人間は、頭に浮かんだことをすべて口にして生きているわけではない。
教授の話が長いと思っても、本人へわざわざ告げることはない。それは嘘なのか、人と生きるための余白なのか。
鵺代玄兎がそんなことを考えたのは、胸の奥にしまっていた言葉が、本人の意思を無視してこぼれ始めてからだった。
◇
一限前の朝。
朽木ヶ丘大学中央広場は、一限へ向かう学生たちで賑わっていた。講義棟と図書館、学生会館を結ぶ広い石畳には朝の光が落ち、雨上がりの薄い水膜がところどころで白く光っている。
その一角に、昨日まではなかった展示が設けられていた。
高さ二メートルほどの白い木製パネルから細い枝が何本も伸び、そこへ色とりどりの短冊が吊るされている。風が吹くたび、何百枚もの紙がさらさらと触れ合っていた。
中央に大きく書かれている題名は、『言えなかったこと展』。
その下には、少し柔らかな書体で説明が添えられている。
『家族、友人、恋人、先生、自分自身へ。
本当は言いたかったのに、言えなかったことを書いてください。
匿名です。
誰にも見せたくない場合は、中央の箱へ入れてください。』
足を止めた玄兎は、風に揺れる短冊を眺めながら感心したように息をついた。
「大学って、講義とサークル以外にもいろいろやってるんだな。こういう企画、全然知らなかった」
隣にいた鷺宮透羽は、パネルの端に貼られた小さな主催者表示へ目を向けた。
「学生相談室と心理学系サークルの共同企画です。先週から大学の掲示板に告知が出ていましたが、玄兎は見ていなかったのですね」
「大事そうなことは忘れないようにしてるんだけどな」
「では、右肩の傷も『もう痛くないから』で済ませず、一度保健センターで診てもらってください」
玄兎は短冊へ視線を戻した。逃げたつもりだったが、透羽の視線は外れない。
「……今日、行こうと思ってた」
透羽は返事を聞いても、右肩の傷から視線を外さなかった。玄兎は何となく袖口を引き下げた。
透羽は展示された短冊へ視線を戻した。玄兎も何となく目についたものを読む。
『お母さん。大学、楽しいって言ったけど、本当は少し寂しい。』
その隣には、『ずっと好きでした。でも、もう言いません。幸せになって。』
さらに下には、『教授へ。ゼミの飲み会、毎回三時間は長すぎます。』
玄兎は最後の短冊で吹き出した。
「急に現実味が強いな」
「匿名だから書けることなのでしょう。本人へ直接伝える必要はないけれど、一度どこかへ出しておきたい言葉もあります」
「透羽なら何を書く?」
玄兎が何気なく尋ねると、透羽はほとんど迷わなかった。
「私は書きません。人へ見せる必要のないことは、自分の中で整理します」
「じゃあ、誰にも見せない箱の方なら?」
その問いに、透羽の返事が少し遅れた。
展示の中央には、短冊を吊るす枝とは別に、一つの木箱が置かれている。
周囲の白いパネルや新しい台座と比べ、その箱だけが明らかに古かった。黒ずんだ木に錆びた金具。蓋の中央には細長い投入口があり、側面には小さな札が結びつけられている。
『誰にも言わない言葉はこちらへ』
透羽は数秒、箱を見つめた。
「……書くかどうかではなく、箱そのものが少し気になります」
玄兎は彼女の表情を見て、すぐ意味を理解した。
「怪異の気配がある?」
「まだ断定できません。確認します」
透羽は鞄から小さなペットボトルを取り出し、指先へ一滴だけ水を落とした。
水滴は落下せず、ふわりと宙へ浮かぶ。
そのまま箱へ近づいていき――途中で細かく震えた。
透羽の目がわずかに細くなる。
「弱いですが、怪異反応があります。ただし、今日の展示で生まれたものではなさそうです。気配が古い」
玄兎は興味を引かれ、無意識に一歩近づいた。
透羽がすぐに片手を伸ばす。
