八月の朽木ヶ丘市は、日が落ちても暑さを手放してくれない。
昼のあいだアスファルトに溜め込まれた熱が、夜になってからも足元へじわじわと戻ってくる。昼間ほど勢いのなくなった蝉の声に代わって、古い商店街の方から祭囃子と人々の話し声が重なって聞こえていた。
朽木ヶ丘大学から川沿いへ十五分ほど歩いた八坂通りでは、年に一度の「朽木ヶ丘灯籠祭」が始まろうとしている。
玄兎と透羽が六月の雨の夜に出会ってから、およそ一月半が過ぎていた。
あれから大きな怪異事件が起きない日にも、五人は講義や学食で顔を合わせ、鷺宮家から持ち込まれる小さな相談や調査を一緒にこなすようになった。最初は命のやり取りの勢いだけで繋がったような関係だったのに、いつの間にか互いが日常の中にいることの方が自然になりつつある。
そんな五人が、今夜はそろって浴衣を着ていた。
「玄兎先輩、そのまま歩かないでください。帯がまた右へ下がっています。さっき私が直した時より悪くなってますよ」
背中を軽く叩かれ、鵺代玄兎は自分の腹へ視線を落とした。
地元商店会が大学のボランティア学生へ貸し出している紺色の浴衣で、男物らしく柄は控えめだ。よく見れば細い波模様が入っている。
本人としては、特におかしなところはないように見える。
「俺には普通に見えるんだけど。そんなに曲がってる?」
「見れば分かるくらいです。右側だけ下がってますし、結び目も少しずれてます」
白狼院小毬は呆れたように言いながらも、どこか嬉しそうだった。
彼女の浴衣は灰白色で、帯は淡い黄色。普段の動きやすい服装とは違い、柔らかな銀灰色の髪は片側だけ小さく編み込まれ、琥珀色の髪飾りで留められている。
本人は「お祭りなので普通です」と言っていたが、午前中から大学の女子学生たちに囲まれ、ずいぶん念入りに準備していたことを玄兎は知っていた。
「じゃあ、自分でもう一回やってみる」
玄兎が帯へ手を伸ばすと、小毬は即座にその手を止めた。
「駄目です。先輩、さっきから三回自分で直して、三回とも少しずつ悪化させてます。ここは素直に任せてください」
そこまで言われると反論の余地がない。
玄兎は両手を下ろした。
「分かった。悪化させる前にお願いします」
「はい。最初からそうしてください」
小毬が嬉しそうに玄兎の背後へ回り、帯へ手を伸ばした、その時だった。
「白狼院さん。そこを締め直すなら、結び目を少し上へ戻した方が崩れにくいと思います」
落ち着いた声に、小毬の手が止まる。
振り返ると、鷺宮透羽が立っていた。
白地の浴衣には、薄い水色の鷺と流水の柄が入っている。長い黒髪はいつものようにまっすぐ下ろさず、今日は低い位置でまとめられ、細い銀色の簪が一本挿されていた。
普段の凛とした雰囲気は残っているのに、大学で見る彼女より少し柔らかく見える。
玄兎は何となく、その姿を数秒見てしまった。
透羽が気づき、灰青色の瞳をこちらへ向ける。
「玄兎。先ほどから見ていますが、何かおかしいところがありますか」
「いや、逆。浴衣、すごく似合ってるなと思って」
透羽の動きが一瞬だけ止まった。
それから、何事もなかったように視線を祭りの提灯へ向ける。
「……そうですか。ありがとうございます」
返事は平静だった。
ただし、提灯の赤い光のせいだけでは説明できない程度に、耳が少し赤い。
その横で、小毬が玄兎の袖を軽く引いた。
「先輩。透羽先輩には自分から感想を言ったのに、私には何もないんですか?」
「小毬も似合ってるよ。髪もいつもと違うし、かわいいと思う」
言った途端、小毬が固まった。
玄兎は首を傾げる。
「どうした?」
「今、『妹みたいで』とか『後輩として』とか、余計な言葉を一つも付けませんでしたよね」
「そこを確認するの?」
「大事です。ものすごく大事です。玄兎先輩の中で、私は少しずつ恋愛対象へ近づいていると判断します」
「勝手に判定を進めるなよ」
玄兎が苦笑すると、小毬は満足そうに帯を直し始めた。
そこへ、今度は少し艶のある声が割り込む。
「じゃあ玄兎くん。私にもちゃんと感想を聞かせてくれる?」
声の主は緋鴉千燈だった。黒を基調にした浴衣には深い紅色の花が描かれ、帯留めには金色の飾りが使われている。長い黒髪の内側に混ざった深紅が、祭りの灯りを受けるたび鮮やかに浮かび上がった。
玄兎は彼女を上から下まで見て、少しだけ肩をすくめる。
「千燈先輩は、聞かなくても自分で似合ってるって分かってるだろ」
「それと、玄兎くんの口から聞くのは別だよ。かわいい?」
「かわいいっていうより、綺麗」
千燈が一瞬、言葉を失った。
むしろ玄兎の方が驚いた。普段の千燈なら、そこからいくつも軽口を重ねてくるはずだったからだ。
「……先輩?」
呼ばれて、千燈はようやくいつもの笑みを戻した。
「たまにそういう真っ直ぐなこと言うの、ずるいよね。こっちがからかう前に終わっちゃう」
「何がずるいのか分からないけど」
「分からなくていいよ。その方が玄兎くんらしいから」
最後に、屋台の光の下から蝶ヶ森依澄が歩いてきた。
薄紫色の浴衣に、銀色に近い帯。袖と裾には小さな蝶の柄が散っている。淡い銀紫色の髪と合わさると、夜の中で彼女だけ少し現実感が薄い。
依澄が何か言う前に、玄兎は先回りした。
「依澄も似合ってる。浴衣の色、髪と合ってるな」
依澄は目を瞬いた。
「まだ感想を聞いていないのに、先に言われた」
「先に言ったら嫌だった?」
「ううん。少し驚いただけ。嬉しい」
依澄は素直にそう言うと、玄兎の袖の端をつまんだ。
「一つ確認したい。浴衣を褒めるのは、恋人がする行動?」
「恋人でもするだろうけど、友達にも普通に言うと思う」
「じゃあ、祭りで相手の袖を持つのは?」
「混んでる場所なら、はぐれ防止でやることはあるんじゃないかな」
「恋人じゃなくても?」
「そうだな」
依澄は納得したように頷いた。
しかし、袖をつまんだ指は離さない。
玄兎はそこへ目を落とした。
「理屈は分かったみたいだけど、今はまだ全然混んでないぞ」
「これから混む。先に予防する」
「覚えた理屈を使うのが早いな」
それを見た小毬が、負けじと玄兎の反対側の袖を掴んだ。
「では私も、混雑に備えてはぐれ防止します!」
「小毬は匂いで俺を追えるだろ」
「それとこれとは別です。気持ちの問題なんです!」
千燈が楽しそうに笑う。
「両袖を取られて大変だね、玄兎くん」
玄兎が助けを求めるように透羽を見ると、彼女は特に何も言わなかった。
ただ、少し前を歩いていたはずなのに。
気づけば、いつの間にか玄兎のすぐ横へ並んでいた。
◇
五人が灯籠祭へ来たのは、単なる遊びのためではない。
朽木ヶ丘大学が地域連携事業の一環として祭りの運営へ学生ボランティアを出しており、地域文化論を担当する久住教授がその取りまとめ役をしていた。
