かした。
「昔ここにいた人の匂いが、何年分も重なってます。洗剤、料理、汗、布団……多すぎて一人ずつ追えません」
千燈も柱へ指を触れる。
「血は残ってるけど、事件ってほど濃くない。鼻血とか切り傷とか、長く暮らしてれば積もるくらい」
依澄は建物全体を見上げた。
「夢も多い。眠ってた人の気配が、部屋ごとに残ってる」
透羽は脇の外水栓を開き、指先で流れを確かめてから閉じた。
「水道は使えます。術の導線も確保できます」
管理人室前で待っていた久住と警備員から鍵を受け取り、五人は玄関へ入った。
時刻は午後六時四十二分。
玄兎が腕時計を見たのとほぼ同時に、玄関ホールの古い壁時計が、かちり、と妙に大きな音を立てた。
六時四十二分を指していた長針が、一目盛だけ逆へ動く。
六時四十一分。
誰も声を出さなかった。
さらに一度、秒針が逆へ跳ねたあと、時計は何事もなかったように正しい方向へ進み始める。
透羽が時計を見上げたまま言った。
「警備員の報告より早いですね」
「入った瞬間に歓迎された気分だな」
玄兎が冗談めかして返したが、声は思ったほど軽くならなかった。
透羽は全員へ視線を巡らせる。
「まず異常が弱いうちに建物を確認します。単独行動は禁止。特に玄兎、気になる物を見つけても一人で先へ行かないでください」
「最近はちゃんと止まるようになっただろ?」
「以前よりは」
小毬が嬉しそうに頷いた。
「前なら『ちょっと見てくる』って、そのままいなくなりそうでした」
「俺、野良猫みたいな扱い?」
「群れから勝手に離れるので似てます」
「狼に言われたくない」
小さく笑ってから、五人は奥の廊下へ進んだ。
背後で壁時計が時を刻んでいる。
玄兎は、一度だけ振り返った。
今度は針は戻らなかった。
◇
一階には共同キッチンと食堂、談話室。二階から上には個室が並び、廊下には剥がされた名前札の跡や、古い寄せ書きが残っていた。
『卒業しても忘れんなよ』
油性ペンで書かれた柱を見て、玄兎は足を緩める。取り壊されれば、こういうものも壁ごとなくなる。
「学生寮って、ちょっと楽しそうですね」
小毬が並ぶ部屋を見ながら言った。
「家族じゃない人と近くで暮らして、ご飯食べたり、夜まで話したりするんでしょう?」
「小毬なら一日で全員の匂い覚えそうだな」
「便利な寮生です。迷子もすぐ探せます!」
話はいつの間にか、もし五人で同じ寮に住んだら誰が料理をするか、というどうでもいい想像へ転がった。
「玄兎が一番まともじゃない?」
千燈に言われ、玄兎は透羽をちらりと見る。
「俺が作るのはいいけど、当番制な。依澄も最初は野菜を洗うところからやればいい」
「やってみたい」
「私も手伝います。肉なら綺麗に切れます!」
「野菜も頼む」
最後に全員の視線を受けた透羽は、真顔で答えた。
「私は全体の安全管理を担当します」
「料理当番から逃げてない?」
「適材適所です」
五人の笑い声が、無人の廊下へ広がった。
その直後だった。
『玄兎、鍋見て。焦げる』
声が、すぐ隣の共同キッチンから聞こえた。五人の足が同時に止まる。今の声は、透羽によく似ていた。玄兎が反射的にキッチンを覗き込むが、もちろん誰もいない。鍋も火も使われていない。
「透羽、今しゃべった?」
「いいえ。ですが、私の声にかなり似ていました」
依澄はキッチンの奥を見つめながら、静かに首を振った。
「昨日の声じゃない」
「昨日、俺たちはここにいないからな」
「うん。だから、昨日じゃない」
その直後、今度は別の声が響いた。
『小毬、肉入れすぎ』
『多い方がおいしいです!』
玄兎と小毬の声だった。小毬は自分の喉へ手を当て、目を丸くする。
「私、まだそんなこと言ってませんよ。でも……すごく言いそうです」
「そこは自覚あるんだ」
「ありますけど、今は言ってません!」
千燈の表情から笑みが消えた。
「昨日を繰り返してるだけじゃないね。まだしてない会話まで、ここはもう『思い出』みたいに持ってる」
