第一章・全36話中 2話

第二話 鏡の中の誰かが俺より先に笑った

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 旧研究棟まで、二人で走れば一分もかからなかった。

 鵺代玄兎が最後に見た時、二階の端の窓には顔のない人影が立ち、まっすぐ彼だけを指していた。ところが建物の前へ着くころには、その窓には白い蛍光灯しか残っていない。

「玄兎。私の横から離れないでください」

 鷺宮透羽は息ひとつ乱さず、入口へ視線を据えたまま言った。

「さっき素直に返事しただろ」

「ですから、今も守ってください」

「監視が厳しいな」

「必要な範囲です」

 反論しづらい言葉を平然と置いて、透羽が一歩先へ出る。

 雨に濡れた旧研究棟は、昼間より一回り大きく見えた。四階建ての古い建物で、研究室の移転後も一部の書庫や実験室だけが残されている。走るたび、玄兎の胸の奥には鈍い重さが返ってきた。傷はもうないのに、身体だけが一度そこを潰されたことを覚えているらしい。

 無意識に胸元へ触れた手を、透羽が見逃さなかった。

「胸は?」

「重いだけ。息は平気」

玄兎が先に状態まで答えると、透羽は一度だけ呼吸を見て、それ以上は言わなかった。少し前までなら煩わしく感じたかもしれない。けれど、自分が死んだところを見た相手だと思えば、少しだけ納得もできた。

 玄関脇の掲示板には、数十分前に上がった投稿が表示されたままだった。

『二階女子トイレの鏡、絶対に見るな』
『友達の顔が消えた』

 返信欄には『動画頼む』『今から行く』という文字が増え続けている。

「嫌な方向に行動力あるな、大学生」

「玄兎も人のことを言えません」

 言われた直後、建物脇から男子学生が三人現れた。一人はすでにスマートフォンを横向きに構えている。

「二階の鏡ってどこですか? 撮るだけなんで」

 透羽が入口を塞いだ。

「今は入らないでください」

「何で――」

 頭上の外灯が、ぱちんと消えた。

 三人が言葉を止める。その頭上、二階の窓を、人の頭ほどの白いものがゆっくり横切った。輪郭だけなら顔に見える。けれど目も、鼻も、口もなかった。

 三人は相談すらせず来た道を戻っていった。

「外灯は透羽?」

「はい」

「窓は?」

「違います」

「……急ごう」

 玄関は開いていた。湿ったワックスと古紙の匂いが籠もり、廊下には誰かが濡れた靴で走った跡が残っている。二階へ上がるにつれて雨音は遠ざかり、代わりに蛍光灯の低い唸りと、どこかで水滴が落ちる音だけが耳へ残った。

 女子トイレ前には、女子学生が二人いた。

 一人は壁際へ座り込み、もう一人がその肩を抱いている。立っていた方の学生――紗季は、玄兎たちを見るなり縋るように言った。

「美緒だって分かってるんです。名前も知ってるし、今日一緒にご飯を食べたことも覚えてる。でも顔を見ると、知らない人みたいになる瞬間があるんです」

 床へ座る宮坂美緒の顔には、目も鼻も口もあった。頬には泣いた跡があり、前髪が少し乱れている。見た目だけなら、何も失われていない。

 それでも紗季は、美緒と目が合うたびにほんの一瞬だけ呼吸を止める。美緒がそのたびに「私だよ」と言い、紗季が「分かってる」と答える。そのやり取りが繰り返されるほど、二人とも追い詰められているのが分かった。

 紗季の指から一瞬だけ力が抜ける。美緒はその小さな躊躇に傷つくが、紗季も好きで迷っているわけではない。自分の中で起きていることを止められず、同じくらい怯えていた。

「顔が見えないんじゃなくて、顔と『美緒』がつながらなくなるのか」

「……はい」

 透羽は美緒の前へしゃがんだ。

「異変は鏡を見た直後からですか」

 美緒が頷き、震える手でスマートフォンを差し出した。

 鏡越しに撮られた写真が五枚ある。一枚目は普通だった。二枚目では口元の境界が水に濡れた墨のように滲み、三枚目では目の位置まで曖昧になる。四枚目になると、美緒の顔だけが白く塗り潰されたように消えていた。背景のタイルも髪も鮮明なのに、顔の部分だけが最初から描かれていなかったように平らだった。

