鵺代玄兎が、鷺宮透羽との距離を意識することは、これまでほとんどなかった。最近は講義で隣に座ることが増えたが、透羽に言わせれば『監視効率のため』だ。
今朝も南門で落とし物のお守りを拾い、合流した透羽に見せただけだった。白い布へ赤い糸が縫われている。二人で触れたあと、届けるまで玄兎の鞄へ戻した。
六月の陽射しが中庭の石畳を白く照らす中、前を歩いていた透羽との間が四メートルほど開いた瞬間、胸の奥を焼けた針で貫かれたような痛みが走った時――玄兎は初めて、彼女との距離を嫌でも意識することになった。
「――っ……!」
息を吸うことさえできないほどの激痛だった。心臓そのものを強く握り潰されたような感覚に膝から力が抜け、玄兎は胸を押さえたまま石畳へ片膝をついた。
「玄兎!」
四メートルほど先にいた透羽も一瞬足を止め、胸元へ手をやった。それでも、玄兎が崩れるのを見るなり、痛みを押して駆け戻ってくる。その声に返事をする余裕さえなかった。
ところが、透羽が玄兎のすぐそばまで戻ってきた途端、胸を締めつけていた痛みが嘘のように消えた。
玄兎は何度か浅く息を吸い、ようやく顔を上げる。
「……今の、何だったんだ」
「玄兎、痣が痛むのですか? 身体を見せてください」
透羽は玄兎の前へしゃがみ、いつもの冷静さを保とうとしながらも、明らかに焦った目で胸元を見ていた。自分も胸を押さえていたことなど、玄兎には気づかせないまま、まず彼の状態を確かめようとしている。
「痣は服の下だから分からないけど……ここでシャツをめくるのはさすがに嫌だぞ。朝の中庭、人が多すぎる」
言われて、透羽も周囲を見た。講義棟へ急ぐ学生やベンチで朝食を取る学生が、すでに何人もこちらへ視線を向けている。
「……では、まず人目の少ない場所へ移動します。歩けますか?」
「歩ける。もう痛くない。大丈夫だ」
玄兎は立ち上がり、シャツの裾を整えた。
「では、行きましょう。痣も確認します」
「分かった」
二人は並んで中庭の端へ向かった。
その途中、講義棟へ機材を運んでいた学生が、大きな台車を押して横切ってきた。玄兎はベンチ側へ、透羽は植え込み側へとそれぞれ避ける。
間が三メートルほどに開いたところで、胸の奥にじり、と嫌な熱が灯った。
「……っ」
ほぼ同時に、透羽も足を止める。胸元へ伸びた手を見て、玄兎はすぐに彼女の側へ戻った。距離が縮まるにつれて、熱も薄れていく。
「今、透羽も?」
「はい。先ほどほどではありませんが、胸の奥が痛みました」
玄兎は眉を寄せた。
「先ほどって……最初の時も痛かったのか?」
透羽は一瞬だけ間を置いてから、頷いた。
「少しだけ。でも、玄兎の方が明らかにひどかったので」
あまりにも当たり前のことのように言うので、玄兎は少し返事に困った。
「……ありがとな」
透羽は目を瞬かせた。すぐにいつもの表情へ戻ったものの、返事までにほんの少しだけ間があった。
「……それは、あとでいいです。今は原因を確認しましょう」
玄兎は、さっき自分が倒れた時の位置を振り返った。あの時も、透羽との間は今と同じくらい開いていた。
「……離れた時に出てるな」
「その可能性はありそうです」
「少しだけ確認しよう。今度は急に離れない。どっちかに違和感が出たら、すぐ戻る」
透羽は一瞬迷ったあと、頷いた。
「一度だけです。無理はしないでください」
人通りの少ない木陰で向かい合い、二人は互いに一歩ずつ距離を取った。二メートルほどでは何も起こらない。さらに離れ、三メートルに近づく。
胸の奥に、また熱が灯った。
「……ここから来る」
「私もです」
もう半歩だけ離れた瞬間、熱が鋭い痛みに変わった。
「っ……!」
