鷺宮透羽が眠そうにしている。
それは鵺代玄兎にとって、怪異が学生証を首から下げて講義に出席しているのと同じくらい、めったに見られない光景だった。
午前八時四十七分。朽木ヶ丘大学の正門を抜けた先にある並木道で、玄兎は三歩ほど前を歩く透羽の背中を眺めながら、今日三度目になる欠伸を彼女が噛み殺すところを見た。
六月の雨の夜に出会ってから、まだ一週間ほどしか経っていない。その短い間に玄兎は二度も死にかけ、透羽たちは互いの正体や弱点まで知ることになった。普通の友人なら何か月もかけて縮める距離を、怪異事件だけが乱暴に縮めていく。その速さを、玄兎自身もどこか危ういと感じていた。
もっとも、今目の前にある問題は、それほど大げさなものではない。
透羽の歩き方はいつも通りだった。背筋も伸びている。長い黒髪もきちんと整えられ、白いブラウスの襟にも乱れはない。それでも、眠そうなものは眠そうだった。
「透羽。昨日、ちゃんと寝た?」
玄兎が横へ並びながら訊くと、透羽は前を向いたまま答えた。
「睡眠は取りました。少なくとも、徹夜ではありません」
「その言い方、絶対に睡眠時間をごまかしてるだろ。何時に寝たの」
「……普段より少し遅くなっただけです」
「何時?」
「それを知る必要がありますか」
「ある。俺が寝不足で『問題ない』って言ったら、透羽は絶対怒るから」
そこでようやく透羽が足を止め、玄兎を振り返った。
「玄兎の場合は、明らかに問題がある状態でも平然と『問題ありません』と言うからです。傷が開いていても、熱があっても、同じことを言います」
「でも今の透羽も、だいぶそっち側だと思うけどな」
「私は自己管理できます」
「自己管理できてる人は、朝から三回も欠伸を隠さないと思う」
透羽の目がわずかに細くなる。玄兎はさらに自分の目元を指で示した。
「それに、少し目が赤い」
透羽の手が反射的に目元へ上がった。
「……必要以上に観察しないでください」
「顔は普通に見える場所だろ」
「だからといって、細かく確認する必要はありません」
「監視してる側に言われると説得力ないな」
玄兎が笑うと、透羽は何か言い返しかけて諦めたように息を吐いた。
そのまま正門脇の自動販売機へ寄り、玄兎はいつものブラックコーヒーを一本買った。続けて硬貨を入れ、飲み物の並びを眺める。
少し迷った末、甘いカフェオレのボタンを押した。
「はい。これは透羽の分」
「……なぜ私に?」
「寝不足っぽいから、少し糖分。朝飯食べてても、甘いものくらい入れた方がましだろ」
「必要ありません。玄兎が自分で飲んでください」
「じゃあ返して」
玄兎が手を伸ばすと、透羽は一瞬だけ缶を見つめてから、わずかに身体を引いた。
「せっかく購入したものを無駄にする必要はありません。私が責任を持って消費します」
「飲みたいなら普通にそう言えばいいのに」
「違います。合理的な判断です」
「はいはい。そういうことにしとく」
透羽は不満そうに玄兎を見たが、カフェオレの缶はしっかり両手で持ったままだった。
少し歩いてから、彼女は聞き逃しそうな声で言った。
「……ありがとうございます、玄兎」
「どういたしまして。今日はちゃんと早く寝ろよ」
「あなたに言われると複雑です」
先日、玄兎と透羽を一定距離から離れられなくしていた怪異の呪いは、すでに完全に解けている。今の二人の間には二メートル近い距離があり、それ以上離れても痛みは起きない。
それでも玄兎は透羽の眠気に気づき、透羽は玄兎が自分のために飲み物を選んだことに気づく。怪異に無理やり近づけられなくても、以前より少しだけ互いを見るようになっていた。
たぶん、それが今の二人に起きている小さな変化だった。
「せんぱーい! おはようございます!」
朝の静けさを一気に吹き飛ばす声が響いた。振り返ると、白狼院小毬が大きな紙袋を片手に抱え、こちらへ駆けてくるところだった。
玄兎たちの前で勢いよく止まった小毬は、挨拶もそこそこに、すん、と鼻を鳴らす。
「透羽先輩、昨日あんまり寝てないですよね? いつもより体温が少し高いし、疲れた時の匂いがします」
透羽の眉がわずかに動いた。
「白狼院さんまで……。なぜ皆、朝から私の体調を確認するのですか」
「群れの健康管理です!」
「透羽はまだ群れ認定されてたっけ」
「ほぼ群れです。ところで玄兎先輩は、いつも通りですね」
小毬は今度は玄兎の方へ鼻先を向けた。
「コーヒーとシャンプー、それから昨日のカレーの匂いがします」
「夕飯まで当てるのやめてくれない?」
「健康管理には食生活も大事ですから!」
「その理屈なら、せめて栄養バランスを心配してくれ」
小毬は聞いているのかいないのか、嬉しそうに紙袋を持ち上げた。
「それより、二人とも朝ごはんは食べました? 駅前のお店で唐揚げ買ってきたんです。朝から揚げたてでした!」
「俺は食べた。透羽も朝飯は?」
「済ませています」
「じゃあ、お昼にみんなで食べましょう。冷めても美味しいやつです!」
「朝から唐揚げの袋を抱えて大学に来る一年生、かなり強いな」
「朝から肉の匂いがすると思ったら、小毬ちゃんだったんだ」
聞き慣れた声とともに、緋鴉千燈がいつものように気配もなく現れた。
「おはよ。玄兎くん、透羽ちゃん。また朝から二人で歩いてたの?」
「正門で会っただけ。先輩は一限ないんだろ。何でこんな時間に大学いるの」
「暇だったから。暇を大事にできるのは大人の特権だよ」
「三年生を大人代表みたいに言うなよ」
「玄兎くんよりは一つ大人」
「誤差だろ」
さらに少し遅れて、柔らかな声が重なった。
「みんな、おはよう」
