翌朝、朽木ヶ丘大学の学食で、鷺宮透羽は一枚の紙を玄兎の前へ置いた。
昨日の灯籠祭について、覚えていること。昨年の灯籠祭について、覚えていないこと。
書かれている項目は、それだけだった。
紙の上端には、もう一つだけ小さく書かれている。
『器・再構築後経過観察記録――認知/記憶』
昨夜、透羽が「確認したい資料がある」と送ってきた理由だった。関連資料の一覧には出ているが、本文はまだ閲覧申請中で、見出し以上のことは分からないという。
「まず、今の玄兎が何を覚えているか、確かめましょう」
「もっと三枚くらい用意してくると思ってた」
玄兎が言うと、透羽はわずかに眉を寄せた。
「必要な確認まで削るつもりはありません。ただ、依澄さんがりんご飴を何口食べたかまで聞いても、昨年の一日が抜けている理由は分かりません」
「例が妙に細かいな」
少し離れた席で肉まんを食べていた白狼院小毬が、聞きつけて身を乗り出した。
「でも、昨日の私の浴衣は覚えてますよね?」
「灰白色。淡い黄色の帯。花火が終わったあと、約束してたからりんご飴を買いに行った」
「十分です!」
満足した小毬がすぐ肉まんへ戻る。その横で緋鴉千燈が笑い、蝶ヶ森依澄は「私は薄紫」と自分から付け足した。
透羽は一度だけ咳払いした。
「少なくとも、昨日のことは自然に思い出せています。気になるのは、写真に写っている昨年八月十七日の灯籠祭が、一日まるごと思い出せないことです」
玄兎は机に置いたスマートフォンを見る。昨夜、何度見直しても同じだった。紺色の法被を着た自分。その隣で肩を組んで笑っているのは、今も同じ学部で顔を合わせる木崎だと分かる。
けれど、写真の中の木崎と自分が一緒に祭りを歩いた実感がない。肩に回された腕の重さも、何を話したのかも、法被の暑さも、祭囃子も出てこなかった。
「一年前なら、細かいことを忘れてても普通だろ。でも、一日ぶん何もないのは……やっぱり気持ち悪いな」
昨年の夏には、普通なら助からなかったと思う状態から傷が消えていたという曖昧な記憶もある。だが、それが八月十七日の前後なのかさえ分からない。
「これ、《還月》と関係あるのかな」
「まだ分かりません。まず、ご家族や病院の記録など、玄兎の身体の外に残ったものから確認します」
透羽は紙を畳んだ。
「母さんに聞いてみるよ。生まれた頃とか、子供の頃の事故とか」
「分かった」
玄兎はスマートフォンをポケットへ戻した。
◇
午前十一時過ぎ。
玄兎は図書館裏のベンチに一人で座り、母親へ電話をかけた。
二度目の呼び出し音で、聞き慣れた声が返ってくる。
『もしもし。玄兎? この時間に珍しいね。大学は?』
「昼前だから大丈夫。ちょっと昔のこと聞きたくて」
『何。お金なら今月もう送らないよ』
「そんな連絡したことないだろ」
いつもの調子に少しだけ肩の力が抜けた。
玄兎は本題へ入る。
「俺、生まれてすぐに大きな病気したことある?」
電話の向こうが静かになった。
『……一度だけ、急に状態が悪くなったことはあるよ』
「病院で治療した?」
『そこが、私もよく分からないの。出産は問題なかった。でもそのあと急に悪くなって、鵺代の親戚の年上の人たちが来たの。「こちらで診てもらう」って言われて、何日かあなたと離れた』
「診断名は?」
『聞いてないと思う。何度聞いても、もう大丈夫だからって。それで本当に、何事もなかったみたいに戻ってきた』
玄兎は一度息を吐いた。
「父さんはもう少し知ってる?」
『私より親戚の人と話してたけど、詳しく説明された感じではなかったと思う。帰ったら聞いてみるよ』
「お願い。あと、昔の事故とか病院の書類が残ってたら写真送ってほしい」
『事故って、道路で救急車に乗った時の?』
「……それ」
『覚えてるじゃない』
「断片だけ。どれくらい怪我してたかとかは曖昧で」
母親は少し考えてから答えた。
『近くにいた人が救急車を呼んで、警察も来た。でも救急車が着いた頃には普通に喋ってたし、病院でも大きな怪我は見つからなかった。お父さんと、あれだけの事故でよく無事だったねって話したのは覚えてる』
玄兎の中に、冷たい舗装路と遠い声だけが一瞬浮かんだ。
