六月の朝。昨夜までの雨が上がった朽木ヶ丘大学南門には、濡れた土と銀杏の葉の匂いが残っていた。
玄兎は構内へ入る前に、左鎖骨の下の黒い痣へ一度だけ触れた。熱はない。一昨日の夜、鏡の怪異に裂かれた右肩も、ガーゼの下で鈍く痛む程度だった。
スマートフォンには、透羽からの『体調に変化はありませんか』という確認と、午前二時過ぎに千燈から届いた『玄兎くんの血、やっぱり気になる』というメッセージが残っている。前者には返信し、後者には『今日はもう寝てください』と返した。
窓に先回りして笑う顔も、誰もいない場所から呼ぶ声もない。学生たちはいつも通り講義棟へ向かっている。
玄兎は門をくぐり、少しだけ肩の力を抜いた。
「今朝は普通そうだな」
そう呟いた直後、背後から女性の声がした。
「普通、ですか?」
玄兎は振り返る。
誰もいない。
いや、正確には目線の高さに誰もいなかった。
「もう少し下です、先輩」
視線を下げると、小柄な少女が玄兎のすぐ後ろに立っていた。
肩口で揺れる髪は、根元のアッシュブラウンから毛先に向かって銀灰色へ淡く変わっている。大きな琥珀色の瞳は人懐っこく、白いパーカーの上に短いジャケットを羽織った姿からは、朝の大学へ来ただけとは思えないほど活動的な印象を受けた。
ただし、距離が近い。
少女は玄兎の肩口へ鼻先を寄せ、すん、と小さく息を吸った。
「初対面だと思うんだけど、何を確認されてる?」
「匂いです。門の外から気になってました」
昨日も千燈に似た距離まで詰められて匂いを確かめられた。二日続けて初対面の相手に嗅がれると、さすがに自分の方が気になってくる。
「昨日、鷺宮先輩と緋鴉先輩と一緒にいましたね。あと、にんにく食べました?」
「ファミレスで少し」
「やっぱり」
少女は楽しそうに笑う。それから、ようやく自分が名乗っていないことへ気づいたように姿勢を正した。胸の前で重ねた左手が、右の親指を軽く包む。
「白狼院小毬です。一年生です。小毬でいいですよ」
「まだ会って二分くらいだし、とりあえず白狼院さんで」
「じゃあ私は玄兎先輩って呼びます」
「俺の名前は知ってたんだ」
小毬はあっさり頷いた。
「今ちょっと有名なので。鷺宮先輩に監視されてて、緋鴉先輩とも夜遅くまで一緒にいた人」
「事実だけ並べてるのに、妙に誤解を招くな」
玄兎が額を押さえると、小毬はまた笑った。
しかし次に玄兎を見上げた時、その表情から少しだけ明るさが消えた。
「でも、やっぱり変です」
「人間の匂いはします。コーヒー、洗剤……そこは普通です」
小毬の眉がわずかに寄る。
「でも、なんだろ。もう一回確かめたくなる」
「分からない?」
「まだ。でも、嫌な匂いではないです。むしろ先輩自身の匂いは落ち着きます」
「初対面なのに?」
「匂いは、少なくとも言葉より先に分かることがありますから」
その時、背後から聞き慣れた声が飛んできた。
「玄兎。朝から何をしているのですか」
鷺宮透羽が立っていた。
淡い水色のカーディガンに白いブラウス。長い黒髪は朝の風にわずかに揺れ、手にはいつものペットボトルの水がある。
「おはよう。俺は今、匂いを調べられてる」
小毬は透羽を見ると、嬉しそうに手を上げた。
「透羽先輩、おはようございます!」
「おはようございます、白狼院さん。……玄兎へそこまで近づく必要がありますか」
「近い方が細かく分かります」
「そうですか」
透羽は納得したようでいて、玄兎と小毬の間へ自然に視線を置いた。
そこへ、さらに軽い声が混じる。
「朝から面白そうだね」
緋鴉千燈だった。
黒髪の内側に混じる深紅が、朝の薄い光を拾っている。三人へ近づいた千燈を見て、小毬がふと目を細めた。
「緋鴉先輩、昨日、玄兎先輩の血に触りましたよね?」