 最後の一枚には、美緒ではない若い女性が映っていた。

 怒っているようにも、泣くのを堪えているようにも見える。髪は頬へ貼りつき、目の下に濃い影がある。撮影した瞬間にそこへ立っていた人というより、長いあいだ同じ場所からこちらを見続けていた人の顔だった。

 しかも、その女だけはカメラを見ていない。視線はレンズよりわずかに外れ、今この写真を覗き込んでいる玄兎たちへぴたりと合っていた。撮影された過去の人物なのに、見る側の時間だけを知っているようで気味が悪い。

 玄兎は無意識に画面を少し遠ざけた。

「この人、知ってる?」

 美緒の目が揺れた。

「……一ノ瀬真帆だと思います。同じゼミの」

 そこから先は、紗季がほとんど口を挟まなかった。

 大学の匿名掲示板で、一ノ瀬についての中傷が広がっていた。男に媚びている、レポートを書かせている、教授に取り入っている。書き込みは増え続け、どこからが誰の言葉か分からないほど膨らんだ。

 最初に実名を出したのは、美緒だった。

「発表で、私の案を自分のものみたいに話されたと思って……『人の案を盗る人』って書きました。でも、その後の話は私じゃないです」

 玄兎は責める代わりに、美緒の顔を見た。

「最初の一文は、自分で書いた?」

「……はい」

「なら、そこだけは他人のせいにできないな」

 美緒は俯いた。紗季は庇わなかった。ただ、肩へ置いた手だけは離さない。

 透羽が立ち上がる。

「一ノ瀬さんの感情が関係している可能性はあります。ただ、写真に映ったものが本人だと決めるのは早いです。先に鏡を見ます」

 問題の鏡は、ごく普通の洗面台の上にあった。

 白いタイル。三つの蛇口。古い蛍光灯。怪談のために用意されたようなものは何もない。

 透羽が小瓶の栓を開け、一滴の水を宙へ浮かせた。

「《水鏡》」

 水滴が薄い膜となって鏡へ広がる。

 玄兎が息を殺して見ていると、隣の透羽が目を開いたままなのに、鏡の中の透羽だけが瞬きをした。

 遅れているのではない。

 鏡像が勝手に動いた。

 玄兎がそれを理解した時には、鏡の中の透羽はもう笑っていた。ほんの少し口角を上げただけなのに、普段ほとんど表情を崩さない本人との差が大きすぎて、ぞっとするほど目についた。

 玄兎は隣を確かめる。透羽は笑っていない。鏡を見たまま、むしろ警戒するように目を細めている。

 それでも鏡像だけは、玄兎に見られていることを喜ぶように、もう少し笑みを深くした。

 本物の口元は動いていない。

『きれいな顔』

 耳元で、女の声がした。

『顔がある人は、いいね』

 蛍光灯が消える。

 スマートフォンの明かりだけになった洗面所で、水膜の上へ濡れた指で書いたような文字が浮かんだ。

――顔を見せて言え。

 次の瞬間、鏡の表面が膨らみ、白い腕が玄兎の手首を掴んだ。

「《白羽》!」

 透羽の水刃が腕を断つ。黒い霧が床へ散り、玄兎の手首には青黒い指痕だけが残った。

「痛っ」

「霊障を抜きます。動かないでください」

 清め水が皮膚へ触れる方が、掴まれた時より痛かった。玄兎が顔をしかめると、透羽は一切手を緩めない。

「鏡を見るなって状況だと、透羽を見るしかないな」

「床があります」

「床よりは透羽を見る」

「……今は動かないでください」

 返事がわずかに遅れた。

 治療が終わり、玄兎が手を引いた瞬間だった。

 鏡の中の玄兎が、本物より先に顔を上げた。

 輪郭の内側へ獣の顎、鳥の影、細長い耳が何枚も重なる。一つの何かが玄兎へ化けているのではない。玄兎という形の内側から、別々のものが同時に顔を押しつけているようだった。

