前日の昼、玄兎たちは約束どおり四人で駅前の焼肉店へ行った。網の上では脂が弾け、店を出る頃には、誰の服にも同じ香ばしい匂いが染みついていた。
一晩たてば少しは薄れると思っていたのだが、翌朝、朽木ヶ丘大学の第二講義棟へ入った途端、白狼院小毬が待ち構えていたように玄兎へ身を寄せてきた。
「先輩。昨日、ちゃんとお風呂入りました?」
「入ったよ。まだ匂う?」
小毬は玄兎の肩口へ鼻先を近づけ、すん、と小さく息を吸う。
「牛タンとカルビ。それから、にんにく焼きも一つ」
「そこまで残るのか……」
「昨日、おいしいって言ってたよ」
背後から千燈が楽しそうに口を挟んだ。
そこへ透羽も現れた。白いブラウスに淡い水色のカーディガン、片手にはいつものペットボトルの水がある。
「千燈。講義が始まる前には出てください」
「はいはい。朝から厳しいなあ」
小毬は今度は透羽へ向き直った。
「透羽先輩も焼肉の匂いが残ってます。玄兎先輩と同じ匂いがちょっと強いです」
「同じ網で焼肉を食べたんですから」
「でも昨日、玄兎先輩のお皿に何度もお肉を移して――」
「白狼院さん。そろそろ着席してください」
「はーい」
玄兎は苦笑しながら窓側の席へ鞄を置いた。
「そこ、私の席」
背後から聞こえた声に、なぜか胸の奥がかすかにざわついた。
振り返ると、長い淡銀紫の髪をした少女が立っていた。銀に近い髪は朝の光を受けたところだけ薄い藤色を帯び、瞳は淡い青紫。服装は現代的なのに、袖やスカートへ重ねられた薄布が折り畳まれた蝶の羽を思わせた。
「指定席だっけ、この講義」
「違う。でも、いつも私が座ってる」
「いつも?」
少女は玄兎の隣を指した。
「玄兎は、いつもそこ」
「俺の名前、知ってるの?」
「先生が出席を取るから」
「なるほど。俺たち、話したことある?」
「今日が初めて」
それなのに彼女の声には、初対面の相手へ向ける距離がなかった。
「蝶ヶ森さん」
透羽が呼ぶと、少女は自然に振り向いた。
「透羽」
「……私のことも?」
「同じ学年だから」
玄兎が透羽を見ると、彼女は一瞬だけ考えてから答えた。
「蝶ヶ森依澄。同じ二年生です。この講義にも以前から出ています」
「知り合い?」
「知ってはいます。ただ……いつから知っていたのかと聞かれると、少し曖昧です」
妙な言い方だった。
千燈も依澄の顔を覗き込み、いつものからかう笑みを少しだけ薄める。
「依澄ちゃん。私と会ったことある?」
「たぶん、ある」
「どこで?」
「分からない」
その隣で、小毬だけが黙っていた。
「小毬?」
「……変な匂いです」
小毬は依澄へ一歩近づき、慎重に鼻を動かす。
「人の匂いもします。でも、それより強いのが混じってて……雨の日の朝、目が覚めたのに夢だけまだ頭に残ってる時みたいな匂いです」
「匂いの説明として難易度高いな」
「私だって困ってます!」
依澄は怒るでもなく小毬を見つめた。
「私の匂い、嫌?」
「嫌じゃないです」
「なら、よかった」
ほんの少しだけ、依澄が笑った。
その表情を見た瞬間、玄兎の胸を既視感がかすめた。
――知っている。
理由もなくそう思った。けれど、いつ、どこで、と記憶を手繰ろうとすると、形は夢のように崩れていった。
◇
講義が始まり、山本教授が出席を取る。
「鵺代玄兎」
「はい」
「鷺宮透羽」
「はい」
何人かを挟んで、当然のように名前が呼ばれた。
「蝶ヶ森依澄」
「はい」
山本教授は何の引っかかりもなく次の名前へ進んだ。
講義が夢の記憶についての話へ移ると、隣の依澄が小さく眉を寄せた。
「夢って、消える?」
玄兎にだけ聞こえる声だった。
「全部じゃないけど、普通はかなり忘れるだろ」
