《百獣繭》がほどけてから、三週間が経った。
玄兎は、そのあいだ一度も死んでいない。
考えてみれば当たり前のことなのに、以前の自分を知っているせいか、ときどきわざわざ数えたくなる。《還月》は消え、胸に残っていた黒い痣も一週間ほどかけて薄れ、今では鏡へ近づかなければ分からない。
朝、シャツを着替える時だけ、つい指先でそこへ触れる。以前のような熱も脈動もなく、皮膚の下から返ってくるのは自分の心臓の鼓動だけだった。
「……普通だな」
死んだら終わる。怪我をすれば治るまで痛い。朝食を抜けば腹が減る。
そんな当たり前が、今の玄兎には少し新しい。
鞄を持ち、玄関を出た。
◇
大学へ着くまでに、玄兎は三回注意された。
一回目は駅の階段だった。
「玄兎、二段飛ばしは禁止です」
「まだ飛ばしてない」
「今、足がそういう形でした」
「足の形で分かるの?」
隣を歩く透羽は真顔で頷いた。
二回目は大学前の横断歩道で、小毬に「右から自転車です!」と鞄を引かれた。自転車は玄兎から三メートル以上離れて通り過ぎたが、小毬は「大丈夫かどうかは通り過ぎたあとなら分かります」と譲らなかった。
三回目は校舎へ入ってすぐ。清掃直後の床を踏みかけたところで、透羽と依澄から同時に止められた。
「三週間ずっとこんな感じだけど、そろそろ普通に扱ってくれない?」
「普通です。死ねば戻らない人が濡れた床で転ばないよう注意するのは普通です」
「全国の大学生、毎朝ここまで見守られてないと思う」
後ろから千燈が笑った。
「玄兎くん、半年くらいは諦めた方がいいんじゃない? 私は道路を渡る時に車が来てないか三回見るし」
「俺の時だけ増えてるよね、それ」
依澄も淡々と続ける。
「昨日、玄兎の部屋の包丁、奥にしまった」
「依澄まで何してるの?」
「手切るから。使う時は私が出す」
「一番面倒なやつだろ、それ」
四人とも方向は違うが、心配していることだけは同じだった。
《還月》が消えた直後はもっとひどかった。透羽は毎朝体調を訊き、小毬は会うたび匂いを確かめ、千燈は血の状態を読み、依澄は夜中に玄兎の部屋まで来て呼吸を確かめたことさえある。
少し過剰で、かなり面倒だ。それでも、玄兎は嫌ではなかった。
以前は、死んだあと戻れるかを心配されていた。今は、死なないように心配されている。
似ているようで、まるで違う。
「分かったよ。気をつける」
玄兎が言うと、透羽はようやく少し満足そうに頷いた。
朝の大学には学生の声が普通に響いている。臨時休講は一週間前に解除され、壊れた窓もほとんど直った。
怪異の警報は鳴っていない。
けれど、怪異そのものがいなくなったわけではなかった。
◇
研究室の扉を開けると、最初に白い毛玉が飛んできた。
「ゆんっ!」
「おはよう、ユン」
玄兎がしゃがむと、ユンは足元へ体当たりするようにくっつき、靴の周囲を一周した。
「昨日も、玄兎先輩の足音で廊下を見るんですよ」
小毬が得意そうに言う。
「小毬も分かる?」
「分かります。先輩、少し右足の方が重いので。でも最近は前よりちゃんと前へ歩いてます」
何気ない言葉だったのに、玄兎は少し返事に困った。
「……そっか」
「はい」
小毬はそれ以上説明せず、ユンを抱き上げる。
窓際には、新しく増えた小さな木製棚がある。その上では、一羽の紙の鳥――シオリが、古い図書館の貸出票を嘴にくわえていた。
「また整理してるの?」
玄兎が手を出すと、シオリはカードを落とした。裏には新しい管理番号が書かれている。
「仕事熱心だね」
千燈が覗き込む。
「本人に仕事って感覚あるのかな」
「返すのが好きなら、遊びみたいなものかも」
透羽はシオリの周囲へ薄い水膜を出し、数値を確認した。
「状態安定。侵食反応なし」
「もう毎朝測らなくてもいいんじゃない?」
「観察基準はまだ試験運用中です」
そう答えた直後、ユンが透羽の椅子へよじ登った。透羽は一瞬だけ抵抗しようとしたものの、結局そのまま膝へ乗せ、背中を撫で始める。
「完全に飼い主側じゃん」
「観察です」
「その言い訳、三週間続いてるよ」
