鵺代玄兎は、大学には怪異より足の速いものがあるのだと、その朝になって知った。
噂である。
一限が終わった第二講義棟。学生たちが教科書やノートパソコンを鞄へ押し込み、次の教室へ流れていく中で、玄兎と、その隣に座る鷺宮透羽へ何度も視線が向けられていた。
「……さっきから見られてないか、俺たち」
「昨夜の件が漏れたのでしょうか」
「たぶんもっと単純だよ。講義前に透羽が『今日は一日あなたを監視します』って言ったから」
「事実です」
「事実でも大学の教室で言うと意味が変わるんだ」
すぐ後ろから友人の木崎が身を乗り出した。
「なあ玄兎。俺、詮索する気はないんだけど」
「その前置きで詮索しなかった人間を知らない」
「鷺宮さんと、いつからそんな関係になった?」
「どんな関係を想定してるんだよ」
「一日中監視される関係」
「言葉だけ聞くと仮釈放中みたいだな」
透羽が木崎へ向き直る。
「念のため申し上げますが、鵺代玄兎は犯罪者ではありません」
「そこは安心した」
「少なくとも、現時点で確認できる範囲では」
「後半いらないだろ」
木崎が余計に興味を持ったところで、玄兎は鞄を肩へ掛けた。途端に右肩の傷が引かれ、思わず顔をしかめる。
昨夜、鏡の怪異に裂かれた傷だ。事件が片づいて帰宅したのは午前三時を過ぎていた。それでも七時前には透羽から『傷の状態を報告してください』とメッセージが届き、眠気に負けて『寝てる』と返したところ、『返信できるなら起きています』と返ってきた。
正論は怪異より逃げ道がない。
「今、痛みましたね」
「ちょっと鞄が引っかかっただけ」
「次は空きコマです。保健管理センターへ行きます」
「朝にガーゼ替えたし――」
「玄兎」
「……はい」
この二日で、すでに扱い方を覚えられている気がする。
「へえ。本当に噂どおりなんだ」
背後から、知らない女の声が落ちてきた。
玄兎が振り返る。
長い黒髪の内側に、深紅が混じっている。教室の蛍光灯の下ではほとんど黒に見えるのに、窓から差す光を受けた部分だけ、薄い炎のような赤が浮かんだ。瞳も赤褐色で、細身の黒いブラウスと深紅のスカートがよく似合っている。
派手に振る舞っているわけではない。それでも、人に見られることへ慣れている人間特有の、妙に自然な立ち方をしていた。
「噂って?」
「鷺宮透羽が、男の子を一日中監視してるって噂。もう別学部まで少し回ってるよ」
「早すぎるだろ。大学の噂って怪談より速いな」
「怪談は信じるまで時間がかかるけど、恋愛っぽい話はみんなすぐ信じるからね」
玄兎が否定する前に、透羽の声が冷えた。
「緋鴉千燈」
「あら。覚えててくれたんだ、透羽ちゃん」
「その呼び方はやめてください」
「じゃあ透羽?」
「馴れ馴れしくしないでください」
「注文が難しいなあ」
女――緋鴉千燈は、まるで困っていない顔で肩をすくめた。
「知り合い?」
「顔見知りです」
「私はもう少し仲良しだと思ってたんだけど」
「認識に差があります」
千燈は笑い、それから玄兎へ視線を移した。
「君が鵺代玄兎くんなんだ」
「何で名前まで」
「今朝から有名人だから。それと、昨日から少し気になってた」
「昨日?」
千燈が一歩近づいた。初対面の距離ではない。玄兎が半歩下がると、彼女は悪びれもせず同じだけ詰める。
「ちょっと匂い、確かめてもいい?」
「初対面の相手に言う台詞としてかなり嫌なんですけど」
「褒めてるつもりなんだけどな」
「もっと嫌です」
千燈の視線が玄兎の右肩へ落ちる。服の下には、昨夜の傷がある。
