《百獣繭》がほどけてから、三週間が経った。
玄兎は、そのあいだ一度も死んでいない。
考えてみれば当たり前のことなのに、以前の自分を知っているせいか、ときどきわざわざ数えたくなる。《還月》は消え、胸に残っていた黒い痣も一週間ほどかけて薄れ、今では鏡へ近づかなければ分からない。
朝、シャツを着替える時だけ、つい指先でそこへ触れる。以前のような熱も脈動もなく、皮膚の下から返ってくるのは自分の心臓の鼓動だけだった。
「……普通だな」
死んだら終わる。怪我をすれば治るまで痛い。朝食を抜けば腹が減る。
そんな当たり前が、今の玄兎には少し新しい。
鞄を持ち、玄関を出た。
◇
大学へ着くまでに、玄兎は三回注意された。
一回目は駅の階段だった。
「玄兎、二段飛ばしは禁止です」
「まだ飛ばしてない」
「今、足がそういう形でした」
隣を歩く透羽は真顔だった。
二回目は大学前の横断歩道で、小毬に「右から自転車です!」と鞄を引かれた。自転車は玄兎から三メートル以上離れて通り過ぎたが、小毬は「大丈夫かどうかは通り過ぎたあとなら分かります」と譲らなかった。
三回目は校舎へ入ってすぐ。清掃直後の床を踏みかけたところで、透羽と依澄から同時に止められた。
「三週間ずっとこんな感じだけど、そろそろ普通に扱ってくれない?」
「普通です。死ねば戻らない人が濡れた床で転ばないよう注意するのは普通です」
「全国の大学生、毎朝ここまで見守られてないと思う」
後ろから千燈が笑った。袖口から覗く左前腕には、三週間前の傷がまだ薄く一本残っている。
「玄兎くん、半年くらいは諦めた方がいいんじゃない? 私は道路を渡る時に車が来てないか三回見るし」
「俺の時だけ増えてるよね、それ」
依澄も淡々と続ける。
「昨日、玄兎の部屋の包丁、奥にしまった」
「依澄まで何してるの?」
「手切るから。使う時は私が出す」
「一番面倒なやつだろ、それ」
四人とも、心配していることは分かる。玄兎は包丁までしまわれたことを思い返して、依澄へ顔を向けた。
「気をつける。でも、料理する時は自分で出すから。場所は教えて」
「うん」
依澄は棚の段を教えた。透羽も、濡れた床から離れる玄兎を見て歩き出した。
朝の大学には学生の声が普通に響いている。臨時休講は一週間前に解除され、壊れた窓もほとんど直った。
あの日の動画や目撃談は消えていない。SNSには今も「朽木ヶ丘の怪現象」としていくつも残っている。ただ、同じ場所を撮った映像同士で内容が食い違い、何も映っていない記録まで混じっていたため、決定的な証拠にはならなかった。
設備事故や一時的な視界異常として処理された騒ぎも含め、三週間もすると街はほとんど普段の流れを取り戻していた。噂だけは、都市伝説めいた形で残っている。
怪異の警報は鳴っていない。
けれど、怪異そのものがいなくなったわけではなかった。
◇
研究室の扉を開けると、最初に白い毛玉が飛んできた。
「ゆんっ!」
「おはよう、ユン」
玄兎がしゃがむと、ユンは足元へ体当たりするようにくっつき、靴の周囲を一周した。
「昨日も、玄兎先輩の足音で廊下を見るんですよ」
小毬が得意そうに言う。
「先輩、少し右足の方が重いので。でも最近は前よりちゃんと前へ歩いてます」
何気ない言葉だったのに、玄兎は少し返事に困った。
「……そっか」
「はい」
小毬はそれ以上説明せず、ユンを抱き上げる。
窓際には、新しく増えた小さな木製棚がある。その上では、一羽の紙の鳥――シオリが、古い図書館の貸出票を嘴にくわえていた。
「また整理してるの?」
玄兎が手を出すと、シオリはカードを落とした。裏には新しい管理番号が書かれている。
「仕事熱心だね」
千燈が覗き込む。
透羽はシオリの周囲へ薄い水膜を出し、数値を確認した。
「状態安定。侵食反応なし」
「もう毎朝測らなくてもいいんじゃない?」
「観察基準はまだ試験運用中です」
そう答えた直後、ユンが透羽の椅子へよじ登った。透羽は一瞬だけ抵抗しようとしたものの、結局そのまま膝へ乗せ、背中を撫で始める。
千燈が吹き出した。
《百獣繭》をほどいたからといって、危険な怪異まで放置できるようになったわけではない。人を傷つけるものや、記憶や生活を侵食するものは、今も封印や浄化の対象だ。