依澄が誰もいないキッチンを見つめる。
「起きたことと、起きてほしいことが混ざってる」
透羽はすぐ結論を出さなかった。
「なら、試せます。聞こえた通りにしなければいい」
小毬がぱっと紙袋を持ち上げた。
「ちょうどご飯の材料があります!」
中身を見た玄兎は眉を寄せた。肉がかなり多い。野菜は大きな玉ねぎが一個だけだった。
「これで何を作るつもりだった?」
「肉料理です!」
「広すぎるだろ。近くで野菜を買い足そう。声が言った通りになるか、ならないかも確認できる」
調査中なので、買い出しも五人一緒だった。
千燈が歩きながら笑う。
「野菜を買うだけなのに総出だね」
「群れはまとまって行動します!」
小毬の声は明るい。
それでも玄兎は、背後の寮を振り返らなかった。
まだ起きていない自分たちの会話を、あの建物だけが先に知っている。
その事実は、夕暮れが深くなるほど気味が悪かった。
◇
夕飯はカレーになった。
共同キッチンへ戻ると、玄兎が鍋を担当し、依澄には玉ねぎの皮むきを頼んだ。小毬は肉、透羽は人参、千燈は「見守り」と称して味見の機会を狙っている。
依澄は白い部分まで丁寧に剥き、しばらくして目に涙を浮かべた。
「玄兎。目が痛い」
「玉ねぎだから大丈夫。怪異じゃない」
「水で守れる?」
依澄に見られた透羽が真剣に考える。
「水中で切れば刺激は減りますが――」
「そこまでしなくていい」
玄兎が止めた直後、小毬が肉の袋を鍋の横へ置いた。
「先輩、これ全部入れていいですか? 多い方がおいしいですよね」
玄兎の手が止まる。
共同キッチンで聞いた声と、ほとんど同じだった。
小毬も気づき、袋を見下ろした。
「……半分にします」
「そうしよう」
小毬は名残惜しそうに肉を半分だけ鍋へ入れた。
何も起こらない。
壁時計も戻らない。
残った半分を冷蔵庫へしまった小毬が、少し誇らしげに胸を張る。
「未来を変えました」
「正確には、怪異が見せた通りにしなかっただけだけどな」
「でも食欲には勝ちました!」
「そこを一番褒めてほしいのか」
空気が少し緩む。
その横で、透羽が人参を切っていた。厚い輪切り、薄い斜め切り、なぜか三角形。玄兎はしばらく見守ったあと言った。
「まあ、火が通れば全部人参だし」
「最初からそう言っています」
透羽の口元がほんの少しだけ緩んだ。
千燈が見逃さない。
「今、褒められて嬉しかった?」
「通常の表情です」
「最近その言葉、便利すぎない?」
午後八時十分。五人は古い談話室の机を囲んだ。
窓の外は真っ暗で、人のいない寮の廊下からは何の音もしない。白い蛍光灯の下で、湯気の立つカレーだけが妙に生活の匂いを持っていた。
小毬は一口目から目を輝かせる。
「おいしいです!」
依澄は自分の皿をしばらく見つめてから、静かに言った。
「今日の私は、カレーが好き」
「今日限定?」
「明日は変わるかもしれない。でも、今日好きだったことは残したい」
玄兎はテーブルの端に置いた紺色のノートへ目をやった。
「じゃあ書こう。『依澄は今日、カレーが好き』」
「うん。明日違ってたら、それも書く」
千燈がスプーンを持ったまま笑った。
「玄兎くん、料理できるの普通にポイント高いよ」
「誰に対するポイントだよ」
「このテーブルだけでも候補はいるんじゃない?」
小毬は迷わず手を挙げ、依澄も頷いた。
「玄兎が作るご飯は好き。玄兎も嫌いじゃない」
「そこ、わざわざ分けるんだな」
「違うものだから」
千燈がさらに楽しそうに笑い、透羽は小さく咳払いした。
「食事中です。玄兎を必要以上に困らせないでください」
「透羽ちゃんは?」
「……料理についてなら、美味しいです」
小毬がすかさず聞く。
「料理じゃない方は?」
透羽は一口食べてから、平然と答えた。
「今ここで答える必要はありません」
玄兎は笑った。
怪異調査で来たはずなのに、五人で鍋を囲み、くだらないことで騒いでいる。