千燈の笑顔が一瞬だけ止まった。
「うん。傷から滲んだのが指についた程度だけどね」
「やっぱり。かなり薄いですけど、まだ残ってます」
透羽の視線が千燈の手へ移ったが、千燈は笑顔のまま肩をすくめた。
玄兎は三人を見回した。
「白狼院さんは二人と知り合いなの?」
「はい。白狼院家は怪異の追跡で鷺宮家に協力してるので。緋鴉先輩とも何度か会ってます」
透羽が続ける。
「白狼院家は人狼の血を引く家系です。嗅覚と聴覚、一時的な身体能力の強化に優れています」
「人狼」
玄兎は小毬を見る。
小毬は胸を張った。
「犬じゃありません。狼です」
「まだ犬とは言ってない」
「先に言っておきます」
千燈が吹き出す。
玄兎も笑いかけた、その時だった。
小毬の表情が突然止まった。
笑みが消え、鼻先がわずかに動く。
視線は玄兎たちではなく、南門から講義棟へ続く歩道へ向いていた。
「小毬?」
千燈が呼ぶ。
小毬は返事をしなかった。
一人の女子学生が、こちらへ歩いてくる。
肩までの黒髪に、生成り色のトートバッグ。小毬と同じくらいの年頃で、玄兎たちを見つけると、呆れたような笑顔を浮かべた。
「小毬、小毬。また知らない人の匂い嗅いでる」
小毬がぱっと振り返る。
「莉奈。知らない人じゃないです。玄兎先輩です」
「今朝知り合ったんでしょ?」
「もう名前知ってます」
「それを知り合い判定に入れていいのかな」
女子学生――高瀬莉奈は玄兎へ軽く頭を下げた。
「高瀬莉奈です。小毬と同じ一年です。すみません、この子、距離感まで鼻で測るので」
「ちょっと莉奈。変な紹介しないで」
「間違ってないでしょ」
小毬は不満そうに頬を膨らませたものの、すぐに莉奈へ目を向けた。
「昨日、図書館行った?」
「行ったけど」
「三階の古い本が多いところ」
「地域史のレポートでね。……そこまで分かる?」
「紙と埃がいつもより強い」
莉奈は玄兎へ苦笑してから、小毬を見た。
「帰りは北門からだったよ。あの先の古い住宅街、実家の近所に似てて落ち着くんだよね」
小毬は、鼻で分からなかった話も頷いて聞いていた。
その時、小毬の表情がほんの一瞬だけ止まった。
「……あれ?」
「今度は何?」
「いや。今は大丈夫」
小毬は首を傾げたものの、それ以上は何も言わなかった。
莉奈が腕時計を見る。
「私、一限、東二号館だから行くね。小毬も遅れないでよ」
「分かってる」
莉奈は笑いながら手を振り、人の流れへ混ざっていった。
小毬はその背中を見送った。
「何か気になる?」
玄兎が訊くと、小毬は少し考えてから答えた。
「ほんの一瞬だけ、莉奈の匂いが薄くなった気がしたんです。でも、すぐ戻りました。たぶん人が多くて混ざっただけだと思います」
透羽は莉奈が消えた方向を見た。
「その感じが続くなら、少しのことでも教えてください」
「はい」
小毬が頷いたところで、透羽は少し考えてから付け加えた。
「それと白狼院さん。玄兎とも連絡先を交換しておいてください。私が講義中ですぐ応答できない時は、玄兎経由でも構いません」
小毬はもうスマートフォンを取り出していた。
「じゃあ玄兎先輩、お願いします」
玄兎も端末を出し、表示したQRコードを読み取ってもらう。交換が終わると、小毬から犬とも狼ともつかない小さなスタンプが一つ届いた。
その時点では、誰もそれ以上気にしなかった。
◇
二限が終わったのは、午前十一時五十分だった。
玄兎が講義室を出たところで、スマートフォンが震えた。小毬からの短いメッセージが届いている。
『玄兎先輩、今どこですか』
続けて、すぐにもう一通。
『莉奈の匂いがありません』
玄兎が透羽へ画面を見せると、彼女はすぐに歩き出した。
『中央学食の入口です』
