六月の朝。昨夜までの雨が上がった朽木ヶ丘大学南門には、濡れた土と銀杏の葉の匂いが残っていた。
玄兎は構内へ入る前に、左鎖骨の下の黒い痣へ一度だけ触れた。熱はない。昨日、鏡の怪異に裂かれた右肩も、ガーゼの下で鈍く痛む程度だった。
スマートフォンには、透羽からの『体調に変化はありませんか』という確認と、午前二時過ぎに千燈から届いた『玄兎くんの血、やっぱり気になる』というメッセージが残っている。前者には返信し、後者には『今日はもう寝てください』と返した。
窓に先回りして笑う顔も、誰もいない場所から呼ぶ声もない。学生たちはいつも通り講義棟へ向かっている。
玄兎は門をくぐり、少しだけ肩の力を抜いた。
「今朝は普通そうだな」
そう呟いた直後、背後から女性の声がした。
「普通、ですか?」
玄兎は振り返る。
誰もいない。
いや、正確には目線の高さに誰もいなかった。
「もう少し下です、先輩」
視線を下げると、小柄な少女が玄兎のすぐ後ろに立っていた。
肩口で揺れる髪は、根元のアッシュブラウンから毛先に向かって銀灰色へ淡く変わっている。大きな琥珀色の瞳は人懐っこく、白いパーカーの上に短いジャケットを羽織った姿からは、朝の大学へ来ただけとは思えないほど活動的な印象を受けた。
ただし、距離が近い。
少女は玄兎の肩口へ鼻先を寄せ、すん、と小さく息を吸った。
玄兎は半歩だけ下がった。
「初対面だと思うんだけど、何を確認されてる?」
少女もほとんど無意識のように半歩詰める。
「匂いです」
「即答なんだ」
「はい。門の外から気になってました」
もう一度、すん、と鼻が動く。
「昨日、鷺宮先輩とかなり長い時間一緒にいましたよね。それから緋鴉先輩も。服に二人の匂いが残ってます」
玄兎は自分のシャツの袖を嗅いでみた。当然ながら、洗剤と自分の体温くらいしか分からない。
「そこまで分かるもの?」
「私なら。あとはコーヒーと、醤油と……昨日、にんにく食べました?」
「ファミレスで少し」
「やっぱり」
少女は得意そうに笑った。
「唐揚げも食べましたね」
「それも分かるの?」
「それは適当です」
「推理を混ぜると信用しづらくなるんだけど」
少女は楽しそうに笑う。それから、ようやく自分が名乗っていないことへ気づいたように姿勢を正した。
「白狼院小毬です。朽木ヶ丘大学の一年生です。小毬でいいですよ」
「会ってまだ二分くらいだし、とりあえず白狼院さんで」
「先輩、意外とそういうところ固いですね」
「普通だと思う」
「じゃあ私は玄兎先輩って呼びます」
「俺の名前は知ってたんだ」
小毬はあっさり頷いた。
「今ちょっと有名なので。鷺宮先輩に監視されてて、緋鴉先輩とも夜遅くまで一緒にいた人」
「事実だけ並べてるのに、妙に誤解を招くな」
玄兎が額を押さえると、小毬はまた笑った。
しかし次に鼻を動かした時、その表情から少しだけ明るさが消えた。
「でも、やっぱり変です」
「俺の匂い?」
「はい。人間の匂いはちゃんとします。汗も、体温も、洗剤も、朝飲んだコーヒーも。その外側は普通です」
小毬は言葉を選ぶように少し首を傾げた。
「でも奥に、古いものがいくつか重なってるみたいな感じがします。獣っぽいものもあるし、濡れた石みたいに冷たいものもある。どれか一つを追おうとすると、別のものへ紛れて分からなくなるんです」
昨日、千燈が玄兎の血に触れた時にも、似た話をしていた。
一人分の人間としては説明しづらい気配が混じっている、と。
玄兎は冗談めかして肩をすくめた。
「それ、いい匂いではなさそうだな」
「嫌ではないです」
小毬は迷わず答えた。
「むしろ先輩自身の匂いは落ち着きます」
「初対面なのに?」
「匂いは、少なくとも言葉より先に分かることがありますから」
「人間は言葉でも匂いでも、たぶん結構ややこしいと思うけどな」
その時、背後から聞き慣れた声が飛んできた。
「玄兎。朝から何をしているのですか」
鷺宮透羽が立っていた。
淡い水色のカーディガンに白いブラウス。長い黒髪は朝の風にわずかに揺れ、手にはいつものペットボトルの水がある。
「おはよう。俺は今、匂いを調べられてる」
「なぜですか」
「俺も知りたい」
小毬は透羽を見ると、嬉しそうに手を上げた。
「透羽先輩、おはようございます!」
「おはようございます、白狼院さん。……玄兎へそこまで近づく必要がありますか」
「近い方が細かく分かります」
「そうですか」
透羽は納得したようでいて、玄兎と小毬の間へ自然に視線を置いた。
そこへ、さらに軽い声が混じる。
「朝から面白そうだね」
緋鴉千燈だった。
黒髪の内側に混じる深紅が、朝の薄い光を拾っている。三人へ近づいた千燈を見て、小毬はまた鼻を動かした。