『おかしい』

『おまえ、顔が多い』

 玄兎の呼吸が止まる。

『ひとりなのに』

『いっぱい、いる』

「……さっきも言われた」

 透羽が横目だけを向ける。

「非常階段で?」

「『ひとりじゃない』『いっぱい、いる』って」

 鏡の奥から、女だけではない声が重なった。子供、老人、男。互いに違う声なのに、向いている先だけは同じだった。

『帰る場所』

『ここじゃない』

『帰りたい』

 透羽の表情がわずかに変わった。

「さっき、消える直前の子供も、あなたを指して『かえるところ』と言いました」

「俺を?」

「はい。意味を決められなかったので、伝えていませんでした」

 玄兎の左鎖骨の下が熱を持つ。服の上から痣へ触れた、その時だった。

 鏡の中で透羽の顔が薄れた。

 同時に、隣にいる本物の輪郭まで曖昧になる。

目の前にいるのが透羽だと知っている。名前も知っている。さっきの非常階段で何を言われたかも覚えている。

 それなのに、見慣れ始めたはずの顔だけが、その記憶から剥がれていく。目の形も鼻筋も変わっていないのに、そこへ『鷺宮透羽』という実感だけが届かなくなる。知らない人を知人だと思い込もうとしているような、気持ちの悪いずれだった。

「透羽。鏡じゃなく俺を見て」

「怪異の動きを――」

「今はこっち」

 透羽の瞳が玄兎へ焦点を結んだ。

 玄兎は考えるより先に言葉を重ねた。

「鷺宮透羽。二十歳。さっき会ったばっかりなのに、俺が死んだところを見て、今も怒ってる。水を使う退魔師。融通は利かない。たぶん甘い物が好き」

「最後は未確認です」

 即座に返事が来た。

 その声を聞いた瞬間、透羽の顔が透羽のものへ戻った。

 彼女も玄兎をまっすぐ見る。

「鵺代玄兎。二十歳。大学二年生。危機管理に重大な問題があり、現在は私の監視対象。先ほど『離れない』と言ったのに、すでに鏡へ掴まれました」

「悪いところばっかり具体的だな」

「本人だと分かれば十分です」

 玄兎は鏡へ目を戻さなかった。名前を知っているだけでは足りない。さっきまで一緒にいた相手の癖や言葉を具体的に思い出した時だけ、顔がもう一度その人へ戻った。

 透羽は鏡に張った水膜へ指を滑らせた。水面を細かく揺らすと、鏡像が輪郭を結べなくなる。

 女の声が低く軋んだ。

『みえない』

「この鏡には古い霊的痕跡がほとんどありません」

「出口だけ?」

「おそらく。反射面を借りているだけです」

 透羽が水膜の揺れを強める。鏡の中で笑っていた二人の像が崩れ、文字も黒い染みも薄くなった。

「ここは塞げます。本体を探します」

「分かった」

 玄兎は一度で頷いた。

 美緒と紗季を一階の守衛室近くへ移した。守衛には「設備事故の可能性があるので二階へ上げないでほしい」とだけ伝え、透羽が女子トイレの鏡には水の封を残す。

 二人が向かったのは、同じ棟に残る旧心理学系の共同研究室だった。

 闇雲に怪談の由来を探すつもりはない。女子トイレの鏡そのものに古い痕跡がないなら、別の反射面が出口として使っている。まず、この建物に固定された古い鏡を探せばいい。

 共同研究室には、紙と埃と古いプラスチックの匂いが籠もっていた。棚には過去の設備台帳と研究記録が年代別に残されている。透羽が固定設備の一覧を追い、玄兎はその横で二階の旧室配置図を広げた。

 数分もしないうちに、東端の一室だけ壁の記号が妙なことに気づく。普通の間仕切りではなく、隣室との境界が二重線で描かれていた。

「これ、鏡じゃないか?」

 透羽が覗き込む。

『旧心理実験室B 一方向観察鏡・固定式』

 参加者側からは鏡に見え、隣の観察室からは中を見られる大型ガラス。その設備番号から関連記録を辿ると、一冊の薄いファイルへ行き着いた。

『匿名環境下における攻撃行動の変化』

 十五年前の研究だった。

 参加者を、氏名と顔を出して批評する群と、匿名で批評する群に分け、言葉がどれだけ攻撃的になるかを比較する研究だった。参加者側には鏡にしか見えない一方向観察鏡の向こうで、研究者が反応を記録している。