軽かった笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。
「人の血の匂いはする。でも、その奥に別のものが何種類か重なってる」
玄兎の身体がわずかに強張った。
透羽がすぐ二人の間へ入る。
「ここで話す内容ではありません」
「そうだね」
千燈はあっさり引いた。
「じゃあお昼、一緒に食べない? もう少し落ち着いたところで話したい」
「断ります」
透羽が即答する。
「玄兎くんに聞いたんだけど」
「危険性の分からない人物へ、監視対象を一人で近づける理由がありません」
「透羽、俺の返事が完全に消えてる」
「あなたが行くなら私も行きます」
「結局行くのかよ」
千燈は楽しそうに笑った。
「十二時十五分、学食二階の窓際ね。逃げても烏に見つけてもらうから」
「烏?」
「それは後で」
片手を振って去っていく千燈を見送り、玄兎は隣の透羽へ顔を向けた。
「……何なんだ、あの先輩」
「吸血種です」
「急に情報が重いな」
「俗にいう吸血鬼と考えて大きくは間違っていません。人間社会に近い形で生活している系統です。大学では三年生です」
「吸血鬼が普通に大学へ通ってるの?」
「大学は種族で入学を拒否しません」
「制度の話をしてるんじゃないんだけど」
後ろから、まだ帰っていなかった木崎の声がした。
「なあ……今、吸血鬼って聞こえた?」
透羽は一拍も置かなかった。
「聞き間違いです」
「でも――」
「聞き間違いです」
「……はい」
木崎は素直に出ていった。
玄兎は思った。
退魔師は強い。
◇
空きコマに入ると、玄兎は透羽に連れられて学生支援棟の保健管理センターへ向かった。
昨夜負った傷だと受付で説明すると、看護師がガーゼを外して状態を確かめた。幸い縫合が必要なほど深くはなかったものの、朝より少し開いているらしい。傷を洗浄し、新しいガーゼへ替えられる間、透羽は処置台の脇で腕を組んでいた。
「ほら。来て正解だったでしょう」
「はいはい」
「返事が軽いです」
「透羽も昨日、結界のあと右手震えてたけど」
彼女の表情が止まった。
「……見ていたのですか」
「同じ部屋にいたからな」
「私は問題ありません」
「それ、俺が言うと怒るやつだろ」
透羽は答えない。看護師が消毒液を傷へ当てた瞬間、玄兎は小さく息を呑んだ。
「痛っ」
「動かないでください」
「透羽が処置してるわけじゃないだろ」
「見ているだけでも不安になります」
言ってから、透羽は少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
処置を終えて保健管理センターを出ると、廊下の窓際にあるベンチへ千燈が座っていた。玄兎たちを見つけるなり、長い脚を組み替えて笑う。
「思ったより時間かかったね。二人で何してたの?」
「傷の処置です」
透羽の返答が速い。
「まだ何も変なこと言ってないよ?」
「顔が言っています」
「よく分かってるね、私のこと」
千燈は立ち上がり、玄兎の右肩へ視線を落とした。
「ほんとに一口だけでいいんだけどな」
「何がですか」
「血」
「嫌です」
「即答かあ」
透羽が千燈を睨む。
「あなた、《血読》を使うつもりでしょう」
「血読?」
玄兎が訊くと、千燈は窓枠へ軽く背を預けた。
「血に触れると、その人に強く残ってる記憶や感情が少し見えるの。何でも好きに探せるわけじゃないよ。強い恐怖とか後悔とか、身体に焼きついてるものが、映像や音や匂いの断片で流れてくる感じ」
「便利そうだな」