「私は昨日の夢を覚えてる」
「それなら珍しくないんじゃない?」
「あなたの夢だったけれど」
玄兎のペンが止まった。
「……俺の?」
「うん。黒い水と、大きな月。小さい玄兎がいた」
背中を冷たい指でなぞられたような感覚がした。
三日前、千燈が《血読》で拾った幼い頃の断片と似すぎている。
「誰かが、あなたを抱いてた」
「誰が?」
「顔は見えなかった。奥に、入れないところがあったから」
「玄兎」
横から透羽の低い声が飛んだ。
「講義中です。続きは後で」
「……分かってる」
依澄は何事もなかったように前を向いたが、玄兎はその後しばらく教授の話が頭へ入らなかった。
◇
一限が終わると、千燈と小毬が廊下で待ち構えていた。
依澄は、玄兎の夢へ入ったことを二人にも話した。
「ちょっと待ってください」
小毬が依澄と玄兎を交互に見た。
「依澄先輩も、玄兎先輩と同じ夢を見たってことですか?」
「違う。玄兎の夢に入った」
「……なんですか、それ。人の夢って入れるんですか?」
「私は入れる」
「玄兎先輩は知ってたんですか?」
「いや。今朝、本人から聞いて初めて知った」
「寝ていたから入った」
「それ、許可になってないからな」
玄兎が言うと、依澄は本気で分からないらしく首を傾げた。
「寝ている時に夢へ入られるの、嫌?」
「普通は驚く。次からは先に聞いて」
「分かった」
依澄は少し考えてスマートフォンを取り出す。
「じゃあ連絡先、交換する?」
連絡先には『蝶ヶ森依澄』と表示された。アイコンは薄紫色の蝶だった。
「写真じゃないんだ」
「写真、苦手」
「写るたびに、少し顔が違うから」
「怖いことをさらっと言うな」
千燈の目から笑みが消える。
「依澄ちゃん。大学に来る前は、どこにいたの?」
依澄は口を開きかけ、止まった。
「……分からない」
「高校は?」
「分からない」
「家族は?」
今度は答えが出なかった。
小毬がそっと千燈の袖を引く。
「千燈先輩。今は」
「……そうだね。ごめん」
「謝る必要ある?」
「あるよ。人が困ってるのに、秘密の方が気になったから」
依澄は少しだけ考え、その言葉をスマートフォンへ打ち込んだ。
「記録するの?」
「忘れるかもしれないから」
その一言だけが、妙に重く残った。
◇
昼休み。五人は初めて同じテーブルを囲んだ。
小毬が唐揚げを一つ差し出すと、依澄はためらいなく受け取り、一口食べた。
「……好き」
「やった!」
「昨日はカレーが好きだった」
「一昨日は、どっちも嫌いだった。毎日変わる」
「好きなものとか、理由とかが、朝になると少し変わってることがある」
透羽が訊く。
「夢へ入る以外には、何ができますか」
「人が頭の中に持っているものを、少し外へ見せられる。眠ってる相手なら、もっと深く」
「大きく使った時の負担は?」
依澄は自分の胸元へ指を置いた。
「私が薄くなる。先に、周りの人が私を思い出しにくくなる」
「怖くないですか?」
小毬がすぐに訊いた。
「忘れられた時は、怖かったことまで曖昧になるから、よく分からない」
小毬は依澄の袖をつまんだ。
「じゃあ、今日の依澄先輩は私が覚えます。唐揚げを食べて『好き』って言ったことも、玄兎先輩の夢に勝手に入って注意されたことも」
「匂いも覚えます。でも、匂いだけじゃなくて、今日何をした人かも一緒に覚えます」
依澄は何度か瞬きをしてから、小さく笑った。
「それなら、安心」
その時、隣のテーブルから女子学生の声が聞こえた。
「また寝てる……昨日もじゃない?」
壁際のソファ席に、男子学生が突っ伏していた。片手にはスマートフォン、耳にはワイヤレスイヤホン。声をかけても起きる気配がない。