 途中までは乾いた文章が続く。後半だけ、記録の調子が変わっていた。

『実験参加者一名が、研究外の匿名掲示板でも継続的な中傷を受けた』
『本人は長期欠席』
『実験継続は不適切と判断し、中止』

 参加者名は、雨宮葉月。

 ファイルの最後には本人の申告書が綴じられていた。

『誰が書いているのか分からないことが一番怖い』
『同じ教室にいる全員が、書いた人に見える』
『見られているのに、こちらから相手の顔が見えない』

 玄兎は最後の一文で手を止めた。紙は十五年も前のものなのに、その筆圧だけが妙に新しく見えた。署名の最後の一画は強く押しつけられ、裏側までわずかに盛り上がっている。

 顔を見せて言え。

 鏡が繰り返していた言葉が、初めて怪異の決まり文句ではなく、誰か一人が本当に言いたかったこととして聞こえた。

 玄兎は申告書をもう一度見てから、ファイルを閉じた。

「美緒さんのところへ戻ろう」

「一ノ瀬さんへ連絡してもらうのですか」

「うん。許してもらうためじゃない。少なくとも、最初に書いた一文だけは顔を隠したままにしない」

 一階へ戻ると、美緒の症状は進んでいた。

 紗季は隣にいるのに、美緒の顔を見るたび確信を失いかけている。美緒自身も、自分のスマートフォンのインカメラを見てすぐ画面を伏せた。

 玄兎は彼女の前へしゃがんだ。

「鏡がずっと、『顔を見せて言え』って繰り返してる」

 美緒が唇を噛む。

「最初に書いた一文。名前も顔も隠さず、一ノ瀬さん本人に引き受けられる?」

「……許してもらうためですか」

「違う。許すかどうかは一ノ瀬さんが決める。怪異を祓うために謝るんでもない。ただ、自分で書いたものを匿名のままにしないため」

 しばらく、美緒はスマートフォンを握ったまま動かなかった。画面には一ノ瀬の名前が出ている。指を一センチ動かせば発信できる距離なのに、その一センチがひどく遠そうだった。

 やがて紗季が、その手を包む。

「一人で無理なら、隣にいる」

 美緒は目元を拭き、一ノ瀬へ発信した。

 三回目でつながる。

『……もしもし』

「あの、宮坂美緒です」

 長い沈黙のあと、低い声が返った。

『……何』

「掲示板の最初の書き込み、私です。『人の案を盗る人』って、名前を出して書きました」

 美緒は途中で何度も言葉を詰まらせた。それでも「でも」「だって」とは続けなかった。後から増えた噂は自分ではないことも話したが、それを免罪符にはせず、最初に名前を出したのは自分だと繰り返した。

 紗季は隣で黙っていた。励ますために代わりの言葉を差し込むことも、美緒の責任を軽くすることもしなかった。ただ、通話を切りたくなった時だけ、握った手へ少し力を込めた。

 一ノ瀬の声には怒りより先に疲労があった。

『私、大学へ行けなくなってる。あんたが一回だけとか、私には関係ない』

「うん」

『謝れば終わりだと思ってる?』

「思ってない」

 美緒はビデオ通話へ切り替えた。

「顔を見せて言いたかった。私が書きました。本当に、ごめんなさい」

 一ノ瀬は許すとは言わなかった。

 しばらく美緒の顔を見たあと、「今日はもう切る」とだけ言った。

「うん。聞いてくれてありがとう」

 通話が切れるまで、美緒は画面から顔を隠さなかった。

 その時、二階の奥で、ぱきん、と硬いものが軋む音がした。

 紗季が美緒を見る。

 今度は目を逸らさなかった。

「……美緒だ」

 美緒の目から涙が落ちる。

 透羽は安堵するより先に二階へ顔を上げた。

「一人との結びつきが外れただけです。本体は残っています」

「うん。行こう」

 二階東端の旧心理実験室Bは、長く使われていないわりに妙に整っていた。机も椅子も壁際へ寄せられ、中央だけが空いている。その正面に、壁一面を占める大きな鏡が残っていた。

