午後七時四十二分。
鵺代玄兎は、翌日の正午が締め切りのレポートへ最後の句点を打つと、念のため二度保存してからノートパソコンを閉じた。
六月の雨が、朽木ヶ丘大学の窓を細かく叩いている。
講義の終わった第一講義棟はすでに静かで、教室に残っているのは玄兎一人だった。昼から何も食べていない腹はさっきから素直に空腹を訴えているし、友人からは二軒目の居酒屋で撮った揚げ物とビールの写真まで送られてきている。
『まだ大学? 今日の飲み来ないの?』
そのメッセージへ、玄兎は『レポート終わった。今から何か食う』と返した。
すぐに既読がつく。
『真面目か』
「締め切り前日に言われてもな」
誰もいない教室で苦笑し、財布とスマートフォンをポケットへ入れる。
一階の自動販売機にパンが残っていれば、それを買って戻る。なければ駅前まで行く。
その程度のつもりだった。
教室を出て、十歩ほど歩いたところで、玄兎は足を止めた。
雨の音が消えていた。
さっきまで窓を叩いていた細かな音が、一つも聞こえない。
廊下の窓へ目を向ける。外では変わらず雨が降っている。街灯の下を白い線になって落ち、舗装路には幾つもの水紋が広がっていた。
それなのに、音だけがない。
空調の低い唸りも、遠くの自動ドアが開閉する音も消えている。自分の呼吸と靴底の音だけが、妙に近く聞こえた。
「……防音って、こんなに優秀だったっけ」
口にしてから、自分でも無理のある説明だと思った。
その時、背後で、ぺた、と湿った音がした。裸足で濡れた床を踏んだような音だったが、玄兎は振り返らなかった。
誰かに教わったわけではない。けれど子供の頃から、説明のつかないものに出会った時、こちらから反応したせいで余計に長く付きまとわれたことが何度かあった。誰もいない部屋から名前を呼ばれた時。夜道で、顔の見えない女が同じ角を何度も曲がってきた時。鏡の中にだけ知らない男が立っていた時。
何なのかは分からない。
どうして自分の周りで時々そんなことが起きるのかも分からない。
ただ、まず見ない。返事をしない。近づかない。
それが玄兎なりに身につけた、根拠のない対処法だった。
玄兎は何も聞かなかったことにして非常階段へ向かった。すると、ぺた、とまた音がする。今度は少し近い。歩調を速めれば、その音も同じだけ速くなった。
偶然ではない。
玄兎は最後の数歩だけ駆け、非常階段の扉を開けると、そのまま中へ滑り込んだ。
コンクリートの壁に囲まれた階段は、廊下よりもさらに薄暗かった。踊り場には青いプレートで『3F』と表示されている。
「三階、ね」
自分の位置を確かめるために呟き、玄兎は階段を下りた。
十五段。踊り場を曲がって、さらに十五段。
普段なら二階だ。
ところが、目の前の壁にあった表示は変わっていなかった。
『3F』
玄兎はしばらく数字を見つめた。疲れているせいだと思うことにし、今度は声に出さず段数を確かめながら、もう一度下りる。
十五段下り、踊り場を回り、さらに十五段。
それでも、目の前にあるのは『3F』だった。
玄兎はゆっくり息を吐いた。
「……これは、さすがに見間違いじゃないな」
上へ戻ろうとして、一段目へ足をかける。
そこで耳元から子供の声がした。
『みつけた』
玄兎の背筋を冷たいものが走る。今度は振り返ったが、そこには誰もいなかった。
ただし、踊り場の白い壁だけが濡れていた。
じわりと染み出した水分が、細長い五本の線へ変わっていく。小さな手の形だった。
コンクリートの向こうには部屋も通路もない。それなのに、壁の内側から押しつけられたような手形が、ゆっくり指を動かしている。
もう一つ。
その隣にも、小さな手が浮かんだ。
『ひとり?』
声は一人分だった。
右から聞こえたようでもあり、耳の内側で鳴ったようでもある。
玄兎は喉の乾きを感じながら、できるだけ普通の声で答えた。
「そう見える?」
少し間があった。
『ひとり』
壁の手形が一つ増えた。
玄兎はそれ以上返事をせず、下へ行けないなら上へ戻ろうと階段を駆け上がった。ところが扉を押し開けた瞬間、足が止まる。