「緋鴉先輩、昨日、玄兎先輩の血に触りましたよね?」
千燈の笑顔が一瞬だけ止まった。
「うん。傷から滲んだのが指についた程度だけどね」
小毬は千燈の手元へ意識を向け、もう一度だけ慎重に鼻を動かした。
「やっぱり。かなり薄いですけど、まだ残ってます」
「何度も洗ったんだけどなあ」
透羽の視線が千燈の手へ移る。
千燈は笑顔のまま両手を上げた。
「今日は何もしてないよ」
「今日は、という言い方が気になります」
「細かいなあ」
玄兎は三人を見回した。
「白狼院さんは二人と知り合いなの?」
「はい。白狼院家は怪異の追跡で鷺宮家に協力することがあります。緋鴉先輩とも何度か会ってます」
透羽が説明を引き継ぐ。
「白狼院家は人狼の血を引く家系です。完全な獣へ変わるわけではありませんが、嗅覚と聴覚、それから一時的な身体能力の強化に優れています」
「人狼」
玄兎は小毬を見る。
小毬は胸を張った。
「犬じゃありません。狼です」
「まだ犬とは言ってない」
「先に言っておきます」
千燈が吹き出す。
玄兎も笑いかけた、その時だった。
小毬の表情が突然止まった。
笑みが消え、鼻先がわずかに動く。
視線は玄兎たちではなく、南門から講義棟へ続く歩道へ向いていた。
「小毬?」
千燈が呼ぶ。
小毬は返事をしなかった。
一人の女子学生が、こちらへ歩いてくる。
肩までの黒髪に、生成り色のトートバッグ。小毬と同じくらいの年頃で、玄兎たちを見つけると、呆れたような笑顔を浮かべた。
「小毬。また知らない人の匂い嗅いでる」
小毬がぱっと振り返る。
「莉奈。知らない人じゃないです。玄兎先輩です」
「今朝知り合ったんでしょ?」
「もう名前知ってます」
「それを知り合い判定に入れていいのかな」
女子学生――高瀬莉奈は玄兎へ軽く頭を下げた。
「高瀬莉奈です。小毬と同じ一年です。すみません、この子、距離感まで鼻で測るので」
「ちょっと莉奈。変な紹介しないで」
「間違ってないでしょ」
小毬は不満そうに頬を膨らませたものの、すぐに莉奈へ鼻先を向けた。
「昨日、図書館行った?」
「行ったけど」
「三階の古い本が多いところ」
「地域史のレポートでね。……そこまで分かる?」
「紙と埃がいつもより強い。あと帰りにコンビニでミルクティー買った」
「それは?」
「蓋のところ触ったでしょ。甘い匂い残ってる」
莉奈は自分の指先を嗅ぎ、何も分からないという顔をしたあと、玄兎へ視線を向けた。
「こういう子なんです」
「便利そうだけど、隠し事はしづらそうだな」
「そこなんですよ」
「二人とも、私を監視カメラみたいに言わないでください」
小毬は抗議しながらも楽しそうだった。莉奈も慣れた様子で笑っている。玄兎には、二人が入学してからの短い期間ですでにかなり近い友人になっていることが分かった。
その時、小毬の鼻がもう一度動いた。
ほんの一瞬、表情が止まる。
「……あれ?」
「今度は何?」
「いや。今は大丈夫」
小毬は首を傾げたものの、それ以上は何も言わなかった。
莉奈が腕時計を見る。
「私、一限、東二号館だから行くね。小毬も遅れないでよ」
「分かってる」
「昨日も『匂い追ってたら遠回りした』って言ってたでしょ」
「ちゃんと間に合いました!」
「三分前は余裕とは言わないからね」
莉奈は笑いながら手を振り、人の流れへ混ざっていった。
小毬はその背中を見送りながら、もう一度だけ鼻を動かした。
「何か気になる?」
玄兎が訊くと、小毬は少し考えてから答えた。
「ほんの一瞬だけ、莉奈の匂いが薄くなった気がしたんです。でも、すぐ戻りました。たぶん人が多くて混ざっただけだと思います」
透羽は莉奈が消えた方向を見た。
「違和感が続くようなら教えてください。小さくても構いません」
「はい」
小毬は素直に頷いた。
その時点では、誰もそれ以上気にしなかった。
◇
二限が終わったのは、午前十一時五十分だった。
玄兎が講義室を出たところで、スマートフォンが震えた。小毬からの短いメッセージが届いている。
『玄兎先輩、今どこですか』
続けて、すぐにもう一通。
『莉奈の匂いがありません』
さっきまで教室を出ていく学生たちの声が、急に遠くなった。
玄兎が透羽へ画面を見せると、彼女はすぐに歩き出した。
「場所を聞いてください」
『中央学食の入口です』
五分後、玄兎と透羽が学食へ着くと、千燈もすでにそこにいた。
小毬は入口脇のベンチに座る莉奈の前で、落ち着かない様子のまま何度も鼻を動かしていた。
朝と見た目は何も変わらない。莉奈は少し困った顔で、小毬へ紙パックのカフェオレを差し出している。
「だから、飲む? 糖分足りてないだけじゃない?」
「そういう問題じゃない」
「でも私、普通でしょ?」
