旧研究棟まで、二人で走れば一分もかからなかった。
鵺代玄兎が最後に見た時、二階の端の窓には顔のない人影が立ち、まっすぐ彼だけを指していた。ところが建物の前へ着くころには、その窓には白い蛍光灯しか残っていない。
「玄兎。私の横から離れないでください」
鷺宮透羽は息ひとつ乱さず、入口へ視線を据えたまま言った。
透羽が一歩先へ出る。
雨に濡れた旧研究棟は、昼間より一回り大きく見えた。四階建ての古い建物で、研究室の移転後も一部の書庫や実験室だけが残されている。走るたび、玄兎の胸の奥には鈍い重さが返ってきた。傷はもうないのに、身体だけが一度そこを潰されたことを覚えているらしい。
無意識に胸元へ触れた手を、透羽が見逃さなかった。
「胸は?」
「重いだけ。息は平気」
玄兎が先に状態まで答えると、透羽は一度だけ呼吸を見て、それ以上は言わなかった。少し前までなら煩わしく感じたかもしれない。けれど、自分が死んだところを見た相手だと思えば、少しだけ納得もできた。
玄関脇の掲示板には、数十分前に上がった投稿が表示されたままだった。
『二階女子トイレの鏡、絶対に見るな』
『友達の顔が消えた』
返信欄には『動画頼む』『今から行く』という文字が増え続けている。
「嫌な方向に行動力あるな、大学生」
「玄兎も人のことを言えません」
言われた直後、建物脇から男子学生が三人現れた。一人はすでにスマートフォンを横向きに構えている。
「二階の鏡ってどこですか? 撮るだけなんで」
透羽が入口を塞いだ。
「今は入らないでください」
「何で――」
頭上の外灯が、ぱちんと消えた。
三人が言葉を止める。その頭上、二階の窓を、人の頭ほどの白いものがゆっくり横切った。輪郭だけなら顔に見える。けれど目も、鼻も、口もなかった。
三人は相談すらせず来た道を戻っていった。
「外灯は透羽?」
「はい」
「窓は?」
「違います」
「……急ごう」
玄関は開いていた。湿ったワックスと古紙の匂いが籠もり、廊下には誰かが濡れた靴で走った跡が残っている。二階へ上がるにつれて雨音は遠ざかり、代わりに蛍光灯の低い唸りと、どこかで水滴が落ちる音だけが耳へ残った。
◇
女子トイレ前には、女子学生が二人いた。
一人は壁際へ座り込み、もう一人がその肩を抱いている。立っていた方の学生――紗季は、玄兎たちを見るなり縋るように言った。
「美緒だって分かってるんです。名前も知ってるし、今日一緒にご飯を食べたことも覚えてる。でも顔を見ると、知らない人みたいになる瞬間があるんです」
床へ座る宮坂美緒の顔には、目も鼻も口もあった。頬には泣いた跡があり、前髪が少し乱れている。見た目だけなら、何も失われていない。
それでも紗季は、美緒と目が合うたびにほんの一瞬だけ呼吸を止める。美緒がそのたびに「私だよ」と言い、紗季が「分かってる」と答える。そのやり取りが繰り返されるほど、二人とも追い詰められているのが分かった。
紗季の指から一瞬だけ力が抜けた。その小さな躊躇に、美緒の表情が曇る。
透羽は二人の顔を見比べた。
「顔が見えても、美緒さんだと分からなくなる……認識に干渉しているのかもしれません」
透羽は美緒の前へしゃがんだ。
「異変は鏡を見た直後からですか」
美緒が頷き、震える手でスマートフォンを差し出した。
鏡越しに撮られた写真が五枚ある。一枚目は普通だった。二枚目では口元の境界が水に濡れた墨のように滲み、三枚目では目の位置まで曖昧になる。四枚目になると、美緒の顔だけが白く塗り潰されたように消えていた。背景のタイルも髪も鮮明なのに、顔の部分だけが最初から描かれていなかったように平らだった。
最後の一枚には、美緒ではない若い女性が映っていた。
怒っているようにも、泣くのを堪えているようにも見える。髪は頬へ貼りつき、目の下に濃い影がある。撮影した瞬間にそこへ立っていた人というより、長いあいだ同じ場所からこちらを見続けていた人の顔だった。