「……っ」
二人は同時に距離を戻した。三メートルを下回ると、痛みはすぐに引いていく。
玄兎は胸をさすり、息を整えた。
「……もう十分だな。三メートル前後。そこを越えると、二人とも痛む」
「はい。これ以上試す必要はありません」
「朝から面倒なの引いたな……」
「それには同意します」
二人は顔を見合わせ、ほぼ同時にため息をついた。
「おはようございまーす! 玄兎先輩、透羽先輩!」
そんな空気を吹き飛ばすような元気な声が中庭へ響いた。
運動部の学生の間を縫うように、白狼院小毬が駆けてくる。二人の前で止まった彼女は、挨拶より先に鼻先を小さく動かし、それから玄兎と透羽の距離を見比べた。
「おはようございます。……あれ? 二人とも、今日はずいぶん近くを歩いてますね。いつもより匂いが重なってます」
「事情があるんだ。今朝から、俺と透羽が三メートルくらい離れると胸に激痛が走る」
小毬の琥珀色の瞳が、わずかに輝いた。
「小毬、ちょっと面白がってるだろ」
「心配してます! ただ、珍しい怪異だなって……」
小毬は返事の代わりにスマートフォンを取り出した。
「千燈先輩と依澄先輩にも知らせます。群れの緊急事態ですから!」
「連絡はしてもいいですけど、大騒ぎにはしないでください。大学で妙な噂が立つと調べにくくなります」
透羽が釘を刺す横で、小毬はもう文章を打ち終えていた。
画面には、
『玄兎先輩と透羽先輩、三メートル以上離れられなくなりました!!!』
とある。
透羽はしばらく無言でその画面を見つめた。
「白狼院さん。緊急性と感嘆符の数は比例しません。一つで十分です」
「でも三メートルですよ!」
「距離の単位と感嘆符の数も無関係です」
玄兎は額を押さえた。
怪異の正体を調べるより先に、今日一日の噂対策が必要になるかもしれなかった。
◇
一限の前。第一講義棟の空き教室には、五人が揃っていた。
千燈は窓際の机へ腰を預け、缶コーヒーを片手に玄兎と透羽を交互に眺めている。笑みを隠そうともしていない。
透羽は小さなペットボトルから指先へ水を一滴落とした。水滴は床へ落ちず、ふわりと宙へ浮かぶ。
「まず、二人の間に何か術式がかかっていないか確かめます。動かないでください」
水滴が玄兎と透羽の間へ滑るように移動した瞬間、何もなかった空間に細い光が浮かび上がった。
ほんの一瞬だったが、確かに見えた。淡い赤色の糸。その周りには、白い光が絡みつくように揺れている。
「赤い糸です! これ、恋人同士を結ぶっていう、あの赤い糸じゃないですか?」
小毬が嬉しそうに身を乗り出す。
「赤は執着や血、警告の色でもあります。恋愛と決めつけないでください」
透羽の返答がいつもより少し速い。
玄兎は窓際に立つ依澄へ声をかけた。
「依澄には何か分かる? 夢の怪異とは違いそうだけど」
依澄は赤い光が消えた場所をじっと見つめていた。すぐには答えず、見えないものへ触れるように指先を空中へ伸ばす。
「夢ではない。でも、何かの願いに近い。誰かが『離れたくない』って強く思ったものが、まだ残ってる感じがする」
「その『誰か』が、俺たちって可能性は?」
「そこまでは分からない。二人の気持ちなのか、お守りみたいな別のものなのかも、今は区別できない」
「本人たちの願いだったら面白いのにね」
千燈が軽く言うと、透羽は視線だけを向けた。
「千燈。推測で遊ぶのは後にしてください。講義中も三メートル以内にいないといけないんです」
玄兎も腕時計を見る。
「一限は俺と透羽が同じ講義だからいいとして、二限が別なんだよな。俺は一号館、透羽は三号館だろ?」
「はい。私は民俗宗教論があります。欠席するつもりはありません」