「知り合い?」
玄兎が訊くと、女子学生が困った顔で頷いた。
「同じゼミの先輩です。最近ずっとこれで」
見せられた画面には、淡いピンクの背景と三日月、その下に『DREAM DATE』という文字があった。
「理想の恋人と夢の中で一週間暮らせるっていうアプリです。公式じゃなくて、学内で共有リンクが回ってて」
「怪しすぎるだろ」
「最初は睡眠誘導のジョークアプリみたいな感じだったんです。でも西園寺先輩、何度も使うようになって……最近『夢の方が幸せ』って言うんです」
依澄の表情が変わった。
「それ、よくない」
「夢を見ることが?」
「違う。帰りたくないと思いながら、同じところへ何度も戻ってる。それに、この人だけが帰りたくないんじゃない」
依澄は眠る学生――西園寺拓海を見つめる。
「向こうも、この人を離したくないみたい」
透羽はすぐに立ち上がった。
「ここであれこれ考えるより、まず保健管理センターへ運びましょう」
◇
西園寺の脈拍と呼吸は安定していた。しかし、透羽が額へ水滴を触れさせると、その表面が細かく震えた。
「怪異の反応があります。スマートフォンだけではありません。本人の周りにも、夢の名残がまとわりついています」
依澄がベッドの横へ座る。
「中へ入れば、帰る道を探せる」
「一人では行かせません」
透羽が即座に止めた。
「戻れる保証がありません」
「なら俺も行く」
玄兎が言うと、透羽の視線が鋭くなる。
「あなたまで危険を増やしてどうするのですか」
「依澄は俺の夢へ入ったことがある。俺なら一緒に入れる可能性があるだろ。それに、西園寺先輩を連れて帰るなら一人より二人の方がいい」
「可能性だけで決めないでください」
「だから外から支えてほしい」
透羽が言い返すより先に、千燈がスマートフォンを見せた。
「その前に一つ。アプリの共有ページから作成者まで辿れた。心理情報研究会の須藤圭、三年」
「連絡できますか」
「もうしてる」
十分ほどで、青ざめた男子学生が保健管理センターへ駆け込んできた。
「俺、こんなことになると思ってなくて……!」
須藤の説明によれば、『DREAM DATE』は理想の相手を設定し、古い睡眠誘導音声を聞きながら眠るだけの実験だったという。
「一週間分の夢を作る機能なんてありません。使った人が『何日も一緒にいた気がする』って言い出して、それが面白がられて広まりました」
「元の音声は?」
千燈が訊く。
「研究会の古い備品に残ってたデータです。雨とか波とか、その中に女の子の声が入ってて……『おやすみ』『今日も会えるよ、夢の中なら』って」
依澄が顔を上げた。
「この人の夢の奥から、同じ声がする」
須藤はその場でサーバーと共有ページを停止した。しかし西園寺は起きない。依澄は目を閉じ、しばらくして小さく首を振った。
「もうアプリだけの夢じゃない。使った人たちの『帰りたくない』が、向こうでつながってる」
透羽は西園寺の顔を見て、短く息を吐いた。
「分かりました。入るのは玄兎と依澄さん。私たちは外に残ります」
透羽は玄兎と依澄の手首へ一滴ずつ水を落とした。
「この冷たさを覚えておいてください。異常があれば外から刺激を強めます」
「私は匂いと呼吸を見ます!」
小毬が胸を張る。
「玄兎先輩が遠くなっても、今日ここへ来た玄兎先輩のことまで見失わないです」
「私は必要なら玄兎くんの血から感情の揺れだけ拾う。深くは読まない」
千燈が続ける。
依澄は玄兎へ手を差し出した。
「中では離さないで」
「分かった」
依澄は少しだけ笑った。
「《夢蛹》」
薄紫色の蝶が、二人の重ねた手の上へ舞い降りる。
最後に玄兎が感じたのは、依澄の指先と、手首に残る水の冷たさだった。
