鵺代玄兎は、大学には怪異より足の速いものがあるのだと、その朝になって知った。
噂である。
一限が終わった第二講義棟。学生たちが教科書やノートパソコンを鞄へ押し込み、次の教室へ流れていく中で、玄兎と、その隣に座る鷺宮透羽へ何度も視線が向けられていた。
「……さっきから見られてないか、俺たち」
「昨夜の件が漏れたのでしょうか」
「たぶんもっと単純だよ。講義前に透羽が『今日は一日あなたを監視します』って言ったから」
「事実です」
「事実でも大学の教室で言うと意味が変わるんだ」
すぐ後ろから友人の木崎が身を乗り出した。
「なあ玄兎。俺、詮索する気はないんだけど」
「その前置きで詮索しなかった人間を知らない」
「鷺宮さんと、いつからそんな関係になった?」
「どんな関係を想定してるんだよ」
「一日中監視される関係」
「言葉だけ聞くと仮釈放中みたいだな」
透羽が木崎へ向き直る。
「念のため申し上げますが、鵺代玄兎は犯罪者ではありません」
「そこは安心した」
「少なくとも、現時点で確認できる範囲では」
「後半いらないだろ」
木崎が余計に興味を持ったところで、玄兎は鞄を肩へ掛けた。途端に右肩の傷が引かれ、思わず顔をしかめる。
昨夜、鏡の怪異に裂かれた傷だ。事件が片づいて帰宅したのは午前三時を過ぎていた。それでも七時前には透羽から『肩の傷はどうですか。まだ痛みますか』とメッセージが届き、眠気に負けて『寝てる』と返したところ、『返信できるなら起きています』と返ってきた。
正論は怪異より逃げ道がない。
「今、痛みましたね」
「ちょっと鞄が引っかかっただけ」
「次は空きコマです。保健管理センターへ行きます」
「朝にガーゼ替えたし――」
「玄兎」
「……はい」
一晩で、すでに扱い方を覚えられている気がする。
「へえ。本当に噂どおりなんだ」
背後から、知らない女の声が落ちてきた。
玄兎が振り返る。
長い黒髪の内側に、深紅が混じっている。教室の蛍光灯の下ではほとんど黒に見えるのに、窓から差す光を受けた部分だけ、薄い炎のような赤が浮かんだ。瞳も赤褐色で、細身の黒いブラウスと深紅のスカートがよく似合っている。
派手に振る舞っているわけではない。それでも、人に見られることへ慣れている人間特有の、妙に自然な立ち方をしていた。
「噂って?」
「鷺宮透羽が、男の子を一日中監視してるって噂。もう別学部まで少し回ってるよ」
「怪談は信じるまで時間がかかるけど、恋愛っぽい話はみんなすぐ信じるからね」
玄兎が否定する前に、透羽の声が冷えた。
「緋鴉千燈」
「あら。覚えててくれたんだ、透羽ちゃん」
「その呼び方はやめてください」
「じゃあ透羽?」
「馴れ馴れしくしないでください」
「注文が難しいなあ」
女――緋鴉千燈は、まるで困っていない顔で肩をすくめた。
千燈は笑い、それから玄兎へ視線を移した。
「君が鵺代玄兎くんなんだ」
「何で名前まで」
「今朝から有名人だから。それと、昨夜から少し気になってた」
「昨夜から?」
千燈が一歩近づいた。初対面の距離ではない。玄兎が半歩下がると、彼女は悪びれもせず同じだけ詰める。
「ちょっと匂い、確かめてもいい?」
「初対面の相手に言う台詞としてかなり嫌なんですけど」
「褒めてるつもりなんだけどな」
「もっと嫌です」
千燈は笑ったまま、玄兎との距離をもう半歩だけ詰めた。鼻先が触れるほどではない。
赤褐色の目が玄兎の顔をなぞり、右肩で止まった。そこには昨夜の鏡で負った傷がある。さらに一瞬、胸元へ視線が落ちた。昨夜、潰されたはずの場所には、服の上から分かる異常はもうない。
軽かった笑みが、わずかに薄くなった。
「……普通の人間の匂い」
千燈は答えず、もう一度だけ右肩を見た。
「思ってたのと違うな」
玄兎が聞き返すより早く、透羽が二人の間へ入った。
「ここで話す内容ではありません」
「そうだね」
千燈はあっさり引いた。