「普通に見える。でも、何にも匂わない」
玄兎たちに気づいた小毬が立ち上がった。
「朝はちゃんと分かったんです。シャンプーも、服も、昨日の図書館の埃も。でも今は全部ない。莉奈本人の匂いだけじゃなくて、今日歩いた場所の匂いも一つも付いてないです」
莉奈は自分の袖を嗅いだ。
「私には普通に柔軟剤の匂いするけど」
千燈も少し距離を取ったまま確かめる。
「私にもするね。香りの強いタイプじゃないけど、何もないってことはない」
透羽が小毬を見る。
「白狼院さんの嗅覚だけが、莉奈さんに関する情報を拾えていない可能性もあります」
「それなら、私がおかしいってことですか」
「まだ決めません。ほかの対象は?」
小毬はすぐ玄兎の肩口へ鼻を近づけた。
「先輩は分かります。朝よりコーヒーが一杯増えてます」
「そこまで正確に報告しなくていい」
次に透羽、千燈、ベンチ、床、近くを通った学生へ意識を向ける。
「全部普通です。莉奈だけです」
透羽が莉奈へ尋ねた。
「二限までに、普段と違うことはありませんでしたか」
「特には……一限は英語で、二限は基礎心理です」
「どちらの講義室?」
「一限は東二号館。二限は中央講義棟の三〇四です」
小毬が顔を上げる。
「三〇四?」
「うん」
「朝、私と別れたあと?」
「そうだけど」
小毬はスマートフォンを取り出し、何かを確かめ始めた。
「どうした?」
玄兎が訊く。
「同じクラスの子が、さっき変なこと言ってたんです。『今日、三〇四って変な匂いしなかった?』って。普通の人だから、埃っぽいとかそういう意味だと思って流してました」
「本人に聞ける?」
「聞きます」
数分後、返事が来た。
その学生自身には異常がなかった。ただ、講義中、後ろの席から何度も「誰かが鼻をすすっているような音」が聞こえたという。花粉症だと思って振り返ったが、最後列には誰も座っていなかったらしい。
莉奈の顔から笑みが消えた。
「……私も聞いた」
「いつ?」
小毬がすぐに訊く。
「講義の途中。後ろから、すん、って。小毬がいるのかと思った」
「私、一限別の棟だよ」
「分かってる。だから見なかった。終わる頃には忘れてた」
玄兎は透羽を見る。
「三〇四、見に行く?」
「一般の講義室です。次の使用予定を確認して、人がいない時間に見ましょう。それまでは莉奈さんを一人にしないでください」
小毬が即座に頷く。
「私が一緒にいます」
莉奈は苦笑した。
「今日ずっと鼻の前にいるつもり?」
「嫌なら半歩離れる」
「半歩なんだ」
いつものやり取りなのに、小毬は笑わなかった。
◇
午後一時二十分。
中央講義棟三階、三〇四講義室。
次の授業まで四十分ほど空いていた。二百人ほど入る、ごく普通の階段教室だった。前方に大きなホワイトボードとスクリーンがあり、長机には学生が置いていった消しゴムのかすやシャープペンシルの芯が残っている。窓の外からは、テニスコートの掛け声まで聞こえてきた。
秘密めいたものは何もない。
だからこそ、小毬が入口で足を止めた時、玄兎は嫌な感じがした。
「どう?」
「……変です」
小毬はゆっくり室内へ入った。
百人以上が使った直後だけあって、彼女には机も椅子も床も、人の痕跡で埋まっているらしい。ところが数段上がったところで、小毬は足を止めた。
「ここ、変です」
空席の机へ指先を向ける。
「座っていた人の手や飲み物の匂いは残ってる。でも、その人が席を立って通路へ出た続きだけがありません」
身体は普通に教室を出ているのに、小毬が追える痕跡だけが席へ置き去りにされている。
透羽が莉奈へ席を尋ねると、後ろから四列目、窓側から三番目だった。小毬はそこへ向かい、近づいた瞬間に顔を強張らせた。
「莉奈の匂い、ここにはあります。髪も、服も、朝のカフェオレも」
莉奈が自分の席を見つめる。
「でも、ここから先がない」
莉奈が小さく息を呑んだ。
「私、普通に教室出たよ」
「見てた人もいるはずです」
透羽が言う。
「実際の身体が移動していないという意味ではありません。白狼院さんが追える『痕跡』だけが、席へ置き去りになっている」
千燈が空席を見た。
「匂いだけ、座ったまま?」
「それなら今の莉奈が何も匂わない説明にはなります。でも、何のために……」
小毬が言いかけた時だった。
最後列から、声がした。
「小毬」
莉奈の声だった。
全員が振り返る。
最後列には誰もいない。
莉奈本人は小毬のすぐ隣にいる。
「今の、私?」
莉奈の声が震えた。
小毬は答えない。耳を澄ませ、鼻を動かす。
「違う」
もう一度、最後列。
「小毬」
声の調子まで莉奈に似ている。ただ、小毬の表情は今度は少し違った。
「似てるけど、違う」
「どう違う?」
玄兎が訊く。