淡い銀紫色の髪と白と薄紫の服をまとった蝶ヶ森依澄は、朝の光の中ではいっそう儚く見えた。朝日を透かした髪のせいか、輪郭まで淡く見える。
「おはよう、依澄。今日は何が好きになってる?」
玄兎が訊くと、依澄は少しだけ考え、自分の中を確かめるように胸元へ指を添えた。
「今日は焼き鮭が好き。起きた時から、焼いた魚の匂いを思い出してた」
「珍しく朝からはっきり決まってるんだな。じゃあ昼は鮭?」
「鮭も食べたい。でも、小毬の唐揚げも食べる」
小毬の顔がぱっと明るくなる。
「依澄先輩、分かってきましたね! これはかなり群れ化が進んでます!」
「食の好みだけで仲間判定するの、そろそろやめない?」
五人の声が朝の並木道に重なる。
騒がしいだけの、いつもの大学の朝だった。
少なくともそのときの玄兎には、今日もそんな一日になるように思えていた。
◇
一限が終わったあと、玄兎たちは地域文化論を担当する久住教授に呼び止められた。
白髪の混じり始めた髪を無造作に後ろへ流した、五十代の教授だった。専門は郷土史と民俗学。古い祭りや土地の伝承を扱う講義では、「本当か嘘かを決める前に、なぜその話が残ったのかを考えろ」と学生によく言っている。
怪談や迷信を笑い話として片づけない。その姿勢が研究者らしい慎重さなのか、それとも別の理由があるのか、玄兎はこれまで深く考えたことがなかった。
久住は脇に抱えていた台帳を軽く持ち上げた。
「鵺代、鷺宮。二人とも今日の午後、時間は空いてるか?」
玄兎が時間割を思い返している横で、透羽はすぐに予定を確認した。
「俺は三限が空いてます。四限からなら講義ありますけど」
「私も三限は空いています。何かありましたか」
「ちょうどいい。地域資料室に未整理の箱がだいぶ溜まっててな。番号と台帳を合わせるだけでいい。少し手伝ってくれ」
玄兎は念のため、いちばん現実的なところを確認した。
「それって授業の一環ですか? つまり、何かこう……単位とか評価とか」
「残念ながら、ただのボランティアだ。単位は一ミリも増えん」
「じゃあ昼飯くらい奢ってください。それなら考えます」
「お前は交渉だけは早いな。分かった、それで手を打とう」
「昼飯まで出るなら、俺はやります。午後の予定も空いてますし」
即答した玄兎へ、透羽が呆れた目を向けた。
「玄兎、判断が早すぎます。資料の内容も作業量も確認していないのに、昼食だけで決めないでください」
「でも透羽だって、古い地域資料には興味あるだろ。せっかくだし一緒に来れば?」
問われた透羽は一瞬だけ黙り、それから久住の持つ台帳へ視線を向けた。
「……確かに資料内容には興味があります。作業量も確認したいので、私も参加します。ただし、昼食につられたわけではありません」
「そこまで強調すると、逆にちょっと怪しいけどな」
「昼食が理由ではありません」
二人のやり取りを聞いていた久住が小さく笑い、肩をすくめる。
「別に二人だけじゃなくてもいいぞ。人手は多い方が助かる。友達が暇なら連れてきてくれ」
その言葉を待っていたように、廊下の後ろから小毬が身を乗り出した。
「はい! 私もやります。古いものって、変な匂いがいっぱいして面白そうです!」
「小毬、いつから聞いてたの」
「昼飯のところからです!」
「そこだけ聞くなよ」
千燈も壁際から顔を出した。
「私は面白いものがあるなら行こうかな。昔の祭具とか、人が触っちゃいけない箱とか」
「後半はない方が助かるんですけど」
依澄もその横から静かに訊いた。
「古い夢の記録もある?」
久住は、いつの間にか五人へ増えている学生たちを見回して眉を上げた。
「お前ら、何で全員この話を聞いてるんだ」
「近くにいたので! あと群れの情報共有です!」
小毬が胸を張る。
「俺、群れ向けに共有した覚えないんだけどな」
「まあ、来るなら助かる。夢占いや夢告の聞き書きも少しはあるはずだ。ただし――」
久住はそこで、先ほどまでの気軽な調子をわずかに引っ込めた。
「封がしてあるもの、札が巻かれているもの、由来の分からない祭具には勝手に触るな。番号だけ確認して、俺を呼べ。古いものは、壊してから『意味のある封だった』と分かっても遅いからな」
透羽の目がわずかに細くなった。
玄兎は冗談めかして言った。
「旧図書館の地下でしたよね。そこまで言われると、いよいよ何か出そうな場所に聞こえるんですけど」
久住はすぐには笑わなかった。
廊下を行き交う学生を一度見てから、声を少し落とす。
「『出る』という言い方を、俺は頭から笑わないことにしてる」
「……教授?」
「土地の記録を長く読んでるとな、説明のつかないことまで全部『昔の人の勘違い』で片づける方が無理があると分かってくる。触れた人間が同じ夢を見た道具、置き場所を変えるたび事故が続いた石、誰も鳴らしていないのに音がした鈴――記録だけなら、いくらでもある」
玄兎は思わず透羽を見た。
透羽は冗談として流さず、久住の表情を静かに観察している。
「教授は、それらが実在すると考えているのですか」
問いに、久住は少しだけ考えた。
「実在する、と一言で括るほど俺は詳しくない。だが、『存在しない』と決めつけるつもりもない。俺にできるのは記録を読むことと、危なそうなものに不用意に手を出さないことくらいだ」
それから、いつもの調子を取り戻すように台帳で玄兎の肩を軽く叩いた。
「だから鵺代、お前も好奇心だけで変な箱を開けるなよ」
「何で俺だけ名指しなんですか」
「顔に書いてあるからだ」
「まだ何もしてないのに」
隣で透羽が静かに頷いた。
「教授の判断は妥当です」
「透羽まで」
久住は小さく笑った。
「午後一時、旧図書館地下の地域資料室だ。昼飯を食ったら行くぞ」
玄兎は返事をしながらも、先ほどの言葉が頭に残っていた。