しかも、その女だけはカメラを見ていない。視線はレンズよりわずかに外れ、今この写真を覗き込んでいる玄兎たちへぴたりと合っていた。撮影された過去の人物なのに、見る側の時間だけを知っているようで気味が悪い。
玄兎は無意識に画面を少し遠ざけた。
「この人、知ってる?」
美緒の目が揺れた。
「……一ノ瀬真帆に、似てる気がします。同じゼミの。でも……本人かどうかは、自信がありません」
そこから先は、紗季がほとんど口を挟まなかった。
大学の匿名掲示板で、一ノ瀬についての中傷が広がっていた。男に媚びている、レポートを書かせている、教授に取り入っている。書き込みは増え続け、どこからが誰の言葉か分からないほど膨らんだ。
最初に実名を出したのは、美緒だった。
「発表で、私の案を自分のものみたいに話されたと思って……『人の案を盗る人』って書きました。でも、その後の話は私じゃないです」
玄兎は責める代わりに、美緒の顔を見た。
「最初の一文は、自分で書いた?」
「……はい」
「なら、そこだけは他人のせいにできないな」
美緒は俯いた。紗季は庇わなかった。ただ、肩へ置いた手だけは離さない。
透羽が立ち上がる。
「一ノ瀬さんへの中傷が関係している可能性はあります。ただ、写真に映った女性が一ノ瀬さん本人だと決めるのは早いです。先に鏡を見ます」
◇
問題の鏡は、ごく普通の洗面台の上にあった。
白いタイル。三つの蛇口。古い蛍光灯。怪談のために用意されたようなものは何もない。
透羽が小瓶から一滴の水を宙へ浮かせた。
「《水鏡》」
水滴はそのまま薄い膜となり、鏡を覆った。
玄兎は隣の透羽を見た。張りつめた横顔を見て、いつものように何か軽口を挟みかける。けれど今は邪魔をしない方がいいと思い直し、口を閉じた。
その直後、鏡の中の玄兎だけが笑った。
ほんの少し口角を上げただけだった。
現実の玄兎は笑っていない。笑うつもりで息を吸い、やめた。その表情だけを、鏡の中の自分が先に最後までやってみせたように見えた。
「……今、俺より先に笑った」
透羽が鏡へ視線を固定したまま言う。
「玄兎。鏡へ触れないでください」
「触らない」
返事をした時、玄兎の右手の指先はわずかに動いていた。水膜が本当に鏡の表面へ張りついているのか、確かめたいと思っただけだ。すぐにやめ、手を下ろす。
鏡の中の玄兎は下ろさなかった。
鏡像だけが右手を持ち上げ、水膜へ掌を重ねる。
水面が内側から押されたように膨らんだ。
『きれいな顔』
耳元で、女の声がした。
『顔がある人は、いいね』
蛍光灯が消える。
スマートフォンの明かりだけになった洗面所で、水膜の上へ濡れた指で書いたような文字が浮かんだ。
――顔を見せて言え。
鏡像の掌が沈み、その位置から白い腕が現実側へ抜けてきた。
玄兎の手首を掴む。
「《白羽》!」
透羽の水刃が腕を断つ。黒い霧が床へ散り、玄兎の手首には青黒い指痕だけが残った。
「痛っ」
「霊障を抜きます。動かないでください」
清め水が皮膚へ触れる方が、掴まれた時より痛い。反射的に透羽の手を払いたくなったが、玄兎は奥歯を噛んで腕を止めた。
鏡の中の玄兎が、代わりに透羽の手を払った。
ぱしゃ、と水膜が大きく揺れる。
現実の透羽の右手まで横へ弾かれた。
「っ……」
水膜に一瞬だけ穴が開き、黒い指が透羽の頬へ伸びる。玄兎は左手で透羽の肩を引いた。指先が髪を数本掠め、その向こうを通り過ぎる。
透羽の《白羽》が遅れて黒い指を断った。
「今の、俺だ」
「玄兎?」
「痛くて、透羽の手をどけようとした。でもやめた。向こうだけやった」
透羽の目が鏡の中の玄兎へ移る。
鏡像はもう笑っていなかった。
今度は本物より先に顔を上げる。
輪郭の内側へ獣の顎、鳥の影、細長い耳が何枚も重なった。一つの何かが玄兎へ化けているのではない。玄兎という形の内側から、別々のものが同時に顔を押しつけているようだった。
『おかしい』
『おまえ、顔が多い』
玄兎の呼吸が止まる。
