翌朝、朽木ヶ丘大学の学食で、鷺宮透羽は一枚の紙を玄兎の前へ置いた。
一昨日の灯籠祭について、覚えていること。昨年の灯籠祭について、覚えていないこと。
書かれている項目は、それだけだった。
紙の上端には、もう一つだけ小さく書かれている。
『器・再構築後経過観察記録――認知/記憶』
昨夜、透羽が「確認したい資料がある」と送ってきた理由だった。関連資料の一覧には出ているが、本文はまだ閲覧申請中で、見出し以上のことは分からないという。
「だから、資料の続きを勝手に想像する前に、今の玄兎の状態を整理します」
「もっと三枚くらい用意してくると思ってた」
玄兎が言うと、透羽はわずかに眉を寄せた。
「必要な確認まで削るつもりはありません。ただ、何でも質問すればいいわけでもないと考え直しました」
「何でもって?」
「一昨日の小毬さんの浴衣の帯の色や、千燈の髪飾りや、依澄さんがりんご飴を何口食べたかまで聞いても、昨年の一日が抜けている理由は分かりません」
「最後だけ妙に細かいな」
少し離れた席で肉まんを食べていた白狼院小毬が、聞きつけて身を乗り出した。
「でも、一昨日の私の浴衣は覚えてますよね?」
「灰白色。淡い黄色の帯。花火が終わったあと、約束してたからりんご飴を買いに行った」
「十分です!」
満足した小毬がすぐ肉まんへ戻る。その横で緋鴉千燈が笑い、蝶ヶ森依澄は「私は薄紫」と自分から付け足した。
透羽は一度だけ咳払いした。
「少なくとも一昨日の記憶は自然につながっています。問題は、写真に写っている昨年八月十七日の灯籠祭が、一日まるごと出てこないことです」
玄兎は机に置いたスマートフォンを見る。昨夜、何度見直しても同じだった。紺色の法被を着た自分が笑っているのに、暑さも、音も、その場で誰と話したのかも思い出せない。
「一年前なら、細かいことを忘れてても普通だろ。でも、一日ぶん何もないのは……やっぱり気持ち悪いな」
「そうですね。ただし、《還月》の影響だともまだ決めません」
透羽の声はいつも通り落ち着いていた。
昨年の夏、玄兎には「普通なら助からなかったと思う状態から、気づけば傷が消えていた」という曖昧な記憶がある。だが、実際に心肺が止まったのか、灯籠祭の前後だったのかさえ分からない。
千燈も、駅前の電話ボックスで玄兎の血を読んだ時、危険な場面や強い恐怖は見ている。けれど、それだけで過去の死亡回数までは断定できない。
「つまり今あるのは、昨年の空白と、時期の曖昧な回復経験。まだ線で結ばない」
玄兎が言うと、透羽は頷いた。
「はい。確認できるものから確認します」
「じゃあ、一回死んで戻って前後を比べるのは――」
「却下です」
最後まで言わせてもらえなかった。
小毬が肉まんを置く。
「私も却下です」
「私も」
依澄まで即答し、千燈は苦笑した。
「四対一だね」
「まだ提案の途中だったんだけど」
「途中でも分かります」
透羽は紙を畳んだ。
「死ぬことを検査方法にしない。家に残る記録、病院や事故の記録、ご家族が覚えていること。そういう、玄兎の身体の外に残ったものから見ます」
自分の記憶を調べるのに、自分の記憶だけを頼らない。
言われてみれば当たり前なのに、玄兎は今までほとんどそうしてこなかった。
「母さんに聞いてみるよ。生まれた頃とか、子供の頃の事故とか」
「無理に怪異の話までしなくていいと思います」
千燈が言った。
「相手が答えを知ってる前提で聞かない方がいい。覚えてないなら、それも一つの情報だから」
「分かった」
玄兎はスマートフォンをポケットへ戻した。
透羽はそれ以上、質問を増やさなかった。
昨年の一日を思い出せない。それだけでも十分、今日調べる理由になっていた。
◇
午前十一時過ぎ。
