第一章・全36話中 6話

第六話 離れたら痛いので今日だけ隣にいてください

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鵺代玄兎が、鷺宮透羽との距離を意識することは、これまでほとんどなかった。最近は講義で隣に座ることが増えたが、透羽に言わせれば『監視効率のため』だ。

 今朝も南門で落とし物のお守りを拾い、合流した透羽に見せただけだった。白い布へ赤い糸が縫われている。二人で触れたあと、届けるまで玄兎の鞄へ戻した。

 六月の陽射しが中庭の石畳を白く照らす中、前を歩いていた透羽との間が四メートルほど開いた瞬間、胸の奥を焼けた針で貫かれたような痛みが走った時――玄兎は初めて、彼女との距離を嫌でも意識することになった。

 「――っ……!」

 息を吸うことさえできないほどの激痛だった。心臓そのものを強く握り潰されたような感覚に膝から力が抜け、玄兎は胸を押さえたまま石畳へ片膝をついた。

 「玄兎!」

 四メートルほど先にいた透羽も一瞬足を止め、胸元へ手をやった。それでも、玄兎が崩れるのを見るなり、痛みを押して駆け戻ってくる。その声に返事をする余裕さえなかった。

 ところが、透羽が玄兎のすぐそばまで戻ってきた途端、胸を締めつけていた痛みが嘘のように消えた。

 玄兎は何度か浅く息を吸い、ようやく顔を上げる。

「……今の、何だったんだ」

「玄兎、痣が痛むのですか? 身体を見せてください」

 透羽は玄兎の前へしゃがみ、いつもの冷静さを保とうとしながらも、明らかに焦った目で胸元を見ていた。自分も胸を押さえていたことなど、玄兎には気づかせないまま、まず彼の状態を確かめようとしている。