自分の感覚では、あの時はもっとひどい状態だった気がする。
『分かった。……玄兎、本当に何かあったんじゃないの?』
「昔のことを調べてるだけ。今すぐどうこうって話じゃないよ」
『そう。ならいいけど、変な無理はしないでよ。あなた、昔から平気な顔して後から言うから』
少し耳が痛かった。
「分かった。気をつける」
『はいはい。たまには用事がなくても電話しなさい』
「善処します」
『それ、やらない人の返事』
通話を切ったあと、玄兎は聞いた話を四人へ送った。
◇
午後の講義が終わると、久住教授が玄兎たちを呼び止めた。
「昨日のボランティア記録を探していたら、別の箱から古い音声資料が出てきた。『記憶と語り』という、一九九八年の聞き取り企画だ」
玄兎は嫌な予感を覚えた。
「俺の記憶と関係ある資料ですか?」
「そう決めるな」
久住は即座に否定した。
「忘れたい出来事などを匿名で語ってもらった記録だ。ただ、処理済みの箱が音声資料室に残っていた。昨日の今日だから俺の目に留まっただけだ」
透羽が目録へ目を通す。
久住はすぐ真顔へ戻った。
「確認は冒頭だけ。異常があれば即中止。資料より人の安全を優先する。それでいいなら手を貸してくれ」
◇
旧図書館地下二階の音声資料室は、六月に地域資料室を整理した時にも入らなかった区画だった。
重い防音扉の向こうには、古いカセットテープやオープンリール、学生ラジオで使われていたらしい機材が棚いっぱいに並んでいる。換気扇が低く唸り、古紙と埃、それに磁気テープ特有の乾いた匂いが混じっていた。
久住は全員が入る前に照明と換気を確認し、それから入口脇の机へ段ボールを置いた。
「大学って、よくこんなものまで残してるな」
玄兎が棚を見回すと、久住は軍手を配りながら肩をすくめた。
「価値があるから残した物もあれば、捨てる判断をする人がいなくて残った物もある。研究機関なんてそんなもんだ」
「怪異も、似たような理由で残ることがありますよね。誰も片づけ方を知らないまま」
玄兎が言うと、久住は嫌そうに眉を寄せた。
「縁起でもないことを、この部屋でわざわざ言うな。否定はしないが、呼び込みたいわけでもない」
透羽は二人の軽口には乗らず、入口から棚までを見渡した。
「今のところ、旧運動場の鈴ほど明確な反応はありません。ただ、空気が重い感じはします」
久住は箱のラベルを指でなぞった。
「途中で中止されているが、理由は残っていない」
千燈は箱を見たまま、少し眉を寄せた。
「血の匂いじゃないんだけど、あんまり気分のいい感じはしないね。古い感情がこびりついてる場所って、たまに空気が重いんだよ」
久住の表情から、先ほどまでの軽さが消えた。
「怪異の反応だと思うか?」
「そこまでは分からない。私は血に触れないと細かいところまでは読めないから。ただ、何人分もの嫌な気持ちが同じ場所に残ってるような感じはする」
千燈の言葉を聞いても、依澄の視線は棚から動かなかった。
「思い出したくないものって、夢の底へ沈むことがある。この部屋も少し似てる」
小毬は何度か首を傾げた。誰もいない棚の間へ目を向け、匂いの薄さをどう伝えるか迷っている。
「古い紙とテープの匂いは分かるんですけど、それ以外に人の匂いがいっぱい混ざってる感じがします。本当に誰かが隠れてる匂いじゃなくて……もっと薄いのが重なってる感じです」
そこまで聞くと、久住は再生機の前に置いていた椅子を引いた。
「予定どおり、俺が冒頭だけ確認する。個人が特定できそうな話が始まったら止める。異常が一つでも出たら作業終了だ」
透羽は頷いた。
久住は再生機へ向き直った。
◇
最初の三本は、拍子抜けするほど普通だった。
親に言われた言葉。試験に落ちた日の悔しさ。別れた恋人への未練。二十年以上前の声なのに、感情だけは妙に生々しい。
三本目を止めたところで、千燈が小さく息を吐いた。
「血に触ってるわけじゃないのに、何本も続くと引っ張られるね。少し外で休む」
玄兎が立ち上がりかけると、千燈は手で制した。
「大丈夫。無理なら呼ぶ。今は深く入らない」
小毬が千燈の顔を覗き込む。
「千燈先輩、顔色よくないです。ちゃんと休んでください」