こういう時間こそ、残しておきたい。
そう思えたことの方が、玄兎には少し意外だった。
◇
午後十時三十二分。
片づけを終えた玄兎は、談話室の机で共有ノートを開いた。
『青葉寮調査。五人でカレー。小毬は怪異の声と違って肉を半分にした。依澄は今日はカレーが好き。透羽の人参は形が自由。』
向かいの透羽が最後の一文を見た。
「それは記憶状態の確認に必要ですか」
「かなり印象に残った」
「書き方に悪意があります」
千燈が横から覗き込む。
「十年後に料理が上手くなってたら、いい思い出になるよ」
依澄が顔を上げた。
「十年後も、五人でこれを見る?」
玄兎は、すぐには答えられなかった。
十年後の自分など、これまでまともに想像したことがない。それでも、依澄は未来の予定を決める時と同じ顔で待っている。
「見られたら、いいな」
「じゃあ残す」
小毬がスマートフォンを持ち上げた。
「写真も撮りましょう。今回はちゃんと全員が分かってる状態で!」
依澄がタイマーを設定し、五人は机の前へ集まった。
シャッターが切れる直前、玄兎は透羽がほんの少しだけこちらへ寄ったことに気づいた。
電子音が鳴った瞬間、壁時計の秒針が止まった。かち、と一度だけ鳴り、一秒、二秒、三秒と逆へ進む。やがて長針まで動き、午後十時三十二分が三十一分へ戻った。
笑っていた空気が、一息で消えた。
共同キッチンから声が響く。
『多い方がおいしいです!』
夕食前に聞いた小毬の声だった。
だが、現実の小毬はその通りにしなかった。
玄兎がノートを閉じる。
「起きなかった方まで戻してくるのか」
透羽は立ち上がった。
「確認します。全員一緒に来てください」
五人が廊下へ出ると、背後で時計はさらに一分、逆へ回った。
午後十一時十四分。四階の廊下で、建物の異常は一段深くなった。
壁時計が三分逆回転した直後、清掃済みだった一室の扉が勝手に開く。玄兎が覗き込むと、天井近くの棚から埃がぱらぱら落ちた。
次に、廊下の端へまとめてあったごみ袋が震えた。
紙くずや空き容器が床へ散らばり、そのまま逆向きに滑って各部屋へ戻っていく。破れていた菓子袋の裂け目まで塞がり、欠片が中へ吸い込まれた。
玄兎は共有ノートを開き、今見たことを書きつけた。
ところが最後の文字を書いた瞬間、黒いインクが細い糸になって紙から浮き、ペン先へ戻り始めた。
「待て」
書いた文章が、一文字ずつ消える。
紙には筆圧の跡すら残らなかった。
透羽がノートを閉じる。
「『まだ書いていなかった状態』へ戻されています」
小毬が自分のスマートフォンを確かめた。写真は残っている。だが安心した直後、彼女が喉を押さえて咳き込んだ。
唇の隙間から、小さな水滴が浮かぶ。
夕食後に飲んだ水が、身体の外へ戻ろうとしていた。
「これ、嫌です……」
小毬の顔から血の気が引く。
その横で、玄兎の左腕に見覚えのない切り傷が浮かんだ。赤い線は数秒だけ痛みを残し、また消える。千燈の指先にも、紙で切ったような細い傷が浮かび、血が一滴だけ滲んだ。
依澄が一歩下がった。
「私たちの今日だけじゃない。ここにいた人の昨日まで、身体へ重ねてる」
さらに上階から、男の泣き声が聞こえた。
五人は五階へ上がる。
廊下の一番奥、五〇七号室の向こうから若い男たちの会話が漏れていた。
『明日、出ていくんだな』
『卒業しても会うって』
『社会人になったら忙しいぞ』
『じゃあ今日くらい寝ないで話そうぜ』
透羽と目を合わせ、玄兎が扉を開ける。
誰もいない。
なのに、四人分の布団が敷かれ、机には菓子とジュース、途中のトランプ。壁の写真では、四人の若い男が肩を組んで笑っている。カレンダーの日付は二〇〇六年三月で止まっていた。玄兎は部屋全体と写真、カレンダーをスマートフォンで数枚だけ撮った。
『明日が来なければいいのに』
冗談めいた声がした。
直後、部屋が強く揺れる。
玄兎が一歩下がろうとした時、頬の横で空気が鳴った。