 「痣は服の下だから分からないけど……ここでシャツをめくるのはさすがに嫌だぞ。朝の中庭、人が多すぎる」

 言われて、透羽も周囲を見た。講義棟へ急ぐ学生やベンチで朝食を取る学生が、すでに何人もこちらへ視線を向けている。

 「……では、まず人目の少ない場所へ移動します。歩けますか?」

 「歩ける。もう痛くない。大丈夫だ」

 玄兎は立ち上がり、シャツの裾を整えた。

 「では、行きましょう。痣も確認します」

 「分かった」

 二人は並んで中庭の端へ向かった。

 その途中、講義棟へ機材を運んでいた学生が、大きな台車を押して横切ってきた。玄兎はベンチ側へ、透羽は植え込み側へとそれぞれ避ける。

 間が三メートルほどに開いたところで、胸の奥にじり、と嫌な熱が灯った。

 「……っ」

 ほぼ同時に、透羽も足を止める。胸元へ伸びた手を見て、玄兎はすぐに彼女の側へ戻った。距離が縮まるにつれて、熱も薄れていく。

 「今、透羽も?」

 「はい。先ほどほどではありませんが、胸の奥が痛みました」

 玄兎は眉を寄せた。

 「先ほどって……最初の時も痛かったのか?」

 透羽は一瞬だけ間を置いてから、頷いた。

「少しだけ。でも、玄兎の方が明らかにひどかったので」

 あまりにも当たり前のことのように言うので、玄兎は少し返事に困った。

 「……ありがとな」

 透羽は目を瞬かせた。すぐにいつもの表情へ戻ったものの、返事までにほんの少しだけ間があった。

 「……それは、あとでいいです。今は原因を確認しましょう」

 玄兎は、さっき自分が倒れた時の位置を振り返った。あの時も、透羽との間は今と同じくらい開いていた。

 「……離れた時に出てるな」

 「その可能性はありそうです」

 「少しだけ確認しよう。今度は急に離れない。どっちかに違和感が出たら、すぐ戻る」

 透羽は一瞬迷ったあと、頷いた。

 「一度だけです。無理はしないでください」

 人通りの少ない木陰で向かい合い、二人は互いに一歩ずつ距離を取った。二メートルほどでは何も起こらない。さらに離れ、三メートルに近づく。

 胸の奥に、また熱が灯った。

 「……ここから来る」

 「私もです」

 もう半歩だけ離れた瞬間、熱が鋭い痛みに変わった。

 「っ……!」

 「……っ」

 二人は同時に距離を戻した。三メートルを下回ると、痛みはすぐに引いていく。

 玄兎は胸をさすり、息を整えた。

 「……もう十分だな。三メートル前後。そこを越えると、二人とも痛む」

 「はい。これ以上試す必要はありません」

 「朝から面倒なの引いたな……」

 「それには同意します」

 二人は顔を見合わせ、ほぼ同時にため息をついた。

 「おはようございまーす! 玄兎先輩、透羽先輩!」

 そんな空気を吹き飛ばすような元気な声が中庭へ響いた。

 運動部の学生の間を縫うように、白狼院小毬が駆けてくる。二人の前で止まった彼女は、挨拶より先に鼻先を小さく動かし、それから玄兎と透羽の距離を見比べた。

 「おはようございます。……あれ? 二人とも、今日はずいぶん近くを歩いてますね。いつもより匂いが重なってます」

 「事情があるんだ。今朝から、俺と透羽が三メートルくらい離れると胸に激痛が走る」

 小毬の琥珀色の瞳が、わずかに輝いた。

「小毬、ちょっと面白がってるだろ」

「心配してます! ただ、珍しい怪異だなって……」

 小毬は返事の代わりにスマートフォンを取り出した。

 「千燈先輩と依澄先輩にも知らせます。群れの緊急事態ですから!」

 「連絡はしてもいいですけど、大騒ぎにはしないでください。大学で妙な噂が立つと調べにくくなります」

 透羽が釘を刺す横で、小毬はもう文章を打ち終えていた。

 画面には、

 『玄兎先輩と透羽先輩、三メートル以上離れられなくなりました!!!』

 とある。

 透羽はしばらく無言でその画面を見つめた。

 「白狼院さん。緊急性と感嘆符の数は比例しません。一つで十分です」

 「でも三メートルですよ!」

 「距離の単位と感嘆符の数も無関係です」

 玄兎は額を押さえた。

 怪異の正体を調べるより先に、今日一日の噂対策が必要になるかもしれなかった。
◇
