人間は、頭に浮かんだことをすべて口にして生きているわけではない。
眠いと思いながら講義へ出る朝もあるし、教授の話が長いと感じても、それを本人へわざわざ告げることはない。友人が髪型を変えたとき、前の方が似合っていたと思っても、「いいじゃん」と笑うことだってある。
それは嘘なのだろうか。
あるいは、人と一緒に生きるために必要な余白なのだろうか。
鵺代玄兎は、その日までそんなことを真面目に考えたことがなかった。
少なくとも――大学のど真ん中で、胸の奥にしまっていた言葉が本人の意思を無視して口からこぼれ始めるまでは。
◇
午前九時十分。
朽木ヶ丘大学中央広場は、一限へ向かう学生たちで賑わっていた。講義棟と図書館、学生会館を結ぶ広い石畳には朝の光が落ち、雨上がりの薄い水膜がところどころで白く光っている。
その一角に、昨日まではなかった展示が設けられていた。
高さ二メートルほどの白い木製パネルから細い枝が何本も伸び、そこへ色とりどりの短冊が吊るされている。風が吹くたび、何百枚もの紙がさらさらと触れ合っていた。
中央に大きく書かれている題名は、『言えなかったこと展』。
その下には、少し柔らかな書体で説明が添えられている。
『家族、友人、恋人、先生、自分自身へ。
本当は言いたかったのに、言えなかったことを書いてください。
匿名です。
誰にも見せたくない場合は、中央の箱へ入れてください。』
足を止めた玄兎は、風に揺れる短冊を眺めながら感心したように息をついた。
「大学って、講義とサークル以外にもいろいろやってるんだな。こういう企画、全然知らなかった」
隣にいた鷺宮透羽は、パネルの端に貼られた小さな主催者表示へ目を向けた。
「学生相談室と心理学系サークルの共同企画です。先週から大学の掲示板に告知が出ていましたが、玄兎は見ていなかったのですね」
「重要そうな通知は見るようにしてるんだけどな」
「では、先月届いた健康診断の再検査案内も当然確認していますね」
玄兎は短冊へ視線を戻した。逃げたつもりだったが、透羽の視線は外れない。
「……今日、行こうと思ってた」
「三日前にも同じことを言っていました。最近は怪異より、あなたが普通の理由で身体を壊す方が心配になってきています」
声は淡々としている。しかし、玄兎にはもう分かり始めていた。透羽がこういう言い方をするときは、本気で心配している。
前日の「三メートル以上離れると痛む怪異」が解けてから、透羽の監視は少し変わった。
以前は、玄兎という人間が危険な怪異ではないか確かめるための監視だった。今でも建前上はそうなのだろう。
しかし最近は、怪異反応より先に、睡眠時間や食事、傷の治り具合、講義への出席状況を確認されることの方が多い。
玄兎は内心で、少し過保護になってきたな、と思った。
嫌ではない。
むしろ、誰かが自分の体調を当然のように気にしてくれることに、まだ少し慣れていないだけだ。
透羽が横から視線を向ける。
「今、私を過保護だと思いましたか」
玄兎は思わず顔をしかめた。
「どうして分かるんだよ。まだ口にも出してないのに」
「顔に出ています。千燈に指摘されることが増えたので、私も分かるようになりました」
「それ、あんまり嬉しくない成長だな」
「玄兎が分かりやすいだけです」
透羽はそう言って、展示された短冊へ視線を戻した。
玄兎も何となく目についたものを読む。
『お母さん。大学、楽しいって言ったけど、本当は少し寂しい。』
その隣には、『ずっと好きでした。でも、もう言いません。幸せになって。』
さらに下には、『教授へ。ゼミの飲み会、毎回三時間は長すぎます。』
玄兎は最後の短冊で吹き出した。
「急に現実味が強いな。上二つはしんみりしたのに、三枚目で一気に大学生へ戻された」
「匿名だから書けることなのでしょう。本人へ直接伝える必要はないけれど、一度どこかへ出しておきたい言葉もあります」
「透羽なら何を書く?」
玄兎が何気なく尋ねると、透羽はほとんど迷わなかった。