透羽の頬に赤い指の跡が浮かぶ。
しかし、彼女を叩く腕はまだどこにもない。
二秒遅れて、室内に薄い人影が現れた。昔の寮生らしい女が腕を振り上げ、透羽の頬へ手を走らせる。
結果が先に来て、原因があとから追いついた。
「透羽!」
玄兎が手を伸ばした瞬間、自分の影だけが足元から薄くなる。
代わりに、小毬、千燈、依澄、透羽の影が四人の男の姿へ引き延ばされ、写真と同じ位置へ並ぼうとした。
依澄が玄兎の腕を掴む。
「この部屋、四人しか覚えてない。玄兎が余ってる」
「余ったら消すって?」
返事の代わりに、玄兎の右手が透けた。
透羽は即座に判断した。
「撤退します。今は対処より外へ出る方を優先します」
五人は廊下を走り、階段を一階分下りた。
――はずだった。
踊り場を曲がった先に、また『五階』の表示がある。
もう一度下りても、五階。
三度目には、階段の途中にさっきの五〇七号室の扉が立っていた。
小毬の声が震える。
「外へ行く匂いが、途中でなくなってます」
透羽は無理に階段を進まず、全員を廊下の中央へ戻した。
「撤退経路そのものを『なかったこと』にされています」
玄兎は透けかけた手で、紺色のノートを握り直した。
最初の頁には、小毬の字がある。
『全員元気。』
その文字だけは、まだ消えていなかった。
「これを持っていこう」
玄兎が言う。
「建物が俺たちを昔の誰かに戻すなら、こっちは今の自分たちを何度でも確認する」
透羽が頷いた。
「今日だけでなく、明日の予定も書いてください。過去にないものは、少なくとも私たちが戻る方向を示せます」
小毬が緊張したまま、それでも少し笑った。
「やっぱり群れ日記ですね」
透羽は一秒だけ黙った。
「……今夜だけ、その呼び方を許可します」
「聞きました」
「今は記憶しなくていいです」
五人は、逃げ道の消えた寮の中で談話室へ戻った。
◇
午後十一時三十七分。五人はいったん談話室へ戻った。
壁時計は数分おきに逆回転し、そのたび戻る幅が大きくなっている。玄兎は机の中央へ共有ノートを広げ、消される前に「今」と、その先にある予定を残すことにした。
玄兎はペンを取った。
『今日、五人でカレーを食べた。』
その下へ、小毬が迷いなく言う。
「明日も五人で学食!」
玄兎は少し笑い、もう一行を書いた。
『明日、五人で昼飯。』
「すごく普通ですね」
「だからいいんだよ。普通に明日が来る前提の予定だろ」
依澄はその二行を見つめた。
「明日になったら、上は昨日になる」
「その時は下の予定が今日になる」
玄兎が答えた、その瞬間だった。
壁時計が十一時四十八分から、一気に八分近く逆へ走った。
透羽が立ち上がる。
「戻る幅が増えています」
同時に、小毬が屋上を見上げた。
「上から、すごくたくさん声がします」
低い風音に、いくつもの声が混ざる。
『明日が来なければ』
『ずっとここに』
『忘れない』
『離れたくない』
玄兎はノートを閉じた。
「中心は屋上だ。行こう」
◇
午後十一時五十四分。
屋上へ出た瞬間、玄兎は足を止めた。
フェンスの向こうを、何百人もの人影が取り囲んでいる。
古い学生服、二十年前の私服、数年前の大学パーカー。年代はばらばらなのに、全員が同じ建物を見上げていた。
その中央、夜空には現実には存在しない巨大な壁時計が浮かんでいる。黒ずんだ文字盤の針が、現在からゆっくり逆へ進んでいた。
『帰りたくない』
『卒業したくない』
『ここにいれば、まだ同じだ』
『忘れる』
最後の声だけが、何十人分も重なった。
千燈が眉を寄せる。五階で重ねられた古い傷が、彼女の指先にも細く残っていた。そこに滲んだ一滴へ触れ、目を閉じる。
「……戻りたい、だけじゃない」
千燈が目を開けた。
「ここがなくなったら、自分たちがいたことまで消える。それが一番怖いんだ」
巨大な針が一分戻る。
屋上の床へ、昔の洗濯物や椅子の幻が重なった。
玄兎は説得の言葉を探しかけて、やめた。