『ひとりなのに』
『いっぱい、いる』
「……さっきも言われた」
透羽が横目だけを向ける。
「非常階段で?」
「『ひとりじゃない』『いっぱい、いる』って」
鏡の奥から、女だけではない声が重なった。子供、老人、男。互いに違う声なのに、向いている先だけは同じだった。
『帰る場所』
『ここじゃない』
『帰りたい』
透羽の表情がわずかに変わった。
「先ほど、消える直前の子供も、あなたを指して『かえるところ』と言いました」
「俺を?」
「はい。意味を決められなかったので、伝えていませんでした」
玄兎の左鎖骨の下が熱を持つ。服の上から痣へ触れた、その時だった。
鏡の中で透羽の顔が薄れた。
同時に、隣にいる本物の輪郭まで曖昧になる。
目の前にいるのが透羽だと知っている。名前も知っている。さっきの非常階段で何を言われたかも覚えている。
それなのに、見慣れ始めたはずの顔だけが、その記憶から剥がれていく。目の形も鼻筋も変わっていないのに、そこへ『鷺宮透羽』という実感だけが届かなくなる。知らない人を知人だと思い込もうとしているような、気持ちの悪いずれだった。
「透羽。鏡じゃなく俺を見て」
「怪異の動きを――」
「今はこっち」
透羽の瞳が玄兎へ焦点を結んだ。
玄兎は考えるより先に言葉を重ねた。
「鷺宮透羽。二十歳。今夜会ったばっかりなのに、俺が死んだところを見て、今も怒ってる。水を使う退魔師。融通は利かない。たぶん甘い物が好き」
「最後は未確認です」
即座に返事が来た。
その声を聞いた瞬間、透羽の顔が透羽のものへ戻った。
彼女も玄兎をまっすぐ見る。
「鵺代玄兎。二十歳。大学二年生。危機管理に重大な問題があり、現在は私の監視対象。先ほど『離れない』と言ったのに、すでに鏡へ掴まれました」
「悪いところばっかり具体的だな」
「本人だと分かれば十分です」
玄兎は鏡へ目を戻さなかった。具体的な癖や言葉を口にした途端、剥がれかけていた顔と名前が結び直された。
透羽は鏡に張った水膜へ指を滑らせた。水面を細かく揺らすと、鏡像が輪郭を結べなくなる。
女の声が低く軋んだ。
『みえない』
「この鏡には古い霊的痕跡がほとんどありません」
「本体は別にいる?」
「おそらく。ここは出入り口に使われているだけです」
透羽が水膜の揺れを強める。鏡の中の像が崩れ、文字も黒い染みも薄くなった。
「ここは塞げます。移動しましょう」
「分かった」
玄兎は一度で頷いた。
洗面所を出て数歩進んだところで、廊下のガラス戸に二人の姿が映った。
玄兎は階段側へ一度視線をやる。物音がした気がしたが、透羽から離れない方を選び、そのまま通り過ぎた。
ガラスの中の玄兎だけが立ち止まった。
鏡像は階段扉へ手を伸ばす。
現実の扉のノブが、がちゃりと回った。
「透羽!」
扉が勝手に開き、隙間から白い腕が床を這ってくる。透羽が即座に水を走らせ、腕ごと扉を押し戻した。廊下に乾いた衝撃音が響く。
静かになってから、玄兎はガラス戸を見た。
鏡像はもうそこにいない。
「……やっぱりだ」
「何がですか」
「階段を確認するか一瞬迷って、やめた。あいつ、俺が選ばなかった方を先にやってる」
透羽は否定せず、ガラス戸へ清め水を一筋引いた。
二人は反射面から距離を取り、足を速めた。
◇
美緒と紗季を一階の守衛室近くへ移した。守衛には「設備事故の可能性があるので二階へ上げないでほしい」とだけ伝え、透羽が女子トイレの鏡には水の封を残す。
「女子トイレの鏡から、廊下のガラスにも移った」
玄兎が言う。
「何でもいいなら、建物中の反射を追いかけることになるな」
「全部を追う必要はありません」
透羽は少し考えてから、廊下の奥を見た。
「いくつもの鏡やガラスを渡っているなら、どこかに始まりがあるのかもしれません。新しく置かれた鏡より、昔からこの建物に残っているものを先に調べましょう」
二人は、同じ棟に残る旧心理学系の共同研究室へ向かった。