 女子トイレの鏡とは違う。入った瞬間から、玄兎の左鎖骨の痣が焼けるように熱を持った。透羽も何も言わず清め水の栓へ指をかける。

 ここだ、と二人とも同時に分かった。

 玄兎と透羽が入った瞬間、鏡の向こうが人で埋まる。

 現実の室内には二人しかいない。それなのに鏡の中では、若い男、女子学生、老人、名前も分からない人間の顔が肩を重ね、奥へ奥へと続いている。鏡の厚みなど無視して、その向こうに満員電車ほどの人間が押し込まれているようだった。

 口だけが笑っている顔も、スマートフォンへ視線を落とす顔も、何もしていないというように横を向く顔もある。誰も玄兎を正面から見ていないのに、全員から見られている感覚だけが皮膚へまとわりついた。

『俺じゃない』
『一回だけ』
『みんな書いてた』
『冗談だった』

 その声の中心に、先ほど写真で見た若い女性が立っていた。

「雨宮葉月さん?」

 玄兎が呼ぶと、女性はゆっくり首を横へ振った。

『わたしじゃない』

 唇が動く。

『のこったもの』

 本人ではない。十五年前にここへ残ったものへ、その後の匿名の声が貼りつき続けている。

 透羽が床へ清め水を落とした。

「反射を崩します」

 水が鏡一面へ広がり、細かな波が走る。無数の顔が形を保てなくなり、一斉に歪んだ。

『みえない』
『顔が』

 黒い腕が水膜を破ろうと伸びる。波へ触れたものから崩れたが、一本だけ、刃の軌跡のような黒い線になって外へ滑った。

「玄兎、下がって!」

 声とほぼ同時に、右肩が熱く裂けた。

 服が切れ、血が腕を伝う。

 玄兎が反射的に前へ出かけた瞬間、透羽が身体を差し込んだ。

「後ろへ」

「分かった」

 今度は本当に下がった。

 透羽は水膜を維持したまま、右手の清め水で傷口の周囲から黒い靄だけを剥がす。指先がわずかに震えたが、術は途切れない。

「応急処置です。あとで必ず傷を見せてください」

「了解」

 短く答えた玄兎の視界に、鏡の脇の扉が入った。

 旧配置図では、その向こうが観察室だ。

「透羽、隣へ行く」

「理由は?」

「この鏡、向こうから見るためのものなんだろ。なら、向こう側を見たい」

 透羽は一瞬だけ考え、頷いた。

 二人は水膜を残したまま実験室を出て、隣の観察室へ入った。

 観察室へ入った途端、空気が一段冷えた。窓のない細長い部屋で、机と古い記録装置だけが残っている。実験室との境にある一方向観察鏡は、こちら側から見ると暗いガラス窓に近かった。

 ガラスの向こうには、水膜で歪んだ実験室が見える。向こうからこちらは見えない。玄兎が手を振っても、鏡の中の群衆は誰一人その動きへ反応しなかった。

 壁の古い注意書きには、『観察時、室内照明を消灯』とある。

 玄兎は天井を見た。

 観察室の蛍光灯はすべて消えている。隣の実験室だけが明るい。

「透羽。これ、こっちが暗いから向こうには鏡に見えるんだよな」

「はい」

「葉月さんは、自分の顔だけ見せられて、見てる側の顔は見えなかった」

 玄兎は壁のスイッチへ手を伸ばした。

「だったら、隠れてる側を暗いままにしない」

 スイッチを入れる。

 最初の一本が点き、次いで奥の蛍光灯が白く瞬く。十五年の埃が乗った机も、椅子も、玄兎と透羽の顔も、隠れる場所がなくなるほど明るく照らされた。

 ガラスの向こうで異変が起きた。

 実験室側から見れば鏡だった面に、玄兎と透羽の姿が浮かび上がる。反射は完全には消えない。それでも、自分の顔しか返さなかった壁の奥に、確かにこちら側の人間の顔が見える。