変わったのは、危険ではないものまで一律に集め、閉じ込める必要はないと考えられるようになったことだった。
鷺宮家、従来の管理側、大学の協力者による暫定観測班も動き始めていた。
「北丘の道守、昨日も出たらしいよ」
千燈が共有端末を見せる。
「道を間違えた小学生を旧道へ案内したって。前に付けた案内表示と簡易ポールも役に立って、今回は車道側へ下がる動きはなかった。道守の出現範囲も変わってない」
「現地維持は継続です」
透羽が頷く。
「道守が変わらなくても、周囲の道や人の流れが変われば再判定します。ただ、慎重であることと、全部閉じ込めることは同じではありません」
玄兎は透羽の膝で丸くなっているユンを見た。
「最初に会った時の透羽からは、けっこう変わったな」
「危険なら止めます。そこは変えていません」
「危険じゃなければ?」
透羽はユンの背中を撫でた。
「そこにいる理由まで奪う必要はありません」
「ゆん」
ユンが小さく鳴いた。
◇
午前、五人は大学近くの商店街へ向かった。
三日前から、雨の日だけ現れる古い紺色の傘が報告されていた。
花屋の軒下へ誰も持っていない傘が立ち、濡れている人が通ると少しだけそちらへ傾いて、屋根のある場所まで後を追う。そこへ着くと消えるらしい。
「『濡らしたくない』。残ってるのは、その気持ちだけみたい」
千燈が烏を戻しながら言う。
依澄は傘から目を離さず、夢ではなく現実に定着していると確かめた。そのそばで小毬が拾ったのは、雨と古い布、それにほんの少しの人の匂いだった。
「危ない匂いは、ほとんどないです」
その時、外で細い雨が降り始めた。
傘がひとりでに傾く。鞄を頭へ乗せて走っていた学生の後ろを、風に押されるような速さでゆっくり追い始めた。
学生がアーケードへ入ると、傘はそこで薄くなって消えた。
透羽はすぐには結論を書かなかった。傘が通った位置と車道との距離、学生や周囲の人が驚いて進路を変えなかったことまで見てから、端末へ入力する。
「移動範囲は商店街内。進路を塞がず、車道へ誘導する動きもなし。記憶干渉も接触もありません。現地残置で観察継続にします」
花屋の女性が、ほっとしたように息を吐いた。
「持っていかないんですね」
「危険化しない限りは」
「よかった。追い出すのも、なんだかかわいそうで」
玄兎は雨の向こうへ消えた紺色を見た。
危険な怪異は今もいる。昨日も封印案件が一件あった。
あの傘を追い払わずに済んだ。それだけで、この街は以前より少し広くなった気がした。
◇
大学へ戻る途中、玄兎はコンビニへ寄った。
レジでもらった紙袋を開こうとして、指先に小さな痛みが走る。
「あ」
人差し指に細い赤い線が浮いた。
「先輩、血!」
小毬がすぐ寄ってくる。
「紙で切っただけ」
「洗ってください」
透羽も即座に言った。
「これくらい大丈夫だって」
そう答えながら、玄兎は自分の指を見つめた。
ほんの小さな傷だ。それなのに、胸の奥がわずかにざわつく。
この傷は、治るまで残る。身体の方がまだ理解しきれていないらしい。
「……紙で切っただけなのに、まだ慣れてないみたい」
透羽の表情が少し柔らかくなった。
「慣れなくていいと思います。怪我を軽く扱わないことには」
「絆創膏貼って終わりでいいんだよ」
千燈も笑う。
「あります!」
小毬が鞄から絆創膏を取り出した。
「先輩用です」
水で洗い、拭いて、絆創膏を貼る。それだけで終わった。
玄兎は絆創膏の巻かれた指を見て、少し笑った。
「普通だな」
「嬉しそうに言うことですか?」
「ちょっとだけ」
◇
昼の学食は、以前と同じ混雑を取り戻していた。
玄兎が唐揚げ定食を置くと、小毬が『相談です』と言った。先回りして一個を渡した横から、千燈も一個取る。
「平和にならなかったね」
「それは先輩のせいです」
依澄が焼き野菜を交換に置き、透羽も小さく手を伸ばした。玄兎は笑いながら、最後の一個を自分の方へ寄せた。
「そういえば、私との昼の店はいつ行く?」
千燈が訊く。
「検査で延びてた分、来週に組み直していい? 昼、大丈夫?」