六月、久住に頼まれて地域資料室の整理を手伝った縁もあり、玄兎たちは半ば流れで参加することになった。あの時、久住が怪異の存在を頭から否定せず、危険な資料を前にすれば自分にできる範囲で学生を守ろうとする人物だと知ったことも、玄兎たちが今回の依頼を引き受けた理由の一つだった。
同じ資料室で見つけた、二十年前の封印事故に関する記録。
浴衣と提灯に囲まれた楽しい空気の中にいても、その存在は玄兎の胸の隅へ小さな棘のように残っている。
「鵺代、やっと来たか。お前たち、集合時間ぎりぎりだぞ」
商店街の入口から、法被姿の久住教授が手を上げた。
玄兎はスマートフォンの時計を見る。
「集合十分前ですよ。むしろ普通に早いと思うんですけど」
「若者は二十分前に来るもんだ。ところで、この前の資料整理では昼飯代を俺が出したよな?」
教授がわざとらしく眉を上げる。
玄兎は即座に姿勢を正した。
「本日はよろしくお願いします、教授」
「金の話をした途端に礼儀正しくなるな」
今日の担当は、古い灯籠の展示補助と、祭りの由来を紹介する小さな資料コーナーの案内だった。
朽木ヶ丘灯籠祭は、もともと川沿いの集落で行われていた送り火に近い行事だったらしい。
亡くなった人や遠く離れた家族が、道に迷わず帰ってこられるように。
家々が軒先へ灯りを出す。
それが時代とともに祭りへ変わり、今では屋台と花火の方が有名になった。
透羽は展示パネルに記された説明を読みながら、古い写真へ視線を落とした。
「『帰るための灯り』ですか。今の祭りから受ける印象とは、ずいぶん違いますね」
「昔はもっと静かな行事だったらしいぞ」
久住はパネルの写真を指した。
「夕方に『迎え灯』を出して、祭りの終わりには『送り灯』で帰す。二つが対になってた」
玄兎は川沿いへ並ぶ古い提灯の写真を見る。
「今は迎え灯だけなんですか?」
「そうだ。送りの方は戦後しばらくして途絶えた。川の護岸工事で昔の流路が変わったことも理由の一つらしい」
「帰ってきてもらったら、最後はまた送るんですね」
透羽の問いに、久住はゆっくり頷いた。
「来てほしいからって、ずっと家に置いておくわけにはいかんからな。死者でも、生者でも同じだ。帰ってきたら、また自分の場所へ戻る」
その言葉を聞いた玄兎は、以前解いた怪異を思い出した。
三メートル以上離れるだけで胸を締めつけられた、離れられない呪い。
そばにいてほしいという願いも、歪めば相手を縛る。
帰ってくることと、閉じ込めることは違うのだ。
依澄が古写真を見つめながら久住へ尋ねた。
「教授。死んだ人は、本当に灯りを見て帰ってくるの?」
久住はすぐには答えず、写真の中で川辺に並ぶ灯りをしばらく眺めた。
「何かが帰ってくることまで、俺は否定しない。土地の記録を追っていれば、そう考えた方が筋の通る話には何度も出会うからな。ただ、それが亡くなった本人なのか、残った思念なのか、別の何かなのか――そこまで俺には判別できん」
「怪異がいると知っていても、何でも分かるわけではない?」
依澄が確かめると、久住は頷いた。
「知っていることと、分かることは別だ。俺は記録を読めるが、鷺宮のように祓う術は持っていない。だから、分からないものを分かったつもりで扱わないようにしている」
透羽はその言葉に、わずかに表情を和らげた。
久住は改めて写真へ目を戻し、少しだけ声を柔らかくする。
「それに、実際に誰が帰ってくるかとは別に、『帰ってきてほしい』と思って灯りを出した人がいたことは確かだ。祭りや習慣ってのは、人の願いが形になったものだからな」
依澄はその言葉を大事そうに反芻した。
「願いが、形になる」
「そういうことだ」
その少し離れた場所で、小毬が展示された古い灯籠へ鼻を近づけていた。
透羽がすぐに気づく。
「白狼院さん、資料へ顔を近づけすぎです。匂いを確認するにしても、触れない距離を保ってください」
小毬は慌てて顔を上げた。
「まだ触ってません。匂いだけなら年代とか保管場所が分かるかもしれないと思って」
「分かったとしても、まず管理者へ確認してください。これは調査用の資料ではありません」
「はい……」
しょんぼりする小毬を見て、千燈が玄兎の横で小さく笑う。
「何だか家族みたいになってきたね。透羽ちゃんがお母さん役」
透羽はすぐに振り返った。
「聞こえています。そもそも、この距離なら普通に聞こえます」
「本当に耳がいいなあ」
「だから、普通に聞こえる距離です」
玄兎は思わず笑った。
今のところは、何も起きていない。
少なくとも、この時までは。
ただの夏祭りだった。
◇
午後六時を回ると、祭りは一気に人を増した。
資料コーナーの案内を交代で担当しながら、五人は空いた時間に屋台を回った。
通りには焼きそばとたこ焼きの匂いが混ざり、提灯の光の下を浴衣姿の人々が行き交っている。遠くでは太鼓の試し打ちが始まり、子供たちの笑い声が何度も人波を抜けてきた。
「玄兎先輩、今度こそ射的に付き合ってください。さっきの狼のぬいぐるみ、もう少しで取れそうなんです」
小毬に腕を引かれ、玄兎は射的屋台の前へ戻ってきた。
「これで三回目だぞ。もう二千円くらい使ってない?」
「あと千円までなら予定内です。自分で取ることに意味があるんです」
「普通の店で似たの買った方が安い気がするけど」
「そういう現実的なことを言わないでください。お祭りは過程も込みで楽しいんです」
「その気持ちは分からなくもないけど」
小毬はコルク銃を構え、棚の上にある大きな狼のぬいぐるみを狙った。
玄兎はその台座を見て、思わず言う。
「あれ、下に重り入ってそうだな」
「今まさに撃とうとしてる人の夢を壊さないでください!」
「いや、知ってた方が狙い変えられるだろ」
「そういうところだけ急に合理的ですよね、先輩」
隣では、依澄が赤く光るりんご飴をじっと見つめていた。
玄兎はその視線に気づいて声をかけた。
「依澄、りんご飴気になる?」
「今日はこれを食べてみたい。食べたことがないから」
「じゃあ買えばいいじゃん」
「玄兎が買ってくれる?」
「どうして俺が買う流れになったんだ」
依澄は真剣な顔で考える。
「祭りでは、恋人がりんご飴を買うことがあると聞いた」
横から千燈が即座に口を挟んだ。
「あるよ。好きな相手へ買ってあげるの、かなり定番」
玄兎は千燈を横目で見る。
「依澄。千燈先輩の恋愛講座は、半分くらい面白がって言ってるから全部は信じるな」
「ひどいなあ。今回は本当なのに」
「今回は、って自分で言ってるじゃん」
依澄は二人を見比べ、結局自分で財布を取り出した。
「今日は自分で買う。その方が確実」
「その判断は正しいと思う」
少し先では、透羽が金魚すくいの屋台を眺めていた。