廊下そのものはあった。ただし、知っている三階の廊下ではなかった。
本来なら数十メートル先で突き当たるはずの廊下が、暗闇の向こうまで延々と続いている。同じ教室の扉、同じ窓、同じ消火器が、寸分違わない間隔で何十個も並んでいた。
その一番奥で、ぱちん、と蛍光灯が消えた。
少し間を置いて一つ手前が消え、さらにその手前も消える。小さな破裂音が規則正しく近づくたび、暗闇そのものが玄兎へ向かって廊下を歩いてくるように見えた。
「大学の節電にしては攻めすぎだろ……」
自分を落ち着かせるために呟いた声は、思ったより掠れていた。
玄兎は走り出した。
背後では、ぺた、と一つだった足音が二つ、三つと増えていく。やがて数える意味がなくなるほど重なり、裸足の子供たちが濡れた床を一斉に走ってくるような音が、蛍光灯の消える音とともに迫ってきた。
『ねえ』
声がすぐ横で聞こえた。
『何階?』
玄兎は前を向いたまま答える。
「知らない」
『三階』
「知ってるなら聞かなくてもいいだろ」
『何階?』
「……」
『何階?』
一人だった声が二人になり、三人になった。
『何階?』
『何階?』
『何階?』
男の子の声、女の子の声、それより幼い声まで混ざり、問いかけは何十人分もの合唱になっていく。
玄兎は走りながら窓へ目を向け、そこで見てしまった。
ガラスには、息を切らして走る自分が映っている。
そして、そのすぐ後ろに、濡れた子供が一人立っていた。
黒い髪が頬へ張りついているのに、その顔には目も鼻も口もなかった。次の窓には二人、その次には四人。窓を一枚通り過ぎるたび、映り込む子供の数だけが倍々に増えていく。
実際の廊下を振り返れば誰もいない。ガラスの中にだけ、顔のない子供たちが玄兎の背後を埋め尽くしている。
『何階?』
玄兎は息を整えながら、試すつもりで答えた。
「三階だ」
その瞬間、足音も声も同時に止まった。玄兎は走る速度を落とし、耳を澄ます。
静寂が続いたのは、ほんの数秒だった。
やがて遠くで、ぺた、と一度だけ鳴る。
『何階?』
「三階」
また止まった。
玄兎は眉を寄せる。答えれば消えるわけではない。ただ、答えた直後だけ動きが止まる。それに、あちらは最初から答えを知っている。
ならば、正解を聞きたいわけではない。
――三階だと、誰かに言わせたい?
そこまで考えた時、目の前の教室の扉がわずかに開いた。
隙間の向こうは暗い。
玄兎は近づかなかった。
すると中から、小さな声がした。
「……誰か、いますか」
子供ではない。
怯えた若い女の声だった。
「学生?」
「はい……!」
扉が勢いよく開き、一人の女子学生が飛び出してきた。
学食で何度か見たことがある一年生だった。顔は青ざめ、髪は乱れ、両目は泣き腫らしている。
玄兎を見た途端、彼女は安心したように息を吐いた。
「よかった……人ですよね?」
「たぶん、その確認をされる側も同じことを思ってる。何があった?」
「階段を下りても、ずっと三階に戻ってきて……。廊下を歩いても同じ場所で、スマホも圏外で……」
話している途中、彼女の目が玄兎の肩越しへ向いた。
表情が凍る。
「……後ろ」
「見なくていい」
玄兎は彼女の視線を遮るように一歩横へ出た。
「でも、子供が……」
「俺も窓では見た。直接は見ない方がいい。声が聞こえても、今は返事しなくていい」
女子学生は震えながら頷く。
すぐ近くで、複数の声が重なった。
『ふたり?』
さっきとは言葉が違った。
玄兎は答えなかった。
蛍光灯が一斉に消えた。
女子学生が短く悲鳴を上げる。
玄兎はスマートフォンのライトを点けた。
「走れる?」
「はい……たぶん」
「俺より前を走って。何か聞こえても止まらない。俺が『止まれ』って言った時だけ止まって」
「先輩は?」
「すぐ後ろにいる」
玄兎はそれだけ答え、二人で走り出した。
背後から濡れた足音が追ってくる。最初は数人分だったものが、すぐに数えられなくなり、ぺた、ぺた、と床を打つ音の隙間へ、口のない子供たちの笑い声まで混ざり始めた。
女子学生の呼吸が早くなる。