◇
「……朝?」
玄兎が目を開けると、見知らぬ天井があった。
薄いカーテン越しの朝日。柔らかなベッド。そして右隣には、依澄が眠っていた。
「……え?」
玄兎は反射的に上半身を起こした。同じベッドだった。
その声で依澄も目を覚ます。
「おはよう、玄兎」
「おはようじゃなくて。何で同じベッドなんだよ」
「夢だから?」
「疑問形で返すな」
二人が起き上がると、部屋は妙に生活感のある1LDKだった。薄いカーテンは朝の風に揺れ、テーブルには使いかけの角砂糖と二人分のマグカップが並んでいる。ソファには色違いのクッションが二つ。洗面所の棚には歯ブラシまで二本あった。
何より気味が悪いのは、どれも新品ではないことだった。マグカップの片方には口紅ではなく薄い茶渋がつき、ソファの片側だけ少し沈み、玄関には玄兎のものらしいスニーカーと、依澄が履いているものと同じ形の靴が並んでいる。二人がここで何日も暮らしてきた痕跡だけが、記憶より先に用意されていた。
棚には写真立てもあった。海辺で笑う二人。遊園地の観覧車。大学の中庭。夜景の見える場所で肩を寄せている写真まである。どれも玄兎には覚えがないのに、写真の中の自分は不自然なほど楽しそうだった。
その隣には、依澄が学食で何人かの学生と笑っている写真と、講義や待ち合わせで埋まった一週間分の予定表まで置かれていた。そこだけ見れば、依澄はずっと前から当たり前に大学生活を送ってきたように見える。
「記憶にないぞ、これ」
「私も」
依澄は学食の写真を手に取り、少しだけ長く見た。
「……こういうの、あったみたいに見える」
「夢が作ったんだろ」
「うん」
分かっているのに、依澄はすぐには写真を戻さなかった。やがて棚へ置き直す。
「西園寺先輩の夢に入った時、手をつないでたから、私たちのイメージまで混ざったのかも」
「一緒に入るとこうなるの、先に知りたかった」
「私も初めて」
玄関へ向かうと、足元に一枚の紙が落ちていた。
『恋人生活 一日目』
二人で黙って見る。
「……俺たちまで巻き込まれてない?」
「恋人らしい」
「らしい、じゃない」
玄兎がドアノブへ手をかけるが、扉は開かなかった。依澄もノブを試したが、やはり動かない。
「閉じ込められた?」
「まだ分からない。……とりあえず食べるか」
テーブルには、ちょうど二人分の朝食が用意されている。二人で座って口をつけると、トーストは香ばしく、目玉焼きにはちゃんと塩気があった。
「夢でも味するんだ」
「する」
「戻ったら腹減ってそうだな」
「じゃあ、また食べる」
「今日は卵好き?」
「今日は好き」
「明日は?」
「分からない」
「毎日聞かないと駄目だな」
依澄はフォークを止めた。
「玄兎なら、毎日聞けばいい」
「……俺が?」
「嫌?」
「別に嫌じゃないけど」
依澄は少し笑った。
その瞬間、玄関の鍵が勝手に開いた。
「……朝飯が条件だったのか」
玄関を抜けると、そこは大学の講義棟だった。
さっきまでアパートだった扉の向こうに、見慣れたはずの廊下が真っ直ぐ延びている。窓から差す日差しは明るいのに、影の向きがどこかおかしい。掲示板には読めそうで読めない文字が並び、自動販売機の商品名も視線を外した瞬間に変わった。
大勢の学生がいるのに、誰の顔もはっきりしない。笑っているらしい。話しているらしい。それなのに誰一人、玄兎たちと目が合わない。近くを通り過ぎた学生の声も、意味を聞き取ろうとした途端にざらついた雑音へ変わった。人の形だけ借りた背景が、大学らしさを埋めるために配置されているようだった。
「西園寺先輩は?」
依澄は目を閉じた。
「こっち。『一人になりたくない』が強いところ」