共同研究室には、紙と埃と古いプラスチックの匂いが籠もっていた。棚には過去の設備台帳と研究記録が年代別に残されている。透羽が鏡やガラスを含む設備記録を追い、玄兎はその横で二階の旧室配置図を広げた。
数分もしないうちに、東端の一室だけ壁の記号が妙なことに気づく。普通の間仕切りではなく、隣室との境界が二重線で描かれていた。
「これ、鏡じゃないか?」
透羽が覗き込む。
『旧心理実験室B 一方向観察鏡・固定式』
「マジックミラーか」
参加者側には鏡、隣の観察室側には窓となる大型ガラスだった。設備番号から関連記録を辿ると、一冊の薄いファイルへ行き着いた。
『匿名環境下における攻撃行動の変化』
十五年前の研究だった。
参加者を、氏名と顔を出す群と匿名の群に分け、批評の攻撃性を比較する研究だった。研究者は照明を落とした観察室から反応を記録し、参加者側からはその顔が見えない。
途中までは乾いた文章が続く。後半だけ、記録の調子が変わっていた。
『実験参加者一名が、研究外の匿名掲示板でも継続的な中傷を受けた』
『本人は長期欠席』
『実験継続は不適切と判断し、中止』
参加者名は、雨宮葉月。
そのページには、当時の参加者票の写しも綴じられていた。小さな顔写真を見て、玄兎は手を止めた。美緒のスマートフォンの最後の一枚に映っていた女性と、同じ顔だった。
ファイルの最後には本人の申告書が綴じられていた。
『誰が書いているのか分からないことが一番怖い』
『同じ教室にいる全員が、書いた人に見える』
『鏡には自分の顔しか映らないのに、向こうから誰かに見られている』
玄兎は最後の一文で手を止めた。紙は十五年も前のものなのに、その筆圧だけが妙に新しく見えた。署名の最後の一画は強く押しつけられ、裏側までわずかに盛り上がっている。
顔を見せて言え。
鏡が繰り返していた言葉が、初めて怪異の決まり文句ではなく、誰か一人が本当に言いたかったこととして聞こえた。
玄兎は申告書をもう一度見てから、ファイルを閉じた。
「美緒さんのところへ戻ろう」
◇
守衛室近くへ戻ると、美緒の症状は進んでいた。
紗季は隣にいるのに、美緒の顔を見るたび確信を失いかけている。美緒自身も、自分のスマートフォンのインカメラを見てすぐ画面を伏せた。
玄兎は彼女の前へしゃがんだ。
「鏡がずっと、『顔を見せて言え』って繰り返してる」
美緒が唇を噛む。
「最初の書き込み、自分が書いたって一ノ瀬さん本人に言える?」
「……許してもらうためですか」
「違う。許すかどうかは一ノ瀬さんが決める。怪異を祓うために謝るんでもない。ただ、自分で書いたものを匿名のままにしないため」
しばらく、美緒はスマートフォンを握ったまま動かなかった。画面には一ノ瀬の名前が出ている。指を一センチ動かせば発信できる距離なのに、その一センチがひどく遠そうだった。
やがて紗季が、その手を包む。
「一人で無理なら、隣にいる」
美緒は目元を拭き、一ノ瀬へ発信した。
三回目でつながる。
『……もしもし』
「あの、宮坂美緒です」
長い沈黙のあと、低い声が返った。
『……何』
「掲示板の最初の書き込み、私です。『人の案を盗る人』って、名前を出して書きました」
美緒は途中で何度も言葉を詰まらせた。それでも「でも」「だって」とは続けなかった。後から増えた噂は自分ではないことも話したが、それを免罪符にはせず、最初に名前を出したのは自分だと繰り返した。
紗季は隣で黙っていた。励ますために代わりの言葉を差し込むことも、美緒の責任を軽くすることもしなかった。ただ、通話を切りたくなった時だけ、握った手へ少し力を込めた。
一ノ瀬の声には怒りより先に疲労があった。
『私、大学へ行けなくなってる。あんたが一回だけとか、私には関係ない』
「うん」
『謝れば終わりだと思ってる?』
「思ってない」
美緒はビデオ通話へ切り替えた。
「顔を見せて言いたかった。私が書きました。本当に、ごめんなさい」