「追ってきてます……!」
「分かってる。前だけ見て」
「でも……!」
「大丈夫とは言わない。俺も怖い。ただ、後ろ見てもたぶん得しない」
その言い方が少し意外だったのか、女子学生が一瞬だけ玄兎を見た。
「怖いんですか」
「そりゃ怖いよ。怖くない人がいたら、そっちの方が心配だ」
玄兎自身の背中にも、冷たい汗が伝っていた。怖いのは彼女と同じだ。ただ、怖さに任せて走るだけでは、また同じ場所へ戻される。
廊下の端に非常階段の扉が見える。玄兎が押し開けると、薄暗い踊り場の壁には、やはり『3F』の表示が浮かんでいた。
「先に下りて。次の踊り場まで」
女子学生が頷き、手すりを掴んで階段を駆け下りる。玄兎は扉の前に残ったまま、その背中を追った。
一階分下りた彼女の横で、表示が『2F』に変わる。
「……二階」
女子学生の声に、初めて安堵が混じった。
玄兎も続こうとした。
靴底が一段目へ触れた、その瞬間だった。
彼女の頭上で蛍光灯が明滅し、『2F』の数字が水に濡れたインクのように滲む。次に灯りが安定した時、そこには『3F』と表示されていた。
女子学生は一歩も動いていない。
玄兎は階段へ預けかけた体重を引いた。すると数字は、何事もなかったように『2F』へ戻る。
その直後、背後の暗い廊下から声がした。
『ふたり?』
それで十分だった。
玄兎は表示ではなく、階下の女子学生を見た。
「……あいつら、階を聞いてるんじゃない。人数を数えてる」
「人数……?」
「最初は『ひとり?』だった。君と会ってから『ふたり?』になった。君一人なら階は下がる。でも俺が続くと、三階に戻される」
女子学生の表情が強張る。
「じゃあ、先輩がここに残れば……」
「たぶん君は下まで行ける」
「嫌です」
「まだ残るとは言ってない」
「顔が言ってます」
玄兎は思わず苦笑しかけたが、上の踊り場で、ぺた、と濡れた足音が鳴った。
「俺だって一緒に帰りたいよ」
それは本音だった。格好をつけたいわけでも、死んでもいいと思っているわけでもない。
二人で抜ける隙を探して踊り場へ目を走らせた、その時だった。手すりの上へ、青白い子供の手が一本かかった。さらにもう一本。壁の縁からも細い指が現れ、濡れた腕が次々と暗がりから這い出してくる。
考える時間は、そこで切れた。
玄兎は階下を指した。
「先に行って。俺が動かなければ、階は下がる」
「でも――」
「出口まで行って助けを呼んで。俺も、ここを越えられる隙は最後まで探す」
女子学生は動かなかった。
玄兎は彼女の目を見て、今度は少しだけ声を強くした。
「二人ともここに残る方がまずい。行って」
ようやく彼女が階段を下り始める。
『ひとり』
子供たちの声が、妙に満足そうに重なった。
女子学生が次の踊り場へ駆け込む。表示は『1F』へ変わった。
玄兎は後を追わなかった。追えば彼女ごと三階へ引き戻されることは、さっきの一歩でもう分かっている。
背後で何かが立ち上がる音がした。振り返ると、暗闇の中で白いものが何十も絡み合っている。
細い腕。
濡れた髪。
顔のない頭。
小さな脚。
子供たちの身体が肩や腰を互いに貫きながら、一つの巨大な人型を作っていた。
人間を積み木のように組み上げたその姿は、不格好なのに立っている。
何十もの首が同時に玄兎へ向いた。
『何階?』
玄兎は一歩下がった。
「三階だよ」
怪異の動きが、一瞬止まる。
その間に玄兎は女子学生へ叫んだ。
「そのまま出口まで行け!」
「先輩!」
「外へ出て、誰か呼んで! この階に人が残ってるって言って!」
「でも――!」
怪異が再び動いた。
巨大な腕が手すりへ叩きつけられる。
金属が悲鳴を上げる。
玄兎はさらに後ろへ下がり、相手の進路を自分へ向けた。女子学生の足音が階下へ遠ざかっていく。
これでいい、と言い切れるほど玄兎は達観していなかった。本当なら一緒に帰りたいし、死なずに済むならその方がいい。
怪異の腕をかわしながら、下り階段へ抜ける隙を探す。だが巨大な身体は玄兎の動きに合わせるように滑り込み、階段との間を塞いだ。逃げ道まで理解しているらしい。