久住教授は、怪異という言葉こそ使わなかった。
けれど少なくとも、古い伝承の向こう側に説明できない何かが存在する可能性を、最初から切り捨ててはいない。
そのことを、透羽も気にしているようだった。
◇
正午を少し回った頃、六人は大学会館の共用ラウンジで昼食を取った。
久住教授は五人分の食券を買いながら、「俺は最初、鵺代と鷺宮の二人分だけ奢るつもりだったんだぞ」と最後までぼやいていたが、小毬たちの分を返せとは言わなかった。
小毬は朝から持ち歩いていた唐揚げの袋までテーブルへ広げた。
「これは教授に奢ってもらう前から、みんなで食べるって決めてた分です。別枠です!」
「食事に別枠なんてあるのか」
「あります!」
迷いのない返事に、久住が諦めたようにカレーを口へ運ぶ。
玄兎は冷やしうどんの横へ唐揚げを一つ取り、向かいに座る透羽のトレーを見た。和定食の隣に、小さなプリンが乗っている。
「透羽、昼食につられたわけじゃないって言ってた割に、デザートまで取ってるな」
「これは昼食とは別です」
「小毬の理論、もう移ってない?」
「違います」
依澄は朝から言っていた焼き鮭を一口食べ、満足そうに頷いた。
「今日、やっぱりこれが好き。でも唐揚げも食べる」
小毬が嬉しそうに一つ渡す。その横で、千燈の箸が玄兎の紙皿から二個目の唐揚げをさらった。
「千燈先輩、それ俺のだったんだけど」
「一個くらいいいじゃん」
「駄目です。群れ審査で減点です!」
小毬が即座に言い切り、テーブルに笑いが起きた。
今日も昼までは、怪異とは無関係な大学生の一日だった。
食事を終えた久住が腕時計を確認し、台帳を持って立ち上がる。
「よし。奢った分は働いてもらうぞ。旧図書館の地下だ」
五人もそれぞれトレーを片づけ、その後を追った。
◇
午後一時。五人は久住教授の後ろについて、旧図書館の地下へ続く階段を下りていた。
一段進むごとに、湿った紙と木、埃、古い金属の匂いが濃くなる。地上ではまだ昼休みのざわめきが残っているはずなのに、厚い扉を一枚隔てただけで、ここには時間まで古びて溜まっているようだった。
小毬は何度か鼻を鳴らしたあと、眉間へしわを寄せた。
「匂いが重なりすぎてます。紙だけじゃなくて、木と鉄と土と……昔ここを触った人の匂いまで残ってる」
「きついなら無理するなよ」
「大丈夫です。ただ、怪しいものを探す時は少し時間がかかるかもしれません」
階段を下り切ると、久住が古い鍵を差し込んだ。重い扉が軋みながら開き、天井の蛍光灯が一拍遅れて点く。中には段ボールと木箱が十数個、棚の間を埋めるように積まれていた。
「市の再開発で取り壊された旧家や、小さな祠から出たものだ。文化財指定されるほどじゃないが、地域史として記録しておく価値はある。番号と搬入票を照合して、記載どおりなら棚へ移す。封や札が残っているものは触るな」
最後の一言に、透羽が顔を上げた。
「祭祀や封印に関する品も混じっている可能性があるのですか」
「ああ。現場で明らかにそうと分かったものは別に回してある。ただ、搬入時の情報なんて抜ける時は抜ける」
久住は台帳を閉じ、透羽を見る。
「それに、地域の祭祀史をやっていて鷺宮の名前を知らないほど、俺も勉強不足じゃない」
透羽の表情がわずかに動いた。
「私の家をご存じなのですか」
「名前と、この辺りで昔から特殊な祭祀に関わってきたことくらいだ。中で何をしているかまで知るつもりはない。俺は祓えないし、見えないものも多い。ただ、三十年近く土地の記録を追っていれば、『何もなかった』で片づけるには無理のある出来事には何度かぶつかる」
久住は軍手の箱を五人へ差し出した。
「だから妙だと思ったら止めろ。資料より人間の方が高い。そこだけは間違えるな」
その言い方には冗談がなかった。
作業そのものは単調だった。番号を確認し、写真と照らし合わせ、採取場所と品名を台帳へ書き込む。玄兎はこういう地味な作業が意外と嫌いではなく、透羽と二人で一箱ずつ確実に片づけていった。
小毬は犬とも狐ともつかない木彫りを見つけて目を輝かせ、依澄は薄紫と銀の糸で縫われた蝶の布へ見入っていた。千燈は古い墨の匂いを「懐かしい」と言いかけ、玄兎に年齢を聞かれる前に自分で話を切り上げた。
三箱目を開けたところで、その穏やかな空気が途切れた。
木箱の奥に、拳より少し小さな青銅の鈴が一つ入っていた。
表面は黒くくすみ、鳥、犬、蛇、兎にも見える獣の意匠が、境目を失うほど絡み合っている。一匹ずつ彫ったのではなく、いくつもの生き物を無理に一つの輪郭へ押し込めたような形だった。
玄兎は蓋を支えたまま動けなくなった。
見覚えはない。それなのに、知らないものを見ている気がしなかった。
「玄兎?」
透羽の声で我に返る。
「……分からない。これ、嫌な感じがする」
小毬が鈴ではなく玄兎へ鼻先を向け、すぐに表情を変えた。
「先輩の匂いが変わりました。鈴には触ってないですよね?」
「蓋だけ。鈴には触れてない」
「そのまま離れてください」
透羽は玄兎を一歩下げさせ、小瓶から一滴の水を浮かべた。
水滴は鈴へ触れる寸前で止まり、細かく震えた。次の瞬間、黒ずんだ表面から墨を水へ落としたような靄が滲み出す。
「怪異反応です」
久住はすでに台帳をめくっていた。
「回収場所は……旧・真ヶ淵地区。河川拡張で取り壊された個人所有の蔵――」
指が止まる。
「真ヶ淵か。これはまずいな」
木箱の底には、鈴とは別に薄い紙束が挟まっていた。久住は品物へ触れないよう端だけを覗き込み、最上段の見出しを読む。
『朽木ヶ丘封印事故・真ヶ淵関連』。日付は二十年前だった。