五分後、玄兎と透羽が学食へ着くと、千燈もすでにそこにいた。
小毬は入口脇のベンチに座る莉奈の前で、顔を強張らせていた。朝と見た目は何も変わらない。莉奈は困ったように自分の袖を嗅いでいる。
「私は柔軟剤の匂いするけど」
「私にもする」
千燈が頷く。
小毬は首を振った。
「ほかの匂いは全部分かります。莉奈だけ、何にも匂わないんです。朝はちゃんと分かったのに」
透羽が莉奈へ尋ねた。
「二限までに、普段と違うことはありませんでしたか」
「特には……一限は英語で、二限は基礎心理です」
「どちらの講義室?」
「一限は東二号館。二限は中央講義棟の三〇四です」
小毬が顔を上げた。
「三〇四?」
同じクラスの学生にも確認すると、講義中、誰もいない最後列から何度も鼻をすすったような「すん」という音が聞こえたという。
莉奈の顔から笑みが消えた。
「……私も聞いた。後ろから、すん、って。小毬がいるのかと思った」
「私、二限は別の棟だよ」
「分かってる。だから見なかった。終わる頃には忘れてた」
透羽は三〇四の使用予定を確認した。午後も講義が続いており、今すぐ室内を調べることはできない。
四人で中央講義棟まで移動し、次の授業が始まる前、人の切れた廊下から三〇四を確認した。扉の小窓の向こうには、ごく普通の机と椅子が並んでいる。
透羽が扉の下へ清め水を一滴だけ触れさせる。
水面が、ごくわずかに震えた。
「かすかですが、反応があります。講義が終わったら、中を確かめましょう」
小毬が莉奈の隣へ寄る。
「それまで私が一緒にいます」
「今日ずっと、そうやって私の匂い嗅いでるつもり?」
「嫌なら半歩離れる」
「半歩なんだ」
いつものやり取りなのに、小毬は笑わなかった。
◇
午後三時四十二分。
小毬から電話が入った。
玄兎は講義を終えて廊下へ出たところだった。通話を取った瞬間、小毬の呼吸がいつもより速いことが分かった。
『玄兎先輩。莉奈、いなくなりました』
「いつから?」
『三限が終わるまでは一緒でした。私、次の講義が別棟だから、四限だけ離れたんです。終わって連絡したら返事がなくて』
「電話は?」
『出ません。同じ講義だった子に聞いたら、途中で教室を出たって』
「何かあった?」
少し間が空いた。
『「小毬が廊下で呼んでる」って言ってたそうです』
玄兎はすぐ歩き始めた。
「透羽と千燈先輩にも連絡する。すぐ合流しよう」
『……はい』
返事が短い。
中央広場で合流した時、小毬は人の流れを見回していた。
「分からない」
玄兎を見るなり、悔しそうに言った。
「莉奈がどっちへ行ったか、全然分からないです。教室には朝と同じ匂いが残ってる。でも廊下へ出たあとの匂いがない」
透羽が大学の防犯と施設担当へ連絡し、一般の迷子・体調不良者として確認を依頼する。千燈は莉奈の友人へ連絡し、最後に見た服装や様子を聞き始めた。
小毬だけが、その場で立ち尽くしていた。
「私、こういう時のために鼻があるのに」
玄兎が隣へ立つ。
「莉奈が行きそうな場所、何か話してなかった?」
玄兎が聞くと、小毬は鼻先を止めた。
小毬はすぐには答えなかった。
鼻ではなく、記憶を探すように目を伏せる。
「人が多いところ、苦手です。具合悪い時は、中央通りより北門側から帰ります」
「北門の先は?」
「朝話した古い住宅街。実家の近所に似てて、落ち着くって」
小毬は顔を上げた。
「……そこかもしれない」
「行こう」
千燈がスマートフォンをしまった。
「私と透羽ちゃんは大通り側。玄兎くんと小毬ちゃんは住宅街。連絡は常時で」
透羽も頷く。
「位置は共有してください。異常があれば追わずに連絡を」
「はい」
小毬の返事には、今度は少し力が戻っていた。
◇
大学の北門を出ると、人通りは急に少なくなった。