「一人分じゃない。いっぱい重なってる」
玄兎は依澄の手を握り直した。
「迷ったら言えよ」
「玄兎も」
「俺?」
「この夢、欲しいものを見せるから」
依澄は廊下の窓から外を見た。現実では離れているはずの海が、大学のすぐ向こうで青く光っている。
「帰りたくなくなる人がいるの、少し分かる」
「依澄は残りたい?」
依澄は少しだけ考えた。
「今は帰りたい」
「どうして?」
「外には、まだ知らないことがある。夢の続きじゃなくて、起きてから知りたい」
玄兎はその答えを聞いて、少しだけ安心した。
◇
角を曲がると、景色が小さなカフェへ変わった。
窓際に西園寺がいる。向かいには黒髪の女性が座り、穏やかな顔で笑っていた。
「西園寺先輩」
玄兎が呼ぶと、西園寺は怪訝そうに顔を上げた。
「誰?」
「鵺代です。同じ大学の」
「知らない」
「現実で会ってます」
西園寺は可笑しそうに笑った。
「何言ってるんだ。ここが現実だろ」
女性が西園寺の手へ自分の手を重ねる。
「拓海。この人たち、誰?」
「知らない人。すぐ帰るよ、美咲」
その名前を聞き、玄兎は向かいの女性を見る。
西園寺が水へ目を向けるより先に、美咲がグラスを手元へ寄せた。礼を言えば、ちょうど欲しかった声量で「どういたしまして」と返す。呼吸まで合わせているような笑顔だった。
「美咲さんとは、恋人なんですか」
玄兎が訊くと、西園寺の表情が硬くなった。
「ここでは、そうだ」
「現実では?」
沈黙が落ちた。
「……半年前に別れた」
美咲が西園寺の手を撫でる。
「嫌なこと、思い出さなくていいよ」
西園寺は縋るようにその手を握り返した。
「分かってるよ。ここが本物じゃないかもしれないことくらい。でも、戻ったって美咲はいない。俺はまた一人になるだけだ」
玄兎は少し迷い、それでも言った。
「俺は本物の美咲さんを知りません。でも、目の前の美咲さんが先輩に都合のいい答えしか返してないことは分かります」
美咲が微笑む。
「拓海。私は拓海の全部が好き」
西園寺の顔が歪んだ。
「……俺のどこが嫌だった?」
「全部好き」
「美咲は、そんなこと言わない」
初めて、美咲の笑顔が止まった。
「友達といる時まで連絡してくるのがしんどいって、最後にちゃんと言われた。俺が不機嫌になるのも怖いって」
西園寺は目を伏せた。
「……帰りたい」
その瞬間、壁の時計が止まった。
午後一時十二分。
窓の外を歩いていた学生も、コーヒーを注いでいた店員も、笑顔のまま動かなくなる。空調の音まで消え、世界から生活音だけを抜き取ったような静けさが落ちた。
依澄が玄兎の袖を掴む。
「来る」
美咲がゆっくり立ち上がった。
「拓海。帰るって、どういう意味?」
「俺は起きる」
「どうして? 私、拓海が嫌いなこと何もしないよ」
一つ言うたび、窓の外の建物が白く薄れていく。
「大学も行かなくていい。就活もしなくていい。友達と会わなくていい。失敗しなくていい。寂しくならないよ」
最後にはカフェだけが残った。
窓の向こうは真っ白だった。隣の席も、レジも、入口もあるのに、その先へ続くはずの空間が消えている。テーブルの上のコーヒーからはまだ湯気が立っていたが、鼻を近づけても匂いがしない。温かそうに見えるだけの飲み物だった。
壁へ、いつの間にか写真が並んでいた。西園寺と美咲が海で笑っている。旅行先で肩を寄せている。誕生日のケーキを挟んで向かい合っている。どの写真も幸福そうで、どの写真にも喧嘩した日や、返事を待って苛立った夜や、別れ話をした時の顔はなかった。
「私だけ見てればいい」
美咲が西園寺の手首を掴む。
「痛っ……離せ!」
「どうして?」
「離してくれ!」