「私は書きません。人へ見せる必要のないことは、自分の中で整理します」
「じゃあ、誰にも見せない箱の方なら?」
その問いに、透羽の返事が少し遅れた。
展示の中央には、短冊を吊るす枝とは別に、一つの木箱が置かれている。
周囲の白いパネルや新しい台座と比べ、その箱だけが明らかに古かった。黒ずんだ木に錆びた金具。蓋の中央には細長い投入口があり、側面には小さな札が結びつけられている。
『誰にも言わない言葉はこちらへ』
透羽は数秒、箱を見つめた。
「……書くかどうかではなく、箱そのものが少し気になります」
玄兎は彼女の表情を見て、すぐ意味を理解した。
「怪異の気配がある?」
「まだ断定できません。確認します」
透羽は鞄から小さなペットボトルを取り出し、指先へ一滴だけ水を落とした。
水滴は落下せず、ふわりと宙へ浮かぶ。
そのまま箱へ近づいていき――途中で細かく震えた。
透羽の目がわずかに細くなる。
「弱いですが、怪異反応があります。ただし、今日の展示で生まれたものではなさそうです。気配が古い」
「つまり、箱の方が最初から何か持ってた可能性が高いってことか」
玄兎は興味を引かれ、無意識に一歩近づいた。
透羽がすぐに片手を伸ばす。
「触らないでください。玄兎は、怪しいものを見ると確認のために手を出す癖があります」
「まだ触ってないだろ。ちょっと近くで見ようとしただけ」
「その『ちょっとだけ』で何度危険な目に遭ったと思っているのですか。今日は見るだけにしてください」
玄兎は苦笑しながら手を引いた。
そのときだった。
「鵺代、おはよ。朝からまた鷺宮さんと一緒?」
背後から同じ学部の友人、木崎が声をかけてきた。
玄兎が振り返ると、木崎は二人を見比べながら妙に楽しそうな顔をしている。
「まあ、一緒っていうか、俺が監視されてるだけなんだけど」
「その説明を本人の横で普通にできる関係が、一番よく分からないんだよな」
木崎は透羽へ軽く頭を下げた。
「おはようございます、鷺宮さん。こいつ、最近ちゃんと大学来てます?」
「今のところは。ただし健康診断の再検査を三日延ばしています」
「そこまで把握されてんの? それもう監視っていうより保護者じゃん」
「だから言っただろ。最近ちょっと監視の方向がおかしいんだよ」
玄兎が言うと、透羽はすぐに「おかしくありません」と返したが、木崎はそこを追及しなかった。
代わりに、玄兎へ少し顔を寄せて声を落とす。
「それでさ。実際のところ、お前って鷺宮さんのこと好きなの?」
玄兎は顔をしかめた。
「朝一番から本人の横で聞く内容じゃないだろ、それ」
「だって最近ずっと一緒だし、普通に気になるんだよ。適当に流してもいいから教えてくれよ」
普段なら、本当に適当に流していた。
『別にそういうんじゃない』とか、『監視されてるだけ』とか。
少なくとも、本人が一メートルも離れていないところで、自分の感情を整理して説明する必要はない。
玄兎はいつものように肩をすくめ、ごまかそうとした。
その瞬間。
喉の奥が、熱を持った。
風邪の熱とは違う。
内側から赤い指で喉を押し広げられるような、妙な圧迫感。
止めようとした。
口を閉じようとした。
しかし、言葉は意志より先に出た。
「透羽はかなり大事だし、近くにいると安心する。俺へ好意を向けてくれてる気もしてる。でも俺と一緒にいると怪異に巻き込むことが多いから、今は変に期待させるようなことを言いたくない」
言い切った瞬間。
三人の間だけ、時間が止まった。
広場を歩く学生たちの話し声。遠くで鳴った自転車のベル。風に揺れる短冊の音。
全部聞こえているのに、やけに遠い。
玄兎は、自分が今何を言ったのかを一字一句理解していた。
木崎の口が半開きになる。
「……いや、俺、そこまで詳しく聞くつもりじゃなかったんだけど」
「俺もそこまで答えるつもりなかったよ」
玄兎の声が乾いた。
恐る恐る横を見る。
透羽は完全に固まっていた。頬だけではない。耳まで見る間に赤くなっていく。