「莉奈、私を呼ぶ時、こんなふうに一回ずつ呼ばないです。用事あるなら『小毬、小毬』って二回言う」
「そこ?」
莉奈が思わず言う。
「そこ。いつもそうじゃん」
「……言われるとそうかも」
小毬は最後列を睨んだ。
透羽がペットボトルの水を少量だけ指先へ移す。床へ落ちた水滴が細く広がり、最後列へ向かって進んでいく。
何かに触れたような反応はない。
ただ、一番後ろの空席へ近づいたところで、水滴がほんの一瞬だけ止まった。
次の瞬間には、普通に床へ広がった。
「今、何かあった?」
「ごく薄いです。怪異反応と断定できるほどではありません」
透羽は水を戻した。
「追い込まない方がいいでしょう。ここは一般学生が使う場所です。次の講義もあります」
小毬は納得しきれない顔をしたものの、莉奈を見て頷いた。
「分かりました」
部屋を出る直前、玄兎は何となく最後列を振り返った。
誰もいない席。
そこから、今度は玄兎自身の声がした。
「小毬」
玄兎は足を止める。
小毬も聞こえたらしい。
振り返らず、玄兎の袖を掴んだ。
「先輩は、今日まだ私のこと『小毬』って呼んでません」
「そうだな」
「じゃあ、あれは先輩じゃないです」
小毬は自分に言い聞かせるようにそう言って、玄兎の袖から手を離した。
◇
異変は、そこで終わらなかった。
午後三時四十二分。
小毬から電話が入った。
玄兎は講義を終えて廊下へ出たところだった。通話を取った瞬間、小毬の呼吸がいつもより速いことが分かった。
『玄兎先輩。莉奈、いなくなりました』
「いつから?」
『三限が終わるまでは一緒でした。私、次の講義が別棟だから、四限だけ離れたんです。終わって連絡したら返事がなくて』
「電話は?」
『出ません。同じ講義だった子に聞いたら、途中で教室を出たって』
「何かあった?」
少し間が空いた。
『「小毬が廊下で呼んでる」って言ってたそうです』
玄兎はすぐ歩き始めた。
「透羽と千燈先輩にも連絡する。小毬、一人で探し回るなよ」
『……はい』
返事が短い。
中央広場で合流した時、小毬はすでに周囲を何度も嗅いでいた。
「分からない」
玄兎を見るなり、悔しそうに言った。
「莉奈がどっちへ行ったか、全然分からないです。教室には朝と同じ匂いが残ってる。でも廊下へ出たあとの匂いがない」
透羽が大学の防犯と施設担当へ連絡し、一般の迷子・体調不良者として確認を依頼する。千燈は莉奈の友人へ連絡し、最後に見た服装や様子を聞き始めた。
小毬だけが、その場で立ち尽くしていた。
「私、こういう時のために鼻があるのに」
玄兎が隣へ立つ。
「鼻が使えないなら、別の手掛かり探そう」
「でも、私が一番莉奈を見つけられるはずなんです」
「普段ならな」
小毬が玄兎を見る。
玄兎は続けた。
「今日だけ普段じゃない。だったら、莉奈のこと知ってる小毬にしか分からないことを使おう」
「私にしか……」
「莉奈が不安な時、どこへ行く?」
小毬はすぐには答えなかった。
鼻ではなく、記憶を探すように目を伏せる。
「人が多いところ、苦手です。具合悪い時は、中央通りより北門側から帰ります」
「北門の先は?」
「古い住宅街があります。駅とは反対ですけど、そこを抜けるとバス停がある。前に一回だけ一緒に歩きました」
「どうしてそっち?」
「莉奈の実家の近所に似てるって。古い家が多くて、夕方になるとご飯の匂いがして、落ち着くって言ってました」
小毬は顔を上げた。
「……そこかもしれない」
「行こう」
透羽が振り返る。
「二人では行かせません」
「分かってる。四人で――」
「手分けした方が早いよ」
千燈がスマートフォンをしまった。
「私と透羽ちゃんは北門から大通り側を確認する。玄兎くんと小毬ちゃんは住宅街側。連絡は常時。変なものを見つけても追わない」
透羽は少し考え、それから頷いた。
「十分ごとに位置を共有してください。何かあれば、その場で止まること」
「はい」
小毬の返事には、今度は少し力が戻っていた。
◇
大学の北門を出ると、人通りは急に少なくなった。
古い住宅街には、低い塀と瓦屋根の家が並んでいる。新しいマンションも混じっているが、細い道の曲がり方や、庭木が道路へ少しはみ出している感じには、長く人が住んできた場所特有の落ち着きがあった。
夕食にはまだ早い。それでも開いた窓から味噌汁の出汁や焼いた魚の匂いが流れ、玄兎にも生活の気配が分かる。
小毬は何度か鼻を動かした。
けれど、莉奈の匂いは拾えないらしい。
「本当に何もない?」
「はい。通った人の匂いはいっぱいあるのに、莉奈だけ抜けてます」
悔しさを隠そうとするように、小毬は少し早足になる。
「小毬」
玄兎が呼ぶと、彼女は反射的に立ち止まった。
「今は走らない方がいい。見落とす」