「じゃあお昼、一緒に食べない? もう少し落ち着いたところで話したい」
「断ります」
透羽が即答する。
「玄兎くんに聞いたんだけど」
「危険かどうかも分からない相手に、監視対象を一人で近づけるわけにはいきません」
「透羽、俺の返事が完全に消えてる」
「あなたが行くなら私も行きます」
「結局行くのかよ」
千燈は楽しそうに笑った。
「十二時十五分、学食二階の窓際ね。逃げても烏に見つけてもらうから」
「烏?」
「それは後で」
片手を振って去っていく千燈を見送り、玄兎は隣の透羽へ顔を向けた。
「……何なんだ、あの先輩」
「吸血種です」
「急に情報が重いな」
「俗にいう吸血鬼と考えて大きくは間違っていません。人間社会に近い形で生活している系統です。大学では三年生です」
「大学では普通の学生だと思われています。吸血種だということは知られていません」
後ろから、まだ帰っていなかった木崎の声がした。
「なあ……今、吸血鬼って聞こえた?」
透羽は一拍も置かなかった。
「聞き間違いです」
「でも――」
「聞き間違いです」
「……はい」
木崎は素直に出ていった。
玄兎は思った。
退魔師は強い。
◇
空きコマに入ると、玄兎は透羽に連れられて学生支援棟の保健管理センターへ向かった。
昨夜負った傷だと受付で説明すると、看護師がガーゼを外して状態を確かめた。幸い縫合が必要なほど深くはなかったものの、朝より少し開いているらしい。傷を洗浄し、新しいガーゼへ替えられる間、透羽は処置台の脇で腕を組んでいた。
「透羽も昨日、結界のあと右手震えてたけど」
彼女の表情が止まった。
「……見ていたのですか」
「同じ部屋にいたからな」
「私なら、大丈夫です」
「それ、俺が言うと怒るやつだろ」
透羽は答えない。看護師が消毒液を傷へ当てた瞬間、玄兎は小さく息を呑んだ。
「痛っ」
「動かないでください」
「分かってる。透羽までそんな顔だと、俺も緊張する」
「見ているだけでも不安になります」
言ってから、透羽は少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
処置を終えて保健管理センターを出ると、廊下の窓際にあるベンチへ千燈が座っていた。玄兎たちを見つけるなり、長い脚を組み替えて笑う。
「思ったより時間かかったね」
「傷の処置です」
透羽が先に答えた。
千燈は立ち上がり、玄兎の右肩へ視線を落とした。新しく替えられたガーゼの端を見て、少しだけ目を細める。
「……傷、ちゃんと残ってる」
千燈の視線が新しいガーゼから玄兎の胸元へ移る。ほんの数秒だった。
「じゃあ、昨夜のあれは何?」
「俺に聞かれても」
「だよね」
千燈はそこで、いつもの軽い笑みを戻した。
「ほんとに一口だけ、血をもらえたらな」
「嫌です」
透羽が千燈を睨む。
「あなた、《血読》を使うつもりでしょう」
「血読?」
玄兎が訊くと、千燈は窓枠へ軽く背を預けた。
「血に触れると、その人に強く残ってる記憶や感情が流れ込むの。強い恐怖とか、後悔とか」
「便利そうだな」
「浅く読むだけならね。深く入りすぎると、どこまでが相手で、どこからが自分か分からなくなる」
「それ、便利より先に危ないが来るな」
「だから勝手にはやらない。少なくとも今日は」
「明日以降もやめてください」
透羽が即座に返す。
千燈は笑い、窓の外を指した。中庭の植栽沿いのフェンスに、一羽の烏が止まっている。
「昨夜、あの子の目と耳を借りて大学の近くを見てたの。途中で変な気配がして、玄兎くんを見つけた。そのあとも少し見てたよ」
「烏と感覚を共有できるんですか」
「少しだけ。長くやると頭痛がするけどね」
透羽が警戒を解かないまま言う。
「玄兎、調べてもらうために血を差し出す必要はありません」
「まだ差し出すって言ってないよ」
千燈が声を立てて笑った。
その笑顔だけを見れば、距離の近い面倒な先輩で済む。ただ、能力の代償について話した時だけ、彼女は一度も冗談を挟まなかった。