「拓海が望んだんだよ。ずっと一緒にいてくれる美咲が欲しいって」
壁からも、天井からも同じ声が重なった。
『ずっと一緒』
『帰りたくない』
『一人になりたくない』
『愛されたい』
男も女も混ざった声だった。近い声もあれば、隣室の壁越しのようにくぐもった声もある。西園寺の手が、美咲に掴まれたまま小さく震えた。
壁の写真の端が白く滲んだ。最初に消えたのは、西園寺が友人たちと写っている写真だった。次に大学の講義室。母親らしい女性と食卓を囲む記憶。最後に、本物の美咲が泣きながら何かを言っている場面へ白い色が伸びていく。
「やめろ!」
西園寺が叫ぶ。
「大丈夫」
美咲は優しい声のまま答えた。
「嫌なことから消えるだけ。最後には、私との幸せなことだけ残るから」
その優しさが、玄兎には今までで一番恐ろしく聞こえた。
依澄が薄紫色の蝶を飛ばす。蝶が美咲へ触れた瞬間、黒く焦げたように崩れた。
「西園寺先輩一人の夢じゃない。使った人たちの気持ちが、みんなここへくっついてる」
床が黒い水へ変わり、玄兎の足が膝まで沈んだ。
「玄兎!」
依澄の手を強く握る。西園寺の足元からは白い腕が何本も伸び、椅子へ引き戻そうとしていた。
「西園寺先輩、こっち!」
玄兎が腕を掴む。
「重い……!」
「身体じゃない。『帰りたくない』が重い!」
依澄が叫んだ。
その時、無数の声の奥から、ひどく小さな少女の声が聞こえた。
『おやすみ』
依澄の表情が変わる。
「待って。これは、みんなより前からある」
『今日も会えるよ。夢の中なら』
須藤が言っていた元データの声だ。
依澄が片手を伸ばすと、空中に一枚だけ違う景色が浮かんだ。
雨の病室。
ベッドにいる十代半ばの少女と、その隣で小さなレコーダーを操作する青年。
『今日は、どこへ行きたい?』
『海』
『雨なのに?』
『夢なら晴れててもいいでしょ』
次に見えたのは、同じ病室の空になったベッドだった。
青年が一人でレコーダーを握り、少女の声を繰り返し再生している。
『今日も会えるよ。夢の中なら』
『……会いたい』
記憶はそこで途切れた。
「……この声、帰さないって言ってない」
依澄は、消えた病室のあたりを見つめていた。
「『また会える』って言ってる」
美咲の顔が一瞬だけ別の少女の顔へ揺れた。
その奥で、幼い声がかすかに響く。
『夢から帰れたら、また夢を見られるよ』
「西園寺先輩!」
玄兎が声を張る。
「ここにいるために、美咲さんを忘れるんですか!」
西園寺は壁に浮かぶ写真を見た。
白い滲みが、本物の美咲の泣き顔へ届く。
『もう連絡しないで』
かすかな声が聞こえた。西園寺は顔を歪めたが、目を逸らさなかった。
「……嫌だ」
「何が?」
美咲が訊く。
「俺に怒った美咲まで消えるのが嫌だ。別れたことも、嫌われたことも、ちゃんと俺の記憶だ」
「私なら許すよ」
「それが嫌なんだ!」
西園寺が叫んだ。
「何でも許す美咲じゃなくて、俺に怒った美咲の言葉を覚えていたい!」
白い腕が一瞬だけ緩む。
「今!」
依澄が叫んだ。
玄兎は西園寺を引き寄せる。だが、美咲の腕が異様な長さに伸び、西園寺の背中へ回った。
「拓海。お願い。置いていかないで」
初めて美咲が泣いた。
西園寺の表情が揺らぐ。
玄兎は歯を食いしばる。
「それに答えるのは、起きてからです! 夢の美咲じゃなくて、現実の自分で決めてください!」
西園寺は目を閉じた。
「……帰る」
カフェ全体が大きく軋んだ。
同時に玄兎の手首へ、痛いほどの冷たさが走る。
◇
保健管理センターでは、玄兎の心拍が急に跳ね上がっていた。
「玄兎先輩の匂いが遠くなってます。でも、まだいます!」