 一限の前。第一講義棟の空き教室には、五人が揃っていた。

 千燈は窓際の机へ腰を預け、缶コーヒーを片手に玄兎と透羽を交互に眺めている。笑みを隠そうともしていない。

 透羽は小さなペットボトルから指先へ水を一滴落とした。水滴は床へ落ちず、ふわりと宙へ浮かぶ。

 「まず、二人の間に何か術式がかかっていないか確かめます。動かないでください」

 水滴が玄兎と透羽の間へ滑るように移動した瞬間、何もなかった空間に細い光が浮かび上がった。

 ほんの一瞬だったが、確かに見えた。淡い赤色の糸。その周りには、白い光が絡みつくように揺れている。

 「赤い糸です! これ、恋人同士を結ぶっていう、あの赤い糸じゃないですか?」

 小毬が嬉しそうに身を乗り出す。

「赤は執着や血、警告の色でもあります。恋愛と決めつけないでください」

 透羽の返答がいつもより少し速い。

 玄兎は窓際に立つ依澄へ声をかけた。

 「依澄には何か分かる? 夢の怪異とは違いそうだけど」

 依澄は赤い光が消えた場所をじっと見つめていた。すぐには答えず、見えないものへ触れるように指先を空中へ伸ばす。

 「夢ではない。でも、何かの願いに近い。誰かが『離れたくない』って強く思ったものが、まだ残ってる感じがする」

 「その『誰か』が、俺たちって可能性は?」

 「そこまでは分からない。二人の気持ちなのか、お守りみたいな別のものなのかも、今は区別できない」

 「本人たちの願いだったら面白いのにね」

 千燈が軽く言うと、透羽は視線だけを向けた。

 「千燈。推測で遊ぶのは後にしてください。講義中も三メートル以内にいないといけないんです」

 玄兎も腕時計を見る。

 「一限は俺と透羽が同じ講義だからいいとして、二限が別なんだよな。俺は一号館、透羽は三号館だろ?」

 「はい。私は民俗宗教論があります。欠席するつもりはありません」

 「俺も現代社会学は出席点があるから、できれば出たい。どっちか休むのが一番簡単なのは分かってるけど」

 「それなら、壁を挟んでも距離判定が直線なのか試してみたら?」

 千燈の提案で、玄兎は廊下に残り、透羽だけが空き教室へ入った。

 壁を一枚挟んでも、二人の直線距離が二メートル程度なら痛みは出ない。玄兎が廊下をゆっくり進み、三メートル付近へ達すると胸の奥が熱を持ち始めた。

 すぐに元の位置へ戻る。

 「壁は関係ないみたいだ。単純な直線距離で三メートル前後」

 透羽も教室から出て頷いた。

 「それなら、一人が講義を受けている間、もう一人は教室の外で待てます。できることは限られますが、欠席するよりはましです」

 依澄が不思議そうに小首を傾げる。

 「恋人は、ずっと近くにいるもの?」

 「場合による。仕事や講義まで全部一緒ってわけじゃないし、恋愛に固定ルールはない」

 千燈が笑いながら缶を揺らした。

 「でも玄兎くん、三メートルって思ってるより近いよ。今日一日その状態なら、たぶん午後には嫌でも実感する」

 その予言めいた言葉を、玄兎はその時まだ軽く聞き流していた。
◇
 一限目。玄兎と透羽は、いつも通り講義室の中央寄りに並んで座った。

 普段と同じ席なのに、「離れれば痛む」と分かっているだけで妙に互いの位置が気になる。玄兎が椅子を少し引けば透羽の視線が動き、透羽が資料へ手を伸ばせば玄兎も距離を測ってしまう。

 「玄兎。さっきから同じところでペンが止まっています」

 「透羽だって、俺が動くたび見てるだろ」

 「安全確認です」

 言い切った直後、教壇のスクリーンが切り替わった。見出しは『親密さと境界』。

 あまりのタイミングに玄兎は隣を見る。透羽も同時に顔を上げ、ほんの一瞬だけ目が合った。

 「今日に限って、題材の相性が良すぎないか」

 「講義へ集中してください」

 そう言いながら、透羽は机の端に寄っていた自分の筆箱を少しだけ中央へ戻した。玄兎が肘を動かす余地ができる。

 玄兎も何も言わず、二人の間に置いていた教科書を自分の側へ引いた。

 山本教授の声が続く中、二人はそのままノートへ視線を戻した。
◇
 二限目は、予定どおり透羽が民俗宗教論を受け、玄兎は教室後方の壁を隔てた廊下でレポートを進めることになった。