「触らないでください。今日は見るだけに」
「まだ触ってないだろ。ちょっと近くで見ようとしただけ」
玄兎は苦笑しながら手を引いた。
そのときだった。
「鵺代、おはよ。朝からまた鷺宮さんと一緒?」
背後から同じ学部の友人、木崎が声をかけてきた。
玄兎が振り返ると、木崎は二人を見比べながら妙に楽しそうな顔をしている。
木崎は透羽へ軽く頭を下げた。
代わりに、玄兎へ少し顔を寄せて声を落とす。
「それでさ。実際のところ、お前って鷺宮さんのこと好きなの?」
玄兎は顔をしかめた。
「朝一番から本人の横で聞く内容じゃないだろ、それ」
普段なら、「監視されてるだけ」とでも言って流していた。
玄兎は肩をすくめかける。横にいる透羽とは目を合わせないまま、いつもの調子で笑おうとした。
その瞬間。
喉の奥が、熱を持った。
風邪の熱とは違う。内側から赤い指で喉を押し広げられるような圧迫感に、玄兎は咄嗟に口を閉じる。
それでも、言葉の方が先にこぼれた。
「近くにいると、ほっとする。だから余計、俺のせいで巻き込みたくない。今は、それ以上のことを言う気はない」
言い切った瞬間。
三人の間だけ、時間が止まった。
広場を歩く学生たちの話し声。遠くで鳴った自転車のベル。風に揺れる短冊の音。
全部聞こえているのに、やけに遠い。
玄兎は、自分が今何を言ったのかを一字一句理解していた。
木崎の口が半開きになる。
「……いや、俺、そこまで詳しく聞くつもりじゃなかったんだけど」
「俺もそこまで答えるつもりなかったよ」
玄兎は乾いた声で返し、恐る恐る横を見た。
透羽は完全に固まっていて、頬だけではなく耳まで見る間に赤くなっていく。
玄兎は自分の顔まで熱くなるのを感じながら、どうにか言葉を探した。
「今のは、その……聞かなかったことにしてもらえると助かる」
透羽は数秒動かなかった。
やがて、視線を玄兎から外しながら答える。
「……聞いていないことにします」
木崎はこれ以上いると危険だと判断したらしい。
「じゃ、じゃあ俺、一限あるから行くわ。鵺代、その……まあ、頑張れ」
「何を頑張るんだよ」
木崎は逃げるように人混みへ消えた。
玄兎は追いたかったが、隣にはまだ透羽がいて、しかも明らかに何か言いたそうな顔をしている。
玄兎は慎重に口を開いた。
「透羽。今の件で――」
「ありません」
最後まで言わせず、透羽は答えた。視線は玄兎ではなく、展示の端に落ちている。
その喉元へ、淡い赤い文字が浮かんだ。
『ある』
透羽の目が大きくなる。
玄兎が何も言えずにいるうちに、透羽の指が自分の袖口をきつく摘まんだ。
「……少し、嬉しかったです」
それだけ言って、透羽は口を閉じた。耳まで赤くなっているのに、今度は否定しなかった。
二人は、ほとんど同時に中央の木箱を振り返った。
さっきまで静かだった投入口の奥が、まるで誰かが笑っているように暗く見えた。
玄兎は低く息を吐いた。
「これ、絶対あの箱だよな」
透羽も羞恥を押し殺すように呼吸を整えた。
「少なくとも、私たち二人は影響を受けています」
状況は最悪だった。
それでも、原因が怪異だと分かったことだけは、今の二人にとって妙に救いだった。
◇
一限開始まで、あと七分。
しかし、もう講義どころではなかった。
玄兎と透羽は人目を避けるため、旧講義棟脇の細い通路へ移動した。そこへ着くまで、二人ともほとんど口を開かなかった。
何を言ってしまうか分からず、普段ならどうでもいい雑談さえ、今は地雷に見える。
玄兎はスマートフォンを取り出し、画面へ文字を打った。
『質問されなければ大丈夫そう?』
透羽もすぐに返信する。
『まだ分かりません。質問がきっかけになった可能性は高いです。条件が分かるまでは、なるべく話さないでください。』