玄兎は自分の顔まで熱くなるのを感じながら、どうにか言葉を探した。
「今のは、その……聞かなかったことにしてもらえると助かる」
透羽は数秒動かなかった。
やがて、視線を玄兎から外しながら答える。
「聞いていません。私は何も聞いていませんので、その件について説明する必要もありません」
「物理的に全部聞こえてただろ」
「聞いていないことにします」
「そうしてくれるなら助かるけど、顔は全然聞いてない人の反応じゃないぞ」
木崎はこれ以上いると危険だと判断したらしい。
「じゃ、じゃあ俺、一限あるから行くわ。鵺代、その……まあ、頑張れ」
「何を頑張るんだよ。待て、今の質問の責任を取れ」
「無理。これは俺がいていい空気じゃない」
木崎は逃げるように人混みへ消えた。
玄兎は追いたかった。
しかし、隣にはまだ透羽がいる。
しかも、明らかに何か言いたそうな顔をしている。
玄兎は慎重に尋ねた。
「透羽。今の件で、何か言いたいことがあるなら……いや、無理に言わなくていいけど」
「ありません。今の発言について、私から言うことは何もありません」
透羽は即座に否定した。
その瞬間。
彼女の喉元へ、淡い赤い文字が浮かんだ。
『ある』
透羽の目が大きくなる。
玄兎も見た。
次の瞬間、透羽の喉が震えた。
「……本当は、今の発言を聞いて少し嬉しかったです」
今度は玄兎が固まった。
透羽は両手で自分の口を塞ぐ。
「違います。今の発言は――」
また喉元へ赤い文字。
『違わない』
透羽は目を閉じた。
「……違わないです。今のは、確かに私の本音です」
二人は、ほとんど同時に中央の木箱を振り返った。
さっきまで静かだった投入口の奥が、まるで誰かが笑っているように暗く見えた。
玄兎は低く息を吐いた。
「これ、絶対あの箱だよな」
透羽も羞恥を押し殺すように呼吸を整えた。
「怪異です。間違いありません。少なくとも、私たち二人へ何らかの影響が出ています」
状況は最悪だった。
それでも、原因が怪異だと分かったことだけは、今の二人にとって妙に救いだった。
◇
一限開始まで、あと七分。
しかし、もう講義どころではなかった。
玄兎と透羽は人目を避けるため、旧講義棟脇の細い通路へ移動した。そこへ着くまで、二人ともほとんど口を開かなかった。
何を言ってしまうか分からない。
普段ならどうでもいい雑談さえ、今は地雷に見える。
玄兎はスマートフォンを取り出し、画面へ文字を打った。
『質問されなければ大丈夫そう?』
透羽もすぐに返信する。
『現時点では不明です。質問が引き金になった可能性は高いですが、発症条件を特定するまでは極力発言を控えてください。』
玄兎は少し迷ってから、もう一文打った。
『さっき俺が言ったことは忘れて。』
透羽の指が止まる。
数秒後、返事が来た。
『無理です。』
玄兎は画面を見つめた。
文字なら怪異は反応しないらしい。
それは安心材料のはずなのに、画面越しの透羽はいつも以上に率直だった。
続けて、透羽からもう一通。
『私が言ったことも忘れてください。』
玄兎は少し笑ってしまった。
『それも無理。お互い様。』
透羽は既読をつけたまま、返事を送ってこなかった。ただ、顔を隠すようにスマートフォンへ視線を落としている。
そのとき、通路の向こうから軽い足音が近づいてきた。
「玄兎先輩、透羽先輩、おはようございます!」
白狼院小毬だった。
今の二人にとって、あまりにも間が悪い。
玄兎と透羽はそろって口を閉ざしたまま、小毬を見る。
小毬は二人の反応に違和感を覚えたらしく、鼻を小さく動かした。
「……何かありました? 二人とも、いつもより緊張した匂いがします。それに透羽先輩、顔が赤いです」
玄兎は無言でスマートフォンを差し出した。
画面には、
『今、質問されると本音が勝手に出る怪異の可能性あり。何も聞くな。』
と打ってある。
小毬は身を乗り出し、最後まで読んだ。
その瞬間。
目が、分かりやすく輝いた。