「短時間なら。日傘もあるし、無理なら地下へ逃げる」
「俺も付き合う」
「海は?」
依澄が続けた。
「そっちも決めよう」
「予定、多いね」
「明日の後の予定、増やしたからな」
玄兎が言うと、透羽の箸が一瞬止まった。
三週間前の夜。
作戦が終わったら話したいことがある、と透羽は言った。
その後は検査や報告、市内の安定確認で時間が過ぎた。透羽も「落ち着いてから」と言っていたが、そろそろ言い訳にはできないくらい、日常が戻ってきている。
「透羽、海の日程、あとで一緒に決めよう」
「はい」
それだけ答えた透羽の耳が、少し赤かった。
千燈は気づいた顔をしたが、今日は何も言わなかった。
◇
午後、依澄は大学事務棟へ呼ばれていた。
五人で一緒に行くと、依澄が少し呆れた顔をする。
「研究協力者証の写真、見たいです!」
小毬が言った。
《百獣繭》消失後も、依澄の現在の学籍と履修は問題なく残っている。一方、出生や入学以前へ遡るほど記録のつながりは不自然に途切れ、まだ説明できない空白があった。
大学は、分からない過去と、今ここで学生として生活している事実を切り分けて扱うことにした。
今日発行されるのは学生証の代わりではない。夢層や怪異の定着状態を確認する研究協力者として、保管区画や観測設備へ入るためのカードだった。
やがて扉が開き、依澄が新しいカードを持って出てきた。
『蝶ヶ森依澄』
『研究協力者』
小毬がすぐ覗き込む。
「写真、ちょっと緊張してますね」
「普通」
玄兎はカードを見てから、依澄の鞄に付いた学生証を見る。
「二枚持ちになったな」
「うん。こっちは授業。こっちは怪異」
依澄は新しいカードの文字を指でなぞった。
「これも、夢じゃない」
「うん」
「私が今いるから、もらった」
「そうだな」
透羽が横から静かに付け加える。
「学生証も今まで通り使えます。過去の空白は、空白のまま調べます」
依澄は少しだけ目を伏せた。
「……よかった」
依澄は二枚のカードを並べた。同じ顔が写っている。
「失くさないように、ケース買おう」
「一緒に見ます!」
小毬が言うと、依澄は『派手じゃないの』と念を押し、自分の鞄へ二枚をしまった。
◇
そのあと玄兎は、定期検査のため保健管理室へ呼ばれた。
入口までついてきた透羽へ「ここから一人で行ける」と言うと、彼女は少しだけ不満そうな顔をした。
「結果は必ず教えてください」
「分かった」
「写真でも」
二十分後。
心電図も血液も、薄く残った胸の痣も問題なし。《還月》に相当する再構築反応は完全に消えている、と担当医は告げた。
「身体的には、一般的な二十歳男性と考えていい」
「一般的」
「嬉しそうだな」
「ちょっと」
結果の紙を透羽へ送ると、すぐに返事が来た。
『結果、読みました。よかったです。研究室へ戻る前に、少し時間はありますか。』
玄兎の指が止まる。
三週間前の約束を思い出した。
『あるよ。どこ?』
返事はすぐだった。
『屋上へ来てください。』
◇
屋上には、夏の名残をわずかに含んだ秋の風が吹いていた。
中庭も、図書館も、講義棟も見える。夢の中でも依澄とここで話したが、今日は紛れもなく現実だった。
透羽はフェンスのそばに立っていた。
「三週間前の話?」
玄兎が訊くと、透羽の指が少し動いた。
「覚えていましたか」
「覚えてるよ」
それきり、言葉が続かない。
以前の玄兎なら、気まずさをごまかすために冗談を言ったかもしれない。けれど今は、透羽が自分の言葉を選んでいるのが分かったから、黙って待った。
「最初に会った時、私は玄兎を止めるつもりでした」
やがて透羽が言う。
「人ではない可能性がある。危険なら処分する。それが任務でした」
「かなり怖かった」
「私もです」
透羽は少し笑い、空へ視線を戻した。
「それなのに、いつの間にか監視するためではなく、玄兎が今日もいるか確かめるために大学へ来るようになっていました。無茶をすると腹が立って、怪我をすると怖くて、連絡が遅いと落ち着かなくて……誰かと近いと、嫌で」
「かなり嫌な時もあります」
今日は逃げないらしい。耳は赤いのに、透羽はまっすぐ玄兎を見た。