小毬は眠った玄兎の顔から目を離さず、何度も息を吸った。焼肉の残り香、学食、乾いた紙、そして依澄とつないでいる手の汗。朝から拾ってきた匂いを、一つずつ辿り直す。
千燈は玄兎の指先へ触れ、ほんのわずかな血の気配だけを拾った。
「怖がってる。でも、帰る方向は失ってない。誰かを引っ張ってる感じがする」
透羽は二人の手首へ落とした水を細い線でつなぎ、呼吸の乱れを見つめていた。
「なら、こちらから道を太くします」
水が冷たく光る。
「玄兎。依澄さん。聞こえるなら、冷たい方が現実です」
◇
玄兎の手首へ、痛いほどの冷たさが走った。
「透羽……!」
現実側からの水だ。
遠くから声が届く。
『玄兎! 依澄さん! 西園寺さん!』
『こっちです! 帰ってきてください!』
小毬の声。千燈の声。
依澄が目を閉じた。
「今なら、あの病室だけ残せる」
「できる?」
「一人なら怖い。でも今は、外も玄兎もいる」
依澄は玄兎の手を握ったまま、空いた手を前へ伸ばす。
「《蝶境》」
薄紫色の蝶が、病室の小さな記憶だけを包むように舞った。
その外側へ絡みついていた『帰りたくない』『離したくない』という声が、細い糸のように浮かび上がる。
「透羽。今!」
現実から、透羽の声が返る。
『分かりました』
手首の水が白く光った。
『《白鷺浄界》』
光が夢の中へ流れ込む。病室を包む蝶は消えず、その外側へ絡んだ黒い糸だけが白く焼け、次々に切れた。
美咲の身体から力が抜けた。
最後に彼女は、西園寺ではなく、どこか遠くを見るような表情をした。
それが本物の美咲の顔だったのか、元の少女の面影だったのか、玄兎には分からなかった。
「帰って」
小さな声がした。
次の瞬間、カフェも黒い水も白い腕も、光の中へほどけていった。
「走って!」
依澄の蝶が一本の道を作る。
玄兎は依澄の手を離さず、反対の手で西園寺を引いた。
背後からもう「帰さない」という声はしなかった。
◇
「玄兎!」
透羽の声で目を開けた。
白い天井。保健管理センター。手首に残る水の冷たさ。
「……戻った」
隣では西園寺が跳ね起き、荒い呼吸を繰り返していた。
「帰る……俺、帰るって……」
「西園寺先輩。ここは現実です」
玄兎が声をかけると、西園寺は数秒かけて彼の顔を認識した。
「……美咲は?」
「いません」
西園寺は目を閉じ、大きく息を吐いた。安心と悲しさのどちらともつかない顔だった。
「そっか」
それ以上、夢の美咲について確かめようとはしなかった。
玄兎は隣を見る。依澄はまだ目を閉じているが、つないだ手は弱く握り返してくる。
「依澄」
長い睫毛が揺れた。
「蝶ヶ森依澄」
「……鵺代玄兎」
「そう。帰ったぞ」
依澄がゆっくり目を開ける。
顔色は白く、輪郭も朝よりわずかに淡く見えた。玄兎はその変化に気づいて、つないだ手へ力を込める。
「手、離してない」
「約束したからな」
小毬が勢いよく近づいてきた。
「玄兎先輩! 西園寺先輩! それから……」
言葉が止まった。
小毬は依澄を見て、困ったように眉を寄せる。
「……誰、でしたっけ」
玄兎の胸が冷えた。
「依澄だよ。蝶ヶ森依澄。今日一緒に唐揚げ食べただろ」
「今日……?」
小毬は何度か鼻を動かす。やがて目を見開いた。
「夢みたいな匂い……あ、依澄先輩!」
「うん」
「ごめんなさい!」
「いい。戻ったから」
「よくない」
玄兎自身、思ったより強い声が出た。
依澄が彼を見る。
「慣れてる」
「だから嫌なんだよ」
玄兎はつないだ手を見た。
「俺は覚えてる。依澄が俺と西園寺先輩を連れて帰ったこと」
「夢なのに?」
「夢でも、一緒にいた。なかったことにはしたくない」
依澄の瞳が、ほんの少し揺れた。