玄兎は図書館裏のベンチに一人で座り、母親へ電話をかけた。
二度目の呼び出し音で、聞き慣れた声が返ってくる。
『もしもし。玄兎? この時間に珍しいね。大学は?』
「昼前だから大丈夫。ちょっと昔のこと聞きたくて」
『何。お金なら今月もう送らないよ』
「そんな連絡したことないだろ」
いつもの調子に少しだけ肩の力が抜けた。
玄兎は本題へ入る。
「俺、生まれてすぐに大きな病気したことある?」
電話の向こうが静かになった。
『……一度だけ、急に状態が悪くなったことはあるよ』
「病院で治療した?」
『そこが、私もよく分からないの。出産は問題なかった。でもそのあと急に悪くなって、鵺代の親戚の年上の人たちが来たの。「こちらで診てもらう」って言われて、何日かあなたと離れた』
「診断名は?」
『聞いてないと思う。何度聞いても、もう大丈夫だからって。それで本当に、何事もなかったみたいに戻ってきた』
胸の奥が冷えた。
だが、鵺代家の親族が関わったというだけで、二十年前の封印事故や《還月》と結びつけることはできない。
玄兎は一度息を吐いた。
「その話、俺にしたことある?」
『あるよ。中学生か高校生くらいの時だったかな。あなたが小さい頃に大きな病気をしたか聞いてきたから』
玄兎は実家の食卓を思い浮かべようとした。
出てこない。
けれど、何年も前の何気ない会話を忘れていること自体は珍しくない。今は何でも異常へ寄せて考えない方がいい。
「父さんはもう少し知ってる?」
『私より親戚の人と話してたけど、詳しく説明された感じではなかったと思う。帰ったら聞いてみるよ』
「お願い。あと、昔の事故とか病院の書類が残ってたら写真送ってほしい」
『事故って、道路で救急車に乗った時の?』
「……それ」
『覚えてるじゃない』
「断片だけ。どれくらい怪我してたかとかは曖昧で」
母親は少し考えてから答えた。
『近くにいた人が救急車を呼んで、警察も来た。でも救急車が着いた頃には普通に喋ってたし、病院でも大きな怪我は見つからなかった。お父さんと、あれだけの事故でよく無事だったねって話したのは覚えてる』
玄兎の中に、冷たい舗装路と遠い声だけが一瞬浮かんだ。
自分の感覚では、あの時はもっとひどい状態だった気がする。
しかし、それは記憶でしかない。
「書類、あったら頼む」
『分かった。……玄兎、本当に何かあったんじゃないの?』
「昔のことを調べてるだけ。今すぐどうこうって話じゃないよ」
『そう。ならいいけど、変な無理はしないでよ。あなた、昔から平気な顔して後から言うから』
少し耳が痛かった。
「最近、そのことでよく怒られてる」
『誰に?』
「友達」
『ちゃんとした友達がいてよかった』
「そこまで心配されてたの、俺」
『親なんだからするでしょ』
当たり前の返事だった。
玄兎は、自分が説明できないことを黙っていれば、家族を心配させずに済むと思っていた時期が長かった。どうやら黙っていても、心配する人は心配するらしい。
「……父さんに聞けたら、また連絡して」
『はいはい。たまには用事がなくても電話しなさい』
「善処します」
『それ、やらない人の返事』
通話を切ったあと、玄兎はしばらく木陰に座ったままだった。
分かったのは、生まれた直後に一度危険な状態になり、鵺代家の親族が関わったらしいこと。それだけだ。
昔その話を聞いたことを覚えていないのも、異常な忘却だとはまだ言えない。
玄兎は四人へ事実だけを短く送った。
透羽から返ってきたのは、
『今は結論にしないでください。手掛かりとして残しましょう。』
という一文だった。
それで十分だった。
◇
午後の講義が終わると、久住教授が玄兎たちを呼び止めた。