「俺も現代社会学は出席点があるから、できれば出たい。どっちか休むのが一番簡単なのは分かってるけど」
「それなら、壁を挟んでも距離判定が直線なのか試してみたら?」
千燈の提案で、玄兎は廊下に残り、透羽だけが空き教室へ入った。
壁を一枚挟んでも、二人の直線距離が二メートル程度なら痛みは出ない。玄兎が廊下をゆっくり進み、三メートル付近へ達すると胸の奥が熱を持ち始めた。
すぐに元の位置へ戻る。
「壁は関係ないみたいだ。単純な直線距離で三メートル前後」
透羽も教室から出て頷いた。
「それなら、一人が講義を受けている間、もう一人は教室の外で待てます。できることは限られますが、欠席するよりはましです」
依澄が不思議そうに小首を傾げる。
「恋人は、ずっと近くにいるもの?」
「場合による。仕事や講義まで全部一緒ってわけじゃないし、恋愛に固定ルールはない」
千燈が笑いながら缶を揺らした。
「でも玄兎くん、三メートルって思ってるより近いよ。今日一日その状態なら、たぶん午後には嫌でも実感する」
その予言めいた言葉を、玄兎はその時まだ軽く聞き流していた。
◇
一限目。玄兎と透羽は、いつも通り講義室の中央寄りに並んで座った。
普段と同じ席なのに、「離れれば痛む」と分かっているだけで妙に互いの位置が気になる。玄兎が椅子を少し引けば透羽の視線が動き、透羽が資料へ手を伸ばせば玄兎も距離を測ってしまう。
「玄兎。さっきから同じところでペンが止まっています」
「透羽だって、俺が動くたび見てるだろ」
「安全確認です」
言い切った直後、教壇のスクリーンが切り替わった。見出しは『親密さと境界』。
あまりのタイミングに玄兎は隣を見る。透羽も同時に顔を上げ、ほんの一瞬だけ目が合った。
「今日に限って、題材の相性が良すぎないか」
「講義へ集中してください」
そう言いながら、透羽は机の端に寄っていた自分の筆箱を少しだけ中央へ戻した。玄兎が肘を動かす余地ができる。
玄兎も何も言わず、二人の間に置いていた教科書を自分の側へ引いた。
山本教授の声が続く中、二人はそのままノートへ視線を戻した。
◇
二限目は、予定どおり透羽が民俗宗教論を受け、玄兎は教室後方の壁を隔てた廊下でレポートを進めることになった。
教室の中に透羽がいることは分かっている。直線距離も二メートルほどしかなく、胸に痛みはない。
それでも玄兎は、廊下の床へノートパソコンを置いた自分の姿を見下ろして苦笑した。
「これ、事情を知らない人から見たら完全に不審者だな……」
案の定、通りかかった知り合いの学生に「授業待ち? 彼女でもいるの?」と尋ねられた。
玄兎が曖昧に笑ってごまかしていると、壁の向こうから聞こえてくる教授の声に混じって、椅子が動く音がした。
姿が見えないだけなのに、透羽がどこへ動いたのか少し気になる。
――怪異のせいだ。
そう決めつけるように、玄兎はレポートへ視線を戻した。
数分後、スマートフォンが震えた。
『まだ痛みますか。私は大丈夫です。』
透羽からだった。
玄兎は思わず口元を緩める。
『こっちも平気。廊下でレポートやってる。透羽は講義を聞け。』
すぐに返事が来る。
『聞いています。廊下は冷房が効いていませんが、暑くありませんか。』
『大丈夫。というか講義中にそんなにスマホ触るな。』
少し間を置いて、
『あなたもレポートへ集中してください。』
と返ってきた。
「見えてないのに、相変わらず監視が細かいな」
玄兎は小さく笑い、今度こそ作業へ戻った。
ところが十分ほど経った頃、教室内でグループワークが始まったらしく、学生たちが一斉に席を移動し始めた。
壁越しの透羽も後方へ動いたのだろう。