透羽の視線がそこへ吸い寄せられる。昨夜、鷺宮家で開いた記録と同じ事故名だった。
透羽の顔も硬くなった。
「古い封印施設があった地域です。本来、この種の祭具が出たなら鷺宮家か市の管理側へ照会が来るはずです」
「搬入票には『南東区・旧家資料一式』としか書いてない。真ヶ淵と分かっていれば、学生に開けさせていない」
久住は鈴へ手を出さず、箱の外側だけを確かめる。
「俺が読んだ記録でも、あの一帯は何度か『封じる場所』として作り直されている。何を封じたのかまでは残っていないがな」
千燈が距離を保ったまま目を細めた。
「古い血の気配がする。人間だけじゃない。何種類も混ざってる」
「私もです」
小毬の耳がわずかに伏せる。
「獣の匂いがいっぱい重なってる。でも、鈴の中だけじゃない。先輩の方にも同じ匂いがある」
依澄は鈴を見つめたまま、静かに言った。
「中に何か眠ってる。空っぽじゃない」
その瞬間、玄兎の左鎖骨にある痣が熱を持った。
熱は数秒で痛みに変わり、皮膚の下へ焼けた針を差し込まれたように脈打つ。
「……っ、痣が熱い」
透羽が玄兎をさらに下げようとした、その時だった。
誰も触れていない鈴が、ちりん、と鳴った。
小さな音だった。それなのに、資料室に積もった埃まで一斉に身を震わせたように見えた。
玄兎の耳元で、声がした。
『いた』
振り返っても、誰もいない。
もう一度、今度は頭の内側から声が重なる。
子供、老人、女、男。人とも獣ともつかない幾つもの声が、同じ場所から吐き出された。
『いた』
『帰る場所』
玄兎は喉を鳴らした。
「……今、『帰る場所』って言った」
「鈴がですか?」
「たぶん。でも一人の声じゃない」
鈴が二度目に鳴る。
今度は棚の奥で、何かが濡れた床を踏む音がした。
一つではない。
棚の下から、ずぶ濡れの子供が這い出てくる。顔がない。続いて紙の人形、三本脚の黒い犬、骨だけの傘。どれも襲いかかる様子はなく、ただ玄兎へ顔や頭を向けた。
玄兎が半歩右へ動く。
怪異たちの首が、同じ角度だけ右へ回った。
「……俺を見てる」
透羽は答えず、玄兎の肩へ手を添えないぎりぎりの距離で指示した。
「玄兎、今度は左へ二歩」
言われた通り動く。
濡れた子供が一歩、二歩と追う。紙人形も、犬も同じように進んだ。鈴は机の上から動いていない。
その時、黒い犬が玄兎の胸元へ鼻先を向けた。
『器』
玄兎の身体がこわばった。
「……まただ」
透羽がすぐに振り返る。
「何がですか」
「駅東口の電話の怪異にも言われた。『帰る場所』とか『戻れ』とか、その中に……『器』って言葉があった」
透羽の顔色がわずかに失われた。
玄兎はそれを見逃さなかったが、問い詰めなかった。
「昨夜の記録と関係ある?」
透羽は数秒迷い、頷いた。
「同じ言葉はありました。ただ、まだ確かめられていないことが多すぎます」
「分かった。今はそれでいい。落ち着いてから、分かってることと推測を分けて教えて」
昨日、言留箱に言葉を奪われかけた透羽が、自分で話す時を選びたいと言った。その選択を、今度は玄兎から奪いたくなかった。
透羽はほんの少しだけ目を伏せ、それから「はい」と答えた。
その直後、小毬の耳が大きく動いた。
「待ってください」
全員が黙る。
天井の向こうから、足音がした。
一人、二人ではない。廊下を走る音、何か硬いものを引きずる音、壁の中を爪で掻くような音が、別々の方向から地下へ近づいてくる。
依澄が階段の方を見上げた。
「まだ来る」
「この鈴が呼んでいるのでしょうか」
透羽が呟く。
小毬は首を振った。
「違うかもしれません。鈴の匂いもあります。でも、近づいてくるもの全部が探してる匂いは――」
小毬の視線が、玄兎へ戻る。
「先輩です」
久住にも怪異の姿までは見えていないらしい。それでも、誰もいないはずの廊下を埋める足音と急に落ちた室温だけで十分だった。
「……俺が残って役に立つことはあるか」
透羽は迷わなかった。
「教授には地上で人を近づけないようにしてほしいです。私たちは玄兎を、人のいない場所へ移します」
「分かった。専門外が意地を張る場面じゃないな」
久住は扉へ向かい、最後に五人を振り返った。
「資料は捨てていい。大学の備品だろうが何だろうが、命より高いものはない。無理なら逃げろ」
「はい」
久住が階段を上がると、透羽は入口へ清めの水を走らせた。
「《禊牢》。一般人が入る時間だけ稼ぎます」
水の膜が扉を覆う。続けて透羽は鈴へ直接触れないよう水で持ち上げ、札を貼った封印袋へ収めた。袋の口を閉じても、左鎖骨の熱は弱まらない。
その向こうで、増え続ける足音が一度だけ止まった。
玄兎が息を潜める。
数秒後、玄兎が一歩動いた。
足音も、まったく同時に動いた。
誰も冗談を言わなかった。
◇
旧図書館を出るまでの数分で、透羽たちは異変の広がりを思い知らされた。
地下から一階へ上がると、誰もいない閲覧室の椅子が、床を擦りながら一脚ずつ同じ方向へ向きを変えた。その先に玄兎がいる。
廊下の消火栓のガラスには、実際の通路にはいない黒い人影が幾つも映っていた。玄兎が立ち止まると影も止まり、歩き出せばガラスの奥を追ってくる。
窓の外では、別棟の三階に並ぶ閉じたブラインドが端から順に揺れた。風はない。小毬が耳を澄ませ、顔をしかめる。
「講義棟の方からも来てます。中庭からも、学食の方からも。音が全部こっちへ寄ってくる」
一般学生には、せいぜい建物の軋みや偶然動いた椅子にしか見えていないらしい。二人の学生が笑いながら廊下を通り過ぎ、その背後を、首の長い影が玄兎だけを見ながら這っていった。
透羽が玄兎の前へ出る。
「一度確認します。玄兎、三歩だけ後ろへ戻ってください」
「ここで?」
「はい」