「一昨日のボランティア記録を探していたら、別の箱から古い音声資料が出てきた。『記憶と語り』という、一九九八年の聞き取り企画だ」
玄兎は嫌な予感を覚えた。
「俺の記憶と関係ある資料ですか?」
「そう決めるな」
久住は即座に否定した。
「忘れたい出来事や、強く残っている出来事を匿名で語ってもらった記録らしい。ただ、台帳では処理済みになっている箱が旧図書館の音声資料室に残っていた。灯籠祭の記憶が抜けていると分かった直後だから、俺の目に引っかかっただけだ」
透羽が目録へ目を通す。
「一人で再生しなかったのは正解です」
「最近、古い物を一人で開けないくらいの学習能力はついた」
「教授が言うと切実だな……」
久住は苦笑したが、すぐ真顔へ戻った。
「確認は冒頭だけ。異常があれば即中止。資料より人の安全を優先する。それでいいなら手を貸してくれ」
「報酬は?」
「コーヒー」
「前は昼飯だったのに単価が下がってません?」
小毬が吹き出した。
透羽は軽口には乗らず、玄兎を見た。
「行くなら、今日は勝手に触らないでください」
「今日は、って何だよ」
「これまでの実績です」
反論できなかった。
◇
旧図書館地下二階の音声資料室は、六月に地域資料室を整理した時にも入らなかった区画だった。
重い防音扉の向こうには、古いカセットテープやオープンリール、学生ラジオで使われていたらしい機材が棚いっぱいに並んでいる。換気扇が低く唸り、古紙と埃、それに磁気テープ特有の乾いた匂いが混じっていた。
久住は全員が入る前に照明と換気を確認し、それから入口脇の机へ段ボールを置いた。
「大学って、よくこんなものまで残してるな」
玄兎が棚を見回すと、久住は軍手を配りながら肩をすくめた。
「価値があるから残した物もあれば、捨てる判断をする人がいなくて残った物もある。研究機関なんてそんなもんだ」
「怪異も、似たような理由で残ることがありますよね。誰も片づけ方を知らないまま」
玄兎が言うと、久住は嫌そうに眉を寄せた。
「縁起でもないことを、この部屋でわざわざ言うな。否定はしないが、呼び込みたいわけでもない」
「教授まで透羽みたいなこと言うようになってません?」
「経験から慎重になっただけだ」
透羽は二人の軽口には乗らず、入口から棚までを見渡した。
「今のところ、旧運動場の鈴ほど明確な反応はありません。ただ、空気が重い感じはします」
「なら、少しでも変わったら止める。今日は確認が目的だ。無理に全部終わらせる必要はない」
久住は箱のラベルを指でなぞった。
「一九九八年、人間文化系の教員が共同で試した『記憶と語り』の聞き取り記録だ。当時の記録票によれば、参加者の氏名や学籍番号は残さず、保存に同意した音声だけを教材・研究資料として保管する予定だったらしい」
「何を話してもらったんですか」
透羽の問いに、久住は添付された説明書きを確認する。
「忘れたい経験を、話せる範囲で言葉にしてもらった企画らしい。ただ、継続前に中止され、理由も残っていない。目録では処理済みの箱がここにある。それが気になっている」
千燈は箱を見たまま、少し眉を寄せた。
「血の匂いじゃないんだけど、あんまり気分のいい感じはしないね。古い感情がこびりついてる場所って、たまに空気が重いんだよ」
久住の表情から、先ほどまでの軽さが消えた。
「怪異の反応だと思うか?」
「そこまでは分からない。私は血に触れないと細かいところまでは読めないから。ただ、何人分もの嫌な気持ちが同じ場所に残ってるような感じはする」
依澄も棚へ視線を固定したまま、ゆっくりと言う。
「思い出したくないものって、夢の底へ沈むことがある。この部屋も少し似てる」
小毬は小毬で鼻をひくつかせ、何度か首を傾げた。