「じゃあ」
彼女は真剣な顔で訊いた。
「夢の中で恋人だった人は、現実でも恋人になる?」
部屋が静まり返った。
「それだけじゃならない。現実でも同じ気持ちか、聞かないと」
「同じベッドで起きたのに?」
「そこは忘れていい」
「同じベッド!?」
小毬の声が跳ね、千燈が笑う。透羽だけは妙に静かな顔をしていた。
依澄は少し考える。
「じゃあ、まず知る?」
「うん。まずはそこからにしよう」
依澄はスマートフォンへ、
『知っている気がする ≠ 恋人』
と打ち込んだ。
西園寺は隣のベッドで一連の会話を聞いていたが、やがて小さく笑った。
「……夢の中より、こっちの方がうるさいな」
「すみません」
「いや」
西園寺は自分のスマートフォンを見る。
「でも、今はこっちの方がいい」
須藤から連絡が入ったのは、その直後だった。
『ほかの利用者、順番に起き始めてます。寝たままだった人も反応が戻りました。例の音声データは隔離して、共有リンクも消します』
念のため研究会室へ移動して確認すると、古いヘッドセットへ近づけた透羽の水はもう震えなかった。須藤は何度も謝ろうとしたが、透羽は利用者への連絡を先にするよう告げた。
須藤がヘッドセットを透明な保管袋へ入れる。袋越しに見えた古い傷へ、玄兎は一度だけ目を止めた。
もう一度、少女の声を再生して確かめようとは思わなかった。
◇
夕方、五人は学食の端に集まっていた。
依澄はオムライスと唐揚げのメニューを交互に見比べ、結局唐揚げを選んだ。
「今日はまだ好き」
「明日は変わるかもな」
「じゃあ明日も聞いて」
玄兎が答える前に、小毬が勢いよく手を上げた。
「私も聞きます!」
千燈が笑う。
依澄は選んだ唐揚げを一口食べ、メニューを閉じた。プリンを見ていた透羽も、自分の皿へ目を戻す。
透羽は食事のあと、玄兎だけを図書館へ呼んだ。
端末へ依澄の学生証番号を入れる。画面にはすぐ『在籍中』と出た。履修登録にも今日の講義にも名前がある。
透羽が一つ前の画面へ戻り、入学時の情報を開いた。出身高校の欄が白い。入試区分も、緊急連絡先も空欄だった。
玄兎は画面へ顔を寄せた。
「入学時の情報が空欄なのに、在籍扱いなんだな」
「ええ。普通に登録しただけで、こうなるとは考えにくいです」
透羽はそれ以上スクロールせず、画面を止めた。
「もし依澄が怪異だったら?」
玄兎が訊くと、透羽は少し考えてから答えた。
「警戒はします。ただ、正体が怪異であるという理由だけで祓うことはしません。少なくとも今日、彼女は西園寺さんを現実へ帰そうとした。それも事実です」
「そう言ってくれると、嬉しい」
玄兎が言うと、透羽は端末を閉じた。
「では、今日はそこまでです」
透羽は先に立ち上がった。耳が少し赤い理由は、玄兎にはまだ分からなかった。
◇
大学を出る前、依澄は中庭のベンチへ一人で座り、スマートフォンを開いた。夕方の熱が残る石畳を風が抜け、遠くでは運動部の掛け声が聞こえている。夢の中の静かすぎる街とは違って、現実は少し騒がしかった。
今日一日のことを忘れないように、短い言葉で残してある。
『唐揚げは好きだった』
『夢へ入る前は許可を取る』
『西園寺拓海を二人で連れて帰った』
『玄兎は手を離さなかった』
最後の一行を見て、依澄は自分の左手を開いた。夢の中で握っていた感触は、もう残っていない。
依澄はメッセージ画面を開く。
『玄兎。明日も一緒にご飯を食べる?』
送ってから、少しだけ待った。
『いいよ。明日は何が好きになるか当てよう。』
依澄は返信を読み、メモの最後へ一行足した。
『明日も一緒にご飯を食べる』
少し考えて、その行だけは消さなかった。
――第五話・了