 教室の中に透羽がいることは分かっている。直線距離も二メートルほどしかなく、胸に痛みはない。

 それでも玄兎は、廊下の床へノートパソコンを置いた自分の姿を見下ろして苦笑した。

 「これ、事情を知らない人から見たら完全に不審者だな……」

 案の定、通りかかった知り合いの学生に「授業待ち? 彼女でもいるの?」と尋ねられた。

 玄兎が曖昧に笑ってごまかしていると、壁の向こうから聞こえてくる教授の声に混じって、椅子が動く音がした。

 姿が見えないだけなのに、透羽がどこへ動いたのか少し気になる。

 ――怪異のせいだ。

 そう決めつけるように、玄兎はレポートへ視線を戻した。

 数分後、スマートフォンが震えた。

 『まだ痛みますか。私は大丈夫です。』

 透羽からだった。

 玄兎は思わず口元を緩める。

 『こっちも平気。廊下でレポートやってる。透羽は講義を聞け。』

 すぐに返事が来る。

 『聞いています。廊下は冷房が効いていませんが、暑くありませんか。』

 『大丈夫。というか講義中にそんなにスマホ触るな。』

 少し間を置いて、

 『あなたもレポートへ集中してください。』

 と返ってきた。

 「見えてないのに、相変わらず監視が細かいな」

 玄兎は小さく笑い、今度こそ作業へ戻った。

 ところが十分ほど経った頃、教室内でグループワークが始まったらしく、学生たちが一斉に席を移動し始めた。

 壁越しの透羽も後方へ動いたのだろう。

 胸の奥に、例の熱が灯った。

 「……まずい」

 次の瞬間には鋭い痛みへ変わる。

 玄兎はパソコンを置いたまま立ち上がり、教室の入口へ急いだ。同時に、教室の中でも透羽が胸元を押さえていた。

 二人の距離が縮むと、痛みはすぐに引いた。

 担当教授が心配そうに透羽へ声をかける。

 「鷺宮さん、顔色が悪いけど大丈夫? 体調が悪いなら無理しなくていいよ」

 「ありがとうございます。少し胸が痛んだだけで、もう治まりました。席を元へ戻せば問題ありません」

 透羽はそれ以上説明できないまま、玄兎に近い前方の席へ戻った。

 廊下の玄兎が「大丈夫か」と声をかける代わりに片手を上げると、透羽も一瞬だけこちらを見て、小さく頷いた。

 玄兎は置きっぱなしだったノートパソコンを拾い、さっきより教室の入口に近い壁へ背中を預けた。

 そこなら、透羽が席を立ってもすぐ見える。

 画面を開き直すまで、二人ともそのことには触れなかった。
◇
 三限までの空き時間。五人は学食の隅に集まった。

 玄兎と透羽が隣へ座ると、小毬が露骨に残念そうな顔をする。

 「私も玄兎先輩の隣がいいんですけど、今日は怪異に席まで決められてます」

 「今日は我慢してくれ」

 「強敵です」

 千燈は楽しそうに二人を眺めた。

 「朝からずっと隣同士だと、新婚夫婦みたいに見えてくるね」

 「見えません。怪異の制約です」

 透羽の返答が早すぎて、小毬が笑う。

 食事が一段落すると、小毬がふと思いついたように言った。

 「近くにいるほど楽になるなら、触れた時はどうなるんでしょう?」

 透羽はすぐ否定せず、水滴を一つ浮かべた。

 「確認する価値はあります」

 玄兎が差し出した手へ、透羽がそっと指を重ねる。

 怪異との戦いでは何度も触れている。それなのに『手をつなぐ』と意識した途端、彼女のひんやりした指先ばかりが鮮明になった。

 水滴の光に照らされ、二人の手首を結ぶ赤い糸が現れる。そのすぐ横には、朝には正体を掴めなかった細い白の光もあった。

 赤い糸はわずかに緩んだ。

 依澄が二人の手元を見つめる。

 「もっと近くなったら、もっと緩むかもしれない」

 小毬の耳がぴんと立った。

 「じゃあ、ハグです!」

 「必要ありません」

 「透羽ちゃん。反応量を見るだけなら、理屈はあるよ」

 千燈に言われ、透羽は数秒黙った。玄兎も朝の痛みを思い出し、一度だけ試すことにする。

 人目の少ない学食の端で向き合うと、怪異へ向かう時には迷わない透羽が、ほんの数十センチを詰めることには明らかにためらった。

 「……短時間です」

 「分かった」

 玄兎は慎重に腕を回した。透羽も両腕を玄兎の脇へ回し、短い抱擁になる。

 身体が触れた瞬間、透羽がわずかに強張る。近すぎて、玄兎もどこを見ればいいのか分からない。

 「透羽、大丈夫?」

 「喋ると余計に意識するので、今は黙ってください」

 「はい」

 その時、赤い糸が目に見えてたわんだ。

 千燈の合図で二人は離れる。三メートルを越えても痛みは来ず、五メートルを少し越えたところでようやく胸の奥が熱を持ったため、すぐ元へ戻った。

 「接触が強いほど、短時間だけ拘束が緩むみたいだね」

 「では緊急時の手段として記録します。常用はしません」

 透羽が先回りすると、依澄はメモへ『抱きしめると、少しだけ遠くまで離れられる。……そのくせ、前より近くなった気がする』と書いた。

 玄兎と透羽は、さっきまでより少しだけ離れた位置へ座り直した。

 痛みは来ない。

 小毬が残念そうに二人の間を見たが、透羽は知らないふりをして水を飲んだ。
◇
 午後一時四十分。五人は大学図書館へ移動し、怪異の由来を調べ始めた。

 透羽は学内資料の目録を検索し、玄兎は郷土史や古い新聞のコピーを確認する。本来なら手分けした方が圧倒的に早い作業だが、今日は三メートルという制限がある。

 玄兎が一つ向こうの棚へ回ろうとするだけで、透羽との距離が限界へ近づく。反対に透羽が検索端末へ移動すれば、玄兎もついていかなければならない。

 二人の視線が一瞬だけ合う。

 昼の「緊急時の手段」を、ほぼ同時に思い出したらしい。

 玄兎が冗談めかして口を開く。

 「一回ハグして数秒だけ距離を稼ぐ、っていう方法も一応――」

 「却下です。図書館の書架を移動するたびに実行するものではありません」

 少し離れた場所で資料を探していた千燈が、笑いをこらえながら本を数冊抱えて戻ってきた。

 「二人は無理に動かなくていいよ。必要な本があれば私たちが取ってくる。今日は役割分担しよう」

「助かる」

 結局、玄兎と透羽は同じ通路をゆっくり進み、片方が本を抜けばもう片方も足を止めるという、妙に息の合った調べ方になった。
 その時、千燈がスマートフォンを片手に戻ってきた。