玄兎の胸の奥が冷えた。
同時に、もっと嫌な考えが頭をよぎる。
玄兎には昔から、普通なら助からなかったはずの怪我のあと、目を覚ますと身体だけ元に戻っていたことが何度かあった。理由は知らない。いつからか《還月》と呼んでいる、それだけの現象だ。
本当に死んで戻ったのかさえ分からないし、次も起きる保証などどこにもない。
それでも――自分なら戻るかもしれない。
その経験は、こういう時だけ都合のいい逃げ道になる。誰か一人が危険を引き受けるなら、自分の方がましだと思えてしまう。
危うい考えだと分かっていても、玄兎はまだ捨てきれなかった。
怪異の腕が持ち上がる。
玄兎は避けるために身構えた。
その時、階下で一階の防火扉が開く音がした。
女子学生が出口へ辿り着いた。
「……よかった」
安堵した一瞬が、遅かった。
巨大な腕が横から玄兎の胸を捉えた。
避ければ、まだ間に合ったかもしれない。
けれど避けた先は下り階段だった。
攻撃をかわした怪異が、そのまま階下へ追う可能性が頭をよぎった。
玄兎の身体が、一瞬だけ止まる。
衝撃。
胸の奥で、硬いものがまとめて砕けた。
身体が壁へ叩きつけられる。
痛みは、少し遅れてやってきた。
焼けた鉄を胸の中へ押し込まれたような激痛が、呼吸する余地まで奪う。
口を開いても空気が入らない。
足へ力が入らず、玄兎は壁を滑るように座り込んだ。
階下から女子学生の声がする。
「先輩……!」
「外……行って……」
自分でも驚くほど小さな声しか出なかった。
「でも!」
「誰か……呼んで」
少し間があり、女子学生の足音が一階へ駆けていく。
玄兎はそれを聞いて、ようやく力を抜いた。
『ひとり』
子供たちの声が重なる。
玄兎は霞み始めた視界で怪異を見る。
何十もの顔のない頭が、自分だけを見下ろしていた。
『ひとり』
「そうだよ……」
言葉の終わりが息に混じる。
すると、重なった声の中で、一人だけ違う声がした。
『……ちがう』
玄兎は薄く目を開けた。
『ひとりじゃない』
意味が分からない。
踊り場には玄兎しかいない。
『いっぱい、いる』
何を言っているのか尋ねようとしたが、もう声が出なかった。
胸はもう動かず、指先から感覚が抜け、耳へ届く音も遠ざかっていく。
死ぬのは嫌だった。ここまで来ても、その気持ちは少しも消えない。
今度こそ戻らなかったらどうする。
今回は本当に終わりだったら。
明日のレポートも、友人との飲み会も、くだらない予定も、全部ここで終わるのか。
怖い。
それでも最後に頭へ浮かんだのは、ひどく現実的なことだった。
――レポート、保存したっけ。
保存した。しかも二度も確認した。
そんなことまで思い出せた自分に、玄兎は少しだけ笑いたくなった。
そのまま視界が暗く沈み、最後に音が消えると、今度こそ何も分からなくなった。
◇
一階の扉が開いた。
女子学生は濡れた玄関ホールへ転がり込むように出ると、外から走ってきた黒髪の少女とぶつかりそうになった。
少女は片手に小さなガラス瓶を持っていた。
長い黒髪も白いブラウスも雨に濡れているが、息はほとんど乱れていない。
「中に、まだ誰かいますか」
女子学生は何度も頷いた。
「男の先輩が……私を逃がして、自分だけ三階に……!」
少女――鷺宮透羽の表情が変わる。
「どの階段ですか」
指を向けられるより早く、校舎の奥から鈍い衝撃音が響いた。
透羽は迷わず走った。
非常階段の扉を開く。
壁の表示は『1F』だった。
一段上がる。
『2F』。
さらに上がる。
『3F』。
そこで空間が歪んだ。
本来ならすぐ上の踊り場が見えるはずなのに、暗い階段が幾重にも折り重なっている。
何十人もの子供の声がした。
『何階?』
透羽は足を止めない。
「三階です」
『何階?』
「三階です」
透羽はガラス瓶の蓋を外し、階段へ水を落とした。
数滴だった水は床へ広がらず、細い線となって手すりを走る。
そこへ、開いた窓から吹き込んだ雨粒が加わった。
濡れた壁や床に残る水分まで、透羽の周囲へゆっくり浮かび上がる。