一ノ瀬は許すとは言わなかった。
しばらく美緒の顔を見たあと、「今日はもう切る」とだけ言った。
「うん。聞いてくれてありがとう」
通話が切れるまで、美緒は画面から顔を隠さなかった。
その時、二階の奥で、ぱきん、と硬いものが軋む音がした。
紗季が美緒を見る。
今度は目を逸らさなかった。
「……美緒だ」
美緒の目から涙が落ちる。
透羽は安堵するより先に二階へ顔を上げた。
「一人との結びつきが外れただけです。本体は残っています」
「うん。行こう」
◇
二階東端の旧心理実験室Bは、長く使われていないわりに妙に整っていた。机も椅子も壁際へ寄せられ、中央だけが空いている。その正面に、壁一面を占める大きな鏡が残っていた。
女子トイレの鏡とは違う。入った瞬間から、玄兎の左鎖骨の痣が焼けるように熱を持った。透羽も何も言わず清め水の栓へ指をかける。
ここだ、と二人とも同時に分かった。
玄兎と透羽が入った瞬間、鏡の向こうが人で埋まる。
現実の室内には二人しかいない。それなのに鏡の中では、若い男、女子学生、老人、名前も分からない人間の顔が肩を重ね、奥へ奥へと続いている。鏡の厚みなど無視して、その向こうに満員電車ほどの人間が押し込まれているようだった。
口だけが笑っている顔も、スマートフォンへ視線を落とす顔も、何もしていないというように横を向く顔もある。誰も玄兎を正面から見ていないのに、全員から見られている感覚だけが皮膚へまとわりついた。
『俺じゃない』
『一回だけ』
『みんな書いてた』
『冗談だった』
その声の中心に、研究記録の顔写真と同じ若い女性が立っていた。
「雨宮葉月さん?」
玄兎が呼ぶと、女性はゆっくり首を横へ振った。
『わたしじゃない』
唇が動く。
『のこったもの』
本人ではない。十五年前にここへ残ったものへ、その後の匿名の声が貼りつき続けている。
透羽が床へ清め水を落とした。
「反射を崩します」
水が鏡一面へ広がり、細かな波が走る。無数の顔が形を保てなくなり、一斉に歪んだ。
『みえない』
『顔が』
黒い腕が水膜を破ろうと伸びる。波へ触れたものから崩れたが、一本だけ、刃の軌跡のような黒い線になって外へ滑った。
「玄兎、下がって!」
玄兎は反射的に透羽の前へ出かけた。
けれどさっきから何度も「離れるな」「勝手に前へ出るな」と言われている。今は従うべきだと判断し、後ろへ体重を移した。
鏡の中の玄兎だけが前へ出た。
次の瞬間、現実の右足が床を蹴った。
「っ!?」
自分で踏み出した感覚がないまま身体が一歩前へ投げ出され、黒い線が右肩を斜めに裂いた。
服が切れ、血が腕を伝う。
透羽が玄兎の襟を掴んで引き戻す。
「後ろへ!」
「今の、俺じゃない」
「分かっています。座って」
透羽は水膜を維持したまま、右手の清め水で傷口の周囲から黒い靄だけを剥がした。指先がわずかに震えている。
玄兎はその手を見て、透羽ごと鏡から引き離したくなった。だが今ここで術を切らせる方が危険だと判断し、手を伸ばさない。
鏡の中の玄兎が透羽の手首を掴んだ。
「右!」
玄兎は足元の丸椅子を蹴り倒した。
鏡から伸びた濡れた腕が透羽へ届く直前、倒れた椅子の脚へ絡みつく。透羽が《白羽》で腕を断ち、水膜を立て直した。
玄兎は肩を押さえながら鏡を見る。
鏡像は自分と同じ顔で、こちらをじっと見返していた。
「考えただけじゃない。やりかけて、やめた方を拾ってる」
「確信がありますか」
「洗面所から全部同じだ。俺が途中で止めた時だけ、向こうが続きをやった」
透羽は短く頷いた。
鏡の中では群衆の口元が一斉に歪んだ。
『やらなかった』
『言わなかった』
『逃げた』
「選ばなかっただけだろ」
玄兎は返しながら、鏡の脇の扉を見た。
旧配置図では、その向こうが観察室だ。
「透羽、隣へ行く」
「理由は?」
「この鏡、向こうから見るためのものなんだろ。なら、向こう側では俺が映らないかもしれない」
透羽は一瞬だけ鏡と扉を見比べ、頷いた。