玄兎は、そのことを覚えておくことにした。
◇
十二時十五分。
学食二階の窓際で、千燈は本当に待っていた。
玄兎は日替わりの唐揚げ定食、透羽はうどんと小さな苺プリン。千燈の前にはアイスコーヒーしかない。
「先輩、昼それだけ?」
「朝が遅かったから、あんまりお腹空いてないんだ」
そう言いながら、千燈の視線は玄兎の皿へ落ちる。
「唐揚げ一個ちょうだい」
「血と同じ言い方するのやめてもらえます?」
次の瞬間、千燈の箸が伸び、玄兎の唐揚げを一個さらった。
「あ」
「いただきます」
「聞いた意味ないじゃないですか」
千燈は唐揚げを飲み込み、玄兎を見た。透羽の無言の視線にも、今度は笑って返さない。
「昨夜、見てたよ。君が胸を潰されたところ」
箸が止まった。
透羽の目も鋭くなる。
「千燈。どこまで見たのですか」
「烏で途中から。あれで死なない方がおかしい。それなのに、そのあと立って歩いてた」
千燈はもう笑っていなかった。
「怖くないの、玄兎くん。自分が」
思いがけず真っ直ぐな問いだった。
「怖い時はあります。でも、昔からこうだから」
「慣れた?」
「たぶん、慣れてはいない」
千燈は数秒だけ玄兎を見つめ、それ以上は踏み込まなかった。
「だから、何が戻ったのか知りたいんだよね」
千燈の目が右肩へ戻る。玄兎は、そこで残りの唐揚げを自分の方へ寄せた。
千燈が笑みを戻しかけた、その時だった。
隣のテーブルでスマートフォンが鳴った。
ありふれた着信音のはずなのに、玄兎には古い受話器の奥から聞くようなざらつきが混じって聞こえた。
男子学生が画面を見て、顔色を変える。
「……まただ」
向かいの友人が声を潜めた。
「また非通知? 出るなって言っただろ」
「でも、姉ちゃんの声なんだ」
玄兎と透羽が同時に振り向く。
千燈だけは、その一瞬前から男子学生を見ていた。
◇
男子学生は佐伯悠真。一年生、十九歳。
三年前に姉を病気で亡くしていた。
電話が怪異によるものか確かめるため、三人は佐伯本人の了承を得て事情を聞かせてもらうことにした。
昼休みのあと、人の少ない学生会館のミーティングスペースへ移ると、佐伯はスマートフォンを両手で握ったまま話した。
「最初は一週間くらい前です。非通知だったから出なかったんですけど、留守電に俺の名前が入ってて。次に出たら……姉ちゃんでした」
「声が似ていただけではなく?」
「俺が返事すると、向こうも返してくるんです。大学どうだとか、ちゃんと飯食ってるかとか。入院してた時と同じ話し方で」
懐かしさと痛みが混じり、声が少し掠れる。
「昨日は三回かかってきました。最後に、『どうしてあの日来なかったの』って」
千燈の表情が変わった。
「佐伯くん。最近どこか怪我してない?」
彼は右手の人差し指に貼った小さな絆創膏を見た。
「大した怪我じゃないですけど、昨日コップを割って、指先を少し」
千燈は絆創膏へ目をやった。
「その傷、まだ少し血は出る?」
「え?」
佐伯が戸惑って透羽を見る。
「彼女には、血に残った強い記憶や感情を読み取ることができます」
「……そんなことができるんですか」
千燈が頷く。
「できる。ただ、電話のことだけ選んで見ることはできない。見られたくない記憶に触れるかもしれない」
佐伯はスマートフォンを握り直した。
「それで、姉ちゃんの声が何なのか分かるかもしれないんですか」
「分かるとは約束できない。でも、手がかりにはなるかもしれない」
佐伯はすぐには答えなかった。しばらく迷ったあと、右手の絆創膏を見て、小さく頷く。
「……お願いします」
「分かった。傷は触らない。今残ってる血だけ使うね」
佐伯が絆創膏を外す。塞がりかけた傷口の端に、ごく小さな赤い滲みが残っていた。千燈は傷そのものには触れず、その血へそっと指先を当てた。
直後、彼女の笑みが消えた。
「……姉ちゃん」
佐伯が息を呑む。
「ごめん。最後、行けなくて……」