玄兎は透羽の隣へ並び、同じ水槽を覗き込んだ。
「金魚すくい、興味ある?」
透羽は水槽の中を泳ぐ赤や白の金魚を見ながら答える。
「飼える環境がないので、すくうつもりはありません。生き物を景品として扱う形式にも、少し疑問があります」
「遊び方を聞いたら、制度の話から返ってきた」
「ただ、見るだけなら嫌いではありません。水の中で光が揺れるのは綺麗です」
玄兎も水槽を見る。
提灯の光が水面で崩れ、透羽の横顔にも淡い金色が映っていた。
「水があると、退魔師としては少し安心する?」
「多少は。祭りでも手水舎や屋台の水、川がありますから、完全に乾燥した場所よりは術を使いやすいです」
そこで透羽は少し声を落とした。
「それと玄兎。今日は人が多いです。怪異が出ても、勝手に自分を犠牲にしないでください」
玄兎は苦笑しながら肩をすくめた。
「祭りの最中に念押しすることか?」
「人が多いからこそです。混乱すれば、あなたはまた自分が囮になればいいと考えかねません」
「分かったよ。俺だって今日くらいは普通に終わってほしい」
透羽は一瞬だけ表情を緩めた。
「私もです」
二人はしばらく、怪異の話をやめた。
ただ水槽の中を泳ぐ金魚と、その上に揺れる祭りの光を眺めていた。
そのまま、何事もなく終わればよかった。
◇
最初の異変が祭りの実行委員会へ入ったのは、午後七時十二分だった。
七歳の男の子がいなくなった。
母親と一緒に祭りへ来て、かき氷を買った直後。ほんの数十秒目を離した隙に、人混みの中から消えたという。
祭りでは、迷子そのものは珍しくない。
普通なら、係員が放送を流し、周辺を探せば済む話だった。
しかし、小毬が母親から借りた帽子へ鼻を近づけた瞬間、その表情が変わった。
「この子の匂い、追えます。人が多いからかなり混ざってますけど、ちゃんと覚えました」
玄兎は周囲を見渡す。
油で揚げた食べ物や甘い菓子、汗、香水、川の湿気、さらには花火の火薬まで、祭り特有の匂いが幾重にも混ざっている。小毬にとっては、その中へ何百人分もの人の匂いまで折り重なっているのだろう。
「無理そうなら言ってくれ。別の方法も考える」
「大丈夫です。時間が経つ方が困ります。少しゆっくり進んでください」
小毬は鼻をひくつかせながら、人波の中を慎重に歩いた。
やがて、屋台が集まる中心部ではなく、古い商店街の外れへ顔を向ける。
「こっちです。灯籠展示の方へ行ってます」
玄兎は眉を寄せた。
「七歳の子なら、屋台や花火の方へ行きそうだけどな」
透羽の表情は、すでに退魔師のものへ変わっていた。
「誰か、あるいは何かに誘導された可能性もあります。周囲へ注意しながら進みましょう」
千燈もいつもの笑みを消し、祭り客の流れを確認する。
「人混みの中なら、連れ去る側にも都合がいい。急ごう」
五人は小毬を先頭に、人波を抜けた。
古い灯籠が何十基も並ぶ展示区画まで来たところで、小毬が突然足を止める。
「……ここです。ここまで来てるのに、匂いが急に消えました」
玄兎は周囲を見る。
観光客の姿は残っているものの、祭りの中心部より人通りはかなり少ない。
石畳にも、子供の足跡らしいものは見当たらない。
玄兎が足元へ目を凝らしていると、展示されていた古い灯籠の一つに、突然ぽつりと明かりが灯った。
玄兎は違和感を覚えた。
「これ、さっき点いてた?」
透羽が首を横に振る。
「いいえ。展示用ですから、実行委員会が点灯する予定はないはずです」
依澄が灯籠へ近づきすぎないよう手をかざす。
「夢に近い感じがする。でも夢ではない」
「どう違う?」
「夢は、誰かの内側にある。でもこれは、場所の方が薄くなってる。向こう側が重なってる感じ」
千燈は灯籠の根元へ目を向けた。
そこに、小さな赤い点が落ちている。
「血がある。量からすると、指先か手のひらを少し切った程度かな」
小毬がその場へしゃがみ込み、触れずに匂いを確認する。
「悠斗くんと同じ匂いです。この子の血で間違いないと思います」
千燈は母親から預かった帽子と血の位置を見比べた。
「なら、この血から直前の記憶が読めるかもしれない。触れていい?」
透羽が頷く。
「必要最小限でお願いします。子供本人の血なら、《血読》の対象も本人の記憶になります」
千燈は地面に残った血へ指先だけを触れた。
彼女自身の血ではない。
消えた子供――悠斗の血だ。
「《血読》」
千燈の赤褐色の瞳が、わずかに焦点を失った。
断片的な記憶が流れ込む。
かき氷を持った子供。
人混みの中で母親を見失う。
誰かの肩にぶつかって転び、石畳へ手をつく。
石へ擦った掌が切れ、泣き出しそうになった、その時。
『こっち』と、優しい声がする。子供が顔を上げると、人混みの向こうの暗がりに、一つだけ白い提灯が浮かんでいた。
『迷子?』
声は、子供を安心させるように柔らかい。
『お母さん、こっちだよ』
子供が提灯へ近づくと、その先でもう一つ明かりが灯る。
一つ、二つ、三つと明かりが増え、白い灯りだけが誰にも見えない道を作っていく。
周囲の大人たちは、誰一人その灯りへ気づかない。
子供だけが、導かれるようについていく。
千燈が指を離した。
《血読》から戻った直後は、いつもより呼吸が浅い。
玄兎は急かさず待った。
数秒後、千燈がゆっくり口を開く。
「悠斗くんは、白い提灯に呼ばれてここまで来た。『お母さんがこっちにいる』って声がして、灯りについていった」
「その先は?」
「記憶が切れてる。ここから先へ入った瞬間、血を落とした場所と本人のいる場所が分かれたみたい」
依澄が灯籠を見つめる。
「境目がある。向こうにも祭りがある」
玄兎の背中へ、冷たいものが走った。
「ここじゃない祭り?」
依澄は静かに頷いた。
「同じ場所。でも時間が違うように見える」
話しているうちに、最初の灯籠の隣でもう一つ明かりが灯った。
さらに、その先でも。
白い光は川へ向かう道ではなく、古びた細い路地の奥へ向かって順番に連なっていく。
玄兎は昼間の久住の説明を思い出した。
「迎え灯だ。昔、帰ってくる人を迷わせないために並べた灯り」
透羽も同じことを考えたらしい。
「現在の道順とは一致しません。おそらく、再開発や護岸工事より前の祭りの道が現れている」
千燈がスマートフォンの地図を開き、現在地と路地を見比べる。
「今の地図だと、この先は途中で行き止まり。でも灯りは、その先へ続いてる」
小毬の鼻が小さく動く。
「悠斗くんの匂いも戻りました。薄いけど、灯りと同じ方向です」
透羽は一度全員を見回した。
「行きます。ただし、その前に久住教授へ連絡します。私たちが戻るまで、この展示区画へ一般の方を近づけないでもらいましょう」
透羽はスマートフォンを取り出し、短い文章を打ち込んだ。