二人は水膜を残したまま実験室を出て、隣の観察室へ入った。
観察室へ入った途端、空気が一段冷えた。窓のない細長い部屋で、机と古い記録装置だけが残っている。実験室との境にある一方向観察鏡は、こちら側から見ると暗いガラス窓に近かった。
ガラスの向こうには、水膜で歪んだ実験室が見える。向こうからこちらは見えない。
玄兎は右手を持ち上げ、途中で止めた。
何も起きない。
「……ここだと先回りしてこない」
透羽も暗いガラスへ視線を走らせる。
「こちら側の像が、向こうへ返っていません」
「なら、あいつは俺が映る反射面でしか拾えない」
壁の古い注意書きには、『観察時、室内照明を消灯』とある。
玄兎は天井を見た。
観察室の蛍光灯はすべて消えている。隣の実験室だけが明るい。
「透羽。これ、こっちが暗いから向こうには鏡に見えるんだよな」
「はい」
「葉月さんは、鏡に自分の顔だけ映されて、向こうから見てる人間の顔は見えなかった」
玄兎は壁のスイッチへ手を伸ばした。
今度は止めなかった。
「だったら、隠れてる側を暗いままにしない」
スイッチを入れる。
最初の一本が点き、次いで奥の蛍光灯が白く瞬く。十五年の埃が乗った机も、椅子も、玄兎と透羽の顔も、隠れる場所がなくなるほど明るく照らされた。
ガラスの向こうで異変が起きた。
実験室側から見れば鏡だった面に、玄兎と透羽の姿が浮かび上がる。反射は完全には消えない。それでも、自分の顔しか返さなかった壁の奥に、確かにこちら側の人間の顔が見える。
同時に、玄兎の鏡像が本物より先に動こうとして、輪郭を崩した。
右へ行こうとした肩と、左へ向こうとした顔が別々にずれ、どちらの動きにもなれないまま水面のようにほどけていく。
無数の声が、初めて怯んだ。
それまで一方的にこちらを見ていた顔が、揃って観察室へ向く。自分たちの後ろに誰かがいると今になって気づいたように、何枚もの目が見開かれた。
『いる』
『そっちに』
『顔が』
玄兎は雨宮葉月の申告書をガラスへ当てた。
「雨宮葉月。十五年前、ここで見られていた人」
若い女性の残像だけが、重なった顔の奥からこちらを見る。
「誰が傷ついたのかは残す。匿名の声の中へ埋めない」
透羽の清め水が、観察室側からガラスの縁を伝った。
「痛みを、なかったことにはしません」
水が白い光を帯びる。
「ただ、その痛みに便乗して積もった害と、他人の顔を奪う力だけを洗います」
「《白鷺浄界》」
白い水がガラス全体へ走った。
玄兎は一瞬、息を忘れた。光を含んだ水は、細い羽が幾重にも重なるように鏡面を渡り、暗い室内へ淡い白を散らしていく。目の前で怪異がほどけているのに、その光景だけは息をのむほど静かで、きれいだった。
鏡の向こうで、互いに押し合っていた顔が一枚ずつ剥がれていく。誰かの名前、噂の切れ端、『自分じゃない』という言葉が、水へ触れるたび薄い紙のようにほどけて消えた。
『一回だけ』
『みんなも』
『俺じゃない』
声が減るほど、若い女性の姿だけがはっきりしていく。
最後に残った彼女は、怪異らしい歪みのない、ごく普通の大学生に見えた。肩ほどの髪も、少し腫れた目も、大学へ来ればどこにでもいそうな服装も、もう誰かを呪うための記号には見えない。
疲れて、泣いたあとらしい目で、明るくなった観察室を見ている。
『見てくれた』
玄兎はガラス越しに頷いた。
「見たよ」
透羽も静かに言う。
「ここで起きたことは、記録に残します」
女性の姿が薄くなった。
水が落ちきったあと、ガラスには玄兎と透羽の姿だけが残った。
今度は、どちらも相手より先には笑わなかった。
◇
旧研究棟を出た頃には、雨はほとんど止んでいた。
美緒の症状は戻っている。一ノ瀬との関係は元には戻っていないし、匿名掲示板の書き込みも現実から消えたわけではない。それでも、美緒は次に会えた時にも、自分の顔で話すと言った。
玄兎はそれで十分だと思った。
「それより、肩を見せてください」