声は千燈のものなのに、その言葉に宿る後悔は明らかに佐伯のものだった。
「千燈、そこで切ってください」
透羽が肩へ手を置く。
「……うん」
千燈は指を離し、ゆっくり息を吐いた。こめかみを押さえ、数秒かけて今いる部屋へ意識を戻す。
「電話の向こう、お姉さん本人じゃないと思う」
「君の血に残ってるお姉さんは、最後まで君を責めてない。でも電話は、君自身の後悔を使って、いちばん痛い言葉を選んでる」
佐伯の目から涙が落ちた。
千燈はそれ以上、血の中を覗こうとはしなかった。
「最後の電話では、ほかに何て?」
「今夜十二時、駅東口の古い電話ボックスへ来いって。迎えに行くって……」
千燈が小さく息を吐いた。
「やっぱり、あそこか」
「知ってるんですか」
「昔から噂がある。午前零時に、もう会えない人から電話が来る。何度も話すと向こうから迎えに来るっていう都市伝説」
透羽が立ち上がる。
「今夜、確認します。佐伯さんはそれまで一人にならないでください」
「俺も行く」
玄兎が言うと、透羽は予想していたように息を吐いた。
「置いていけば、一人でも行くのでしょうね」
「理解が早くて助かる」
「助かっていません」
「私も行くよ」
千燈が言った。
透羽は一瞬だけ眉を寄せた。
「勝手な行動はしないでください」
「善処する」
玄兎と透羽が同時に千燈を見る。
「何、その顔」
「その言葉、信用なくしますよ」
「君が言う?」
佐伯が、涙の残った顔でほんの少し笑った。
◇
午後十一時四十分。
朽木ヶ丘駅東口はまだ終電前の人波を残していたが、再開発予定地の裏へ一本入るだけで音が遠くなった。
閉まった商店のシャッター。灰色の仮囲い。古い建物の影。その路地の突き当たりに、緑色の公衆電話を収めた電話ボックスが立っている。
回線は三年前に停止していた。
ボックスの中には薄く埃が積もり、数字キーもコイン投入口も古びている。それなのに受話器だけが、不自然なくらい綺麗だった。
「噂を試す人が今もいるんだろうね」
千燈が頭上を見た。電線には烏が一羽止まり、路地の入口側を監視している。
透羽は電話ボックスの周囲へ細い水の線を巡らせた。
「佐伯さん。何が聞こえても、私たちの声を優先してください」
「はい」
十一時五十九分。
佐伯のスマートフォンが震えた。
画面には『非通知』。
駅の時計が零時へ変わる。
同時に、回線の止まった公衆電話が鳴った。
古い呼び出し音が、人気の薄い路地へ一度、二度と響く。
玄兎の背中が粟立った。
誰も触れていない受話器が、わずかに持ち上がる。
「《禊牢》」
透羽の水が電話ボックスの四隅へ走り、透明な膜を作った。
公衆電話の音が途切れる。
しかし佐伯のスマートフォンは鳴り続け、表示が『姉』へ変わった。
「番号、残してる?」
「消せなくて……」
透羽が何か言うより先に、端末から勝手に女の声が流れた。
『悠真』
佐伯の呼吸が止まる。
『迎えに来たよ。もう大丈夫だから、こっちへおいで』
「姉ちゃん……」
『あの日、来てくれなかったね』
「ごめん」
『ずっと待ってたのに』
「ごめん、姉ちゃん……」
佐伯が一歩、電話ボックスへ近づいた。
「佐伯!」
玄兎が腕を掴んだ瞬間、ボックスの下から黒い線が何本も這い出した。
古い電話線に見える。だが濡れた蛇のように地面を滑り、佐伯の足首へ絡みついた。
玄兎が咄嗟に掴む。
冷たい。
電気ではなく、思考の内側へ直接冷たさを流し込まれたような感覚だった。
『玄兎』
「……え?」
自分の名前だった。
誰の声か分からない。それなのに、言葉を覚えるより前から聞いていたような、説明のできない懐かしさがある。
『玄兎。帰っておいで』
左鎖骨の下の痣が焼けるように熱くなった。
電話ボックスの向こうが暗く沈む。
濡れた壁。黒い水。大きすぎる月。遠くで獣が唸る気配。
重なる声が、玄兎の足元を引いた。
『帰る場所』
『器』
『戻れ』
気づけば、一歩進んでいた。