胸の奥に、例の熱が灯った。
「……まずい」
次の瞬間には鋭い痛みへ変わる。
玄兎はパソコンを置いたまま立ち上がり、教室の入口へ急いだ。同時に、教室の中でも透羽が胸元を押さえていた。
二人の距離が縮むと、痛みはすぐに引いた。
担当教授が心配そうに透羽へ声をかける。
「鷺宮さん、顔色が悪いけど大丈夫? 体調が悪いなら無理しなくていいよ」
「ありがとうございます。少し胸が痛んだだけで、もう治まりました。席を元へ戻せば問題ありません」
透羽はそれ以上説明できないまま、玄兎に近い前方の席へ戻った。
廊下の玄兎が「大丈夫か」と声をかける代わりに片手を上げると、透羽も一瞬だけこちらを見て、小さく頷いた。
玄兎は置きっぱなしだったノートパソコンを拾い、さっきより教室の入口に近い壁へ背中を預けた。
そこなら、透羽が席を立ってもすぐ見える。
画面を開き直すまで、二人ともそのことには触れなかった。
◇
三限までの空き時間。五人は学食の隅に集まった。
玄兎と透羽が隣へ座ると、小毬が露骨に残念そうな顔をする。
「私も玄兎先輩の隣がいいんですけど、今日は怪異に席まで決められてます」
「今日は我慢してくれ」
「強敵です」
千燈は楽しそうに二人を眺めた。
「朝からずっと隣同士だと、新婚夫婦みたいに見えてくるね」
「見えません。怪異の制約です」
透羽の返答が早すぎて、小毬が笑う。
食事が一段落すると、小毬がふと思いついたように言った。
「近くにいるほど楽になるなら、触れた時はどうなるんでしょう?」
透羽はすぐ否定せず、水滴を一つ浮かべた。
「確認する価値はあります」
玄兎が差し出した手へ、透羽がそっと指を重ねる。
怪異との戦いでは何度も触れている。それなのに『手をつなぐ』と意識した途端、彼女のひんやりした指先ばかりが鮮明になった。
水滴の光に照らされ、二人の手首を結ぶ赤い糸が現れる。そのすぐ横には、朝には正体を掴めなかった細い白の光もあった。
赤い糸はわずかに緩んだ。
依澄が二人の手元を見つめる。
「もっと近くなったら、もっと緩むかもしれない」
小毬の耳がぴんと立った。
「じゃあ、ハグです!」
「必要ありません」
「透羽ちゃん。反応量を見るだけなら、理屈はあるよ」
千燈に言われ、透羽は数秒黙った。玄兎も朝の痛みを思い出し、一度だけ試すことにする。
人目の少ない学食の端で向き合うと、怪異へ向かう時には迷わない透羽が、ほんの数十センチを詰めることには明らかにためらった。
「……短時間です」
「分かった」
玄兎は慎重に腕を回した。透羽も両腕を玄兎の脇へ回し、短い抱擁になる。
身体が触れた瞬間、透羽がわずかに強張る。近すぎて、玄兎もどこを見ればいいのか分からない。
「透羽、大丈夫?」
「喋ると余計に意識するので、今は黙ってください」
「はい」
その時、赤い糸が目に見えてたわんだ。
千燈の合図で二人は離れる。三メートルを越えても痛みは来ず、五メートルを少し越えたところでようやく胸の奥が熱を持ったため、すぐ元へ戻った。
「接触が強いほど、短時間だけ拘束が緩むみたいだね」
「では緊急時の手段として記録します。常用はしません」
透羽が先回りすると、依澄はメモへ『抱きしめると、少しだけ遠くまで離れられる。……そのくせ、前より近くなった気がする』と書いた。
玄兎と透羽は、さっきまでより少しだけ離れた位置へ座り直した。
痛みは来ない。
小毬が残念そうに二人の間を見たが、透羽は知らないふりをして水を飲んだ。
◇
午後一時四十分。五人は大学図書館へ移動し、怪異の由来を調べ始めた。
透羽は学内資料の目録を検索し、玄兎は郷土史や古い新聞のコピーを確認する。本来なら手分けした方が圧倒的に早い作業だが、今日は三メートルという制限がある。