『灯籠展示区画の奥で異常を確認しました。迷子の子供が境界の向こうへ入った可能性があります。これから五人で追います。こちらから連絡するまで、展示区画奥への立ち入りを止めてください。』
送信して間もなく、返信が届いた。
『了解。理由はこちらで作る。一般客と実行委員は近づけない。戻ったら必ず連絡しろ。無理なら追うな。』
玄兎は画面を横から見て、少しだけ息を吐いた。
「知ってる大人が運営側にいると、こういう時は助かるな」
「ええ。ただし、教授にできるのは外側の安全確保までです。中へ入れば、私たちだけで対処することになります」
透羽はスマートフォンをしまい、改めて全員を見る。
「ここから先は単独行動禁止です。特に玄兎。何か見えても、勝手に先へ行かないでください」
「名指しなんだな」
「これまでの実績を踏まえています」
玄兎は反論せず、素直に頷いた。
灯籠の明かりだけを頼りに、五人は路地の奥へ進んだ。
◇
四つ目の灯籠を越えた瞬間。
祭囃子が、途切れた。
音量が小さくなったのではない。
太鼓も笛も、人の話し声も、屋台の呼び込みも。
世界から一斉に抜け落ちた。
玄兎は足を止め、来た道を振り返る。
そこに、祭りはなかった。
さっきまで何百人もの人で埋まっていた通りが消えている。
屋台も、電飾も、現代の建物もない。
代わりに広がっていたのは、木造の家々が並ぶ古い町並みだった。
舗装されていない土の道。
細い水路。
電線も、自動販売機も、車の音もない。
昭和の初めか、あるいはそれよりさらに古い時代なのかもしれない。景色だけではなく空気まで違い、土と薪、植物油を燃やしたような匂い、湿った木、遠くを流れる川の気配が混ざっていた。
玄兎はすぐに人数を確認する。
「誰か欠けてないか? 透羽、小毬、千燈、依澄――全員いるな」
「います。悠斗くんの匂いもまだ前にあります」
小毬が周囲を嗅ぎながら答える。
千燈は、古い町並みを見つめたまま少しだけ動きを止めていた。
玄兎は、その様子に気づいて声を落とした。
「千燈先輩、何か分かる?」
「……少し懐かしい匂いがするだけ。今はそれ以上、読まないで」
いつもの千燈なら、冗談を一つ混ぜたはずだ。
けれど、その声はどこか遠かった。玄兎は今は踏み込まない方がいいと判断し、それ以上聞かなかった。
そこへ、小毬が何かを見つけて前方を指した。
「いました。悠斗くんです!」
細い路地の先に、七歳くらいの男の子が小さな背中をこちらへ向けて立っていた。
小毬は子供を驚かせないよう、少し姿勢を低くした。
「悠斗くん。お母さんが探してます。こっちへ来てください」
子供が振り返ると、泣きそうだった顔がぱっと明るくなった。
「お母さん、あそこにいるよ」
指さした先に、一人の女性が立っていた。
浴衣姿の女性で、背格好も髪型も母親によく似ているのだろう。
しかし、小毬は一瞬で顔を強張らせた。
「違います。匂いが全然違う」
女性がゆっくり振り返った。
しかし振り向いた女性には顔がなかった。目も鼻も口もなく、皮膚だけが不自然に滑らかに続いている。
それなのに、声だけは母親そのものだった。
『悠斗。帰ろう』
子供が一歩、女の方へ進む。
透羽が即座に小瓶から水を一滴放った。
「《白羽》!」
鋭く伸びた水の筋が、女と子供の間を切り裂く。
偽りの姿が、水へ触れたところから崩れた。
子供が息を呑む。
次の瞬間、泣き声を上げた。
「お母さん!」
小毬が駆け寄り、悠斗を抱き上げる。
「大丈夫です。本物のお母さんのところへ帰ります。怖かったですね」
悠斗は小毬の首へしがみつき、声を上げて泣いた。
小毬は背中をゆっくり撫でながら、周囲を警戒する。
「玄兎先輩。この子を早く外へ出したいです」
玄兎も同意しかけた。
しかし依澄が、静かに来た道を見る。
「今は戻れない」
全員が振り返った。
白い灯籠は、一つ残らず消えている。
現代へ通じていたはずの路地さえ、古い木造家屋に塞がれていた。
千燈が周囲を見渡す。
「行事そのものへ取り込まれたなら、途中から逆走して出るのは難しいかもしれない。最後まで進めて、終わりの形を作る必要がありそう」
玄兎は久住の言葉を思い出す。
「送り灯か。今の祭りでは迎えだけが残って、送りが途絶えた」
透羽が頷く。
「迎える力だけが残り続けた結果、『帰ってきたものを帰せない』怪異へ歪んだ可能性があります」
依澄が古い町並みを見る。
「元の祭りを思い出させれば、出口が戻るかもしれない」
「問題は、どうやって元の形を再現するかだな」
玄兎が言った直後。
遠くから、太鼓の音が響いた。
どん、と一度。少し間を置いて、もう一度。太鼓の音に合わせるように路地の奥から人影が現れ、古い浴衣や法被を身につけた子供や老人たちが、通りを埋めるほどの数でゆっくりこちらへ歩いてくる。
だが誰一人、顔がない。
黒い影だけが、人間の形をしていた。
影たちは五人を襲わなかった。
代わりに、通りの両側へ整然と並ぶ。
そして手に持っていた白い面を、一斉に差し出した。
何も描かれていない面。
額の部分にだけ、古い墨で役目が記されている。
そこには、《迎え手》《送り手》《迷い子》《帰り人》と、それぞれ異なる役目が記されていた。
玄兎の目の前へ、一枚の面が浮かんだ。
誰も持っていないのに、冷たい白い表面が頬へ吸いつくように近づいてくる。
玄兎は反射的に手を伸ばしかけた。
「触らないで!」
千燈の鋭い声が飛ぶ。
玄兎は寸前で手を止めた。
しかし、面の縁が頬へ触れた。
触れた場所は氷のように冷たく、引き剥がそうとすると、皮膚の方が白い漆へ吸い寄せられていく。
爪の間へ何かが入り込むような不快感。
再び太鼓がどん、と鳴り、その音と同時に五人の服装が少しずつ古びていった。
玄兎のスニーカーから色が抜け、鼻緒の切れた草履へ変わりかける。
透羽の小瓶は、祭具の鈴のような形へ歪む。
小毬が抱いている悠斗の姿が、一瞬だけ白い布に包まれた重い何かへ見えた。
さらに恐ろしいことに、それを不自然だと思う感覚まで少しずつ薄れていく。
玄兎の頭の中に、覚えたことのない「祭りの手順」が浮かんだ。
三度太鼓が鳴ったら川へ行き、帰り人を数え、数の合わない一人を川へ返す――そんな手順が、昔から知っていた作法のように頭へ入り込んでくる。
その一人が、小毬の腕にいる悠斗だ。
――そうするのが、昔から決まった作法だ。
玄兎は、その考えが自分のものではないと気づいた瞬間、ぞっとした。
玄兎は、自分の頭へ入り込んだ作法を拒絶するように声へ出した。
「違う。この子は祭具でも、帰り人でもない。生きてる子供だ。俺たちはこの祭りの役じゃない」
言葉にした途端、草履へ変わりかけていた靴が一瞬だけ元のスニーカーへ戻る。
透羽もはっとしたように小瓶を握り直した。