千燈が吹き出した。
《百獣繭》をほどいたからといって、危険な怪異まで放置できるようになったわけではない。人を傷つけるものや、記憶や生活を侵食するものは、今も封印や浄化の対象だ。
変わったのは、危険ではないものまで一律に集め、閉じ込める必要はないと考えられるようになったことだった。
もっとも、怪異自身に害意がないだけで安全とは決めない。北丘の道守が少年を助けようとして、結果として車道へ下がらせかけたことを五人は忘れていない。今は怪異そのものだけでなく、出現場所、周囲の道路や建物、人がどう反応するかまで含めて判断する。
鷺宮家、従来の管理側、大学の協力者による暫定観測班が動き始めたのも、そのためだった。
「北丘の道守、昨日も出たらしいよ」
千燈が共有端末を見せる。
「道を間違えた小学生を旧道へ案内したって。前に付けた案内表示と簡易ポールも機能して、今回は車道側へ下がる動きなし。道守の出現範囲も変化なし」
「じゃあ、現地維持?」
「継続です」
透羽が頷く。
「道守が変わらなくても、周囲の道や人の流れが変われば再判定します。ただ、慎重であることと、全部閉じ込めることは同じではありません」
玄兎は透羽の膝で丸くなっているユンを見た。
「最初に会った時の透羽からは、けっこう変わったな」
「危険なら止めます。そこは変えていません」
「危険じゃなければ?」
透羽はユンの背中を撫でた。
「そこにいる理由まで奪う必要はありません」
「ゆん」
ユンが小さく鳴いた。
◇
午前、五人は大学近くの商店街へ向かった。
三日前から、雨の日だけ現れる古い紺色の傘が報告されていた。
花屋の軒下へ誰も持っていない傘が立ち、濡れている人が通ると少しだけそちらへ傾いて、屋根のある場所まで後を追う。そこへ着くと消えるらしい。
「『濡らしたくない』。残ってるのは、その気持ちだけみたい」
千燈が烏を戻しながら言う。
「夢じゃない。現実に定着してる」
依澄も短く確認した。
小毬は鼻を動かす。
「危ない匂いはほとんどないです。雨と古い布。それに、ほんの少し人の匂い」
その時、外で細い雨が降り始めた。
傘がひとりでに傾く。鞄を頭へ乗せて走っていた学生の後ろを、風に押されるような速さでゆっくり追い始めた。
学生がアーケードへ入ると、傘はそこで薄くなって消えた。
透羽はすぐには結論を書かなかった。傘が通った位置と車道との距離、学生や周囲の人が驚いて進路を変えなかったことまで見てから、端末へ入力する。
「移動範囲は商店街内。進路を塞がず、車道へ誘導する動きもなし。記憶干渉も接触もありません。現地残置で観察継続にします」
花屋の女性が、ほっとしたように息を吐いた。
「持っていかないんですね」
「危険化しない限りは」
「よかった。追い出すのも、なんだかかわいそうで」
玄兎は雨の向こうへ消えた紺色を見た。
全部を救える世界になったわけではない。危険な怪異は今もいるし、昨日も封印案件が一件あった。
でも、危険ではないものまで「存在してはいけない」にしなくていい。
それだけで、この街は以前より少し広くなった気がした。
◇
大学へ戻る途中、玄兎はコンビニへ寄った。
レジでもらった紙袋を開こうとして、指先に小さな痛みが走る。
「あ」
人差し指に細い赤い線が浮いた。
「先輩、血!」
小毬がすぐ寄ってくる。
「紙で切っただけ」
「洗ってください」
透羽も即座に言った。
「これくらい大丈夫だって」
そう答えながら、玄兎は自分の指を見つめた。
ほんの小さな傷だ。それなのに、胸の奥がわずかにざわつく。
この傷は、死んで戻れば消える傷ではない。治るまで残る。
当たり前のことを身体の方がまだ理解しきれていないらしい。
「……紙で切っただけなのに、まだ慣れてないみたい」
透羽の表情が少し柔らかくなった。
「慣れなくていいと思います。怪我を軽く扱わないことには」
「絆創膏貼って終わりでいいんだよ」
千燈も笑う。
「あります!」
小毬が鞄から絆創膏を取り出した。
「何で持ってるの?」
「先輩用です」