玄兎が一つ向こうの棚へ回ろうとするだけで、透羽との距離が限界へ近づく。反対に透羽が検索端末へ移動すれば、玄兎もついていかなければならない。
二人の視線が一瞬だけ合う。
昼の「緊急時の手段」を、ほぼ同時に思い出したらしい。
玄兎が冗談めかして口を開く。
「一回ハグして数秒だけ距離を稼ぐ、っていう方法も一応――」
「却下です。図書館の書架を移動するたびに実行するものではありません」
少し離れた場所で資料を探していた千燈が、笑いをこらえながら本を数冊抱えて戻ってきた。
「二人は無理に動かなくていいよ。必要な本があれば私たちが取ってくる。今日は役割分担しよう」
「助かる」
結局、玄兎と透羽は同じ通路をゆっくり進み、片方が本を抜けばもう片方も足を止めるという、妙に息の合った調べ方になった。
その時、千燈がスマートフォンを片手に戻ってきた。
「大学の古い怪談掲示板に、それっぽいのが残ってたよ」
画面には、『朽木ヶ丘大の中庭で“ふたり守り”を拾ったら、二人は別れられなくなる』という投稿と、白布へ赤い糸を縫いつけた小さなお守りの画像が表示されていた。
玄兎は鞄を探り、朝のお守りを取り出した。
「……これだ」
透羽の表情が変わった。
「玄兎。素手で触りましたか」
「触った。透羽にも一度渡した」
二人とも相手と合流しようと思っていた朝だった。その状態で同じお守りへ触れたことが、発動の引き金になったらしい。
掲示板にはさらに、三日目には糸が首まで上がり、切れなければ二人とも消えるという噂と、大学南側にかつて《結留神社》があったことが記されていた。
もともとの守りは、旅立つ人が無事に帰り、家族と再び会えるよう願うものだった。しかしいつしか、『別れない』『他の人を好きにならない』という願掛けへ意味が変わったという。
依澄はお守りへ触れず、じっと見つめた。
「『離れないで』より、『置いていかないで』が強い」
小毬が眉を寄せる。
「三メートル離れたくらいで、群れがなくなるわけじゃないのに」
玄兎はお守りを布越しに持ち直した。
「神社跡へ行こう。今日中に終わらせたい」
透羽が頷く。
「全員で行きます」
言いながら、玄兎が先に通路を曲がろうとすると、透羽の指先が袖を軽くつまんだ。
玄兎は足を止め、三人が追いつくのを待った。
それを確認してから、透羽は手を離した。
大学南門から歩いて十五分ほど。古い石垣がところどころ残る住宅街の一角に、小さな公園があった。
滑り台と砂場、色あせたベンチ。子供たちが遊ぶ、ごく普通の公園に見える。
ただ、その端にだけ、不自然な空白があった。
草に半ば埋もれた礎石と、途中で切断された鳥居の根元。近づくほど、夏前の湿った空気とは違う、古い土の冷たさが漂ってくる。
「地図だと、ここが神社の境内だった場所で間違いないみたい」
千燈が古地図と現在地を見比べる。
小毬が拾ったのは、古い木と土、それから雨に濡れた石の匂いだった。人の匂いも残っているが、今いる親子のものとは違う。かなり古いものが混じっているという。
その横で、依澄は目を閉じたまましばらく黙っていた。
「願いが多い。ここ、誰かを待つ夢みたいな感じがする。でも夢じゃない」
透羽は周囲を見回した。
公園にはまだ子供を遊ばせている親子が二組いる。
「一般人を巻き込むわけにはいきません。暗くなって人が減るまで、周辺の聞き込みと資料確認を続けましょう」
千燈、小毬、依澄の三人が近所へ聞き込みに向かい、公園には玄兎と透羽が残った。
二人は鳥居跡が見えるベンチへ並んで座る。