「自分たちの名前と目的を忘れないでください。この怪異は、迷い込んだ人間へ役割を押しつけ、昔の祭りと同じ結末を演じさせようとしています」
小毬は悠斗を抱く腕に力を込める。
「私は白狼院小毬です。この子をお母さんのところへ帰します。誰にも渡しません」
千燈も自分へ言い聞かせるように笑った。
「緋鴉千燈。役を演じに来たんじゃなくて、迷子を迎えに来た」
依澄は胸元へ手を置く。
「蝶ヶ森依澄。今は夢じゃない。現実へ帰る」
玄兎も頷く。
「鵺代玄兎。まず、この祭りに飲み込まれない。それから悠斗くんを帰す」
五人の輪郭が少しだけ鮮明になった。
影の祭りは、まだ終わらない。
けれど、自分が誰なのかを口にするだけで、押しつけられた役割はわずかに遠ざかった。
◇
影の祭りには、今はもう存在しない店が並んでいた。
名前も分からない古い菓子。
木で作られた玩具。
紙風船や見慣れない形の飴まで並び、屋台の間を歩く影たちは、それぞれに誰かを探しているようだった。
『おかえり』
『待ってたよ』
『こっちへおいで』
声が、あちこちから重なる。
その一つが、小毬の名を呼んだ。
『小毬』
小毬の足が止まる。
「……お母さん?」
本人が口にした瞬間、自分でも驚いたように目を見開いた。
玄兎はすぐに彼女を見る。
「小毬。匂いは?」
小毬は強く鼻を鳴らした。
それから、首を横に振る。
「ありません。お母さんの匂いじゃない。分かってるのに、声だけは本物みたいです」
『小毬。家に帰っておいで』
優しい声が、耳元へまとわりつく。
小毬の琥珀色の瞳が揺れた。
大学進学を機に始めた一人暮らし。
静かな部屋。
以前、友人の莉奈を捜した時、小毬は玄兎へ「家族のいるところへ帰りたいと思う日がある」と打ち明けている。
怪異は、そこを正確に突いてきた。
玄兎は大声で否定する代わりに、彼女の隣へ立った。
「聞こえることまで止められないなら、匂いの方を信じよう。小毬は自分で帰れる場所を知ってるだろ」
小毬は悠斗を抱いたまま、何度か深く息を吸う。
そして幻の声へ向かって言った。
「帰るなら、自分で帰ります。家族に会いたくなったら、ちゃんと連絡して、本物の家へ帰ります」
その宣言を境に呼び声は途切れ、人影も霧のように崩れていった。
小毬は小さく息を吐き、玄兎を見る。
「……危なかったです。匂いがなかったのに、声だけで一瞬信じそうになりました」
「信じかけたことまで悪いわけじゃない。帰りたいって思う気持ちは本物なんだろ」
小毬は少しだけ困ったように笑った。
「そういうこと言われると、また先輩のこと好きになるので困ります」
「今は怪異に集中しよう」
「そこは流すんですね」
それでも小毬の表情は、さっきより落ち着いていた。
小毬を惑わせた声が消えると、次に依澄の前へ男と女、二つの人影が現れた。
どちらも顔が闇に塗り潰されている。
それでも声だけは、妙に懐かしさを帯びていた。
『依澄』
『ずっと探していたよ』
依澄が立ち止まる。
「……家族?」
『そうだよ』
『おいで。もう一人じゃない』
依澄の足が一歩前へ出る。
玄兎は咄嗟に腕を掴みかけて、止めた。
今、無理に引き戻すより、本人がどう感じているか確かめた方がいい。
依澄は幻から目を離さないまま、玄兎の袖を掴んだ。
指先が少しだけ震えている。
「玄兎。私、本当の家族を知らない。だから、あれが本物じゃないって断言できない」
その言葉に、玄兎はすぐ答えられなかった。
知らないものを「偽物だ」と決めつけるのは簡単だ。
でも、もし依澄がずっと探していたものなら。
ほんの少しでも本物の可能性があると思ってしまえば、踏み出したくなるのも当然だ。
玄兎は幻ではなく依澄を見る。
「じゃあ、今は決めなくていいと思う」
依澄がこちらを向く。
「どうして?」
「本物なら、怪異の言う通り今すぐついていかなくても、また会える方法を探せる。怪異の中で急かされて決める必要はない」
依澄はしばらく玄兎を見つめた。
やがて、ゆっくり頷く。
「分かった。今日は行かない。本物かどうか、自分で調べてから決める」
男と女の影が、少しずつ薄くなる。
依澄は最後まで目を逸らさなかった。
消える寸前まで見届けた依澄は、小さく呟いた。
「もし本物なら、また会いたい」
幻は答えず、夜の中へ溶けた。
次に透羽の前へ現れたのは、背の高い男の影だった。
声だけが低く、厳しい。
『透羽。使命を忘れるな』
透羽の灰青色の瞳が、一瞬で冷たく硬くなる。
『器を監視しろ』
『情を挟むな』
玄兎の胸がわずかにざわついた。
透羽は、誰かに命じられて自分を見ている。
それ自体は知っている。
けれど「器」という言葉は、二十年前の記録を連想させた。
玄兎が声をかけるより早く、透羽は自分から幻へ向き直った。
「黙ってください」
男の影が止まる。
透羽の指先へ、清め水が淡く集まった。
「私が玄兎をどう見るかは、命令された役割だけで決めません」
水がひと筋走る。
「誰を、どう見るか。何を信じるか。それは私が決めます」
《白羽》が男の影を貫いた。
幻は抵抗する間もなく、白い水に洗われて消える。
玄兎は何も言わなかった。
今の透羽へ「ありがとう」と言うのも、何か違う気がした。
ただ、自分の意思で過去の命令を退けた彼女を、少し誇らしく思った。
安堵する間もなく、今度は千燈の前へ人影が現れる。
『千燈』
古い時代の響きを残す、若い男の声。
その一声を聞いた途端、千燈の顔からいつもの笑みが消えた。
玄兎にも覚えがある。
死者からかかってくる電話を終わらせた夜。
受話器の向こうで千燈を呼んだ声と、よく似ている。
『まだ夜を歩いているのか』
千燈は答えない。
人波の向こうから、和装の若い男が現れた。
姿は若いのに、その目だけがひどく優しかった。
『もう十分だ。帰ろう』
千燈の指先が、わずかに動く。
玄兎は何も聞かなかった。
ここで「誰」と尋ねれば、彼女が話す準備のない過去まで引きずり出すことになる。
千燈は長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。
「本物じゃない」
声がわずかに震えている。
『千燈』
「本物なら、私に『帰れ』なんて言わない」
男の影が一歩近づく。
千燈は笑おうとした。
でも、いつものようにはできなかった。
「私がどれだけ夜を歩くか。どれだけ長く生きるか。それを知ってた人だから」
男は何も答えず、ただ手を差し出す。
千燈はその手を見た。
それから玄兎、透羽、小毬、依澄へ、ほんの一瞬だけ視線を向ける。
「それに、今は帰る場所が増えたから」
玄兎の心臓が小さく跳ねる。
千燈はすぐに、いつもの調子を少しだけ取り戻した。
「大学の食堂とか、駅前のファミレスとかね」