「前に、監視役だから隣にいるのではない、任務だからでもない、と言いました。でも、あの時は最後まで言えませんでした」
一度、呼吸を整える。
「私は、玄兎が好きです」
短い言葉だった。
「玄兎の恋人になりたいです」
玄兎はすぐには答えられなかった。握りかけた手を開き、透羽を見た。胸が熱い。
「何か言ってください」
透羽の声が少し弱くなる。
「……嬉しい」
透羽の目がわずかに見開かれる。
玄兎は一度息を吐き、まっすぐ透羽を見る。
「俺も透羽が好きだよ」
「いつからですか」
「難しいな。でも、隣にいると落ち着くって思った頃には、もう好きだったと思う」
玄兎の頬がまた熱くなる。
透羽の耳も赤くなる。
「透羽がいなくなると困る。笑ってると嬉しい。無茶すると心配する。他の誰かと近かったら、俺もたぶん嫌だ」
玄兎はもう一歩、透羽へ近づいた。
「だから、俺も透羽が好き。ちゃんと恋愛として」
透羽は少し俯き、それから小さく頷いた。
「はい」
風が二人の間を通る。
玄兎は自分から距離を詰めた。触れそうなところで止まり、訊く。
「キスしてもいい?」
透羽の顔が一気に赤くなった。
「嫌ならしない」
玄兎はそこで待った。
透羽は少し時間をかけて、それでも目を逸らさなかった。
「……嫌ではありません」
「じゃあ」
「少しだけ、心の準備をさせてください」
「うん」
数秒後、透羽が深く息を吸って、吐いた。
「もう大丈夫です」
「長く待たせないでください」
二人とも少し笑った。
玄兎が手を伸ばすと、透羽はその指を握り返した。
手の温度が分かる。《還月》の熱ではない。誰かの手の温度だ。
ゆっくり顔を近づける。
唇が触れた。
短いキスだった。
風は止まらなかった。遠くで運動部の掛け声が続いている。離れれば痛む糸も、二人を繋ぐ術もない。玄兎は、握り返された指へ少しだけ力を込めた。
離れたあと、二人とも目を合わせにくくなった。
「顔、赤いです」
「透羽も」
また笑う。
透羽は繋いだ手へ視線を落とした。
「玄兎、死なないでください」
軽い言葉では返したくなかった。
玄兎は少しだけ握る手へ力を込める。
「死なないように生きるよ」
透羽はしばらく玄兎を見て、それから穏やかに笑った。
「はい」
最初に会った時、彼女は死んで戻った玄兎を止めるために来た。
今は、死んだら戻れない玄兎の手を握っている。
「これで、三週間前の約束は終わり?」
玄兎が訊く。
「話す約束は終わりました」
透羽は少し照れたまま、それでもはっきり言った。
「その後の方が、たぶん長いです」
玄兎は繋いだ手をもう一度握った。
「そっちの方がいい」
しばらく二人は、そのままフェンスの向こうを見ていた。
しばらくして、二人は海の日程を話し始めた。返事を急がずにいられることが、さっきより少し嬉しかった。
「海、千燈先輩たちも一緒ですよね」
透羽が念のためのように訊く。
「最初はそのつもりだけど」
「最初は?」
「いや、何でもない」
「玄兎」
「二人でも行きたいです」
言い直すと、透羽はほんの少し間を置いて頷いた。
「……それなら、私もです」
その返事だけで、さっきより顔が熱くなる。
「戻る?」
「そろそろ。三人が待っています」
「先輩たちにも、俺から話す」
透羽は繋いだ手を一度見て、頷いた。玄兎は手をほどき、隣を歩いて階段へ向かった。
◇
研究室へ戻ると、小毬、千燈、依澄がテーブルを囲んでいた。
千燈は二人を見て、いつものように口を開きかけた。玄兎はその冗談を待たず、テーブルの前で足を止めた。
「透羽と、恋人として付き合うことにした」
小毬の手が止まる。依澄は、鞄から出していた二枚のカードを重ねた。
「先輩にも、小毬にも、依澄にも、嬉しいって返したのは本当だよ。でも、返事を先に延ばしてた。ごめん。俺は透羽が好きで、透羽と付き合いたい」
千燈はしばらく玄兎を見た。
「そっか。分かった」
笑おうとして、やめた。
「嬉しくはないよ。正直に言うならね。昼の店は、今日は決めないでおこう」
「うん」
玄兎は、すぐに別の日を提案しなかった。千燈がカップを自分の方へ戻すのを待った。
小毬は、机の下へ視線を落とした。