玄兎は少し迷ってから、もう一文打った。
『さっき俺が言ったことは忘れて。』
透羽の指が止まる。
数秒後、返事が来た。
『無理です。』
玄兎は画面を見つめた。文字なら怪異は反応しないらしく、それは安心材料のはずなのに、画面越しの透羽はいつも以上に率直だった。
続けて、透羽からもう一通。
『私が言ったことも忘れてください。』
玄兎は少し笑ってしまった。
『それも無理。お互い様。』
透羽は既読をつけたまま、返事を送ってこなかった。ただ、顔を隠すようにスマートフォンへ視線を落としている。
そのとき、通路の向こうから軽い足音が近づいてきた。
「玄兎先輩、透羽先輩、おはようございます!」
白狼院小毬だった。
今の二人にとって、あまりにも間が悪い。
玄兎と透羽はそろって口を閉ざしたまま、小毬を見る。
小毬は二人の反応に違和感を覚えたらしく、鼻を小さく動かした。
「……何かありました? 二人とも、いつもより緊張した匂いがします。それに透羽先輩、顔が赤いです」
玄兎は無言でスマートフォンを差し出した。
画面には、
『今、質問されると本音が勝手に出る怪異の可能性あり。何も聞くな。』
と打ってある。
小毬は身を乗り出し、最後まで読んだ。
その瞬間。
目が、分かりやすく輝いた。
玄兎は嫌な予感しかしなかった。
「小毬、今は質問しないでくれ」
「分かってますけど……」
小毬は口を押さえながら、玄兎と透羽を交互に見る。
「……すごく聞きたいです」
彼女の喉元へ、赤い光が滲んだ。
『すごく』
次の瞬間、小毬自身が驚いたように目を見開く。
「今のって怪異ですか!? でも、聞きたいのは普通に本音なんです!」
玄兎は頭を抱えた。
「もう本人の性格と怪異の効果の区別がつかないな」
透羽はスマートフォンへ文字を打ち、小毬へ見せる。
『白狼院さん。中央広場の展示に近づきましたか。特に古い木箱です。』
小毬は画面を見て少し考えた。
「箱には触ってませんけど、朝、短冊を書きました。誰にも見せたくなかったから、あの箱に入れましたよ」
玄兎と透羽は同時に顔を上げた。
「その箱に、どんなことを書いて入れたんだ?」
玄兎は反射的に尋ねた。
聞いた直後。
しまった、と思った。
小毬の喉元に赤い光が浮かぶ。
彼女は自分の口を押さえようとしたが間に合わない。
「『玄兎先輩が私を妹みたいに見るの、本当はすごく嫌。ちゃんと女の子として好きになってほしい』って書きました!」
通路に沈黙が落ちた。
小毬は数秒遅れて、自分が何を言ったのか理解し、耳をぴんと立て、尻尾まで硬直させたまま両手で顔を覆った。
「違わないですけど! 全然違わないですけど、今日ここで言う予定じゃなかったです!」
玄兎は何と返せばいいのか分からず、困ったように息をついた。
ところが、そこでまた喉が熱を持つ。
「気づいてる。だから最近、前みたいに頭を撫でてないだろ」
小毬の両手がゆっくり顔から離れた。耳だけがまだぴんと立っている。
「……あ」
自分の頭へ手をやり、何かを確かめるように玄兎を見る。
「じゃあ、妹みたいに扱ってたのも――」
玄兎は両手を上げた。
「その先は、今は聞かないでくれ。俺も何が出るか分からない」
隣で透羽は、疲れたように額へ手を当てていた。
「まず原因を突き止めないと、このままでは会話もできません」
普段ならほとんど聞かない、本気でうんざりした声だった。
◇
それから十分後。
事情を聞いて、最初に笑いかけたのは緋鴉千燈だった。
「質問されると隠してる本音が出るんだ。すごく面白――」
言葉が途中で止まる。
千燈の喉元に、淡い赤い文字が浮かんだ。
『怖い』
笑みが消えたのは、一瞬だった。