代わりにスマートフォンを取り出す。
五〇七号室で撮った写真。玄関近くの柱に残っていた『卒業しても忘れんなよ』の文字。寮誌の棚。剥がされた名前札の跡。
それらを久住教授へまとめて送った。
『この寮の記録、解体前に残せませんか。写真だけじゃなくて、卒寮生の話も。全部は無理でも、なかったことにはしたくないです。』
送信すると、巨大な時計の針が震えた。
『残す』
影たちの声が、初めて同じ方向へ揺れた。
すぐに久住から返信が届く。
『やる。施設管理と大学史料室に掛け合う。残せる物を明日から確認する。』
玄兎は画面を影たちへ向けた。
「全部をそのまま置いておく約束はできない。でも、今できることは始めた」
そこで巨大な時計が激しく逆回転した。
十一時五十三分。五十二分。四十八分。
黒い波になった影が屋上へ押し寄せる。
透羽が水を広げた。
「《水鏡》!」
薄い水膜が五人の周囲を囲むが、触れた影が水面へ古い廊下や部屋を映し、結界そのものを過去の形へ塗り替え始める。
「長くは持ちません!」
小毬が玄兎の袖を掴んだ。
「五人います。匂いが変わっても、今ここにいる五人を追います!」
依澄は目を閉じた。
「今日を見せる」
「《蝶境》」
薄紫の蝶が水膜の内側を舞う。
映ったのは英雄的な場面ではなかった。
玉ねぎで涙を流した依澄。形の揃わない人参を切る透羽。肉を半分だけ鍋へ入れて得意げな小毬。味見をして笑う千燈。五人分の皿へカレーをよそう玄兎。
つい数時間前の、くだらない今日だった。
それでも影は止まらない。
玄兎が共有ノートを開くと、書いてあった文字が再び紙からほどけ始めた。
『今日、五人でカレーを食べた。』という一行が消え、その下の文字も薄くなっていく。
『明日、五人で昼飯。』
「消させません!」
小毬がノートを押さえる。だが力ではインクを止められない。
玄兎は空いた場所へ、もう一度ペンを走らせた。
『明日、五人で昼飯。』
書いた端から最初の文字が薄くなる。
その横へ、小毬がペンを奪うようにして書いた。
『肉も食べます。』
「そこ必要?」
「明日の予定です!」
千燈が笑いながら、その下へ続ける。
『写真は許可を取って撮る。』
「それ、先輩の反省文じゃない?」
依澄は少し考え、ゆっくり書いた。
『明日、好きなものをまた決める。』
最後に透羽がペンを受け取る。
視線が一瞬だけ玄兎へ向いた。
『明日、玄兎に資料を見せる。』
玄兎はその一行を見て、息を吐いた。
文字はまだ少しずつ消えている。
それでも、消えるより早く次の予定が増えていく。
巨大な時計が十一時四十分まで戻り、屋上そのものが二十年前の夜へ変わりかけた。
玄兎の腕が透ける。
小毬の手だけが、そこを離さない。
「先輩、います」
その一言で、玄兎は自分の足元を見た。
影がある。
今の自分の影だ。
玄兎はノートを胸の前へ持ち上げた。
「俺たちだって忘れる。離れることもある。明日の予定だって、全部その通りになるとは限らない」
影のざわめきが強くなる。
玄兎は続けた。
「でも、なくなる前に残すことはできる。忘れたら聞き直せる。明日になったら、また次を書ける」
巨大な時計へ向けていた視線を、四人へ戻す。
「だから俺は、昨日へ戻るより、こっちへ行く」
ノートの『明日』を指で叩いた。
針が止まった。長い一秒のあと、次に動いた時には正しい方向へ進んでいた。
十一時五十七分。
五十八分。
水膜へ重なっていた古い廊下がほどける。
何百もの人影が、少しずつ輪郭を失っていった。
五十九分。
最後まで残った影が、寮を一度振り返る。
午前零時。
巨大な時計が夜空へ溶け、影たちは壁や床、フェンスへ淡い光になって沈んでいった。
静けさの中で、一つだけ声がした。
『おやすみ』
依澄が小さく笑う。
「おやすみ」
風が屋上を抜けた。
玄兎が共有ノートを見る。
消えかけた文字の中で、『明日』という二文字だけが何度も書き直され、妙に濃く残っていた。