「過保護が物資化してる」
水で洗い、拭いて、絆創膏を貼る。それだけで終わった。
怪我をしたら治す。
玄兎は絆創膏の巻かれた指を見て、少し笑った。
「普通だな」
「嬉しそうに言うことですか?」
「ちょっとだけ」
◇
昼の学食は、以前と同じ混雑を取り戻していた。
玄兎が唐揚げ定食を持って席へ着くと、小毬が当然のように皿を見つめる。
「一個とは言ってません」
「まだ何も聞いてない」
「相談です」
玄兎は先回りして一個を小毬の皿へ置いた。すると今度は千燈が別の一個を取る。
「あ」
「平和にならなかったね」
「千燈先輩は想定してたのに忘れてた」
依澄が自分の焼き野菜を玄兎の皿へ置いた。
「交換」
「ありがとう」
透羽は自分の定食を食べていたが、玄兎が視線を向けると少しだけ迷った。
「……一口なら」
「欲しいんじゃん」
笑いながら一個渡す。
こういう昼がある。それだけで十分だった。
「そういえば、私との昼の店はいつ行く?」
千燈が訊く。
「来週でいい? 昼、大丈夫?」
「短時間なら。日傘もあるし、無理なら地下へ逃げる」
「俺も付き合う」
「海は?」
依澄が続けた。
「そっちも決めよう」
「予定、多いね」
「明日の後の予定、増やしたからな」
玄兎が言うと、透羽の箸が一瞬止まった。
三週間前の夜。
作戦が終わったら話したいことがある、と透羽は言った。
その後は検査や報告、市内の安定確認で時間が過ぎた。透羽も「落ち着いてから」と言っていたが、そろそろ言い訳にはできないくらい、日常が戻ってきている。
「透羽」
「何ですか」
「海の日程、あとで一緒に決めよう」
「はい」
それだけ答えた透羽の耳が、少し赤かった。
千燈は気づいた顔をしたが、今日は何も言わなかった。
◇
午後、依澄は大学事務棟へ呼ばれていた。
五人で一緒に行くと、依澄が少し呆れた顔をする。
「全員来る必要ある?」
「あります!」
小毬が即答した。
「研究協力者証の写真、見たいです!」
「目的それ?」
《百獣繭》消失後も、依澄の現在の学籍と履修は問題なく残っている。一方、出生や入学以前へ遡るほど記録のつながりは不自然に途切れ、まだ説明できない空白があった。
大学は、分からない過去と、今ここで学生として生活している事実を切り分けて扱うことにした。
今日発行されるのは学生証の代わりではない。夢層や怪異の定着状態を確認する研究協力者として、保管区画や観測設備へ入るためのカードだった。
やがて扉が開き、依澄が新しいカードを持って出てきた。
『蝶ヶ森依澄』
『研究協力者』
小毬がすぐ覗き込む。
「写真、ちょっと緊張してますね」
「普通」
「口が一ミリくらい固いです」
「分からない」
玄兎はカードを見てから、依澄の鞄に付いた学生証を見る。
「二枚持ちになったな」
「うん。こっちは授業。こっちは怪異」
「分かりやすい」
依澄は新しいカードの文字を指でなぞった。
「これも、夢じゃない」
「うん」
「私が今いるから、もらった」
「そうだな」
透羽が横から静かに付け加える。
「学生証も今まで通り使えます。講義にも出られますし、今の履修も消えません。過去の空白は、空白のまま調べます」
「分からないからって、今の依澄ちゃんまで無かったことにしないってことだね」
千燈の言葉に、依澄は少しだけ目を伏せた。
「……よかった」
その声は小さかった。けれど、夢の中で何度も「ここにいていい」と確かめていた頃の依澄を知っている玄兎には、十分すぎるほど聞こえた。
依澄が欲しがっていた、生まれた日から途切れず続く過去を今すぐ作ることはできない。存在しない記録を埋めることもできない。
それでも、分からない過去があることと、今日まで大学へ通い、笑い、怒り、誰かを好きになってきたことは別だ。
依澄は学生証と新しいカードを並べて眺めた。二枚の写真は同じ顔なのに、片方はここまで積み重ねた生活を、もう片方はこれから自分で選んだ役割を示している。
「失くさないようにしないと」
「依澄がそういうこと言うの珍しいな」
「大事だから」
小毬がすぐに反応する。