「深く読まなければね。読みすぎると、相手の感情と自分の感情の区別がつきにくくなる。知らない人を好きになった気がしたり、理由もなく誰かを憎んだり」
「それ、便利より先に危ないが来るな」
「だから勝手にはやらない。少なくとも今日は」
「最後の三文字を消してください」
透羽が即座に返す。
千燈は笑い、窓の外を指した。中庭の植栽沿いのフェンスに、一羽の烏が止まっている。
「昨日、あの子の目と耳を借りて大学の近くを見てたの。途中で変な気配がして、玄兎くんを見つけた」
「烏と感覚を共有できるんですか」
「少しだけ。長くやると頭痛がするけどね」
透羽が警戒を解かないまま言う。
「能力も代償も分かったでしょう。玄兎、あなたの血を調査材料として差し出す必要はありません」
「まだ差し出すって言ってないよ」
「顔が考えていました」
「二人とも顔読むのやめない?」
千燈が声を立てて笑った。
その笑顔だけを見れば、距離の近い面倒な先輩で済む。ただ、能力の代償について話した時だけ、彼女は一度も冗談を挟まなかった。
玄兎は、そのことを覚えておくことにした。
◇
十二時十五分。
学食二階の窓際で、千燈は本当に待っていた。
玄兎は日替わりの唐揚げ定食、透羽はうどんと小さな苺プリン。千燈の前にはアイスコーヒーしかない。
「先輩、昼それだけ?」
「朝が遅かったから、あんまりお腹空いてないんだ」
そう言いながら、千燈の視線は玄兎の皿へ落ちる。
「唐揚げ一個ちょうだい」
「自分で頼んでください」
「一個だけ」
「血と同じ言い方するのやめてもらえます?」
「警戒されてるなあ」
次の瞬間、千燈の箸が伸び、玄兎の唐揚げを一個さらった。
「あ」
「いただきます」
「聞いた意味ないじゃないですか」
「美味しい」
透羽が無言で千燈を見る。
「何?」
「他人の食事を勝手に取るのは感心しません」
「玄兎くんのだからいいかなって」
「なぜですか」
「昨日から気になってるから」
玄兎がため息をつく。
「昨日まともに話してないでしょう」
「でも見てたよ。君が一度死んだところも」
箸が止まった。
透羽の目も鋭くなる。
「千燈。どこまで見たのですか」
「烏で途中から。胸を潰されて、どう見ても助かる状態じゃなかった。それなのに、そのあと立って歩いた」
千燈はもう笑っていなかった。
「怖くないの、玄兎くん。自分が」
思いがけず真っ直ぐな問いだった。
「怖い時はあります。でも、昔からこうだから」
「慣れた?」
「たぶん、慣れてはいない」
千燈は数秒だけ玄兎を見つめ、それ以上は踏み込まなかった。
「だから余計に血が気になる。一口飲めば、もう少し分かるかもしれない」
「食欲?」
「半分。残りは好奇心」
「どっちも嬉しくないな」
千燈が笑みを戻しかけた、その時だった。
隣のテーブルでスマートフォンが鳴った。
ありふれた着信音のはずなのに、玄兎には古い受話器の奥から聞くようなざらつきが混じって聞こえた。
男子学生が画面を見て、顔色を変える。
「……まただ」
向かいの友人が声を潜めた。
「また非通知? 出るなって言っただろ」
「でも、姉ちゃんの声なんだ」
玄兎と透羽が同時に振り向く。
千燈だけは、その一瞬前から男子学生を見ていた。
◇
男子学生は佐伯悠真。一年生、十九歳。
三年前に姉を病気で亡くしていた。
昼休みのあと、人の少ない学生会館のミーティングスペースへ移ると、佐伯はスマートフォンを両手で握ったまま話した。
「最初は一週間くらい前です。非通知だったから出なかったんですけど、留守電に俺の名前が入ってて。次に出たら……姉ちゃんでした」
「声が似ていただけではなく?」