玄兎は反射的に理由を聞きそうになったが、今聞けば千燈が自分で話すつもりのなかったことまで引きずり出してしまうと思い、口を閉じた。その沈黙を見て、千燈は少しだけ目を細めた。
「……聞かないんだ」
「聞きたいけど、今は聞かない」
「そっか」
それだけで、千燈の肩からわずかに力が抜けた。
そこへ蝶ヶ森依澄がやって来た。小毬から事情を聞くと、依澄は中央広場の方を振り返る。
「私も箱に入れた。誰にも見せない方」
玄兎は中身を尋ねかけ、今度は踏みとどまった。
依澄は少しだけ迷ってから、玄兎との距離を半歩詰めた。
「玄兎が他の人と話してると、こうしたくなる」
喉元に赤い光はない。
玄兎が見ると、依澄は今度は逃げずに視線を返した。
「でも、これが何なのかはまだ決めない」
小毬が何か言いかける。依澄はその前に、胸元へそっと手を当てた。
「今、ちょっと熱い」
それだけ言うと、半歩の距離をそのままにした。
透羽は四人を見回した。
何か言いかけた、その時だった。
広場の方から、ひどく乾いた声が響いた。
「お前が試験に落ちればいいって、思ったことある」
続いて、別の声。
「付き合ってなければ楽なのにって思ったこともある」
ざわめきが一気に大きくなる。
五人が広場へ向かうと、最初の学生が友人へ必死に手を伸ばしていた。
「違う、いや、違わないけど、それだけじゃなくて――」
喉元が赤く光る。
今度は続きが出ない。
言わせたいところだけを吐かせて、あとは塞いでいる。
友人の方は一歩下がったまま、伸ばされた手を取れずにいた。
古い木箱が大きく軋んだ。
朝まで蓋の内側に収まっていた白い短冊が、投入口から何十枚も這い出している。紙の先端には、細い切れ目のような黒い口が開いていた。
『ほんとう』
『これも、ほんとう』
短冊が一枚、五人の方へ向く。
小毬の喉が赤く光った。
「透羽先輩がいなければって、思ったことあります」
小毬自身が息を呑む。
透羽の目が一瞬だけ小毬へ向いた。
「違――」
小毬の声が止まる。続きだけが喉につかえて出てこない。
次の短冊が玄兎へ向いた。
「小毬が妹みたいなままなら、楽だった」
今度は小毬が固まった。
玄兎はすぐ口を開いたが、喉が焼けるだけで続きが出ない。
『ほんとう』
紙の口が笑うように広がる。
千燈の首筋が赤く染まった。
「もう玄兎くんの血を見たくないって、思った」
いつもの笑みが消えた。
玄兎の手が、無意識に自分の胸元へ戻る。
依澄が一歩動いた。
その喉にも赤い光。
「玄兎が透羽を見てると、邪魔って思ったことある」
透羽と依澄の視線がぶつかる。
依澄は逃げなかったが、玄兎へ伸ばしかけていた手を下ろした。
最後に、白い短冊が透羽の前で止まった。
「監視がなければ、最初からここまで近くにはいなかった」
玄兎の胸の奥がわずかに冷え、その直後、自分の喉が熱くなる。
「監視が終われば、楽になるって思ったことはある」
透羽のまばたきが止まった。
どの言葉にも、思い当たる瞬間があった。
風が吹き、何十枚もの短冊が一斉に持ち上がる。
透羽が右手を振った。
「右へ!」
玄兎の足は一拍遅れ、さっき聞いた言葉が、ほんの一瞬だけ動きを鈍らせる。
白い紙が首元へ巻きつく寸前、水の刃がそれを弾いた。
透羽が玄兎を見た。
責める目ではない。
もう一度、右を指す。
玄兎は今度は迷わずそちらへ踏み込んだ。
別の短冊が透羽の背後から迫る。
小毬が動きかけ、ほんの一瞬止まった。
『いなければ』
さっき自分の口から出た言葉が、まだ耳に残っていた。
その一拍で紙が透羽の肩へ届きかける。
黒い羽根が横から短冊を叩き落とした。
千燈の烏だった。
小毬は唇を噛み、そのまま透羽の前へ飛び込んで、次の短冊を素手で払った。
「こっちは任せてください!」
透羽は頷き、余計なことは言わなかった。
依澄の目の前へも紙が群がる。