 無数の声が、初めて怯んだ。

 それまで一方的にこちらを見ていた顔が、揃って観察室へ向く。自分たちの後ろに誰かがいると今になって気づいたように、何枚もの目が見開かれた。

『いる』

『そっちに』

『顔が』

 玄兎は雨宮葉月の申告書をガラスへ当てた。

「雨宮葉月。十五年前、ここで見られていた人」

 若い女性の残像だけが、重なった顔の奥からこちらを見る。

「誰が傷ついたのかは残す。匿名の声の中へ埋めない」

 透羽の清め水が、観察室側からガラスの縁を伝った。

「痛みを、なかったことにはしません」

 水が白い光を帯びる。

「ただ、その痛みに便乗して積もった害と、他人の顔を奪う力だけを洗います」

「《白鷺浄界》」

 白い水がガラス全体へ走った。

 鏡の向こうで、互いに押し合っていた顔が一枚ずつ剥がれていく。誰かの名前、噂の切れ端、『自分じゃない』という言葉が、水へ触れるたび薄い紙のようにほどけて消えた。

『一回だけ』
『みんなも』
『俺じゃない』

 声が減るほど、若い女性の姿だけがはっきりしていく。

 最後に残った彼女は、怪異らしい歪みのない、ごく普通の大学生に見えた。肩ほどの髪も、少し腫れた目も、大学へ来ればどこにでもいそうな服装も、もう誰かを呪うための記号には見えない。

 怪異になるほど傷ついた人ではなく、傷つく前にも、傷ついたあとにも生活があった一人の学生として、ようやく輪郭が戻ったように見えた。

 疲れて、泣いたあとらしい目で、明るくなった観察室を見ている。

『見てくれた』

 玄兎はガラス越しに頷いた。

「見たよ」

 透羽も静かに言う。

「ここで起きたことは、記録に残します」

 女性の姿が薄くなった。

 水が落ちきったあと、ガラスには玄兎と透羽の姿だけが残った。

 今度は、どちらも相手より先には笑わなかった。

 旧研究棟を出た頃には、雨はほとんど止んでいた。

 美緒の症状は戻っている。一ノ瀬との関係は元には戻っていないし、匿名掲示板の書き込みも現実から消えたわけではない。それでも、美緒は次に会えた時にも、自分の顔で話すと言った。

 玄兎はそれで十分だと思った。怪異を祓っても、人間同士の問題まで都合よく元通りにはならない。その面倒さが、今夜はむしろまともな現実に思えた。

「それより、肩を見せてください」

 透羽が言った。

「歩けるし、浅――」

「その言葉は今後禁止します」

「まだ最後まで言ってない」

「言う顔をしていました」

 正門前の二十四時間営業のコンビニへ連れていかれ、玄兎はイートインの端へ座らされた。

 明るすぎる店内と冷蔵ケースの機械音が、数十分前まで鏡の向こうから大勢に見られていたことを遠ざけてくれる。

 透羽は救急用品を机へ並べた。その隣には、玄兎がついでに買ったブラックコーヒーと、透羽が『別に欲しいとは言っていません』と言いながら結局受け取った苺クリーム入りの白いパンが置かれている。

血で張りついた服を傷口から慎重に離すと、右肩には斜めに赤い裂傷が走っていた。深くはない。それでも、非常階段で一度死んで戻ったばかりなのに増えた傷は、透羽が機嫌を悪くするには十分だった。