古い住宅街には、低い塀と瓦屋根の家が並んでいる。新しいマンションも混じっているが、細い道の曲がり方や、庭木が道路へ少しはみ出している感じには、長く人が住んできた場所特有の落ち着きがあった。
夕食にはまだ早い。それでも開いた窓から味噌汁の出汁や焼いた魚の匂いが流れ、玄兎にも生活の気配が分かる。
小毬は周囲へ意識を向けたが、莉奈の匂いは拾えないらしい。
悔しさを隠そうとするように、小毬は少し早足になる。
「小毬」
玄兎が呼ぶと、彼女は反射的に立ち止まった。
「今は走らない方がいい。見落とす」
「……はい」
並んで歩く。
しばらくして、小毬が小さく言った。
「莉奈がこの辺を好きなの、私もちょっと分かります」
玄兎は横を見る。
小毬は住宅の窓から漂う夕飯の匂いを吸い込み、少しだけ寂しそうに笑った。
「大学に入って一人暮らしになって、自由なのは楽しいです。でも、帰りたい日もあります」
小毬は少し照れたように笑い、右手を軽く握った。左手がその親指を包む。
「一人でご飯食べてると、お母さんの味噌汁とか、お父さんがテレビ見ながら変なところで笑う声とか、急に思い出すんです」
「会いたくなったら、帰る日があってもいいんじゃない?」
「そんな簡単に言います?」
「帰っちゃいけない決まりもないだろ」
小毬は一度瞬きをして、それから笑った。
「先輩、たまにすごく普通のこと言いますね」
「普段何だと思われてるんだ」
「死んでも戻る変な先輩」
「普通から遠いな」
笑いながらも、小毬の歩幅は少し落ち着いた。
次の角を曲がったところで、彼女が突然立ち止まる。
「……声」
玄兎も耳を澄ませた。
住宅の向こうから、かすかに誰かの声がする。
「小毬」
莉奈の声だった。
小毬が走り出しかける。
玄兎は腕を掴まず、名前だけを呼んだ。
「小毬」
彼女は一歩目で止まった。
「確認してから」
「……はい」
二人は声の方向へ慎重に進む。
細い道の先に、小さな児童公園があった。滑り台と鉄棒、それから色の褪せたベンチが一つ。夕方前の公園には誰もいない。
いや、ベンチの前に一人だけ立っていた。
「莉奈!」
小毬が今度こそ駆け寄る。
莉奈はぼんやりした顔で振り返った。
「……小毬?」
「何してるの! 電話も出ないし!」
小毬は友人の肩を掴み、顔、手、足と怪我がないか確かめる。
「ごめん。私……」
莉奈は眉を寄せた。
「小毬に呼ばれたと思った」
「私、四限別の講義だったよ」
「分かってる。でも廊下で声がして、『こっち』って。追いかけたら北門まで来てて、そのあと……」
莉奈は公園の奥を見る。
植え込みの向こうには、さらに細い路地が伸びている。
「また小毬の声がした。『こっちだよ』って」
小毬の指に力が入る。
「私、莉奈に『こっちだよ』なんて言わない」
「うん。今考えると変なんだけど、その時は全然おかしいと思わなかった」
玄兎は周囲を見る。
誰もいない。
それでも、公園の奥から一度だけ、すん、と鼻を鳴らすような音が聞こえた。
小毬がすぐ莉奈を自分の後ろへ下げる。
その動きに迷いはなかった。
「玄兎先輩、戻りましょう。ここで追わない方がいいです」
「賛成」
小毬は莉奈の手を離さないまま、玄兎が透羽へ連絡するのを待った。十分ほどで千燈と一緒に合流し、莉奈は保健管理センターへ連れていかれることになった。
小毬は最後までその隣を離れなかった。
◇
午後六時前。
莉奈の診察に大きな異常はなかった。
保健管理センターの待合スペースで、莉奈の匂いは少しずつ戻り始めていた。シャンプー。柔軟剤。カフェオレ。古い住宅街の土と植木。公園の鉄棒に触れた金属の匂い。
小毬はそれを確認して、ようやく深く息を吐いた。
「戻ってる」