「古い紙とテープの匂いは分かるんですけど、それ以外に人の匂いがいっぱい混ざってる感じがします。本当に誰かが隠れてる匂いじゃなくて……もっと薄いのが重なってる感じです」
そこまで聞くと、久住は再生機の前に置いていた椅子を引いた。
「分かった。予定を変える。全編は聞かない。一番状態の良さそうなものから、俺が冒頭だけ確認する。個人が特定できそうな話が始まったら、その時点で音声は止める。異常が一つでも出たら作業終了だ」
透羽は頷いた。
「それがいいと思います。玄兎も、勝手に別のテープへ触らないでください」
「何で俺だけ名指しなんだよ」
「久住教授と同じ判断です」
「教授まで?」
「旧運動場で誰が一番先に箱を覗き込もうとしたか、忘れたとは言わせんぞ」
玄兎は反論しかけて、やめた。少なくとも今日は、自分の記憶を確認している最中である。そこで「覚えていない」と冗談を言う気にはなれなかった。
「……分かりました。触りません」
透羽はその返事を確かめてから、ようやく再生機へ目を戻した。
◇
最初の三本は、拍子抜けするほど普通だった。
親に言われた言葉。試験に落ちた日の悔しさ。別れた恋人への未練。二十年以上前の声なのに、感情だけは妙に生々しい。
三本目を止めたところで、千燈が小さく息を吐いた。
「血に触ってるわけじゃないのに、何本も続くと引っ張られるね。少し外で休む」
玄兎が立ち上がりかけると、千燈は手で制した。
「大丈夫。無理なら呼ぶ。今は深く入らない」
小毬が鼻をひくつかせる。
「今すぐ倒れる匂いじゃないです。でも休んだ方がいい匂いです」
「その診断、だんだん便利になってない?」
「得意なので!」
そんなやり取りに少し空気が緩んだところで、玄兎は四本目のテープへ目を向けた。
他のカセットには日付や管理番号が記されているのに、それだけは『未整理』としか書かれていない。
「これだけ日付がないな」
久住も首を傾げる。
「冒頭だけ確認して、何も入ってなければ後回しだ」
カセットをデッキへ入れ、再生ボタンを押す。
最初に流れたのは、ざらついたノイズだけだった。
十秒。二十秒。
久住が「無音か」と言いかけた、その時。
『忘れたい』
声がした。
幼い子供にも、若い男にも聞こえる、不安定な声だった。
その一言を耳にした瞬間、玄兎の背中を冷たいものが走った。
どこかで聞いたことがある。
いや――違う。
自分の声に、似ている。
「玄兎?」
透羽が異変に気づいて振り向く。
玄兎はスピーカーから目を離せなかった。
『全部、忘れたい』
ノイズが揺れ、その奥から声が続く。
『もう痛いのは嫌だ』
玄兎の喉が、ひどく乾いた。
『死ぬのも嫌だ』
その言葉は、今朝自分が学食で口にしたものとよく似ていた。怖い。痛い。死にたくはない。それでも戻るから、と何度も自分へ言い聞かせてきた。
そしてテープの声は、まるで玄兎の思考をなぞるように続けた。
『でも、戻るから』
左鎖骨の痣が、服の下で焼けるように熱を持った。
「止めてください!」
透羽がすぐにデッキへ手を伸ばし、停止ボタンを押す。
だが、カセットは止まらなかった。
久住もすぐに電源を切り、念のためコンセントまで抜いた。それでも、カセットの回転音は止まらない。
数秒だけ機材を見つめたあと、久住は低い声で言った。
「……電気を切っても動くなら、機械の故障として扱うのは無理だな」
透羽も迷わなかった。
「怪異反応です。教授、ここから先は私たちで対処します。上へ戻ってください」
「俺が残って役に立つことは?」
久住の問いは、無理に踏み込もうとするものではなかった。自分にできる役割があるかを確認しているだけだと、玄兎にも分かった。
透羽は周囲の音と玄兎の痣の反応を確かめながら答える。