「痛っ」

「動かないでください」

「今日二回目だな、それ」

「二回怪我をするからです」

 消毒を続ける右手が、ほんの少し震えている。

 玄兎が視線を落とすと、透羽は気づかないふりをした。

「今日はちゃんと下がっただろ」

「一度は」

「評価が厳しい」

「肩を切られている人を満点にはできません」

 ガーゼを留め終えると、透羽はようやく息を吐いた。震えていた右手を膝の下へ隠すようにしてから、苺クリームパンを一口食べる。

 ほんの少しだけ目元が緩んだ。

「やっぱり甘い物好きだろ」

「普通です」

「さっき未確認って言ってたのに、確認できたな」

「食事中に人の顔を観察しないでください」

「今日の事件のあとにその台詞、ちょっと怖いな」

 透羽は一瞬黙り、それから自分でも気づいたのか、ほんの少しだけ口元を緩めた。

「連絡先を交換してください。監視中に離れた場合と、怪異を見つけた場合に必要です」

「監視用って言い方、変えない?」

「用途を正確に説明しています」

 透羽はスマートフォンを取り出したものの、数秒後にはなぜか文字サイズの設定画面を開いていた。

「……分かってる?」

「昨日更新したので表示が変わりました」

「それOSの更新だと思う」

 玄兎が代わりにQRコードを出してやる。スマートフォンを返す時、端についた白い兎の小さなマスコットが揺れた。

「こういうの付けるんだ」

「頂き物です」

「誰から?」

「……自分で買いました」

「今の一秒で設定変わった?」

「忘れてください」

 交換直後、透羽からメッセージが届いた。

『鷺宮透羽です。監視用連絡先です。』

 玄兎は笑いながら返す。

『鵺代です。監視される側です。』

「もう少し普通に返してください」

「事実だけど」

 透羽は一拍置いた。

「事実なら、顔を隠して何を言ってもいいわけではないのでしょう」

「そこに今日の教訓を使う?」

 玄兎が笑うと、透羽の口元もほんの少しだけ緩んだ。

 コンビニの外では、ようやく雨が止んでいた。

 同じ頃、旧研究棟の屋上には一羽の烏が残っていた。

 濡れた手すりで首を傾げるその視界を、大学から離れたマンションの一室で共有している女がいる。

 長い黒髪の内側に深紅を混ぜた女――緋鴉千燈は、ソファへ頬杖をついたまま、遠ざかる玄兎の背中を眺めていた。

 彼が一度死んだあと、自分の足で立ち上がったところも見ている。

 今夜、鏡の中で一人分では説明できない影が重なったことも。

 そして屋上から見下ろす地面には、肩を裂かれた時に落ちた血が、雨に薄まりながらまだ残っていた。

 烏の目を通しているだけなのに、千燈の喉の奥がかすかに熱くなる。

 人間の血とも、怪異の血とも違う。

 一人の身体の中で、いくつもの気配が重なっている。

 千燈はゆっくり笑った。

「鵺代玄兎、か」

 烏が首を傾げる。

「ちょっとだけ、味を確かめてみたいかも」

 夜明け前の空へ、黒い羽が飛び立った。

――第二話・了

👥 登場人物紹介ネタバレを抑えた基本プロフィール
鵺代玄兎

CHARACTER 01

鵺代玄兎

ぬえしろ げんと

現実的で、妙な状況でもまず話を整理しようとする常識人寄りの青年。突然の怪異や騒動には戸惑いながらも、困っている相手を放っておけない。深刻な場面でも自然にツッコミが出るタイプ。

  • 物語の主人公
  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 常識人寄りのツッコミ役
俺が何者でも、困ってる人を置いていく理由にはならない。
鷺宮透羽

CHARACTER 02

鷺宮透羽

さぎみや とわ

冷静で生真面目。怪異への警戒心が強く、必要なことははっきり言う。危険な場面では自分が前に出ようとする、責任感の強い少女。

  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 鷺宮家の退魔師
  • 礼儀正しいがやや堅い
私が間に合う時は、あなたを死なせません。
緋鴉千燈

CHARACTER 03

緋鴉千燈

ひがらす ちとせ

余裕のある笑みを浮かべ、人をからかうのが上手な先輩。自然に距離を詰めてくる、つかみどころのない雰囲気を持つ。

  • 玄兎たちの先輩
  • 赤褐色の瞳
  • 人をからかうのが得意
秘密って、暴くより自分から話してもらう方が面白いよ。
白狼院小毬

CHARACTER 04

白狼院小毬

はくろういん こまり

明るく人懐っこい一年生。気になったことはすぐ口にし、匂いを確かめることに夢中になると相手との距離感まで忘れがち。

  • 朽木ヶ丘大学の一年生
  • 非常に鋭い嗅覚
  • 人懐っこく表情豊か
匂いは嘘をつきません。だから、何度でも見つけます!
蝶ヶ森依澄

CHARACTER 05

蝶ヶ森依澄

ちょうがもり いすみ

静かで穏やか、言葉数は少なめ。初対面からどこか不思議な印象を残し、感情表現は控えめだが答え方は率直。

  • 朽木ヶ丘大学の学生
  • 淡い青紫の瞳
  • 物静かでマイペース
今日が初めてなら、明日また会えばいい。

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