玄兎は嫌な予感しかしなかった。
「小毬。その顔は絶対質問する顔だから、本当にやめろよ。さっき俺たちはすでにかなりひどい目に遭ってる」
「分かってます。質問しちゃ駄目なんですよね。分かってますけど……」
小毬は口を押さえながら、玄兎と透羽を交互に見る。
「……すごく聞きたいです」
彼女の喉元へ、赤い光が滲んだ。
『すごく』
次の瞬間、小毬自身が驚いたように目を見開く。
「今のって怪異ですか!? でも、聞きたいのは普通に本音なんです!」
玄兎は頭を抱えた。
「もう本人の性格と怪異の効果の区別がつかないな」
透羽はスマートフォンへ文字を打ち、小毬へ見せる。
『白狼院さん。中央広場の展示に近づきましたか。特に古い木箱です。』
小毬は画面を見て少し考えた。
「箱には触ってませんけど、朝、短冊を書きました。誰にも見せたくなかったから、あの箱に入れましたよ」
玄兎と透羽は同時に顔を上げた。
「その箱に、どんなことを書いて入れたんだ?」
玄兎は反射的に尋ねた。
聞いた直後。
しまった、と思った。
小毬の喉元に赤い光が浮かぶ。
彼女は自分の口を押さえようとしたが間に合わない。
「『玄兎先輩が私を妹みたいに見るの、本当はすごく嫌。ちゃんと女の子として好きになってほしい』って書きました!」
通路に沈黙が落ちた。
小毬は数秒遅れて、自分が何を言ったのか理解した。
耳がぴんと立ち、尻尾まで硬直する。
そして両手で顔を覆った。
「違わないですけど! 全然違わないですけど、今日ここで言う予定じゃなかったです!」
玄兎は何と返せばいいのか分からず、困ったように息をついた。
ところが、そこでまた喉が熱を持つ。
「小毬が俺を恋愛的に好きなのは、かなり前から気づいてる。でも小毬は十九で俺より一つ下だし、勢いで気持ちを決めて後で後悔してほしくないから、今は少し距離を置いて見てる」
小毬の両手がゆっくり顔から離れた。
「……先輩、気づいてたんですか?」
「今のも怪異だから、そこだけ取り出して追及するなよ」
「でも、ずっと鈍感だと思ってたのに!」
「そこまで鈍感だと思われてたのは、さすがに失礼だろ」
小毬は今度こそ身を乗り出した。
「じゃあ、妹みたいに扱ってたのもわざとなんですか?」
また質問だ。
玄兎は慌てて首を振る。
「最初は本当に妹っぽいと思ってた。でも最近は――いや、小毬、もう質問するな。俺も答えようとするな」
「先輩が途中まで言うから余計気になるんです!」
「分かるけど、今は我慢してくれ。俺だって何が出るか分からない」
隣で透羽は、疲れたように額へ手を当てていた。
「まだ朝なのに、すでに一日分以上の精神的疲労があります。まず原因を特定しないと、このままでは会話そのものが成立しません」
普段ならほとんど聞かない、本気でうんざりした声だった。
◇
それから十分後。
事情を聞いて、最初に笑いかけたのは緋鴉千燈だった。
「質問されると隠してる本音が出るんだ。すごく面白――」
言葉が途中で止まる。
千燈の喉元に、淡い赤い文字が浮かんだ。
『怖い』
笑みが消えたのは、一瞬だった。
玄兎は反射的に理由を聞きそうになり、口を閉じる。今聞けば、千燈が自分で話すつもりのなかったことまで引きずり出してしまう。
その沈黙を見て、千燈は少しだけ目を細めた。
「……聞かないんだ」
「聞きたいけど、今は聞かない」
「そっか」
それだけで、千燈の肩からわずかに力が抜けた。
そこへ蝶ヶ森依澄がやって来た。小毬から事情を聞くと、依澄は中央広場の方を振り返る。
「私も箱に入れた」
「短冊を?」
「うん。誰にも見せない方」
玄兎は中身を尋ねかけ、今度は踏みとどまった。
依澄はそんな玄兎を見てから、自分で口を開いた。
「玄兎が他の人と話していると、近くへ行きたくなる。夢に出てくると嬉しい。私以外の夢を見ていたら嫌かもしれない。でも、これが恋なのかはまだ分からない」
喉元に赤い光はない。
今度の言葉は、怪異に押し出されたものではなかった。