 「大学の古い怪談掲示板に、それっぽいのが残ってたよ」

 画面には、『朽木ヶ丘大の中庭で“ふたり守り”を拾ったら、二人は別れられなくなる』という投稿と、白布へ赤い糸を縫いつけた小さなお守りの画像が表示されていた。

 玄兎は鞄を探り、朝のお守りを取り出した。

 「……これだ」

 透羽の表情が変わった。

 「玄兎。素手で触りましたか」

 「触った。透羽にも一度渡した」

 二人とも相手と合流しようと思っていた朝だった。その状態で同じお守りへ触れたことが、発動の引き金になったらしい。

 掲示板にはさらに、三日目には糸が首まで上がり、切れなければ二人とも消えるという噂と、大学南側にかつて《結留神社》があったことが記されていた。

 もともとの守りは、旅立つ人が無事に帰り、家族と再び会えるよう願うものだった。しかしいつしか、『別れない』『他の人を好きにならない』という願掛けへ意味が変わったという。

 依澄はお守りへ触れず、じっと見つめた。

 「『離れないで』より、『置いていかないで』が強い」

 小毬が眉を寄せる。

 「三メートル離れたくらいで、群れがなくなるわけじゃないのに」

 玄兎はお守りを布越しに持ち直した。

 「神社跡へ行こう。今日中に終わらせたい」

 透羽が頷く。

 「全員で行きます」

 言いながら、玄兎が先に通路を曲がろうとすると、透羽の指先が袖を軽くつまんだ。

 玄兎は足を止め、三人が追いつくのを待った。

 それを確認してから、透羽は手を離した。
 大学南門から歩いて十五分ほど。古い石垣がところどころ残る住宅街の一角に、小さな公園があった。

 滑り台と砂場、色あせたベンチ。子供たちが遊ぶ、ごく普通の公園に見える。

 ただ、その端にだけ、不自然な空白があった。

 草に半ば埋もれた礎石と、途中で切断された鳥居の根元。近づくほど、夏前の湿った空気とは違う、古い土の冷たさが漂ってくる。

 「地図だと、ここが神社の境内だった場所で間違いないみたい」

 千燈が古地図と現在地を見比べる。

 小毬が拾ったのは、古い木と土、それから雨に濡れた石の匂いだった。人の匂いも残っているが、今いる親子のものとは違う。かなり古いものが混じっているという。

 その横で、依澄は目を閉じたまましばらく黙っていた。

 「願いが多い。ここ、誰かを待つ夢みたいな感じがする。でも夢じゃない」

 透羽は周囲を見回した。

 公園にはまだ子供を遊ばせている親子が二組いる。

 「一般人を巻き込むわけにはいきません。暗くなって人が減るまで、周辺の聞き込みと資料確認を続けましょう」

 千燈、小毬、依澄の三人が近所へ聞き込みに向かい、公園には玄兎と透羽が残った。

 二人は鳥居跡が見えるベンチへ並んで座る。

 夕方までまだ時間がある。怪異のせいで三メートル以上離れられないことを除けば、妙にのどかな時間だった。

 「……こうして座ってるだけだと、調査してる感じがしないな」

 「資料は確認しています。何もせず待っているわけではありません」

 透羽はスマートフォンに表示した古地図を指で拡大する。

 玄兎も肩越しに画面を覗き込んだ。

 「この道、今は公園の中を横切ってるんだな。神社の参道だったのか」

 「おそらく。社殿はこの辺りにあったはずです」

 しばらく地図を見たあと、玄兎は公園の端に自動販売機があることに気づいた。