「カードケース買いに行きましょう! 落とさないやつ!」
「派手じゃないのがいい」
「任せてください」
「そこは任せると派手になりそう」
玄兎が言うと、依澄がほんの少し笑った。
その笑顔を見てから、依澄は二枚のカードを大事そうに鞄へ戻した。
◇
そのあと玄兎は、定期検査のため保健管理室へ呼ばれた。
入口までついてきた透羽へ「ここから一人で行ける」と言うと、彼女は少しだけ不満そうな顔をした。
「結果は必ず教えてください」
「分かった」
「写真でも」
「そこまで?」
「そこまでです」
二十分後。
心電図も血液も、薄く残った胸の痣も問題なし。《還月》に相当する再構築反応は完全に消えている、と担当医は告げた。
「身体的には、一般的な二十歳男性と考えていい」
「一般的」
「嬉しそうだな」
「ちょっと」
結果の紙を透羽へ送ると、すぐに返事が来た。
『確認しました。よかったです。研究室へ戻る前に、時間ありますか。』
玄兎の指が止まる。
三週間前の約束を思い出した。
『あるよ。どこ?』
返事はすぐだった。
『屋上へ来てください。』
◇
屋上には、夏の名残をわずかに含んだ秋の風が吹いていた。
中庭も、図書館も、講義棟も見える。夢の中でも依澄とここで話したが、今日は紛れもなく現実だった。
透羽はフェンスのそばに立っていた。
「三週間前の話?」
玄兎が訊くと、透羽の指が少し動いた。
「覚えていましたか」
「覚えてるよ」
「ならいいです」
それきり、言葉が続かない。
以前の玄兎なら、気まずさをごまかすために冗談を言ったかもしれない。けれど今は、透羽が自分の言葉を選んでいるのが分かったから、黙って待った。
「最初に会った時、私は玄兎を止めるつもりでした」
やがて透羽が言う。
「人ではない可能性がある。危険なら処分する。それが任務でした」
「かなり怖かった」
「私もです」
透羽は少し笑い、空へ視線を戻した。
「それなのに、いつの間にか監視するためではなく、玄兎が今日もいるか確かめるために大学へ来るようになっていました。無茶をすると腹が立って、怪我をすると怖くて、連絡が遅いと落ち着かなくて……誰かと近いと、嫌で」
「どのくらい?」
「今そこを聞きますか」
「ごめん」
「かなり嫌な時もあります」
今日は逃げないらしい。耳は赤いのに、透羽はまっすぐ玄兎を見た。
「監視役だから隣にいるのではない、と前に言いました。任務だからでもない、と。でも、その時は最後まで言えませんでした」
一度、呼吸を整える。
「私は、玄兎が好きです」
短い言葉だった。
けれど、その一文へ来るまでに積み重なった時間を、玄兎は知っている。
「人としても、大切な仲間としても、ではなく」
透羽は続けた。
「恋愛として、好きです」
玄兎はすぐには答えなかった。嬉しさだけで軽く返したくなかった。
「何か言ってください」
透羽の声が少し弱くなる。
「ごめん。待たせたなと思って」
「謝らないでください」
「うん。じゃあ、ちゃんと言う」
玄兎は一歩、透羽へ近づいた。
「俺も透羽が好きだよ」
透羽の目がわずかに見開かれる。
「いつからですか」
「難しいな。でも、隣にいると落ち着くって思った頃には、もうかなり好きだったと思う」
「かなり?」
「やっぱりそこ聞く?」
「重要です」
玄兎は笑った。
「透羽がいなくなると困る。笑うと嬉しい。無茶すると心配する。他の誰かと近かったら、たぶん嫌だと思う。だから、恋愛として好きで合ってる」
透羽は少し俯き、それから小さく頷いた。
「はい」
風が二人の間を通る。
玄兎は自分から距離を詰めた。触れそうなところで止まり、訊く。
「キスしてもいい?」
透羽の顔が一気に赤くなった。
「今、聞くんですか」
「嫌ならしない」
玄兎はそこで待った。
透羽は少し時間をかけて、それでも目を逸らさなかった。
「……嫌ではありません」
「じゃあ」
「少しだけ、心の準備をさせてください」
「うん」
数秒後、透羽が深く息を吸って、吐いた。
「もう大丈夫です」
「早いな」
「長く待たせないでください」