玄兎は苦笑する。
「急に物理的な場所になったな」
「そういうことにしておいて。今は、それくらいがちょうどいい」
男の幻が、穏やかに笑った。
そして霧のように消えた。
最後に、祭りの奥から玄兎を呼ぶ声が聞こえた。
『玄兎』
その一声で、胸の奥がざわついた。
聞き覚えがある気もする。
しかし、本当に知っている声なのか判断できない。
『おかえり』
古い家並みの向こうから、六、七歳くらいの子供が走ってくる。
幼い玄兎だった。
誰かに手を引かれ、嬉しそうに笑っている。
『こっちへおいで』
胸の痣が熱を持った。
旧運動場で「帰る場所」と呼ばれた時ほど強くはない。
けれど、確かに反応している。
透羽が玄兎の横へ来た。
「玄兎。あれを追わないでください」
小毬も反対側から玄兎の手を掴む。
「先輩、心拍が上がってます。すごく怖い匂いもする」
千燈は少し離れたところで玄兎を見ていた。
「今回は《血読》しない。玄兎くんが自分で見て、自分で決めて」
依澄も幻へ目を向ける。
「たぶん、玄兎の記憶。でも欠けてる」
幼い自分の姿ははっきりしている。
なのに、その手を引く人物の顔だけが白く霞んでいた。
『玄兎。帰ろう』
玄兎は思わず問い返す。
「どこへ?」
『家へ』
その一言で、知りたいという衝動が一気に強くなった。
二十年前、自分に何があったのか。
《器》という言葉、《還月》の力、幼少期にある空白。目の前の人物は、それらすべてと関係しているのか。
玄兎の足が一歩だけ前へ出る。
すぐに、小毬の手へ力が入った。
透羽も反対側から玄兎の腕を掴んだ。
「玄兎。今は怪異の中です。ここで見えるものを真実だと決めないでください」
「分かってる。でも、一歩だけ近づけば何か分かるかもしれない」
「その『一歩だけ』で何度危険な目に遭ったか、覚えていますね」
透羽は腕を離さない。
「本物の記憶だったとしても、安全な場所で調べます。怪異に急かされて、自分の正体を決める必要はありません」
その言葉で、玄兎は旧運動場で自分が言ったことを思い出した。
自分が何者なのかを、怪異に勝手に決めさせない。
知りたい気持ちは消えない。
でも、仲間を置いて幻へ踏み込む理由にはならない。
玄兎は両側の手の温度を確かめた。
そして、踏み出した足を元へ戻す。
「……そうだな。俺は帰る。ここじゃない」
幼い玄兎の手を引いていた女の影が、少しだけ悲しそうに揺れた。
『玄兎』
最後の声が聞こえる。
玄兎は振り返らなかった。
白い霧が夜の中へ消えていく。
◇
影の祭りの中央には、大きな櫓が立っていた。
その下に、古びた木箱が置かれている。
中には名前の書かれた細い灯籠札が、数え切れないほど詰め込まれていた。
透羽が一枚を確認する。
「これは、祭りで迎えられた人々の名でしょうか」
千燈は別の札へ目を落とした。
「古いものは昭和二十年代。でも、新しいものも混じってる」
小毬が箱の下の方を覗き込み、息を呑む。
「この名前、大学の行方不明者一覧で見たことあります。去年と、その前の年の人もいる」
玄兎の背中が冷えた。
「過去にも、ここへ迷い込んだ人がいたってことか」
「しかも、全員が帰れたとは限らない」
千燈が低く答えた、その時だった。
透羽の指が、札の束の途中で止まる。
「……玄兎」
声の硬さに、玄兎は顔を上げた。
透羽が抜き出した一枚だけ、他より紙が新しい。端には日付が残っていた。
昨年、八月十七日。
そして中央には、墨で四文字。
――鵺代玄兎。
最初に湧いたのは恐怖ではなく、意味が分からないという感覚だった。
玄兎は札を見たまま、しばらく瞬きさえできなかった。
「……俺?」
小毬が玄兎と札を何度も見比べる。
「同姓同名、ですか」
「こんな名字で?」
自分で否定してから、玄兎は昨年の夏を探した。
大学一年の夏休み。暑かった部屋。アルバイトへ向かった朝。試験が終わって気が抜けていたこと。前後の断片はいくつも浮かぶ。
けれど、八月十七日だけを手繰ろうとすると、何も出てこなかった。
祭囃子も、提灯も、灯籠もない。ここへ来た覚えどころか、祭りへ行こうと考えた記憶さえない。
透羽が札から目を離さずに尋ねる。
「昨年、この祭りへ来ましたか」
「……来てない」
答えたあと、自分の言葉なのに頼りなく聞こえた。
玄兎はもう一度記憶を探る。何か一つでも引っかかればと思ったが、本当に何もない。
「少なくとも、俺は一切覚えてない」
その瞬間、櫓の向こうで顔のない人影が一斉にこちらを向いた。
『忘れた』
誰か一人の声ではなかった。
『帰れば』
『忘れる』
ぞっとするほど静かな囁きが、札の隙間から染み出してくる。
玄兎が反射的に札へ手を伸ばしかけると、透羽がその手首を止めた。
「持ち帰ろうとしないでください。ここでは、証拠に見えるものほど危険です」
「でも――」
「名前と日付は全員で見ました。忘れません。今は悠斗くんを帰す方が先です」
小毬の腕の中で、悠斗が泣き疲れたように目をこする。
玄兎は札から目を離した。
忘れたのなら、何を。
そもそも、なぜ自分の名前がここにあるのか。
答えは一つもないまま、紙の上の四文字だけが目の奥に焼きついていた。
小毬は背中を撫でながら、焦りを隠せない。
「早くこの子をお母さんのところへ帰したいです。送り灯をやれば出口が開くなら、どこでやればいいんですか」
依澄は櫓の向こうを見た。
櫓の向こうには川が見えるものの、そこへ渡る橋が見当たらない。
玄兎は久住の展示説明と古い地図を思い出した。
「昔の祭りは、今と川の流れが違ったはずだ。旧商店街から西へ曲がって、石橋を渡って、そこで灯籠を流したって資料にあった」
小毬が鼻をひくつかせる。
「水の匂い、こっちからします。今見えてる川とは少し違う方向です」
五人は小毬の感覚を頼りに路地を進んだ。
やがて、今の朽木ヶ丘市には残っていないはずの古い石橋が現れる。
橋の下を流れる水は、不自然なほど黒かった。
玄兎が近づこうとすると、透羽が手で制した。
「先に私が確認します」
透羽は指先だけをそっと水へ触れる。
黒い水が、指へ絡みつく。
彼女はすぐに手を引いた。
「怪異の中ですが、水そのものとしては使えます。ただ、思念が濃すぎる。このまま《白鷺浄界》を使うと、私一人では押し負ける可能性があります」
千燈が川岸へしゃがみ込む。
石の隙間に、古い茶色の染みが残っている。
「血で文字を書いた灯籠札がある。少量なら、昔の送り方を《血読》できるかもしれない」
透羽はすぐに釘を刺す。
「無理に深く読まないでください。古い血ほど、本人以外の思念が混ざっている可能性があります」
「分かってる。必要なところだけ見る」
依澄も川を見つめる。