夕方までまだ時間がある。怪異のせいで三メートル以上離れられないことを除けば、妙にのどかな時間だった。
「……こうして座ってるだけだと、調査してる感じがしないな」
「資料は確認しています。何もせず待っているわけではありません」
透羽はスマートフォンに表示した古地図を指で拡大する。
玄兎も肩越しに画面を覗き込んだ。
「この道、今は公園の中を横切ってるんだな。神社の参道だったのか」
「おそらく。社殿はこの辺りにあったはずです」
しばらく地図を見たあと、玄兎は公園の端に自動販売機があることに気づいた。
「コーヒー買ってくる……って、一人じゃ行けないか。一緒に来る?」
「行きます。飲料水も補充したいので」
二人は立ち上がり、自然に歩幅を合わせて自動販売機へ向かった。
玄兎が商品を眺めていると、透羽の視線が一段下の缶へ数秒止まった。
「透羽。プリンシェイク、気になる?」
「見ていただけです」
「じゃあ俺が買う。一口飲んでみる?」
「玄兎が飲みたいなら、止めません」
妙に遠回しな返事に、玄兎は笑いながら硬貨を入れた。
一口飲む。想像以上に甘い。
「うわ、甘っ。透羽も飲む?」
差し出すと、透羽はほんの少しだけ迷ってから缶を受け取った。
一口。
その瞬間、彼女の目元がごくわずかに緩んだ。
飲み口から唇を離したところで、透羽の視線が缶の口へ落ち、その動きが止まった。玄兎もつられて同じ場所を見て、ようやく気づく。
「……あ」
「……何ですか」
「いや。それ、俺がさっき飲んでたところだなって」
透羽の指が缶を持ったまま固まる。
「……今、気づきました」
「嫌だったら悪い」
「いえ。嫌では……」
そこで一度言葉を切り、透羽はほんの少しだけ顔を逸らした。
「……ありません」
今度は玄兎の方が返事に困り、頬を掻いた。
短い沈黙のあと、玄兎は缶を指した。
「で、美味しい?」
「……普通です」
透羽は缶を返そうとし、玄兎が受け取ろうと手を伸ばした。
指先が触れた。
その瞬間、二人の間に光が走る。
朝よりも、昼の実験よりも、くっきり見えた。
赤い糸は二人の手首を結んだままぴんと張り、互いの側へ引くように震えている。そのすぐ隣で、細い白い糸だけが柔らかくたわんでいた。
「白い方、昼よりはっきりしてるな」
透羽は答えず、玄兎が缶を受け取るまで、その白い光を目で追っていた。
指先が離れても、白い糸はすぐには消えなかった。
二人は缶を持ってベンチへ戻った。怪異に縛られているはずなのに、歩幅を合わせることが少しだけ自然になっているのが、玄兎には妙に可笑しかった。
◇
日が傾き、公園の親子連れが帰り始めた頃、聞き込みに出ていた三人が戻ってきた。
戦後に恋愛成就の噂が広がり、その後、県外就職をめぐって揉めていた若い男女がここで心中している。
千燈が古い記事を閉じた。
「積み重なった願いに、この二人の件が刺さったんだろうね」
依澄は玄兎と透羽の間へ視線を落とした。
「赤はお守り。白い方は、二人から出てる」
「でも、白は引っ張ってない」
玄兎が言うと、透羽も同じ光を見た。
答えを出すより早く、玄兎の鞄の中でお守りが焼けるような熱を発した。
「っ……!」
取り出すより早く、白布の隙間から赤い光が溢れ、地面へ染み込んでいく。
鳥居跡から無数の赤い糸が噴き出した。
地面を這い、木々へ絡み、公園の空間そのものを縫い合わせるように広がっていく。
「公園の人たちを外へ!」
透羽が清め水を放ち、《水鏡》の膜を展開する。
公園の端には、帰り支度をしている親子がまだ一組だけ残っていた。
小毬はすぐに脚を部分獣化し、地面を蹴った。
「私が連れて出します! 皆さんはこっちを止めて!」