玄兎が下がる。
ガラスの影が一斉に逆向きへ動いた。
小毬が息を呑み、千燈の表情からも笑みが消える。
透羽は机上から持ち出した封印袋を見た。鈴はその中で動いていない。それでも、大学中から集まる気配の向きだけが玄兎に合わせて変わった。
「……鈴だけではありません」
透羽が低く言う。
「この大学にいる怪異が、玄兎を探しています」
言葉にされた途端、左鎖骨の痣が強く脈打った。
玄兎は反射的に胸を押さえる。
怖い。
それ以上に嫌だったのは、近づいてくる気配の一つ一つを、身体の奥のどこかが知っているように感じることだった。
まるで、長く留守にしていたものが帰ってくるのを待っていたように。
「このまま建物の中にいれば、学生を巻き込みます」
透羽は即座に地図を思い浮かべるように視線を動かした。
「旧運動場へ行きます。今はほとんど使われていません。白狼院さん、人がいない経路を取れますか」
「できます。先に匂いと音を見ます」
「千燈は後ろを。依澄さんは玄兎の意識に変化があればすぐ教えてください」
玄兎は封印袋を見た。
「鈴は置いていかない方がいい?」
依澄が目を閉じ、鈴と玄兎の気配を比べる。
「今は離さない方がいいと思う。鈴だけを遠くへ動かそうとすると、玄兎の中も引っ張られる感じがする」
透羽が封印袋を持ち上げた。
「では私が持ちます。玄兎には直接触れさせません。熱、痛み、声、何でも変わったらその場で言ってください」
「分かった」
今度は「大丈夫」と付け足さなかった。
五人は走った。
小毬が先頭で人のいない通路を選び、玄兎を真ん中に置いて、透羽と依澄が両側を固める。千燈が最後尾で近づきすぎる怪異を牽制した。
中庭を横切った時、噴水の止まった水面に、無数の顔が浮かんだ。顔は一つずつ玄兎を向き、声のない口を開く。
『帰る』
音は耳ではなく、頭蓋の内側へ直接触れた。
玄兎は足を止めそうになった。
「玄兎」
透羽の声で前を見る。
「聞こえていますか」
「聞こえてる。でもまだ歩ける」
「なら歩いてください。止まる時は、自分で決めてから止まって」
「了解」
旧運動場へ近づくほど、背後の気配は増えていった。
振り返らなくても分かる。
大学中の何かが、自分の後をついてきている。
◇
大学の北西にある旧運動場には、伸びた草と古い倉庫、錆びた散水設備だけが残っていた。
五人が中央へ着いた頃には、玄兎の後ろに続く怪異は数えられる量ではなくなっていた。
濡れた子供、紙人形、三本脚の犬、逆さ傘。顔のない女、片翼しかない鳥、地面すれすれを這う黒い煙。姿を持たず、泣き声だけでついてくるものもいる。
それらが互いを押しのけるでもなく、玄兎を中心に半円を作って止まった。
小毬は鼻元を押さえ、苦しそうに息を整える。
「先輩の匂いに、怪異の匂いが重なりすぎてます。さっきよりずっと近い」
千燈も玄兎の胸元へ目を凝らした。
「血も同じ。出血してないのに、君一人の脈の中へ何十個も別の拍動が混ざってくる」
依澄は玄兎の背後ではなく、その身体を透かすように見ていた。
「眠ってたものが起きてる。玄兎の奥で、外にいるこの子たちへ返事をしてる」
「俺が返事してるわけじゃない」
「うん。玄兎が選んでる感じじゃない」
その一言に救われた気がした直後、怪異の群れが動いた。
一斉に襲いかかったのではない。
先頭にいた濡れた子供が、玄兎へ向かって歩いてきた。
透羽が水の膜を差し込むより早く、その小さな手が玄兎の胸へ触れる。
衝撃も傷もなかった。
輪郭だけが崩れ、冷たい水を吸い込むように、子供の身体が黒い痣の中へ沈んだ。
「……っ!」
続いて紙人形まで肩へ触れ、そのまま消える。
「玄兎、動かないで!」
透羽が両手を広げた。
「《水鏡》!」
薄い水膜が玄兎の全身を包み、三体目を弾き返す。
頭の中で、幾つもの声が歓喜した。
『帰った』
『開いた』
『器』
玄兎はこめかみを押さえた。
「声が近い。さっきより……中にいる」
「返事をしないでください。意味を考えるのも後です」
透羽の水膜へ怪異が次々触れる。攻撃ではない。ただ中へ入ろうとしている。その数が多すぎて、水面が雨に打たれた池のように揺れ始めた。
透羽の指先が震える。
小毬がすぐに旧倉庫脇の散水栓を見つけた。
「水、あそこにあります!」
「使えるなら開けてください!」
小毬が駆け、錆びついたバルブへ両手をかける。しかし金属はびくともしない。千燈が後ろから加わり、二人で慎重に回すと、甲高い軋みのあとでホースから濁った水が噴き出した。
「地面へ流して!」
透羽が指を引く。
草の間を走った水が帯になって立ち上がり、玄兎の周囲へ何重もの壁を作った。
ようやく怪異との接触が減る。
それでも、玄兎の胸に入った二体は消えなかった。
むしろ奇妙な静けさが広がっていた。
怖いはずなのに、身体の内側だけが落ち着いている。
玄兎はその感覚を隠しかけ、やめた。
「透羽。依澄。聞いてほしい」
四人の視線が集まる。
「中に入られるの、怖い。でも……身体は嫌がってない。変な言い方だけど、戻ってきたものを受け入れてるみたいに感じる」
声にした瞬間、その感覚が自分のものになってしまいそうで吐き気がした。
依澄は否定も慰めもせず、静かに訊いた。
「玄兎自身は、帰ってきてほしい?」
「分からない。少なくとも、俺が選んだ覚えはない」
「じゃあ、それは玄兎の答えじゃない」
依澄の言葉が落ちた直後、透羽の持つ封印袋が激しく震えた。
ちりん、ちりん、と鈴が鳴る。
布の隙間から黒い靄が噴き出し、封印札を内側から押し上げた。
「離れて!」
透羽が袋を地面へ置き、水で囲う。
次の瞬間、鈴の表面に走った亀裂から獣の輪郭が吹き出した。