莉奈が笑う。
「じゃあ、もう大丈夫?」
「たぶん。でも今日は一人で帰らないで」
「分かった。サークルの子に駅まで一緒に行ってもらう」
莉奈はそこで少し迷い、小毬へ言った。
「ありがと。見つけてくれて」
小毬は一瞬、言葉に詰まった。
「……鼻では見つけられなかった」
「でも小毬が見つけたじゃん」
「玄兎先輩が、莉奈ならどこ行くって聞いてくれたから」
「それでも、私があの道好きなの覚えてたの小毬でしょ」
莉奈はいつもの調子で笑った。
「鼻なくても、ちゃんと私のこと知ってるじゃん」
小毬は少しだけ俯き、それから「うん」と頷いた。
ところが、莉奈が帰って十分もしないうちに、小毬の表情が変わった。
自分の袖へ鼻を近づけた。そこで表情が止まる。
「どうした?」
玄兎が訊く。
「……私の匂いが薄いです」
透羽が立ち上がった。
「どの程度ですか」
「洗剤は分かる。でも、自分の肌の匂いが分からない」
千燈が小毬の手首へ顔を近づける。
「私には普通に分かるよ」
「私にはしません」
小毬の声が固くなる。
数秒後。
待合スペースの反対側から、小毬自身の声がした。
「玄兎先輩」
四人ともそちらを見る。
空いている椅子が並んでいるだけだった。
小毬本人は玄兎の隣にいる。
玄兎が目を戻す。
その瞬間、妙な感覚があった。
頭では小毬が隣にいると分かっているのに、視線が空席へ引かれた。そこにも彼女が座っている気がした。ほんの一秒だけ。
「透羽」
「私もです」
透羽の声が低くなる。
「一瞬、空席へ白狼院さんがいると思いました」
千燈も笑っていない。
「匂いだけじゃないんだ」
小毬が空席を見る。
透羽はすでにスマートフォンを取り出していた。
「ここを離れましょう。三〇四が原因とはまだ言い切れません。ただ、昼に反応があったので、今夜は使わないよう頼んで、改めて調べます」
「危なくない?」
玄兎が尋ねる。
「このまま学生や職員にまで影響が広がる方が危険です。もちろん、入る前に外から確かめます」
小毬は少し青ざめていた。
それでも、自分から言った。
「行きます」
「白狼院さんを外す選択もあります」
「たぶん、もう私についてます。ここで一人になる方が怖いです」
透羽は小毬の顔を数秒見てから頷いた。
「分かりました。ただし、無理だと思ったらすぐ言ってください」
「はい」
◇
午後六時四十分。
三〇四講義室には、昼間と同じ机と椅子が並んでいた。
窓の外は夕暮れに変わり、学生の姿はない。透羽が入口から細い水を這わせると、最後列へ届いたところで水面が震えた。
「昼より濃い。ここにいます」
小毬が一歩入る。
その瞬間、右側の席から玄兎の声がした。
「小毬」
玄兎本人は左後ろにいる。
続いて前方から透羽、最後列から千燈の声がした。
「白狼院さん」
「小毬ちゃん」
小毬の顔色が変わる。
「声だけじゃないです。匂いもあります」
右に玄兎。前に透羽。後ろに千燈。
けれど本物は全員、別の位置にいる。
小毬は目を閉じかけ、すぐに開いた。
「閉じた方がひどい。鼻と耳だけになるから」
今度は、小毬自身の声が最後列からした。
「玄兎先輩」
玄兎の視線が一瞬そちらへ引かれる。
頭では隣に小毬がいると分かっているのに、声と気配だけなら最後列にも小毬がいる。
小毬の呼吸が浅くなった。
「私、自分がどこにいるかも分からなくなってきました」
玄兎は彼女を見る。
左手が、無意識に右の親指を包んでいた。
「小毬」
琥珀色の目がこちらへ向く。
「今、右の親指握ってる」
小毬が自分の手を見る。
「朝もやってた。莉奈を探してる時も、不安になるとそうしてた」
「……そんなの、私知らなかった」
「俺も今日知った」
玄兎は続けた。