彼女は親子へ駆け寄り、「地面から危ないものが出ています、外へ!」と強い口調で誘導した。怪異の姿が見えない親子には意味が分からなくても、小毬の勢いに押されて公園の外へ出る。
千燈は烏の感覚を借り、上空から周囲を確認した。
「公園内に一般人はいない。外にも近づいてくる人はいないよ!」
「依澄、核がどこにあるか分かる?」
玄兎が声を上げる。
依澄の周囲へ薄紫色の蝶が舞い始めた。
「現実の下に、昔の景色が重なってる。そこを開く」
「《蝶境》」
蝶が公園を横切るたび、現在の遊具やベンチの上へ、過去の神社が半透明に重なっていく。
石段。社殿。まだ崩れていない鳥居。
夕暮れの境内で、一組の男女が向かい合っていた。
女は泣きながら男の袖を掴んでいる。
『行かないで。県外なんて行ったら、もう帰ってこないでしょう』
『帰ってくるって何度も言っただろ。仕事で行くんだ。お前を捨てるわけじゃない』
『信じられない。新しい場所で、私より好きな人ができたらどうするの』
『そんなことを今から決めつけるなよ』
『だったら、ここにいて。ずっと私のそばにいてよ』
男は苦しそうに顔を伏せた。
『ずっと同じ場所にいるなんて無理だ。俺には俺の人生がある』
その言葉に女の顔が崩れる。
『じゃあ、私よりそっちが大事なんだ』
二人の足元へ、赤い糸が一本、また一本と絡みついていく。
それは過去の映像なのに、現在の玄兎と透羽の手首にも同じ痛みが走った。
赤い糸が腕へ這い上がる。
「透羽、近い!」
怪異の力に引かれ、二人の身体が強制的に引き寄せられた。透羽の肩が玄兎の胸へぶつかる。
「大丈夫です。それより糸が首へ上がる前に、核の願いを変えないと」
水の刃《白羽》が赤い糸を切る。
しかし切断面からすぐに新しい糸が生え、再び二人の腕へ巻きついた。
「物理的に切るだけじゃ駄目か」
「願いそのものが続いている限り再生します」
過去の男女の会話はさらに険しくなる。
『俺はちゃんと帰るって言ってるだろ。何度言えば分かるんだ』
『そんな言い方じゃ信じられない!』
『じゃあもう勝手にしろ』
『ほら、やっぱり捨てるんじゃない!』
男はそれ以上説明せず、女から顔を背けた。
女の指が袖へ食い込み、赤い糸がさらに増える。
玄兎は首元へ迫る糸を押さえながら、女へ声を張った。
「欲しいのは、ここから出さないことか。それとも、帰ってくることか」
女の幻が玄兎を見る。
唇が何度か動いたあと、ようやく小さな声が落ちた。
『……帰ってきてほしい』
透羽は男へ向き直る。
「なら、あなたも最後に背を向けないでください」
男がわずかに顔を上げた。
依澄の蝶が、過去の二人から玄兎と透羽へ向きを変えた。
同時に赤い糸がさらに締まり、二人の手首から肩へ、首元へ近づく。
怪異の声が重なる。
『離れたくないなら、ここにいろ』
『近くにいるなら、離れるな』
『離れれば、忘れる』
『離れれば、捨てられる』
玄兎は息を整え、隣にいる透羽を見た。
赤い糸に引かれ、二人の肩は触れたままだった。
玄兎は透羽の手首へ回っていた糸を見てから、昼間の実験を思い出した。
「透羽。昼間の逆だ。一回、俺たちから離れる」
透羽の目がわずかに見開かれた。
赤い糸は、近くにいろと二人を締め上げている。
それでも透羽は数秒だけ玄兎を見つめ、先に彼の袖から指を離した。
玄兎も腕を下ろす。
一歩。
二歩。
互いに後ろへ下がるたび、赤い糸がきしむように張った。
『離れるな』
三メートル。
胸の奥へ、朝と同じ痛みが突き刺さる。
透羽の膝がわずかに揺れた。玄兎も歯を食いしばる。
それでも、どちらも相手へ駆け戻らなかった。
張りつめた赤い糸が二人の手首へ食い込み、互いを引き戻すように激しく震えた。