「どっちなんだよ」
二人とも少し笑った。
玄兎が手を伸ばすと、透羽はその指を握り返した。
手の温度が分かる。《還月》の熱ではない。誰かの手の温度だ。
ゆっくり顔を近づける。
唇が触れた。
短いキスだった。
驚くほど何も起きない。空は光らない。風も止まらない。遠くでは運動部の掛け声が続き、大学の午後は何事もなかったように流れている。
それが、玄兎には妙に嬉しかった。
怪異に結ばれたからでも、命をつなぐ必要があるからでもない。離れれば痛むからでもない。ただ好きだと伝え合って、互いに触れていいと確かめて、自分たちの意思で近づいた。
そのことだけが、胸の奥へ静かに残る。
離れたあと、二人とも目を合わせにくくなった。
「……玄兎」
「何?」
「顔、赤いです」
「透羽も」
「私は分かっています」
「俺も分かってる」
「なら言わなくても」
「透羽が先に言ったんだけど」
また笑う。
透羽は繋いだ手へ視線を落とした。
「玄兎」
「うん」
「死なないでください」
軽い言葉では返したくなかった。
玄兎は少しだけ握る手へ力を込める。
「死なないように生きるよ」
透羽はしばらく玄兎を見て、それから穏やかに笑った。
「はい」
最初に会った時、彼女は死んで戻った玄兎を止めるために来た。
今は、死んだら戻れない玄兎の手を握っている。
「これで、三週間前の約束は終わり?」
玄兎が訊く。
「話す約束は終わりました」
「その言い方だと、続きがある?」
「あります」
透羽は少し照れたまま、それでもはっきり言った。
「その後の方が、たぶん長いです」
玄兎は繋いだ手をもう一度握った。
「そっちの方がいい」
しばらく二人は、そのままフェンスの向こうを見ていた。
次に話したのは、もっと普通のことだった。海へ行くならいつにするか。千燈の店は来週で本当にいいのか。小毬がユンへおやつを与えすぎていないか。依澄の過去の記録をどう探すか。
さっきまでの告白とは釣り合わないほど生活じみた話なのに、玄兎はむしろ安心した。
恋人になることが、物語の終点ではない。明日の予定が少し増えるだけで、それを一緒に決める相手が一人、前より近くなる。
「海、千燈先輩たちも一緒ですよね」
透羽が念のためのように訊く。
「最初はそのつもりだけど」
「最初は?」
「いや、何でもない」
「玄兎」
「二人でも行きたいです」
言い直すと、透羽はほんの少し間を置いて頷いた。
「……それなら、私もです」
その返事だけで、さっきより顔が熱くなる。
「戻る?」
「そろそろ。三人が待っています」
「何て言う?」
透羽は少し考えた。
「全部説明する必要はありません」
「隠す?」
「隠すとは言っていません」
「じゃあ?」
「……その場で考えます」
「珍しい」
「玄兎のせいです」
理由は聞かなかった。聞かなくても分かる気がした。
◇
研究室へ戻ると、小毬、千燈、依澄がテーブルを囲んでいた。
玄兎と透羽が入った瞬間、千燈が一度こちらを見て、目を細める。
「へえ」
「何」
「別に。玄兎くんこそ、何かあった顔してるけど」
透羽の耳がまた赤くなった。
小毬が二人を交互に見る。
「え。もしかして――」
「ゆんっ!」
ちょうどユンが机から飛び降りた。
玄兎はすかさず指差す。
「ユンが呼んでる」
「話そらしましたね!」
「偶然だよ」
「絶対違います!」
千燈が笑いすぎて机へ手をついた。
依澄だけは騒がず、透羽の隣へ行った。
「透羽」
「何ですか」
「よかった?」
透羽は一瞬だけ黙った。
「……はい」
「なら、よかった」
依澄はそれだけ言った。
小毬も千燈も依澄も、それぞれ玄兎へ向ける気持ちを持っている。それが今日の一言で消えるわけではないし、誰かを雑に終わらせる必要もない。
透羽との関係は一歩進んだ。だからこそ、これから先のことは、これから話していけばいい。
時間はある。
「で、何があったんですか」
小毬はまだ諦めていなかった。
「白狼院さん。今は聞かないでください」
透羽が答える。
小毬の目が大きくなる。
「今は、ってことは何かあったんですね!」