鳥、犬、蛇、兎。彫られていた形だけではない。周囲に集まった怪異の影まで引き寄せられ、黒い靄の中へ重なっていく。
一つの巨大な獣が形を取った。
複数の頭。左右で大きさの違う翼。数の合わない脚。尾の途中から別の獣の口が開いている。どこを見ても完成していないのに、全体だけが無理やり一つの生き物として立っていた。
小毬が息を呑んだ。
「鵺……?」
「違います」
透羽は巨大な影を睨む。
「鵺という姿を知っているものが、玄兎の名前に引かれて形を真似ています。核は鈴から出たもの。でも大学の怪異まで巻き込んでいる」
巨大な口がいくつも開いた。
『同じ』
『同じ器』
『帰る』
玄兎の痣が焼けるように熱くなり、黒い線が鎖骨から胸へ広がる。
膝が揺れた。
そして、考えたくなかった考えが、あまりにも簡単な形で頭へ浮かんだ。
死ねば身体は戻る。
なら、一度死ねば、中に入ったものも一緒に消えるかもしれない。
「玄兎」
透羽の声が鋭く刺さった。
顔を上げる。
透羽は玄兎の考えを読んだわけではない。それでも、何度も同じ選び方を見てきた目だった。
「今、自分が死ぬ方法を考えましたね」
玄兎は答えられなかった。
「駄目です」
「でも再構築で――」
「確認もできていない力を、あなたの命で試さないでください」
「時間がない。広がってる」
「だから私たちがいます」
透羽の声は震えていなかった。
「死ねることを、便利な手段にしないで。少なくとも、私たちが他の方法を試す前に一人で結論を出さないでください」
小毬が水の壁越しに玄兎の袖を掴んだ。
「先輩、私たちにも選ばせてください。助ける側にいるって、私たちが決めてるんです」
千燈も玄兎へ手を差し出す。
「今の血だけなら読める。危ないかどうかは私が決めるよ。君が勝手に死ぬより、ずっとまし」
依澄も玄兎の前から退かなかった。
「私もできることがある。玄兎が一人で決めないなら、私も一人で無理はしない」
四人とも、違う言葉で同じことを言っていた。
玄兎は胸の痛みをこらえながら、詰めていた息を吐いた。
「……分かった」
自分だけで終わらせないための言葉を、今度は意識して選ぶ。
「手伝ってくれ」
透羽が頷いた。
「そのためにいます」
◇
巨大な怪異が地面を踏み込んだ。
草と土が跳ね、透羽の水壁へ黒い前脚が叩きつけられる。
「《白羽》!」
反射的に走らせた水刃が前脚を切り裂いた。
だが、落ちた影は消えない。地面へ触れた途端、三本脚の犬と紙人形へほどけ、それぞれがまた玄兎へ這い始めた。
透羽がすぐに刃を止める。
「切れば、巻き込まれている怪異をばら撒くだけです。祓うのは逆効果です」
答えを探す余裕を与えないように、二つ目の頭が水壁へ食らいつく。弾けた黒い影の端が玄兎の前腕を掠め、細い裂傷から血が滲んだ。
玄兎の胸の奥で、入った二体がそれに応えるように蠢いた。
「千燈先輩」
玄兎は自分から傷ついた腕を差し出した。
「今混ざってるものだけ。昔の俺まで追わないで」
「分かってる」
千燈はいつもの軽口を挟まず、血へ指を触れた。
《血読》。
彼女の瞳から焦点が消える。
暗い水の底。
押し込められた獣たちの体温。
外へ出れば形が崩れ、名前を失い、いつか消えるという怯え。
だから戻りたい。
暗く、狭く、何も決めなくていい場所へ。
『ここなら消えない』
『戻る』
『器』
千燈はそこまでで止めるつもりだった。
ところが、玄兎の脈へ自分の意識を重ねた瞬間、境目が一度だけ消えた。
自分が血を読んでいるのか。
誰かに血を読まれているのか。
玄兎が一人なのか、内側から幾つもの目で外を見ているのか。
分からなくなる。
冷たい水。眩しい光。何かに包まれた小さすぎる身体。遠くで泣く赤ん坊の声。
その断片を「玄兎の記憶だ」と思いかけた瞬間、千燈は自分の舌を噛んだ。
痛みで意識を引き戻し、火傷したように指を離す。
「千燈先輩!」
玄兎が支えようとするが、千燈は手を上げて止めた。
「大丈夫。……いや、大丈夫って言い切るのはやめよう。少し危なかった。でも戻った」
唇の端に滲んだ血を拭い、息を整える。
「分かったのは一つ。こいつらは君を食べたいんじゃない。外にいるのが怖くて、君の中を『眠れる場所』だと思って戻ろうとしてる」
「俺の中に、そんな場所がある?」
「少なくとも、こいつらはそう信じてる。ほかに見えたものもあるけど、誰の記憶か判別できない。今は答えにしない」
玄兎は頷いた。
「それでいい」
怪異が再び水壁へぶつかる。
その衝撃で玄兎の身体から黒い靄が噴き、輪郭が一瞬ぼやけた。
小毬が息を吸う。
そして、顔色を変えた。
「……先輩の匂いが、ない」
「小毬?」
「待って。動かないでください」
小毬は玄兎の周囲を半歩ずつ回った。獣、古い土、血、濡れた紙。怪異の匂いが厚く重なり、その中心にあるはずの玄兎の匂いだけが埋もれている。
焦るほど鼻が拾う情報は増えた。
「分からない……どれが先輩か――」
その声に、玄兎の胸が冷える。
自分を一番確実に嗅ぎ分けていた小毬まで見失う。
怪異の声が甘く重なった。
『同じ』
『もう同じ』
小毬は目を閉じた。
怪異の古い匂いを追うのをやめる。
今日の朝から知っている匂いだけを探した。
ブラックコーヒー。昨日の夕食の香辛料。洗ったばかりのシャツ。自動販売機の缶を渡した時についた、甘いカフェオレの残り香。
そして昼に、唐揚げを一つ食べた油の匂い。
小毬の耳が上がった。
迷わず玄兎の右手を掴む。
「いた」
玄兎が息を吐く。
「見つけた?」
「はい。怪異の中じゃなくて、今日の先輩を探しました」
小毬は手を離さない。
「中に何があっても、これが先輩です。朝から大学に来て、私の唐揚げを一個食べて、今ここで困ってる先輩」