その隣で、細い白い光だけが静かに伸びていく。二人が離れたぶんだけ長くなるのに、こちらは引き戻そうとはしない。
『離れれば、捨てられる』
透羽は胸元を押さえながら、玄兎から目を逸らさなかった。
「戻ってきてください」
「戻る」
それだけ答え、玄兎はもう一歩下がった。
透羽も同じだけ距離を取る。
五メートル。
赤い糸がさらに強く張り、二人の手首を互いの方へ引いた。首元まで這い上がっていた一本が、ぎり、と締まる。
小毬が前へ出かける。
千燈がその肩を掴んだ。
「まだ」
白い光は切れなかった。
玄兎はそこで足を止めた。
そして今度は、自分から透羽へ向かって歩き出した。
赤い糸に引かれたからではない。
透羽も一歩、こちらへ進む。
距離が縮まる。
四メートル。三メートル。二メートル。
二人の手が届くところまで戻り、玄兎が差し出した指先へ透羽の手が重なった。
白い糸が強く光った。
その瞬間、二人を締めつけていた赤い糸が一本、また一本とほどけ始める。
《蝶境》の中でも、女が男の袖を掴んでいた手をゆっくり開いた。
男は鳥居の方へ一歩進む。
女の身体が追いかけるように揺れたが、踏み出さない。
男は振り返った。
『行ってくる』
女はしばらく泣いていた。
やがて、袖を握っていた手を自分の胸元へ戻す。
『……いってらっしゃい』
空を覆っていた赤い糸が、夕焼けへ溶けるように一本ずつ消えていく。
最後まで玄兎と透羽の手首を結んでいた一本にも、白い光が静かに触れた。
痛みはなかった。
糸はほどけ、ただの淡い光になって消えた。
◇
赤い糸が消えると、公園へ夕方の音が戻ってきた。
玄兎は透羽へ目で合図し、もう一度ゆっくり距離を取った。
三メートル。五メートル。十メートル近くまで離れても、胸は痛まない。
透羽は追ってこなかった。
玄兎もそこで立ち止まり、数秒だけ離れた場所から彼女を見る。
それから踵を返し、元いた場所へ歩いて戻った。
透羽は何も言わず、玄兎が隣へ来るぶんだけ少し横へずれた。
小毬の尻尾が大きく揺れる。
「あ、戻った」
千燈が笑い、依澄も白い糸が消えた空間から二人へ視線を移した。
誰も、それ以上は何も言わなかった。
◇
駅前へ戻ると、小毬の「大事件のあとはちゃんと食べましょう」という一声で、五人はファミリーレストランへ入った。
怪異の制約はもうない。それでも案内された席で、透羽は自然に玄兎の隣へ座った。
メニューを開いた透羽の視線が、何度も甘味のページへ戻る。
「プリン、食べれば?」
「食事との量を調整しているだけです」
「じゃあ俺も頼む」
透羽は少し迷ってから、小さな声で言った。
「……一つを分けても」
言った本人が先に固まった。
千燈の口元がゆっくり上がる。
透羽はその視線に気づき、メニューで半分だけ顔を隠した。
「……やはり二つ頼んでください」
「撤回が速いな」
玄兎が笑うと、透羽は不満そうにメニューへ視線を落とした。
結局プリンは二つ運ばれてきた。透羽が一口食べた瞬間だけ目元を緩めたので、玄兎は何も言わず、自分の分へスプーンを入れた。
◇
夜。五人は駅で別れ、玄兎と透羽は同じ電車へ乗った。
車内は空いていた。向かいの席にも、ひとつ隣にも空席がある。
それでも透羽は、いつものように玄兎の隣へ座った。
玄兎は一度だけ足元の距離を見た。
「今日はもう、三メートル測らなくていいな」
「はい」
それだけ答えて、透羽は窓の外へ視線を向けた。
電車が大きく揺れ、二人の肩が触れる。
痛みは来ない。
揺れが収まっても、透羽は姿勢を直さなかった。玄兎も同じだった。
次の駅でさらに席が空いても、二人の間の数センチはそのままだった。
――第六話・了