「地下への立ち入りを止めてください。施設管理には、こちらから合図するまで誰も入れないよう伝えてもらえると助かります。教授自身は、この部屋へ残らないでください」
「分かった。説明は俺が引き受ける」
久住はすぐに頷いたが、扉へ向かう前に玄兎へ目を向けた。
「鵺代。昨日言ったことを忘れるな。分からない空白を、焦って何かで埋めようとするなよ」
玄兎は一瞬、返事を失った。
テープから流れる『忘れたい』という声と、昨年の自分に空いた一日が頭の中で重なる。
「……はい。覚えてます」
「ならいい。危ないと思ったら、資料は放って逃げろ」
透羽が短く頷く。
「終息したら連絡します」
「頼む」
久住が部屋を出て、防音扉が閉じた。
その直後だった。
棚に並んでいた何十本ものカセットが、一斉に回転を始めた。
誰も再生していない。デッキへ入ってすらいないテープから、声が溢れ出す。
『忘れたい』
『なかったことにしたい』
『あの人の顔を見たくない』
『あの日だけ消して』
『自分のことが嫌い』
『お願いだから忘れさせて』
声は次々に重なり、やがて一人ひとりの言葉を聞き分けられない濁流になった。
透羽はすぐに清め水の小瓶を開いた。
「外へ漏らすわけにはいきません。《禊牢》!」
水が細い線となって壁と扉を走り、防音室そのものを包む。
それでも、音は止まらない。
むしろ玄兎には、声が耳からではなく頭蓋の内側へ直接流れ込んでくるように感じられた。
雨の駅で別れを告げられた声。病院の廊下を走る足音。教室で笑われた記憶。父親の葬式で泣けなかった罪悪感。恋人へ言えなかった謝罪。
映像はない。なのに脳が勝手に風景を補い、自分の記憶と同じ場所へ並べてしまう。
玄兎は両耳を塞いだ。
「……駄目だ。耳を塞いでも、音が中に入ってくる」
透羽が何か叫んだ。
唇の動きから自分の名前を呼んでいるのは分かる。
なのに玄兎の耳には、知らない老人の『置いていかないでくれ』という声として聞こえた。
目の前にいる透羽の表情と、耳に届く声が一致しない。
それだけで、現実の輪郭が急速に曖昧になっていった。
自分が頭の中で「怖い」と思った瞬間には、幼い女の子の泣き声が代わりに響く。
透羽を呼ぼうとしたのに、口から出たのは知らない男の謝罪だった。
他人の声が多すぎて、自分自身の声がどれだったのか分からなくなる。
「玄兎!」
小毬が近づいてきた。
今度は声そのものより、琥珀色の瞳と差し出された手を頼りに、小毬だと認識する。
彼女は玄兎の腕を掴み、鼻をひくつかせた。
「先輩の匂いが変です。先輩の匂いの上に、知らない人の匂いみたいなものが次々重なってる!」
外へ出ていた千燈も、異変を察して戻ってきた。
「音を止めて! これ、聞き続けるほど境界が崩れる!」
「機械を止めても駄目です。もうテープ本体だけの現象ではありません!」
透羽の返答に、依澄が苦しそうに耳を押さえながら顔を上げる。
「ここに置いていかれた記憶が、声だけになって残ってる。夢じゃない。でも、夢の底に沈んだものに似てる」
その時、無数の声の中から、ひとつだけ低い声が浮かび上がった。
『空いている』
玄兎の痣が、さらに熱くなる。
『ここは、空いている』
千燈の顔から血の気が引いた。
「玄兎くんの記憶の空白を見つけたんだ。こいつら、そこを自分たちの居場所にしようとしてる」
「それって……他人の記憶を、俺の中へ入れるってことか?」
「可能性は高い。入り込む量が増えれば、どこまでが玄兎くん自身なのか分からなくなる」
透羽は迷うことなく玄兎と棚の間へ立った。
「玄兎、こちらを見てください。自分を確認します」
彼女の灰青色の瞳だけを見て、玄兎は必死に意識をつなぎ止める。
「あなたの名前は?」
「鵺代……玄兎」