「私は昔の祭りの夢を重ねられる。完全には出せないけど、道を思い出させるくらいなら」
透羽は二人の案を聞き、短く考えてから頷いた。
「私は川を浄化して、送りの流れを作ります」
小毬は悠斗を抱き直す。
「私はこの子を守りながら、本物の出口の匂いを探します。お母さんの匂いが近づけば分かるはずです」
玄兎は自分を指さした。
「俺は何をすればいい?」
四人の視線が一瞬だけ集まった。
小毬が真剣な顔で言う。
「まず死なないでください」
玄兎は思わず肩を落とした。
「最近、それが正式な役割みたいになってない?」
千燈が少し笑う。
「大事な役だよ」
依澄も頷く。
「それと、玄兎は先頭」
「俺が?」
「帰る場所が分かる人が、先頭にいる方がいい」
依澄は玄兎をまっすぐ見た。
「現実へ帰りたいって、今は分かる?」
玄兎は迷わなかった。
「分かる。ここに残るつもりはない」
「なら大丈夫」
その即答が妙に頼もしくて。
玄兎は緊張の中でも、少しだけ笑った。
「了解。じゃあ俺が灯りを持って先頭を歩く」
◇
千燈が古い血文字の残る札へ、指先だけを触れさせた。
「《血読》」
依澄も目を閉じる。
薄紫色の蝶が一羽、二羽と川辺へ現れた。
千燈が読み取る過去の断片と、依澄が重ねる夢の景色が、少しずつ現在の川へ浮かび上がっていく。
依澄の夢の中に、昔の灯籠祭が浮かび上がる。人々は川辺へ集まり、迎えた死者や遠く離れた家族へ最後の言葉を渡していた。
泣いている人もいる。
笑っている人もいる。
小さな灯籠を両手で抱え、名残惜しそうに川へ置く。
『また来年』
『帰っておいで』
『でも、今日はここまで』
『またね』
『おやすみ』
千燈が《血読》から戻り、ゆっくり息を吐いた。
「送りの言葉は、別れじゃない。『もう来るな』じゃなくて、『また来年帰っておいで』って送ってた」
玄兎は黒い川面を見る。
「また会えると思えるから、今は帰せたんだな」
透羽が頷く。
「完全な別れではないから、手放せる。今の怪異が失ったのは、送り出した先にも繋がりが続くという考え方なのかもしれません」
依澄の蝶が、川の上をゆっくり舞う。
その軌跡に沿って、昔の人々が灯籠を流す光景が鮮やかに重なった。
「《蝶境》」
過去の祭りと現在の影が、一瞬だけ同じ場所に立つ。
透羽はその光景へ手を伸ばし、黒い川へ指先を沈めた。
「流れを思い出してください。ここは、誰かを閉じ込める場所ではありません」
清めの水が白く光る。
「《白鷺浄界》」
黒く濁っていた川が、少しずつ透明さを取り戻していく。
止まっていた水も、ゆっくり動き始めた。
川の流れが戻り始めると、その変化に影の祭り全体が気づいた。
『帰るな』
何百もの声が一斉に響く。
『ここにいろ』
『また失う』
『帰れば忘れる』
最後の言葉が、玄兎の胸へ妙に引っかかった。
――忘れる。
理由は分からない。
ただ、聞き流してはいけない言葉だと、身体のどこかが訴えている。
玄兎の足が止まりかける。
透羽がすぐに気づいた。
「玄兎。今は前を見てください。気になる言葉があっても、ここを出てから調べます」
玄兎は深く息を吸った。
「分かった。今は帰る」
依澄が夢の中から作った白い灯りを、小さな灯籠へ宿す。
玄兎はそれを両手で受け取った。
手の中の灯籠は不思議なくらい暖かく、怪異の白い面と違って、自分が何者かを奪うような冷たさがなかった。
「行こう。俺が先頭を歩く。離れないで」
五人は石橋を渡り始めた。
玄兎のすぐ後ろに透羽。
その後ろを千燈、小毬、依澄が続く。
小毬は悠斗をしっかり抱いている。
背後では、無数の怪異が人の形を崩しながら追ってきた。
『帰るな』
『玄兎』
『帰る場所』
その言い方は、旧運動場で怪異たちが玄兎へ向けた言葉とよく似ていた。
胸の痣が熱を持つ。
それでも、玄兎は振り返らない。
「違う」
誰に言うでもなく、声に出した。
「帰る場所は、お前たちに決められるものじゃない」
その瞬間、玄兎の頭には朽木ヶ丘大学の学食や講義室、自宅の狭い部屋、朝から届く遠慮のないメッセージが次々と浮かんだ。透羽の小言、小毬の明るい声、依澄の突拍子もない質問、千燈のからかうような笑いまで、どれも今の自分を現実へ繋ぎ止めている。
「俺が帰る場所は、俺が決める」
やがて橋の向こうの暗闇に、淡い光が現れた。
同時に、小毬が顔を上げる。
「匂いがします。本物です。悠斗くんのお母さんの匂いが向こうから来てる!」
腕の中の悠斗が目を開ける。
遠くから、女の泣き声が聞こえた。
「悠斗! 悠斗!」
子供の顔が一気に明るくなる。
「お母さん!」
影の祭りがざわめいた。
その声を遮るように、黒い腕が何本も伸びる。
子供を掴もうとする。
透羽が即座に水を走らせた。
「《白羽》!」
白い水の刃が腕を切り払う。
千燈の爪が別の影を裂き、依澄の蝶が橋の先へ続く光を広げる。
小毬は悠斗を抱いたまま、一歩も止まらない。
玄兎は橋の中央で、手にしていた灯籠を川面へ下ろした。
千燈が読み取った言葉を思い出す。
そして、自分の声で言った。
「また来年。帰っておいで。でも、今日は帰る時間だ」
灯籠から手を離す。
白い光が水へ乗った。
一つ、二つ、三つと光が増え、影の祭りに灯っていた無数の灯籠が、それに導かれるように川へ浮かび始めた。
『帰る』
今度の声は玄兎たちではなく、流れていく灯籠と川の先へ向けられていた。『また』『来年』という声まで重なり、呼び止める響きだったものが少しずつ見送る声へ変わっていく。
古い祭りの景色は、糸をほどくように少しずつ崩れていった。屋台が消え、家並みが薄くなり、顔のない人影も一人ずつ灯りへ溶けていく。
最後まで残ったのは、千燈の前に現れた若い男だった。
彼は川の向こうに立ち、千燈を見ている。
今度は「帰ろう」と言わない。
ただ、穏やかに笑い、別れを告げるように小さく頷いた。
千燈は長い間、その姿を見つめた。
やがて、声になりきらないほど小さく言う。
「……またね」
玄兎には聞こえた。
けれど、聞かなかったことにした。
今夜の祭りで学んだばかりだ。
誰かの言葉には、踏み込まない方がいい時もある。
◇
祭囃子が戻ってきた。
太鼓と笛、屋台の呼び込み、人々のざわめきが、途切れていた時間を埋めるように一気に耳へ戻ってくる。
気づけば五人は、古い灯籠展示の裏手にある細い路地へ立っていた。足元は現代のアスファルトで、電柱も、遠くに並ぶ提灯も元の姿に戻っている。
小毬の腕の中で悠斗が大声を上げて泣いた。
その声を聞きつけたように、人垣の向こうから一人の女性が駆けてくる。
「悠斗!」
「お母さん!」
小毬が子供を下ろすと、悠斗は母親へ飛び込んだ。女性はしゃがみ込み、身体が折れそうなほど強く息子を抱き締める。
玄兎たちは少し離れた。
助けられた。
帰ってこられた。