「……はい」
並んで歩く。
しばらくして、小毬が小さく言った。
「莉奈、この辺が好きなんです」
「さっき言ってたな」
「私も、ちょっと分かります」
玄兎は横を見る。
小毬は住宅の窓から漂う夕飯の匂いを吸い込み、少しだけ寂しそうに笑った。
「大学に入ってから一人暮らしなんです。実家にいた時は、早く自分の部屋から出たいとか、もっと自由にしたいとか思ってたのに」
「今は?」
「帰りたい日があります。普通に」
言ったあと、小毬は少し恥ずかしそうに肩をすくめた。
「家族と喧嘩したわけでもないです。大学も楽しいし、一人暮らしも嫌いじゃない。でも夜に一人でご飯食べてると、お母さんの味噌汁とか、お父さんがテレビ見ながら変なところで笑う声とか、急に思い出すんです」
「帰ればいいんじゃない?」
「そんな簡単に言います?」
「会いたいなら会いに行っていいだろ。自立したら帰っちゃいけない決まりもないし」
小毬は一度瞬きをして、それから笑った。
「先輩、たまにすごく普通のこと言いますね」
「普段何だと思われてるんだ」
「死んでも戻る変な先輩」
「普通から遠いな」
笑いながらも、小毬の歩幅は少し落ち着いた。
次の角を曲がったところで、彼女が突然立ち止まる。
「……声」
玄兎も耳を澄ませた。
住宅の向こうから、かすかに誰かの声がする。
「小毬」
莉奈の声だった。
小毬が走り出しかける。
玄兎は腕を掴まず、名前だけを呼んだ。
「小毬」
彼女は一歩目で止まった。
「確認してから」
「……はい」
二人は声の方向へ慎重に進む。
細い道の先に、小さな児童公園があった。滑り台と鉄棒、それから色の褪せたベンチが一つ。夕方前の公園には誰もいない。
いや、ベンチの前に一人だけ立っていた。
「莉奈!」
小毬が今度こそ駆け寄る。
莉奈はぼんやりした顔で振り返った。
「……小毬?」
「何してるの! 電話も出ないし!」
小毬は友人の肩を掴み、顔、手、足と怪我がないか確かめる。
「ごめん。私……」
莉奈は眉を寄せた。
「小毬に呼ばれたと思った」
「私、四限別の講義だったよ」
「分かってる。でも廊下で声がして、『こっち』って。追いかけたら北門まで来てて、そのあと……」
莉奈は公園の奥を見る。
植え込みの向こうには、さらに細い路地が伸びている。
「また小毬の声がした。『こっちだよ』って」
小毬の指に力が入る。
「私、莉奈に『こっちだよ』なんて言わない」
「うん。今考えると変なんだけど、その時は全然おかしいと思わなかった」
玄兎は周囲を見る。
誰もいない。
それでも、公園の奥から一度だけ、すん、と鼻を鳴らすような音が聞こえた。
小毬がすぐ莉奈を自分の後ろへ下げる。
その動きに迷いはなかった。
「玄兎先輩、戻りましょう。ここで追わない方がいいです」
「賛成」
さっきまで見つけられないことへ焦っていた小毬が、今は友人を連れて帰ることを優先している。
玄兎は少し安心した。
透羽へ連絡を入れる。十分ほどで千燈と一緒に合流し、莉奈は保健管理センターへ連れていかれることになった。
小毬は最後までその隣を離れなかった。
◇
午後六時前。
莉奈の診察に大きな異常はなかった。
ただし、小毬にとっては別だった。
保健管理センターの待合スペースで、莉奈の匂いは少しずつ戻り始めていた。シャンプー。柔軟剤。カフェオレ。古い住宅街の土と植木。公園の鉄棒に触れた金属の匂い。
小毬はそれを確認して、ようやく深く息を吐いた。
「戻ってる」
莉奈が笑う。
「じゃあ、もう大丈夫?」
「たぶん。でも今日は一人で帰らないで」
「分かった。サークルの子に駅まで一緒に行ってもらう」
莉奈はそこで少し迷い、小毬へ言った。
「ありがと。見つけてくれて」
小毬は一瞬、言葉に詰まった。
「……鼻では見つけられなかった」
「でも小毬が見つけたじゃん」
「玄兎先輩が、莉奈ならどこ行くって聞いてくれたから」
「それでも、私があの道好きなの覚えてたの小毬でしょ」
莉奈はいつもの調子で笑った。
「鼻なくても、ちゃんと私のこと知ってるじゃん」
小毬は少しだけ俯き、それから「うん」と頷いた。
その顔は嬉しそうだった。
ところが、莉奈が帰って十分もしないうちに、小毬の表情が変わった。
自分の袖を鼻へ近づける。
もう一度。
「どうした?」
玄兎が訊く。
「……私の匂いが薄いです」
透羽が立ち上がった。
「どの程度ですか」
「洗剤は分かる。でも、自分の肌の匂いが分からない」
千燈が小毬の手首へ顔を近づける。
「私には普通に分かるよ」
「私にはしません」
小毬の声が固くなる。
数秒後。
待合スペースの反対側から、小毬自身の声がした。
「玄兎先輩」
四人ともそちらを見る。