 「コーヒー買ってくる……って、一人じゃ行けないか。一緒に来る?」

 「行きます。飲料水も補充したいので」

 二人は立ち上がり、自然に歩幅を合わせて自動販売機へ向かった。

 玄兎が商品を眺めていると、透羽の視線が一段下の缶へ数秒止まった。

 「透羽。プリンシェイク、気になる?」

「見ていただけです」

 「じゃあ俺が買う。一口飲んでみる?」

 「玄兎が飲みたいなら、止めません」

 妙に遠回しな返事に、玄兎は笑いながら硬貨を入れた。

 一口飲む。想像以上に甘い。

「うわ、甘っ。透羽も飲む?」

 差し出すと、透羽はほんの少しだけ迷ってから缶を受け取った。

 一口。

 その瞬間、彼女の目元がごくわずかに緩んだ。

 飲み口から唇を離したところで、透羽の視線が缶の口へ落ち、その動きが止まった。玄兎もつられて同じ場所を見て、ようやく気づく。

 「……あ」

 「……何ですか」

 「いや。それ、俺がさっき飲んでたところだなって」

 透羽の指が缶を持ったまま固まる。

 「……今、気づきました」

 「嫌だったら悪い」

 「いえ。嫌では……」

 そこで一度言葉を切り、透羽はほんの少しだけ顔を逸らした。

 「……ありません」

 今度は玄兎の方が返事に困り、頬を掻いた。

 短い沈黙のあと、玄兎は缶を指した。

 「で、美味しい?」

 「……普通です」

 透羽は缶を返そうとし、玄兎が受け取ろうと手を伸ばした。

 指先が触れた。

 その瞬間、二人の間に光が走る。

 朝よりも、昼の実験よりも、くっきり見えた。

 赤い糸は二人の手首を結んだままぴんと張り、互いの側へ引くように震えている。そのすぐ隣で、細い白い糸だけが柔らかくたわんでいた。

 「白い方、昼よりはっきりしてるな」

 透羽は答えず、玄兎が缶を受け取るまで、その白い光を目で追っていた。

 指先が離れても、白い糸はすぐには消えなかった。

 二人は缶を持ってベンチへ戻った。怪異に縛られているはずなのに、歩幅を合わせることが少しだけ自然になっているのが、玄兎には妙に可笑しかった。
◇
 日が傾き、公園の親子連れが帰り始めた頃、聞き込みに出ていた三人が戻ってきた。

 戦後に恋愛成就の噂が広がり、その後、県外就職をめぐって揉めていた若い男女がここで心中している。

 千燈が古い記事を閉じた。

 「積み重なった願いに、この二人の件が刺さったんだろうね」

 依澄は玄兎と透羽の間へ視線を落とした。

 「赤はお守り。白い方は、二人から出てる」

 「でも、白は引っ張ってない」

 玄兎が言うと、透羽も同じ光を見た。

 答えを出すより早く、玄兎の鞄の中でお守りが焼けるような熱を発した。

 「っ……!」

 取り出すより早く、白布の隙間から赤い光が溢れ、地面へ染み込んでいく。

 鳥居跡から無数の赤い糸が噴き出した。

 地面を這い、木々へ絡み、公園の空間そのものを縫い合わせるように広がっていく。

 「公園の人たちを外へ!」

 透羽が清め水を放ち、《水鏡》の膜を展開する。

 公園の端には、帰り支度をしている親子がまだ一組だけ残っていた。

 小毬はすぐに脚を部分獣化し、地面を蹴った。

 「私が連れて出します! 皆さんはこっちを止めて!」

 彼女は親子へ駆け寄り、「地面から危ないものが出ています、外へ!」と強い口調で誘導した。怪異の姿が見えない親子には意味が分からなくても、小毬の勢いに押されて公園の外へ出る。