小毬が目を丸くする。
「依澄先輩、自分から言ったんですか?」
「うん。さっき小毬が、言いたくない時は聞かない方がいいって言ってたから。逆に、言ってもいいと思ったことは自分で言いたかった」
依澄は胸元へ手を当て、少し首を傾げる。
「今、ちょっと熱い。これが恥ずかしい?」
「たぶんそうです。でも今のはちゃんと依澄先輩が選んだ言葉です」
小毬が答えると、依澄は小さく頷いた。
透羽は四人を見回した。
「箱へ直接言葉を預けた白狼院さんと依澄さんだけでなく、近くにいた私たちにも影響が出ています。しかも千燈まで反応した。範囲が広がっています」
遠くの広場から、突然大きな声が上がった。
「先生、今日の小テスト難しくないですか?」
「私も難しすぎると思った。でも直すのが面倒でそのまま出した」
続いて、別の場所から悲鳴に近い声。
「今それ言う!?」
五人の表情が変わった。
玄兎は中央広場へ目を向ける。
「もう俺たちだけの問題じゃないな」
◇
広場へ戻る途中でも、異変は続いていた。
友人に服の感想を聞かれた学生が「先週の方が似合ってた」と言って青ざめ、バイトの交代を頼まれた学生が「最近頼まれすぎてしんどい」と漏らす。
どちらも嘘ではない。
だからこそ、言う側も聞く側も傷ついていた。
中央広場の手前では、男子学生二人が胸ぐらを掴み合っていた。
「お前、ずっと俺を下に見てたのかよ!」
「そう思ったことはあるけど、全部じゃない!」
拳が上がるより先に、小毬が二人の間へ滑り込んだ。
「待ってください!」
振り下ろされかけた腕を受け止める。小毬の喉元にも赤い文字が浮かんだ。
『怖い』
小毬は一瞬だけ目を見開いたが、逃げなかった。
「怖いです。仲間同士が本気で殴り合うのを見るの、嫌です。でも今出た言葉だけで全部決めないでください。言う順番も言い方も、今は選べなくなってるんです!」
透羽も二人へ静かに告げる。
「いったん離れてください。本音でも、今すぐ受け止められるとは限りません。話すなら、ここから離れて落ち着いてからです」
二人の手がようやく離れた。
小毬は息を吐きながら玄兎を見る。
「本音って、本当なら言っていいってことじゃないんですね」
「たぶん今日の怪異には、そこが分かってない」
広場へ出ると、その答えを裏付けるようなものが目に入った。
朝まで古びた木箱だったものから、何百枚もの白い短冊が溢れている。
風に揺れているのではない。
紙は細い舌のように蠢き、その先に黒い口が開いていた。
『言え』
『隠すな』
『本当のことを』
周囲に残っていた学生たちの喉が次々に赤く光る。
透羽はすぐに前へ出た。
「この展示物に異常が起きています。近くにいると、言うつもりのないことまで口にしてしまいます。質問をせず、広場から離れてください!」
一人の女子学生が半信半疑の顔をした、その直後。
「私、ゼミ辞めたい!」
本人が自分の口を押さえる。
それで十分だった。
学生たちはようやく異常を理解し、互いに余計なことを聞かないよう口を閉ざしながら広場を離れ始めた。
小毬と千燈が誘導へ回る。
依澄の周囲へ薄紫の蝶が浮かびかけたが、玄兎は首を振った。
「眠らせなくていい。今は自分で離れられてる」
「分かった」
最後の学生が広場を出たところで、箱の蓋が内側から持ち上がった。
底は見えない。
暗闇の中から、何十もの声が重なる。
『言えば楽になる』
『隠すから苦しい』
『全部言え』
透羽が清め水を放つ。
「《禊牢》」
箱を囲むように水の輪が立ち上がり、外へ伸びようとした短冊を押し戻した。
「壊せない?」
玄兎が尋ねる。
「箱の中には、本人が自分の意思で預けた短冊もあります。まとめて浄化すれば、言葉そのものまで傷つける可能性があります」
依澄が箱を見つめる。
「この子、言えなかった言葉を助けてるつもり」
「助ける?」
「閉じ込められてかわいそうだから、外へ出してあげたいって思ってる」
玄兎は顔をしかめた。
悪意ではない。