「俺が返事すると、向こうも返してくるんです。大学どうだとか、ちゃんと飯食ってるかとか。入院してた時と同じ話し方で」
懐かしさと痛みが混じり、声が少し掠れる。
「昨日は三回かかってきました。最後に、『どうしてあの日来なかったの』って」
千燈の表情が変わった。
「佐伯くん。最近、指先を切ったりした?」
彼は右手の人差し指に貼った小さな絆創膏を見た。
「昨日、コップを割って」
「傷は開かない。血が出なければやめる。それでも、ほんの少し血が残ってるなら、電話を聞いた時の記憶を拾えるかもしれない」
玄兎は佐伯へ補足した。
「嫌なら断っていい。千燈先輩の《血読》は、本人が話したくないことまで見える可能性がある」
「……お願いします」
佐伯が絆創膏を外し、傷の周囲をそっと押す。塞がりかけたところから、小さな赤い粒が一つだけ浮いた。
千燈は彼の顔を見て、もう一度確認した。
「触るよ」
佐伯が頷く。
千燈の指先が血へ触れた。
直後、彼女の笑みが消えた。
「……姉ちゃん」
佐伯が息を呑む。
「ごめん。最後、行けなくて……」
声は千燈のものなのに、その言葉に宿る後悔は明らかに佐伯のものだった。
「千燈、そこで切ってください」
透羽が肩へ手を置く。
「……うん」
千燈は指を離し、ゆっくり息を吐いた。こめかみを押さえ、数秒かけて今いる部屋へ意識を戻す。
「電話の向こう、お姉さん本人じゃないと思う」
「どうして」
「君の血に強く残ってるお姉さんは、最後まで君を責めてない。心配してる感情の方がずっと強い。でも電話は、君が自分で一番責めている場所を選んで刺してきてる」
「じゃあ、姉ちゃんが本当はそう思ってたんじゃなくて……」
「少なくとも、今の電話を本人だと思わない方がいい」
佐伯の目から涙が落ちた。
千燈はそこから先を覗こうとはしなかった。
「最後の電話では、ほかに何て?」
「今夜十二時、駅東口の古い電話ボックスへ来いって。迎えに行くって……」
千燈が小さく息を吐いた。
「やっぱり、あそこか」
「知ってるんですか」
「昔から噂がある。午前零時に、もう会えない人から電話が来る。何度も話すと向こうから迎えに来るっていう都市伝説」
透羽が立ち上がる。
「今夜、確認します。佐伯さんはそれまで一人にならないでください」
「俺も行く」
玄兎が言うと、透羽は予想していたように息を吐いた。
「置いていけば、一人でも行くのでしょうね」
「理解が早くて助かる」
「助かっていません」
「私も行くよ」
千燈が言った。
透羽は一瞬だけ眉を寄せたが、佐伯の血を読んだ彼女を外す方が不自然だと判断したらしい。
「勝手な行動はしないでください」
「善処する」
玄兎と透羽が同時に千燈を見る。
「何、その顔」
「その言葉、信用なくしますよ」
「君が言う?」
佐伯が、涙の残った顔でほんの少し笑った。
◇
午後十一時四十分。
朽木ヶ丘駅東口はまだ終電前の人波を残していたが、再開発予定地の裏へ一本入るだけで音が遠くなった。
閉まった商店のシャッター。灰色の仮囲い。古い建物の影。その路地の突き当たりに、緑色の公衆電話を収めた電話ボックスが立っている。
回線は三年前に停止していた。
ボックスの中には薄く埃が積もり、数字キーもコイン投入口も古びている。それなのに受話器だけが、不自然なくらい綺麗だった。
「噂を試す人が今もいるんだろうね」
千燈が頭上を見た。電線には烏が一羽止まり、路地の入口側を監視している。
透羽は電話ボックスの周囲へ細い水の線を巡らせた。
「佐伯さん。何が聞こえても、私たちの声を優先してください」
「はい」