 千燈は烏の感覚を借り、上空から周囲を確認した。

 「公園内に一般人はいない。外にも近づいてくる人はいないよ!」

 「依澄、核がどこにあるか分かる?」

 玄兎が声を上げる。

 依澄の周囲へ薄紫色の蝶が舞い始めた。

 「現実の下に、昔の景色が重なってる。そこを開く」

 「《蝶境》」

 蝶が公園を横切るたび、現在の遊具やベンチの上へ、過去の神社が半透明に重なっていく。

 石段。社殿。まだ崩れていない鳥居。

 夕暮れの境内で、一組の男女が向かい合っていた。

 女は泣きながら男の袖を掴んでいる。

 『行かないで。県外なんて行ったら、もう帰ってこないでしょう』

 『帰ってくるって何度も言っただろ。仕事で行くんだ。お前を捨てるわけじゃない』

 『信じられない。新しい場所で、私より好きな人ができたらどうするの』

 『そんなことを今から決めつけるなよ』

 『だったら、ここにいて。ずっと私のそばにいてよ』

 男は苦しそうに顔を伏せた。

 『ずっと同じ場所にいるなんて無理だ。俺には俺の人生がある』

 その言葉に女の顔が崩れる。

 『じゃあ、私よりそっちが大事なんだ』

 二人の足元へ、赤い糸が一本、また一本と絡みついていく。

 それは過去の映像なのに、現在の玄兎と透羽の手首にも同じ痛みが走った。

 赤い糸が腕へ這い上がる。

 「透羽、近い!」

 怪異の力に引かれ、二人の身体が強制的に引き寄せられた。透羽の肩が玄兎の胸へぶつかる。

 「大丈夫です。それより糸が首へ上がる前に、核の願いを変えないと」

 水の刃《白羽》が赤い糸を切る。

 しかし切断面からすぐに新しい糸が生え、再び二人の腕へ巻きついた。

 「物理的に切るだけじゃ駄目か」

 「願いそのものが続いている限り再生します」

 過去の男女の会話はさらに険しくなる。

 『俺はちゃんと帰るって言ってるだろ。何度言えば分かるんだ』

 『そんな言い方じゃ信じられない!』

 『じゃあもう勝手にしろ』

 『ほら、やっぱり捨てるんじゃない!』

 男はそれ以上説明せず、女から顔を背けた。

 女の指が袖へ食い込み、赤い糸がさらに増える。

 玄兎は首元へ迫る糸を押さえながら、女へ声を張った。

 「欲しいのは、ここから出さないことか。それとも、帰ってくることか」

 女の幻が玄兎を見る。

 唇が何度か動いたあと、ようやく小さな声が落ちた。

 『……帰ってきてほしい』

 透羽は男へ向き直る。

 「なら、あなたも最後に背を向けないでください」

 男がわずかに顔を上げた。

 依澄の蝶が、過去の二人から玄兎と透羽へ向きを変えた。

 同時に赤い糸がさらに締まり、二人の手首から肩へ、首元へ近づく。

 怪異の声が重なる。

 『離れたくないなら、ここにいろ』
 『近くにいるなら、離れるな』
 『離れれば、忘れる』
 『離れれば、捨てられる』

 玄兎は息を整え、隣にいる透羽を見た。

 赤い糸に引かれ、二人の肩は触れたままだった。

 玄兎は透羽の手首へ回っていた糸を見てから、昼間の実験を思い出した。

「透羽。昼間の逆だ。一回、俺たちから離れる」

 透羽の目がわずかに見開かれた。

 赤い糸は、近くにいろと二人を締め上げている。

 それでも透羽は数秒だけ玄兎を見つめ、先に彼の袖から指を離した。

 玄兎も腕を下ろす。

 一歩。

 二歩。

 互いに後ろへ下がるたび、赤い糸がきしむように張った。

 『離れるな』

 三メートル。

 胸の奥へ、朝と同じ痛みが突き刺さる。

 透羽の膝がわずかに揺れた。玄兎も歯を食いしばる。

 それでも、どちらも相手へ駆け戻らなかった。

 張りつめた赤い糸が二人の手首へ食い込み、互いを引き戻すように激しく震えた。

 その隣で、細い白い光だけが静かに伸びていく。二人が離れたぶんだけ長くなるのに、こちらは引き戻そうとはしない。

 『離れれば、捨てられる』

 透羽は胸元を押さえながら、玄兎から目を逸らさなかった。

 「戻ってきてください」

 「戻る」

 それだけ答え、玄兎はもう一歩下がった。

 透羽も同じだけ距離を取る。

 五メートル。

 赤い糸がさらに強く張り、二人の手首を互いの方へ引いた。首元まで這い上がっていた一本が、ぎり、と締まる。

 小毬が前へ出かける。

 千燈がその肩を掴んだ。

 「まだ」

 白い光は切れなかった。

 玄兎はそこで足を止めた。

 そして今度は、自分から透羽へ向かって歩き出した。

 赤い糸に引かれたからではない。

 透羽も一歩、こちらへ進む。

 距離が縮まる。

 四メートル。三メートル。二メートル。

 二人の手が届くところまで戻り、玄兎が差し出した指先へ透羽の手が重なった。

 白い糸が強く光った。

 その瞬間、二人を締めつけていた赤い糸が一本、また一本とほどけ始める。

 《蝶境》の中でも、女が男の袖を掴んでいた手をゆっくり開いた。

 男は鳥居の方へ一歩進む。

 女の身体が追いかけるように揺れたが、踏み出さない。

 男は振り返った。