「年齢は二十歳。朽木ヶ丘大学の二年生。」
「ここまでは合っています。では、一昨日はどこにいましたか」
「灯籠祭。みんなと……影の祭りに入って、迷子を連れて戻った」
「では昨年の灯籠祭は?」
その問いだけ、答えが出ない。
雑音の奥で、怪異が嬉しそうに笑った。
『空いている』
「そこへ入るな!」
玄兎は怒鳴ったつもりだった。
しかし、自分の口から流れたのは、知らない女の声だった。
『あの時、産まなければよかったなんて言ってごめんなさい』
玄兎自身の意思とは無関係に、次には若い男の笑い声が漏れ、その次には幼児の泣き声が喉を震わせる。
自分の身体が、保存された他人の言葉を再生する機械に変わっていく。
その恐怖は、怪異に殴られる痛みとはまったく違っていた。
声を失う。
記憶を失う。
誰にも気づかれないまま、自分が自分ではなくなる。
玄兎は初めて、自分の身体が壊されることより、自分自身の輪郭が消えていくことに強い恐怖を覚えた。
◇
「玄兎先輩、私を見てください!」
小毬が玄兎の手を両手で包んだ。
握る力は強かったが、その手はわずかに震えていた。
「私が誰か、分かりますか?」
「白狼院小毬。大学一年。肉が好きで……何でも群れって言う」
「最後は雑ですけど、合ってます」
小毬は笑おうとした。その声が、知らない誰かの泣き声にかき消される。
千燈が玄兎の肩へ服越しに触れた。
「血は読まないよ。今日は余計なものを増やしたくないから。私の声だけ聞いて」
依澄も正面へ回り込む。
「全部思い出せなくてもいい。分からなくなったら、私たちがもう一回言う」
四人の顔が見える。
怪異の中からは、知らない家族、知らない恋人、知らない葬式の記憶が押し寄せてくる。それでも目の前の四人は、今この瞬間に玄兎を見ている。
透羽が最後に言った。
「玄兎。一昨日、どこへ帰ると決めましたか」
黒い川を流れていく灯籠が浮かぶ。
影の祭りではなく、こちら側へ。
「……現実。みんなと帰ってきた」
「はい」
透羽の灰青色の瞳が、ようやく少し和らいだ。
「では今も、こちらへいてください。他人の記憶を、自分の過去として受け入れる必要はありません」
玄兎は胸へ手を当てた。
胸の奥では、自分の心臓が今も確かに動いている。
「俺は、ここにいる」
掠れてはいたが、今度は自分の声だった。
その瞬間、無数の声の中から、一つだけ違う言葉が浮かんだ。
『忘れたくない』
千燈が顔を上げる。
「待って。これだけ向きが違う」
『忘れたくない。でも、思い出すと痛い』
若い女の声だった。
『忘れたい。でも、忘れたら、あの人が本当にいなくなる』
依澄が棚の奥へ目を向けた。
「そこ」
一本だけ古いラベルのカセットがあった。
『S-00』
透羽が千燈の手を制する。
「直接触れないでください」
「分かってる」
依澄が小さく《蝶境》を開いた。
薄紫の蝶が一羽、S-00の前で羽ばたく。
防音室の中央へ、古い病室が薄く浮かんだ。
ベッドの上に座った大学生くらいの女性が、写真を両手で握って泣いている。
『事故の日を思い出すと苦しい。最後に言ったことも、顔も、全部痛い』
それでも、写真を手放さない。
『でも忘れたら、あの子が本当にいなくなる気がする』
玄兎は昨年の灯籠祭の写真を思い出した。
自分は覚えていない。けれど、写真の中の一日は消えていない。
「忘れたいんじゃなくて、痛いまま抱え続けられなかったのか」
千燈が静かに頷いた。
「預けた言葉だけが持ち主から切り離されて残った。それが何十年も重なって、『消えたくない』だけが膨らんだのかも」
「それで、誰かの中へ入ろうとしてる」
小毬が玄兎の手を握ったまま言う。
依澄は病室の像を見つめた。
「人に戻さなくても、記録として残せる」