彼女は玄兎ではなく、短冊に囲まれた小毬の手首を掴んで引いた。
薄紫の蝶が二人の間をすり抜け、黒い口だけを散らす。
小毬が依澄を見る。
依澄は何も説明せず、そのまま次の紙へ向き直った。
五人の呼吸が、少しずつ戻っていく。
その間にも広場のあちこちで赤い光が増えていた。
「先生の授業、なくなればいいと思ってました!」
「親友だからって毎回相談されるの、しんどい!」
「合格したって聞いた時、悔しかった!」
言われた側の顔が強張る。
言った側は説明しようとしても、その先だけが出ない。
木箱が、嬉しそうに軋んだ。
◇
透羽は広場の中央へ出ると、両手を広げた。
「《禊牢》」
水の輪が木箱を囲み、外へ這い出す短冊を押し戻す。
「この展示物から離れてください。質問もしないでください!」
小毬と千燈が学生の誘導へ回る。
玄兎も近くの学生を広場の外へ押し出した。
その途中、さっき言い争っていた二人の横を通る。
片方はまだ目を合わせていなかった。
もう片方が落とした鞄を、それでも無言で拾って手渡す。
受け取るまで、少し時間がかかった。
それでも鞄は相手の手へ渡った。
玄兎はそれだけ見て広場へ戻り、最後の学生が離れたところで、箱の蓋が内側から持ち上がった。
底のない暗闇から声が重なった。
『ほんとう』
『言えば、わかる』
『隠すから、まちがう』
透羽の《禊牢》へ短冊が何度もぶつかる。
水面が大きく波打った。
「壊せない?」
玄兎が尋ねる。
透羽は首を横に振る。
「中に、本人が預けた言葉が残っています」
依澄が箱を見つめた。
「この子、出した方がいいって思ってる」
玄兎は古びた箱を見て、朝、側面にあった札のことを思い出した。
「元が何の箱だったか調べる」
透羽は結界から手を離さないまま頷き、玄兎はスマートフォンを取り出した。
『戻る。』
画面を透羽へ見せる。
透羽は一度だけそれを見て、すぐ箱へ視線を戻した。
玄兎は千燈と依澄を連れ、学生相談室へ走った。
◇
展示責任者の榊原菜月は、学生相談室で玄兎たちを待っていた。
心理学研究会の四年生で、今回の企画を立ち上げた一人だという。
玄兎が箱の出所を尋ねると、榊原はすぐ貸出票と搬入時の写真を机へ並べた。
「旧商店街の古道具屋さんから借りました。今の大学の前身にあった学校から払い下げられた箱だと聞いています」
写真には、台車に載せられた箱と、側面に紐で結ばれた古い和紙が写っていた。
千燈が画面を拡大する。
「『言留箱』……かな」
「その札、今は?」
榊原は青ざめた顔で棚へ向かった。
「展示の説明札と重なって読みにくかったので、外したんです。捨ててはいません。返す時に戻すつもりで……」
透明な保管ファイルから、古びた和紙が出てきた。
玄兎たちは机の上で慎重に開く。
『言留箱』
『口にすべからざる言葉を預け、心を静めるためのもの』
その下に、さらに小さな文字があった。
『預けた言葉は、持ち主が望むまで開かぬこと』
玄兎は最後の一文を見た。
千燈が、展示企画の説明が写ったスマートフォンを横へ置く。
『本当は言いたかったのに、言えなかったことを書いてください。』
古い札とは、向きが逆だった。
榊原が唇を噛んだ。
「私、言えないことを書けば楽になる人もいると思って……」
玄兎は札をファイルへ戻した。
「借ります」
榊原はすぐ頷いた。
部屋を出る時、千燈と目が合った。
さっきの言葉について、玄兎は何も聞かなかった。
千燈も何も言わず、ただ、先に廊下へ出た玄兎の背中へ二羽の烏が追いついた。
依澄は玄兎の隣まで来ると袖を摘みかけたが、一瞬迷い、今度は何も掴まずそのまま同じ速さで走った。
◇
中央広場へ戻ると、雲が切れ、箱の蓋へ白い光が当たっていた。