『何階?』
「聞こえています」
透羽は歪んだ階段の奥を見据えた。
「ですが、その質問に誰かを閉じ込め続ける理由はありません」
指先を払う。
水が一斉に走った。
「《禊牢》」
白い線が空間を囲む。
折り重なっていた階段が大きく震え、奥から巨大な人型が姿を現した。
子供たちの腕と脚と頭が絡み合った、歪な身体。
その足元に、一人の男子学生が倒れていた。
透羽の呼吸が止まる。
「――《白鷺浄界》」
水が白く光った。
怪異の身体を構成していた子供たちが、一人ずつほどけていく。
『かえれない』
さっきまで問いを繰り返していた声が、初めて怯えた子供のものへ戻った。
透羽はわずかに目を細める。
「帰れなかったのですね」
『みんな、かえれない』
「だから誰かを残していたのですか」
答えはない。
子供たちは白い光の中へ薄れていく。
透羽は声を荒らげず、静かに続けた。
「もう待たなくて大丈夫です。ここに誰かを残さなくても、終わらせられます」
最後の一人まで消えかけた時だった。
小さな影が、倒れている玄兎へ顔を向けた。
顔はない。
それでも、玄兎を見たことだけは分かった。
『このひと』
透羽がそちらを見る。
『かえれる』
「……何を言っているのですか」
子供は玄兎を指さした。
『かえるところ』
意味を尋ねる前に、影は白い光へ溶けた。
歪んでいた階段が一気に元へ戻る。
表示は『3F』。
上へ続く階段も、下へ続く階段も、普通の形を取り戻していた。
透羽はすぐに玄兎へ駆け寄った。
黒いパーカーの胸元は、見るからに致命的な形に潰れている。
首筋へ指を当てる。
脈はなく、胸も動いていない。透羽は耳を近づけて呼吸音まで確かめたが、何も聞こえなかった。
数秒かけて確認したあと、透羽は唇を噛んだ。
「……間に合わなかった」
もう少し早ければ。
異常報告を受けた時点でこちらへ来ていれば。
先ほど一階で会った女子学生の「自分を逃がすために残った」という言葉が、胸の奥へ重く沈む。
透羽は床に落ちていた学生証を拾う。
鵺代玄兎。
朽木ヶ丘大学二年。
二十歳。
その名前を記憶しようとした時だった。
玄兎の左鎖骨の下で、服越しに淡い光が脈打った。
透羽の目が鋭くなる。
「……何?」
心臓は止まっている。
それなのに、その光だけが一定の間隔で明滅していた。
一度、二度、三度。
光が脈打った直後、死体だった玄兎が突然、大きく息を吸った。
「――っ!」
透羽は反射的に距離を取った。
玄兎の胸の奥から、乾いた骨が擦れる音がする。
潰れていた胸郭が持ち上がる。
折れて重なっていた骨が、一本ずつ本来の位置へ押し戻されていく。裂けた皮膚の縁が寄り合い、血に濡れていた服の下で傷が消えていく。
治癒ではない。
透羽は治療の術を知っている。
傷口を塞ぎ、失った血を補い、生命をつなぐ技術も見たことがある。
目の前で起きているのは、それらとは違った。
一度壊れた身体が、「本来はこうだった」とでもいうように、死ぬ前の形へ戻されている。
床に広がっていた血の跡まで、色だけを失うように薄れていく。
透羽の背中に寒気が走った。
さっきの子供の言葉が蘇る。
――かえれる。
――かえるところ。
札を取り出す。
指先の周囲に、残った水滴が静かに浮いた。
「怪異……?」
◇
玄兎には、意識より先に身体だけが目を覚ましていくように感じられた。
胸の奥で何かが動く。
なくなった場所へ骨を押し戻される。
肺が勝手に広がる。
止まっていた心臓を、内側から一度強く叩かれる。
痛い。
ただし、怪異に胸を潰された時とは違う。
自分の身体なのに、いったん失ったものを一つずつ返され、そのたびに「これはお前のものだ」と押しつけられているような気持ち悪さがあった。
右手から左手へ、足、喉、胸へと感覚が順番に戻ってくる。
最後に、心臓が大きく鳴った。
どくん。
そこで玄兎の意識が身体へ追いついた。
冷たい空気を一気に吸い込み、激しく咳き込む。
「げほっ……っ、痛……」
目を開ける。
天井。
非常灯。
濡れた階段。
自分はさっきまでここにいた。