久住が進めていたデジタル化。
声を消さずに、誰かの人格へ住みつく必要だけを切り離す。
透羽もすぐ意図を理解した。
「記録は残し、怪異としての執着だけを浄化します」
玄兎は棚を見た。
「俺が引きつける。そこをまとめて洗える?」
透羽は一瞬だけ黙った。
「できます。ただし、さっきと同じ状態になったら即中止です」
「分かった」
「死ぬことも、人格を削られることも作戦に含めません」
「そこまで先に言われるようになったか、俺」
「実績です」
小毬と千燈が同時に頷いた。
玄兎は苦笑してから、今度は真面目に答えた。
「今日は、ちゃんと俺のまま帰るよ」
◇
玄兎が防音室の中央へ立つと、カセットの回転が一斉に速くなった。
『空いている』
『ここへ』
知らない人生が、再び押し寄せる。
冬の駅。古い台所。泣いている子供。病院の白い廊下。
玄兎はそれらを拒絶しきろうとはしなかった。
誰かにとっては、本当にあった時間だ。
ただ、自分の時間ではない。
「玄兎!」
透羽の声がする。
玄兎は彼女を見る。
「白い兎」
「……なぜ今それを」
「今、俺が覚えてること。透羽のスマホのストラップ」
水の流れが一瞬だけ乱れ、小毬がこんな状況なのに吹き出した。
「先輩、そこ覚えてるなら大丈夫そうです!」
「大丈夫の基準にしないでください」
そのやり取りが、今ここにしかないものだと分かった。
一昨日でも、二十年前でもない。
玄兎は息を吸う。
「透羽、いける!」
「はい。《白鷺浄界》!」
清めの水が防音室を走り、回転するカセットを一つずつ包んでいく。
音声そのものではなく、誰かの中へ入り込まなければ消えるという執着だけを洗い流す。
依澄の蝶が混ざった声へ境界を戻し、千燈が無理に感情へ潜らず、重なりの強い場所だけを指す。
小毬は最後まで玄兎の手を離さなかった。
『忘れたい』
『忘れたくない』
二つの声が最後まで残った。
玄兎はS-00の向こうに浮かぶ、写真を握った女性へ言った。
「どっちも残ってていいと思う」
声が揺れる。
「忘れたいほど痛かったことも、忘れたくないほど大事だったことも。どっちかを消さなくていい。でも、誰かの頭の中へ勝手に入る必要はない」
依澄が続ける。
「記録が残れば、あとから思い出すこともできる」
水の光がS-00を包んだ。
回転音が一つずつ止まっていく。
最後に残ったのは、誰かが小さく息を吐く音だった。
それも消えると、防音室には本来の静けさが戻った。
◇
終息の連絡を受けた久住が戻ってくると、最初に見たのは資料ではなく五人の顔だった。
「怪我は?」
「ありません」
透羽が答える。
久住は玄兎へ目を向けた。
「今日ここへ来た理由は?」
「古い音声資料の確認。報酬はコーヒー。昼飯から単価が下がったって文句を言いました」
「そこまで出るなら、今は大丈夫そうだな」
玄兎は苦笑した。
「教授まで確認するんですね」
「記憶の空白が見つかったばかりだ。する」
透羽は、複数の音声に残った感情が絡み合い、玄兎の記憶の空白へ入り込もうとしたことだけを簡潔に説明した。
「ただし、今日の怪異が玄兎の記憶欠損を作ったわけではありません。空白を見つけて利用しようとしただけです」
「ああ。そこは混ぜない」
久住は即答した。
「音声は封鎖する。元の同意範囲と保管経緯も洗い直す。怪異になったからって、録音した人の言葉まで勝手に捨てるわけにはいかん」
依澄が静かに頷いた。
「残すことと、誰かの中へ入れることは別」
「そういうことだ」
久住は鍵を手に取った。
「後始末は俺がやる。お前らは帰れ。今日はもう、自分から古い記憶を掘るな」
玄兎は素直に頷いた。
その忠告には、従った方がよさそうだった。
◇