その言葉に、玄兎の輪郭がわずかに戻った。
透羽が気づく。
「今です。依澄さん、玄兎が自分で戻りたい場所を見つけられるようにできますか」
依澄は頷き、《夢蛹》へ指を添えた。
薄紫の蝶が舞い、荒れた運動場へ別の景色が薄く重なる。
学食だった。
昼のテーブル。五人分のトレー。透羽のプリン、小毬の唐揚げ、千燈の蕎麦、依澄の焼き鮭、玄兎のブラックコーヒー。
けれど、完全な夢にはならなかった。
テーブルの向こう側から黒い靄が滲み、椅子に座る四人の顔を塗りつぶしていく。
『ここでいい』
『眠ればいい』
『何も失わない』
夢の中の学食が、音もなく暗い水底へ沈み始める。
依澄の顔が苦痛に歪んだ。
「ごめん。向こうも入ってくる。私だけじゃ、夢を守れない」
玄兎は沈んでいく景色を見た。
怪異が見せる静けさは、不思議なほど心地よかった。
傷も、死ぬ怖さも、自分が何者なのか考える必要もない。
全部を眠らせればいい。
その誘惑の中で、依澄の声だけが届く。
「玄兎。今日じゃなくて、明日は何をしたい?」
問いは拍子抜けするほど普通だった。
玄兎は暗くなる学食を見る。
小毬がまた大盛りを頼むかもしれない。千燈は人の皿へ箸を伸ばす。依澄の好きなものは明日には変わっているだろう。透羽はたぶん、それを見ながら栄養だの睡眠だのとうるさく言う。
その面倒くささを、もう一度見たいと思った。
「……また、五人で昼飯食いたい」
依澄が笑った。
「うん。それなら、まだこっち」
沈みかけた学食に、わずかな光が戻る。
透羽はその瞬間を逃さなかった。
散水栓から引いた水を玄兎の周囲へ集め、痣の縁へ薄い膜を重ねていく。
「《白鷺浄界》」
清めるのではない。
玄兎の内側に元からあるものと、今日外から入り込んだもの。その境目を探るように、水が皮膚の上をゆっくり滑った。
だが、途中で水が黒く濁り、形を失う。
「……分けきれない」
透羽の額に汗が浮いた。
「玄兎自身が境界を選んでください。何を『自分』としてこちらへ残すのか、私には決められません」
怪異の声が重なる。
『器』
『器』
『器』
玄兎は胸へ手を当てた。
「俺は鵺代玄兎だ」
声が押し返す。
『器』
「今朝、眠そうな透羽にカフェオレを買った。小毬の唐揚げを食べて、二個目は千燈先輩に取られた。依澄が今日は焼き鮭を好きだってことも覚えてる」
一つ一つは、何の役にも立たない記憶だった。
だからこそ、誰かに与えられた役割ではない。
今日を自分で過ごした証拠だった。
「俺が何でできてるのかは、まだ分からない。中に何が眠ってるのかも知らない」
痣の熱が増す。
玄兎はそれでも言葉を止めなかった。
「でも、分からない部分まで勝手にお前らへ渡す気はない。この身体も、名前も、俺がこれから確かめる」
巨大怪異が咆哮し、黒い前脚を振り上げる。
透羽の水壁が割れた。
千燈が玄兎を引き、小毬が依澄を抱えて退く。前脚は地面を抉ったが、玄兎の声は途切れなかった。
「俺を『器』だけで呼ぶな」
怪異が止まる。
「鵺代玄兎だ。呼ぶなら、名前で呼べ」
幾つもの口が、初めて別々の音を探すように震えた。
『……げん』
『……と』
その瞬間、透羽の水が澄んだ。
「境界が見えました!」
彼女は両手を閉じる。
玄兎の胸から、さきほど入り込んだ二つの影が水に引かれて剥がれ落ちる。それと同時に、巨大な獣の身体からも、大学で暮らしていた怪異たちの輪郭が一体ずつ抜け始めた。
透羽はそれらを鈴へ押し込まなかった。
「全部を封じれば、また同じことになります。鈴から出た核だけを戻します。もともと大学にいたものは、接続を切るだけです!」
依澄の蝶が鈴から生まれた黒い核を包み、千燈は玄兎の血から異物のざわめきが抜けていくのを確かめる。小毬は玄兎の匂いから離れたものを一体ずつ見失わないよう追った。
透羽の水が、最後に鈴を閉じる。
「《禊牢》」
黒い核が青銅の内側へ沈む。
ちりん、と一度だけ澄んだ音がした。
それを合図にしたように、運動場を埋めていた怪異たちが玄兎から視線を外した。
濡れた子供は旧図書館の方へ歩き出し、三本脚の犬は草の中へ消える。顔のない女も、鳥も、煙も、それぞれ別の方向へ散っていった。
誰も玄兎を「帰る場所」として見ていない。
最後まで残った小さな紙人形だけが一度振り返った。
『げんと』
かすかな声だった。
玄兎は息を吐き、頷く。
「それならいい」
紙人形も風にほどけるように消えた。
旧運動場には、草の擦れる音だけが残った。
◇
戦いが終わったと理解するまで、五人はしばらく動けなかった。
玄兎は草の上へ腰を下ろし、胸を押さえる。痣にはまだ熱が残っているが、内側から押し広げられる感覚は消えていた。
小毬が慎重に鼻を鳴らし、ようやく肩の力を抜く。
「戻りました。怪異の匂いは残ってますけど、ちゃんと先輩の匂いが一番分かります」
千燈も自分の脈を確かめるように手首へ触れた。
「血も一人分に近い。さっき見えた断片は、整理できるまで言葉にしないでおくね」
「うん。話せると思った時でいい」
依澄は少し透けた指先を見ながら、玄兎の隣へ座った。
「私も少し薄い。でも、戻る」
「今日は全員、一人で帰らない方がよさそうだな」
「玄兎もです」
透羽が即座に返した。
彼女の手の中では、札を重ねた鈴が静かに沈黙している。
「封印は応急処置です。鷺宮家で詳しく確認します。それと、教授から旧運動場へ人を近づけないよう施設管理に話を通したと連絡が来ました」
「教授、戦えないのに仕事が早いな」
「自分にできることをしてくれています」
玄兎は笑おうとして、胸の奥に残った一語に気づいた。
『器』。