それなのに玄兎の耳には、母子の泣き声より先に、怪異の中で聞いた囁きが残っていた。
――忘れた。
そこへ、息を切らした久住教授が走ってきた。
「鷺宮、鵺代。……戻ったな。怪我人は?」
「悠斗くんの擦り傷だけです。私たちにも大きな怪我はありません」
透羽の返答を聞き、久住はようやく息を吐いた。
「詳しい話はあとだ。ここは人が多い」
透羽も頷いたが、一つだけは今確認すべきだと判断したらしい。声を落とす。
「教授。中で、昨年八月十七日の日付が入った灯籠札を見つけました」
久住の目が細くなる。
「名前は?」
「鵺代玄兎です」
久住が玄兎を見た。
ほんの数秒だったが、その沈黙で胸の奥が冷えた。
「鵺代。お前、去年の灯籠祭を覚えてないのか」
「……俺、去年は参加してませんよ」
久住の表情から、安堵の名残が消えた。
「いや。いたぞ」
玄兎は返事ができなかった。
「大学の学生ボランティアで参加してた。俺も見てる。記録も残ってるはずだ」
背後で、次の太鼓が鳴った。
さっきまでなら祭りの音にしか聞こえなかったはずなのに、今は何か大きなものが胸の内側を叩いたように感じる。
透羽が玄兎の横顔を確かめる。
「本当に、何も?」
玄兎は目を閉じた。
去年の夏。八月十七日。灯籠祭。
どの言葉から探しても、記憶の中には何も引っかからない。
「……何もない」
久住は周囲を見回し、それ以上追及しなかった。
「分かった。去年の記録を探す。今夜は無理に思い出そうとするな」
短く言い残し、実行委員の方へ戻っていく。
玄兎はその背中を見送りながら、怪異の中で見た札を思い出していた。
あれが偽物なら、久住の記憶まで同じ嘘をついていることになる。
◇
午後八時四十分。
夜空へ最初の花火が上がった。
大きな音が腹の底まで響き、青白い光が川面を走る。
五人は河川敷の端に並んでいた。人波が動くたび、小毬が玄兎の袖を掴み、反対側では依澄も指先で袖口をつまんでいる。
「今度こそ、本当に必要なはぐれ防止です」
小毬が念を押す。
「分かってる。今は離れたら探すの大変そうだし」
「認めてもらえました」
いつもなら笑って終わるやり取りだった。
玄兎も笑った。けれど、次の花火が開いた瞬間、その光の向こうに白い灯籠札が重なった。
昨年八月十七日。
鵺代玄兎。
知らない誰かの名前なら、まだよかった。
自分の名前なのに、自分だけがその日を知らない。
「玄兎」
隣の透羽が呼ぶ。
「無理に思い出そうとしていませんか」
「してない。……しても、何も出てこないし」
言い終えたところで、玄兎のスマートフォンが震えた。
久住からだった。
『去年の実行委員の写真が残ってた。確認だけしてくれ。今日はそれ以上考えなくていい。』
一枚の画像が添付されている。
玄兎は画面を開いた。
紺色の法被を着た学生が十数人、祭りの提灯を背に並んでいる。
その中に、自分がいた。
間違いようがなかった。
今より少し短い髪。見慣れた眉。隣の男子学生に肩を組まれ、面倒そうに眉を下げながら、それでも確かに笑っている。
知らない俺が、去年の夏祭りで笑っていた。
玄兎は画面を拡大した。
顔を見れば何か戻るかもしれないと思った。提灯の色でも、法被の感触でも、隣にいる学生の顔でもいい。
何一つ戻らなかった。
その写真が自分だと分かることと、その日の自分を覚えていることは、まるで別の話だった。
「……俺だ」
千燈が横から画面を覗き、表情を消す。
小毬も、依澄も言葉を挟まなかった。
透羽だけが静かに確認する。
「写真を見ても、記憶は戻りませんか」
玄兎は首を横に振った。
「本当に、一個も」
頭上で次の花火が弾けた。
歓声が上がる。
赤、青、金。光が次々に夜空へ広がり、今この瞬間の景色は嫌になるほど鮮明だった。
透羽の白い浴衣。千燈の深紅の花。小毬の淡い黄色の帯。依澄の薄紫色の袖。川の湿った匂い。花火が胸へ響く音。
全部、覚えている。
だからこそ、一年前だけが丸ごとないことが気味悪かった。
しばらくして、小毬が空を見たまま言った。
「先輩。花火が終わったら、りんご飴を買ってください」
「今じゃなくていいの?」
「花火を見ながらだと、絶対どっちかに集中できません。終わってからがいいです」
「分かった。覚えとく」
小毬は一拍置き、玄兎の袖を握る指へ少し力を込めた。
「……約束ですよ。忘れないでくださいね」
怪異の中で聞いた声を知っているから、その言葉がただの冗談ではないことは分かった。
玄兎は小毬を見る。
「うん。これは忘れない」
小毬はようやく笑った。
少し離れたところで、千燈は花火ではなく暗い川下を見ていた。
玄兎は迷った末、声をかける。
「千燈先輩。さっきの人のこと、大丈夫?」
千燈はすぐには答えなかった。
影の祭りで最後まで残り、何も言わずに見送った若い男。
やがて千燈は、小さく息を吐く。
「大丈夫じゃないよ。まだ少し引きずってる」
「そっか」
「でも、大丈夫じゃないままこっちに帰ってきた。それでいいと思ってる」
玄兎は頷いた。
「今は、それでいいな」
「うん」
次の花火が上がる。
千燈の横顔を赤い光が照らした。
帰ってきた人間は、過去を全部消す必要はない。忘れられないものを抱えたままでも、今いる場所へ戻ってこられる。
では、自分はどうなのだろう。
忘れたくない過去ではなく、最初から存在しないように抜け落ちた一日を抱えている。
玄兎はもう一度スマートフォンの写真を見た。
画面の中の自分は、何も知らない今の玄兎へ向かって笑っているように見えた。
◇
花火が終わると、小毬は本当にりんご飴を要求した。
「先輩。約束です」
今度は玄兎も迷わなかった。
「花火が終わったら一個。覚えてるよ」
小毬がほっとしたように笑う。
「合格です」
今日の約束は残っている。
数十分前の会話も、影の祭りで見たものも、現実へ戻ってから聞いた久住の声も覚えている。
なのに、去年の八月十七日だけがない。
その夜、自宅へ戻ってからも、玄兎は久住から送られた写真を何度も見直した。
結果は同じだった。
写真の中の自分は確かに笑っている。
けれど、その暑さも、隣の学生の名前も、何を話していたのかも、一切思い出せない。
日付が変わる前、透羽から短いメッセージが届いた。
『少し確認したい資料があります。明日、時間をください。』
玄兎はしばらく画面を見つめた。
『去年の記憶のこと?』
少し間を置いて返事が来る。
『はい。まだ何も決めつけません。ただ、確認しておきたいです。』
玄兎は写真へ視線を戻した。
知らない自分が、知らない夏の中で笑っている。
『分かった。明日、一緒に見よう。』
送信する。
今夜の花火なら覚えている。
去年の夏祭りだけを、玄兎は何一つ覚えていなかった。
――第九話・了