千燈が部屋を出るのを見送ってから、玄兎は四本目のテープへ目を向けた。
他のカセットには日付や管理番号が記されているのに、それだけは『未整理』としか書かれていない。
「これだけ日付がないな」
久住も首を傾げる。
「冒頭だけ確認して、何も入ってなければ後回しだ」
カセットをデッキへ入れ、再生ボタンを押す。
最初に流れたのは、ざらついたノイズだけだった。
十秒。二十秒。
久住が「無音か」と言いかけた、その時。
『忘れたい』
声がした。
幼い子供にも、若い男にも聞こえる、不安定な声だった。
その一言を耳にした瞬間、玄兎の背中を冷たいものが走った。
どこかで聞いたことがある。
いや――違う。
自分の声に、似ている。
「玄兎?」
透羽が異変に気づいて振り向く。
玄兎はスピーカーから目を離せなかった。
『全部、忘れたい』
ノイズが揺れ、その奥から声が続く。
『もう痛いのは嫌だ』
玄兎の喉が、ひどく乾いた。
『死ぬのも嫌だ』
痛い。死にたくない。それでも戻るから――何度も自分へ言い聞かせてきた言葉だった。
『でも、戻るから』
左鎖骨の痣が、服の下で焼けるように熱を持った。
「止めてください!」
透羽がすぐにデッキへ手を伸ばし、停止ボタンを押す。
だが、カセットは止まらなかった。
久住もすぐに電源を切り、念のためコンセントまで抜いた。それでも、カセットの回転音は止まらない。
透羽も迷わなかった。
「怪異反応です。教授は上へ戻って、施設管理に地下への立ち入りを止めるよう伝えてください。ここは私たちで対処します」
「分かった。説明は俺が引き受ける」
久住はすぐに頷いたが、扉へ向かう前に玄兎へ目を向けた。
「鵺代。少しでも自分の記憶と噛み合わないと思ったら、そこで止まれ。無理に聞き続けるなよ」
玄兎は一瞬、返事を失った。
テープから流れる『忘れたい』という声と、昨年の自分に空いた一日が頭の中で重なる。
「……はい。覚えてます」
透羽が短く頷く。
「終息したら連絡します」
「頼む」
久住が部屋を出て、防音扉が閉じた。
その直後だった。
棚に並んでいた何十本ものカセットが、一斉に回転を始めた。
誰も再生していない。デッキへ入ってすらいないテープから、声が溢れ出す。
『忘れたい』
『なかったことにしたい』
『あの人の顔を見たくない』
『あの日だけ消して』
『自分のことが嫌い』
『お願いだから忘れさせて』
声は次々に重なり、やがて一人ひとりの言葉を聞き分けられない濁流になった。
透羽はすぐに清め水の小瓶を開いた。
「外へ漏らすわけにはいきません。《禊牢》!」
水が細い線となって壁と扉を走り、防音室そのものを包む。
それでも、音は止まらない。
むしろ玄兎には、声が耳からではなく頭蓋の内側へ直接流れ込んでくるように感じられた。
雨の駅で別れを告げられた声。教室で笑われた記憶。父親の葬式で泣けなかった罪悪感。
その中に、白い病院の廊下が混じった。
消毒液の匂い。床の継ぎ目。突き当たりの古い時計。
――自分は、ここを走ったことがある。
考えるより先に、玄兎はそう確信した。右へ曲がれば自動販売機がある。その先にナースステーション。誰かを探して、息を切らして走った。
懐かしい、とさえ思った。
「玄兎先輩?」
小毬の声で顔を上げる。
「今の、どこの病院ですか?」
答えようとして、玄兎の口が止まった。
病院の名前を知らない。誰を探していたのかも知らない。そんな場所へ行った記憶は、自分の人生のどこにもない。
透羽が玄兎の目を見る。
「今、何かを自分の記憶だと思いましたか」
「……一瞬だけ。俺が走った場所だって」
言葉にした途端、確信の方が自分の人生から浮いた。
玄兎は両耳を塞ぐ。
「駄目だ。聞こえるだけじゃない。俺の記憶みたいになる」
その直後、頭の奥で景色が切り替わった。
暑い。
夕方なのに、法被の背中へ汗が張りついている。遠くで太鼓が鳴り、笛の高い音と人の話し声が重なる。焼きそばのソースと川の湿った匂いまで、妙にはっきりしていた。
隣から肩を叩かれる。
振り向く前から、木崎だと分かった。
『暑すぎ。来年は絶対、屋内の担当にしようぜ』