それなら力だけを削っても、なぜ止められたのか分からないまま同じことを繰り返すかもしれない。
「元の役目を調べよう。何のための箱だったか分かれば、こいつ自身に間違いを返せる」
透羽は結界へ手を向けたまま頷く。
「私はここを維持します。玄兎、できるだけ早く戻ってください」
小毬は広場周辺の誘導に残り、玄兎は千燈と依澄を連れて学生相談室へ向かった。
◇
展示責任者の榊原菜月は、学生相談室で玄兎たちを待っていた。
心理学研究会の四年生で、今回の企画を立ち上げた一人だという。
玄兎が箱の出所を尋ねると、榊原はすぐ貸出票と搬入時の写真を机へ並べた。
「旧商店街の古道具屋さんから借りました。今の大学の前身にあった学校から払い下げられた箱だと聞いています」
写真には、台車に載せられた箱と、側面に紐で結ばれた古い和紙が写っていた。
千燈が画面を拡大する。
「『言留箱』……かな」
「その札、今は?」
榊原は青ざめた顔で棚へ向かった。
「展示の説明札と重なって読みにくかったので、外したんです。捨ててはいません。返す時に戻すつもりで……」
透明な保管ファイルから、古びた和紙が出てきた。
玄兎たちは机の上で慎重に開く。
『言留箱』
『口にすべからざる言葉を預け、心を静めるためのもの』
その下に、さらに小さな文字があった。
『預けた言葉は、持ち主が望むまで開かぬこと』
玄兎は一度だけ読み返し、それで意味が分かった。
この箱は、言えなかった言葉を代わりに叫ぶためのものではない。
怒りや嫉妬、誰かを傷つけるかもしれない言葉をいったん紙へ置き、渡すかどうかを後から自分で決めるためのものだった。
千燈が箱の貸出票へ目を落とす。
「今の企画は『言えなかったことを外へ出す』。元の役目は『今は言わないと自分で決める』。同じ箱へ逆向きの意味を積み続けたんだ」
依澄が古い札を見つめた。
「それで、言葉を外へ出すことが正しいって勘違いした」
榊原の顔から血の気が引く。
「私、言えないことを書けば楽になる人もいると思って……」
玄兎は首を横に振った。
「書くことが悪いんじゃないです。書いたあと、誰へ渡すか、渡さないかを本人が選べることが大事なんだと思います」
依澄も頷く。
「入れた時は自分で選べた。でも今は、箱が勝手に外へ出してる。それが違う」
榊原は唇を噛み、古い札を玄兎へ差し出した。
「これを使ってください。止めてください」
玄兎は札をファイルへ挟んだ。
部屋を出ようとしたところで、千燈が小さく呼ぶ。
「玄兎くん」
振り返ると、千燈はいつもの笑みを作っていなかった。
「さっき出た『怖い』のこと、理由は今は聞かないで」
「分かった」
答えが早すぎたのか、千燈が少し目を丸くする。
「……本当に聞かないんだね」
「千燈が自分で話したくなった時に聞く」
しばらく黙ったあと、千燈は小さく息を吐いた。
「じゃあ一個だけ、自分で言う。君が死ぬたびに怖くなる自分が、怖い」
玄兎は問い返さなかった。
「話してくれてありがとう」
「そこまで。今日はね」
赤い文字は浮かばなかった。
千燈が自分で選んだところで、言葉は止まった。
依澄は二人を見てから、玄兎の袖を軽く摘む。
「私も、さっき言ったことの答えは今いらない。自分でも、もう少し考えたい」
「分かった。じゃあ待つ」
「うん」
それ以上、誰も確認し直さなかった。
今は箱を止める方が先だった。
◇
大学へ戻ると、日は西へ傾いていた。
《禊牢》の中央で、透羽が片膝をついている。額に汗が滲んでいたが、水の輪は崩れていない。
玄兎は駆け寄り、古い札を見せた。
「これが元の役目だ。『持ち主が望むまで開かぬこと』」
透羽は短く目を通し、すぐ理解した。
「分かりました。箱そのものは壊さず、強制している部分だけを浄化します」
小毬も広場の外から戻ってくる。
「周りは大丈夫です。さっき喧嘩してた人たちも離してあります」
「助かりました」
透羽は立ち上がり、全員の位置を確認した。