女子学生を一階へ逃がした。
怪異に胸を潰された。
そこまでの記憶はつながっている。
玄兎はしばらく息を整えたあと、最初に自分の名前を頭の中で確かめた。
鵺代玄兎。
朽木ヶ丘大学二年。
二十歳。
自分の名前だった。
「今回は……戻るの、早かったな」
声に出してみる。
自分の声に聞こえた。
そこでようやく、目の前に少女がいることへ気づいた。
長い黒髪。淡い灰青色の瞳。濡れた白いブラウス。
かなり整った顔立ちなのに、今は表情が完全に警戒へ寄っている。
その少女が、玄兎の額へ札を向けていた。
周囲には幾つもの水滴が、雨粒だけ時間を止めたように浮いている。
「動かないでください」
「……起きて最初に言われる言葉としては、だいぶ怖いな」
「質問はこちらがします」
少女は札を下ろさない。
「あなたは、本当に鵺代玄兎ですか」
玄兎は一瞬、言葉に詰まった。
「本人だけど……どうして名前を?」
「学生証を確認しました。答えてください」
「鵺代玄兎。二十歳。朽木ヶ丘大学二年」
「今日、何をしていましたか」
「講義のあと残ってレポート。終わってから一階に何か買いに行こうとして、階段がおかしくなった。途中で一年生の女の子を見つけて、一緒に逃げた」
玄兎は階段の下へ目を向ける。
「……あの子は?」
少女の目がわずかに動いた。
「無事です。一階から外へ出ています」
「そっか」
玄兎の肩から力が抜ける。
「なら、よかった」
少女はすぐには何も言わなかった。
ほんの少し前まで死体だった男が、自分の状態より先に他人の安否を聞いている。
それをどう受け取るべきか迷っているようだった。
「あなたは、自分が死んでいたことを理解していますか」
「たぶん」
「たぶんではありません」
少し強い声だった。
「呼吸も脈もありませんでした。胸部は明らかな致命傷を受けていました。少なくとも、私が確認した時点であなたは死亡していました」
玄兎は胸へ手を当てた。
形は戻っている。
それでも、内側を押し直されたような嫌な感覚だけは残っていた。
「じゃあ今回は、本当に死んでたんだな」
少女の眉が寄る。
「今回は?」
玄兎は少し考えた。
「昔から、普通なら助からなかったと思うような状態になって、意識が途切れることが何度かあった。でも気づいたら身体が戻ってる。俺は《還月》って呼んでる」
「誰がそう名づけたのですか」
「それが分からない。物心ついた頃にはそう呼んでた。誰かに教わったのか、自分で言い始めたのかも覚えてない」
少女の視線がわずかに鋭くなる。
「過去にも死亡を確認されたことは?」
「ないと思う。今回みたいに誰かが脈や呼吸まで確認してたわけじゃないし、事故のあとに目を覚ました時には普通に話せたこともある。だから本当に死んでたかは分からない」
「つまり、今回が少なくとも客観的に死亡を確認できた例ということですね」
「そうなる」
透羽はすぐには返さず、玄兎を観察するように目を細めた。
玄兎はその隙に尋ねる。
「君は?」
「何がですか」
「名前。俺のことは知ってるのに、こっちは知らない」
数秒迷ったあと、少女は答えた。
「鷺宮透羽。二年です」
「同学年なんだ」
「そこへ驚くのですか」
「敬語だから年上かと思った」
「今は関係ありません」
透羽はまだ札を下ろさない。
玄兎は困ったように眉を上げた。
「その札、いつまで俺に向けてるの?」
「あなたの安全性が確認できるまでです」
「安全性って」
「死者が何の説明もなく起き上がり、致命傷だった肉体が元の状態へ戻ったのです。怪異現象と考えるのが自然です」
玄兎は少し黙った。
「怪異って、さっきの子供たちみたいなもの?」
「人や場所、認識へ通常では説明できない作用を及ぼす存在や現象を、私たちはそう呼びます。形も性質も一つではありません」
「じゃあ君は、それをどうにかする人?」
「鷺宮家は怪異を調べ、必要に応じて封じたり祓ったりしています。一般には退魔師と呼ばれる立場です」
玄兎は目の前の札と浮かぶ水滴を見た。
「退魔師って本当にいるんだな」