「玄兎くん、こっち見て」
両頬を挟まれた。
目の前に千燈の赤褐色の瞳がある。
「私が誰か言える?」
「……緋鴉千燈」
「透羽ちゃんは?」
「電話ボックスの横」
「今いる場所は?」
「朽木ヶ丘駅東口」
「よし。そこにいて」
千燈が手を離すと、路地の輪郭が戻った。
透羽が水の刃で佐伯へ絡む線を切り、玄兎は彼を結界の内側まで引き戻す。
ボックスの曇ったガラスに、無数の顔が浮かんだ。
老人。子供。若い女。男。誰もが受話器を耳へ当て、泣いたり、笑ったりしている。
「一人じゃない」
千燈の声から軽さが消える。
「この電話、いろんな人の『会いたい』を拾ってる」
彼女は古い地図を開いた。電話ボックスの脇には、今はない市立病院行きの停留所が記されている。
「病院へ行く人も、帰る人も、ここから誰かに電話してた。言えた言葉も、言えなかった言葉も、この場所に長く重なったんだと思う」
透羽が、回線の止まった受話器を見る。
「その後も『もう会えない人につながる』という噂を試す人がここへ来続けた。古い配線に残った未練へ、噂が形を与えたのでしょう」
直後、玄兎と透羽と千燈のスマートフォンが一斉に震えた。
玄兎と透羽は非通知。
千燈も画面を見た瞬間だけ、笑みを消した。
『千燈』
聞き覚えのある声らしい。
『まだ夜を歩いているのか』
千燈の指が、ほんの一瞬止まった。
「……本人じゃないくせに、よく似せるね」
黒い電話線が千燈へ伸びる。
玄兎が腕を掴んだ。その拍子に右肩のガーゼがずれ、傷から滲んだ血が千燈の指へ触れた。
「――っ」
千燈の身体が硬直した。
冷たい黒い水と、大きすぎる月。
その向こうに、六歳くらいの玄兎が倒れている。
生きているのか、死んでいるのかまでは分からない。
そこまで見えたところで、読み取りが不自然に滑った。
千燈は自分から指を離す。
「ごめん。今は読まない」
「何が見えた?」
「……六歳くらいの君。黒い水と、大きな月。その中で倒れてた。それ以上は分からない」
千燈は一瞬だけ玄兎を見る。
「やっぱり、君の血は少し変」
それ以上追わず、千燈は電話ボックスへ視線を戻した。
玄兎は中へ入れば何か分かるかもしれないと一瞬だけ考えたが、受話器へ伸びる黒い線を見てやめた。
「入らない。別の方法を探す」
透羽が頷く。
「それでお願いします」
公衆電話がまた震えた。
『悠真。こっちへ来て』
佐伯の肩が跳ねた。
「姉ちゃんは、もういない」
『いるよ』
「いない」
『ちゃんと飯、食べてる?』
佐伯の顔が歪んだ。
本人ではない。もう分かっている。それでも、入院中と同じ声で同じ言葉を使われると、足が半歩だけ前へ出た。
「……その声で、それ言うのやめろよ」
玄兎は腕を掴んだまま、何も言わなかった。
佐伯は泣きながら電話を見た。
「最後の日、病院に行けなかった。怖くて逃げた。ごめん」
『悠真』
「でも、会うためにそっちへ行くのは違う」
黒い線が足元でざわめく。
「姉ちゃんは俺を責めてなかった。責めてたのは、ずっと俺だ」
佐伯は震える息を吐いた。
「俺はまだ、こっちにいる」
着信音が歪み、女の声が遠ざかる。
佐伯へ伸びていた黒い電話線が、煙のようにほどけた。
しかし電話ボックスの奥には、まだ何人もの顔が残っている。
「佐伯さんの分は切れました。でも怪異そのものは残っています」
電話ボックスから伸びた黒い線は、路面の下を五メートルほど先まで続いていた。そこには古い通信設備用のマンホールがある。
浅い保守スペースには、使われなくなった配線が束になって残っていた。
その中心。
古い接続箱へ黒い影が絡みつき、赤黒い塊となって脈打っている。
『会いたい』
『声だけでも』
『ごめん』
『言えなかった』
電話ボックスへ続く太い幹線が震えるたび、声が重なった。
「ここですね」
透羽が水を構えた。
「会いたかった気持ちまで消す必要はないよね」
「はい。人を過去へ連れていく形だけを断ちます」