今より少し長い髪。紺色の法被。笑う時に右の口角だけ先に上がる癖。
玄兎も笑っている。
『でも屋台回れなくなるだろ』
『結局そっちかよ』
その会話をした気がした。
いや、した。
資料コーナーの前を通る。祭りの由来を書いた展示パネルがあり、古い灯籠の写真の横に「迎え灯」「送り灯」の文字が並んでいる。
その前には、法被姿の久住が立っていた。
『昔は迎え灯と送り灯が対だったんだ。迎えて、それから帰す』
木崎がパネルを見る。
『送り灯って、今はやってないんすね』
玄兎は写真の中の灯籠へ目をやった。
『迎えたなら、最後は帰すってことか』
太鼓の音がまた鳴った。
首筋を汗が伝う。木崎の法被の袖が腕へ触れる。人波の向こうで提灯が揺れる。
全部、自分の身体で知っている感覚だった。
「……思い出した」
玄兎の口から声が漏れた。
透羽がすぐ近くまで来る。
「何をですか」
「去年の祭り。木崎といた。法被着て、資料コーナー見て……教授から迎え灯と送り灯の説明も聞いた」
言葉にするほど、記憶は確かなものに思えた。昨夜まで写真の向こうにしかなかった一日に、急に手触りが生まれている。
透羽の表情が変わった。
「玄兎。今、久住先生から説明を聞いたと言いましたか」
「うん。去年もこのパネルの前で」
透羽は数秒だけ黙り、スマートフォンを取り出した。防音室を出たばかりの久住へ電話をかけ、短く事情を伝える。
『展示パネル?』
スピーカーから久住の声が返った。
『去年はないぞ。あれは今年の六月、地域資料室の整理で見つかった旧資料をもとに、俺と実行委員会で作り直したものだ』
玄兎は何も言えなかった。
汗の感触はまだある。
祭囃子も、木崎の声も、久住がパネルを指した光景も、ついさっきまで全部同じ強さで「自分の記憶」だった。
なのに、その中へ去年には存在しないものが混ざっている。
「じゃあ……これ、俺の記憶じゃないのか」
透羽はすぐには頷かなかった。
「少なくとも、展示パネルを見た部分は昨年の出来事ではありません」
千燈が低く続ける。
「でも、全部が偽物とは限らないよ。玄兎くんと木崎くんが一緒にいたこと自体は写真に残ってる。そこへ別の記憶や、昨日見たものが混ざって、一つの過去みたいにつながった可能性がある」
木崎に肩を叩かれた感触。
あの笑い方。
法被の暑さ。
どこまでが本当にあったことなのか、玄兎にはもう分からない。
分からないのに、さっきまでは全部分かっている気がしていた。
そのことの方が怖かった。
透羽が何か叫んだ。唇は玄兎の名を呼んでいるのに、耳には知らない老人の『置いていかないでくれ』という声が届く。
自分が「怖い」と思えば、幼い女の子の泣き声が頭の中で代わりに響いた。透羽を呼ぼうとした口からは、知らない男の謝罪がこぼれる。
他人の声と記憶が多すぎて、自分自身の輪郭が急速に曖昧になっていった。
「玄兎!」
小毬が近づいてきた。
今度は声そのものより、琥珀色の瞳と差し出された手を頼りに、小毬だと認識する。
彼女は玄兎の腕を掴み、鼻をひくつかせた。
「先輩の匂いが変です。先輩の匂いの上に、知らない人の匂いみたいなものが次々重なってる!」
戻ってきていた千燈が、玄兎の様子を見て顔を強張らせた。
「音を止めて! これ、聞き続けるほど境界が崩れる!」
「機械を止めても駄目です。もうテープの中だけで起きていることではありません!」
透羽の返答に、依澄が苦しそうに耳を押さえながら顔を上げる。
「夢じゃない。でも、一つの声を聞くと、その奥から別の人の記憶まで出てくる」
その時、無数の声の中から、ひとつだけ低い声が浮かび上がった。
『空いている』
玄兎の痣が、さらに熱くなる。
『ここは、空いている』
千燈の顔から血の気が引いた。
透羽は迷うことなく玄兎と棚の間へ立った。
「玄兎。私を見てください」
無数の声の向こうで、灰青色の瞳だけが動かなかった。
「昨日の灯籠祭は覚えていますか」
「覚えてる。みんなと影の祭りに入って、迷子を連れて戻った」
「では、昨年は?」
玄兎は口を開きかけて、止めた。
祭囃子が浮かぶ。木崎が笑っている。法被は暑い。
「……分からない」