透羽は一瞬だけ目を細めた。
「目の前で死体から起き上がった人に言われると、かなり複雑です」
「俺も自分を説明できないんだから、そこはお互い様ってことで」
「お互い様ではありません」
透羽はきっぱり言った。
「少なくとも私は、自分が何者かを説明できます」
「強い」
「そして、あなたは説明できない。ですから拘束します」
「今の会話、そこに着地するの?」
「はい」
透羽の周囲で水滴が少し高く浮く。
玄兎は反射的に半歩下がった。
「待って。俺、今死んで戻ったばっかりなんだけど」
「だからこそです」
「休憩という概念は?」
「怪異の可能性がある対象を、休憩のために自由にはできません」
「完全に怪異扱いしてるだろ」
「可能性を否定していません」
「俺、人助けしたよ」
「人を助ける怪異もいます」
「大学の学費も払ってる」
「人間社会へ長く溶け込むものも存在します」
「奨学金も返す予定なんだけど」
透羽が一瞬だけ止まった。
「……返済計画の有無は判定材料になりません」
「そんな社会性の高い怪異、いたら逆に紹介してほしい」
透羽の口元が、ごくわずかに動いた。
笑ったのかと思ったが、次の瞬間には元の厳しい顔へ戻っている。
「とにかく、抵抗しないでください」
「嫌だよ。さっき君があれを消したの見てるんだから」
「人間なら致命的な効果は出ません」
「君はいま俺を人間かどうか疑ってるだろ」
「だから確認できます」
「理屈が怖い」
玄兎は一歩下がった。
透羽が一歩詰める。
「逃げないでください」
「その台詞、逃げる前に言う?」
「鵺代玄兎」
「ごめん、無理」
玄兎は走った。
「待ちなさい!」
非常階段を駆け下りる。
今度は一階へ着いた。
玄兎はそのことに妙な感動を覚えながら玄関ホールを抜け、自動ドアの外へ飛び出す。
大雨だった。
三歩ほど走ったところで、玄兎は止まった。
背後で透羽も外へ出る。
その周囲で、降り続く雨粒が次々と空中へ静止した。
一滴や二滴ではない。
街灯の光を反射した数百、数千の雨粒が、透羽の周りだけ落ちることをやめている。
玄兎は真顔になった。
「……もしかして、雨の日かなり強い?」
「非常に」
「それは先に教えてほしかったな」
「逃げなければ知る必要もありませんでした」
透羽が一歩近づく。
玄兎は諦めかけた。
その時、二人のスマートフォンがほぼ同時に震えた。
大学の学生向け匿名掲示板に、新しい投稿が上がっている。
『旧研究棟の二階女子トイレ、鏡を見ない方がいい』
『友達の顔が消えた』
添付された写真。
古い洗面所。
鏡の前に女子学生が立っている。
実際の彼女には目も鼻も口もある。
しかし鏡の中の顔だけが、濡れた絵の具を拭ったように消えていた。
玄兎の背中に、さっきとは違う寒気が走る。
「これも?」
透羽は投稿を見つめ、すぐに顔を上げた。
「確認します。発生地点は旧研究棟ですね」
玄兎はスマートフォンをしまった。
「場所なら分かる。行こう」
「あなたは来ないでください」
「被害が出てるのに?」
「だからです。あなた自身についても、まだ何も分かっていません」
「でも道は分かる」
「方向だけ教えてください」
「さっきの俺と同じこと言ってる」
玄兎が歩き出すと、透羽は数歩遅れて追ってきた。
「鵺代玄兎」
「何?」
「あなたは、先ほどの学生を逃がすために三階へ残ったのですね」
玄兎は少しだけ歩調を落とした。
「結果的には」
「最初から死ぬつもりだったのですか」
「違う」
玄兎は即答した。
「二人で帰る方法は最後まで探した。できれば死にたくなかったよ」
「では、なぜ残ったのです」
「俺が一緒に階段を下りると、あの子まで三階へ戻された。あいつらは人数を数えてた。俺が残ってる間だけ、あの子は一階へ進めた」
透羽は黙って聞いている。
玄兎は続けた。
「それに、俺は今まで、助からなかったと思う状態から戻ったことがある。だったら俺が残る方が、二人とも帰れる可能性が高いと思った」
「その結果、本当に死んだ」
「……うん」
透羽の声が硬くなった。