《禊牢》の中央で、透羽が片膝をついている。額に汗が滲み、水の輪には細かな亀裂のような波紋が走っていた。
玄兎が古い札を掲げる。
透羽はそれを見た瞬間、片手を伸ばした。
玄兎は迷わず札を渡し、ほんの一瞬、二人の指が触れた。
朝にこぼれた言葉も、さっき切り取られた言葉も、どちらもそこには挟まらなかった。
透羽は札へ目を通し、立ち上がる。
「開けます」
それだけ言った。
小毬が水の輪の左へ回る。千燈の烏が上空へ散り、依澄の蝶が箱の周囲を低く飛ぶ。
誰も、さっきの言葉の続きを求めなかった。
《禊牢》に、人ひとりが通れる隙間が開く。
白い短冊が一斉に飛び出した。
小毬が黒い口だけを叩き落とす。千燈の烏が外へ抜ける紙を押し返し、依澄の蝶が玄兎へ向かう短冊の進路をずらした。
玄兎は水の輪の内側へ一歩入り、箱の側面へ古い札を押し当てる。
『預けた言葉は、持ち主が望むまで開かぬこと』
箱が激しく震えた。
『でも、ほんとう』
玄兎は否定せず、札を押さえたまま、もう片方の手でずれかけた箱の蓋を支える。
短冊が四方へ伸びる。
一本が小毬へ向いた。
『妹のままなら、楽だった』
小毬の耳が伏せた次の瞬間、玄兎の足元へ短冊が巻きついた。
小毬は反射的に飛び込み、それを引きちぎらず、黒い口だけを拳で潰した。
「足、動かせますか!」
玄兎が頷く。
それだけで小毬は次へ向かった。
別の紙が千燈へ向く。
『もう、血を見たくない』
千燈は一瞬だけ目を細め、そのまま右手を上げる。
烏の群れが玄兎の背後へ回り、死角から来た短冊をまとめて弾いた。
依澄の前には、赤い文字が浮かぶ。
『邪魔』
透羽へ向かっていた短冊が一斉に開く。
依澄はそちらへ走り、薄紫の蝶が透羽の前へ膜のように広がって紙の勢いを落とす。
透羽は依澄を見た。
依澄は見返しただけで何も言わず、箱が甲高く軋んだ。
最後に、短冊が透羽へ向いた。
『監視がなければ、ここまで近くにはいなかった』
同時に、玄兎の喉が焼ける。
『監視が終われば、楽になる』
二人の間を白い紙が何枚も走った。
透羽が水の道を一本だけ開き、玄兎へ向けて手を伸ばす。
玄兎はその手ではなく、彼女が作った水の道を見て一歩踏み出し、次の一歩もその中へ置く。
短冊が足元で絡み合った。
透羽は玄兎を引っ張らず、ただ道を消さずに残している。
玄兎は自分で最後の一歩を踏み込み、箱の正面へ戻った。
その時だった。
一本の短冊が透羽の喉元へ伸びる。
赤い光が浮いた。
『お前も、隠している』
透羽の肩が強張る。
玄兎は札を箱へ押し当てたまま、身体だけをずらして短冊との間へ入った。
「今じゃなくていい」
『知りたい』
今度は玄兎の喉が勝手に熱を持つ。
「知りたい」
それだけが出た。玄兎は透羽を見ず、箱から目を離さないままずれた札を押し戻す。
透羽の喉元にあった赤い光が、ゆっくり薄くなった。
短冊の動きが鈍り、
『ほんとう』
『ほんとうなのに』
紙の口が、次々に五人へ向く。
誰も答えなかった。
小毬は玄兎の足元を守る。
千燈は上を見る。
依澄は透羽の横へ立つ。
透羽は水の輪を閉じず、玄兎が立つ場所だけを空けている。
玄兎は古い札を箱の側面へ結び直した。
紙の口が一つ、また一つと閉じ、最後まで開いていた短冊が力を失って石畳へ落ちた。
透羽が両手を合わせる。
「《白鷺浄界》」
白い水が箱を包む。
短冊そのものは濡れない。
黒い口だけが、薄い墨のように水へ溶けていく。
光が収まったあとには古びた箱だけが残り、側面では元の札が揺れている。
『預けた言葉は、持ち主が望むまで開かぬこと』
箱の奥から、かすかな声がした。
『……待つ』
玄兎は蓋から手を離した。
返事の代わりに、投入口から半分飛び出していた白い短冊を中へ戻した。
◇