雑音の奥で、何かがざわめいた。
『ある』
『思い出した』
『ここにある』
玄兎は首を振った。
無数の声が一斉に大きくなった。
知らない女の謝罪。若い男の笑い声。幼児の泣き声。冬の駅。古い台所。白い病院の廊下。
その中で一本だけ、古いラベルのカセットが激しく回っている。
『S-00』
若い女の声が混じった。
『忘れたい』
『でも、忘れたくない』
依澄がS-00を見る。
「S-00だけじゃない。さっきから聞こえてる声が重なってる」
玄兎は昨年の写真を思い浮かべ、声の濁流を見返した。
「去年のことは、まだ分からない。でも、分からないものを偽物で埋めない」
言葉にした瞬間、頭の中で勝手につながりかけていた景色がわずかに軋んだ。
透羽の水が足元へ広がった。
「記録は残したまま、玄兎の記憶へつながろうとしている経路だけを切ります」
「お願い」
玄兎が防音室の中央へ立つと、カセットの回転が一斉に速くなった。
『空いている』
『ここへ』
知らない人生が、再び押し寄せる。
玄兎は目を閉じなかった。
小毬が玄兎の手を握る。
千燈が重なりの強い場所だけを指す。
依澄の蝶が、一つにつながりかけた記憶の境目へ入り込む。
透羽が息を吸った。
「《白鷺浄界》!」
清めの水が防音室を走った。
木崎の笑い声に重なっていた知らない声が剥がれる。
法被の暑さから、別人の夏の記憶が離れる。
昨日見た展示パネルが、去年の景色から抜け落ちる。
祭囃子だけが一瞬残った。
それが本当に昨年のものなのか、誰か別の祭りのものなのか、玄兎には分からない。
やがて、その音も薄れていった。
『忘れたい』
『忘れたくない』
S-00の声も、やがて他の声の中へ戻っていく。
回転音が一つずつ止まる。
最後のカセットが止まると、防音室には本来の静けさが戻った。
◇
終息の連絡を受けた久住が戻ってくると、最初に確認したのは資料ではなく五人の怪我だった。
透羽は、音声資料室で起きた現象と玄兎に出た症状だけを説明した。
久住は短く頷き、音声資料室の鍵を閉めた。
「記録自体は残す。怪異との接続を切った状態で、扱いは改めて確認する。今日はもう帰れ。鵺代、お前も今夜は休め」
「はい」
今度は素直に頷けた。
◇
その夜、母親から子供の頃の事故に関する救急外来記録が届いた。
『事故後、一時的な意識消失の申告あり』
『来院時、意識清明』
『画像検査上、明らかな骨折・頭蓋内出血等を認めず』
父親のメモにも、病院へ着いた時には普通に話しており、大きな怪我は見つからなかったとある。
玄兎は書類の写真を四人へ送った。
透羽から返ってきたのは、来院時の状態が分かるだけで、事故直後に何が起きていたかまでは分からない、という短い返事だった。
玄兎は『了解』とだけ返した。
◇
スマートフォンを置こうとして、昨年の灯籠祭の写真が目に入った。
紺色の法被を着た自分。その隣で、肩を組んで笑っている木崎。
写真の中の二人が一緒にいたことは、外に残った記録として確かだった。
玄兎は数秒だけ見つめ、画面を伏せた。
今日浮かんだ声や感触については、もう追わなかった。
◇
同じ頃。
鷺宮透羽は、鷺宮家本家の資料端末の前にいた。
二十年前の事故記録とは別系統に保管されていたため、追加申請していた『器・再構築後経過観察記録』の一部が、ようやく開示されていた。全文ではない。それでも、以前は見出ししか見えなかった数行が読める。
『器・再構築後経過観察記録』
『再構築後、身体機能に異常なし』
『認知機能、直後は正常』
次の一行で、透羽の指が止まった。
『長期観察にて、認知記録に一部不一致を確認』
透羽は、昼に玄兎が今年のパネルを『去年見た』と言った時の顔を思い出した。
だが、この数行だけで対象を玄兎とも、再構築を《還月》とも決められない。認知不一致が記憶欠損を指すのかも、まだ分からなかった。
透羽は読めた文章だけを手元へ写した。
画面の黒塗りを見つめながら、透羽は小さく息を吐いた。
「……何が一致していないのですか」
答えは返らない。
『認知記録に一部不一致』。透羽は、その一行を閉じる前にもう一度読んだ。
――第十話・了