「私が結界を開きます。白狼院さんは飛び出す短冊を止めてください。千燈は外周。依澄さんは怪異の反応を見てください」
最後に玄兎を見る。
「玄兎は札を見せるだけです。必要以上に前へ出ないでください」
「分かった」
「本当に?」
「今それ聞くと危ないから、信じてくれ」
透羽は一瞬黙り、それから小さく頷いた。
《禊牢》に、人ひとりが通れる隙間が開く。
箱が激しく軋んだ。
白い短冊が一斉に飛び出し、小毬が紙を破らないよう黒い口だけを叩き落とす。頭上では千燈の烏が旋回し、結界の外へ抜けようとする紙を押し返した。
玄兎は水の輪の内側へ一歩だけ入り、古い札を掲げる。
「お前は、言葉を無理やり外へ出すための箱じゃなかった」
『言えば、楽』
「楽になることもある。でも、言うかどうかまで箱が決めるな」
『隠すから、苦しい』
「隠すんじゃない。待つこともあるんだよ。怒ってる時、自分でもまだ分からない時、今言ったら相手を傷つけそうな時。そういう言葉を、すぐ投げなくていいように預かってたんだろ」
玄兎は札の最後の一文を読む。
「『持ち主が望むまで開かぬこと』」
短冊の動きが、わずかに鈍った。
依澄が言う。
「分からない気持ちは、分からないまま持っててもいい。あとで名前がつくかもしれないから」
『でも、本当』
黒い口が一斉に玄兎へ向く。
喉が焼ける。
「透羽は大事だし、小毬が俺を好きなのも分かってる。依澄に近づかれると最近は意識するし、千燈が冗談じゃない顔で俺を見ると嬉しい!」
全部、本当だった。
だからこそ、玄兎は顔が熱くなるのを堪えながら箱を睨む。
「でも今、四人まとめて本人の前で言う必要はなかった。内容が本当でも、言う相手と時間は俺が選ぶ」
箱が軋む。
今度は一本の短冊が透羽へ向いた。
『お前も隠している』
透羽の肩が強張る。
「……はい。玄兎へ、まだ伝えていないことがあります」
『言え』
喉元に赤い光が浮かんだ。
玄兎はすぐに言った。
「透羽、言わなくていい」
透羽が玄兎を見る。
『知りたい』
今度は玄兎の喉が熱くなる。
「知りたいよ。でも、透羽が自分で話すって決めるまで聞かない」
赤い文字が二人の間で揺れる。
「俺に関係することでも、透羽の言葉は透羽のものだ」
数秒後。
透羽の喉元から赤い光が消えた。
何も言わせられないまま。
千燈が息を呑む。
「弱くなった」
依澄も頷いた。
「箱が分かり始めてる」
小毬は飛び出した短冊を押さえながら叫ぶ。
「私だって玄兎先輩の返事は今すぐ欲しいです! でも無理やり言わせるのは嫌です!」
喉元に赤い文字。
『かなり欲しい』
「そこは補足しなくていいです!」
こんな状況なのに、玄兎は吹き出した。
その笑いを合図にしたように、短冊の黒い口が一つ、また一つと閉じていく。
千燈も静かに箱へ言う。
「秘密は嘘じゃないよ。まだ誰かへ渡してないだけ」
箱から伸びていた紙が力を失い、石畳へ落ち始めた。
透羽が両手を合わせる。
「今です。《白鷺浄界》」
清め水が白い光を帯び、木箱を包む。
洗い流すのは、預けられた言葉ではない。
本人の意思を無視し、言葉を暴き立てる力だけだ。
光が収まる。
古びた箱の側面へ、玄兎は元の札を戻した。
『預けた言葉は、持ち主が望むまで開かぬこと』
箱の奥から、かすかな声がした。
『……待つ』
玄兎は頷く。
「それでいい」
最後の赤い光が、夕暮れの中へ消えた。
◇
『言えなかったこと展』はその日のうちに中止された。
小毬と千燈は、騒ぎが収まるまで広場と講義棟の間を何度も往復し、言い争いになった学生を離したり、転んだ人を支えたりしていた。大きな怪我がなかったと分かった時、五人はようやく肩の力を抜いた。
言留箱は鷺宮家を通して一時保管され、榊原たちは企画の説明を見直すことになった。後日再開するなら、「言わないことを選ぶ権利もある」と明記するという。
怪異が消えても、一度口にした言葉は消えない。
それでも、それぞれが必要だと思えば、今度は自分で選んだ言葉でもう一度話せばいい。