十一時五十九分。
佐伯のスマートフォンが震えた。
画面には『非通知』。
駅の時計が零時へ変わる。
同時に、回線の止まった公衆電話が鳴った。
古い呼び出し音が、人気の薄い路地へ一度、二度と響く。
玄兎の背中が粟立った。
誰も触れていない受話器が、わずかに持ち上がる。
「《禊牢》」
透羽の水が電話ボックスの四隅へ走り、透明な膜を作った。
公衆電話の音が途切れる。
しかし佐伯のスマートフォンは鳴り続け、表示が『姉』へ変わった。
「番号、残してる?」
「消せなくて……」
透羽が何か言うより先に、端末から勝手に女の声が流れた。
『悠真』
佐伯の呼吸が止まる。
『迎えに来たよ。もう大丈夫だから、こっちへおいで』
「姉ちゃん……」
『あの日、来てくれなかったね』
「ごめん」
『ずっと待ってたのに』
「ごめん、姉ちゃん……」
佐伯が一歩、電話ボックスへ近づいた。
「佐伯!」
玄兎が腕を掴んだ瞬間、ボックスの下から黒い線が何本も這い出した。
古い電話線に見える。だが濡れた蛇のように地面を滑り、佐伯の足首へ絡みついた。
玄兎が咄嗟に掴む。
冷たい。
電気ではなく、思考の内側へ直接冷たさを流し込まれたような感覚だった。
『玄兎』
「……え?」
自分の名前だった。
誰の声か分からない。それなのに、言葉を覚えるより前から聞いていたような、説明のできない懐かしさがある。
『玄兎。帰っておいで』
左鎖骨の下の痣が焼けるように熱くなった。
電話ボックスの向こうが暗く沈む。
濡れた壁。黒い水。大きすぎる月。遠くで獣が唸る気配。
重なる声が、玄兎の足元を引いた。
『帰る場所』
『器』
『戻れ』
気づけば、一歩進んでいた。
「玄兎くん、こっち見て」
両頬を挟まれた。
目の前に千燈の赤褐色の瞳がある。
「私が誰か言える?」
「……緋鴉千燈」
「透羽ちゃんは?」
「電話ボックスの横」
「今いる場所は?」
「朽木ヶ丘駅東口」
「よし。そこにいて」
千燈が手を離すと、路地の輪郭が戻った。
透羽が水の刃で佐伯へ絡む線を切り、玄兎は彼を結界の内側まで引き戻す。
ボックスの曇ったガラスに、無数の顔が浮かんだ。
老人。子供。若い女。男。誰もが受話器を耳へ当て、泣いたり、笑ったりしている。
「一人じゃない」
千燈の声から軽さが消える。
「この電話、いろんな人の『会いたい』を拾ってる」
彼女が調べていた古い地域記録では、この場所には二十年ほど前まで市立病院行きのバス停があり、携帯電話が今ほど普及していなかった頃には、病院へ行く人や帰る人がこの公衆電話を使っていたらしい。
結果を知らせるため。家へ帰れないと伝えるため。言えなかったことを、あとから言おうとするため。
そこへ「もう会えない人につながる電話」という噂が重なった。
「未練が噂の形を借りたのでしょう」
透羽が言った。
直後、玄兎と透羽と千燈のスマートフォンが一斉に震えた。
玄兎と透羽は非通知。
千燈の画面だけには、一つの名前が表示されていた。
彼女の顔から笑みが消える。
「……今だけ、見ないで」
「分かった」
玄兎はすぐ視線を外した。
スマートフォンから、若い男の声がした。
『千燈』
少し古い言葉遣いを残した、穏やかな声だった。
『まだ夜を歩いているのか』
「……反則だなあ」
『帰っておいで』
「それ、何十年前の話だと思ってるの」
『待っている』
「待ってないよ。もう、いないくせに」
黒い電話線が千燈へ伸びる。
彼女は避けなかった。
「千燈!」
玄兎が腕を掴む。
その拍子に右肩のガーゼがずれ、傷から滲んだ血が千燈の指へ触れた。
「――っ」