その夜、母親から古い書類の写真が届いた。
子供の頃、道路で事故に遭った時の救急外来の記録だった。
『事故後、一時的な意識消失の申告あり』
『来院時、意識清明』
『画像検査上、明らかな骨折・頭蓋内出血等を認めず』
父親からの短いメモも添えられている。
『俺が病院へ着いた時には普通に話せていた。事故を見た人はかなり強くぶつかったと言っていたが、医者には大きな怪我は見つからないと言われた。だから俺たちも、運が良かったと思っていた。』
玄兎は画面をしばらく見つめた。
事故そのものは記録され、警察も救急も関わっている。それでも病院へ着いた時の記録には、死亡も重傷も残っていなかった。
これで《還月》が証明されたわけではない。逆に、自分の記憶が間違っていたとも言えない。
分かるのは、外に残っている記録と、自分の中に残る「もっとひどい状態だった」という感覚が一致していないことだけだ。
玄兎は書類の写真を四人へ送った。
透羽からすぐ返事が来る。
『重要です。ただし、来院時の状態が分かるだけです。事故直後に何が起きていたかは、まだ分かりません。』
玄兎は『了解』とだけ返した。
今日は、それ以上の答えを作らないことにした。
◇
スマートフォンを置こうとして、昨年の灯籠祭の写真が目に入った。
紺色の法被を着た自分。その隣で、肩を組んで笑っている男子学生。
玄兎は画面を拡大した。
見覚えがあるような気はする。
しかし、名前が出てこない。
仕方なく、写真を送ってくれた久住へメッセージを送った。
『教授、この写真で俺の隣にいる人って誰ですか?』
数分後、返信が来た。
『木崎だろ。今もよく一緒にいる友達の。写真だけだと分からなかったのか?』
「……木崎?」
名前を読めば、今の木崎の顔はすぐ浮かんだ。
同じ学部で、講義の前後にくだらない話をする友人。忘れているわけではない。
もう一度写真を見る。
髪は今より長い。祭りの法被で雰囲気も違う。名前を知ったあとなら、確かに木崎に見える。
ただ、昨年の一日を覚えていない写真の中でだけ、自力では現在の友人と結びつけられなかった。
単に写真写りや髪型のせいかもしれないし、昨年の一日に結びつく記憶だけが薄れているのかもしれない。今はまだ、どちらとも決められなかった。
玄兎は透羽へ連絡しかけ、やめた。
時刻は遅い。今日だけでも十分に記憶を掘り返した。
明日、写真を見せて話そう。
以前なら、そのまま一人で検索を始めていたかもしれない。
今は、分からないまま一晩置くこともできた。
◇
同じ頃。
鷺宮透羽は、鷺宮家本家の資料端末の前にいた。
朝の時点では申請中だった『器・再構築後経過観察記録』について、夕方になって一部だけ閲覧が許可された。全文ではない。それでも、以前は項目名しか見られなかった数行が開いている。
画面に表示された題名は、
『器・再構築後経過観察記録』
透羽はゆっくりと読み進めた。
『再構築後、身体機能に異常なし』
『認知機能、直後は正常』
次の一行で、指が止まった。
『長期観察にて、認知記録に一部不一致を確認』
その先には黒塗りが続いている。
再構築が《還月》を指すのか。
認知記録の不一致が記憶欠損を意味するのか。
そもそも対象が玄兎なのか。
どれも、まだ確定できない。
今日、玄兎から送られてきた救急記録も、この一文の答えにはならない。
透羽は推測を書き足す代わりに、読めた文章だけを手元へ写した。
玄兎には、事実として見せられるところまでを見せる。
それ以上は、まだ言わない。
画面の黒塗りを見つめながら、透羽は小さく息を吐いた。
「……何が一致していないのですか」
答えは返らない。
ただ、その一行だけが、昨年の写真より冷たい重さで残った。
――第十話・了