「透羽、自爆した」
「玄兎は黙ってください」
研究室に笑い声が広がった。
夕方、久住教授が報告書の山から顔を上げる。
「今日はここまでだ。三週間、授業の合間まで後処理に付き合ったんだから、そろそろ学生は学生の生活へ戻れ」
「教授は?」
「私は大学へ出す書類が残ってる」
「倒れないでくださいね」
「お前に言われると腹が立つな」
久住はそう言ったあと、少しだけ笑った。
「鵺代。生きてる時間をちゃんと使え」
以前なら、その言葉をもう少し難しく考えたかもしれない。
今は素直に頷けた。
「はい」
玄兎はユンとシオリへ「また明日」と声をかけ、四人と研究室を出た。
◇
翌朝。
目覚ましが鳴った。
玄兎は一度止め損ね、二回目でようやく音を消す。
「うるさ……」
目を開ける。
自分の部屋の天井。朝の光。昨日貼った指の絆創膏も、そのまま残っている。
胸へ手を置けば、規則正しい鼓動が返ってきた。
何も特別なことは起きていない。
「朝だ」
それだけ言って起き上がる。
顔を洗い、朝食を食べ、着替えて鞄を持つ。
玄関を出る。
昨日の「明日」が、本当に来た。
◇
大学の正門前には、四人がいた。
昨日までと同じ顔ぶれなのに、透羽を見た瞬間だけ胸の奥が少し落ち着かなくなる。向こうも同じらしく、一度目が合ってから、ほんの少しだけ視線を逸らした。
「遅いです」
透羽が最初に言う。
「二分前だよ」
「集合時刻の二分前です」
「間に合ってるじゃん」
昨日より少しだけ近い距離で、透羽が目を逸らす。
千燈はそれを見て笑っている。
「へえ」
「千燈先輩」
「何も言ってないよ」
小毬は玄兎へ近づき、鼻を動かした。
「今日も大丈夫です!」
「もう匂いで健康診断するのやめない?」
「嫌です」
「即答なんだ」
依澄が隣へ並ぶ。
「玄兎」
「何?」
「今日もいる」
「いるよ」
「明日も?」
玄兎は少し考えた。
昔なら、死んでも戻るからいる、と言えた。
今はそんな保証はない。
だからこそ、答えは一つだった。
「いるつもり」
依澄が頷く。
「それがいい」
五人で正門をくぐる。
中庭では学生が講義へ向かい、友達と話し、ベンチで眠っている。その端で、植え込みの陰から小さな白い手が現れ、講義棟を探しているらしい学生へ進行方向を示した。
透羽は立ち止まり、手が示した先と周囲の動線、学生の反応を確かめる。危険な誘導も、驚いて車道へ下がるような動きもない。
「現地維持候補。継続観察にします」
端末へ短く記録すると、五人は追わずに歩き出した。
白い手も、役目を終えると葉の向こうへ消えた。
「今日の昼、何食べます?」
小毬が訊く。
「もう昼の話?」
「大事です」
「唐揚げ以外」
「じゃあカレー」
「結局重いな」
千燈が横から口を挟む。
「私は今日は特別に朝から来たんだよね」
「何かあるの?」
「透羽ちゃん関連の観察」
「千燈先輩」
「冗談」
透羽の耳が赤くなり、小毬が何かに気づきかける。
「講義、遅れるぞ」
玄兎は先に歩く。
「逃げましたね!」
「逃げてない」
依澄が隣で小さく笑った。
夢の中では、多くのことが最初から整っていた。
現実は違う。透羽には家との調整が残り、千燈には昼の光を避ける工夫が必要で、小毬の力は人前なら目立つ。依澄の過去にはまだ空白があり、ユンやシオリも、この街でどう暮らしていくかを見守られている途中だ。危険な怪異もなくならない。
玄兎自身も、もう死ねば戻れない。
何もかもが完璧になったわけではない。
それでも、未来が最初から決められていないことを、今は悪いと思わなかった。
「玄兎」
透羽が呼ぶ。
「何?」
「遅いです」
「今行く」
玄兎は歩幅を少しだけ速めた。
転んでも戻れるから走るのではない。死ぬのが怖いから立ち止まるのでもない。
怪我をしたら治して、怖ければ慎重になって、それでも今日を使う。
四人のところへ追いつき、五人で並んだ。
今日も大学へ行く。
明日も、その次の日も、いるつもりで生きていく。
死んでも戻れない俺は、それでも明日へ帰る。
――第三十六話・了