夜八時前、五人は駅前のファミリーレストランへ入った。
席へ着くなり、千燈が人差し指を立てる。
「今日は恋愛関係の質問、全面禁止ね。私はもう十分」
小毬がすぐ手を上げる。
「私、玄兎先輩に聞きたいことが――」
「内容分かるから今日はやめてくれ」
「先輩が思ったより鈍感じゃないの、ちょっと腹立ちます!」
「俺が悪いの?」
「そういうところです!」
小毬は腹立ちをハンバーグへぶつけた。
依澄は焼き鮭定食の皿を見ながら言う。朝も焼き鮭が食べたいと言っていたから、今日は珍しく一日同じものが好きなままだったらしい。
「私は今日は聞かない。自分の気持ちを先に考える」
「うん。それでいいと思う。じゃあ明日、何が好きになってるかは聞いていい?」
依澄は少し考えてから頷いた。
「それは聞いて。約束」
向かいの千燈とも目が合う。
千燈はコーヒーカップを持ったまま、少しだけ笑った。
「私の方も、話せる時に話すから」
「分かった」
最後に透羽を見る。
彼女はプリンへスプーンを入れたところだった。
玄兎は少し迷ったが、内容そのものは尋ねなかった。
「透羽。さっきの、俺に関係する話ではあるんだよな」
透羽は数秒考え、頷いた。
「……はい」
「じゃあ今は、それだけでいい。透羽が話せると思った時に聞く」
「本当にそれ以上聞かないのですか」
「聞かない」
透羽は戸惑ったように玄兎を見つめ、やがて小さく息を吐いた。
「……ありがとうございます」
怪異はもういない。
聞こうと思えば聞けるし、話そうと思えば話せる。
それでも五人は、話さないまま置いておくものがあることを、朝より少しだけ自然に受け入れていた。
小毬だけは数分後、我慢できなくなったらしく再び手を上げた。
「恋愛以外なら質問していいですよ!」
玄兎はメニューから顔を上げる。
「じゃあ追加で何食べたい?」
「焼肉です!」
「ここファミレスだぞ」
千燈が吹き出し、依澄も小さく笑う。
透羽まで口元を隠した。
言葉にしないものがあっても、同じテーブルにはいられる。
今夜は、それで十分だった。
◇
同じ夜。
透羽は鷺宮家の自室で、ノートパソコンの画面を見つめていた。
数日前に申請した資料の閲覧許可が、今日付で下りている。
『二十年前 朽木ヶ丘封印事故記録』
『関連対象:鵺代家』
昼間、言留箱に迫られた時、喉まで出かかっていたのはこの話だった。
まだ断片しか確認できていない。だから玄兎へ渡すには早いと思った。
そして玄兎は、聞かなかった。
『透羽が自分で話すって決めるまで聞かない』
その声を思い出してから、透羽はファイルを開く。
古い紙資料を読み取った不鮮明な画像が表示された。
『事故発生日――二十年前』
『封印崩壊に伴い、緊急器の選定を実施』
その下は大部分が黒塗りになっている。
読めるのは、途切れた一行だけ。
『生後――日』
透羽の指が止まる。
次の頁。
『器の維持を最優先とする』
さらに下。
『死亡時は再構築を――』
透羽は息を止めた。
目の前で何度も見た玄兎の《還月》を連想せずにはいられない。
だが、『器』が誰なのかも、『再構築』が何を意味するのかも、まだ断定できない。
事故は二十年前。
関連対象は鵺代家。
そして、生後日数を示す記述。
偶然として片づけるには、気になるものが重なりすぎている。
机の横でスマートフォンが震えた。
玄兎からだった。
『帰った。今日は疲れた。明日一限遅れたら起こして。』
透羽は画面を数秒見つめ、返信する。
『自分で起きてください。ただし、起きていなければ連絡します。』
すぐに返事が来る。
『結局起こしてくれるんだ。』
透羽の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
それから再び、黒い文字へ視線を戻す。
『死亡時は再構築』
今はまだ言わない。
黙ったまま逃げるためではない。
確かめて、自分の言葉で渡すために。
透羽は次の頁を開いた。
――第七話・了