空いている椅子が並んでいるだけだった。
小毬本人は玄兎の隣にいる。
玄兎が目を戻す。
その瞬間、妙な感覚があった。
頭では小毬が隣にいると分かっているのに、視線だけがもう一度、空席の方へ引かれる。
そこに小毬が座っている気がした。
ほんの一秒。
しかし、その一秒が気持ち悪かった。
「透羽」
「私もです」
透羽の声が低くなる。
「白狼院さん本人を見ているのに、空席側を『白狼院さんの位置』として認識しかけました」
千燈も笑っていない。
「匂いだけじゃないんだ」
小毬が空席を見る。
「莉奈がいなくなったのも……」
「痕跡を盗んで、本人の『いる場所』までずらしていた可能性があります」
透羽は即座に判断した。
「人のいる保健管理センターから出ます。三〇四講義室へ戻りましょう。今日の異常が最初に強く出た場所です。施設側へ連絡して、今夜は使用停止にします」
「危なくない?」
玄兎が尋ねる。
「ここで一般の学生や職員へ影響を広げる方が危険です。もちろん、部屋へ入る前に外から確認します」
小毬は少し青ざめていた。
それでも、自分から言った。
「行きます」
「白狼院さんを外す選択もあります」
「たぶん、もう私についてます。ここで一人になる方が怖いです」
透羽は小毬の顔を数秒見てから頷いた。
「分かりました。ただし、無理だと思ったらすぐ言ってください」
「はい」
◇
午後六時四十分。
三〇四講義室には、昼間と同じ机と椅子が並んでいた。
違うのは、窓の外が夕暮れに変わっていることと、学生が一人もいないことだけだった。
蛍光灯は明るい。廊下からは清掃用カートの車輪が遠くで鳴る音も聞こえる。
それでも玄兎には、昼間より部屋が広く感じられた。
小毬は入口で立ち止まり、自分の手首を嗅いだ。
「また減ってる」
「何が残ってる?」
「服の洗剤は少し。髪は分からない。自分の汗も、もうほとんど」
透羽が室内へ細い水の線を這わせる。
昼間に反応した最後列まで届いたところで、水がわずかに震えた。
「います」
「見える?」
「位置までは固定できません。部屋全体へ薄く広がっています」
千燈が周囲を見回す。
「じゃあ、声や場所を盗む方が本体?」
「断定はしません。ただ、昼より反応が濃くなっています」
小毬が一歩入る。
その瞬間だった。
「小毬」
玄兎の声が、右側の席からした。
小毬がそちらを見る。
玄兎本人は左後ろにいる。
「白狼院さん」
今度は透羽の声が前方。
透羽本人は入口近く。
「小毬ちゃん」
千燈の声が最後列。
小毬の顔色がさらに悪くなる。
「匂いもあります。玄兎先輩が右。透羽先輩が前。千燈先輩が後ろ」
「全員、本物は違う場所にいる」
玄兎が言う。
「分かってます。でも……」
小毬は目を閉じた。
すぐに開く。
「閉じた方がひどいです。鼻と耳だけになるから」
玄兎が小毬へ近づこうとする。
すると小毬は反射的に一歩下がった。
「待って」
「俺だよ」
「分かってます。でも、今、先輩が三人います」
声が震える。
「どれも先輩の匂いがする。足音も似てる。右からも、後ろからも、私の名前を呼んでる」
小毬は両手を握った。
左手が、無意識に右の親指を包む。
玄兎はそれに気づいた。
「小毬」
彼女の目がこちらへ動く。
「今、右の親指握ってる」
小毬が自分の手を見る。
「朝から何回かやってた。怖い時の癖だと思う」
「……そんなの、私知らなかった」
「俺も今日知った」
小毬は少しだけ息を吐いた。
その直後、右側の空席から玄兎の声がした。
「右の親指握ってる」
小毬の表情が凍る。
怪異は、今の会話まで拾っている。
「最悪……」
千燈が低く呟いた。
透羽の水が何本も室内を走るが、声の出た席へ触れても何もいない。
「音と匂いを、その場に残しているだけです。本体が声の位置にいるとは限りません」
小毬の呼吸が速くなる。
「私、自分がどこにいるかも分からなくなってきました」
「目の前にいる」
玄兎が言う。
「頭では分かります。でも、後ろの席にも私がいる感じがするんです」
今度は小毬自身の声が、最後列からした。
「玄兎先輩」
玄兎の視線が一瞬そちらへ引かれる。
違う。
分かっているのに、身体の方が先に反応する。
小毬もそれを見た。
「先輩も、分からなくなってます?」
「一瞬だけ。でも、小毬はここにいる」
「どうして言い切れるんですか」
問いは強がりではなかった。
本気で、答えを求めている。
玄兎は目の前の小毬を見る。
朝から知ったことは、まだ多くない。
人の匂いを嗅ぐ距離が近い。犬と言われる前に狼だと訂正する。友達の莉奈にからかわれると悔しそうにする。怖い時は右の親指を握る。自分の鼻が使えなくても、友達の好きな道を覚えていた。
「匂いじゃないから」