千燈の身体が硬直した。
暗い水。
大きすぎる月。
遠くで獣が鳴いている。
次の瞬間には、胸を押し潰されて息のできない痛みと、逃げたいほどの恐怖が流れ込んだ。
――それでも、自分ならいい。
誰かが傷つくくらいなら、自分が引き受ければいい。
どうせ、自分は戻るから。
場面が飛ぶ。
六歳くらいの玄兎が、濡れた地面へ倒れている。近くで誰かが泣いている。黒い水と月の像が重なる。
その先だけが白く霞んだ。
記憶がないのではない。続きがあるはずなのに、上から厚い蓋を被せられたように触れられない。
「やめて……!」
千燈が自分から指を離した。
膝が崩れそうになる。
「千燈!」
玄兎が支えようと手を伸ばすと、彼女は反射的に首を振った。
「ごめん。今は触らないで」
玄兎はすぐ手を引いた。
透羽が千燈へ声を飛ばす。
「名前は?」
「緋鴉千燈」
「今いる場所は?」
「朽木ヶ丘駅東口」
「血読は切れていますか」
「切ってる。でも感情が残ってる」
千燈は苦しそうに息を整えながら玄兎を見る。
「一口なんて簡単に言うものじゃなかった。君の血、強すぎる」
「何が見えた?」
「後で話す。今はこっち」
公衆電話がまた震えた。
『帰れ』
『帰る場所』
痣が熱を持つ。
玄兎は電話ボックスの中へ入れば何か分かるかもしれないと、一瞬だけ考えた。
だが透羽の方を見ると、言われる前に首を振った。
「入らない。別の方法を探す」
透羽が僅かに目を見開く。
「……それでお願いします」
千燈が青い顔のまま笑った。
「ちゃんと学習するんだね」
「毎回怒られてるからね」
「そこは私も透羽ちゃんに賛成」
「二対一になった」
佐伯のスマートフォンから、再び姉の声がした。
『悠真。こっちへ来て』
玄兎は佐伯へ向き直った。
「佐伯。お姉さんに言えなかったこと、ある?」
「……いっぱい」
「怪異に答えるんじゃなくて、自分の言葉として言ってみよう。危なくなったら俺たちが止める」
透羽が水の結界を狭め、佐伯の周囲へ集中させる。
「一人にはしません」
佐伯は震えながら、電話ボックスを見た。
『来て』
「行けない」
『どうして』
「姉ちゃんは、もういないから」
『いるよ』
「いない」
『ここにいる』
「俺、最後の日に病院へ行かなかった。死ぬのが怖かった。顔を見たら、本当にいなくなる気がして逃げた」
『ひどいね』
佐伯は泣きながら、それでも首を振った。
「その言い方は姉ちゃんじゃない」
電話が一瞬黙った。
「姉ちゃん、最後まで俺が飯食ってるかとか、大学ちゃんと行けるかとか、そんなことばっかり気にしてたんだろ」
千燈が静かに頷く。
「俺が自分を責めてただけだ。ごめん、姉ちゃん。最後に行けなくて。でも、もう一度会うためにそっちへ行くのは違う。俺はまだ、こっちにいる」
曇ったガラスに、痩せた若い女性の姿が浮かんだ。
佐伯が息を呑む。
女性は何も言わず、口だけを動かした。
佐伯には読めたらしい。
「うん。ちゃんと食べる。大学も行く」
女性の姿が消える。
同時に、佐伯へ伸びていた黒い電話線が煙のようにほどけた。
しかし電話ボックスの奥には、まだ何人もの顔が残っている。
「佐伯さんの分は切れました。でも怪異そのものは残っています」
透羽が足元へ一滴、水を落とした。
水はボックスの床の隙間へ入り、見えない勾配へ引かれるように路地の外へ流れていく。
「この下ではありません。少し離れたところへつながっています」
五メートルほど先に、古い通信設備用のマンホールがあった。蓋の縁には錆が浮き、脇の標識にはかろうじて『通信』の文字が残っている。