 『行ってくる』

 女はしばらく泣いていた。

 やがて、袖を握っていた手を自分の胸元へ戻す。

 『……いってらっしゃい』

 空を覆っていた赤い糸が、夕焼けへ溶けるように一本ずつ消えていく。

 最後まで玄兎と透羽の手首を結んでいた一本にも、白い光が静かに触れた。

 痛みはなかった。

 糸はほどけ、ただの淡い光になって消えた。
◇
 赤い糸が消えると、公園へ夕方の音が戻ってきた。

 玄兎は透羽へ目で合図し、もう一度ゆっくり距離を取った。

 三メートル。五メートル。十メートル近くまで離れても、胸は痛まない。

 透羽は追ってこなかった。

 玄兎もそこで立ち止まり、数秒だけ離れた場所から彼女を見る。

 それから踵を返し、元いた場所へ歩いて戻った。

 透羽は何も言わず、玄兎が隣へ来るぶんだけ少し横へずれた。

 小毬の尻尾が大きく揺れる。

 「あ、戻った」

 千燈が笑い、依澄も白い糸が消えた空間から二人へ視線を移した。

 誰も、それ以上は何も言わなかった。
◇
 駅前へ戻ると、小毬の「大事件のあとはちゃんと食べましょう」という一声で、五人はファミリーレストランへ入った。

 怪異の制約はもうない。それでも案内された席で、透羽は自然に玄兎の隣へ座った。

 メニューを開いた透羽の視線が、何度も甘味のページへ戻る。

 「プリン、食べれば?」

 「食事との量を調整しているだけです」

 「じゃあ俺も頼む」

 透羽は少し迷ってから、小さな声で言った。

 「……一つを分けても」

 言った本人が先に固まった。

 千燈の口元がゆっくり上がる。

 透羽はその視線に気づき、メニューで半分だけ顔を隠した。

 「……やはり二つ頼んでください」

 「撤回が速いな」

 玄兎が笑うと、透羽は不満そうにメニューへ視線を落とした。

 結局プリンは二つ運ばれてきた。透羽が一口食べた瞬間だけ目元を緩めたので、玄兎は何も言わず、自分の分へスプーンを入れた。

◇

 夜。五人は駅で別れ、玄兎と透羽は同じ電車へ乗った。

 車内は空いていた。向かいの席にも、ひとつ隣にも空席がある。

 それでも透羽は、いつものように玄兎の隣へ座った。

 玄兎は一度だけ足元の距離を見た。

 「今日はもう、三メートル測らなくていいな」

 「はい」

 それだけ答えて、透羽は窓の外へ視線を向けた。

 電車が大きく揺れ、二人の肩が触れる。

 痛みは来ない。

 揺れが収まっても、透羽は姿勢を直さなかった。玄兎も同じだった。

 次の駅でさらに席が空いても、二人の間の数センチはそのままだった。

――第六話・了

この話、どうでしたか?

👥 登場人物紹介ネタバレを抑えた基本プロフィール
鵺代玄兎

CHARACTER 01

鵺代玄兎

ぬえしろ げんと

現実的で、妙な状況でもまず話を整理しようとする常識人寄りの青年。突然の怪異や騒動には戸惑いながらも、困っている相手を放っておけない。深刻な場面でも自然にツッコミが出るタイプ。

  • 物語の主人公
  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 常識人寄りのツッコミ役
俺が何者でも、困ってる人を置いていく理由にはならない。
鷺宮透羽

CHARACTER 02

鷺宮透羽

さぎみや とわ

冷静で生真面目。怪異への警戒心が強く、必要なことははっきり言う。危険な場面では自分が前に出ようとする、責任感の強い少女。

  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 鷺宮家の退魔師
  • 礼儀正しいがやや堅い
私が間に合う時は、あなたを死なせません。
緋鴉千燈

CHARACTER 03

緋鴉千燈

ひがらす ちとせ

余裕のある笑みを浮かべ、人をからかうのが上手な先輩。自然に距離を詰めてくる、つかみどころのない雰囲気を持つ。

  • 玄兎たちの先輩
  • 赤褐色の瞳
  • 人をからかうのが得意
秘密って、暴くより自分から話してもらう方が面白いよ。
白狼院小毬

CHARACTER 04

白狼院小毬

はくろういん こまり

明るく人懐っこい一年生。気になったことはすぐ口にし、匂いを確かめることに夢中になると相手との距離感まで忘れがち。

  • 朽木ヶ丘大学の一年生
  • 非常に鋭い嗅覚
  • 人懐っこく表情豊か
匂いは嘘をつきません。だから、何度でも見つけます!
蝶ヶ森依澄

CHARACTER 05

蝶ヶ森依澄

ちょうがもり いすみ

静かで穏やか、言葉数は少なめ。初対面からどこか不思議な印象を残し、感情表現は控えめだが答え方は率直。

  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 淡い青紫の瞳
  • 物静かでマイペース
今日が初めてなら、明日また会えばいい。

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