玄兎は答えた。
「俺は小毬の匂いを最初から分からない。それでも、今日ずっと話した小毬は目の前にいる」
空席から、同じ声がした。
「今日ずっと話した小毬は目の前にいる」
まるで遅れて届く反響だった。
小毬がそちらを見る。
そして、不意に動きを止めた。
「……遅い」
「何が?」
「今の声です」
小毬は顔を上げた。
「全部、私たちが言ったあとです」
玄兎が理解するより先に、小毬の琥珀色の目へ少しずつ力が戻る。
「匂いもそう。朝の先輩。昼の透羽先輩。さっきの千燈先輩。あるものを持ってくるだけで、まだ起きてないことは作れてない」
千燈が目を細めた。
「盗んだ痕跡を置いてるだけ?」
「たぶん」
小毬は鼻ではなく、三人の顔を順番に見た。
「なら、返事は盗めない」
「返事?」
玄兎が訊く。
小毬は少しだけ笑った。
まだ怖そうではある。それでも、今度の笑みは自分で状況を掴み直した人間のものだった。
「試します」
小毬は透羽へ向いた。
「透羽先輩。玄兎先輩が『一人で囮になります』って言ってます」
「言ってない」
玄兎が即座に否定し、透羽もほとんど同時に言った。
「却下です。玄兎、自分を勘定から外さないでください」
数秒遅れて、別々の空席から同じ言葉が返ってくる。
『言ってない』
『却下です』
小毬の目へ、少しずつ力が戻った。
次に玄兎を見る。
「玄兎先輩。私、犬じゃないですからね」
「まだ犬って言ってない」
朝と同じ返事が、考えるより先に口から出た。
小毬が笑った。
「はい。先輩はそこです」
そのあとになって、教室の後方から同じ声が響く。
『まだ犬って言ってない』
遅い。
怪異が持っているのは、すでに残された声や匂いだけだ。今この瞬間に生まれた返事までは、先回りできない。
小毬は偽物の声を追わなかった。
「匂いも声も、本物から取ったものなんだと思います。でも、それだけじゃ今ここにいる本人じゃない」
莉奈を鼻ではなく記憶から見つけた時と同じだった。人は、置き去りにされた痕跡だけでは止まらない。呼べば返事をする。次の瞬間には、さっきまでとは違う顔をする。
小毬は最後列を見据えた。
「あなたが持ってるのは、もう終わった瞬間だけです」
その言葉に反応したように、教室の空気がわずかに歪んだ。
あちこちから声が重なる。
『小毬』
『白狼院さん』
『小毬ちゃん』
『こっち』
小毬はもう振り向かなかった。
「透羽先輩。みんな、位置を変えてください。私は、本物だけ見ます」
透羽はすぐ意図を理解した。
「玄兎は右の通路。千燈は前列。私は中央へ」
三人が同時に動く。
怪異も盗んだ声と匂いを別の席へ置き直して追ってくる。しかし必ず一拍遅れた。玄兎が立ち止まって返事をしたあとで、前にいた席から同じ声がする。透羽の水が曲がったあとで、古い位置に彼女の気配が残る。
小毬は鼻を使っていた。だが、もう鼻だけには任せない。目で見た身体、今鳴った足音、新しく返った声、水の動き――全部を重ねて三人の位置を追う。
すると、追いかけるように散っていた偽物とは逆に、一つの席だけが動かなかった。
最後列の中央。
誰も近づいていないのに、玄兎、透羽、千燈、小毬、莉奈――今日一日で奪われた痕跡だけが、そこへ濃く重なっている。
小毬は一度だけ息を吸い、迷わず指を向けた。
「透羽先輩。あの席です」
透羽の水が一気に走った。
床を這った水が最後列の机と椅子を囲う。
何もない空間で、水だけが人の肩ほどの高さまで持ち上がった。
輪郭らしい輪郭はない。
ただ、そこだけ空気が浅くへこみ、周囲の音が吸われていく。
すん。
朝から何度か聞いた、鼻を鳴らすような音。
次の瞬間、小毬の声で叫んだ。
『玄兎先輩!』
玄兎は反射的に小毬を見る。
本物は、最後列ではなく自分の少し前に立っていた。
小毬も玄兎を見る。
「先輩」
「いる」
「私もいます」
「分かってる」
それだけで、小毬の表情が落ち着いた。
「透羽先輩、お願いします」
透羽が水の輪を閉じる。
「《水鏡》――固定」
透明な水が、形のない空白を包み込む。
怪異は何人もの声を吐き出した。
笑い声。咳。名前を呼ぶ声。授業中の小さな囁き。椅子を引く音。誰かのため息。
いずれも、この教室に実際に残されたものなのだろう。
千燈が低く言う。
「人が帰ったあとに残るものを拾ってたんだ」
「たぶん」
透羽は断定しなかった。
「ただ、それ以上の由来は今は分かりません」
水の中で、空白がさらに小さくなる。
小毬は逃げずに見ていた。
「返してください」
怪異へ向けた声は、怒鳴るほど大きくなかった。
「匂いも、声も、場所も。勝手に持っていかないで」
水が白く光る。
教室のあちこちへ置かれていた偽の気配が、一斉にほどけた。