「俺は小毬の匂いなんて最初から分からない。朝から話して、莉奈が消えた時に鼻が使えなくて悔しがって、それでも莉奈が好きな道を思い出して探した。今そこで親指握ってる。それが俺の知ってる小毬だ」
小毬の肩から、少しだけ力が抜けた。
直後。
右側の空席から玄兎の声がした。
『今、右の親指握ってる』
さらに遅れて、
『朝から話して、莉奈を探して――』
小毬が顔を上げた。
「……遅い」
教室のあちこちで、すん、と鼻を鳴らす音がした。
「声も匂いも真似できる。でも、今ここで初めてしたことは、一拍遅れる」
小毬はもう偽物の声を追わなかった。
透羽が床へ広げた水を見て、千燈が反対側の通路へ回る。逃げ道を挟むように二人が位置を取った。
最後列から莉奈の声がした。
『小毬、こっち』
小毬の目が一瞬揺れる。
それでも動かない。
「莉奈は、そんな呼び方しない」
その直後、最後列中央で、すん、と音がした。
一拍遅れて別の席から同じ音。
小毬が指を向ける。
「透羽先輩。最後列の真ん中です!」
透羽の水が一気に走った。
「《水鏡》――固定」
机と椅子の間を白い水が囲う。
何もない空間が内側から大きく歪み、玄兎、透羽、千燈、小毬、莉奈の声が一斉に噴き出した。
黒い影が囲いの外へ伸びる。
千燈の爪が一度だけ閃き、その先を切り払った。
「そっちは駄目」
水の囲いが閉じる。
怪異は最後まで小毬自身の声で叫んだ。
『ここにいる』
『玄兎先輩』
『小毬』
小毬は耳を塞がなかった。
「返してください」
震えてはいたが、声ははっきりしていた。
「匂いも、声も、場所も。勝手に持っていかないで」
透羽が両手を閉じる。
水の中の空白が縮み、泡のように弾けた。
教室が静かになる。
透羽は数十秒そのまま術を維持し、声も気配も増えないことを確かめてから水を解いた。
小毬は自分の手首へ鼻を寄せ、ゆっくり息を吸う。
「……する。私の匂いです」
それから玄兎たちを順番に見た。
「先輩たちも、一人ずつです」
千燈が肩の力を抜く。
透羽が小さく息を吐いた。
「今日はもう嗅覚を強く使わないでください。白狼院さん自身への干渉が長すぎます」
「はい」
小毬は素直に返事をした。玄兎の顔を見て、今度は鼻を動かさずに小さく頷いた。
◇
午後八時過ぎ。
大学近くのファミリーレストランで、小毬は大きなハンバーグとチキンステーキのセットを前にしていた。
「感覚器を休めろって言われた直後に、その量食べる?」
「嗅覚と胃は別です。本当に怖かったので、お腹すきました」
小毬は一口食べ、ほっと息を吐く。
「ちゃんと美味しいです」
少しして、玄兎へ顔を向けた。
「莉奈に『鼻なくても私のこと知ってるじゃん』って言われたの、ちょっと悔しかったです」
「嬉しいだけじゃなかった?」
「鼻には自信あったので」
千燈が頬杖をつく。
「じゃあ、小毬ちゃんにとって私たちはもう群れ?」
「仮加入です」
「厳しいなあ」
小毬は笑って、一度だけ玄兎の肩口へ鼻先を寄せた。
「ちゃんと玄兎先輩です。でも、明日匂いが変わってても、たぶん分かります」
「自信あるな」
「今日一日分、覚えましたから」
玄兎は少し笑った。
「ありがとう」
小毬は満足そうに頷き、ふと思い出したように言う。
「それと、今日途中から私のこと小毬って呼びましたよね。もう戻さなくていいです」
「距離詰めるの早くない?」
「命を預けたので」
「その言い方はずるいな」
玄兎は苦笑した。
「分かった。小毬」
呼ばれた瞬間、琥珀色の目が嬉しそうに細くなる。
「はい、玄兎先輩」
小毬はそのまま笑って言った。
「じゃあ明日のお昼、焼肉行きませんか」
千燈がすぐに「行く」と答え、透羽も四限に間に合うならと頷いた。
「決まりです!」
玄兎も笑った。
――第四話・了