「私は、あの階段へ入った時、あなたを救えなかったと思いました」
玄兎が振り返る。
透羽は真っ直ぐこちらを見ていた。
「呼吸も脈もない。胸は潰れていた。数分前に会ったばかりの学生から、『この人が自分を逃がすために残った』と聞いた直後にです」
声を荒らげてはいない。
それでも、怒っていることは分かった。
「それを本人に『俺は戻るから』で片づけられるのは、納得できません」
玄兎は返事に困った。
透羽は続ける。
「今回戻ったからといって、次も同じだという保証はありません。過去の回復が全部死亡後のものだったかさえ、あなた自身が分かっていないのでしょう」
「それは、そうだけど」
「なら、自分一人だけを最初から犠牲にする計算をしないでください」
「最初からじゃない。ほかの方法も探した」
玄兎は少しだけ強く返した。
「誰かを助けるなって言われても、それは無理だ」
「言っていません」
透羽も即座に答える。
「助けることと、自分を勘定から外すことは別です」
その言葉は、思ったより深く刺さった。玄兎はすぐに言い返せなかった。
これまで何度も「自分なら戻る」を、危険を引き受ける理由にしてきたからだ。
透羽は玄兎が黙ったのを見て、少しだけ声音を和らげた。
「次に同じようなことが起きたら、逃げる方法、助けを呼ぶ方法、全員で帰る方法を先に探してください」
「それでも間に合わなかったら?」
「その時に考えます」
「俺一人で?」
「いいえ」
透羽は間を置かなかった。
「少なくとも、私がいる時は一人で決めさせません」
玄兎は目を瞬いた。
今日会ったばかりの相手から言われるには、妙に重い言葉だった。
「それ、監視対象だから?」
「それもあります」
「ほかにもある?」
透羽は一瞬だけ言葉を選んだ。
「目の前で一度死んだ人を、二度目も同じ理由で死なせたくないだけです」
玄兎はしばらく何も言わなかった。
胸はもう元の形へ戻っている。
それでも、潰された痛みも、息ができなくなった恐怖も、最後に何も聞こえなくなった感覚も残っている。
「……善処する」
「約束してください」
「無理な約束はしたくない。誰かが目の前で危なかったら、たぶん先に身体が動く」
透羽は呆れたように息を吐いた。
「では、まず私の目の届く範囲から勝手に消えないでください」
「監視が具体的になってきたな」
「必要だからです」
透羽は少し先を歩き、それから振り返った。
「それと」
「まだある?」
「私が間に合う時は、あなたを死なせません」
玄兎は少しだけ笑った。
「かなり自信あるな」
「あります」
「退魔師ってみんなそうなの?」
「知りません。私の話です」
その言い方が妙に真面目で、玄兎はもう一度笑った。
二人は旧研究棟へ向かった。雨はまだ強く、透羽は傘を差さず、玄兎も先ほど走ったせいですでに半分以上濡れている。
やがて数十メートル先に、古い四階建ての建物が見えてきた。
二階の端にある一枚の窓だけが、暗い外壁の中で白く浮いている。
玄兎が目を細めた。
「透羽。あの窓」
「見えています」
窓の向こうには、細い人影が立っていた。こちらへ顔を向けたまま動かなかったその影が、やがてゆっくり右腕を上げる。
手を振るのかと思ったが、違った。
伸ばした指先は真っ直ぐこちらへ向き、二人のうち透羽ではなく、明らかに玄兎だけを指していた。
同時に、左鎖骨の下が急に熱くなった。
「っ……」
玄兎は思わず服の上から胸元を押さえた。
そこには、昔からある黒い痣がある。
透羽がすぐに気づいた。
「どうしました」
「痣が……熱い」
「今、何かしましたか」
「何もしてない」
玄兎がもう一度窓を見ると、人影の顔が内側から白く曇り始めた。目、鼻、口の順に輪郭が失われ、最後には顔だけをきれいに拭い取られたような姿になる。
それでも人影は、玄兎を指したまま立っていた。
透羽の表情が変わる。
「玄兎。私の横から離れないでください」
「分かった」
今度は素直に答えた。
二人はほとんど同時に走り出した。
雨の中、顔のない人影だけが、旧研究棟の窓から二人を見下ろしていた。
――第一話・了