その蓋は、怪異の影響なのか数センチだけずれていた。
透羽が水を隙間へ流し、内部を探る。
「浅い保守スペースです。電話ボックスへ続く古い幹線も残っています」
三人で蓋を安全にずらすと、冷えた湿気が上がってきた。
深い地下通路ではない。道路の下に設けられた浅い通信設備用の空間で、使われなくなった配線が束になっている。
その中心だけが、異様だった。
何百本もの細い線に黒い影が絡み、古い接続箱の周囲で赤黒い塊を作っている。線と線の隙間から鈍い光が漏れ、心臓のようにゆっくり脈打っていた。
『会いたい』
『声だけでも』
『一度だけ』
『ごめん』
『ありがとう』
『言えなかった』
声は接続箱だけからではなく、配線やコンクリートの壁全体から滲んでくるようだった。
透羽は細い水の糸を伸ばし、配線へ順番に触れさせる。電話ボックス方向へ延びる一本の太い幹線へ触れたところで、水面が大きく波打った。
「ここです」
彼女はそれ以上説明を重ねなかった。
赤黒い塊が思念の溜まった核で、太い幹線が地上の電話へ力を送る経路なのだと、玄兎にも目の前の反応で分かった。
千燈が低い声で言う。
「会いたかった気持ちまで消す必要はないよね」
「はい。人を過去へ連れていく形だけを断ちます」
透羽は玄兎を見る。
「私が動く線を水で抑えます。千燈は影だけを切ってください。玄兎は、私が合図するまで幹線へ触れないこと」
「了解」
「本当に?」
「今日は聞き分けいいって褒められたばっかりだよ」
「褒めてはいません」
千燈がかすかに笑った。
「じゃあ始めよっか」
彼女の爪が一瞬だけ細く伸びる。
黒い影に覆われた細い線が一本、二本と切れた。
赤黒い塊が脈打ち、周囲の配線が一斉に跳ね上がる。
「《水鏡》!」
透羽の水膜が三人の前へ広がった。黒い線が触れるたび、まとわりついていた影だけが剥がれ、古いケーブルが床へ落ちていく。
『千燈』
あの男の声が響いた。
『みんな先に死ぬ』
千燈の手が止まりかける。
「千燈」
玄兎は過去を尋ねなかった。
「今ここには、俺と透羽がいる」
千燈が一度だけこちらを見る。
「……それ、口説いてる?」
「どうしてそうなるんですか」
「千燈、集中してください」
「はいはい」
軽口が戻った。それだけで十分だった。
「玄兎、今です!」
透羽が水膜に一本の道を作る。
玄兎は太い幹線の根元へ手を伸ばした。黒い影が腕へ巻きつこうとした瞬間、千燈の爪が横から切り払う。
玄兎は錆びた金属端子を両手で掴んだ。
固い。
「上下に揺らしてください。固定具が錆びています!」
透羽の声に従い、少しずつ動かす。
耳元へ声がまとわりついた。
『玄兎。帰って』
痣が熱い。
一瞬だけ、黒い水と大きな月が視界の端へ重なる。
玄兎はそちらを見なかった。
「悪いけど、今は帰らない」
金属が乾いた音を立て、端子が外れた。
その瞬間、電話ボックスへ伸びていた気配が途切れた。
暴れていた配線の半分が、力を失って床へ落ちる。
残った赤黒い塊からは、まだ声が聞こえた。
『会いたい』
『ごめん』
『言えなかった』
透羽は清め水を核へ巡らせる。
「《白鷺浄界》」
淡い水光が赤黒い影へ染み込み、人を引き寄せる歪みだけを一枚ずつ剥がしていく。
黒い色が薄れるにつれ、声も変わった。
『ありがとう』
『元気で』
『愛してた』
『さよなら』
もう、こちらへ来いとは言わない。
返事を求めず、言えなかった言葉だけが残って消えていく。
最後に、あの男の声がした。
『千燈』
千燈は目を閉じた。