透羽の水が接続箱を囲む。
「千燈は影を。玄兎は幹線を外してください。私が二人を守ります」
「了解」
千燈の爪が伸びた。
最初の影を切った瞬間、赤黒い塊が大きく脈打つ。何十本もの配線が跳ね上がり、水膜へ叩きつけられた。
「《水鏡》!」
透羽が受け止める。
配線の隙間から、声が溢れた。
『会いたい』
『帰ってきて』
『一度だけ』
佐伯の姉の声も混じる。
千燈を呼ぶ声も混じる。
玄兎自身を「帰れ」と呼ぶ声まで混じった。
誰の本物でもない。
ここへ残った未練を借り、聞く者がいちばん手放せない声に変えている。
千燈の手が一瞬止まる。
「千燈」
玄兎は過去を尋ねなかった。
「今ここには、俺と透羽がいる」
千燈が一度だけこちらを見る。
「……そういう言い方、ずるいなあ」
「集中してください」
「はいはい」
軽口と一緒に、爪がもう一度走った。
「玄兎、今です!」
水膜が開く。
玄兎は太い幹線の根元へ手をかけ、一気に引いた。黒い影が腕へ絡むより早く、千燈が横から切り払う。
その直後、死角から跳ねた細い配線が千燈の左前腕を掠めた。ブラウスの袖口が裂け、白い皮膚へ浅い傷が走る。赤い血が細く滲んだが、千燈は一度だけ眉を寄せ、そのまま爪を振るった。
『玄兎。帰って』
痣が熱を持つ。
「悪いけど、今は帰らない」
錆びた接続部が外れた。
電話ボックスへ伸びていた黒い気配が途切れる。
透羽はすぐに清め水を核へ巡らせた。
「《白鷺浄界》」
淡い水光が赤黒い影へ染み込み、人を引き寄せる歪みだけを剥がしていく。
残った声は、もうこちらへ来いとは言わなかった。
『ありがとう』
『元気で』
『さよなら』
最後に、千燈を呼んだ声がした。
『千燈』
千燈は目を閉じた。
それが本人ではなく、自分の記憶を借りた声だと分かっている。それでも今度は笑って誤魔化さなかった。
「うん」
短い間を置き、静かに言う。
「さよなら」
声は、それきり消えた。
◇
午前一時二十分を少し過ぎた頃、東口の電話ボックスはただの古い公衆電話へ戻っていた。
佐伯は帰る前に、一度だけボックスへ頭を下げた。
「ありがとうございました」
「今日はちゃんと寝てね」
千燈が言った。
「それと、お姉さんが心配してたこと。忘れないで」
「はい」
佐伯が駅へ戻っていく。
路地に三人だけが残ると、千燈は壁へ軽く背を預けた。顔色はまだ白い。
「先輩、本当に大丈夫?」
「頭痛はある。でも大丈夫」
千燈は玄兎の右肩を見た。
「さっきの血のことは、今日は追わない。何か変だった。それだけ覚えとく」
「一口欲しいのも諦めました?」
「それは別」
「別なんだ」
透羽が千燈の腕を取った。
その時、裂けた袖口がずれ、玄兎はさっき配線に掠められた左前腕へ目を留めた。戦闘中には確かに血が滲んでいたはずなのに、もう出血は止まっている。浅い傷の縁も、見て分かるほど寄り始めていた。
「先輩、それ」
玄兎が指すと、千燈は自分の腕を見て「ああ」と軽く笑った。
「吸血種、こういう浅い傷は人間より早く治るんだよね」
「便利ですね」
「深い傷まで何でもすぐ治るわけじゃないけどね」
千燈はそれ以上説明せず、透羽に腕を預けたまま肩をすくめた。
「今日は帰って休んでください。駅まで送ります」
「優しいねえ、透羽ちゃん」
「ここで倒れられると面倒です」
「そういうことにしとく」
歩き出した千燈は、数歩先で振り返った。
「玄兎くん」
「何ですか」
「今度は血じゃなくて、唐揚げ一個で手を打ってあげる」
「それも自分で頼んでください」
千燈は声を立てて笑った。
玄兎は二人の少し後ろを歩いた。千燈は傷の残る右肩へは、もう手を伸ばさなかった。
◇
その夜。
ベッドへ入った玄兎のスマートフォンが震えた。
千燈からだった。
『玄兎くんの血、やっぱり気になる』
少し考えてから、玄兎は返す。
『今日はもう寝てください』
既読はすぐについた。
『はーい』
――第三話・了