◇
午前零時十二分。
談話室へ戻ると、カレー鍋は食べ終えた時のまま空だった。壁時計も、一秒ずつ正しい方向へ進んでいる。
久住から、もう一通メッセージが届いた。
『青葉寮の記録保存について、明朝から動く。今夜は全員の安全を優先しろ。移動が危険なら朝まで待て。』
玄兎は共有ノートへ一行だけ足した。
『零時。全員元気。』
今度は文字が消えなかった。
依澄が、その少し上に残ったカレーの記録を見る。
「さっきまで今日だったのに、もう昨日になった」
「日付が変わっただけだ。なくなってない」
「うん」
夜が遅いため、そのまま安全を確認した部屋で休むことになった。玄兎が一室、四人は隣室。壁が薄く、小毬の「群れは近い方が安心します」という声と、透羽の「布団は十分あります」という返事が筒抜けだった。
玄兎は布団の中で笑い、目を閉じた。
◇
午前六時四十九分。
見慣れない天井に一瞬だけ戸惑ったあと、昨夜のことが順番に戻ってきた。
屋上の時計。共有ノート。カレー。透羽の不揃いな人参。依澄が玉ねぎで泣いたこと。千燈の味見。小毬が肉を半分にしたこと。
全部ある。
「……よし」
隣室の扉が開き、寝癖だらけの小毬が顔を出した。後ろには眠そうな依澄と千燈、すでに髪まで整えた透羽がいる。
透羽が最初に訊いた。
「昨夜の記憶は?」
「覚えてる。今、全部辿った」
透羽の肩から、わずかに力が抜けた。
小毬が空の鍋を見て口を開きかけ、何かを思いついた顔をしたあと、すぐ真面目な表情へ戻した。
「……変な冗談はやめておきます。昨日のカレー、ちゃんと覚えてますか?」
玄兎は笑った。
「覚えてる。今日の昼も、予定どおり五人で食べよう」
長かった一日は、ちゃんと昨日になっていた。
◇
午前九時三十分。
青葉寮を出たあと、玄兎と透羽は大学図書館の個室で向かい合った。
透羽が机へ置いた紙には、鷺宮家の記録から規則に触れない範囲だけを書き写した四行がある。
『再構築後、身体機能に異常なし』
『認知機能、直後は正常』
『長期観察にて、認知記録に一部不一致を確認』
『不一致と再構築回数の関連――』
その先は読めない。
玄兎は紙から目を上げた。
「再構築が《還月》なのか、この対象が俺なのかも、まだ分からないんだよな」
「はい。『関連』の先も読めない以上、記憶の不一致が再構築のせいだと決めることもできません」
透羽は、断定する言葉を一つも使わなかった。
玄兎には、その慎重さがありがたかった。
非常階段で死んで戻ったこと。それ以前にも、最後には身体が戻ると思って危険へ踏み込んできたこと。
身体が元へ戻ることと、何一つ失わず同じ自分へ戻ることは、同じではないのかもしれない。
昨夜、建物に自分の影を消されかけた時、小毬が掴んだ腕の感触を思い出す。
「もう、『どうせ戻るから』を最初の理由にはしない」
透羽の目が玄兎へ向く。
「死ぬ方を手段にしない、という意味ですか」
「うん。絶対に無茶しないって言えるほど器用じゃない。でも、生きて戻る方法を先に探す」
透羽はしばらく黙り、やがて小さく頷いた。
「なら、その言葉を覚えておきます。玄兎が忘れた時のためにも」
「それは助かるけど、できれば忘れたくないな」
「私もそう思います」
玄兎は紙を畳んだ。
「この話、千燈たちにもする。話せない部分は伏せるけど、一人で抱えたら怒られる」
「間違いありません」
そのあと五人は、ノートに書いた通り学食で昼を食べた。
玄兎は昨日の予定の横へ、小さく一つだけ丸をつけた。
◇
その日の夕方。
朽木ヶ丘大学の古い敷地、そのさらに深い地下。
何重もの封印の奥で、黒い石に髪の毛ほど細いひびが入った。
暗い水が、音もなく揺れる。
『器』
低い声が、水底から響いた。
『還る』
地上では雨など降っていない。
それでも大学脇の側溝では、一筋の水だけが重力に逆らい、ゆっくり空へ這い上がっていた。
――第十一話・了