「私も好きです。それは、返事を聞いたからって急には変わりません」
「うん。でも、待ってくれたら恋人になれる、とは言えない」
小毬は頷くまで、少し時間を使った。
「分かりました。……今日は、いつもみたいには話せないかもしれません」
「分かった」
ユンが机から飛び降りた。小毬は抱き上げたが、写真は撮らなかった。
依澄はカードの端を揃えていた。
「夢で手を繋いだのも、海で抱きしめたのも、なかったことにはしないで」
玄兎は頷いた。
「しない。大事だった。でも、恋人になろうとは言えてなかった。今も、依澄へはそう返せない」
「うん。私は、今も恋として好き」
依澄は言い終えてから、長く黙った。
「透羽が嬉しいのは、分かる。でも、私も嬉しいって言うのは、今日は嘘になる」
透羽は、すぐに言葉を返さなかった。依澄がカードを鞄へしまうまで、そこにいた。
「明日の集合は、変えない?」
小毬がスマートフォンを開いた。
「私は行く」
依澄が答えた。千燈も一度だけ頷き、玄兎は自分の予定を消さなかった。
夕方、久住教授が報告書の山から顔を上げる。
「今日はここまでだ。三週間、授業の合間まで後処理に付き合ったんだから、そろそろ学生は学生の生活へ戻れ」
「教授は?」
「私は大学へ出す書類が残ってる」
「倒れないでくださいね」
「お前に言われると腹が立つな」
久住はそう言ったあと、少しだけ笑った。
「鵺代。生きてる時間をちゃんと使え」
以前なら、その言葉をもう少し難しく考えたかもしれない。
今は素直に頷けた。
「はい」
玄兎はユンとシオリへ「また明日」と声をかけ、四人と研究室を出た。
◇
翌朝。
目覚ましが鳴った。
玄兎は一度止め損ね、二回目でようやく音を消す。
「うるさ……」
目を開ける。
自分の部屋の天井。朝の光。昨日貼った指の絆創膏も、そのまま残っている。
胸へ手を置けば、規則正しい鼓動が返ってきた。
何も特別なことは起きていない。
「朝だ」
それだけ言って起き上がる。
顔を洗い、朝食を食べ、着替えて鞄を持つ。
玄関を出る。
昨日の「明日」が、本当に来た。
◇
大学の正門前には、四人がいた。
透羽と目が合うと、昨日の屋上を思い出して胸が落ち着かなくなる。玄兎は自分から『おはよう』と言った。
小毬はまだ少し口数が少なかった。それでも、玄兎へ近づいて鼻を動かす。
「今日も大丈夫です。これは、群れの確認です」
「ありがと」
玄兎は、それを昨日の返事をなかったことにする合図にはしなかった。
千燈は日傘を開く。持ち手を持ち直してから、玄兎にも短く挨拶した。
依澄が隣へ来る。鞄には、昨日しまった二枚のカードがある。
「玄兎、今日もいる」
「いるよ」
「明日も?」
玄兎は少し考えた。保証ではなく、今の自分の予定として答える。
「いるつもり」
依澄は頷いた。
五人で正門をくぐる。
中庭では学生が講義へ向かい、友達と話し、ベンチで眠っている。その端で、植え込みの陰から小さな白い手が現れ、講義棟を探しているらしい学生へ進行方向を示した。
透羽は立ち止まり、手が示した先と周囲の動線、学生の反応を確かめる。危険な誘導も、驚いて車道へ下がるような動きもない。
「現地維持候補。継続観察にします」
端末へ短く記録すると、五人は追わずに歩き出した。
白い手も、役目を終えると葉の向こうへ消えた。
「今日の昼、何食べます?」
小毬が訊く。
「唐揚げ以外」
玄兎が答えると、小毬は『じゃあカレー』とメニューを調べた。千燈もその画面を覗く。透羽は隣を歩きながら、店内が混む前に行ける時刻を確かめた。
「講義、遅れるぞ」
玄兎はカレーの話を聞きながら歩いた。依澄は自分の時計を確かめ、少し先へ進んだ。
昨日話したことは残っている。指の絆創膏も、依澄のカードも。玄兎は、四人の歩く道へ目を向けた。
「玄兎、遅いです」
透羽が呼ぶ。
「今行く」
玄兎は歩幅を少しだけ速めた。
舗装の割れたところを避け、一歩ずつ進んだ。指の絆創膏を、鞄の持ち手で擦らないようにした。
四人のところへ追いつき、五人で並んだ。
今日も大学へ行く。
明日も、その次の日も、いるつもりで生きていく。
死んでも戻れない俺は、それでも明日へ帰る。
――第三十六話・了