それが本人ではなく、自分の記憶を借りた声だと分かっている。それでも今度は笑って誤魔化さなかった。
「うん」
短い間を置き、静かに言う。
「さよなら」
声は、それきり消えた。
◇
午前一時二十分を少し過ぎた頃、東口の電話ボックスはただの古い公衆電話へ戻っていた。
佐伯は帰る前に、一度だけボックスへ頭を下げた。
「ありがとうございました」
「今日はちゃんと寝てね」
千燈が言った。
「それと、お姉さんが心配してたこと。忘れないで」
「はい」
佐伯が駅へ戻っていく。
路地に三人だけが残ると、千燈は壁へ軽く背を預けた。顔色はまだ白い。
「先輩、本当に大丈夫?」
「頭痛はある。でも、自分が誰かは分かってる」
彼女は少し迷い、それから玄兎へ向き直った。
「さっき君の血に触れた時、大きな月と黒い水を見た。それから、六歳くらいの君が倒れてるところ」
透羽の表情が僅かに変わる。
「その時、玄兎は死亡していましたか」
「そこまでは分からない。呼吸も生死も、あの断片だけじゃ判断できないよ。しかも、その先だけ何かに覆われてて読めなかった。空白というより、蓋がある感じ」
玄兎は記憶を探ったが、黒い水も、大きな月も思い出せなかった。
「俺には、その場面自体の記憶がない」
「なら、今夜だけで決めつけない方がいい」
千燈はこめかみを押さえた。
「血読が乱れた可能性もある。私が見たものと、本当に起きたことが同じとは限らないから」
「分かりました」
透羽はそれだけ答えたが、何かを考えている顔だった。
千燈は今度は玄兎を見た。
「あと一つ。君、本当に怖かったんだね。昨日死ぬ前も」
「……まあ、痛いし」
「それなのに、自分なら戻るからって、自分を納得させようとしてた」
玄兎は否定できなかった。
透羽も何も言わない。すでに何度か同じことで怒られている。
千燈は弱く笑った。
「だから今は、君の血をもっと読もうとは思わない。一口欲しいのは変わらないけど」
「最後で台無しですよ」
「全部真面目にすると私じゃなくなるから」
透羽が千燈の腕を取った。
「今日は帰って休んでください。駅まで送ります」
「優しいねえ、透羽ちゃん」
「ここで倒れられると面倒です」
「そういうことにしとく」
玄兎は二人の少し前を歩いた。
今度は透羽から「三歩後ろ」と言われなかった。
◇
午前二時を少し過ぎた頃。
玄兎が自宅へ戻り、シャワーを諦めてベッドへ倒れ込んだところで、スマートフォンが震えた。
千燈からだった。
『玄兎くんの血、やっぱり気になる』
さっき「もっと読まない」と言った人間の文章とは思えない。
玄兎は眠い目で返信した。
『今日はもう寝てください』
すぐに既読がつく。
『冷たいなあ』
玄兎はそこで画面を伏せた。
返事をしないまま目を閉じる。
しかし最後に浮かんだのは、電話の怪異でも、黒い水でも、大きな月でもなかった。
笑いながら距離を詰めてくるくせに、他人の痛みに触れた時だけ冗談をやめる、赤い瞳の先輩の顔だった。
同じ頃。
千燈は自宅のソファで、普段なら何の不満もなく飲める代用品の血液パックを一口含み、しばらく黙ってからテーブルへ戻した。
味はいつもと同じだった。
ただ、玄兎の血から流れ込んだ恐怖がまだ胸の奥に残っている。
あれだけ怖がっているのに、自分が引き受ければいいと思ってしまう人間。
しかも一度死んだはずなのに、翌朝には教室でくだらない噂に困っている。
「反則だなあ」
千燈は、返信の来なくなった画面を見て小さく笑った。
一口味見して、秘密を覗けば、それで興味は終わると思っていた。
どうやら、そんなに簡単ではなさそうだった。
――第三話・了