『言えなかったこと展』は、その日のうちに中止された。
小毬と千燈は、騒ぎが収まるまで広場と講義棟の間を何度も往復した。大きな怪我がなかったと分かった頃には、空はすっかり暗くなっていた。
言留箱は鷺宮家を通して一時保管され、榊原たちは企画の説明と箱の扱いを見直すことになった。
夜八時前、五人は駅前のファミリーレストランへ入った。
席へ着くなり、千燈が人差し指を立てる。
「今日は恋愛関係の質問、全面禁止ね」
小毬がすぐ手を上げた。
「じゃあ恋愛関係じゃなければ――」
玄兎がメニューを小毬の前へ滑らせる。
「追加で何食べたい?」
「焼肉です!」
「ここファミレスだぞ」
「じゃあハンバーグ増量です!」
小毬は即座に注文端末へ手を伸ばした。
少しして、玄兎が水を取ろうとすると、小毬も同時にピッチャーへ手を伸ばした。
二人の手が一瞬重なる。
小毬は朝の言葉を思い出したように耳を伏せたが、そのまま玄兎のグラスへ水を注いだ。
「はい」
「ありがと」
それ以上、会話は続かなかった。
向かいでは、千燈がコーヒーへ砂糖を入れている。
玄兎と目が合うと千燈はカップを少し持ち上げ、玄兎も自分のグラスを上げたが、質問はしなかった。
依澄は焼き鮭定食を食べながら、途中で透羽のプリンをじっと見た。
「一口ほしい」
透羽は無言で皿を少しだけ依澄側へ寄せる。
依澄は一口だけ取って、きちんと元へ戻した。
玄兎はそれを見て笑いそうになったが、何も言わず、最後に透羽を見た。
彼女はプリンへスプーンを入れたところだった。
玄兎の視線に気づくと、その手が一瞬だけ止まった。玄兎も口を開きかけたが、結局テーブル中央のナプキンを一枚取り、透羽のスプーンがまた動き出す。
五人の間には朝とは違う沈黙があったが、誰も席を替えなかった。
小毬が追加のハンバーグを半分食べたところで、千燈が吹き出した。
「それ、焼肉の代わりになってる?」
「肉なので近いです!」
依澄が小さく笑う。
透羽まで口元を隠した。
玄兎もつられて笑った。
五人分の笑い声が、しばらく同じテーブルに残った。
◇
同じ夜。
透羽は鷺宮家の自室で、ノートパソコンの画面を見つめていた。
数日前に申請した資料の閲覧許可が、今日付で下りている。
『二十年前 朽木ヶ丘封印事故記録』
『関連対象:鵺代家』
昼間、言留箱に迫られた時、喉まで出かかっていたのはこの話だった。
透羽は一度だけ閉じたままのメッセージ画面へ目をやった。ファミリーレストランで玄兎は何も聞かなかったことを思い返しながら、ファイルを開く。
古い紙資料を読み取った不鮮明な画像が表示された。
『事故発生日――二十年前』
『封印崩壊に伴い、緊急器の選定を実施』
その下は大部分が黒塗りになっている。
読めるのは、途切れた一行だけ。
『生後――日』
透羽の指が止まる。
次の頁。
『器の維持を最優先とする』
さらに下。
『死亡時は再構築を――』
透羽は息を止め、目の前で何度も見た玄兎の《還月》を連想せずにはいられなかった。
だが、『器』が誰なのかも、『再構築』が何を意味するのかも、まだ断定できない。
事故は二十年前で、関連対象は鵺代家。そこに生後日数を示す記述まで重なれば、偶然として片づけるには気になるものが多すぎる。
机の横でスマートフォンが震えた。
玄兎からだった。
『帰った。今日は疲れた。明日一限遅れたら起こして。』
透羽は画面を数秒見つめてから返信する。
『自分で起きてください。ただし、起きていなければ連絡します。』
すぐに返事が来る。
『結局起こしてくれるんだ。』
透羽の口元がほんの少しだけ緩み、それから再び黒い文字へ視線を戻す。
『死亡時は再構築』
透羽は返信欄を開きかけ、指を止めた。
画面を伏せ、代わりに資料の次の頁を開く。
――第七話・了