透羽が言った。
「歩けるし、浅――」
「その言葉は今後禁止します」
「まだ最後まで言ってない」
「言う顔をしていました」
正門前の二十四時間営業のコンビニへ連れていかれ、玄兎はイートインの端へ座らされた。
明るすぎる店内と冷蔵ケースの機械音が、数十分前まで鏡の向こうから大勢に見られていたことを遠ざけてくれる。
透羽は救急用品を机へ並べた。その隣には、玄兎がついでに買ったブラックコーヒーと、透羽が『別に欲しいとは言っていません』と言いながら結局受け取った苺クリーム入りの白いパンが置かれている。
血で張りついた服を傷口から慎重に離すと、右肩には斜めに赤い裂傷が走っていた。深くはない。
「痛っ」
「動かないでください」
「今日二回目だな、それ」
「二回怪我をするからです」
消毒を続ける右手が、ほんの少し震えている。
玄兎が視線を落とすと、透羽は気づかないふりをした。
ガーゼを留め終えると、透羽はようやく息を吐いた。震えていた右手を膝の下へ隠すようにしてから、苺クリームパンを一口食べる。
ほんの少しだけ目元が緩んだ。
「やっぱり甘い物好きだろ」
「普通です」
「さっき未確認って言ってたのに、確認できたな」
「食事中に人の顔を観察しないでください」
「今日の事件のあとにその台詞、ちょっと怖いな」
透羽は一瞬黙り、それから自分でも気づいたのか、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「連絡先を交換してください。監視中にはぐれたり、怪異を見つけたりした時に連絡できるように」
「監視用って言い方、変えない?」
「用途を正確に説明しています」
透羽はなぜか文字サイズの設定を開き、玄兎がQRコードを出すのを待った。端の白い兎のマスコットが揺れる。
「こういうの付けるんだ」
「……自分で買いました。忘れてください」
透羽は画面を玄兎の方へ向けた。
交換直後、透羽からメッセージが届いた。
『鷺宮透羽です。監視用連絡先です。』
玄兎は笑いながら返す。
『鵺代です。監視される側です。』
「用途を正確に書いたなら、返事も正確でしょ」
玄兎が笑うと、透羽は端末をしまった。口元だけが少し緩んでいた。
コンビニの外では、ようやく雨が止んでいた。
◇
同じ頃、旧研究棟の屋上には一羽の烏が残っていた。
濡れた手すりで首を傾げるその視界を、大学から離れたマンションの一室で共有している女がいる。
長い黒髪の内側に深紅を混ぜた女――緋鴉千燈は、ソファへ頬杖をついたまま、遠ざかる玄兎の背中を眺めていた。
少し前、彼の胸が潰れた時も、この烏の目を借りていた。どう見ても助かる状態ではなかった。動かなくなった身体を見て、さすがに死んだと思った。
それなのに、しばらくして玄兎は自分の足で立ち上がった。
今夜は右肩を裂かれた。屋上から見下ろす地面には、その時に落ちた血が雨に薄まりながらまだ残っている。けれど建物を出ていく玄兎の歩き方は、傷を負った直後とは思えないほど安定していた。透羽に処置されたとはいえ、出血も妙に早く落ち着いて見えた。
千燈は目を細めた。
傷の治りが早いだけなら、自分と近い性質という可能性もある。けれど、今夜のあれを単なる再生と呼んでいいのかは分からない。少なくとも千燈自身は、一度死んだように見えた身体が何事もなかったように起き上がることなどない。
今夜も、鏡は玄兎にだけ妙な像を返していた。けれど怪異が見せたものを、そのまま玄兎自身の正体だと受け取るほど千燈は素直ではなかった。
烏越しでは、血の匂いも輪郭までは拾えなかった。
「鵺代玄兎、か」
千燈は、獲物を見る時とは少し違う目でその背中を追った。同じ側のものなのか、それともまったく別の何かなのか、近くで確かめるような目だった。
烏が首を傾げる。
「……ちょっとだけ、血の匂いを確かめてみたいかも」
夜明け前の空へ、黒い羽が飛び立った。
――第二話・了