駅東口でも聞いた言葉。
昨夜、透羽が読んだ記録にもあった言葉。
そして今日、大学中の怪異が自分を探していた理由につながるかもしれない言葉。
もう、知らないふりはできなかった。
◇
午後七時。五人は大学近くの定食屋へ入った。
明るい店内に油の匂いと学生の話し声が満ちている。その普通さが、今日はひどくありがたかった。
小毬は玄兎の前へ唐揚げを一つ差し出した。
「約束です。ちゃんと戻ってきたので、一緒に食べられます」
「命がけの後に食うと、昼よりうまいな」
「明日も食べましょう」
「毎日は重い」
ようやく小さな笑いが戻る。
食事が半分ほど進んだところで、玄兎は透羽へ向き直った。
「透羽。今日の『器』のこと、確認できてるところまで聞きたい」
透羽は箸を置いた。
「推測ではなく、事実として確認できた範囲だけでいいですか」
「それがいい」
少し考えたあと、透羽は頷いた。
「分かりました。食事が終わったら話します」
小毬も千燈も依澄も、そこで続きを求めなかった。
知るのは怖い。
それでも玄兎は、知らないままでいる方を選びたいとは思わなかった。
◇
午後九時十五分。
玄兎と透羽は、大学図書館の裏にある小さな中庭のベンチへ並んで座っていた。
夜の校内は静かで、植え込みの向こうから虫の声がする。玄兎の手にはブラックコーヒー。透羽は温かいミルクティーの缶を両手で包んでいた。
「今日は甘いのばっかりだな」
「疲労時の糖分補給です」
「ちゃんと自分の面倒見てて偉い」
「その褒め方は少し腹が立ちます」
朝と似たやり取りをしてから、透羽は鞄から数枚の紙を取り出した。
「元資料は持ち出せないので、閲覧を許可された範囲だけ写しました」
一枚目の題名は『二十年前 朽木ヶ丘封印事故』。
事故の関連対象に鵺代家の名があること。
封印崩壊の際に『緊急器』が選定され、その対象について『生後――日』という記述が残っていること。
さらに、『器の維持を最優先とする』『死亡時は再構築を――』という文章があること。
透羽は一つずつ説明し、そのたびに「ここから先は分からない」と線を引いた。対象者の名前も正確な日付も読めない。《還月》との関係も、今の資料だけでは断定できない。
玄兎は紙を持ったまま、しばらく黙っていた。
「……嫌な一致だな」
「はい」
「もし俺がその『器』なら、死んでも身体が戻るのは、俺を助けるためじゃなくて……器を壊さないためなのかもしれない」
「可能性はあります。ただし、まだ事実ではありません」
玄兎は夜空を見上げた。
「俺、何なんだろうな」
笑って済ませるつもりだったのに、声は思ったより乾いていた。
「人間なのか、怪異なのか。それとも本当に、何かを入れておくための器なのか」
透羽はすぐに励まさなかった。
「その答えは、まだ分かりません」
「うん。分からないところを適当に埋められるより、その方がいい」
「ただ、一つだけ決められることがあります」
透羽が玄兎へ身体を向ける。
「記録に何と書かれていても、今日まであなたが過ごした時間まで、その言葉に書き換えさせる必要はありません」
玄兎は彼女を見る。
「今朝、私にカフェオレを買ったのも、白狼院さんの唐揚げを食べたのも、怪異の中へ沈まずこちらへ戻ると選んだのも、鵺代玄兎です」
透羽は一度だけ息を整えた。
「怪異に『器』と呼ばれても、古い記録にそう書かれていても、私はあなたをその一語だけで扱いません」
玄兎は返事をするまで数秒かかった。
「……それ、かなり嬉しい」
透羽は視線を少し逸らす。
「そうですか。それなら言った意味はありました」
「今、顔赤くない?」
「見なくていいです」
「朝もそれ言ってたな」
「朝より今の方が見なくていいです」
玄兎は言われた通り前を向いた。
怪異に強制されなくても、透羽は隣にいる。
それだけで、胸の奥に残る不安が少しだけ形を持った。消えたわけではない。けれど、一人で抱えるしかないものでもなくなった。
「昨日、言留箱に言わされそうになってたのって、このことだった?」
「はい。確証がない段階で、怪異に押し出される形では伝えたくありませんでした」
「自分で調べて、自分の言葉で話したかった?」
透羽は頷いた。
「そうです」
「ありがとう。待っててよかった」
少しの沈黙のあと、玄兎は胸元へ触れた。
「もう一つ。怪異が中へ入った時、怖いのに少し落ち着いた。あれも調べたい」
「はい。一緒に調べます」
「退魔師として?」
透羽はすぐには答えなかった。
「責任もあります。でも、それだけなら今ここまで残って話してはいません」
玄兎が横を見る。
透羽は前を向いたまま続けた。
「玄兎が自分のことを知りたいと思うなら、私も一緒に知りたい。それが今の答えです」
玄兎は小さく笑った。
「じゃあ、頼む」
「勝手に一人で調べないなら」
「条件つきなんだ」
「当然です」
今度の沈黙は、さっきより少しだけ穏やかだった。
◇
同じ夜。
透羽は鷺宮家の自室で、二十年前の事故記録をもう一度開いていた。
玄兎へ見せた範囲より先は、黒塗りと閲覧制限に閉ざされている。
ただ、玄兎へ資料を見せた時点にはなかった項目が、関連資料の一覧に一件だけ追加されていた。
『器・再構築後経過観察記録』
透羽は迷った末、アクセスする。
返ってきたのは『権限不足』の表示だった。
それでも、見出しの下に二つだけ文字列が残っている。
『認知――』
『記憶――』
透羽の指が止まった。
今夜、玄兎へ「確かめた事実だけを渡す」と約束したばかりだ。
推測を書き込む代わりに、上位権限への正式な閲覧申請を送る。
送信を終えても、画面に残った二つの単語は消えなかった。
『認知――』
『記憶――』
――第八話・了