玄兎の声が消える。透羽の匂いが消える。千燈の足音が消える。
最後に、小毬自身の声が最後列から離れた。
水の中の空白は、しばらく形を保っていた。
やがて、泡が潰れるように小さく震え、何もない空気へ戻った。
透羽はすぐには水を解かなかった。
数十秒待ち、反応が再発しないことを確認してから、ゆっくり術を解除する。
教室には、蛍光灯の低い音と、四人の呼吸だけが残った。
小毬は自分の手首を鼻へ寄せ、確かめるように二度ゆっくり息を吸ってから目を閉じた。
「……する」
「何が?」
玄兎が訊く。
小毬は笑った。
「私の匂いです」
今度は髪を一房取る。
「シャンプーも。服の洗剤も。住宅街の草の匂いも」
それから玄兎たちを順番に見る。
「先輩たちも、一人ずつです」
千燈が肩の力を抜く。
「よかった。私が三人いたら、玄兎くんの血の取り分で喧嘩するところだった」
「そこなんだ」
「重要だよ」
透羽が小さく息を吐いた。
「今日はもう嗅覚を強く使わないでください。白狼院さん自身への干渉が長すぎます」
「はい」
小毬は素直に返事をした。
そして少しだけ間を置く。
「でも、鼻は嫌いになりません」
小毬は自分の手首をもう一度確かめてから、玄兎たちを見た。
「今日、騙されたのは匂いが嘘だったからじゃないです。本物の匂いを、それだけで本人全部だと思った私が間違えただけです」
玄兎が笑う。
「覚えるもの、増えたな」
「はい。でも、その方がいいです」
◇
午後八時過ぎ。
大学近くのファミリーレストラン。
小毬は大きなハンバーグとチキンステーキのセットを前にしていた。
「感覚器を休めろって言われた直後に、その量食べる?」
玄兎が訊くと、小毬はフォークを持ったまま胸を張った。
「嗅覚と胃は別です」
「医学的に大丈夫な言い方?」
「気持ちの問題です」
「急に精神論になった」
千燈が笑う。
透羽は向かい側で温かいうどんを食べながら、小毬の顔色を何度か確認していた。
「食欲があるのは悪いことではありません。ただし帰宅後はすぐ休んでください」
「はい」
「今日は素直だな」
玄兎が言う。
「本当に怖かったので」
小毬はあっさり認めた。ハンバーグを一口食べ、きちんと味を確かめるように噛んでから、ほっと息を吐く。
「ちゃんと美味しいです」
しばらくして、小毬が玄兎へ顔を向けた。
「先輩。今日、私が莉奈を追えなくなった時、鼻じゃない手掛かりを探そうって言いましたよね」
「他に方法がなかったから」
「もっと格好いい理由ないんですか」
「期待されても困る」
小毬は笑い、それから少しだけ真面目な顔になった。
「でも、莉奈があの住宅街を好きなのを覚えてたのは、私でした」
「うん」
「怖い時に親指を握るのを見つけたのは先輩でした」
「そうだな」
小毬は右手を見て、親指を軽く握る。
「匂いがなくても、残るものって結構あるんですね」
千燈が頬杖をついた。
「じゃあ、小毬ちゃんにとって私たちはもう群れ?」
「仮加入です」
「審査あるの?」
「あります。肉を分けてくれるかどうか」
「基準が急に野生だな」
玄兎が笑うと、小毬もいつもの明るい顔に戻った。
そして一度だけ、玄兎の肩口へ鼻先を寄せる。
「ちゃんと玄兎先輩です」
「結局、匂いで決めてない?」
「違います」
小毬は得意そうに笑った。
「匂い“も”覚えるんです。顔も、声も、今日何を言ったかも」
少し間を置いて、声を柔らかくする。
「だから、先輩の匂いを忘れません。でも匂いが変わっても、先輩まで忘れるつもりはないです」
朝に会ったばかりの後輩から向けられるには、妙にまっすぐな言葉だった。
「ありがとう」
小毬は満足そうに頷き、ふと思い出したように言う。
「それと、今日途中から私のこと小毬って呼びましたよね。もう戻さなくていいです」
「距離詰めるの早くない?」
「命を預けたので」
「その言い方はずるいな」
玄兎は苦笑した。
「分かった。小毬」
呼ばれた瞬間、琥珀色の目が少し大きくなり、すぐに嬉しそうに細くなる。
「はい、玄兎先輩」
妙な空気になる前に、玄兎はテーブルの上のメニューを持ち上げた。
「ところで、まだ食べる?」
「デザートに肉が欲しいです」
「デザートの意味から話そうか」
「じゃあ明日のお昼、焼肉行きませんか」
千燈がすぐに「行く」と答え、透羽も四限に間に合うならと頷いた。
小毬は嬉しそうに両手を合わせる。
「決まりです!」
玄兎は思わず笑った。
怪異に匂いを奪われても、今日の小毬が消えたわけではない。莉奈を覚えていたことも、怖がりながら自分で答えを見つけたことも、明日の焼肉を楽しみにしていることも、全部ここに残っている。
そのくらいなら、玄兎にも分かった。
――第四話・了